ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

縄文ノート178 「西アフリカ文明」の地からやってきたY染色体D型日本列島人 2/4

2023-09-16 11:37:13 | 縄文文明

3 食物・食文化からみた日本人のルーツ

 これまで「和魂漢才」「和魂洋才」といいながら、実際には「漢才・洋才」の翻訳家にすぎない歴史観のもとで正当に評価されなかった大野晋氏の「日本語ドラヴィダ(タミル)語起源説」とともに、「海の道の南方起源説(柳田圀男ら)」「照葉樹林文化論(中尾佐助・佐々木高明氏ら)」「縄文農耕論(藤森栄一氏ら)」などの復権を行うべき時と考えます。すべての論点について整合性のとれた「最少矛盾仮説」として、日本の農業・食文化のルーツを解明すべきと思います。

 農業・食関係の言語がドラヴィダ系であることはすでに見てきましたが、農耕と食文化の起源については「母なるアフリカ」から検討する必要があると考えます。―縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」(140613→201213)、「26  縄文農耕についての補足」(200725→1215)、「28 ドラヴィダ系山人・海人族による日本列島稲作起源論」(201119→1217)、「29 『吹きこぼれ』と『お焦げ』からの縄文農耕論」(201123→1218)、「55 マザーイネのルーツはパンゲア大陸」(210211)、「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」(210422)、「81 おっぱいからの森林農耕論」(210622)、「89 1 段階進化論から3段階進化論へ」(210808)、「108 吹きこぼれとポンガ食祭からの縄文農耕説」(211116)、「109 日本列島そば好きラインー蕎麦と焼畑」(211121)、「111 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論」(211128)、「140 イモ食進化説―ヤムイモ・タロイモからの人類誕生」(220603)、「縄文141 魚介食進化説:イモ・魚介、ときどき肉食」(220611)、「142 もち食のルーツは西アフリカ」(220619)、「150 人類・イネ科と恐竜の起源はアフリカ(パンゲア大陸)」(220909)参照

⑴ イモ食のルーツ

 Y染色体E型人が住み、Ⅾ型人も見つかっているナイジェリアで水田稲作の指導を行っている若月利之島根大名誉教授に問い合わせたところ、次のような返事があり、イボ族の根作ともち食、魚介食を教えられました。

 <若月利之島根大名誉教授より>(「縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」参照)

① ナイジェリアの3大部族は北のハウサ(イスラム、軍人向き?)、南西のヨルバ(キリスト教と祖霊信仰、文化人向き)、南東のイボ(キリスト教と祖霊信仰、科学者向き?)と言われています。

② イボにはJujuの森があり、日本のお地蔵さまと神社が合体した「聖なる」場所は各村にあります。

③ イボの根作は多様性農業の極致です。

④ イボ(とヨルバ)の主食はヤムもち(日本の自然薯と同種)で、大鯰と一緒に食べるのが最高の御馳走。古ヤムのモチは日本のつき立てものモチよりさらにおいしい。貝は大きなタニシをエスカルゴ風に食べます。男性の精力増強に極めて有効。

 ムギ・コメ・トウモロコシの「イネ科農耕」の前に、切って棒で穴を開けて植えれば栽培が容易な「イモ食文化+魚貝食文化」のルーツが西アフリカであった可能性が高いのです。

 縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」「26  縄文農耕についての補足」でわが国の里芋行事からのイモ食についてふれましたが、私自身の体験でも、たつの市の祖母の家の縁側では月見のお供えとして里芋を供えており、絵本で見ていたお月見団子でなくてガッカリした記憶がありますが、なぜ里芋なのか不思議に思ったものです。

 その疑問は、NHKの番組・ビデオの『人間は何を食べて来たか-第3集 太古からのメッセージ~タロイモ・ヤムイモ~』で奄美大島のサトイモを主食にしていた名残の8月の祖先霊を祀る新節(あらせつ)の祭りや山形県河北町の芋名月の祭りから解けました。元々はお月見には里芋を供えていたのです。

 番組ではその起源地をミャンマー・タイのあたりとし、ニューギニアやタイのイモ食を取り上げていましたが、私は現在のイモ生産と食文化から見て、西アフリカをルーツとして書きました。

