山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

「ならまち」から白毫寺へ 4

2016年11月28日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年9月24日(土)奈良公園南の「ならまち」を散策し、高畑・新薬師寺へ、そして白毫寺まで歩く(その4)

 「高畑町(たかばたけちょう)」界隈と志賀直哉旧邸  


「頭塔」の北側に広い車道が東西に走っている。「ならまち」中央を貫き、「ならまち大通り」と呼ばれています。高畑の真ん中を通って”剣豪の里”柳生町へ続く。そこからこの高畑辺りからは「柳生街道」と呼ばれている。
高畑町は、春日山の南西麓にあり春日大社の南域に当たる。かっては春日大社に出仕する禰宜、神職らが住居を構えていた社家町だったそうです。広い車道だが走っている車は少ない。「ならまち」と違いここまで足を運ぶ観光客も少なく、喧騒とは縁遠い静かな住宅地です。
奈良公園、春日大社に近く、歴史と自然の風景に恵まれた閑静な高畑界隈は、大正から昭和にかけて多くの文化人、画家などに親しまれてきた。志賀直哉もその一人です。ここに志賀直哉自ら設計した邸宅を建て,昭和4年から約十年間住んだ。武者小路実篤、小林秀雄、尾崎一雄など多くの文化人が集まり文化サロンを形成し,文化・芸術論に花を咲かせたという。こうした自然と静寂に恵まれた中で執筆活動を行い、昭和12年に代表作「暗夜行路」を書き上げた。
平成12年には国の登録有形文化財に認定、また平成28年には奈良県指定有形文化財(建造物)に指定された。現在建物は地元の奈良文化女子短大が買取り,生徒・学生達のためのセミナーハウスとして利用する共に広く一般公開もされている。。開館時間:9時~17時半(12月~2月は4時半まで),入館料:350円(小中学生は割引あり)

志賀直哉旧邸の前から、北側に小さな小道が見えます。これが「ささやきの小道(下の禰宜道」と呼ばれる歴史あるみちです。禰宜、神職が、住居のあった高畑町から春日大社へ通った道だったことから「禰宜道(ねぎみち)」と呼ばれる。東側から「上の禰宜道」、「中の禰宜道」、「下の禰宜道」という三本あります。特に「下の禰宜道」は「ささやきの小径」という愛称で知られる散策路となっている。春日大社の二の鳥居へ続く10分ほどの静寂な道です。両側をアセビの木に囲まれ昼間でも薄暗い。アセビは毒をもち、牛馬が食うと麻痺することから「馬酔木」と書きます。シカも食べないので増えたようだ。ツツジ科に属し、3月中頃に白く美しい花を咲かせるという。

 新薬師寺(しんやくしじ)  

柳生街道に戻り新薬師寺を目指す。静かな車道が、春日大社境内の横を春日山の方向へ続いている。柳生街道を山の方向に歩いていると,右手に新薬師寺の案内が見えてくる。その案内標識に従い路地に入っていく。古い土塀が続き,やがて新薬師寺の東門(重要文化財)が現れる。しかし東門は閉鎖されているので,土塀伝いに南へ歩き南門へ周ります。
拝観受付のある南門は,鎌倉時代後期の作で切妻造の四脚門。国の重要文化財に指定されている。600円の拝観料を納めて境内へと入ります。華厳宗の寺院で、山号は日輪山。
新薬師寺は,天平19年(747)聖武天皇の病気平癒を祈願して、光明皇后によって創建されたという。しかし聖武天皇が光明皇后の眼病平癒を祈願して天平17年(745)に建立したという伝承もある。

左に見える赤い鳥居は鏡神社。藤原広嗣の霊を祀る神社です。
創建当時は東大寺とともに南都十大寺の一つに数えられ、南大門、中門、金堂、講堂、食堂、鐘楼、鼓楼、三面僧房、東西両塔を備えた大寺だったという。しかし宝亀11年(780)西塔への落雷で境内はたちまち炎に包まれ、ほとんどの堂宇が焼失してしまう。また応和2年(962年)には台風による風水害で諸堂が倒壊し、本尊も壊れてしまう。
その後鎌倉時代に,華厳宗中興の祖である明恵(みょうえ)上人によって再興がなされ、境内の再整備がなされた。現存する観音堂(元地蔵堂)、鐘楼、東門、南門は、この時に再興されたもの。いずれも鎌倉時代の建築の様相を今に伝えるものとして、それぞれ重要文化財に指定されている。

南門を潜ると、正面に本堂(国宝)が佇む。入母屋造、本瓦葺き。屋根の勾配が緩やかなのは天平建築の特徴だそうです。
(写真は、絵葉書「薬師如来と十二神将」より)本堂の内部は瓦の敷かれた土間で、その中央には漆喰で固められた直径が9m、高さが90cmの巨大な円形の土壇が設けられている。円形の土壇は珍しく我が国では最大の大きさ。土壇上には中央に本尊の薬師如来坐像(国宝)を安置し、これを囲んで十二神将立像(国宝)が外向きに立つ。天井板は張られておらず,屋根裏の垂木などの構造材をそのまま露出させている。これを「化粧屋根裏」と呼ぶそうだ。
十二神将は薬師如来を守護する眷属(けんぞく)で、十二の方角に分かれ、それぞれが七千の兵を率いて総勢八万四千の大軍団を組織し、12年周期の1年交代で総大将を決めて薬師如来を護衛する。新薬師寺の十二神将立像は日本で一番古く最も大きい。ほぼ等身大の塑像で、甲冑に身を包み武器を手にもち、皆凄まじい形相で立っている。

本堂左の小さな山門を潜ると香薬師堂がある。そこの離れの一室で、十二神将立像の解説と造像までの過程を紹介した25分のビデオ映像が流されていました。座敷に上がりこみ、寝転んで鑑賞できる。こうした試みは非常に歓迎できます。他の寺院でもやって欲しいものです。
新薬師寺も「萩の寺」としても知られています。本堂脇に萩が群生しているが、元興寺同様に花つきはよくなかった。唯一、本堂右前の小さな池の周辺だけが鮮やかでした。
この池の鯉には言い伝えがある。この池に泳いでいる鯉はどれも目か耳が悪いという。これは目や耳を病んだ人が、祈りをこめてこの池に鯉を放つと、鯉が身代わりに目や耳を患い、その人は全快するからだそうです。
新薬師寺のすぐ裏側に「奈良市写真美術館」があります。写真家・入江泰吉(1905~1992)が生涯大和路の風情や仏教美術を撮り続けた記録写真など8万点収蔵し,その中からテーマを替えて展示公開している。建物は建築家・黒川紀章が設計,日本芸術院賞を受賞。
開館:9時半~17時、休館:月曜日(祝日の場合は翌日)、入館料:400円(高・大学生200円、小中学生100円)

