2016年9月24日(土)「ならまち」に散在する観光名所を巡り、高畑を経て「萩の寺」白毫寺まで(その1)
行基広場

奈良市の白毫寺は「萩のお寺」として有名で、ちょうど萩の花の最盛期。空模様は怪しかったが、この期を逃しては来年になってしまうと思い、出かけることにした。一日ウォーキングも兼ねるので、「ならまち」と高畑を散策しながら白毫寺へ向かいます。
地下の近鉄・奈良駅から地上に出ると、小さな広場となっており、丸い噴水池の中に行基菩薩像が立っている。
行基(ぎょうき、668~749年)は奈良だけでなく全国的に功績を残された僧侶です。奈良の玄関口の一つ近鉄・奈良駅前に肖像が建てられているのは、東大寺大仏さんとの関連でしょうか。大仏さんのほうを向いておられるという。いつ来ても仏花が供えられています。
今では待ち合わせの場所となり「行基広場」と呼ばれている。托鉢僧がいたり、大道芸、音楽演奏などのイベントが行われ楽しい広場になっている。
漢國神社(かんごうじんじゃ、林神社)

近鉄・奈良駅から、大宮通り(国道369号線)を西へ100mほど行くと南へ流れる通りとの交差点となる。この南への道は「やすらぎの道」と名付けられているが、ちっとも「やすらぎ」を覚えない。「やすらぎの道」の右側を100mほど南下すると、道脇に朱塗りの鳥居が現れ、数十m先に境内が見える。鳥居の傍には、右に「縣社 漢國神社」、左に「饅頭の祖神 林神社」との石標が建てられている。
創建について
公式サイトに「漢國(かんごう)神社は、推古天皇の元年(593)、勅命により大神君白堤(おおみわのきみしらつつみ)が大物主命(おおものぬしのみこと)を、その後、養老元年(717)には藤原不比等公が大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)を合祀。古くは春日率川坂岡社(かすがいさがわさかおかしゃ)と称す。本殿は三間社流造・桧皮葺で桃山時代の建造物で奈良県指定文化財。」とある。平安末期以降は衰退して、春日大社の末社として興福寺の支配を受けた。
本殿の御祭神は、園神(そのかみ)として大物主命、韓神(からかみ)として大己貴命・少彦名命の三座。”韓神”ということは大陸から招かれた神、ということなのでしょうか?。社名の「漢國神社」は、韓神の“韓”が“漢”に、園神の“園”が“國”に転じて付けられた名前ようです。
大物主命と大己貴命は同じ神様だと、どこかで読んだことがあるのだが・・・?

漢國神社の境内には“饅頭の社”と呼ばれる林神社(りんじんじゃ)がある。むしろこちらの方が有名かも。林神社は昭和24年(1749)に当時の漢国神社の宮司が、菓子業者の協力を得て建てたもの。
公式サイトには「「林神社」(漢國神社内)御祭神 林浄因命(りんじょういんのみこと)
林神社は我が国で唯一の饅頭(まんじゅう)の社。林浄因命は中国淅江省の人で、詩人・林和靖(りんなせい)の末裔。貞和5(1349)年に来朝し漢國神社の社頭に住まれ、わが国最初の饅頭(まんじゅう)をお作りになり好評を博しました。その後、足利将軍家を経てついには宮中に献上するに至りました。現在、4月19日には菓祖神(かそじん)・林浄因命(りんじょういんのみこと)の偉業を讃えるとともに、菓業界の繁栄を祈願する「饅頭まつり」が執り行なわれ、全国からたくさんの饅頭が献上される。春の「饅頭まつり」に対して、秋には「節用集まつり」が執り行われる。林浄因から七代目の林宗二(りんそうじ)は初期の字引きである「饅頭屋本節用集」を刊行し、印刷・出版の祖神としてその信仰を集めている。」とあります。
中国の饅頭(肉まん)は肉や背脂が入っている。それでは不殺生戒を戒律としている仏様へのお供え物に使えない。そこで林浄因は、小豆を煮詰めて味付けしたあんを包んで蒸し、日本で最初にあんこの入った「奈良饅頭」を作った。これが評判になり御村上天皇にまで献上するまでになる。現在なお、林家のご子孫のお菓子屋さんが宮内庁ご用達となっておられるそうです。
林浄因の命日の4月19日には、全国から菓子業者が集まり「饅頭まつり」が行われる。雛壇に全国からの銘菓が並べられ、一般参拝者にも饅頭が配られる。丁度桜の季節なので、花と団子の両方を味わえれるそうです。両脇に捧げられた饅頭がひときわ異彩を放つ。
開化天皇陵((かいかてんのう)

