おおとものさかのうえのいらつめ
700?~750?
◆父は大伴安麻呂、母は石川内命婦です。坂上郎女之母石川内命婦と石川郎女が同人と解釈され…れます。異母弟が稲公で大伴旅人の異母妹に当たります。さらに家持の叔母でもありと歌に関しても名門ですね。さすがに、萬葉集の中で3番目(84首)に多い作品が載ってるだけのことはあります。まあ、編者の母代わりだったこともあるのかもしれませんが。
十五歳で天武天皇の息子の穂積皇子に嫁ぎますが、十七歳くらいで未亡人になります。今城王を生んだとも言われていますが、あり得ないと説く学者もいます。穂積はかなり年上で、しかも死んだ恋人(但馬皇女)をずっと思っていた節がありましたので、あまり幸せな新婚生活ではなかったのでしょう。
穂積に先立たれてから宮廷にとどまって命婦として仕えていました。この頃、後の聖武天皇とおつきあいがあったらしいのですが後宮に入るまでではなかったので、良いお友達だったのかもしれません。
足引の山にし居れば風流(みさを)無み 我がするわざを咎めたまふな
にほ鳥の潜づく池水心あらば 君に吾が恋ふる心示さね
よそに居て恋ひつつあらずば君が家の 池に住むとふ鴨にあらましを
にほ鳥の潜づく池水心あらば 君に吾が恋ふる心示さね
よそに居て恋ひつつあらずば君が家の 池に住むとふ鴨にあらましを
◆聖武天皇へ献上品に添えた歌のようです。内容から想像するとかなり親しいように感じられますね。
宮仕えをしている内にやがて恋人ができました。藤原麻呂です。麻呂は藤原不比等(鎌足の息子)の四男で藤原京家の祖です。母は鎌足の女で天武夫人だった五百重娘。異母兄に武智麻呂・房前・宇合、異父兄に新田部親王がいます。しかも、文武夫人の宮子と聖武皇后の光明子は異母姉妹にあたるという超大物!
蒸衾柔なこやが下に臥せれども 妹とし寝ねば肌し寒しも
来むと云ふも来ぬ時あるを来じと云ふを来むとは待たじ来じと云ふものを
来むと云ふも来ぬ時あるを来じと云ふを来むとは待たじ来じと云ふものを
お二人の相聞歌です。蒸衾(むしぶすま)とはお布団のことです。いいですねえ。大伴坂上郎女の歌には恋を楽しむ余裕すら感じて羨ましい…。
◆しかし、何事にも終わりはあります。養老のはじめ(718頃)に始まった麻呂との恋は養老の終わり頃(721)に終焉を迎えたようです。720年に不比等が亡くなり、翌年には天正天皇もあの世へと旅立たれましたが、こういうこともなんらかの関係があったのかもしれません。その後、めでたく異母兄である大伴宿奈麻呂の妻となりまして、坂上大嬢(おおとものさかうえのおおいらつめ・後に従兄である家持の正妻になります)と二嬢(おおとものさかうえのおといらつめ・大伴駿河麻呂の妻となった?)を生みました。
田村の里は今の法華寺付近ですが、この結婚で夫と同居していたかどうかは不明です。といいますのも旅人を追って大宰府に下向したり、佐保・春日里・竹田庄・跡見庄など、各所で歌を詠んでいることが万葉題詞から窺えるからです。当時にこれだけ各地を旅することができるのは、もしかしたら、夫の宿奈麻呂が早くに亡くなっていたのかもしれません。
◆いずれにしましても晩年になるにつけて益々輝いて生きた人のようです。一家の刀自(主婦)として、また大伴氏の巫女的存在として、また恐らくは家持の母代りとして等々。しかも、額田王以後最大の女性歌人であり、万葉集編纂にも関与したとの説が有力。しかも、全体でも家持・人麻呂に次ぐ第三位の歌の数を誇ります。相聞の多くは社交性・虚構性の強いものが多いとといわれてますが、実生活ではそうしたものを必要としない満たされたものであったことの証明のように思います。詠嘆する素材がない。従って、フィクションの中で謳いあげていく。つまり、それだけ才能があったということになるのでしょう。
でも、萬葉集に史実を求める人たちにとっては、やっかいな歌人なのかもしれませんね。
最後に、五首、お気に入りの歌を書いてみます。あなたは、どの歌がお好みでしょうか。
黒髪に白髪交じり老ゆるまで かかる恋には未だ逢はなくに
心ぐきものにぞありける春霞 たなびく時に恋の繁きは
岩根ふみ重なる山はなけれども 逢はぬ日数を恋ひやわたらむ
我が背子が着ける衣薄し佐保風は いたくな吹きそ家に至るまで
思はじと言ひてしものをはねず色の うつろひやすき我が心かも
心ぐきものにぞありける春霞 たなびく時に恋の繁きは
岩根ふみ重なる山はなけれども 逢はぬ日数を恋ひやわたらむ
我が背子が着ける衣薄し佐保風は いたくな吹きそ家に至るまで
思はじと言ひてしものをはねず色の うつろひやすき我が心かも
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