 白毫寺(びゃくごうじ,奈良市白毫寺町)  



新薬師寺から「萩のお寺」白毫寺(びゃくごうじ,奈良市白毫寺町)へ向かいます。白毫寺は、春日山と南に連なる高円山(たかまどやま)の西麓にある。新薬師寺からはかなり距離もあり、道も入り組んでいる。出合った住民の方に教えてもらいながら歩きました。やがて古ぼけた橋に出会う。橋には「能登川」「高砂橋」と刻まれている。この橋が一つの目印になると思います。

住宅路の中の緩やかな坂道を登って行くと、白毫寺への案内標識が現れ、左に折れるように教えてくれます。左に真っ直ぐ進むと、白毫寺の入口となる階段がある。

階段を登ると拝観受付小屋があり、拝観料500円支払う。小屋のガラス窓には、残念な萩の開花状況が掲示されていました。しかしこうした正直な情報公開には好感がもてます。元興寺、新薬師寺の萩の花がパッとしなかったのも同じ理由からなんでしょうね。地球規模の気候変動が影響しているのでしょうか?。とすれば年々花つきが悪くなる心配も。


白毫寺は花の寺としても有名で「関西花の寺二十五霊場」の第十八番札所(萩)として知られている。萩が密生して植えられているのは、受付から山門を通って境内に達する石段の両側です。両側の土塀にそってビッシリと植えられている。残念ながら開花状況は良くなく、3割程度のようです。10割になれば、どのような景観を見せてくれるんでしょうか。









石段の参道の中間に、塀がめくれた古風な山門がある。階段を数えてみました。下の受付小屋までが47段。小屋から山門までが52段。山門から上までが37段でした。合計136段の参道です。白、ピンク、赤の萩の花が咲き乱れていれば、非常に印象に残る参道の一つになんたんでしょうが・・・。

山門を潜っても、両側の土塀に沿って萩が植えられている。白毫寺の見所「萩の階段」ですが、見てのとおりの花つきです。萩の最盛期の土曜日ですが、それほど観光客は多くなかった。花つきのせいでしょうか。
なお階段を登りきったこの位置の横にも受付がある。通常の受付はここなのですが、萩の季節に限り階段の下の小屋が受付となる。仏像以上に白毫寺を有名にしている萩の花をタダで鑑賞されては困るからでしょう。
(左奥は本堂)白毫寺は「萩の寺」と呼ばれるが、椿でも有名で、境内いたる所に椿の木があります。登ってきた「萩の石段」にも植えられている。白毫寺の椿の代名詞になっている樹齢400年の「五色椿」は、本堂前のロープで囲われた中に樹がある。一本の木に、赤や白、ピンク、紅白の絞りなど色とりどりの大輪の花を咲かせる非常に珍しい椿です。見頃は3月下旬から4月上旬。東大寺の「糊こぼし」、伝香寺の「散り椿」と並んで大和の三名椿と呼ばれています。
五色椿の右奥に見えるのが「白毫寺椿」。樹齢推定500年の大椿。名前の由来は、紅い花に点々と入る白い班が見られ、これが仏の額にある白毫を思わせることからきているそうです。なお「白毫寺」の名前の由来は「仏の眉間にあり光明を放つという白く細い渦巻状の毛のこと」(パンフレットより)。

高円山の高台にある白毫寺は「南都一望の寺」として知られ、境内が奈良盆地を一望できる展望台となっています。望遠鏡までは置かれていないが、ベンチや展望図が用意されている。特に生駒山に陽が沈む夕焼けが絶景とか。

東大寺大仏殿や興福寺五重塔が見える。遠くには二上山、信貴山、生駒山などの山並みも。


★白毫寺の歴史についてWikipediaには「霊亀元年(715年)、天智天皇の第7皇子である志貴皇子の没後、天皇の勅願によって皇子の山荘跡を寺としたのに始まると伝えられる。また、かつてこの高円山付近に存在した石淵寺(いわぶちでら)の一院であったともいう。石淵寺は空海の剃髪の師であった勤操が建てたとされる寺院である。鎌倉時代になって西大寺の叡尊によって再興され、叡尊の弟子である道照が将来し経蔵に収めた宋版一切経の摺本によって、一切経寺とも呼ばれ繁栄した。室町時代に兵火で建物が焼失し衰退するが、江戸時代の寛永頃に興福寺の空慶により復興される」とあります。
この白毫寺も明治初期の廃仏毀釈で廃寺寸前まで荒廃する。少しづつ立ち直り整備されていったのは戦後になってからだ。真言律宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。


詳しくはホームページ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ならまち」から白毫寺へ 3

2016年11月24日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年9月24日(土)「ならまち」に散在する観光名所を巡り、高畑を経て「萩の寺」白毫寺まで

 中将姫(ちゅうじょうひめ)ゆかりの4寺  


■ ■ 中将姫(ちゅうじょうひめ)伝説 ■ ■
中将姫(ちゅうじょうひめ、747~775年4)は、奈良の当麻寺に伝わる当麻曼荼羅を織ったとされる伝説上の人物。中将姫の哀話は平安時代から鎌倉時代にかけて世間に広く流布していた。室町時代には,世阿弥元清が中将姫を主人公にした謡曲「當麻」が,江戸時代には近松門左衛門などによって継母に虐げられる哀話が作られた。こうして中将姫の物語は,謡曲や歌舞伎、浄瑠璃でおおきな人気を博し庶民の中に広まっていったのです。

奈良時代聖武天皇の頃。右大臣・藤原豊成という人物がいた。豊成は藤原鎌足の曾孫,
藤原不比等の孫で,藤原南家を創設した藤原武智麻呂の子です。豊成と妻の紫の前には長い間子どもができなかったが,長谷寺の観音さんにお参りし祈願すると娘を授かりました。娘が5歳のとき母親が亡くなり,豊成は照夜の前という人を後妻に迎えます。しかし娘は継母に嫌われ,折檻などの虐待を受けるようになる。
娘の名前は伝わっていないが,才能に恵まれ9歳に時に孝謙天皇から三位中将の位を授かった。そこから「中将姫」と呼ばれるようになったという(13歳の時に中将の内侍となったから,という説もある)。


