周防内侍(生没年不詳)
六十七番 春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ名こそ惜しけれ
父は和歌六人党の一人、従五位上周防守平棟仲で、母は加賀守従五位下源正?の娘で後冷泉院女房、小馬内侍と称された人です。
金葉集に歌が残っている比叡山の僧の僧忠快は兄にあたります。
父の周防守は現在の山口県の東半分の県知事のようなものです。
本名は仲子ですが、父の官職名から周防内侍(すおうのないし)と呼ばれていました。
年頃になって後冷泉天皇代に出仕しましたが、治暦四年(1068)四月に天皇が崩御されたので退官しました。
が、後三条天皇が即位されると請われて再出仕したようです。
その後も白河・堀河朝にわたって宮仕えを続け、掌侍正五位下に至りました。
天仁二年(1109)頃、病のため出家し、ほどなく、没したようです。七十余歳くらいとされています。
この67番の歌の詞書には「如月ばかり月あかき夜、二条院にて人々あまたゐあかして 物語などし侍りけるに内侍周防よりふして 枕をがなと忍びやかに いふを聞きて、大納言忠家 これを枕にとて かひなを御簾の下より差し入れて侍りければ詠み侍りける」とあります。
如月つまり二月(陰暦ですから、今では三月)の月が明るい夜のことです。
関白教道の邸で女房達が語り明かしていた時、周防内侍が横になりたくなって「枕が欲しいわね」と呟きました。
すると「これをどうぞ」と御簾の下から腕が出てきました。大納言藤原忠家でした。腕枕してあげようというのです。
驚いた周防内侍がこの時に返事をしたのがこの歌です。
「短い春の夜のはかない夢に誘われて、ついあなたの手枕をお借りしたりしますと、きっとつまらない噂が立つことでしょう。それが私には困るのです」ということでしょうか。
これに対して、忠家は
契りありて春の夜ふかき手枕を いかがかひなき夢になすべき
と即座に返歌を返してきました。
前世からの約束ですのに、どうしてはかない夢にしてしまいましょうか。私は真剣なんですよ」と忠家さんも見事に返歌を返していますが、巧みさに関して多くは周防内侍に軍配があげられています。
いうまでもなく「腕(かいな)」が「かひなく」として双方の歌に歌いこまれています。
周防内侍の私的な情報はあまり伝わっていませんが、女房三十六歌仙の一人でした。
寛治七年(1093)の郁芳門院根合、嘉保元年(1094)の前関白師実家歌合、康和二年(1100)の備中守仲実女子根合、同四年の堀河院艶書合などに出詠しており、勅撰入集36首で、家集に『周防内侍集』があります。
平安王朝の末期を代表する女流歌人だったといえましょう。
六十七番 春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ名こそ惜しけれ
父は和歌六人党の一人、従五位上周防守平棟仲で、母は加賀守従五位下源正?の娘で後冷泉院女房、小馬内侍と称された人です。
金葉集に歌が残っている比叡山の僧の僧忠快は兄にあたります。
父の周防守は現在の山口県の東半分の県知事のようなものです。
本名は仲子ですが、父の官職名から周防内侍(すおうのないし)と呼ばれていました。
年頃になって後冷泉天皇代に出仕しましたが、治暦四年(1068)四月に天皇が崩御されたので退官しました。
が、後三条天皇が即位されると請われて再出仕したようです。
その後も白河・堀河朝にわたって宮仕えを続け、掌侍正五位下に至りました。
天仁二年(1109)頃、病のため出家し、ほどなく、没したようです。七十余歳くらいとされています。
この67番の歌の詞書には「如月ばかり月あかき夜、二条院にて人々あまたゐあかして 物語などし侍りけるに内侍周防よりふして 枕をがなと忍びやかに いふを聞きて、大納言忠家 これを枕にとて かひなを御簾の下より差し入れて侍りければ詠み侍りける」とあります。
如月つまり二月(陰暦ですから、今では三月)の月が明るい夜のことです。
関白教道の邸で女房達が語り明かしていた時、周防内侍が横になりたくなって「枕が欲しいわね」と呟きました。
すると「これをどうぞ」と御簾の下から腕が出てきました。大納言藤原忠家でした。腕枕してあげようというのです。
驚いた周防内侍がこの時に返事をしたのがこの歌です。
「短い春の夜のはかない夢に誘われて、ついあなたの手枕をお借りしたりしますと、きっとつまらない噂が立つことでしょう。それが私には困るのです」ということでしょうか。
これに対して、忠家は
契りありて春の夜ふかき手枕を いかがかひなき夢になすべき
と即座に返歌を返してきました。
前世からの約束ですのに、どうしてはかない夢にしてしまいましょうか。私は真剣なんですよ」と忠家さんも見事に返歌を返していますが、巧みさに関して多くは周防内侍に軍配があげられています。
いうまでもなく「腕(かいな)」が「かひなく」として双方の歌に歌いこまれています。
周防内侍の私的な情報はあまり伝わっていませんが、女房三十六歌仙の一人でした。
寛治七年(1093)の郁芳門院根合、嘉保元年(1094)の前関白師実家歌合、康和二年(1100)の備中守仲実女子根合、同四年の堀河院艶書合などに出詠しており、勅撰入集36首で、家集に『周防内侍集』があります。
平安王朝の末期を代表する女流歌人だったといえましょう。
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