小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

間人皇女

2014-01-21 | 万葉集

はしひとのひめみこ
?~665
在位…孝徳645~654…中皇命661~665

 舒明天皇と斉明天皇の間の一人娘です。兄は天智天皇で弟が天武天皇という皇女さまです。生まれたポジションからしてドラマチックな人生を歩むことを宿命付けられていたのでしょう。あの大化改新の折に少女時代を過ごし、国家を統一して律令国家を目指そうと戦っている兄の姿を誇りに思っていたのに違いありません。
中大兄は孤独でした。蘇我一族を滅ぼし皇太子の位置を確実にしたもののこの国の統治者としての地位を確立するまでは誰をも信じることができないのです。それは行く手を阻む者をなぎ倒してきた自分ならではの当然な結果であいましょう。いつ寝首をかかれるかわからないのです。母の斉明天皇は飾りのようなものですし、百済寄りの弟、天武とは激しい意見の対立がありました。民の心も相次ぐ宮殿建築や朝鮮への出兵などで批判的な眼で見ています。そうした四面楚歌の中で唯一心を許せるのは可愛い妹の間人皇女でした。
尊敬がいつしか「愛」となっていた妹と孤高な兄の心は自然に寄り添っていきました。許されない「愛」の形であることは本人たちが一番わかっていたのでしょう。これにも諸説ありますが、ここではプラトニック説で進めていきたいと思います。

君が代も 我が代も知るや磐代(いはしろ)の 岡の草根を いざ結びてな


 あなたの命(さだめ)もわたしの命(さだめ)も知っているでしょう、この神が居られるという岩代の岡の草を、さあ、結びましょうよ。素直な歌ですね。草を結ぶのは旅の無事や将来を祈るおまじないでした。

 間人は母の斉明の弟、つまり叔父にあたる孝徳天皇に嫁ぐことになりました。孝徳天皇は中大兄が滅ぼした蘇我氏寄りの考えを持っていたので、政治的な対立を緩和するために利用されたのです。兄の役に立つのであればと、間人は40歳近くも年上の足の悪い叔父の妻となり后となったのです。
 こんな結婚で幸せになれる筈がありません。白皙怜悧な兄と比べてはいけないとは思うもののこればかりはどうにもなりません。しかも、孝徳には阿部小足媛という愛する人との間に有馬皇子ができていて楽しいマイホームがあるのです。なんとか、愛そうとしてもそこには間人の居場所はありません。孝徳にしても何事も反発し、自分の大事な両大臣を抹殺してしまった甥の天智への不満が募っていますし、肝心の間人の心に住みついてる男ということもあって飾り物にしておくしかなかったのでしょうね。そうなりますと間人が何かにつけて実家に帰る嫁となってしまいます。母や兄の御幸について紀伊の湯などにもお供して宮殿を留守にすることも多かったことでしょう。
 この頃は天皇が代わると新しい宮殿を建てることになっていました。孝徳は新宮殿を難波に造りました。中央政府が移るのですから関係者はみな飛鳥から難波へのお引っ越しをしなければなりません。ですが、この難波の都は整備がやっと整った数年しか持ちませんでした。天智が突然に飛鳥に戻るとみなを引き連れて出ていったのです。勿論、間人も夫を捨てて兄と同行しました。

      
鉗木つけ吾が飼う駒は引き出せず 吾が飼う駒は人見つらむか


 その時、孝徳が作った歌です。私が繋いで飼っている馬は私のいうことをきかず、私の馬を他の人が見てしまったのか。愛のない夫婦であっても、それはないでしょうという場面です。
 天智にすれば政治はやはり飛鳥でなければ不便だったし、孝徳は反対するしで移転を敢行したのです。そして、廃都となる難波に可愛い妹を残して行くわけにはいかなかったのでしょう。残ったのは有間皇子と数人の側近だけとなった孝徳は怒りのあまり退位して失意の中で翌年亡くなりました。59歳でした。その知らせを聞いた時、間人は「これで、あの方も楽におなりになった」と思ったのかもしれません。

 間人にとってはしばしの安らぎの時が訪れたのでしょう。再度、天皇になった母や兄たちにどこにでもお供していました。もしかしたら、宮廷歌人の額田王の輝く才能や兄たちとの眩しいようなラブゲームを目の当たりにして自分も良い歌を作りたいと思ったりもしていたのかもしれません。でも、孝徳帝の遺児の有間皇子が謀反者という濡れ衣を着せられて殺されたときにはさすがに兄に噛みついた事でしょう。なさぬ仲ではありましたが、母として可愛がっていた息子なのです。「後に残る禍根の芽は早めに摘み取っておかねばならぬのだよ。わかっておくれ」兄にやさしい眼で言われると納得してしまう間人でした。
 母の引っ越し好きや兄の百済救済戦などに振り回されながらも間人個人は心の落ち着いた日々を送っていたのですが、やがて、それにも終わりがやってきました。

たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野


 朝の宇智の草原を馬を並べて走っていらっしゃるのでしょうね。その深い草の野を。
 表面的にはそれだけの歌ですが、大好きなお兄さまとこうして馬を並べて走っているとなんと朝の空気は清々しいのでしょうか、という喜びが伝わってはきませんか?深い草の野は行く手に待ちかまえている様々なことを示していて、頑張りましょうねという意味も込められてるとのだと思います。

有間皇子が殺された3年後に出兵のために筑紫に向かった船の中で母の斉明天皇が急死しました。そして、一日も天皇不在は許されないということで間人が天皇にされてしまったのです。これも兄の願いでした。弟の天武はこの出兵に反対でしたから参加していませんでした。もしかしたら、この時既に天智の胸中には皇位継承を巡る思惑があったのかもしれません。その点、間人には子供もありませんですし、前々天皇の后、つまり皇太后で前天皇の娘ですからどこからも天皇になることへの異論はありません。ここでも「お兄さまの為でしたら」と中皇命(なかつすめらみこと)となりました。中継ぎの天皇という意味です。いくら名前だけの天皇であってもやはりストレスが溜まったのでしょうか、飛鳥に戻ると病の床についてしまいます。そして、4年後に兄に見守られて息を引き取りました。 天智の悲しみは深く330人を得度させて昼夜を問わず読経させたということです。
 二年後、服喪を終えた天智はやっと天皇の座についたのでした。
 間人皇女はあの世でどんなにかほっとしたことでしょう。
 今も間人皇女は母の斉明天皇と一緒に小市岡上陵に眠っています。

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