ぬかたのおおきみ
635~715
宮廷歌人
この人も謎の多い歌人で生い立ちに関しては諸説入り乱れていますが、ここでは鏡王女の7歳年下の妹ということで進めていきます。その美貌と才気のために激しく歴史の波に揉まれた一人です。
舒明称制時代に生を受け皇極、大化、白雉、斉明、天智、天武、朱鳥、持統(中皇命、弘文称制時代も含む)までの80年間を生き抜いてきたのですから、さぞや多くのものを見聞きし、たくさんの別れとも出会ってきた事でしょう。彼女が紫式部のように日記や物語を書き残してくれていればと思います。
秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の京の仮蘆し思ほゆ
この歌は「萬葉集」に出てくる額田王の最初の歌です。秋の野で草を刈って屋根を葺いて暮らしていた京の小さな家が懐かしく思われますの意。多分、斉明天皇に仕えて間もない頃の歌でしょう。板葺きの立派な宮殿に住んではいるが育った素朴な家が懐かしい。まことに初々しい宮廷歌人の出発の歌ですね。
姉の鏡王女が天智の元に入ったので遊びに行って斉明に可愛がられました。可愛いし、歌も上手に作ります。自分の縁続きですからなおのことだったでしょう。ここで、合議のために出入りしていた天武と額田王は恋に落ちました。十七歳の花嫁はみんなに祝福されてとても幸せでした。二人のデートスポットは梅林だったとかで翌年に生まれた姫(十市皇女)を「梅の精から賜ったの」ととても慈しんでいました。夫は豪放磊落で懐も深く鋭利な刃物のような天智とは対照的に心も優しい人でしたので、二人の新婚時代は夢のように過ぎていきました。
しかし、やがてその大海人も女性遍歴を始め、尼子娘が高市皇子を生みました。十市皇女の二歳下になります。さらに、天智から大田皇女と讃良皇女(のちの持統天皇)の二人の姫を賜りました。兄弟の絆を強める為にということでしょうか。まだあどけない少女でした。いかに天武が額田王を愛していたとしても子供を作るということも任務のような立場にあれば致し方のないことでしょう。額田王はここで少し大人になりました。
しかも、この頃には霊感のようなものを感じ始めていたことや、歌が格段に上達したことなどからいっそう斉明からの声がかかるようになっていました。姉の鏡女王が落ち込んで里方で天智を待つ日々を送っておりで身近かにいなかったこともありましょうか。御幸には必ず同行を求められました。
歌は神への祈りの一種です。天皇になりかわって歌を奏上する宮廷歌人が誕生したのはいつの頃のことかはわかりませんが、いつしか、額田王はそんな立場になりつつあったのです。乞われて筑紫への百済救済の戦旅にも参加しなければなりませんでした。五歳の十市を残しての船出で、この出兵に反対を唱えた天武は参加を許されない時もありました。
熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎいでな
これはこれから戦地に赴く決意表明と戦意鼓舞のための歌で総指揮官である斉明になりきって歌い上げたものだとされています。満潮の夜になるのを待って斉明が禊ぎの行事をやられたときの作ですね。
一族みなを引き連れて戦争にいくことはないと思うのですけど、大田皇女が大伯皇女を船の中で生んでいます。
舳先に立って暗い海面を見つめながら十市のことを思ったのかもしれません。そんな額田王の横に立ったのが天智でした。月の光を浴びた額田王は壮絶な美しさを纏っていました。並の男では声もかけられなかったでしょう。天智は並の男ではありません。「そなたはわたしの元にくるのだ」抑揚のない声で言われてしまうと額田王は抗うことができませんでした。
中大兄と額田王の関係も多くの学者や好事家たちが探り続けてきた課題の一つです。
A.完全に後宮の一員。歌人としての誇りから妃の名称は辞退した。
B.純粋に神の言葉の伝達者、歌人としての職業人としての存在。
C.弟の嫁であり鏡妃の妹であり、実の妹のように可愛がっていた。
大別するとこのようになります。個人的にはBではないかと思うのですが、天武とは対照的な天智に魔物に魅かれていくように幾夜かは共に過ごしたかのもしれません。それこそ、一体になってこそ聞こえる神の声を聞くために。それは、恋とか愛といった種類のものではなかったのかもしれません。
いずれにせよ、天武は兄に額田王を奪われてしまいました。残されたのは一人娘の十市皇女です。天武人はこの子だけは守るぞと十市を抱きしめて号泣したかもしれません。十市は尼子郎女に高市皇子と共に大切に育てられます。
額田王が天智の元に行くとき「天武を皇太弟にすること」「十市を大友皇子の正妃にすること」の二条件を出したのではないかという学者もいます。大友皇子とは中大兄の一人息子のような存在の人です。その要求を呑んだのか、自分の意志なのかはわかりませんが、この二つは実行されています。
鏡王女が鎌足と再婚し、先の天皇が亡くなり、その遺児の有間皇子が絞首刑となり、斉明天皇も亡くなりました。額田王は常に中大兄の傍にいましたからすべてを見聞きしていなければなりませんでした。どんなに惨いことであっても受け止めて、天智のために禊ぎを行い歌を作らなければなりません。
時は流れ、中皇命だった間人皇女の長い喪があけると天智の動きは活発になります。母と妹の埋葬を済ませると新しい都を近江と決めて都人の大移動が始まりました。
三輪山をしかも隠すか雲だにも 心あらなも隠そうべしや
これがそのお引っ越しの時の歌です。といっても、大和の三輪山よ、その山が国境の奈良山で山の間で見えなくなったり道を曲がるたびに隠れてしまったりするのを、何度も振り返って別れを惜しんでいるというのに、人の気も知らないで雲に隠されてはたまったもんじゃない。という意味の長歌に対する反歌で、繰り返し雲だけでもわかっておくれ、三輪山を隠さないでと哀願しているのです。大和の国との別れの切なさが伝わってきませんか。