継母は姫を妬み、豊成に讒言をしたり、雪の日に松の木に縛り折檻をしたりいじめます。ついには豊成の留守中に,家来に中将姫を連れ出し殺すように命じます。14歳の時です。しかし家来は,信仰厚く祈り読経を続ける姫を殺すことが出来ず、雲雀山の青蓮寺(宇陀市菟田野区)で匿い育てました。翌年、山へ狩りに来た父豊成と再会し、中将姫は家に連れ戻される。しかし姫は世の無常を悟り出家し、二上山の山麓にある当麻寺に尼となって仏門に入ることになりました。

翌年、中将姫がひたすら西方浄土に憧れ写経をしていると、観世音菩薩と阿弥陀如来が連れ立って姫の下に降臨され、姫に5色の蓮糸で曼荼羅布を織るようにと言われます。姫は蓮糸を集め、井戸で染め、一晩のうちに極楽浄土の描かれた1丈5尺四方(約4.5m平方)の曼荼羅を織り上げました。それが當麻寺に伝わる当麻曼荼羅(たいままんだら)で,日本三浄土曼荼羅の1つとして残っている。

宝亀6年(775年)29歳の春、中将姫は阿弥陀如来と25菩薩の来迎を受けて生きながら西方極楽浄土へと旅立ったと伝えられている。その様子を再現したのが,毎年當麻寺の5月14日に行われる中将姫練り供養です。
「ならまち」でもやや南の三棟町に「誕生寺(たんじょうじ)」がある。この周辺は中将姫ゆかりの土地なので、誕生したのはもちろん中将姫です。空き地の奥まった所に山門があり,入り口に「中将姫誕生霊地」の石碑が建つ。石碑の側面には「従1位右大臣藤原豊成卿旧跡地」と書かれています。この周辺は,中将姫の父・右大臣藤原豊成の邸宅があった所とされる。ここには中将姫,豊成,紫の前(生母)の御殿が並置されていたことから「三棟殿」とも呼ばれた。現在でも町名を「三棟町」という。

正式には「異香山(いこうざん)法如院誕生寺」で,浄土宗の尼寺です。「法如院」というのは中将姫が出家し尼になった法名です。本堂には、本尊の中将法如尼坐像、豊成公木坐像、中将姫作と伝える蓮糸織などが安置されている。
本堂左脇の狭い通路を抜けると裏庭が現れました。裏庭に入るとすぐ中将姫の産湯に使ったという「誕生の井戸」があります。とりたてて何も感じさせてくれない井戸らしきものが置かれている。井戸の右方の小高い所に石造の中将姫坐像もあり、庭を眺めておられます。
中将姫の伝説については異説も多い。誕生寺は中将姫とは関係なく,釈迦誕生仏を安置したからだとか,そもそもこの地に右大臣豊成の館があったという伝承自体が当てにならないなど。

誕生寺とは道を挟んで反対側に,中将姫と父・豊成の墓があるという「徳融寺(とくゆうじ、鳴川町)」がある。入口に「豊成公中将姫旧跡、御墓」の石碑が建っています。
徳融寺は右大臣・藤原豊成の邸宅跡に建つ寺院のひとつだといわれる。豊成公の娘・中将姫はこの地で育ち、少女時代継母により折檻され、虐待されたという。
境内には,中将姫が継母から雪の降る朝、割竹打ち折檻を受けた場所とされる雪責松があるという。歌舞伎や人形浄瑠璃の舞台となった場所です。探しまわったが見つからない。裏手の墓場内に案内板があり「昭和49年(1974)頃まで墓場の向こうに見える築地塀の下に松の切り株が存在していたが、現在はない」と書かれていました。中将姫が突き落とされた崖とされる「虚空塚」はついに見つけられなかった。


観音堂の裏手に、藤原豊成・中将姫父子の二基の石塔(鎌倉時代)がある。右が豊成公の、左が中将姫の宝篋印塔。この石塔は元は、井上高坊(高林寺)にあったのを延宝15年(1677)に当寺に移したものであると伝わる。
歌舞伎「中将姫雪責」などが公演される際には、役者関係者がお参りに来られるという。墓碑柱の側面には「施主片岡仁左衛門、同千代之助、嵐璃寛」の銘が書き込まれていました。

門前に「おもてなしトイレ」の札が掛かっている。「ならまち」は、おじさん・おばさんに本当に優しい。「ならまち」を散策していて、まずトイレの心配はありません。


徳融寺の北隣に安養寺(あんようじ)というお寺があります。寺伝によると、中将姫が出家して開創したと伝わるお寺だという。室町時代に建てられた本堂は、県の文化財に指定され、昔は「横佩(よこはぎ)堂」と呼ばれていたそうです。これは中将姫の父・藤原豊成卿が横佩右大臣と称されていたためとか。


「ならまち」の南域の井上町の車道脇に,これも中将姫ゆかりの高林寺(こうりんじ)がある。ここも父・豊成の邸宅跡で、中将姫はここで成人し、當麻寺に入って出家、法如尼となったと伝わる。

門前に「中将姫修道霊場 豊成卿古墳之地」と「高坊旧跡」という石碑が建つ。「高坊(たかぼう)」は安土・桃山時代の茶人。この邸で茶湯等を楽しみ、奈良まちの数寄者の一大群落、一大サロンを形成していたという。


藤原豊成は死後この地に葬られたと伝わり、本堂前には豊成の墓とされる直径約2.5メートルの円墳があります。また本堂の内陣中央須弥壇に、厨子入りの中将姫と父・藤原豊成公の坐像が安置されているという。



 十輪院(じゅうりんいん)  

十輪院は、元興寺旧境内地の南東端に位置する真言宗醍醐派の寺院。山号は「雨宝山」で、本尊は石造の地蔵菩薩。

創建についてWikipediaには「元は大寺院だった元興寺の別院とされ、寺伝によると奈良時代に右大臣・吉備真備の長男である朝野宿禰魚養(あさのすくね なかい)が、元正天皇の旧殿を拝領し創建したと伝わる。その後、弘仁年間には弘法大師が留錫したという。朝野魚養は能書(書道の名人)とされ、空海の書の師ともいうが、伝記のはっきりしない人物である。」とある。中世以降は庶民の地蔵信仰の寺として栄えた。
入口の南門は四脚門で鎌倉時代前期のもの。重要文化財に指定されている。
境内は見学自由だが,石仏龕のある本堂(国宝)内拝観は9時~16時30分で,拝観料400円。
南門を潜ると直ぐ正面に本堂(国宝、鎌倉時代前期)が佇む。本堂内には、本尊である地蔵菩薩を中心にした石仏龕(せきぶつがん、鎌倉時代、国重文)が安置されています。
公式サイトに「この建物は内部にある石仏龕を拝むための礼堂(らいどう)として建立されました。近世には灌頂堂とも呼ばれていました。正面の間口を広縁にし、蔀戸(しとみど)を用いています。軒まわりは垂木を用いず厚板で軒を支えています。また、棟、軒および床が低く、仏堂というよりは中世の住宅をしのばせる要素が随所に見られます。柱間の上にある蟇股(かえるまた)は垢抜けした優美な形状をしています。」とある。
奈良町には多くの社寺がありますが国宝に指定されている建造物は、元興寺の本堂・禅室・五重小塔と十輪院のこの本堂の4つだけです。