漢國神社をでて、やすらぎの道を200mほど南下すると三条通り(春日大社への参拝道)と交差する。その角に「奈良市観光センター」がある。その角を西へ少し歩くと開化天皇陵への入口が見えます。参道はビルに挟まれ窮屈そう。100mほどの参道を進むと正面拝所です。宮内庁の正式名は「春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)」で、陵形は前方後円。第9代開化天皇の陵墓に治定されている。
第9代開化天皇については、「日本書紀」「古事記」とも紀元前208年に生まれ、父・孝元天皇の崩御を受け即位し宮を春日率川宮に遷し、115歳で崩御(「古事記」では63歳)ということぐらいしか書かれておらず、事績に関する記載がない。そこから現在では「実在しない天皇」とするのが一般的です(いわゆる「欠史八代」)。

「実在しない」はずなのだが、幕末の尊皇イズムの高まりから陵墓としての体裁が整えられていった。もともと古墳ではあったが、東隣の念仏寺によって墳丘は削ら墓地に利用されていた。そこに幕末の全国的な天皇陵の再構築(文久の大修陵、1863)が起こり、墓地を移転させ天皇陵に相応しい前方後円墳の形に整えら現在にいたっている。
古墳の考古学名は「念仏寺山古墳(ねんぶつじやまこふん)、弘法山古墳(高坊山古墳)」と呼ばれる。
現在の墳丘の規模は、後円部径48メートル、高さ10メートルで、前方部の最大幅は54メートル、高さ6メートルで、墳丘全長は105メートル。墳丘の周囲には幅8メートルの楯形をした周濠がある。出土した円筒埴輪片等から、5世紀前半(古墳時代中期)の築造と推定されている。宮内庁管轄の聖地のため、これ以上の科学的なメスは入れられないでいる。
それにしても正面拝所のさらに前方に、柵と門が設けられているのは珍しい。正面拝所に近づけないようにしているのには、何か訳でもあるのでしょうか?。
率川神社(いさがわじんじゃ)


やすらぎの道に戻り、南へ100mほど歩くと西側に率川神社の鳥居が現れる。
大神神社の境外摂社で、正式名称を「率川坐大神御子(いさがわにいますおおみわのみこ)神社」といい、また子守明神とも呼ばれる
社伝によれば、漢國神社と同じ推古天皇元年(593)、大三輪君白堤(おおみわのきみしらつつみ)が勅令によって創祀した奈良市最古の神社という。
その後は「治承4年(1180年)12月、平重衡の乱によって社殿が消失。中世以降は春日若宮神官により管理され、興福寺とのつながりが大きかった。近世には春日大社の大宮外院11社の中にあったが、明治10年(1877年)3月、内務省達により大神神社摂社率川坐大神御子神社と定められた」(Wikipediaより)そうです。
率川神社の所属をめぐり、春日大社と大神神社の間で争が生じたようだが、最終的に大神神社に属するようになり、同時に長らく途絶えていた三枝祭も復活されたという。
本殿は三棟並んでいる。御祭神は中殿に祀られている媛踏鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと、御子神)。初代神武天皇の皇后で、皇后を主祭神とした神社は珍しい。御子神を挟み、左殿に父神の狭井大神(さいのおおかみ)、右殿に母神の玉櫛姫命(たまくしひめのみこと)が祀られている。子を両親が両脇よりお守りするように鎮座されることから、古くより「子守明神」とたたえられ、安産、育児、生育安全、家庭円満の神様として篤い信仰を集めているという。現在この地の町名も「本子守町」となっている。
神社の説明では、狭井大神は「大神神社の大物主大神、また出雲の大国主神と御同神であります」。そこから大神神社摂社とされたのでしょう。
こんな神聖な場所にもモンスターは出現するんでしょうか?

