山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

信貴山・長護孫子寺 3

2017年04月27日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月29日(火)国宝「信貴山縁起絵巻」で有名な信貴山・長護孫子寺を訪れる

 多宝塔・鐘楼堂  


本堂から山の方へ少し登ると紅い塔が現れる。多宝塔です。中には入れないが,平安中期の僧・恵心僧都(えしんそうず)の作とされる大日如来が祀られているそうです。元禄2年(1689)の建立,明治15年(1882)に修復された。
多宝塔左の道(空鉢護法堂への参道)を入っていくと行者堂に突き当たる。7~8世紀に活躍した修験道の開祖とされる役行者(役小角)が祀られています。信貴山も修験道の霊場として関係深いことから祀られたものと思われます。

色鮮やかな多宝塔の前に,対照的に黒さびた鐘楼堂が建っている。一丈四方の袴腰の上に鐘を吊るした堂がある。梵鐘には“信貴四郎”の鐘銘が刻まれ,「鐘名信貴四郎は天下に第四番の名鐘なり」と謳われていたそうです。貞享4年(1687)の再建。

これから奥之院へ向かいます。多宝塔を挟み左と右に道が分かれている。左の道は,行者堂を経て信貴山の山頂にある空鉢護法堂への参道です。右の道が奥之院への参道で,入り口に「奥之院毘沙門天王道」の石碑が建つ。

 奥之院  



奥之院は情報では,多宝塔から約2キロ,30~40分かかるという。参道というより,なだらかな山道といった風です。15分位で大谷池が現れ,何人か釣りをされている。池を過ぎると緩やかな下り道になる。車一台通れるほどの道幅。やがて広い車道が見えてきた。
地図を見れば「フラワーロード」とある。それほど車は走っていないが,この広い車道に遭遇すれば”奥之院”という神秘的なイメージが壊れてしまいます。
「奥之院」といえば,高野山,室生寺を想起します。いずれも神秘的で厳粛な世界に入っていく,又は登っていくという雰囲気に満ちていた。ここの奥之院はどうだろう。広い車道を横切り,民家のある下界に下っていくのです。お寺から下山する感じです。道脇に何ヶ所か置かれていた丁石が,唯一参道らしい趣を感じさせてくれました。

午後1時半、40分かかり奥之院に着きました。寂れたお寺といった風。
山門を潜ると左側に瓦葺の本堂がある。石鳥居や石灯篭が・・・ここは神社か?。この地はわが国で最初に毘沙門天王が出現した霊地され,本堂に御本尊として祀られている。ただしここの毘沙門天さんは「汗かき毘沙門天王」と呼ばれれています。「聖徳太子が守屋討伐の時、毘沙門天王が阪部大臣に化現して先鋒を振われ、御尊像が汗をかかれていたと伝えられております。よって当山は聖徳太子開基の信貴山奥之院、毘沙門天出現最初の地とされ、ご本尊は「汗かきの毘沙門天王」と呼ばれ、御霊験きわめてあらたかです。」と説明されている。

本堂から奥へ進むと空き地があり,その中に「やけごめ」の石碑が建つ。ここの地中から焼き米が湧出するそうだ。その焼き米は,聖徳太子の物部守屋討伐時の兵糧米だとおっしゃっている。毘沙門天王に帰依しこの焼米を頂けばどんな病気も治るそうです。

この奥之院と朝護孫子寺とはどういう関係なのだろう?。朝護孫子寺の境内図には載っているが,朝護孫子寺発行のパンフ「毘沙門天王の総本山 信貴山朝護孫子寺」(p40)には一言も載っていない。山門脇の説明版には「当院は信貴山塔頭なりしも今は奥之院と称す」と意味深な表現をしている。信貴山朝護孫子寺傘下の一寺院なのか,独立寺院なのか判然としない。建物の修理・再建のための寄付金を募集していることから独立しているようにみえるが・・・。

フラワーロードからの眺め。奈良盆地が一望できます。

 信貴山の山頂へ(信貴山城址)  



奥之院から多宝塔まで引き返し、今度は左の道に入り信貴山の山頂にある信貴山城址と空鉢護法堂を目指します。
約700mの山頂への参道は、かなりの勾配の九十九折りの道だが階段状によく整備されている。参道には多数の朱塗りの千本鳥居が続く。一願成就の願いを込めてか,成就かなっての千本鳥居か。それぞれに献納者の住所・氏名が書き込まれている。所々に丁石も置かれています。

