★2019年11月21日(木)
東塔から西塔、横川へ向います。そして最後に無動寺谷へ。
西塔(さいとう)へ
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法華総持院の廊下を潜り、緩やかな坂道を下る。突き当りが三叉路になっており、右手へ行けば戒壇院前から東塔中心部へつづく。左へ進めば西塔、横川、比叡山山頂へ通ずる。
三叉路に番小屋が建つ。この道を通るには巡拝券を見せるか、持ってなかったら買わなければならない。7年前比叡山登山を試み、坂本へ下山しようとここを通ろうとしたら「チョットチョット」と呼び止められました。下山するだけでお寺に寄るつもりはないと説明しても、ここは境内になるので巡拝料が必要だ、と巡拝券を買わされました。ここは7年前を思い出させる場所です。
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番小屋から左へ歩けば、奥比叡ドライブウェイが見えてくる。ドライブウェイを右手に見ながら山道を進む。この山道は比叡山山頂、叡山ロープウェイ駅へ続いており、30分位かかります。やがてドライブウェイをまたぐ小さな橋が現れる。この橋を渡ると、そこはもう西塔地域だ。
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<浄土院前に置かれていた西塔境内図>
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橋を渡った先にお堂が見える。第六世天台座主の智証大師円珍(814~891)が住居にした「山王院堂(さんのういんどう)」です。円珍滅後百年、円珍派と円仁派の僧侶が対立した時、円珍派はここから智証大師円珍の木像を背負って園城寺(三井寺)へ降りていった歴史的な場所。
浄土院
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山王院堂脇の階段を降り、坂道を下っていくと浄土院に突き当たる。東塔からここまで15分位でしょうか。浄土院の正面の門は閉じられているが、左側へ廻ると入口があり入れます。
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公式サイトに「伝教大師の御廟がある浄土院は、弘仁13年(822年)6月4日、56歳で入寂された大師の遺骸を、慈覚大師が仁寿4年(854年)7月ここに移して安置した場所です。 東塔地域と西塔地域の境目に位置し、所属は東塔地域になります。」とある。
ここには12年籠山修行の僧が住まわれ、宗祖最澄が今も生きているかのように毎日食事を捧げ、境内を掃き清められているそうです。
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お堂の背後に周ると開祖・最澄の御廟がある。現在修繕中のようです。
浄土院の境内は白砂利が敷き詰められ、整然と履き目がつけられ、ゴミ一つ落ちていない。白砂利には踏み跡一つついてない。特に注意書きも無いのだが、自然と白砂利を避けて歩いてしまいます。
椿堂
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浄土院を出て、奥へ向う。杉木立に囲まれたゆるやかな参道が続く。参道の両側には、等間隔に石灯籠が置かれている。石灯籠には「山陰教区、九州東教区、神奈川教区」などの文字が刻まれています。各教区から寄贈されたものでしょうか。
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浄土院から10分ほどで西塔地域への入口に着く。番小屋、要するに入場料金徴収所が目を光らせています。通りすぎようとすると、「巡拝券を見せてください」と声かけされます。持ってなかったら買わされます。ここで買う人は、比叡山山頂から降りてきた人、車で来た人だけでしょう。
脇に「聖光院跡」の石碑が建つ。聖光院は、親鸞聖人住持の寺といわれ、親鸞がこに住まいで修行された所とされる。
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番小屋と道を挟んだ向かい側の、低くなった所に小さなお堂が佇む。これが聖徳太子ゆかりの「椿堂」です。椿の木が生い茂り、お堂を取り囲んでいました。
平安京も、延暦寺も存在していない6世紀末に、太子はここまで登って来られた。山登りが好きだったのですね・・・。聖徳太子は謎だらけ。
にない堂(常行堂・法華堂)
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番小屋から入るとすぐ「にない堂」だ。
(公式サイト)「同じ形をしたお堂が廊下によって繋がっています。正面向かって左が、四種三昧のうち、常行三昧を修す阿弥陀如来を本尊とする常行堂、右が法華三昧を修す普賢菩薩を本尊とする法華堂です。弁慶が両堂をつなぐ廊下に肩を入れて担ったとの言い伝えから、にない堂とも呼ばれています。国重要文化財に指定されています。」