(写真は冊子「大和地蔵十福」より)本堂内に入ると薄暗い。本堂は、屋根続きになっている建物に置かれている石仏龕(重要文化財、平安時代~鎌倉時代)を拝する礼堂となっている。しかし石仏は大きくないので,真近で見るため礼堂の背面に廻り石仏龕の真ん前に座って拝観するのが良い。そうしていると,寺の人が横に座り解説してくださった。
龕(がん)とは仏像を納める厨子を意味します。龕中央に本尊地蔵菩薩、その左右に釈迦如来、弥勒菩薩を浮き彫りで表しています。石仏龕は間口268cm、奥行245cm、高さ242cmで,花崗岩の切石を積み上げて厨子形に整えたもの。
石仏は「龕(がん)」とともに、「彫刻」ではなく「建造物」として重要文化財に登録されている。
石仏といえば崖などに彫られているのが普通ですが、堂内に祀られているのを初めて見ました。他から持ってきたものでなく、初めからこの地にあったそうです。

御影堂の裏手には、十輪院の開基「朝野宿禰魚養(あさのすくねなかい)」の墳墓とされる「魚養塚(うおかいづか)」があります。横穴式の小さな石室がむき出しになっている。”魚養”とは珍しい名前だが、購入した小冊子に逸話が載っていました。
遣唐使・吉備真備(695~775)は唐の国で妻を娶り子供が生まれた。真備は子供が成長すれば必ず迎えに来ると約束し帰朝。待てど暮らせど迎えは来ない。ついには母は首に「遣唐使某の子」と書かれた札を付け、わが子を海に投げ込んだ。ある時、真備が難波(大阪)の浜辺を歩いていると、四才くらいの子供が大きな魚に乗って近づいてきた。抱き上げてみると、首の名札から我が子と知った。「魚養」と名付けられて大切に育てられたという。





 今西家書院(いまにしけしょいん,重要文化財,福智院町)   


十輪院から旧大乗院庭園へ向かう途中に「今西家書院」がある。少々分りづらいが、白壁が目印となる。扉の横のくぐり戸から中へはいります。見学時間:午前10時~午後4時(受付:午後3時30分)、休館日:月曜日。書院内へ上がるには見学料が必要です。大人:350円、※学生・シルバー(70歳以上)300円。時間がないので今回はパスしました。

この建物は、元々は興福寺大乗院に仕える福智院家の居宅であったものが,大正13(1924)年に酒屋の今西家(今西清兵衛商店)が譲り受けたもの。何度か改修を受けているが、室町時代中期の書院造りの遺稿を残している貴重な歴史的建造物として国の重要文化財に指定されています。

今西家書院と白壁でつながった古風な建物がある。これは「今西家書院」の所有者・今西清兵衛商店のお店です。
奈良の地酒として人気がある「春鹿」の醸造元。内部はお酒や関連品のショップで、「春鹿」関連の展示物も置いている。また中央にはテーブルが置かれ居酒屋風になっています。「春鹿」の試飲ができたらよいのですが。

 名勝 旧大乗院庭園の入口(きゅうだいじょういんていえん,高畑町)  


「ならまち」の東端、奈良ホテルの南側に広い庭園がある。これが「名勝 旧大乗院庭園」です。入口が分りづらい。地元の人に訊ねても??のまま。ようやく庭園の東南隅にある建物「庭園文化館」から入ることがわかりました。
その歴史は「興福寺の門跡寺院である大乗院の寛治元年(1087年)創建と同時に築造された庭園は、12世紀における平重衡による南都焼討で被災し、興福寺別院である定禅院跡地に移築されたが、ここも15世紀中期の徳政一揆で荒廃したため、復興を目的に尋尊が銀閣寺庭園を作った善阿弥父子を招いて池泉回遊式庭園を改造させた。以降、明治初頭まで南都随一の名園と称えられた。」(Wikipediaより)
しかし大乗院も明治維新の神仏分離・廃仏毀釈の嵐を受け、大乗院門跡は廃絶、そして廃寺となる。建物は除却・分散し,敷地には飛鳥小学校や奈良ホテルが建ち、庭園は荒れたままになっていた。
戦後の昭和33年(1958)、池を中心とする庭園の大部分が国の名勝に指定される。庭園は荒廃が著しかったが、財団法人日本ナショナルトラストが文化庁から管理団体に指定され、整備・発掘調査が実施された。平成8年には、名勝大乗院庭園文化館も完成。そし庭園文化館は財団法人日本ナショナルトラストが建てた建物。一階には、大乗院の復元模型や大乗院に関する資料が展示されている。また椅子が置かれ、庭園をガラス越しに眺めながら休息できる。また各種催しに利用できる茶室や会議室も備えている。
開館:9時~17時,月曜日休館(祝日の場合は翌日)
入館無料,ただし庭園に出るには100円支払う。て平成22年(2010年)、庭園の復原事業が完成したのを機に一般公開されることになった。

文化館で、庭園に出たい旨を申し込めば扉を開けてくれます。100円支払う。
前の大きな池が「東大池」。池の中の三ツ島のサルスベリが美しい。左側の松の付近には、複雑に入り組んだ小さな池があり「西小池」と呼ばれている。これは発掘調査で見つかったもの。奥(北側)には奈良ホテルが建つが、樹木で遮られ見えない。
庭園内は一周できず,左回りに紅い橋の近くまで散策できるだけ。右半分は立ち入りできない。
中島に渡る紅い反り橋が鮮やかで、ひときわ目立つ。ただし立ち入れないようロープが張られています。

 福智院(ふくちいん、福智院町)  