 「縄文ノート26 縄文農耕についての補足」では樹上生活を維持した「チンパンジーは主に果実を食べるが種子、花、葉、樹皮、蜂蜜、昆虫、小・中型哺乳類なども食べる」とし、「縄文ノート70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」では、ギニアのチンパンジーが「水たまりの沢ガニを日常的に食べている」ことや、チンパンジーよりヒトに近いボノボが「乾いた土地や沼を掘ってキノコや根粒菌などを食べる」「ヤゴや川虫を食べる」ことを書きました。

 火事で森林が焼けた時、そこでは香ばしい香りのする焼芋や焼米・焼麦・焼ヒエなどの穀類やササゲなどの焼豆やゴマなどの美味しい匂いが漂っていたはずで、好奇心の旺盛なチンパンジーやボノボはその匂いに引き付けられて食べる機会があった可能性は高いと考えられます。―「縄文ノート81 おっぱいからの森林農耕論」(210622)参照

 2014年6月に書いた「『人類の旅』と『縄文農耕』、『3大穀物単一起源説』」(縄文ノート25 として公開)では主に穀類食の起源について論じましたが、最後に「8 イモ食のルーツ」として次のように書きました。

 旧石器人・縄文人の主食を論じる時、すっぽり抜け落ちているのは、籾やプラントオパール、土器圧痕などの痕跡が残らない「イモ類」です。

 アフリカ原産のタロイモ(タイモ、エビイモ、タケノコイモ、サトイモ)やヤムイモ(ヤマノイモ、山芋)を主食とした熱帯・亜熱帯・温帯のイモ食文明の解明は「穀物文明史観」のもとで遅れているといわざるをえません。

 現在、ヤムイモの生産地はナイジェリアが7割近くを占め西アフリカが中心で、タロイモもナイジェリアが34%を占め、中国17%、カメルーン16.%、ガーナ14%、マダガスカ2%と続いています。

 ヒョウタンや稲と同様に、「マザーイモ」もまた西アフリカを原産とし、「海の道」を通ってタロイモ・ヤムイモは東進し、日本にたどり付いた可能性があります。「田芋・里芋(タロイモ)」「山芋(ヤムイモ)」の「田・里・山」の名称区別や「タロ=田」「ヤム=山」の名称の符合からみて、芋栽培の起源は旧石器時代に遡る可能性があります。

 さらに「縄文ノート140 イモ食進化説―ヤムイモ・タロイモからの人類誕生」(220603)では、次のように書きました。長くなりますが引用します。

 糖質・DHA食による頭脳発達では、熱帯果実からの糖質摂取や昆虫やカニ・貝などからのオメガ3脂肪酸食(わかりやすくDHA食と表現)摂取により、まずサルからゴリラ、チンパンジー・ボノボへの頭脳の進化が第1段階でおこり、さらに第2段階として人類の誕生に繋がったと考えます。

 チンパンジーよりも人類が頭脳を発達させた糖質食としては、火事や噴火などで地中の焼イモ・蒸しイモの匂いに気付き、手や棒で掘ってイモムシなどを食べていた延長でイモを掘り、焚火で焼いてあるいは土中に埋めてその上で焚火をして蒸しイモを食べるようになるとともに、焼麦や焼米を食べた体験から穀物食と穀類栽培(焼畑農業)が生まれたと考えます。

 穀物食は煮るか粉にして焼く必要があるのに対し、焼イモ・蒸しイモは焚火ができれば容易に食べられ、焚火とともにまず焼イモ・蒸しイモ食が進み、次の段階で穀物食が生まれたと考えられます。そして、森を焼けば焼イモ・蒸しイモ・焼麦・焼米が手に入り、さらに焼野原からイモや穀類が育つことを知り、種イモや麦・米を植える焼畑農業への転換は雷火事や火山から火を入手できれば容易であったと考えられます。

 イモ食は焼イモ・蒸しイモ・イモ煮など簡単に食べられるのに対し、米は「収穫→乾燥→脱穀→籾摺り→炊飯など」、麦は「収穫→乾燥→脱穀→製粉→窯焼きなど」の作業が必要であり、加工具や調理器具(土器鍋、石窯・壺窯など)を必要としますから、人類誕生からの糖質食は長い期間、焼イモ・蒸しイモ食、続いて石焼イモ煮食、土器鍋蒸しイモ・イモ煮食へと発展したと考えられます。