午後3時、約20分ほどで山頂近くの広場に着く。「信貴山城」の白い幟がはためいている。
信貴山(しぎさん)は、雄岳と呼ばれる北峰(437m)と雌岳と呼ばれる南峰(400m)の二峰からなっている。城跡や空鉢護法堂があるのは雄岳。県境に位置し、西側が大阪府で東側が奈良県。金剛生駒国定公園に属しています。かの昔、聖徳太子が河内側(大阪)の物部守屋を攻めた時、この山で毘沙門天が現れ、その御加護で太子は勝利した。太子が信ずべし、貴ぶべしといったことから「信貴山」と名付けられたと伝わる。

この広場の山頂寄りに「信貴山城址」の碑が建っています。ここには戦国時代に山城「信貴山城」が建ち、大和地方をを睥睨していた。この碑の辺りに二の丸が、少し横の山頂に本丸が建っていたという。
標高437mの信貴山は大和と河内の間にある要衝の地。戦国時代の天文5年(1536)に,畠山氏の家臣・木沢長政により山城が築かれた。長政戦死の後,三好長慶の被官・松永久秀が入り修復・改修し,南北700m、東西550mに及ぶ本格的な城郭に仕上げた(永禄2年1559年)。永禄11年(1568年)筒井順慶と三好三人衆に攻められ窮地に陥るが,織田信長によって助けられる。織田信長に臣従したが,天正5年(1577)信長に謀反を起こし総攻撃を受け50日間籠城の末,落城し久秀は自殺する。この戦で長護孫子寺も焼失してしまいます。

 空鉢護法堂(くうはつごほうどう)  




信貴山城址碑の横の参道脇に、八体の石仏像が並んでいます。それぞれの仏像には「破軍星」「明星」などの名が付けれ、「星祭り本尊」と呼ばれている。さぞかし星空が美しく見えることでしょう。
星祭り本尊の前は、赤色の千本鳥居が並び、それを抜けると休憩所の様な建物の中を通って空鉢護法堂のある境内に着く。

「空鉢護法(くうはつごほう)」とは,「信貴山縁起絵巻」の「飛倉之巻(とびくらのまき)」からきている。信貴山中興の祖・命蓮上人が法力(飛鉢の法)で貪欲な山崎長者の倉を空鉢に乗せ信貴山まで飛ばしてしまうという逸話です。空鉢には毘沙門天王の侍従神にして八大龍神の最上首・難陀竜王(なんだりゅうおう)の力が備わっていた。
空鉢護法堂には,空鉢護法の神・難陀竜王が祀られている。難陀竜王は龍神即ち蛇の姿をしていおり,一願成就の神様だそうです。拝殿前にはとぐろを巻いた石造の蛇が置かれている。この蛇をなでると一つだけ願いを叶えてくれるそうです。

山頂だけあって空鉢護法堂前からの眺望も素晴らしい。大和平野が一望でき,南には二上山、葛城山の山々の連なりを遠望することができます。


山頂から西の方を見れば山の頂が見える。あれが高安山だろうか?。予定では,信貴山の山頂から尾根伝いに高安山へ登り,そこからロープウェイで大阪側へ降り帰ることにしていた。現在4時前,高安山までの距離も時間も定かでない。その上天候も曇り。高安山は断念した。仁王門近くの信貴大橋バス停まで引き返し、3時50分のバスに乗る。

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信貴山・長護孫子寺 2

2017年04月18日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月29日(火)国宝「信貴山縁起絵巻」で有名な信貴山・長護孫子寺を訪れる

 塔頭の成福院、玉蔵院  


本坊を過ぎると、小池に架かる小さな石橋があり、その先に屋上に塔をもった朱色のお堂が構えている。これが
朝護孫子寺の塔頭寺院「成福院(じょうふくいん)」です。
その由緒は「塔頭たる成福院の建立時期は不明なものの、後嵯峨天皇とのご縁から1200年代以降と思われ、1577年(天正5年)松永久秀の乱により焼失後、1790年(寛政2年)に再興され現在に至っています」(成福院公式サイトより)
朱色のお堂は、成福院の中心建物の「融通殿(ゆうずうでん)」で、後嵯峨天皇(1220~1272)が御念持仏とされていた「如意宝珠(如意融通宝生尊)」を下賜され祀られている。如意宝珠は、毘沙門天王が左手にもつ宝塔の内に納められているもの。開運・金運・勝運・良縁・子宝・息災延命等々どんな願いも叶えてくださる「融通さん」として信仰を集めています。

