goo blog サービス終了のお知らせ 

ユッコ姉の日記

日々思うことをタリラリラン♪っと・・・。

手相占い・・・

2006年05月17日 10時01分02秒 | 私の病気・・・
私が二十歳の時、手相占いをしてもらった事がある。
私の手相は、生命線が真ん中辺りで大きく途切れていた為、以前からちょっと気になっていたから。
もしかしたら、結構早く死ぬかも?なんて一緒に行った友達と笑いあった。
その時の占い師に言われたこと。

死ぬ事はありません。ただ、命に関わるような大きな病気をするでしょう。
その後は、しっかりした生命線があるので、かなり長生きします。

いつ頃、病気になるのか?と尋ねると、

30代前半だと言われた。

私は、子宮がんかなあ?と勝手に考えていた。
私の母や、伯母達がみんな30代前半に子宮筋腫になって手術を受けていたからだ。

だから30歳を過ぎてからは、割りとこまめに子宮がん検診を受けていた。
生命保険も、女性特有の病気の場合は入院日額の高い物に入っていた。

35歳を過ぎ、もう大丈夫だろうと思った。
やっぱり占いは所詮占い。あたるも八卦あたらぬも八卦だ~。などと1人勝手に考えていた。
そして、生命保険を安い物に変えた途端、私に脳腫瘍が見つかった。

占いは当たっていた?
手術をしたのは35歳過ぎてからだけど、始まりはそれ以前からだったんだから・・・
癌ではなかったけれど、確かに命に関わるほどに近い大きな病気だった。

手相占いあなどるなかれ!

でもこれが当たってるとすると、私は今後、後遺症に悩まされながらも長生きすることになる。
うーーん、ちょっと複雑な気分・・・。

手術後・・・(4)

2006年05月17日 08時02分34秒 | 私の病気・・・
この頃、もう一つ私は不安を抱えていた。
それは、記憶である。
初めにその事に気づいたのは、TVを見ていて、有名な芸能人の名前が出てこなかった。
確かに良く知っている芸能人で、昔、直接会った記憶もある。でも、名前が出てこない!
(3日ほど経ってから、それが島田紳介だということを思い出した。)

他にも、私は見舞いに来てくれた何人かの親戚や友人の名前も思い出せないでいた。
顔は分かる。相手と自分の関係も分かる。
でも、名前が思い出せない。
ちょうど、昔のクラスメイトに偶然会って、名前なんだったかなあ?という感じに似ている。
でも私の場合、長期間会ってない人でもなく、中には入院前に会ったばかりの人も・・・。
名前を忘れるはずが無い人間の名前を思い出せない。
医師に聞いても、「なんでかなあ?」

記憶をつかさどる部分は触れていないはず。
手術によるショックで、精神的なものなのか?

とりあえず、かなりの時間が経ってから思い出すので、まあいいじゃないか。と医師は言った。

この頃思い出せないのは人の名前だけだったので、結局そのままになっている。
でも、これが退院してからちょっとトラブルの原因にもなった。

  
  
  
 

それから・・・(追加)

2006年05月16日 08時15分57秒 | 私の病気・・・
手術前にした事で、周りの人々と会うことの他にしたことがあったので追加です。

1つは、お金の整理。
あちこちにいくつもあった家用の口座を整理し、まとめました。
主人にも分かりやすいように、説明書き付きで準備。

自分の預金も整理しました。
とりあえず、死ぬ事は無い筈ですが、私自身がどうなるか分からない以上、
(最悪、体が不自由になったり、記憶が無くなったり等を考えました。)
私にもしもの事があった時はどうして欲しいかを書いた紙を通帳にはさんで、
子供達の通帳と一緒に妹に預かってもらいました。
(情けない話ですが、ここで私は主人を信用していませんでした。
主人の実家は子供の預金を平気で使い込む家だったので・・・)

2つめは生命保険です。
よりにもよって、私は病気が分かる8ヶ月ほど前に生命保険を切り替えたばかりでした。
保険に入る時、顔の痺れがあった事は話してありましたが、担当者は問題ないと言っていたのですが・・・。
私は、うそを言った覚えはありません!。
この頃は、医者にかかっていた訳でもないし、実際痺れは治まっていた時期でした。
また痺れが始まるとは思ってもいなかったし・・・。
だいいち、保険を変えた事で、入院日額は減っていたんですから・・・。
(あのまま、前の保険に入っていれば良かったなーと、後で少し後悔しました。

でも、入ってからまだ一年も経っていないので、
もし、何も出なかったらどうしようかと、とても心配でした。
電話して問い合わせると、担当者はすでに会社を辞めていた。(オイッ!