琵琶湖の湖畔の新しい宮殿で新しい天皇が誕生しました。天智天皇がついに即位したのです。
新天皇は中央集権的な国家を作る夢の実現に向かいました。
ですが、事はなかなか進みません。唐寄りの考えを持つ天武と新羅寄りの意見を持つ天武との意見がことごとく対立するからです。もう、天武はやんちゃな次男坊ではありませんでした。多くの人々が背後について大きな力を持つようになっていたので天智としても彼を無視できなくなってきていました。この二人の間にあって調停役を努めていたのが額田の姉の夫である藤原鎌足です。
そうそう、遷都して間もなく、端午の節句の日に野外パーティが蒲生野で行われたのでした。パーティといっても男性は鹿狩り、女性は薬草を摘む催しです。とはいえ、殆どお遊びだったのでしょうけれど。
しかし、これは遷都以来初めて一族や貴族や郎党が一同に顔を合わせるのですから非常に重要な意味のある催しだったのです。男性の衣服は冠の色を着用して髷花(うず)をつけさせたとありますので、女性はその上をゆく思い思いに着飾ってさぞや華やかだったことでしょう。
天智、天武、それぞれの妃たちとはしゃぐ子供たち…額田王は勿論、十市も大友も高市も大伯も鎌足もいます。男たちは馬上の人となって森の中から鹿を追い出す競技を楽しみ、女と子供たちは優雅に草を摘んでいます。五月の空はどこまでも晴れ渡って…。
あかねさす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや君が袖ふる
紫のにほへる妹をにくくあらば 人づま故に吾恋ひめやも
あまりにも有名な相聞歌ですね。駆け抜けるときに馬上の大海人が額田王に手を振ったのを「そんなことなさっては困りますわ。誰が見てるかわからないじゃないですか」とたしなめたのに対して「美しい人よ、たとえ人妻であってもどうして恋い慕わずにいられようか」と天武が応えたのです。
この二首にもいろいろな受け取り方があって驚きますが、この主役たち三人の関係の解釈の仕方で変わってくるのは仕方ないことでしょう。私は美しい思い出を交換しあった程度のことではなかったのではと思っています。二人の共通の願いはただ一つ、大友皇子の妻となったばかりの十市皇女の幸せだけだったと考えたいのです。
蒲生野の一日が幻だったかのように歴史は速度を速めて天智朝の動きがめまぐるしくなります。発端は、天智が大友皇子を太政大臣に任命したことにあります。それは、皇太子に任命したようなもので、鎌足が生きていれば阻止したのでしょうが、彼はその前年に亡くなっていました。太政大臣は天皇の次の位ですから皇太弟としての天武の立場は宙に浮いてしまいましした。
この時、志半ばにして天智は病いに倒れてしまいます。病いが重くなれば心も弱ってきます。あれほど怜悧冷酷だった天智ですが、今は、やり残したことを大友に引き継いで欲しいばかりです。我が血を継ぐものという思いもあったでしょうが、根本には新羅よりの弟とは政策の違いが大きいことがネックになっていたのではないかと思います。
臨終のお見舞いに来た天武は天智の殺気を感じていたのでしょう「母上のように姉上(倭姫)を天皇になされませ。私は修行僧になります」と剃髪した頭を見せたのです。そして、そのまま鵜野皇女と共に吉野の山に行ってしまいました。
でも、誰も天武が僧侶になるなどとは思っていません。間もなく天智が薨じると葬儀もそこそこに戦いの準備が始まりました。世に名高い壬申の乱の幕開けです。
この近江方対吉野方との戦いは天智と天武の対決でした。天智の代わりは凛々しく若い大友皇子で、天武は完成された大人。しかも多くの人望を集めています。
額田王は負けることを予想しながらも近江方にいました。十市皇女が大友の正妃として皇子までもうけているので命に代えても守ろうとしたのでしょう。それが、捨てるようなことになった娘への贖罪のつもりだったような気がします。額田王の予想通り、近江方は負け、大友皇子は山科で自害しました。
さあ、天武の凱旋です。額田王母子はどんな思いで父、元夫を迎えたのでしょうか。天武は都を大和に戻し飛鳥に宮殿を建てました。またも民族の大移動が行われ、近江の宮にはねずみ一匹も残っていなかったとか。五年足らずの短い都だったのですね。
晴れて天武天皇の誕生です。外交はともかくも兄の天智が目指した律令国家への道を急ぎます。十市皇女母子は天武に引き取られましたが、額田王は「十市の傍にいてやれ」という天武の言葉を辞退して里方に戻りました。天智の元にいた身がどうして天武の傍にいられましょうか。この時、額田王は三十八歳でした。あの戦を境に神の声を聞き取る力もうせていました。天智と共にあってこそ聞こえてきたものだったのかもしれません。
里に戻れば未亡人になって不比等の養育に日々を送っている姉の鏡王女を屡々訪ねました。そして、鎌足のいとこに当たる中臣大島に求婚され受けました。大島は皇族ではなく臣下になりますが、もう、そんなことはどうでもよかったのでしょう。静かに歌を作って生きていきたいと願っていたのかもしれませんね。今度の夫は大きな愛で額田王を包んでくれました。この後もその大島を始め多くの人を見送り挽歌を作るのですが、あの額田王が晩年は穏やかな幸せを手に入れて八十歳まで生きたということでほっとしませんか?最後に額田王と鏡王女姉妹が相聞のように作った歌をご紹介しましょう。
君待つとわが恋ひ居れば我が宿の すだれ動かし秋の風吹く
風をだに恋ふるは羨し風をだに 来むとし待たば何か嘆かむ
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