 穀類のようなプラントオパールも残らず、木の芋掘り棒やイモ餅をつくる臼・杵などは痕跡が残らず、直接的な考古学的証拠の発見は難しいのですが、人類誕生のアフリカ熱帯雨林地域がヤムイモ・タロイモの原産地でヤムもち食が行われていること(ヤム餅・フフを大ナマズと食べるのが最高のごちそう)、縄文土器おこげの炭素窒素同位体比分析、現在の採集狩猟民のイモ食生活、さらには日本各地に残る田芋祭や里芋祭、いも正月や芋名月(十五夜)などの祭り、イモ雑煮を引き継いだ正月の丸餅雑煮の行事食、米の餅食文化などを総合的に検討すると、人類が焼イモ食から穀物食へと進化を遂げたことは「最少矛盾仮説」として成立すると考えます。

 西アフリカ原産のヒョウタンが縄文遺跡から見つかっている以上、ヤムイモ・タロイモもまたY染色体D型人によってこの地からわが国にもたらされた可能性が高く、DNA分析による原産地の確定と縄文土器鍋のおこげの分析による縄文イモ食の証明が求められます。

 

⑵ 稲作のルーツ

 私は稲作のルーツを求め、パンゲア大陸の西アフリカとアメリカ東部が接していた地域をイネ科植物の原産地とする「3大穀物(米・小麦・トウモロコシ)単一起源説」を追いかけてきました。図24は最初の仮説図で、図25はその後の検討による修正図です。―縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』と『3大穀物単一起源説』」、「55 マザーイネのルーツはパンゲア大陸」、「150 人類・イネ科と恐竜の起源はアフリカ(パンゲア大陸)」参照

 ウィキペディアによるとイネ科イネ属は23種77系統が知られており、20種が野生イネであり、2種の栽培イネはアジアイネ(インディカとジャポニカ)とアフリカイネ(西アフリカで局地的に栽培)があるとされています。

 中華中心史観により長江流域の温帯ジャポニカからインディカが生まれたとするような珍説が見られますが、全ての生物や人類誕生と同様に、突然変異による種の多様性が生まれやすい熱帯雨林こそが穀類やサトウキビ・タケ・ヨシなどの全イネ科植物の誕生地であると私は考えており、遺伝子分析によるイネ科植物の原産地の研究が求められます。

 人類の移動とともに栽培地が拡散し、雨季・乾季のある熱帯のインディカから熱帯ジャポニカが生まれ、高度差のある東インド・ミャンマーの冷涼地で温帯ジャポニカが生まれ、長江を下って中国に伝わるとともに、海の道を通って日本列島に伝わったと考えます。

 佐藤洋一郎総合地球環境学研究所名誉教授によるRM1遺伝子の国別分布をみると、日本はa・b・c型で、中国・朝鮮にみられるd・e・f・g型が見られません。朝鮮にb型がないことからみて、朝鮮から日本に米が伝わった可能性がまず否定されます。さらにd・e・f・g型が見られないことは、日本の温帯ジャポニカは中国からではなく、別ルートの可能性が高いことを示しています。―「縄文ノート26 縄文農耕についての補足」参照

 もし中国から日本にイネが伝わったのなら朝鮮と同じようにd・e・f・g型も見られるはずですが、これらがない原因としてはインド東部・ミャンマー高地からの移動に伴い選別したabc型だけを運んだ「ボトルネック効果」と、倭人だけが育種技術に優れ収穫量の多い米の選択的栽培を先進的に行った可能性が考えられますが、前者の可能性がより高いと考えます。

 なお、私は若月氏に教えられ、NHKの「人間は何を食べてきたか:サバンナの移動漁民~アフリカ・ニジェール川~」を見るまでアフリカイネは陸稲と思い込んでいましたが、水稲と訂正します。

 

