ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

倭語論16 「日本語」「倭語」「土器人(縄文人)語」

2020-02-24 19:06:01 | 倭語論
 日本語はどこまで遡って論じることができるのでしょうか? 
 門外漢であり文献を確かめてはいませんが、国語学者にとっては、記紀や風土記、万葉集などの文書分析になるでしょうから、慎重な人だとそれらが書かれた同時代の紀元8世紀からとするでしょう。これらの漢字によって書かれて残され、和音・呉音・漢音で発音した言語を「日本語」とするに違いありません。さらに厳密な人は、わが国独特の「片仮名・平仮名交じり和文」からを日本語というかも知れません。
 しかしながら、文字使用を起点に論じるとなると、紀元1世紀のスサノオ・大国主の「委奴(いな)国」は後漢の冊封体制に入り、国書を上表する際に使用する金印を受け取り、朝貢交易を行っていますから、紀元1世紀には漢字・漢語を外交で使用していたことが明らかです。さらに紀元前1世紀頃の福岡県の三雲南小路遺跡(糸島市)や須玖岡本遺跡(春日市)、東小田峯遺跡(筑前町)から発見されたガラス璧破片は前漢皇帝から爵位を受けていた王がいたことを示しており、漢字使用は紀元前1世紀ごろに遡ります。
 魏書東夷伝倭人条は「旧百余国、漢時に朝見する者あり、今使訳通ずる所、三十国」としており、紀元3世紀には漢語が理解できる使訳=通訳がいた国が30国あったことを示しており、国内の国々の間で公文書(竹簡や木簡)がやりとりされていたことが明らかです。
 一方、記紀のスサノオ・大国主神話には「歌」や「夷曲(ひなうた)」「夷振(ひなぶり=歌舞)」が登場しますから、外交文書や国内の公用書だけでなく、歌や曲なども文字で記録されていた可能性があります。この場合には、倭語の順に和音を漢字表記する「万葉仮名用法」が生み出されたと思われます。
 太安万侶が古事記序文において、「諸家之所賷帝紀及本辭(諸家のもたらしたところの帝紀と本辞)」を稗田阿礼に「誦習(よみならわ)」せ、引用した『旧辞』と『先記』は「因訓述(訓によって述べた)」と「全以音連(すべて音を連ねた)」、「交用音訓(音訓を交えて用いた)」の用法があったとしていることを見ても、漢語漢文ではなく、倭語漢語・倭音呉音漢音をミックスした「倭語(漢字倭文)」が1~2世紀のスサノオ・大国主の建国の頃には成立していた可能性が高いと考えます。

古事記の作成過程


 記紀や魏書東夷伝倭人条の分析においては、このような「倭語(漢語倭文)として分析」する必要があり、「呉音漢音を除いた倭音による分析」が必要であると考えます。そして、その際には、すでに「漢字分解」で述べてきたように、漢字を習い始めた倭人たちが紀元前後1世紀頃の呉語・漢語を習い、漢字の本来の意味をその構成から理解して使っていた「倭流漢字用法」であったとして分析する必要があると考えます。
 「弥生人征服説」「天皇家建国説」の「新皇国史観」の歴史家たちは、「記紀などは呉音・漢音読みで理解すべき」「漢字使用は遣隋使・遣唐使を派遣した天皇家から」と思い込んでいますが、「土器人(縄文人)の内発的自立発展史観」「スサノオ・大国主建国史観」に立つ私は「記紀などは倭音で理解すべき」と考えます。

倭音・呉音・漢音からなる単語


 「日」を「ひ」、「霊」を「ひ」、「天」を「あま、あめ」などと「倭音」で読むところから、記紀等の分析は再構築する必要があります。「日本」は「ニチホン、ニホン、ニッポン」ではなく「ひのもと」「ひなもと」と読むところから、古代史分析はやりなおす必要があると考えます。
 さらに、この「倭語」について私は「土器(縄文時代)時代」1万年の「土器人(縄文人)語」にルーツがあると考えています。

「日本語」の形成過程


 日本人は南方や北方、中国大陸、朝鮮半島から多様なDNAを持った人々が漂着・移住・避難してきたことはDNAの分析などから明らかですが、フィリピンや台湾のような多言語・多文化コミュニティにはなっていません。アイヌを除いて、方言・文化の差はあっても、沖縄から北海道まで同じ言語・文化のコミュニティであると言っていいと思います。

同じ島国でありながら異なる「言語・文化コミュニティ」の国の成立


 ほとんどの単語に倭音・呉音・漢音の発音があるにも関わらず、中国語の「主語―動詞―目的語」の言語構造を受け入れず、「主語―目的語―動詞」の言語構造を維持しています。朝鮮語とは同じ「主目動言語」ですが、倭音・呉音・漢音・朝鮮音という単語は見当たらず、数詞や人体語などの基本語が一致していません。弥生人(中国人・朝鮮人)征服説は、倭語―日本語からは成立する余地はありません。
 1万年の間、南からの黒潮と北西からの季節風によって、仮に主に男性の10人が母系制社会の海人族の日本列島に漂着・移住・避難してきたら、10万人のDNAが土器人(縄文人)には混じっていることになり、言語構造や基礎単語を変えることなく、多DNA・同言語民族になったと思います。数万人が民族移動を起こし、原住民である土器人(縄文人)を征服して稲作国家を建設した、などありえないのです。
 それに加えて、海人族は琉球から北海道までアクセサリーになる貝を運び、ヒスイや黒曜石なども環日本海沿岸で交易を行っていました。母系制の妻問夫招婚社会では、言語・文化の交流が進み、豊かな1万年の土器鍋食の産業・生活・文化社会を作り上げたのです。
 なお、骨や歯の形質、血液型、DNAなどの分析、縄文遺跡の分布、人口推計などから、西日本に多数の弥生人が渡来して縄文人は東日本に追いやられたという説がみられますが、これは7300年の喜界カルデラ噴火による西日本の縄文社会の壊滅や、特に現代人のDNA比較の場合には、4世紀後半の崇神天皇の時に「民有死亡者、且大半矣(民の死者あり、すぐに大半に)」とされる疫病の影響を考える必要があります。
 言語や宗教、海人族の交易活動、母系制社会、土器・青銅器文化、鉄器稲作の拡大など、あらゆる点からみて「弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観」から卒業すべき時期です。

喜界カルデラ噴火の影響



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