小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

九十番…★★殷富門院大輔★★…(いんぶもんいんのだいふ)

2015-10-30 | 百人一首

殷富門院大輔 生没年未詳(1130頃-1200頃)

九十番  見せばやな雄島のあまの袖だにも 濡れにぞ濡れし色はかはらず


《あなたに見て欲しい…陸奥の雄島で働く漁師の袖も激しい波しぶきのせいで濡れに濡れるけど、でも、色までは変わらないでしょう?なのに、私の袖は涙ばかりか血の涙までこぼれてすっかり色が変わってしまったの》
なんと激しい恋の歌でしょう。この歌は『後拾遺集』の源重之の「松島や雄島の磯にあさりせしあまの袖こそかくは濡れしか」を本家(本歌)としています。
本歌取りというのは、和歌で以前に詠まれた歌の意味や語句を取り入れて、新しく作ったものをいいます。
当時の歌会ではよく試みられたもので本歌を超えた歌も少なくありません。この九十番の歌も本歌より誇張があって技巧的だと評されています。雄島は歌枕としてよく使われていて、決して京から松島まで旅したのではありません。

殷富門院大輔というのは例によって役職名で本名などは記録にありません。わかっているのは藤原北家出身で三条右大臣定方の末裔だということ。
父は散位従五位下藤原信成で、母は菅原在良の娘であり若くして宮廷に仕えたということ程度です。
彼女が仕えた殷富門院は後白河天皇の第一皇女の亮子内親王で、八十九番の式子内親王の姉上です。建久三年(1192)に殷富門院が落飾されたのに従って出家したと伝えられています。

永暦元年(1160)の太皇太后宮大進清輔歌合を始め、住吉社歌合、広田社歌合、別雷社歌合、民部卿家歌合など多くの歌合に参加。
また俊恵の歌林苑の会衆として、同所の歌合にも出詠しています。
自らもしばしば歌会を催し、藤原定家・家隆・隆信・寂蓮らに百首歌を求めるなどしたそうです。
源頼政・西行などとも親交があって、非常な多作家だったので「千首大輔」の異名があったといいます。
また柿本人麿の墓を尋ね仏事を行なったことも知られています。
生涯を通して殷富門院と和歌のために生き抜いたと言えましょうか。

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