大学1年生の時、夏休みに工務店でアルバイトした時のことですが、職人の間で「玉から生まれたアマテラス」や「万世一系」なんか嘘だろうなど、天皇崇拝を皮肉る話がよく飛びかっていました。中には「天照大御神」のことを「テンテル」としか言わない若い腕のいい大工がいました。
古代史をブログで書き、『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)を出したときも、「天照」を「アマテラス」と書いたり「アマテル」と書いたりしてきましたが、昨年末の『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(第2版)からは引用など以外では「アマテル」を使うようになりました。
最近、「モモソヒメ=卑弥呼=アマテラス」という「新皇国史観」があたかも歴史であるかのような邪馬台国畿内説の主張が目に付きだし、「アマテラス」か「アマテル」か、はっきりさせる必要があると考えるようになりました。
Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」での「アマテル論」に関連して、「倭語論」として整理しました。
始祖神は誰か
戦前の皇国史観は、天皇家が始祖・天照大御神の孫で高天原から天降ったニニギを先祖とし、大日本帝国憲法の天皇による「万世一系かつ神聖不可侵の統治」に根拠を与えました。(注:以下、大御神、神、命・尊(みこと)などの尊称を省略します)
しかしながら、記紀にはそんなことはどこにも書かれていません。古事記では始祖神を「参神二霊」の天之御中主(あめのみなかぬし)、高御産巣日(たかみむすひ)と神御産巣日(かみむすひ)とし、さらに「産巣日(むすひ)」2神を「二霊群品の祖となりき」としています。日本書記がこの「二霊」に高皇産霊(たかみむすひ)、神高皇産霊(かみむすび)の漢字を宛てていることをみると、日=霊(ひ)であり、「人(霊人)」「彦(霊子)」「姫(霊女)」など「群品」を産んだ始祖夫婦神はこの2神になるはずです。
この「参神」は他の2神とともに出雲大社正面に「別天神」(天から別れてきた神)として祀られているのですが、皇国史観はこれを無視し、古事記だと天御中主から数えて12代目にあたる天照を始祖神であるかのようにすり替えているのです。
一方、日本書紀本文は始祖神を「国常立(くにのとこたち)」「国狭鎚(くにのさつち)」「豐斟渟(とよくむぬ)」などとしていますが(注:一書第1~第6で微妙に異なる)、やはり天照を始祖神にはしていません。
天皇家が天照を含めて、これらの神々を始祖神として宮中に祀っておらず、明治まで天皇が天照を祀る伊勢神宮に参拝していないことは、そもそも天皇家をこの国のシンボルとすることに疑問を投げかけています。
皇国史観も戦後の反皇国史観もこの「不都合な事実」から目を逸らしています。
天照をどう読むか
今、「新皇国史観(大和中心史観)」は、纏向のモモソヒメ=卑弥呼=アマテラスという新しい「平成神話」を歴史にしようとやっきになっていますが、そもそも「天照」を「アマテラス」とすることについて何の検討も説明もしないままに戦前の皇国史観を継承しています。
古事記の天照大御神、日本書紀の天照大神の「天照」について、通説は本居宣長の「世界を照らす太陽神・アマテラス」説を採用して「アマテラス」と読ませていますが、歴史学として合理的説明がつくでしょうか? 私は次のように考えます。
第1に、「アマテラス」読みは、天照=太陽神とすることからきていますが、記紀に太陽信仰はどこにも書かれておらず、出雲大社も天皇家も太陽信仰を継承していません。また、エジプトやマヤ・アスティカ文明に見られるような太陽神を示すシンボルは、土器・銅鐸などどこにも残っていません。
第2に、「大海人皇子」が「天武天皇」と称されたように、「海人=天」であり、「天照」は「海人照」とみるべきであり、「天から世界を照らす太陽」と解釈すべき余地はありません。スサノオの子の「五十猛(いたける)」や、穂日(ほひ)の子の「武日照(たけひなてる=武夷鳥=日名鳥)」「熊蘇武(くまそたける)」「日本武(やまとたける)」「出雲建(いずもたける)」などの名前を踏襲した「天武(あまてる)天皇」名からみても、「委(壱=一)」「日=日向(ひな)」、「熊蘇」、日本」「出雲」などの国の勇者の名前なのです。