融通殿前に、編笠姿の人物と虎の像が置かれている。賽銭壷も。「寅大師」と書かれ「昔よりお金の事を「おあし」とか「寅の子」と言います。虎の足にさわって念じると・・・」と説明されています。賽銭無しでタップリ触っておきました。
成福院手前の小さな石橋は「宝寿橋」と呼ばれている。この周辺は、池、灯籠、植栽、紅葉などにより庭園風になっており、長護孫子寺では一番景観が豊かな場所です。
成福院融通殿前を左に行き建物の下を潜ると、信貴山の宿坊として親しまれている塔頭「玉蔵院(ぎょくぞういん)」がある。玉蔵院の本尊・毘沙門天王が祀られている浴油堂の前を通り階段を登っていくと、高台の上に赤色鮮やかな三重塔と巨大な白い地蔵菩薩像がひと際目につく。色鮮やかな三重塔様式の仏殿には阿悶如来が祀られ、地蔵菩薩像は高さ15mあり「日本一大地蔵尊」と称している。
それらの脇に建つ渋いお堂が玉蔵院融通堂。鎌倉時代に毘沙門天王様より授けられた如意宝珠の玉が祀られているそうです。「如意融通尊」と呼ばれ、「福徳円満・財宝就・如意円満の仏様で、熱心に信仰されますと、どんな願い事でも叶えていただけます」とある。アリガタヤ、アリガタヤ・・・。
玉蔵院融通堂へ向かう階段途中に億円札をくわえた寅の像が置かれています。
「この寅は聖徳太子様にお仕えした満願の寅です。全ての願い事を叶えて頂けるとの由来がございます。本堂に向かって一礼し、寅の足をさすり御真言を三辺お唱え下さい。有難い寅です。
御真言 オン ベイシラマンダヤ ソワカ」と説明されている。
笑ってしまいますネ。この寺で「聖徳太子 = お金」というのがだんだん理解できるようになってきた。
また融通堂の横には「金集弁財天」さまがお祀りされている祠がある。究極のアリガタヤ、”金が集まり融通も効く”弁財天さまだそうです。さすがにお参りする気にはならなかった。
玉蔵院融通堂前からの展望、本堂をはじめ境内が一望できます。

 本堂へ向かう  



成福院へ戻り、石畳の参道を本堂方向へ進む。途中に三宝堂や飛倉館があり、この辺りが広い朝護孫子寺境内の中心部になるでしょうか。イノシシも時々参上するようです。寅とイノシシ、相性が合うのだろうか。


石畳のよく整備された道を本堂の方へ進む。道の両側には朝護孫子寺のご本尊「毘沙門天王」の赤い幟で埋め尽くされている。

イノシシだけでなくスリさんもお参りするようです。金運・勝運祈願で訪れたついでにお仕事されるんでしょうか。おじいちゃん、おばあちゃんが狙われるのでしょう。

本堂が見えてきました。本堂階段の左側には虚空蔵堂、霊宝館、経蔵堂があります。
虚空蔵堂は、石鳥居を潜った先の水屋の脇を登った位置にあるお堂。徳川5代将軍綱吉の生母・桂昌院の寄進により元禄14年(1701)の建立され、虚空蔵菩薩が祀られている。
経蔵堂は現在閉められ、中へ入れない。回転さすことのできる「一切経」を納めた経厨子があるが、熱心な信者さんが功徳を得ようと一生懸命に回されたので壊れてしまったそうです。
一番奥が国宝「信貴山縁起絵巻」を展示した霊宝館。ここだけは拝観料:大人 300円(小人 200円)が必要。ただし見れるのは複製で、実物は奈良国立博物館に委託されている。毎年秋には実物の一部が里帰りし、公開されるそうです。「源氏物語絵巻」「鳥獣人物戯画」と並ぶ日本三大絵巻の一つ「信貴山縁起絵巻」は全三巻からなり平安時代後期(12世紀後半)の作と考えられているが、作者は不詳。信貴山で毘沙門天王を崇めながら修行し、不思議な法力で寺を中興した命蓮(みょうれん)上人の事績を物語風に描いた絵巻。
霊宝館にはその他、国指定重要文化財の楠木正成の兜、鎧袖、後醍醐天皇の皇子・護良親王の喉輪などの寺宝が展示されている。こちらはホンマ物です。