旧大乗院庭園を出て、広い交差点を南へ渡るとすぐ福智院です。黄色の塀が鮮やかで、すぐ見つかります。
奈良時代の天平8年(736)に聖武天皇が発願し、興福寺の僧・玄昉(げんぼう)がこの清水の地に地蔵菩薩を本尊とした清水寺(しみずでら)を創建したのが始まり。建長6年(1254)に興福寺の僧が再興して福智院に改名し、その後 叡尊(えいそん)が再建した。南都における地蔵信仰の中心地の一つ。現在もこの辺りには、上清水町・中清水町・下清水町という町名が伝わります。
ここも明治初めの廃仏毀釈運動の影響を受け、領地や什物を失い荒れ果てた。以後徐々に立ち直り、昭和30年に国の文化財保護法の適用を受けて解体修理が行われ、美しい本堂が蘇った。現在は真言律宗の総本山西大寺に所属している。
本堂に入ると大きな地蔵菩薩像に圧倒される。高さ1.6mの台座上に、右手に錫杖、左手に宝珠を持って座っておられる像の高さが2.7m。光背を含めた総高は6.7mもあります。
鎌倉時代の作で、胎内銘によれば、建仁3年(1203)に福智庄(現奈良市下狭川町付近)で造られ、建長6年(1254)に当地に遷されたと考えられている。寄木造りの上に漆を塗り重ね彩色が施されていた。口元に赤色が残っています。
台座は蓮華座ではなく、奈良時代以前に流行した古風な裳懸座で、その上に右足首を少し前に突き出した「安座」(あぐらをかく)という座り方をしているのが特色。通常の坐像は「結跏趺坐」といって坐禅時の座り方をしているのだが。
どっしりとしたふくよかな体つき、そして驚かされるのは舟型光背です。びっしりと隙間なく化仏で埋め尽くされている。560体もあり、光背内側の6地蔵と本尊とを合わせ全部で567体となる。これは釈迦滅後、56億7千万年後に下生するという弥勒信仰に符合している。地蔵菩薩でありながら、須弥壇に座り光背を背負っているのは珍しいそうです。この木造地蔵菩薩坐像も国の重要文化財に指定されています。(写真は小冊子「大和地蔵十福」より)

なおこの本堂右手奥には、宝冠を被った珍しい十一面観音像も安置されているが、こちらは秘仏で春・秋の特別日にしか開扉されません。

 「頭塔(ずとう)」  


福智院の筋を東に歩いていると「頭塔(ずとう)」の案内に出会う。格子越しではよく見えない。周辺で見える場所を探すがみあたらない。東側の広い通りに出たら、建物の間から階段ピラミッド形の塔がよく見えました。
頭塔は、一辺30m、高さ10m、7段の階段ピラミッド形に土を盛り上げた塔です。各段には石仏が配されている。大正11年(1922)に国の史跡に指定されました。頭塔は地元「史跡頭塔保存顕彰会」によって管理され、見学を希望する場合は25m離れた事務所で申し込めば頭塔に登れるようです。

「東大寺要録」の記録では、奈良時代に東大寺の僧・実忠が、師良弁の命によって「鎮護国家の為」築造したものとある。
福智院の創建者・玄昉の首塚だという怨霊伝説も伝わっている。玄昉が太宰府の観世音寺に左遷されていた時、藤原広嗣の怨霊が雷となって、玄昉を黒雲の中につかみ上げ、そして玄昉の肢体を引きちぎって奈良の都に投じたという。首は頭塔へ、肘は市南部の肘塚、眉と耳は大豆山町の眉目塚、胴は押上町の胴塚に葬られたと伝えられれている。なんとも恐ろしい話だが、この頭塔は果たして玄昉僧正の首塚なのでしょうか。
毎年6月18日には福智院で「玄昉忌」が催され本堂にて法要の後、この頭塔でも法要が行われるそうです。


詳しくはホームページ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ならまち」から白毫寺へ 2

2016年11月19日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年9月24日(土)「ならまち」に散在する観光名所を巡り、高畑を経て「萩の寺」白毫寺まで(その2)

 御霊神社(ごりょうじんじゃ)  


「ならまち」には”呪い・祟り”を鎮めるための神社があります。御霊神社と崇道天皇社で、南都二大御霊社とされている。
元興寺五重塔跡の南西に鎮座している御霊神社は、その名のとおり、”呪い・祟り”の怨霊を鎮めるために建てられた神社です。奈良時代の末から平安時代の初期にかけて、相次いだ政変の中で、謀略・冤罪などにより非業の死を遂げた皇族や貴族たちがいた。そして天変地異や疫病の流行などは、そうした人の”呪い・祟り”だとして恐れられたのです。
ここの御霊神社には8人の犠牲者が、神としてお祀りされている。

中央の本殿には、井上(いがみ)内親王・他戸(おさべ)親王・事代主命が祀られています。
第45代聖武天皇の皇女である井上内親王は、第49代光仁天皇の皇后となる。他戸親王(おさべしんのう)は二人の間に生まれた皇子である。しかし宝亀3年(772)、山部親王(桓武天皇)を第50代の天皇にしたいと画策する藤原百川らの謀略にあい、巫女に天皇を呪詛(じゅそ)させたとして皇后、皇太子の位を廃され、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)に幽閉される。宝亀6年(775)4月、幽閉先で二人は同日に薨去した(暗殺説も)。その後、藤原百川は悪夢に悩まされ頓死。天災地変がしきりに起こり、宮中でも変事が頻発し、疫病が流行するなど禍事が相次いだ。これは二人の祟りであるとして、怨霊を鎮めるため墓を改葬して山陵とし、皇后位を追復する。そして井上皇后に御霊大明神の官位を奉って神としてお祀りすることになった。五條市に勅命によって御霊神社が創建され、各地に同じような御霊神社が造られた。ここもその一つ。
 
★左殿 早良(さわら)親王、藤原大夫人(だいふじん)、藤原廣嗣(ひろつぐ)
★右殿 伊予(いお)親王、橘逸勢(たちばなはやなり)、文屋宮田麿(ぶんやみやだまろ)が祀られ、
これらの人も冤罪・謀略などによって非業の死を遂げた人達です。早良親王については崇道天皇社を参照。

 崇道天皇社(すどうてんのうしゃ)  


「ならまち」でも南の端にあたる場所に崇道天皇社がある。ここには御霊神社にも祀られていた早良(さわら)親王が祀られている。「崇道天皇」というのは、早良親王の死後、その怨霊を鎮めるために天皇として追号されたものです。正式に即位していないので歴代天皇には数えられていない。