第3に、記紀に天照の子として登場する「天照国照彦(あまてるくにてるひこ)天火明(あめのほあかり)」を祀る各地の天照神社はたつの市の1社を除き全て「あまてる神社」と称し、天火明を主祭神とする丹後の籠神社(このじんじゃ:元伊勢と呼ばれています)で「アマテル」と呼ばれていることからみても「天照」は「アマテル」と読むべきと考えます。なお、天照国照彦天火明は播磨国風土記では大国主の子と書かれているのに対し、記紀ではアマテルの玉から生まれたと書かれていることからみて、播磨国風土記の信ぴょう性が高いと考えます。
たつの市龍野町日山の天神山の粒坐天照(いいぼにますあまてらす)神社
―祭神は天照国照彦火明(あまてるくにてるひこほあかり)―
第4に、アマテルが天岩屋に隠れた時、アマテルが天岩屋から出てきたとき天地は「照明自得」と書いてあることから天照を太陽とみなす解釈がありますが、その期間は金山から鉄を取って鏡をつくるなどの長い期間として古事記には描かれており、1日単位の太陽の運行と較べようもありません。朝鮮神話に見られるような王を太陽神とする直接的な記述ではなく、単なる比喩的表現と見るべきです。また、この現象を日食として太陽信仰とみなす説がありますが、わずか数分の日食と記紀の記述はおよそ合いません。
第5に、倭人の「好物」(魏書東夷伝倭人条)として卑弥呼に与えられた銅鏡を太陽を照らす宗教儀式の祭具とみなし、天照を太陽神とする解釈が見られますが、古事記によれば鏡は「わが御魂」としてアマテルがニニギに与えたものであり、祖先霊がやどる神器であり、太陽のシンボルではありません。アマテルの岩屋神話でも、神籬(ひもろぎ;私説は霊(ひ)漏ろ木)には一番上に勾玉の首飾り、次に鏡、その下に白布を垂らしたのであり、頭に珠、胸に鏡、白布を腰に位置としていることからみても、鏡を頭上に輝く太陽と解釈することはできません。
以上、「天照」を「アマテラス」とする本居宣長説を採用する合理的な根拠はどこにもありません。
「アマテル」読みの古代史へ
あの「大東亜戦争」の反省と裕仁天皇の「人間宣言」に照らせば、本居宣長の「世界を照らす太陽神アマテラス」の解釈は否定されるべきです。いまだに歴史学者やマスコミが本居宣長解釈の「アマテラス」読みにしがみついているのは驚くべき時代錯誤というほかありません
天皇制支持者あるいは反天皇制論者にせよ、「天照」を「アマテラス」と言い続けることは止めるべき時期ではないでしょうか?
古代史をブログで書き、『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)を出したときも、「天照」を「アマテラス」と書いたり「アマテル」と書いたりしてきましたが、昨年末の『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(第2版)からは引用など以外では「アマテル」を使うようになりました。
最近、「モモソヒメ=卑弥呼=アマテラス」という「新皇国史観」があたかも歴史であるかのような邪馬台国畿内説の主張が目に付きだし、「アマテラス」か「アマテル」か、はっきりさせる必要があると考えるようになりました。
Livedoorブログ「帆人の古代史メモ」での「アマテル論」に関連して、「倭語論」として整理しました。
始祖神は誰か
戦前の皇国史観は、天皇家が始祖・天照大御神の孫で高天原から天降ったニニギを先祖とし、大日本帝国憲法の天皇による「万世一系かつ神聖不可侵の統治」に根拠を与えました。(注:以下、大御神、神、命・尊(みこと)などの尊称を省略します)
しかしながら、記紀にはそんなことはどこにも書かれていません。古事記では始祖神を「参神二霊」の天之御中主(あめのみなかぬし)、高御産巣日(たかみむすひ)と神御産巣日(かみむすひ)とし、さらに「産巣日(むすひ)」2神を「二霊群品の祖となりき」としています。日本書記がこの「二霊」に高皇産霊(たかみむすひ)、神高皇産霊(かみむすび)の漢字を宛てていることをみると、日=霊(ひ)であり、「人(霊人)」「彦(霊子)」「姫(霊女)」など「群品」を産んだ始祖夫婦神はこの2神になるはずです。
この「参神」は他の2神とともに出雲大社正面に「別天神」(天から別れてきた神)として祀られているのですが、皇国史観はこれを無視し、古事記だと天御中主から数えて12代目にあたる天照を始祖神であるかのようにすり替えているのです。
一方、日本書紀本文は始祖神を「国常立(くにのとこたち)」「国狭鎚(くにのさつち)」「豐斟渟(とよくむぬ)」などとしていますが(注:一書第1~第6で微妙に異なる)、やはり天照を始祖神にはしていません。