率川神社の南側に伝香寺あります。伝香寺が有名なのは、花びらが一枚づつ散ってゆくところから散り椿と呼ばれる椿です。東大寺開山堂の「糊こぼし」、白毫寺の「五色椿」と並び「奈良三名椿」に数えられる。
閉められた門から中を覗くと、正面に佇んでいる建物は本堂ならぬ幼稚園でした。
伝香寺については、経営する
「いさがわ幼稚園」のサイトに「伝香寺は、戦国時代の大名 筒井順慶(じゅんけい、1549~1584年)の香華院(菩提所)として建立されました。伝香寺開創の願主となった芳秀尼が、堂前に供えた椿が存続(三代目)しています。この椿は色まだ盛んなとき、桜の花びらの如く散る椿で、その潔さが若くして没した順慶法印になぞらえ「武士(もののふ)椿」の名を得たといわれています。江戸時代末期に、唐招提寺長老と伝香寺住職を兼ねた宝静(ほうじょう)長老は椿の愛好家で、奈良三名椿(伝香寺散り椿、東大寺糊こぼし椿、百豪寺五色椿)を好んだと云われています」とあります。
元興寺(がんごうじ)


「奈良町(ならまち)」の中心部に位置する元興寺の入口は東側です。入り組んだ「ならまち」の町家の中を歩きながら入口を探すのは大変です。しかし猿沢池の東側の広い道を真っ直ぐ南へ進むとわかり易い。
入口には世界遺産登録の碑が建ち、正面の東門の脇に拝観受付所があります。拝観料500円払い、東門から境内に入る。この時、詳しい「元興寺略史」と彩色の「元興寺極楽坊縁起絵巻」のパンフレットを頂ける。
なお東門は、東大寺西南院にあった門を室町時代の応永18年(1411)に移築し、極楽坊正門としたもの。鎌倉時代の四脚門で重要文化財に指定されています。
元興寺は、わが国最初の本格的仏教寺院として蘇我馬子が飛鳥に建立した法興寺(現在の飛鳥寺)が前身です。和銅3年(710年)の平城京遷都に伴って、飛鳥にあった薬師寺、厩坂寺(のちの興福寺)、大官大寺(のちの大安寺)などは新都へ移転した。法興寺も養老2年(718年)、新都へ移転し「元興寺」と称した。しかし飛鳥の法興寺も中金堂や本尊(止利仏師が造った飛鳥大仏)などを残し、「本(もと)元興寺」と呼ばれるようになった。飛鳥の「本元興寺」は、平安時代に焼失するが、「飛鳥寺(あすかでら)」として再建され今日に至っている。
平城京に移転した元興寺やその東南一帯は「平城(なら)の飛鳥」と呼ばれるようになった。近くにあった川も「飛鳥川」と呼ばれ、今日でも「飛鳥小学校」の名が残っています。
奈良時代の元興寺は近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院で、今日「奈良町(ならまち)」と通称される地区の大部分が元は元興寺の境内であったという。
(パンフレットより)「奈良時代の元興寺伽藍は、南から北に向かって南大門、中門、金堂(本尊は弥勒仏)、講堂、鐘堂、食堂(じきどう)が一直線に並んでいた。中門左右から伸びた回廊が金堂を囲み、講堂の左右に達していた。回廊の外側、東には五重塔を中心とする東塔院、西には小塔院があった。これらの建物はすべて焼失して現存していない。講堂の背後に、長屋のように細長い僧房(僧の居住する建物)がいくつか並んでいる。このうち東側手前の東室南階大房(赤色の部分)という僧房が鎌倉時代に改造され、現存する本堂(極楽堂)と禅室です。」
中世以降は次第に衰退し、伽藍は荒廃していった。藤原氏を後ろ盾に持つ興福寺の隆盛にともない、興福寺の勢力下に収められていった。