早良親王は、父・光仁天皇(四十九代)と母・高野新笠との間に生まれ、桓武天皇(五十代)は同母兄である。天応元年(781年)光仁天皇の崩御後、兄・桓武天皇の即位と同時に皇太子となり、次期天皇を約束され政治を任された。しかし兄・桓武天皇とは不仲であったという。延暦3年(784年)長岡遷都がおこなわれたが、翌年延暦4年(785年)長岡遷都の主唱者だった中納言・藤原種継が暗殺されるという事件が起こった。事件の首謀者として、大伴升良や大伴家持などが処分されたが、早良親王も連座したという疑いを受ける。皇太子の地位を廃され、乙訓寺(長岡京市)に幽閉され、淡路に配流されることに。延暦4年淡路へ移送される船中で、身の潔白を訴えるため自ら食を絶って死んだ(49歳)。その遺骸は淡路国に埋葬された。
早良親王が亡くなった後、遷都先の長岡京では天災や疫病が相次ぐ。桓武天皇や早良親王の生母・高野新笠の病死、天皇の妃の病死など、天皇の一族が相次いで没しており、宮廷関係者に立て続けに不幸が襲う。さらには疫病の流行、洪水などの天変地異も相次ぎ発生した。これらは早良親王の祟りによるものだとの噂が広まる。ついには長岡京を放棄、新しい都・平安京への遷都が行われた。それでも災いは収まらない。桓武天皇はその祟りを恐れ、親王の怨霊に対して懺悔と謝罪を度々行ったという。延暦19年(800)7月、生前に即位していないにも関わらず怨霊を鎮めるために「崇道天皇」の尊号が贈られた。御骨は淡路から大和国八島陵(奈良市八嶋町)に改葬された。そしてこの崇道天皇社も建てられ、鎮魂のため神として祀ったのです。

親王の怨念を怖れ、その御魂をしずめるため各地に崇道天皇社・崇道天王社・崇道神社などが建立された。ここもその一つらしい。2年前、近鉄・御所駅から葛城山ロープウェイ駅に行く途中に崇道神社(御所市櫛羅)という小さな社があったのを見かけました。百年後、菅原道真も同じような運命に遭い、各地に菅原神社が造られたいったのも同じような理由からです。

 ならまち観光施設  



興福寺の南に,かって元興寺が広大な寺域を有していた。その元興寺が衰退するとともに,寺域には家々が次々に建てられていき町並みが形成されていった。町家の多くは明治・大正に建てられたもの。これが現在の「ならまち」と呼ばれる地域で,昭和63年(1988)には町並保存地域に指定されました。ただし「ならまち」は歴史的町並みが残る地域の通称であって,行政地名ではない。

「ならまち」は,奈良時代からの古い歴史をもつ地域だけあって古跡,名刹が多く散在する。また同時に現在、古い町並みを残しつつ、古い家屋を利用して食事処、茶坊、小物屋などのお洒落なお店が次々できている。古く懐かしい風情とハイカラな雰囲気が混在し、独特な空間を形作っています。そんな町中、奈良市や民間人による町並み保存の努力によって,各所に観光施設が設けられています。ほとんどが無料で入れ,休憩やおトイレに利用できる。おじさん,おばさんには大変優しい町です。注文があるとすれば,細い路地が入り組んでいるので要所に案内地図が設けられていたらもっと優しいのですが・・・。

通称「ならまち大通り」に面した白壁の洒落た近代的な建物が「なら工藝館」(阿字万字町)です。奈良市が伝統工芸・文化・芸能の保存並びに発掘・発信等の事業を進める目的で設置した施設。一階には奈良の伝統的な工芸品である奈良漆器、一刀彫(奈良人形)、赤膚焼、墨、奈良筆、奈良晒、古楽面、乾漆、秋篠手織、鹿角細工などや,製作道具が展示されている。
入館無料、開館時間:10~18時(入館は17時半まで)、休館日:月曜日(祝日の場合は翌日),祝日の翌日
「ならまち大通り」から南の筋に入ると「杉岡華邨(かそん)書道美術館」と「奈良市立史料保存館」(脇戸町)が並んでいる。「杉岡華邨書道美術館」は、かな書の第一人者で文化勲章受章者の杉岡華邨氏より寄贈された作品を展示している。ここは観覧料300円(高校生以下は無料)が必要です。

奈良市立史料保存館は,奈良市史を編集する際に市が収集した古文書や絵図などの歴史資料を保管、展示する施設です。奈良町関係年表,花街の絵写真,奈良奉行所復元模型、郷里図などの近世・近代の郷土資料で,奈良時代などの古代のものはありません。古代の資料なら平城宮跡へ。開館:9時半~17時、休館:月曜日と祝日の翌日、入館無料

「奈良町からくりおもちゃ館」(陰陽町)は、寄贈された明治中頃の古い町家を利用して,江戸時代から昭和にかけて奈良に伝わる昔懐かしいビー玉、おはじき、お手玉、けん玉などのおもちゃを復元展示している。また江戸時代からのからくりおもちゃを研究してこられた鎌田道隆・奈良大学教授の研究室から寄贈された618点のからくりおもちゃも、順次入れ替えながら展示しているそうです。

奈良市の施設だが,運営はNPO法人がおこなっており,常駐されている方が説明に当たっておられる。体験コーナーでは,復原されたからくりおもちゃを説明を受けながら実際に手に取り触れて遊べます。また木・竹・紙・土などの自然素材を使いおもちゃを実際に制作体験することもできる。
9~17時、休館日:水曜日、入館無料



「奈良市音声館(おんじょうかん、鳴川町)」は元興寺小塔院跡と道を挟んで向かい合う位置にあります。平成6年(1994)奈良市が「歌声による人づくり、街づくり」を目的に設立。ならまち振興財団が管理・運営する。わらべうた教室、歌の交流、コンサート、ギャラリー展示など音楽をとおして奈良の歴史や文化に触れようとする施設。館名は東大寺大仏殿前の国宝八角灯籠の四面に描かれている音声菩薩(おんじょうぼさつ)からきているそうです。
9時~17時、月曜日と祝日の翌日が休館,入館無料なのでトイレ,休憩にどうぞ。「ならまち」にはこうした”おもてなしトイレ”が各所にあります。安心して散策できます。

「ならまち」を歩いていると、白壁と黒板張りの古い家屋を目にする。こうした古い町家を残していこうと、奈良市と民間が努力されているようです。「ならまち格子の家(元興寺町)」は、「ならまち」の江戸時代末から明治時代にかけての伝統的な町家を再現した施設。主屋、中庭、離れ、蔵など奥に細長い造りになっている。土間,格子など各所に昔ながらの暮らしの知恵がつまっている。「箱階段」(収納箱を兼ねた階段)から二階にも上がれます。二階は板張り,白壁,裸天井の異空間となっている。かっての町家はこんなんだったでしょうか?。
9時~17時,月曜定休(祝日の場合は翌平日)、入館無料。トイレはもちろん腰掛けベンチなども置かれ,休憩できるようになっている。散策マップなど各種情報も用意されています。