天皇家が天照を含めて、これらの神々を始祖神として宮中に祀っておらず、明治まで天皇が天照を祀る伊勢神宮に参拝していないことは、そもそも天皇家をこの国のシンボルとすることに疑問を投げかけています。
皇国史観も戦後の反皇国史観もこの「不都合な事実」から目を逸らしています。
天照をどう読むか
今、「新皇国史観(大和中心史観)」は、纏向のモモソヒメ=卑弥呼=アマテラスという新しい「平成神話」を歴史にしようとやっきになっていますが、そもそも「天照」を「アマテラス」とすることについて何の検討も説明もしないままに戦前の皇国史観を継承しています。
古事記の天照大御神、日本書紀の天照大神の「天照」について、通説は本居宣長の「世界を照らす太陽神・アマテラス」説を採用して「アマテラス」と読ませていますが、歴史学として合理的説明がつくでしょうか? 私は次のように考えます。
第1に、「アマテラス」読みは、天照=太陽神とすることからきていますが、記紀に太陽信仰はどこにも書かれておらず、出雲大社も天皇家も太陽信仰を継承していません。また、エジプトやマヤ・アスティカ文明に見られるような太陽神を示すシンボルは、土器・銅鐸などどこにも残っていません。
第2に、「大海人皇子」が「天武天皇」と称されたように、「海人=天」であり、「天照」は「海人照」とみるべきであり、「天から世界を照らす太陽」と解釈すべき余地はありません。スサノオの子の「五十猛(いたける)」や、穂日(ほひ)の子の「武日照(たけひなてる=武夷鳥=日名鳥)」「熊蘇武(くまそたける)」「日本武(やまとたける)」「出雲建(いずもたける)」などの名前を踏襲した「天武(あまてる)天皇」名からみても、「委(壱=一)」「日=日向(ひな)」、「熊蘇」、日本」「出雲」などの国の勇者の名前なのです。
第3に、記紀に天照の子として登場する「天照国照彦(あまてるくにてるひこ)天火明(あめのほあかり)」を祀る各地の天照神社はたつの市の1社を除き全て「あまてる神社」と称し、天火明を主祭神とする丹後の籠神社(このじんじゃ:元伊勢と呼ばれています)で「アマテル」と呼ばれていることからみても「天照」は「アマテル」と読むべきと考えます。なお、天照国照彦天火明は播磨国風土記では大国主の子と書かれているのに対し、記紀ではアマテルの玉から生まれたと書かれていることからみて、播磨国風土記の信ぴょう性が高いと考えます。
対馬市美津島町小船越の阿麻氐留(あまてる)神社
―祭神は高御魂(たかみむすひ)とされるが、元々は「天火明」が祭神であったとする説を支持―
―祭神は高御魂(たかみむすひ)とされるが、元々は「天火明」が祭神であったとする説を支持―
たつの市龍野町日山の天神山の粒坐天照(いいぼにますあまてらす)神社
―祭神は天照国照彦火明(あまてるくにてるひこほあかり)―
第4に、アマテルが天岩屋に隠れた時、アマテルが天岩屋から出てきたとき天地は「照明自得」と書いてあることから天照を太陽とみなす解釈がありますが、その期間は金山から鉄を取って鏡をつくるなどの長い期間として古事記には描かれており、1日単位の太陽の運行と較べようもありません。朝鮮神話に見られるような王を太陽神とする直接的な記述ではなく、単なる比喩的表現と見るべきです。また、この現象を日食として太陽信仰とみなす説がありますが、わずか数分の日食と記紀の記述はおよそ合いません。
第5に、倭人の「好物」(魏書東夷伝倭人条)として卑弥呼に与えられた銅鏡を太陽を照らす宗教儀式の祭具とみなし、天照を太陽神とする解釈が見られますが、古事記によれば鏡は「わが御魂」としてアマテルがニニギに与えたものであり、祖先霊がやどる神器であり、太陽のシンボルではありません。アマテルの岩屋神話でも、神籬(ひもろぎ;私説は霊(ひ)漏ろ木)には一番上に勾玉の首飾り、次に鏡、その下に白布を垂らしたのであり、頭に珠、胸に鏡、白布を腰に位置としていることからみても、鏡を頭上に輝く太陽と解釈することはできません。
以上、「天照」を「アマテラス」とする本居宣長説を採用する合理的な根拠はどこにもありません。
「アマテル」読みの古代史へ
あの「大東亜戦争」の反省と裕仁天皇の「人間宣言」に照らせば、本居宣長の「世界を照らす太陽神アマテラス」の解釈は否定されるべきです。いまだに歴史学者やマスコミが本居宣長解釈の「アマテラス」読みにしがみついているのは驚くべき時代錯誤というほかありません
天皇制支持者あるいは反天皇制論者にせよ、「天照」を「アマテラス」と言い続けることは止めるべき時期ではないでしょうか?
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