2016年9月24日(土)奈良公園南の「ならまち」を散策し、高畑・新薬師寺へ、そして白毫寺まで歩く(その4)
「高畑町(たかばたけちょう)」界隈と志賀直哉旧邸
「頭塔」の北側に広い車道が東西に走っている。「ならまち」中央を貫き、「ならまち大通り」と呼ばれています。高畑の真ん中を通って”剣豪の里”柳生町へ続く。そこからこの高畑辺りからは「柳生街道」と呼ばれている。
高畑町は、春日山の南西麓にあり春日大社の南域に当たる。かっては春日大社に出仕する禰宜、神職らが住居を構えていた社家町だったそうです。広い車道だが走っている車は少ない。「ならまち」と違いここまで足を運ぶ観光客も少なく、喧騒とは縁遠い静かな住宅地です。
奈良公園、春日大社に近く、歴史と自然の風景に恵まれた閑静な高畑界隈は、大正から昭和にかけて多くの文化人、画家などに親しまれてきた。志賀直哉もその一人です。ここに志賀直哉自ら設計した邸宅を建て,昭和4年から約十年間住んだ。武者小路実篤、小林秀雄、尾崎一雄など多くの文化人が集まり文化サロンを形成し,文化・芸術論に花を咲かせたという。こうした自然と静寂に恵まれた中で執筆活動を行い、昭和12年に代表作「暗夜行路」を書き上げた。
平成12年には国の登録有形文化財に認定、また平成28年には奈良県指定有形文化財(建造物)に指定された。現在建物は地元の奈良文化女子短大が買取り,生徒・学生達のためのセミナーハウスとして利用する共に広く一般公開もされている。。開館時間:9時~17時半(12月~2月は4時半まで),入館料:350円(小中学生は割引あり)
志賀直哉旧邸の前から、北側に小さな小道が見えます。これが「ささやきの小道(下の禰宜道」と呼ばれる歴史あるみちです。禰宜、神職が、住居のあった高畑町から春日大社へ通った道だったことから「禰宜道(ねぎみち)」と呼ばれる。東側から「上の禰宜道」、「中の禰宜道」、「下の禰宜道」という三本あります。特に「下の禰宜道」は「ささやきの小径」という愛称で知られる散策路となっている。春日大社の二の鳥居へ続く10分ほどの静寂な道です。両側をアセビの木に囲まれ昼間でも薄暗い。アセビは毒をもち、牛馬が食うと麻痺することから「馬酔木」と書きます。シカも食べないので増えたようだ。ツツジ科に属し、3月中頃に白く美しい花を咲かせるという。
新薬師寺(しんやくしじ)
柳生街道に戻り新薬師寺を目指す。静かな車道が、春日大社境内の横を春日山の方向へ続いている。柳生街道を山の方向に歩いていると,右手に新薬師寺の案内が見えてくる。その案内標識に従い路地に入っていく。古い土塀が続き,やがて新薬師寺の東門(重要文化財)が現れる。しかし東門は閉鎖されているので,土塀伝いに南へ歩き南門へ周ります。拝観受付のある南門は,鎌倉時代後期の作で切妻造の四脚門。国の重要文化財に指定されている。600円の拝観料を納めて境内へと入ります。華厳宗の寺院で、山号は日輪山。
新薬師寺は,天平19年(747)聖武天皇の病気平癒を祈願して、光明皇后によって創建されたという。しかし聖武天皇が光明皇后の眼病平癒を祈願して天平17年(745)に建立したという伝承もある。
左に見える赤い鳥居は鏡神社。藤原広嗣の霊を祀る神社です。
創建当時は東大寺とともに南都十大寺の一つに数えられ、南大門、中門、金堂、講堂、食堂、鐘楼、鼓楼、三面僧房、東西両塔を備えた大寺だったという。しかし宝亀11年(780)西塔への落雷で境内はたちまち炎に包まれ、ほとんどの堂宇が焼失してしまう。また応和2年(962年)には台風による風水害で諸堂が倒壊し、本尊も壊れてしまう。
その後鎌倉時代に,華厳宗中興の祖である明恵(みょうえ)上人によって再興がなされ、境内の再整備がなされた。現存する観音堂(元地蔵堂)、鐘楼、東門、南門は、この時に再興されたもの。いずれも鎌倉時代の建築の様相を今に伝えるものとして、それぞれ重要文化財に指定されている。
南門を潜ると、正面に本堂(国宝)が佇む。入母屋造、本瓦葺き。屋根の勾配が緩やかなのは天平建築の特徴だそうです。
(写真は、絵葉書「薬師如来と十二神将」より)本堂の内部は瓦の敷かれた土間で、その中央には漆喰で固められた直径が9m、高さが90cmの巨大な円形の土壇が設けられている。円形の土壇は珍しく我が国では最大の大きさ。土壇上には中央に本尊の薬師如来坐像(国宝)を安置し、これを囲んで十二神将立像(国宝)が外向きに立つ。天井板は張られておらず,屋根裏の垂木などの構造材をそのまま露出させている。これを「化粧屋根裏」と呼ぶそうだ。
十二神将は薬師如来を守護する眷属(けんぞく)で、十二の方角に分かれ、それぞれが七千の兵を率いて総勢八万四千の大軍団を組織し、12年周期の1年交代で総大将を決めて薬師如来を護衛する。新薬師寺の十二神将立像は日本で一番古く最も大きい。ほぼ等身大の塑像で、甲冑に身を包み武器を手にもち、皆凄まじい形相で立っている。
本堂左の小さな山門を潜ると香薬師堂がある。そこの離れの一室で、十二神将立像の解説と造像までの過程を紹介した25分のビデオ映像が流されていました。座敷に上がりこみ、寝転んで鑑賞できる。こうした試みは非常に歓迎できます。他の寺院でもやって欲しいものです。