でも、の対応をしてくれた人はとても良く話を聞いてくれて、
ちゃんと、入院や手術でお金が下りることになりました。
いい保険会社で良かったー。

3つ目にしたことは、
私がもし、死ぬような事になったら、連絡して欲しい人の一覧を作りました。
名前と連絡先の一覧を書きながら、
あらためて自分の人間関係を振り返ることになりました。

大袈裟ですかね?
でも、今まで極めて健康で、初めての入院が頭の手術、という私にとっては
最悪の場合を考えて準備しておく必要があったんです。
こうした準備をしながら、少しづつ自分の気持ちを固めていく必要がありました。

手術後・・・(3)

2006年05月15日 09時17分10秒 | 私の病気・・・
ショックは受けたけれど、私はそんなそぶりは見せなかった。
普段は、いたって元気な患者?だった。
本当はもっと個室にいられたのだが、自分から希望して相部屋になっていて本当に良かったと思った。
ずっと個室にいたら、きっと私は毎日激痛と戦いながら泣いてばかりいたと思う。

入院前に周り中に公表していたせいもあって、見舞い客は後を絶たなかった。
(退院時に計算したら、見舞いに来てくれた人数は総勢70人くほどいた。
何回も来てくれた人もいたので、お見舞いの回数は100回以上あったことになる。
毎日、誰かが見舞いに来るので、落ち込んでるヒマが無かったのも幸いした。
でもある日、お茶を飲んでいた私は、左耳にそのお茶が喉の辺りから入った感触を感じた。
ビックリしてその事を訴えると、(また主治医を捕まえるのに時間が掛かったが)翌日、耳鼻科へ行かされた。
ここでも、手術の情報が耳鼻科には行ってないので、いちいち私が説明する。
とりあえず、異常なし。とのことだったが、数日後、私は内耳炎を起こしていた。

主治医に、なぜこんな事が起きるのか聴いたところ、
手術の際に中の骨の一部に穴を開けるのだそうだ。
その穴は、塞いだと思っていたのだけど、もしかしたら完全に塞がってなかったのかもしれない。と言う。
その場合、どうなるのか?と尋ねると、
「もう一度、手術をして穴を塞がなければいけません。」
ヒエ~!である。
もう、絶対に手術は嫌だった。あの苦しんだ日々をもう一度する気にはとてもなれない。
さすがにこの時は、恐怖で夜中に1人、ベッドで声を殺して泣いた。(頬の痛みと戦いながら・・・)
この少し前から、夜眠れなくなっていた私は、毎日睡眠薬を出してもらっていた。

1週間ほどして、とりあえず耳の方はOKが出た。(内耳炎ってそんなに早く治るか?)
どうやら、心配していた穴は開いてなかったんだろうと医師は言ったが、
私は穴は開いていたが、体が自分でそれを塞いだのだと今でも思っている。

そうでなければ、あんな事が起こるなんて考えられないよ!

どうなってるの?・・・

2006年05月14日 09時09分41秒 | 私の病気・・・
今日は、現在の話を少し。

「実は・・・」の所で、下顎のズレの為、噛み合わせがガタガタになって来た事を書きました。
そこで、金曜日に少し遠くの大学病院まで行ってきました。

私は、下顎のズレによる顎関節症と同じような物だと思っていましたので、
神経が切れている以上治らないのは承知ですが、
これ以上酷くなるのを少しでも防ぐ為、
マウスピースとかバイオプレートとかを作ってもらおうと思って行きました。

一応、脳外の医師の紹介状と、自作の今の自分の状態を書いた物を持って行きました。

今までの総合病院とは大違いの丁寧な説明の後、とりあえずレントゲンを撮りました。
(歯医者で撮るのと同じタイプ)