 本堂  


紅葉に彩られた本堂への登り階段。
本堂は,天正5年(1577)に松永久秀の信貴山城落城の際、焼失する。その後「本堂は文禄年中(1592)豊臣秀吉の再建、または慶長7年(1602)秀頼の再建とする説があり、定かではありません。後に修復を加え、延享3年(1746)に完成しました。然るに、昭和26年(1951)不慮の火災で焼失し、同33年(1958)に再建、現在に至っております。」(公式サイトより)

階段を登り正面に周ると、懸け造り(舞台造り)の上に張り出された礼拝所となっている。朱の欄干で囲まれ広々としている。ここからの展望が素晴らしい。
毘沙門天王像(中央)と吉祥天像(右)、善膩師童子像(左) (長護孫子寺発行「毘沙門天王の総本山・信貴山長護孫子寺」より)
毘沙門天は、仏法を守護する四天王および十二天の一尊で、北方を守護する武神。また仏様の言葉も衆生の言葉も等しく聞き届けてくれることから「多聞天」とも呼ばれている。
毘沙門天王がわが国で最初に降り立った地がここ信貴山で,聖徳太子に勝利をもたらした。朝護孫子寺の本尊とされ本堂に祀られている。毘沙門天王を中心に,向かって右に妃とされる吉祥天像,左に子とされる善膩師童子像(ぜんにしどうじ)の三尊で配されている。毘沙門天王像は頭に冑を被り,鎧で身を固めた軍神の姿をしている。そして右手に宝塔をささげ、左の手には如意宝珠の宝棒を持ち、足下に悪鬼邪鬼を踏み付けている。
ただし実際に目にすることができるのはお前立ちで,その奥に中秘仏そして奥秘仏が納められ,特別な行事や時期にはしかご開帳されない。奥秘仏は,聖徳太子が自ら彫刻されたという毘沙門天像で,12年に一度、寅年にご開帳されるそうです。
説明板には「毘沙門天王は七福神のなかでも、商売繁盛、金運如意、開運招福、心願成就の徳を最も厚く授けてくださる福の神です。信貴山毘沙門天王の、ご尊体に鎧兜を召されておられるのは、世の中のあらゆる、邪魔者を退散してやるというお姿で、見るからに恐ろしそうな尊顔は、心を強く持って、どんな苦しい困難に出会っても、がまん強い精神で何事も行なえということを教えておられるのです。また、右手に如意宝珠の棒を持っておられるのは、心ある者には、金銭財宝を意のままに授けて、商売繁盛させてやるぞとの思し召し、左手の宝塔は、この中に充満する福を、信ずる者の願いに任せて与えてやるとの福徳の御印です」と解説されています。
(?? 写真は左手に棒を持つが、説明板では右手に・・・??)

毘沙門天は「寅年の寅日の寅の刻」に現れるということから「寅」と縁が深い。境内どこへ行っても張子の寅を目にする。「百足(ムカデ)」も毘沙門天のお使いとされ崇められている。毘沙門天は金運・財運の神でもあるので,おあし(お金)が沢山あるということから百足(むかで)と結び付けられたようです。
扁額には、百足(ムカデ)の装飾があしらわれ,本堂の欄間のにも百足の模様が刻まれています。