この元興寺には、奈良時代に「東室南階大房」という僧坊に居住していた学僧・智光法師が画工に描かせた阿弥陀如来浄土変相図(智光曼荼羅)が残されていた。平安末期の災害や騒乱からくる末法思想の流行により、阿弥陀信仰や極楽浄土への願望が高まってくる。こうした風潮のなかで浄土曼荼羅が信仰を集め、智光曼陀羅を祀る堂は「極楽坊」と呼ばれ、奈良に於ける庶民の浄土信仰の中心となっていった。
室町時代の宝徳3年(1451年)、土一揆のあおりで元興寺は炎上し、五重塔などはかろうじて残ったが、金堂など主要堂宇や智光曼荼羅の原本は焼けてしまった。この頃を境に、寺は智光曼荼羅を祀る「極楽院」、五重塔を中心とする「元興寺観音堂」、それに「小塔院」の三つの寺院に分裂。極楽院は奈良西大寺の末寺となって真言律宗寺院となり、智光曼荼羅、弘法大師などの民間信仰の寺院として栄えた。これが現在の通称「元興寺極楽坊」です。
明治に入ると廃仏毀釈の大嵐に遭う。
公式サイトには次のような年表が載っている。
明治元 1868 廃仏毀釈の嵐を受ける
明治三 1870 寺領(朱印地)が没収される
明治五 1872 極楽院に学校ができる(極楽院学校→研精舎→鵲小学校)
こうして明治以降、「お化け寺」と呼ばれるくらい荒れ果て、「無住で、西大寺住職兼務預寺となり、堂舎は小学校(市立飛鳥小学校前身研精舎)や私立女学校(浄土真宗東本願寺経営の裁縫学校)などに使用されている」(公式サイトより)。元興寺は寂れ荒廃し、域内に民家が建ち並び宅地化が進み、現在の「ならまち」が形成されていった。
境内の整備や建物の修理など行われていったのは戦後になってから。昭和30年(1955)に「元興寺極楽坊」と改称、さらに昭和52年(1977)に「元興寺」と改称されている。
境内地は昭和40年に国史跡に指定され、平成10年(1998)12月、ユネスコの世界文化遺産「古都奈良の文化財」のひとつとして登録された。現在なお西大寺の末寺で、宗派は真言律宗に属し、本尊は智光曼荼羅。


極楽坊本堂は、かっての僧房(東室南階大房)を鎌倉時代の寛元2年(1244)に東向きに改造したもの。
「極楽坊本堂または極楽堂とも。寄棟造、瓦葺で、東を正面として建つ(東を正面とするのは阿弥陀堂建築の特色)。この建物は寄棟造の妻側(屋根の形が台形でなく三角形に見える側)を正面とする点、正面柱間を偶数の6間とし、中央に柱が来ている点が珍しい(仏教の堂塔は正面柱間を3間、5間などの奇数とし、正面中央に柱が来ないようにするのが普通)」(wikipediaより)
極楽坊本堂の内部は、中央に3間四方の板敷き内陣があり、特別公開の「軸装智光曼荼羅」が祀られていた。
智光曼荼羅とは奈良時代の僧・智光が夢で見た極楽浄土の様子を描かせた阿弥陀浄土図で、楼閣と池の間に阿弥陀如来と観音、勢至菩薩・十八聖衆・舞楽菩薩・比丘尼を描いた変相図。当麻曼荼羅、清海曼荼羅と共に浄土三曼荼羅と呼ばれている。
奈良時代の元の智光曼荼羅は、室町時代の宝徳3年(1451)の土一揆により焼失してしまったが、転写本とされる「板絵本」「厨子入本」「軸装本」の三図が同寺に残されていた。
たまたま私が訪れた時は秋の彼岸に合わせた特別公開日(9月17日~25日)で、3点の智光曼荼羅が初めて同時公開されていた。この極楽坊本堂の内陣には「軸装智光曼荼羅」(県指定文化財)が掲げられ拝観できる。これは縦約2メートル、横約1・5メートルの絹本着色図で、室町時代の成立とされ、極楽往生を願う仏事「往生講」の際、お堂の四方に掛けて浄土を演出したという。この日は、沢山の人が正座拝観し、お寺の方の説明に耳を傾けられていました。なお「板絵本」「厨子入本」は、隣の法輪館(収蔵庫)で特別公開されていました。