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天長2(825)年に第2世天台座主寂光大師円澄(えんちょう)が法華三昧堂を建立。これが西塔の始まりです。後に焼失を繰り返し、文禄4(1595)年に現在の建物が再建された。
左の常行堂(じょうぎょうどう)、右の法華堂(ほっけどう)は全く同じ大きさ・形をしている。桁行5間、梁間5間、宝形造り栩(とち)葺きの建物で、正面に一間の向拝をつけている。内部は非公開です。
転法輪堂(釈迦堂)
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(右の写真は階段下からにない堂を見上げたもの)
にない堂の廊下を潜った先には急階段が待っている。下りはよいが、上りが大変です。この階段を避けるまわり道でもあるのでしょうか?。階段を下りた先に転法輪堂(釈迦堂)が待っています。
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階段を降りると広場となり、奥に西塔の本堂にあたる転法輪堂(釈迦堂)が佇む。入母屋造り銅板葺きの大屋根が風格を示し、正面7間の柱間は全て開け放されている。
お堂内陣には本尊の釈迦如来立像(重文)が安置されている。ここから通称「釈迦堂」と呼ばれている。秘仏なので辻子の中に安置され、お前立ちのみ拝観できます。
釈迦堂は延喜10年(910)に建立されたが、信長による焼き討ちで焼失した(1571年)。延暦寺復興をめざした豊臣秀吉は、文禄4年(1595)に大津の園城寺(三井寺)の弥勒堂(金堂)をここに移築さす。この弥勒堂は南北朝時代の貞和3年(1347)に建てられたものなので、現在延暦寺に残る建物の中では最古のものとなり、国重要文化財に指定されています。昭和34年(1959)に一度解体修理されている。
横川への道
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12時、横川へ向います。釈迦堂の横に標識があり、横川中堂まで4キロとなっている。シャトルバスを利用すれば10分ほどだが、比叡山延暦寺を少しでも体検しようと思うならば、お坊さんたちが歩いた道を歩かなければならない。90分ほどかかるということだが、写真を撮りながらのんびり歩くつもりなので、もう少しかかるかもしれない。
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小さなトンネルが現れました。奥比叡ドライブウェイの下を潜り抜けます。
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平坦な山道が続く。幅は広くないのだが、横川への参道になるので、それなりに整備されています。時々、右手にドライブウェイが見える。ドライブウェイと併走しているのです。
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この道は「京都一周トレイル」で、また「東海自然歩道」でもあります。このまま進めば東京の高尾まで行けるのだ。
山道といっても比叡山の尾根筋なので明るい。ただし展望はほとんど期待できません。樹間を黙々と歩くだけです。紅葉をもう少し期待したのだが、山上なので最盛期は過ぎていた。落ち葉を踏みしめて歩きます。
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所々で丁石が見かけられます。「横川元三大師道 廿三丁目」と刻まれている。丁石は道程を記したものだが、「廿三丁」といわれてもピンとこない。「歴史と修行の道」は、まだ半ばにも達しません。
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「横川への道」で唯一道しるべとなる「玉体杉」だ。ちょうど中間地点なのです。左手に京都市内が一望でき、
「横川への道」で唯一展望の開ける場所となっている。玉体加持する気はないが、休憩用に椅子も置かれているので一服します。
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またトンネルが現れた。ここからは奥比叡ドライブウェイの右側を歩くことになる。
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見えてきました、横川の駐車場が。やっと横川に着きました。1時20分なので、西塔から80分で到着したことになりす。
横川(よかわ)参道
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広い駐車場の奥が横川境内への入口です。現在横川は紅葉祭り「比叡のもみじ」(2019年11月2日(土)~24日(日))の真っ最中で、テント小屋では全ての人に無料抽選クジをおこなっている。「オリジナルグッズ」「抹茶又はくず湯」が当たるようです。すぐ前のおばさんは当たったが、私は当たるはずもありません。紅葉に覆われた参道へ向います。