大学病院の医師は、
「左の顎関節が少し小さい気がするので、CTも撮ってみましょう。」と言いました。

CTを撮った後、医師はそれを見て唸りながら、今度は、顎間接のみのCTを・・・。

午前9時頃病院に着いていましたが、全部撮り終わったのは午後3時。
いいかげん疲れた頃、医師が話し始めました。
丁寧に説明してくれましたが、簡単に言えば、左の顎関節がない!
初めのレントゲンは前からしか撮らないので、気付かなかったのですが、
その後の二種類のCTを見ると、明らかに左右の顎関節の形が違う。

私の左の顎関節は、裏側からだんだん消えていっていたんです。
恐らく、今は繊維質みたいな物がもやもやとあるだけでしょう。と、言われてしまいました。

手術からこんな状況になる事は考えられないそうで、
大学の方でも前例がないそうです。
他の科の先生方とも相談したいので、10日後位に大学側から電話します。
と、言われてしまいました。

その上、頭の中に金属のクリップがあるので、絶対にMRIは撮ってはいけない。
磁力でクリップが外れてしまう可能性があるからだそうで・・・。
金属クリップは、手術の時に神経を留めたのでしょう。と言うことでしたが、

マジですか~?
私、手術の後、総合病院の方で2回もMRI受けてるんですけど~~!
クリップが外れなかったのはラッキーだったということですか~?

いったい、私の頭はどうなっているんだ~
もう、なんだかヤケクソになった私は、帰りにケンタッキーに寄って、チキン27個購入。
家族5人で食べ切りました!
う~、しばらく油物は遠慮しますう~・・・。

手術後・・・(②)

2006年05月13日 08時28分23秒 | 私の病気・・・
3週間目には個室から相部屋に移った。
付き添いは、時々母が顔を出すだけになった。

さて、だんだん元気になってくると、気になって来るのは自分の体。
ベットで身動き取れない時から、左の目・耳・口の異常は感じている。
顔面左の異常も感じていた。

検診に来る医師も、毎回違う医師が来る。
彼らに聞いても、自分の担当患者でないと、まともに答えてはくれない。
主治医に会えるのは、週に1,2回のみ。
その主治医に聞いても、ハッキリした事は言わない。

仕方ないから、夜、ナースセンターにいた主治医を捕まえて聞いた。
三叉神経・滑車神経・外転神経が切れている事を聞かされる。
「センセーひどいよー。これでもエステシャンなのにー。」笑いながら言う私に、
「仕方なかったんや。申し訳ない。」と医師は頭を下げた。

トイレに行って、あらためて鏡を見る。
眼帯をはずすと、左目の瞳は完全に目頭の部分まで寄っていた。
口を開くと、下顎が大きく左にずれる。
左鼻の奥まで指を突っ込んでも全く痛くない。爪に少し血がついた。
左頬や、少し伸びた坊主頭を叩いたり、抓ったりしてみても何も感じない。
顔に水を当てても、左側は冷たくない。
泣こうと思った。
でも、左の目からは涙が出ない。
それどころか、泣こうとすると、痛みを感じないはずの左頬に激痛が走る。

暫くの間、鏡の前で左頬の痛みが治まるのを待った私は、
鏡で自分の顔を見ながら・・・笑った。

自分でも不思議と落ち着いていた。
神なんて信じていない私だが、さすがにこの時は思った。
障害児を抱えて、この歪んだ顔のままで生きて行けと?
そのうえ、私は泣く事さえも許されないのですか?
神様、私は今までそれほど悪い事をしてきましたか? と・・・。



手術後・・・(1)

2006年05月12日 08時01分48秒 | 私の病気・・・
術後3,4日間ほどは、あまり記憶が無い。
毎日、頭痛と吐き気に苦しんで眠ってばかりいた。

叔母が祖母の付き添いを変わってくれたので、母と妹が2人で私に付いてくれたのだが、
昼夜関係なく襲う頭痛と吐き気にうめき、暴れる私。
6時間おきしか飲んではいけない鎮痛剤。座薬や安定剤も出ていたようだ。
吐き気はしても、点滴だけだから吐くものもなく、胃液まで吐く。
点滴に、尿道官、背中の腰の辺りにも管がついているから、
2人で、体をさすったり、押さえつけたり、かなり大変だったようだ。

一応、完全看護で付き添いはいらないはずの病院だが、看護師だけでは、絶対ムリだ!
だいいち、あの状態で、ナースコールなんて押してられない!