新薬師寺も「萩の寺」としても知られています。本堂脇に萩が群生しているが、元興寺同様に花つきはよくなかった。唯一、本堂右前の小さな池の周辺だけが鮮やかでした。
この池の鯉には言い伝えがある。この池に泳いでいる鯉はどれも目か耳が悪いという。これは目や耳を病んだ人が、祈りをこめてこの池に鯉を放つと、鯉が身代わりに目や耳を患い、その人は全快するからだそうです。
新薬師寺のすぐ裏側に「奈良市写真美術館」があります。写真家・入江泰吉(1905~1992)が生涯大和路の風情や仏教美術を撮り続けた記録写真など8万点収蔵し,その中からテーマを替えて展示公開している。建物は建築家・黒川紀章が設計,日本芸術院賞を受賞。
開館:9時半~17時、休館:月曜日(祝日の場合は翌日)、入館料:400円(高・大学生200円、小中学生100円)
白毫寺(びゃくごうじ,奈良市白毫寺町)
新薬師寺から「萩のお寺」白毫寺(びゃくごうじ,奈良市白毫寺町)へ向かいます。白毫寺は、春日山と南に連なる高円山(たかまどやま)の西麓にある。新薬師寺からはかなり距離もあり、道も入り組んでいる。出合った住民の方に教えてもらいながら歩きました。やがて古ぼけた橋に出会う。橋には「能登川」「高砂橋」と刻まれている。この橋が一つの目印になると思います。
住宅路の中の緩やかな坂道を登って行くと、白毫寺への案内標識が現れ、左に折れるように教えてくれます。左に真っ直ぐ進むと、白毫寺の入口となる階段がある。
階段を登ると拝観受付小屋があり、拝観料500円支払う。小屋のガラス窓には、残念な萩の開花状況が掲示されていました。しかしこうした正直な情報公開には好感がもてます。元興寺、新薬師寺の萩の花がパッとしなかったのも同じ理由からなんでしょうね。地球規模の気候変動が影響しているのでしょうか?。とすれば年々花つきが悪くなる心配も。
白毫寺は花の寺としても有名で「関西花の寺二十五霊場」の第十八番札所(萩)として知られている。萩が密生して植えられているのは、受付から山門を通って境内に達する石段の両側です。両側の土塀にそってビッシリと植えられている。残念ながら開花状況は良くなく、3割程度のようです。10割になれば、どのような景観を見せてくれるんでしょうか。
石段の参道の中間に、塀がめくれた古風な山門がある。階段を数えてみました。下の受付小屋までが47段。小屋から山門までが52段。山門から上までが37段でした。合計136段の参道です。白、ピンク、赤の萩の花が咲き乱れていれば、非常に印象に残る参道の一つになんたんでしょうが・・・。
山門を潜っても、両側の土塀に沿って萩が植えられている。白毫寺の見所「萩の階段」ですが、見てのとおりの花つきです。萩の最盛期の土曜日ですが、それほど観光客は多くなかった。花つきのせいでしょうか。
なお階段を登りきったこの位置の横にも受付がある。通常の受付はここなのですが、萩の季節に限り階段の下の小屋が受付となる。仏像以上に白毫寺を有名にしている萩の花をタダで鑑賞されては困るからでしょう。
(左奥は本堂)白毫寺は「萩の寺」と呼ばれるが、椿でも有名で、境内いたる所に椿の木があります。登ってきた「萩の石段」にも植えられている。白毫寺の椿の代名詞になっている樹齢400年の「五色椿」は、本堂前のロープで囲われた中に樹がある。一本の木に、赤や白、ピンク、紅白の絞りなど色とりどりの大輪の花を咲かせる非常に珍しい椿です。見頃は3月下旬から4月上旬。東大寺の「糊こぼし」、伝香寺の「散り椿」と並んで大和の三名椿と呼ばれています。
五色椿の右奥に見えるのが「白毫寺椿」。樹齢推定500年の大椿。名前の由来は、紅い花に点々と入る白い班が見られ、これが仏の額にある白毫を思わせることからきているそうです。なお「白毫寺」の名前の由来は「仏の眉間にあり光明を放つという白く細い渦巻状の毛のこと」(パンフレットより)。
高円山の高台にある白毫寺は「南都一望の寺」として知られ、境内が奈良盆地を一望できる展望台となっています。望遠鏡までは置かれていないが、ベンチや展望図が用意されている。特に生駒山に陽が沈む夕焼けが絶景とか。
東大寺大仏殿や興福寺五重塔が見える。遠くには二上山、信貴山、生駒山などの山並みも。
★白毫寺の歴史についてWikipediaには「霊亀元年(715年)、天智天皇の第7皇子である志貴皇子の没後、天皇の勅願によって皇子の山荘跡を寺としたのに始まると伝えられる。また、かつてこの高円山付近に存在した石淵寺(いわぶちでら)の一院であったともいう。石淵寺は空海の剃髪の師であった勤操が建てたとされる寺院である。鎌倉時代になって西大寺の叡尊によって再興され、叡尊の弟子である道照が将来し経蔵に収めた宋版一切経の摺本によって、一切経寺とも呼ばれ繁栄した。室町時代に兵火で建物が焼失し衰退するが、江戸時代の寛永頃に興福寺の空慶により復興される」とあります。
この白毫寺も明治初期の廃仏毀釈で廃寺寸前まで荒廃する。少しづつ立ち直り整備されていったのは戦後になってからだ。真言律宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。
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