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嘉祥元年(848)第3世天台座主慈覚大師円仁(794-864)が、現在の横川中堂にあたる首楞厳院(しゅりょうごんいん)というお堂を創建したのが横川(よかわ)の始まり。延暦寺の中心からかなり離れた場所にあり、奥深い樹林に包まれ森厳な空気感が漂う所。ここで親鸞、法然、日蓮、道元などの名僧が修行の日々を過ごしたのです。
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駐車場の奥に紅葉に覆われた下り参道があります。この周辺が延暦寺の中で最も紅葉の美しい場所となっている。だから延暦寺の紅葉祭りはこの横川で開催されるのです。ここは今が最盛期のようで、眩しいばかりに燃え上がる紅葉のトンネルの中を下って行きます。
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ゆるやかな下り参道は300mほど続く。参道脇には紙芝居風の絵パネルが並べられ、親鸞、日蓮、道元の生涯が説明されている。1枚ずつ読んでいけば勉強になるのでしょうが、そんな時間もないので先を急ぎます。
龍が池と根本如法塔
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参道を下ると小さな池があり、その先に紅い横川中堂の一部が見えている。この池は「龍が池」と呼ばれ、元三大師と大蛇の物語があります。元三大師に改心させられた大蛇は、池の中央に祀られている弁財天女のお使いとして「龍神」となり、横川を訪れる人々の道中の安全を守っているという。
池の脇に丁石が置かれている。横川の中に入ったというのに「元三大師道 三丁目」とあります。元三大師堂までの距離でしょうか?
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龍が池の先に、横川中堂とは反対側に上ってゆく坂道がある。坂道の上に建つ多宝塔が「根本如法塔(こんぽんにょほうとう)」です。
慈覚大師円仁は自ら書写した如法写経を納めるためにここに塔を建てた。この跡地に、大正14年(1925)に建てられた多宝塔が現在のもの。慈覚大師の業績を慕い多くの写経が納められており、如法写経発祥の地とされる。
横川中堂(よかわちゅうどう)
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石垣の上に舞台造り(崖造り)で建つ横川中堂(よかわちゅうどう)。横川地域の本堂にあたり、「首楞厳院(しゅりゅうごんいん)」とも呼ばれる。嘉祥元年(848)慈覚大師円仁が創建された。これが横川の始まりです。信長の焼き討ちで焼けたが、秀頼と淀君が再建する。しかしそのお堂も昭和17年(1942)落雷で焼失してしまう。現在の建物は伝教大師入滅1150年遠忌をを記念して昭和46年(1971)に鉄筋コンクリート造りで再建されたもの。
遣唐使船をモデルとし造られたそうで、下から見上げると船のように見えないこともない・・・。
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お堂には焼失を免れた本尊の慈覚大師作と伝えられる聖観音菩薩像(国重要文化財)が祀られている。新西国三十三箇所観音霊場第118番札所の霊場です。
鮮やかな朱塗りのお堂は紅葉さえかすんでしまう。紅葉時期には、夜になると境内はライトアップされるそうです。
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お堂前の広場。東塔と違い深山の中らしい空気感が漂う。奥の道へ入ると恵心堂へ行ける。杉木立に囲まれた緩やかな坂を歩くと道の中程から、左右に石仏が等間隔に置かれている。第廿九番松尾寺(左の写真)、第廿五番清水寺(右の写真)、第廿七番書写山、第三十番竹生島・・・などの石柱が立つ。西国三十三ケ所の観音石仏で、全て巡拝すれば「西国三十三所観音霊場巡り」をしたことになるのでしょうか。石山寺にも同じようなものがありました。
恵心堂
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道は鐘楼に突き当たり、左右に分かれる。左へ進めば四季講堂(元三大師堂)へ、右へ行けば恵心堂です。
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右へ入っていくと紅葉の美しい小さな境内が見える。ここが恵心僧都源信(942~1012)ゆかりの恵心堂。
恵心堂は恵心僧都源信が学問修行に励み念仏三昧に過ごした住居跡です。またここで名著「往生要集」を著し、法然、親鸞などの浄土各宗の祖師に大きな影響を与えた。
現在の堂は坂本生源寺の別當大師堂を移築したもの。内部非公開です。