何人か見舞いに来てくれたが、あまり覚えていない。
せっかく来てくれて申し訳ないのだが、それどころではない状態。
(今後、もし私が誰かのお見舞いに行く時は、術後1週間以後にしよう!と、後で思った。)

術後、7日目に背中の管を抜いた。
8日目には起き上がる許可が出て、食事も取れるようになった。
すると、今度は違った意味での苦痛が始まった。
排便だ。
体はまだ殆んど動けないから、当然、おむつである。
一応看護師も来てくれるが、生理まで来た私は、母や妹に代えて貰う事の方が多かった。
なにより、尿道官をつけて、ベッドに横になったままでは中々出ない!
やってもらっている方が言うのも申し訳ないが、あれはホントに嫌だ!
身内ならなおさら嫌だ。恥ずかしいのと申し訳ないのと・・・。
老人が嫌がる気持ちが、よーーーくわかった。

10日目のMRIの検査。
11日目にやっと尿道官をはずしてもらった時にはホントに胸を撫で下ろした。
車椅子で、トイレに行けるようになる。




手術の時に・・・

2006年05月11日 08時24分23秒 | 私の病気・・・
私が入院して、まだ自由に動けた初めの1週間の間に
私は、同じ病院内に入院していた知り合いの病室を訪れていた。
彼女は私達夫婦の仲人をしてくれた人だった。

とても元気のいい、おしゃべりが大好きなおばさんだった。
私より半年ほど早く入院していた彼女は、喉頭がんの手術を受けていた。
手術を受けた時には、もう手遅れの状態だったと聞いている。
話す事が出来なくなり、意識もあるのかないのか殆んど眠っているようで、
たくさんの機械を付け、喉から大きな管を付けられて、見るからに痛々しい姿だった。

私が病室を訪れた時、病室には付き添いは誰もいなかった。
私は、眠っているような彼女に話しかけた。

「おばさん、大変だけど良く頑張ってるね。実はさあ、私も今入院してるんだよ。
脳腫瘍だって。もうすぐ手術するんだ。」

その時だった、しゃべる事もできない彼女の目から涙が零れ落ちた。
意識があるのか、聴こえてるのかもよく分からない状態だった。
でも、確かに彼女は瞑ったままの目で涙を流していた。
私は、あふれてくる涙を止めることが出来なかった。

彼女がなぜ泣いたのかは分からない。
ただ、私は彼女が私の為に泣いてくれていると感じた。
「まだ若いのに、まだ子供も小さいのに、可愛そうに。」という
彼女の声なき声が確かに聞こえたと思った。

その叔母さんが、私の手術の日に亡くなったということを聞かされたのは、
私が手術を終えてから、1ヶ月ほどたってからだった。

主人は、私の意識が戻るのを確認した後、
彼女の葬式に行ったと言っていた・・・。


手術・・・

2006年05月10日 08時38分59秒 | 私の病気・・・
いよいよ入院となった。
はじめの1週間は、殆んど検査だった。MRIを撮ったり、カテーテルをうけたり。

ちなみに、輸血用血液だが、最近は身内の物は出来るだけ使わないのだそうだ。
昔は身内の方がいいと思われていたが、最近の研究では、
身内の血液は濃すぎてあまり良くないという事らしい。
医師は、私の場合殆んど必要ないだろうと言っていた。
ちなみに私は少数派のAB型だが、身内にはAB型がうじゃうじゃいる。
でも、それが使えないとは・・・。少しもったいない気がした。

検査時間以外は殆んど自由だったので、生まれて初めての入院で、元気いっぱいの私は
病院内をうろついたり、知り合いの病室に顔を出したり、毎日読書三昧で過ごした。

手術の前日、病院内の床屋に行って、頭を丸坊主にした。
わざわざ病院内にあるのだから、てっきり入院費に入ってる物と思っていたら、
別料金で、現金が必要だった。
ちょうど、写真が趣味の従兄弟が見舞いに来たので、
こんな機会は滅多に無いから写真を撮ってくれと言ったら、
カメラを持って来てないからムリ。と言われた。
仕方ないから、自分の携帯で自分の顔を何枚か撮った。

当日、ストレッチャーに乗せられて手術室へ。
手術台に乗せ代えられるとすぐ、「ちょっと注射しますねえ。」と言う声と共に腕にチクリ!