本堂の下をぐるりとまわる「戒壇(かいだん)めぐり」でも知られている。「戒壇めぐり」について公式サイトに次のように説明されています。
「約800年の昔、後に紀州の国根来寺を創建されました覚鑁上人(新義真言宗の開祖)が、当山に籠って修行されました折、毘沙門天王のお告げにより、宝の珠「如意宝珠」を納められたと云われております。
この「戒壇巡り」は、心願成就を祈る修行の道場で、本堂真下の暗闇の回廊です。長さ九間四面三十六間、暗い部分で約60メートル、約5分間でお詣りができます。階段を下りたら、右手を右の壁に当てながら廻り、二番目の角を曲がってください。すると見えてくる灯明の場所には、皆様方の十二支生まれ年の守本尊、即ち千手観音や阿弥陀如来など八体の仏像がお祀りしてあります。ここで、ご自分の守本尊に身体健全、家内安全をお祈りください。次にまた、右手を右の壁に当てながら進んでください。次の角を曲って少し行きますと、又木の格子が手に当たります。その胸の高さに大きな鉄の錠前が掛っております。この錠前に触れますと如意宝珠に触れたと同じ功徳が与えられると言い伝えられ一願成就のご利益が授かります」

本堂右手に「戒壇巡り」の入り口があります。100円支払うと係りの人が親切に巡り方の説明をして下さいます。入り口をカメラで撮ったら,あわてて静止されたが・・・(撮った後でした)。階段を下り本堂地下回廊へ。角を曲がると真っ暗闇,一寸先も見えない。壁の手すりをさすりながらソロリソロリと進んでいく。暗闇は体験できるが,真っ暗な空間を進むというのはそう体験できるものではない。私以外に誰もいていない。不気味さと神秘感とが混ざり不思議な体験が得られる。手に鍵が当たる。格子の奥を見ると,ぼんやりした灯明の中に何か置かれている。こんな所から早く解放されたいという気持ちから,よく見ないで出口へ急ぐ。とりあえず錠前に触れたので,如意宝珠に触れたことになり心願成就のご利益が預かれる。

京都・鞍馬寺の本堂地下にも,似たような真っ暗な地下通路があり,中央辺りの薄明かりの中に壷が置かれていた。鞍馬寺も毘沙門天王をご本尊として祀る寺です。

特に本堂からの眺めは素晴らしく、斑鳩方面の山や町並を一望することができます

本堂横の階段上より境内を眺める。紅葉に染まった境内も綺麗だった。

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信貴山・長護孫子寺 1

2017年04月09日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月29日(火)
久しぶりに山登りをと、近くにある低山の信貴山(しぎさん)を選びました。調べてみると、信貴山と長護孫子寺(ちょうごそんしじ)とは一体になっているようだ。そこで長護孫子寺のお寺参りに変更。長護孫子寺は「毘沙門天」さんで知られ、また国宝「信貴山縁起絵巻」で有名なお寺で、一度訪れてみたいと思っていた。
長護孫子寺は桜の綺麗なことで知られていますが、紅葉もまずまずという。紅葉シーズンも終りに近づいているが、まだ楽しめるだろうと思い、天気も良いので出かけました。

 近鉄・信貴山下駅から開運橋まで  


近鉄・生駒駅で近鉄生駒線に乗り換え、信貴山下駅で下車。8時半です。朝護孫子寺まで歩くか、バスを利用するか思案する。駅前の広い車道を山の方へ登っていけばお寺へ行ける。地図から想定すれば40分くらいか。駅前の路線バスの時刻表を見れば、9時30分発まで1時間待たなければならない。歩こうかと思ったが、奥之院や信貴山まで登るには体力を温存しておかなければならない。結局、バスを使うことに。
10分位で信貴山バス停に着き、そこで下車する。そこから朝護孫子寺の入口・仁王門までかなり歩かされました。仁王門近くの信貴大橋バス停まで乗るべきでした。

朝護孫子寺の入口にあたる仁王門が見えてきました。門手前の右側斜面には、赤い前掛けをつけた沢山の小さな地蔵さんが整列して出迎えてくれます。「千体地蔵」と呼ばれている。室町時代中期から江戸時代にかけてのお地蔵さんとか。
仁王門について公式サイトによれば「信貴山の山門である仁王門です。宝暦10年(1760)に大阪宝栄講が再建、明治14年(1881)に大修理、大正11年(1922)に成福院鈴木恵照師の代にこの場所に移転されました」そうです。

仁王門から真っ直ぐ進めば、寺の中心部へ入れるのだが、左下の大門池の方へ降りてみる。大門池は大門ダムによってできたダム湖です。信貴大橋という紅い橋が架かり、橋を渡るとホテルやお食事、お土産などのある門前町へ行ける。
橋のたもとに、羽ばたいているように見える巨大なモニュメントが置かれている。「西方守護神白虎」とあります。信貴山のある場所は奈良県の西方に当たります。そこで平城遷都1300年祭の際に、キトラ古墳の壁画でも有名になった中国の伝説上の神獣である西方守護神・白虎を設置したようです。また虎(寅)は、毘沙門天王の由来から朝護孫子寺のシンボルでもある。

