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蒲田耕二の発言

コメントは実名で願います。

体を張る

2013-01-22 | 映画
遠い昔、日本がまだ世界最貧国の一つでアメリカ物質文明がまぶしく見えたころ、その輝きを象徴する一つに「ブロンディ」というマンガがあった。朝日に連載されてたんじゃなかったかな。

タイトルはヒロインの主婦の名で、亭主のダグウッドは隣家の主と実によくケンカする。といっても日本によくあるような、近いもの同士の感情的対立ではなく、普段は仲がいいのだが、ちょっとした口ゲンカから手が出てしまうのである。食事中の場合が多く、ナイフやフォークや皿が乱れ飛ぶ。

同じころウェスタン、というより西部劇も大人気で、そこでもやはり登場人物がしょっちゅう乱闘騒ぎを演じていた。

それを観て、つくづくアメリカの男はケンカ好きなんだなとオレは子供心に思った。そのケンカはどこかのどかで爽快で、見る者を不愉快にしなかった。むしろ、カラリと明るい笑いを誘った。

そういうケンカを久しぶりに見た。大島渚追悼で放送された古い映像の一コマで、野坂昭如がマイクに向かって何かしゃべったかと思うと、そばに立つ大島のアゴにいきなりパンチを見舞った。不意を討たれた大島もすぐに応戦し、手にしたハンドマイクで野坂の頭をぽかぽか殴る。

実にカッコよかった。子供っぽくて同時に男らしかった。聞けば、二人は大の親友なんだという。だからこそ、あんなケンカができたんだろう。

こういう「暴力」は、楽しい。どっちも対等に殴り合っている。お互い、反撃されることを期待している。つまり、体を張っている。それは、優位な立場を利用して自分は安全にサディズム欲をみたす体罰、イジメとは根本的に異なるものだ。だから、カッコいい。

原田芳雄

2011-07-20 | 映画
この人が演じた中で忘れられないのと言えば、『竜馬暗殺』でも『父と暮せば』でもなく、断然『祭りの準備』の冴えない田舎ヤクザだね。ワルだが根は人がいいために損ばかりしている役。そういう負け犬を演じると、原田芳雄は絶妙にうまかった。はまり方において、アバズレを演じる京マチ子に匹敵した。

劇中、主役の江藤潤が原田のヤクザとホロ酔いで夜の街を歩いていて、ガールフレンドの竹下景子とすれ違う。二人は仲違いしているので憎まれ口をたたき合う。すると原田が、事情も知らないのに別れ際、江藤に調子を合わせて「バーロウ」と毒づく。

映画館で観ていて、観客がワッと沸いたのはあのシーンだった。あの瞬間、観客が一人残らず原田に感情移入した。多分あれは、原田が直感で演じたアドリブだ。

70年代半ばの当時、60年代の革命の夢は幻と消えて全共闘世代は失望と屈辱に苛まれていた。その挫折感を、原田は自然体ですくい取って表現してくれる俳優だった。

出演作のリストをネットで見ると、常に一癖あるシナリオを選んで出演していたようだ。ヤクザを演じてもヤクザ映画には出ない。それが彼のプライドだったのだろう。

日本映画の厚みがだんだん痩せていくね。

ウソ

2010-12-19 | 映画
『ニュー・シネマ・パラダイス』という映画がある。映画ファンなら、タイトルを聞いただけでニコニコ相好を崩すほど愛された名画である。映写技師が映写機の光を鏡で二つに分けて、映画館のスクリーンと街の広場に映画を投射するクライマックス・シーンが名高い。

あの名場面が、オレはどうしても納得がいかない。光を鏡で反射させれば小学生でも知ってるように、映像は左右逆の鏡像になる。しかし広場の建物の壁には、スクリーン上と同じ正像が映し出される。

さらに、スクリーンと広場の建物では距離が違う。にもかかわらず、どちらもピントが合っている。光源を二つに分ければ光量は半分になるはずだが、明るさにも変わりはない。

つまり、あの名場面は現実にはありえないのである。

映画はフィクションだ。だから、どんなウソをついてもいい? いや、ウソだからこそ、全力を挙げて本当らしく見せなければならない。簡単に見破れるようなウソでは、観客は楽しめない。

最近も同じケースに遭遇してしまった。オーソン・ウェルズの幻の名作とか言われる『黒い罠』という映画。

ウェルズ扮する足の悪い悪徳刑事がライバルを陥れるため、殺人を犯して罪をライバルの妻に着せようとする。ところが、殺人現場に愛用のステッキを置き忘れてしまう。

こんなヘマは、現実にはありえない。近視眼者がメガネをどこかに置き忘れるのと同じぐらい、ありえない。

身体に障害を持つ者は、その障害を補う補助具を失うとたちまち不便をかこつ。だから、置き忘れに気づかないことなどありえないのである。

幻の名作か何か知らないが、この見え透いたウソがプロットの重要な転機になっているので、オレは以後すっかり白けてしまった。

しかし、見え透いたウソじゃ、映画も政治には負けるよなあ。いくら政治が劇場化したとは言え、去年9月までの改革の夢自体が真っ赤なウソだったとは。一億総白けも無理ないよ。

『ゴダール・ソシアリスム』

2010-11-19 | 映画
ゴダール80歳の新作。老いてますます盛んな実験精神、と言いたいところだが、なんだいこれ? 筋書きを読まずに見て1回で理解できた人がいたら、お目に掛かりたいね。

20年ぐらい前までのゴダールは、確かに類のない個性的表現がおもしろかったし、とりわけ難解でもなかったのだが、近ごろは霊感の減退をコケ威しでごまかす傾向が露骨。分からん方が悪いと言わんばかりの作劇術は、傲慢なガンコ老人そのものである。

苦労して生み出す創作を簡単に消費されてたまるかと、ワザと読みづらくするのは大江健三郎や故・中上健次の小説作法だが、映画であれをやられちゃたまんないよ。映画は簡単に読み返しできないんだからさ。

ゴダールの分かりづらさが1作ごとに過激にエスカレートするのは、確かな計算あってというより、辛いものばかり食べてるとドンドン辛さのきついものが欲しくなるのと同じ生理現象じゃないかね。

逆に、分かりやすすぎて困るのがウディ・アレンの『マッチポイント』。BSフジが超キレイな画質で放送してくれたのだが、内容はどんなアホでも一目で分かる『罪と罰』の換骨奪胎である。大体、セリフでドストエフスキーに言及してるんだから、間違えるなよと初めから教えてくれてるようなもんだ。

その、なんでいま?感大のストーリーを2時間超にわたって丁寧きわまりなく描いてるから、こっちはアクビをかみ殺すのに大わらわ。ウディはこんな風にベルイマンの物マネを時々やるが、おもしろかったためしは過去一度もない。

途中、「彼のセーターはカシミアか」「いつもビクーニャよ」なんて対話が出てくる。こういう使い古しの記号で階級差をメタファーする発想ってのが、すでにトシ寄りだね。

結論。トシは取りたくない。