小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

七十二番 ★★…紀伊…★★

2015-06-20 | 百人一首

祐子内親王家紀伊紀伊(生没年未詳)

音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖の濡れもこそすれ

 父は散位平経重(従五位上民部大輔平経方説もあり)で、母は歌人として名高い小弁の娘です。紀伊守藤原重経の妻とも妹とも言われています。兄が紀伊守(きのかみ)だったので紀伊(き)と呼ばれていました。
 また、母の小弁と同じく後朱雀天皇皇女高倉一宮祐子内親王家に出仕したので「祐子内親王家に仕える紀伊」というのが通称となっています。最初に出仕したのは後朱雀天皇の中宮嫄子(げんし…一条天皇の中宮 定子の孫)だったので「中宮の紀伊」と呼ばれていたのですが、嫄子中宮の娘の子祐子内親王に仕え、高倉邸に住んだので「高倉一宮紀伊」「一宮紀伊」などとも呼ばれていました。
 祐子内親王の後見の藤原頼道(藤原道長の子で摂政・関白・太政大臣も務めた)だったので、一宮家は繁栄しており、歌合せはなどの行事が度々盛大に度々行われたようです。
 この歌は「堀河院御時 艶書合によめる」の詞書があります。
 つまり、康和4年(1102)に開催された堀川院の艶書合わせの歌会で、返事として詠んだ「返し」の歌です。
 艶書合わせの歌会と聞くと隠微な響きがありますが、いわばラブレターとしての歌の読み方講習会のようなものでしょう。
 この場で中納言俊忠(藤原俊成の父)が
      人知れぬ思ひありその浦風に 波のよるこそいはまほしけれ
…人は知らないでしょうが、恋に悩んでいますので風に寄る波のように、貴方の元へ通いたいものだ…と歌ったのに対しての返歌です。
 「噂に高い、高師の浜にむなしく寄せ返す波にはかからないようにしておきましょう。袖が濡れてしまうだけですからね」=「浮気者だと噂に高いあなたの言葉なぞ、心にかけずにおきましょう。後で涙にくれて袖を濡らすだけでしょうから」という意味です。
 この時、俊忠は29歳で紀伊は70歳くらいだったということで、紀伊のその感性の瑞々しさには驚かせられます。
 勿論、本気での恋歌ではなくあくまでも文学上でのやりとりなのです。
 「艶書合せ」では現実とは関係なく男性が言い寄って、それを女性がはねつけるというあんうんの形式があったようです。
 平安王朝も末期になるにつれて歌の方も万葉集にみられたような精神的な希求が消えて技巧を競うようなゲーム化していったのでしょうか。しかし、それはそれで倦怠味を帯びた華やかな王朝文化が感じられるものです。

 この歌の舞台となった和泉国高師浜は、今の大阪府堺市浜寺か高石市におよぶ一帯です。
 昭和の半ば頃までは関西の風光明媚な別荘地でした。現在では残念ながら埋め立てが進み、かっての風情はありませんが、高級住宅地の一角には仄かに漂うものもあります。

 紀伊は当時の歌人として有名で、種々の歌会の記録に名前を残したほか『堀河院百首』の作者でもあり『一宮紀伊集(祐子内親王家紀伊集)』の家集があります。
 私生活については殆ど記録が発見されていませんが、この高師浜の歌が70歳くらいの頃のものであるならかなりの長命で雅に心豊かな生涯を過ごしたことと思われます。

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