「信貴山観光iセンター」は、観光案内所兼お土産品の販売所として平成21年(2009)12月に開設された。地域の特産品が並べられ、喫茶・軽食もできる。ここでも張子の寅が目立ちます。
信貴山観光iセンターの横に見える紅い橋が「開運橋(かいうんきょう)」。大門池に架かり、門前町と長護孫子寺とを結ぶ参道でもある。鉄骨を組み合わせたトレッスル橋脚を用いた上路カンチレバー橋で、非常にめずらしい造りのため、平成19年(2007)に土木史上の文化財的価値が認められ、国の登録有形文化財に登録された。

 境内図と歴史  



信貴山観光iセンター前に掲示されている境内図です。信貴山・朝護孫子寺の創起について公式サイトに以下のように記されている。

「今から1400余年前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されています。
醍醐天皇の御病気のため、勅命により命蓮上人(みょうれんしょうにん)が毘沙門天王に病気平癒の祈願をいたしました。加持感応空なしからず天皇の御病気は、たちまちにして癒えました。よって天皇、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜ることとなりました。また、朝護孫子寺は、「信貴山寺」とも呼ばれ、多くの方に親しまれています。」

聖徳太子の話は用明2年(587)、醍醐天皇の「朝廷を子々孫々まで守護する」という勅号により寺名「朝護孫子寺」と名付けられたは延喜2年(902)とされる。
平安時代以降は武人の信仰を集めた。戦国時代には、松永久秀が山上に信貴山城を築いたが、織田信長の攻撃を受け落城、朝護孫子寺も兵火で全焼した。その後、豊臣秀頼の手によって再興される。江戸時代に入ると七福神の一人として、「福の神」として多くの民衆から信仰を集めた。

現在の正式名称は「信貴山歓喜院朝護孫子寺(しぎさん かんぎいん ちょうごそんしじ)」。1951年に高野山真言宗から独立し、信貴山真言宗の総本山となっている。大和七福神(信貴山朝護孫子寺、久米寺、子嶋寺、おふさ観音、談山神社、當麻寺中之坊、安倍文殊院)の一つに数えられ、「信貴山の毘沙門さん」、「信貴山寺」などと呼ばれ、”商売繁盛”、”必勝祈願”、”金運招福”、”合格祈願”など民間信仰の場として広く親しまれています。

 絵馬堂・張子の大寅  


信貴山観光iセンターから奥へ進むと絵馬堂がある。安政年間(1854~)に大阪堂島の木綿屋梅蔵によって寄進された建物で、軒下壁面や内部の天井には多くの絵馬が飾られています。現在は、椅子などが置かれ休憩所となったいるようです。奥にはトイレもあります。

絵馬堂前を進み石鳥居を潜ると、本格的な長護孫子寺の境内に入っていく。鳥居奥に本堂の建物と、その手前に黄色い寅の姿が見える。石鳥居、本堂、寅の張りぼて・・・なにか違和感を感じます。

本堂を見上げる絶好の位置に張子の大寅が設置されている。聖徳太子の前に毘沙門天王が出現したのが寅の年、寅の日、寅の刻であったとされ、寅は毘沙門天王の御使いとして朝護孫子寺のシンボルになっている。高さ3m,長さ6mほどあり、世界一大きな張子の寅だそうです。後で知ったのだが、首が電導し掛けで上下左右に動くそうだ。
阪神タイガースの選手が、毎年必勝祈願に訪れる寺としても有名。昔年のユニホームとソックリで、オールドファンには懐かしいが、やっぱり違和感が。

 劔鎧護法堂・開山堂


 絵馬堂の並びに石鳥居と赤鳥居が建っている。鳥居をくぐり,杉林の立ち並ぶ薄暗い坂道を谷間へ降りていく。まもなく紅い旗が揺らめくなかに劔鎧護法堂(けんがいごほうどう)が現れる。