四季講堂(元三大師堂、がんざんだいしどう)
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鐘楼のある場所に戻り、今度は左の道へ入る。坂を下ると紅葉がひときわ冴える場所に出ます。左に四季講堂が、右手に比叡山行院と道元得度の地があります。
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四季講堂の入口。山門の脇に「おみくじ発祥之地」の石柱が立てられている。
元三大師が大きな鏡の前で禅定に入っていたところ、骨の鬼の姿が鏡に映り、その姿を版木のお札(角大師の影像)に刷り人々に配布したところ、厄難から遁れることができた。これが魔除けのお札として崇められるようになったという(詳しくは説明板を)。(東山の青蓮院にある宸殿にはおみくじが置かれ、「おみくじの元祖」とあったのだが・・・)
良源さんは「元三大師」「角大師」「豆(魔滅)大師(下の説明板を参照)」とも呼ばれ親しまれてきた。また現地の案内板には「おつけものの元祖」とも記されている。
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ここは平安中期の天台宗の僧で延暦寺中興の祖といわれる慈恵大師良源(第18代天台座主、912-985)の住居跡と伝えられる。康保4年(967)、村上天皇の勅命によって四季に法華経が論義されたことから「四季講堂」と呼ばれる。また正月三日に亡くなったため「元三大師(がんざんだいし)」とも呼ばれ、お堂を「元三大師堂」とも称する。本尊には慈恵大師良源の御影を祀っている。
現在のお堂は江戸初期の建築。
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お堂から撮った境内。正面が入口の山門。
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元三大師御廟
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15分で元三大師御廟らしき建物が現れました。周辺を見渡すが、これが元三大師御廟だという案内も標識も全くありません。石鳥居の上部中央に文字らしきものが刻まれた様子が見てとれるが、黒っぽく消されています。ただ唯一、鳥居脇の消防局の立て札に「元三大師御廟」の文字があるだけ。はたしてこれが元三大師御廟だという確信がもてません。
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中へ入ってみます。お堂の背後に墓域らしきものがある。柵で囲まれた中には、白っぽいエリンギのようなものが置かれて(生えて・・・?)いるだけ。ますます元三大師と関係ないのでは、と思うようになった。しかし境内図や手持ちの横川図にはこの場所に載っているのだが。
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ここは横川中堂の背後。正面の道を進めば四季講堂(元三大師堂)へ行ける。左の道は今出てきた道です。案内標識には「←元三大師御廟」とあるのだが・・・。
駐車場に戻り、3時発のシャトルバスで東塔へ。バスは30分間隔なのでかなり混んでいました。バス代は670円。
無動寺谷(むどうじだに)へ
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横川から東塔に戻る。まだ3時半なので、無動寺谷へ寄ってみることに。坂本ケーブル延暦寺駅の傍に石鳥居が立ち、「無動寺参道」の標識が建つ。後に、明王堂の近くで掃き掃除をされていた若い僧の方に「無動寺はどこですか?」と尋ねたら、「無動寺というお寺はありません」といわれました。
無動寺谷は東塔に属し、東塔5谷の一つで「南山」または「叡南(えなみ)」と呼ばれている(他に東谷、西谷、南谷、北谷)。明王堂を中心に幾つかの塔頭が点在しています。ただしかなり離れているので別格扱いで「天台別院」とも呼ばれた。
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鳥居の横は展望台となっており、琵琶湖と大津市街の眺めがすばらしい。
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急坂ではないのだが坂道がズーと続く。なかなか建物が見えてこない。下ったら、帰りは上らなければならない。それを考えたら引き返したくなる。もうすぐだろう、といいきかせながら下っていく。
ただ「参道」というだけあって、坂道は幅広くよく整備されている。横川への道とは大違いです。時々、色付いた枝葉の間から琵琶湖が見える。少しずつ大きく見えてくるので、坂本まで降りてしまうじゃないかと思ったくらい・・・。
弁財天堂・明王堂