極楽坊本堂と法輪館の間から奥へかけて沢山の小さな石仏が並べられている。説明版によればこの石仏群を「浮図田(ふとでん)」と呼ぶそうです。寺域や周辺地域から集められた2500基ばかりの石塔、石佛類(総称して「浮図」)を田圃の稲のように並べたことからくるようです。中世から江戸時代にかてのものが多いという。その正面には日本スリランカ友好協会の記念としてスリランカ型佛足石が祀られている。
毎年8月23日・24日には、この浮図田で地蔵会万灯供養が行われる。夕刻より灯明皿に灯りが点けられ幻想的な供養が行われる。「ならまち」の夏のおわりを象徴するお祭りだそうです。

元興寺も「萩の寺」として知られています。極楽坊本堂(写真の左)や禅室(右)を取り囲むように萩が植えられている。時期的に最盛期なのですが、花着きが良くないのかそれほど鮮やかではありませんでした。
写真に見える本堂の裏側(禅室側)の屋根には、一部に飛鳥・奈良時代の古瓦が現在なお現役で使用されているという。「ここに使われている古瓦は上部が細くすぼまり、下部が幅広い独特の形をしており、この瓦を重ねる葺き方を行基葺(ぎょうきぶき)という。」(wikipediaより)。色が褐色をしているそうだが、どれだろう?。一週間前までは、この本堂と禅室の間に足場が組まれ、古代瓦見学会が催されていたそうです。
元興寺塔跡(五重塔跡)と小塔院跡

「ならまち」の中心部で、現在の元興寺の南側にはかっての大寺院・元興寺の金堂や講堂、五重塔、南大門がそびえ立っていた。それらは全て焼失し残っていない。五重塔には僅かにその痕跡が残っている。
元興寺と御霊神社との間に石碑「史蹟 元興寺塔址」が立っている。参道らしき小路を奥へ入ってゆきます。
「元興寺」と書かれた扁額の山門を入ると直ぐ境内らしい広場に出る。周辺を民家に挟まれ窮屈そうな境内には小堂や石塔・供養塔などが乱雑に配置されている。本堂らしき?建物も。

境内の一部に柵がなされ、基壇と礎石が残されている。これがかっての五重塔の跡のようだ。五重塔は総高は24丈(約72メートル)との記録があり、東寺五重塔より高かったことになる。実際には19丈程度(約57メートル)であったとされるが、それでも東寺の五重塔(54.8メートル)より高い。残念ながら安政6年(1859)、近隣火災の類焼で観音堂などとともに焼失してしまう。塔跡から出土した元興寺塔跡土壇出土品と、薬師如来立像(国宝)は、奈良国立博物館に寄託されています。
元興寺の法輪館にある五重小塔(国宝)は、この五重塔の設計モデルではなかったかといわれている。

「ならまち」の西側、奈良市音声館の前に小塔院跡への入口がある。「真言律宗 小塔院」の門標が見える。細い小径を入って行きます。
小径の奥に小さな広場が現れる。落ち葉が散らかり、雑草が生え、寺院の面影は全くありません。朽ち果てそうな木製ベンチが置かれ、その下から野良猫が眼を光らせている。どこが跡なのかの目印もない。
ここにはかって小塔堂を中心とする元興寺の小塔院があった場所とされています。昭和40年(1965)国の史跡に指定されています。
詳しくは
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