「ならまち格子の家」の斜め向かい側は、国の重要文化財に指定されている「藤岡家住宅」です。

元興寺の南西、「ならまち」のほぼ真ん中にあるのが「奈良町資料館」です。
館長の自宅を改造し、奈良町の保存を目的として1985年に開館。館長が収集した、江戸時代から明治・大正にかけての絵看板や生活民具などの民俗資料や、仏像や骨董品などを展示している
置かれていたパンフに「明治40年、ならまちで蚊帳を製造する南蚊帳として創業。先代が蚊帳の行商販売で日本の各地に残された古い町並みや文化財を見聞し、保存の大切さを痛感しその後自宅の一部に資料館を造り奈良町で貴重な資料、民具、絵看板を無料で、公開展示しております」とありました。

開館時間:10時~16時,休館日:年中無休,入場料は無料

奈良町資料館と同じ筋に庚申堂が見えている。説明板には 「庚申縁起によれば、文武天皇の御代(西暦700年頃)に疫病が流行し、民衆が苦しんでいた時、元興寺の高僧 護命僧正(ごみょうそうじょう)が仏様に加護を祈っていると、一月七日に至り、青面金剛が現れ「汝の至誠に感じ悪病を祓ってやる」と言って消え去ったあと、間もなく疫病が治まった。この感徳の日が「庚申の年」「庚申の月」そして「庚申の日」であったという。それ以来、人々はこの地に青面金剛を祀り、悪病を持ってくると言われる「三尸の虫(さんしのむし)」を退治して健康に暮らせることを念じて講を作り、仏様の供養をしたと、この地で伝えられている。」とあります。

奈良町資料館から北に向かうと「奈良町にぎわいの家(中新屋町)」に出会う。
大正6年(1917)建てられた町家の内部を公開している。座敷、離れ座敷、茶室、庭,蔵など。奈良市の施設だが,NPO法人が運営している。係員が常駐し親切に説明してくれます。
9時~17時、水曜日休館(祝日の場合は開館)、入館無料

広く綺麗な座敷に感銘し,近くにいた見知らぬおばさんに「こんな所に住んでみたいですネ」とささやいたら,「でも,大変ですワ」と返ってきた。生活格差をしみじみ味わされました。



元興寺の北側、「ならまち大通り」に面して奈良町情報館(中院町)がある。内部は狭く、所狭しと地域の特産品が陳列されている。民間の「地域活性局㈱」が運営し,柿・ゆず・白菜など旬の野菜、豆腐、揚げ物、みそ、しいたけなどの奈良県の特産品を展示・販売しています。観光案内も兼ね,レンタクサイクル(一日800円)もあります。10時~18時、無休,入場無料



「ならまち」の中心を北から南へ貫いているアーケード街が「餅飯殿(もちいどの)センター街」です。近鉄・奈良駅から近いこともあって、このセンター街を通って「ならまち」に入る人が多く、いつも賑わっています。
この商店街の北出口にあるのが高速餅つきで有名な「中谷餅屋」。奈良へ来た帰り際、ここで1個130円のつきたての餅を頬張ることにしています。それにしても見事なつきっぷり、人垣が絶えません。

詳しくはホームページ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ならまち」から白毫寺へ 1

2016年11月10日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年9月24日(土)「ならまち」に散在する観光名所を巡り、高畑を経て「萩の寺」白毫寺まで(その1)

 行基広場  


奈良市の白毫寺は「萩のお寺」として有名で、ちょうど萩の花の最盛期。空模様は怪しかったが、この期を逃しては来年になってしまうと思い、出かけることにした。一日ウォーキングも兼ねるので、「ならまち」と高畑を散策しながら白毫寺へ向かいます。

地下の近鉄・奈良駅から地上に出ると、小さな広場となっており、丸い噴水池の中に行基菩薩像が立っている。
行基(ぎょうき、668~749年)は奈良だけでなく全国的に功績を残された僧侶です。奈良の玄関口の一つ近鉄・奈良駅前に肖像が建てられているのは、東大寺大仏さんとの関連でしょうか。大仏さんのほうを向いておられるという。いつ来ても仏花が供えられています。
今では待ち合わせの場所となり「行基広場」と呼ばれている。托鉢僧がいたり、大道芸、音楽演奏などのイベントが行われ楽しい広場になっている。

 漢國神社(かんごうじんじゃ、林神社)  


近鉄・奈良駅から、大宮通り(国道369号線)を西へ100mほど行くと南へ流れる通りとの交差点となる。この南への道は「やすらぎの道」と名付けられているが、ちっとも「やすらぎ」を覚えない。「やすらぎの道」の右側を100mほど南下すると、道脇に朱塗りの鳥居が現れ、数十m先に境内が見える。鳥居の傍には、右に「縣社 漢國神社」、左に「饅頭の祖神 林神社」との石標が建てられている。

創建について公式サイトに「漢國(かんごう)神社は、推古天皇の元年(593)、勅命により大神君白堤(おおみわのきみしらつつみ)が大物主命(おおものぬしのみこと)を、その後、養老元年(717)には藤原不比等公が大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)を合祀。古くは春日率川坂岡社(かすがいさがわさかおかしゃ)と称す。本殿は三間社流造・桧皮葺で桃山時代の建造物で奈良県指定文化財。」とある。平安末期以降は衰退して、春日大社の末社として興福寺の支配を受けた。

本殿の御祭神は、園神(そのかみ)として大物主命、韓神(からかみ)として大己貴命・少彦名命の三座。”韓神”ということは大陸から招かれた神、ということなのでしょうか?。社名の「漢國神社」は、韓神の“韓”が“漢”に、園神の“園”が“國”に転じて付けられた名前ようです。
大物主命と大己貴命は同じ神様だと、どこかで読んだことがあるのだが・・・?