剱鎧童子(けんがいどうじ,護法童子)は毘沙門天さんのお供で,人間の災厄を守護する役目を持つ。国宝「信貴山縁起」の「延喜加持の巻」で、命蓮上人が法力で剣の護法童子を宮中に遣わして醍醐天皇の病を治したという逸話からきている。重い病にかかられた醍醐天皇の枕元に出現すると,天皇の病も治ったということから病気平癒、無病息災の守り本尊として人々の信仰を集め,祀られるようになった。
開山堂へは大寅手前左側にある階段を登って行く。開山堂は本堂と同じ高さになるように小高い丘の上に建てられているため,かなり急な階段を登ることになる。105段あるそうです。

開山堂は享保17年(1722)の建立。お堂へ入ると中央に四角い大柱のようなものがあり、一周できる。正面に信貴山開祖・聖徳太子が、右側面に歓算上人、背面に宗祖・弘法大師、左側面に中興開山・命蓮上人 が祀られています。、さらに堂内には四国八十八ヶ所のご本尊さまもお祀りされている。
開山堂の裏に,一段高く土盛りをされた上に命蓮上人の墓と伝えられる命蓮塚(みょうれんつか)が置かれている。命蓮上人は平安時代中頃,長護孫子寺を中興した高僧です。

開山堂から本堂を眺める

 塔頭・千手院、聖徳太子像とかやの木稲荷  


開山堂の丘を降り,大寅の横を奥へ進むと赤門です。赤門を通ると二手に分かれる。右へ下っていけば塔頭の千手院へ,左へ行けば聖徳太子像,かやの木稲荷,本坊の方へ行ける。

右手に見える朝護孫子寺の塔頭寺院「千手院(せんじゅいん)」は「毘沙門護摩」で知られる。千手院本堂にあたる護摩堂では,真言宗の秘法である護摩祈祷が命蓮上人の開壇以来1100年間毎日欠かさず行われている。「毘沙門護摩」は毘沙門天王を本尊とした護摩であり、信貴山だけに伝わる秘法だそうです。
千手院の左側の小阪を上がっていくと,総本山長谷寺の十一面観世音菩薩の分身を祀った観音堂と銭亀堂がある。
銭亀堂には,金運招福をもたらす銭亀善神が祀られている。ホームページに「授与所で”金運招福銭亀御守”と”壱億円札”が入った銭亀御守を授かり、このセットと財布を石臼にのせて「南無銭亀善神」と念じながら、石臼を右に廻します。 すると金運のまわりが良くなって、大変なご利益があります。毎年一度、4月の第2日曜日に銭亀善神の大祭が催され、金運招福のご利益にあずかれます。」と書かれている。
非常に心動かされる御利益だが,銭亀堂の前にある「三寅の胎内くぐり」のアトラクション?の方に足が向いてしまった。

大寅が入って来いと大口を開けている。三寅とは,毘沙門天出現の寅の年・寅の日・寅の刻を表し,また毘沙門三尊(毘沙門天・吉祥天女・禅貳師)にならい父寅・母寅・子寅を意味しているという。この寅の胎内を潜ると「三寅の福」が得られるそうです。特に入胎料がかかる訳でもないので,何度でも出入りできます。人気無いのか誰も通っていない。入ってみたが,薄暗い10mほどのトンネルの両壁に名言が書き込まれた紙が何枚も貼り付けられているだけでした。
千手院の入り口に戻り,左手の道に入る。塀のように石灯籠がぴったり並ぶ中を進むと聖徳太子像とかやの木稲荷の紅い鳥居が見えてくる。
馬に乗り笛を吹く聖徳太子像が建つ。長崎市平和記念公園の「平和祈念像」で知られる彫刻家・北村西望の造形したもの。この山で毘沙門天王を感得し排仏派の物部氏に勝利し仏教興隆のもとを築いた聖徳太子は、信貴山のシンボルです。
聖徳太子像と並んで大きな榧(かや)の木がそびえる。赤い鳥居で祀られ「かやの木稲荷」と呼ばれている。
「樹齢1500年の榧の木です。蘇我一族と物部一族が政治の実権を握るため争っていた大和朝廷の時代に、一粒の榧の実が萌芽して以来、有為転変する世相を鳥瞰してきた御神木です。この御神木を敬い稲荷社を建立しました」(公式サイト)そうです。 


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