⑶ 雑穀・根菜・イネのルーツ

 古い資料ですが中尾佐助著の『栽培植物と農耕の起源』(岩波新書、1966年)は、農耕文化として根栽農耕文化、サバンナ農耕文化、地中海農耕文化、新大陸農耕文化をあげています。―「縄文ノート26 縄文農耕についての補足」(200725→1215)参照

 中尾説はヤムイモ・タロイモなどの根菜農耕文化と、縄文時代から栽培されているアワ・ヒエ・キビの雑穀についてサバンナ農耕文化をあげているのは画期的な着想と思いますが、2つの問題点を感じます。

1つは、「根菜農耕文化」をアフリカではなく東南アジアとしている点です。西アフリカから中央アフリカにかけての熱帯雨林とその外側には雨量の豊富な地域があり、「サバンナ農耕文化」とは異なる「田芋・水稲農耕文化」がニジェール川流域などにはあった可能性が高いのです。

 私が小学校時代に過ごした岡山市郊外には江戸時代からの干拓農地が広がっており、私の記憶では「里芋」=「田芋」であり、田芋と水稲はもともとは同じ栽培条件であったと考えられます。

2つ目は、中尾氏は東インド・ミャンマー・雲南高地の「照葉樹林帯文化論」を展開しながら奇妙なことに「稲作農耕文化」をあげず、その起源地を示していないことです。「稲作農耕文化」をインド・東南アジア起源とするか西アフリカにするか、迷いがあったのではないでしょうか。

 「ヒョウタンから駒」ではありませんが、縄文ヒョウタンとY染色体D型をたどると、「根菜農耕文化」は「田芋・水稲農耕文化」として西アフリカを起源とする可能性が浮かび上がります。

 エンゲルスは「家族史(の研究)は、1861年、バッハオーフェンの『母権制』の刊行をもってはじまる」としましたが、バッハオーフェンは、農耕文化以前の「野生的自主的生産は、母なる大地から野生植物が、最も豊かに繁茂する沼沢地生活に見ることができる」としています。農耕文化もまたこの沼沢地から発生したとみるのが自然でしょう。

 若い研究者のみなさんの調査・分析に期待したいと思います。

 

⑷ 「モチモチ・ネバネバ食」のルーツ

 外国人に日本文化のクールを発見してもらうNHKの番組『クールジャパン』を見ていると、「モチモチ・ネバネバ食」は欧米人とは異なる食文化であることを実感します。

 「縄文ノート28 ドラヴィダ系海人・山人族による稲作起源論」ではモチイネが東インド・ミャンマー・タイ・ラオス・雲南などの高地で栽培されていることを示し、「縄文ノート14 もち食のルーツは西アフリカ」ではもち米の分布が中国沿岸部から日本へと広がっていることを示しました。

 また、縄文ノート「132 ピュー人(ミャンマー)とピー・ヒ信仰」では納豆食がこの地域と重なることを示しました。

 さらに縄文ノート「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」「142 もち食のルーツは西アフリカ」では、西アフリカや中央アフリカでは「フフ(ヤムもち:日本の山芋・長芋と同種)」を主食にしており、「モチモチ・ネバネバ食」はイモもちをルーツとし、Y染色体D型人により、東インド・ミャンマー・タイ・ラオス・雲南高地で定着し、さらに日本列島に運ばれた可能性が高いと考えられます。   

 志和地弘信東京農大教授によれば、「イモ類は高温、乾燥など気候の変化に強い。干ばつのリスク対策にもってこいだ」とされており、気候変動と人口増加・戦争により心配される食料危機に対し「イモ・イネ複合農耕文化」(イネは雑穀を含む全イネ科穀類)を見直し、各国の食料自給率の向上を図ることが求められます。

 

⑸ 「ソバ・豆」のルーツ

 縄文時代から栽培されているソバもまた、「縄文ノート109 日本列島そば好きラインー蕎麦と焼畑」で書きましたがインド東部・ミャンマー高地が原産地とされています。

 赤米神事(ドラヴィダ族や対馬)の代わりに赤飯に使われるササゲはアフリカ原産で、ナイジェリアやニジェールなどで生産と消費が拡大しているとされています。

 日本の赤褐色のササゲの他に、白・黒・淡褐色・紫色など様々な色があり、黒目豆(ブラック・アイ・ピー)はナイジェリア北部が原産とされています。

 大豆・小豆の原産地は東アジアとされていますが、原種のツルマメ、ヤブツルアズキは日本にも自生しており、紀元前4000年頃より栽培化されたことが明らかとなっており、沖縄の久高島には「イシキ浜に流れ着いた壺(またはヒョウタン)の中に麦・粟・アラカ(もしくはクバ=ビロウ)・小豆の種子が入っていた」という伝承が伝えられていることからみて、ヒョウタンとともに種子が持ち込まれた可能性が高いと考えます。