私は、「おしっこ漏れちゃう、おしっこ漏れちゃう・・・」という自分の声で目が覚めた。
もう手術は終っていた。
(後日、麻酔は、1・2・3・・・と数えるもんだと思ってた私は、こっちにも覚悟ってモンがあるんだから、
 麻酔するならちゃんと、そう言ってよー!と主治医にぶつぶつ言った。

ここから後は、家族に聞いた話になる。
手術は、最初7、8時間と聞いていたが、9時間に及んだ。
途中何回か医師や看護師の出入りがあったが、何も言わなかった。
手術待合室には、主人と両親と従兄弟と叔父叔母など総勢10人位いたらしい。
子供達は、3人とも家で留守番をしていた。

手術が終了して、主治医が出てきた。
「予想より出血が多かったので、500ほど輸血しましたが、
 腫瘍はすべて取り除く事が出来ました。
 ただ、腫瘍が思っていたより大きかった事と、いくつかの神経を巻き込んでいた為、
 それらの神経を切断せざるをえませんでした。・・・・」
そこから後は、医師が何をしゃべっていたのか、みんな良く覚えていないと言う。

腫瘍は、3~4cm程あったそうだ。

それから・・・

2006年05月09日 14時09分33秒 | 私の病気・・・
手術を受けると決めてからは、とても忙しかった。

まず、付き添いをしてくれる人。
その頃私の母は、入院していた祖母の付き添いをしていた。
長い入院生活に、母はかなり疲れていたし、更年期障害で苦しんでいた母に、
これ以上心労を掛けさせるのがいやだった。そこで、私の妹に頼んだ。
(結果、私の両親には入院2週間前までその事を伝えず、後でひどく母に叱らた。


それから、友人達に電話をしまくり、片っ端から会う約束をした。
結婚してから、何年も会っていない友人もいた。
ファミレスでランチを食べながら、病気のことを話した。
「今度会うときは、お岩さんみたいな顔してるかもしれないから、今のうちに私の顔をしっかり覚えといてねえ~。」
と、冗談のように言うと、
いきなり泣き出す友がいたり
「冗談でもそんなこというな!」と、怒りだす友がいたり
「絶対そんなことにはならん大丈夫!」と励ます友がいたり

手術までの約1ヶ月間、かなりの数の友人に合い、ファミレスの日替わりランチで食べてない物がないくらいだった。

それから、子供会の役員をしていたので、地域の人にも話した。
前にも書いたが、娘の修学旅行と重なっていた為、同級生の保護者にも話した。

そして、近くに住む主人の両親と話しをしに、一人で行った。

私は、主人の両親に、私が入院している間、決してうちに来ないように頼んだ。
私の言葉に、2人ともかなり驚いていたようだった。
主人から私の入院の事は聞いていた姑は、毎日ウチに通って子供たちの面倒を見る気でいたようだった。

でも、私はそれではいけないと思ったのだ。
術後、私はどういう状態になるのかわからない。
だから、主人や子供達に、私がいなくてもちゃんと生活できるようになって欲しかった。
今まで、主人には家の中の物の置き場所、洗濯や掃除も一応教えてきた。
子供達は、1歳の時から米とぎをやらせ、今では簡単な料理なら一人で出来る。
みんなで手分けしてやれば、それなりの生活は出来るはず!
でも、ついつい手を出してしまうであろう姑がウチに来れば、きっと姑に頼ってみんな何もしない。

私の考えは、舅と姑には理解してもらえないようだった。
なんて、可愛くない嫁だ!と思われたようだ。
それでも、私が入院している間は約束どうりウチには顔を出さないでくれた。