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閼伽井を過ぎると鳥居が見えてきた。やっと無動寺谷に着いたらしい。参道入口から15分位かかったでしょうか。「大弁財天堂」の鳥居を潜り脇道に入る。この奥に弁天堂がある。
なお、地図をみればこの道は「東海自然歩道」となっており、夢見が丘へ通じているようです。
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誰もおらず、少々不気味感の漂う細道を行くと、紅いお堂が現れる。弁天堂です。無動寺谷を開いた天台宗の僧・相応が回峯修行の際に相応を外護した白蛇(弁財天)を祀っている。
二基の狛犬の間に、二匹の巻きつき蛇が・・・。蛇、大嫌いの私は急ぎ足で逃げていった。
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弁天堂から参道に戻り、この先で左に上れば無動寺谷の中心伽藍の明王堂だ。明王堂には、本尊の不動明王と、無動寺谷を開いた相応が祀られています。ただし不動明王は秘仏で、6月23日の明王講曼荼羅供法要の時だけ開帳されるそうです。
明王堂は貞観7年(865年)、天台宗の僧・相応(そうおう、831-918)によって、比叡山中腹のこの谷間に建てられた。そして自ら刻んだ等身の不動明王像を本尊として祀った。「無動」とは、不動、不動明王を意味するので、「無動寺明王堂」(むどうじみょうおうどう)とも称されるという。
比叡山回峰行(かいほうぎょう)は相応が始めたもので、現在でも千日回峯行はここ無動寺谷が拠点になっている。千日回峰行とは「7年間、1年に100日から200日、合計千日間、比叡山の山内を巡拝する回峰行。途中、堂入りという荒行を行い、これを満行した者は生身の不動明王、当行満阿闍梨と呼ばれる。千日間を満行した者は北嶺大行満大阿闍梨と呼ばれる。第二次世界大戦以降で満行した者は、2017年現在、14人」(Wikipediaより)。
千日回峰行で最も 過酷とされる堂入りはここ明王堂で行われる。断食・断水・不眠・不臥を9日間にわたって守り続けるのです。
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明王堂前庭からの眺め。すぐ下の法曼院の屋根越しに琵琶湖と大津の街をより近くに望むことができます。
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明王堂、法曼院、大乗院、玉照院などの堂宇が、急峻な谷間に上から下に並ぶ。そのため急階段が設けられている。勾配のきつい階段なので、高度恐怖症の人や高齢者は無理でしょう。
大乗院・玉照院
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恐怖の階段を下り少し進むと、「親鸞聖人御修行旧跡」の碑が建ち、その奥にお堂が現れる。「大乗院」の名札がかかっています。
後に慈円と改め日本最初の史論書「愚管抄」を著した天台宗の僧・慈鎮(じえん、1155-1225)が住まい修行した寺。慈円のもとで出家得度した親鸞(1173-1263)もここで修業したという。
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大乗院からさらに下ると玉照院だ。山門に特色があります。千日回峯を満行した大阿闍梨がお住まいとか。
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無動寺谷も、織田信長の比叡山焼討ち(1571年)の時、延暦寺同様に焼失する。諸堂はその後に再建されたもの。明智光秀は密かにこの坂を登って延暦寺攻略に大きな功績をのこした。そして信長から坂本、南近江の領地を与えられた。来年(令和2年)のNHK大河ドラマは明智光秀のようです。楽しみだナ
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無動寺谷からケーブル駅目指して登っていく。千日回峰行では、この坂を登り比叡山各地を周って無動寺谷へ帰ってくる。これを千日繰り返すそうだ。想像もできない精神力、体力ですネ。わたしは今回だけでも気力が萎えました。
しばらく登っていると休憩所がある。下るときは、なんでこんな所に休憩所があるんだろうかと疑問に思ったが、今やっと納得できました。本当に助かる休憩所です。
無動寺谷で出会ったのは掃除中の若いお坊さん二人だけでした。上の延暦寺は、紅葉シーズンで賑わっているが、こんな谷間まで訪れる人はいないようです。足跡が見られず、綺麗に掃き目のついた砂砂利の参道が印象的だった。
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比叡山ケーブル駅へ戻ったのが5時前。5時発の縁号に乗って下山しました。坂本ケーブル駅に着くとバスが待っている。JR湖西線の比叡山坂本駅経由で大阪へ。
詳しくはホームページを
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