 ソラマメも北アフリカかメソポタミアが原産とされており、これらのマメ類の原種「マザービーンズ」もまた西アフリカが原産地の可能性があると考えます。

 

⑹ 粉食のルーツ

 縄文遺跡から発見される石臼(石皿)について、奇妙なことにわが国の学者たちは「ドングリ粉食」の道具ですが、そのルーツはどこなのでしょうか?

 ウィキペディアによると、アフリカ湖水地方のルウェンゾリ山の麓のエドワード・アルバート湖畔の20000~8000年前頃のイシャンゴ文明には石臼・粉砕用石器と多くの骨製の銛と魚骨を伴っているとされ、「イシャンゴの骨」(その刻み目については数式説・カレンダー説あり)は「2万年前頃」とされていますが、2つの湖を繋ぐセムリキ川では9万年前の骨製の銛が見つかっています。―縄文ノート「61 世界の神山信仰」(210312)、「62 日本列島人のルーツは『アフリカ湖水地方』」、「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」(210422)、「111 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論」(211128)参照

 

 この9万年前の骨製銛の発見は、この地のイシャンゴ文明の石臼・粉砕用石器も2万年前よりさらに遡る可能性を示しており、コーカサスからメソポタミア地方にかけてが原産地と考えられている小麦の1万年前頃の栽培説よりもはるかに古く、ミシャンゴ文明の粉食は前掲の図26で示したように西アフリカ原産のコメや雑穀の可能性が高く、未発見ですが全イネ科植物のマザーイネの原産地から考え、小麦もまた西アフリカ原産の可能性もあります。

 Y染色体D型人はヒョウタンだけでなく、イネ科穀類と石臼、銛を持ち、西アフリカからアフリカ東部湖水地方へ移住し、さらに赤道にそってインド洋岸を西に進んだ可能性について、調査・研究が求められます。

 なお、縄文土器のおこげの分析によれば、ドングリ・クリ主食説は成立せず主食はイモや豆であった可能性が高く、沸騰と吹きこぼれを示す縄文土器の縁飾りデザインとも符合します。縄文人は石臼(石皿)でドングリ粉を作っていたのではなく、イモもちや豆粉・コメ粉・ムギ粉・ソバ粉などを作っていた可能性が高いと私は考えます。さらなる調査・研究を期待しています。―縄文ノート「25 『人類の旅』と『縄文農耕』と『三大穀物単一起源説』」(140613・17→200903)、「26  縄文農耕についての補足」(200725→1215)、「29 『吹きこぼれ』と『お焦げ』からの縄文農耕論」(201123→1218)、「108 吹きこぼれとポンガ食祭からの縄文農耕説」(211116)、「109 日本列島そば好きラインー蕎麦と焼畑」(211121)、「縄文ノート113 道具からの縄文文化・文明論」(211208)参照

 

⑺ イモ米魚食革命

 前述の「ブラックミュージックの魂を求めてー環大西洋音楽文化論」(中村隆之、『世界』2023.10)では、アメリカ大陸に連行された奴隷たちが抵抗として手放さなかったアフリカ文化として「かぶり物、釣り、ドラミング」の3つを紹介し、「魚釣りの技術の伝来には諸説あります(アフリカ起源、先住民に学んだ、植民者に学んだ)」としていますが、この「魚釣り技術」は人類誕生に欠かせなかったDHA食に関わる西アフリカ・中央部アフリカ文化と考えます。―縄文ノート「81 おっぱいからの森林農耕論」(210622)、「縄文84 戦争文明か和平文明か」(210716)、「88 子ザルからのヒト進化説」(210728→08015)、「89 1 段階進化論から3段階進化論へ」(210808→220106)、「141 魚介食進化説:イモ・魚介、ときどき肉食」(220611)参照

 すでにみたように東アフリカ湖水地方のイシャンゴ文明では9万年前の骨製銛が見つかっており、漁労文化は西アフリカ・中央部アフリカ・東部アフリカ湖水地方で人類誕生とともに始まり、日本列島では沖縄県南城市のサキタリ洞窟(3万年前頃)からは2.3万年前頃の世界最古の巻貝製の釣り針2本が見つかり、さらに各地の縄文遺跡からは釣り針と銛、漁網用の土器錘が見つかっており、イモ米魚食文化を持ったY染色体D型・O型人の「海の道」移動を裏付けています。―縄文65 旧石器人のルーツ」(210403)、「67 海人(あま)か山人(やまと)か?」(210409)、「111 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論」(211128)、「161 『海人族旧石器・縄文遺跡群』の世界遺産登録メモ」(230226)参照

 

⑻ 土器鍋食革命

 人類の食の大革命は、土器鍋食と石窯食・土器窯と考えます。

 西洋中心史観は「肉食ゴリラーマン(キン肉マン)史観」の「焼肉進歩史観」ですが、アフリカ・アジア中心史観の「ホモサピエンス(賢い人)」の「糖質DHA食進化説」「イモ・イネ・マメ・魚介食進化説」では、土器鍋と石窯・土器窯・石臼による「煮炊き食・竃食進化説」「粒食・粉食・もち食進化説」になります。

 日本列島最古の土器は青森県の大平山元(おおだいやまもと)遺跡から出土した16000~15500年前頃の表面に炭化物の付いた無文土器ですが、その用途について通説は魚・肉・ドングリを炊くためとし、私は主食のイモや麦・ソバ、粟・黍・稗、豆(小豆や緑豆)などの栽培作物やキノコ・魚介・肉の煮炊きに使ったと考えています。―縄文ノート「4 『弥生時代』はなかった」(200124)、「8 『石器―土器―鉄器』時代区分を世界へ」(200223)参照

 パンの場合、今もアラブの遊牧民がやっているように小麦粉を水で練って熾火(おきび)の上や灰の中で焼くのは古代メソポタミアで8000〜6000年程前(14400年前頃説も)から行われ、エジプトでは5000年前頃に石窯焼きパンが、スイスでも5700~5600年前頃にうまれたとされています。しかしながら、前述のように東アフリカ湖水地方の20000~8000年前頃のイシャンゴ文明には石臼・粉砕用石器があり、西アフリカの4000~3000年前のブルキナファソ古代製鉄遺跡群の溶鉱炉は女性が煮炊き料理を行う窯から発達したのは確実であり、パン食と石窯のルーツはアフリカ起源の可能性があると考えられ、調査・研究が求められます。

 このような石窯利用と較べても、わが国の16000~15500年前頃の土器鍋の歴史は古く、また竪穴式住居のかまど(後述の4⑻参照)をみると、焼けた石の上でイモやパンを焼くことは可能であり、縄文人は煮炊き食とともに石焼食を行っていた可能性が高いと考えます。土器鍋食については、ドラヴィダ族の土鍋を使う「ポンガ食祭」が伝わってきた可能性があり、インドでの調査・研究が望まれます。

 縄文食というと「石臼ドングリ粉食」とされていますが、おこげ分析から否定されており、見直す必要があると考えます。―縄文ノート「29 『吹きこぼれ』と『お焦げ』からの縄文農耕論」(201123→1218)、「「108 吹きこぼれとポンガ食祭からの縄文農耕説」(211116)参照

 

⑼ アフリカからの食の歴史研究へ

 これまでの西洋中心史観や中華中心史観のもとでは、日本列島人や倭音倭語の起源だけでなく、稲作・コメ食やイモ作・イモ食、ソバ作・ソバ食、豆作・豆食、モチモチ・ネバネバ食、粉食などの農業・食生活の起源はアジア中心に論じられてきており、アフリカをルーツとする研究はほとんど手が付けられていない印象を受けます。

 若い各分野の研究者による本格的な取り組みを求めたいところです。

 


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