漢國神社の境内には“饅頭の社”と呼ばれる林神社(りんじんじゃ)がある。むしろこちらの方が有名かも。林神社は昭和24年(1749)に当時の漢国神社の宮司が、菓子業者の協力を得て建てたもの。

公式サイトには「「林神社」(漢國神社内)御祭神   林浄因命(りんじょういんのみこと)
林神社は我が国で唯一の饅頭(まんじゅう)の社。林浄因命は中国淅江省の人で、詩人・林和靖(りんなせい)の末裔。貞和5(1349)年に来朝し漢國神社の社頭に住まれ、わが国最初の饅頭(まんじゅう)をお作りになり好評を博しました。その後、足利将軍家を経てついには宮中に献上するに至りました。現在、4月19日には菓祖神(かそじん)・林浄因命(りんじょういんのみこと)の偉業を讃えるとともに、菓業界の繁栄を祈願する「饅頭まつり」が執り行なわれ、全国からたくさんの饅頭が献上される。春の「饅頭まつり」に対して、秋には「節用集まつり」が執り行われる。林浄因から七代目の林宗二(りんそうじ)は初期の字引きである「饅頭屋本節用集」を刊行し、印刷・出版の祖神としてその信仰を集めている。」とあります。

中国の饅頭(肉まん)は肉や背脂が入っている。それでは不殺生戒を戒律としている仏様へのお供え物に使えない。そこで林浄因は、小豆を煮詰めて味付けしたあんを包んで蒸し、日本で最初にあんこの入った「奈良饅頭」を作った。これが評判になり御村上天皇にまで献上するまでになる。現在なお、林家のご子孫のお菓子屋さんが宮内庁ご用達となっておられるそうです。

林浄因の命日の4月19日には、全国から菓子業者が集まり「饅頭まつり」が行われる。雛壇に全国からの銘菓が並べられ、一般参拝者にも饅頭が配られる。丁度桜の季節なので、花と団子の両方を味わえれるそうです。両脇に捧げられた饅頭がひときわ異彩を放つ。

 開化天皇陵((かいかてんのう)  


漢國神社をでて、やすらぎの道を200mほど南下すると三条通り(春日大社への参拝道)と交差する。その角に「奈良市観光センター」がある。その角を西へ少し歩くと開化天皇陵への入口が見えます。参道はビルに挟まれ窮屈そう。100mほどの参道を進むと正面拝所です。宮内庁の正式名は「春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)」で、陵形は前方後円。第9代開化天皇の陵墓に治定されている。
第9代開化天皇については、「日本書紀」「古事記」とも紀元前208年に生まれ、父・孝元天皇の崩御を受け即位し宮を春日率川宮に遷し、115歳で崩御(「古事記」では63歳)ということぐらいしか書かれておらず、事績に関する記載がない。そこから現在では「実在しない天皇」とするのが一般的です(いわゆる「欠史八代」)。

「実在しない」はずなのだが、幕末の尊皇イズムの高まりから陵墓としての体裁が整えられていった。もともと古墳ではあったが、東隣の念仏寺によって墳丘は削ら墓地に利用されていた。そこに幕末の全国的な天皇陵の再構築(文久の大修陵、1863)が起こり、墓地を移転させ天皇陵に相応しい前方後円墳の形に整えら現在にいたっている。
古墳の考古学名は「念仏寺山古墳(ねんぶつじやまこふん)、弘法山古墳(高坊山古墳)」と呼ばれる。
現在の墳丘の規模は、後円部径48メートル、高さ10メートルで、前方部の最大幅は54メートル、高さ6メートルで、墳丘全長は105メートル。墳丘の周囲には幅8メートルの楯形をした周濠がある。出土した円筒埴輪片等から、5世紀前半(古墳時代中期)の築造と推定されている。宮内庁管轄の聖地のため、これ以上の科学的なメスは入れられないでいる。

それにしても正面拝所のさらに前方に、柵と門が設けられているのは珍しい。正面拝所に近づけないようにしているのには、何か訳でもあるのでしょうか?。

 率川神社(いさがわじんじゃ)  


やすらぎの道に戻り、南へ100mほど歩くと西側に率川神社の鳥居が現れる。
大神神社の境外摂社で、正式名称を「率川坐大神御子(いさがわにいますおおみわのみこ)神社」といい、また子守明神とも呼ばれる

社伝によれば、漢國神社と同じ推古天皇元年(593)、大三輪君白堤(おおみわのきみしらつつみ)が勅令によって創祀した奈良市最古の神社という。
その後は「治承4年(1180年)12月、平重衡の乱によって社殿が消失。中世以降は春日若宮神官により管理され、興福寺とのつながりが大きかった。近世には春日大社の大宮外院11社の中にあったが、明治10年(1877年)3月、内務省達により大神神社摂社率川坐大神御子神社と定められた」(Wikipediaより)そうです。
率川神社の所属をめぐり、春日大社と大神神社の間で争が生じたようだが、最終的に大神神社に属するようになり、同時に長らく途絶えていた三枝祭も復活されたという。

本殿は三棟並んでいる。御祭神は中殿に祀られている媛踏鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと、御子神)。初代神武天皇の皇后で、皇后を主祭神とした神社は珍しい。御子神を挟み、左殿に父神の狭井大神(さいのおおかみ)、右殿に母神の玉櫛姫命(たまくしひめのみこと)が祀られている。子を両親が両脇よりお守りするように鎮座されることから、古くより「子守明神」とたたえられ、安産、育児、生育安全、家庭円満の神様として篤い信仰を集めているという。現在この地の町名も「本子守町」となっている。
神社の説明では、狭井大神は「大神神社の大物主大神、また出雲の大国主神と御同神であります」。そこから大神神社摂社とされたのでしょう。

こんな神聖な場所にもモンスターは出現するんでしょうか?

率川神社の南側に伝香寺あります。伝香寺が有名なのは、花びらが一枚づつ散ってゆくところから散り椿と呼ばれる椿です。東大寺開山堂の「糊こぼし」、白毫寺の「五色椿」と並び「奈良三名椿」に数えられる。
閉められた門から中を覗くと、正面に佇んでいる建物は本堂ならぬ幼稚園でした。

伝香寺については、経営する「いさがわ幼稚園」のサイトに「伝香寺は、戦国時代の大名 筒井順慶(じゅんけい、1549~1584年)の香華院(菩提所)として建立されました。伝香寺開創の願主となった芳秀尼が、堂前に供えた椿が存続(三代目)しています。この椿は色まだ盛んなとき、桜の花びらの如く散る椿で、その潔さが若くして没した順慶法印になぞらえ「武士(もののふ)椿」の名を得たといわれています。江戸時代末期に、唐招提寺長老と伝香寺住職を兼ねた宝静(ほうじょう)長老は椿の愛好家で、奈良三名椿(伝香寺散り椿、東大寺糊こぼし椿、百豪寺五色椿)を好んだと云われています」とあります。

 元興寺(がんごうじ)  



「奈良町(ならまち)」の中心部に位置する元興寺の入口は東側です。入り組んだ「ならまち」の町家の中を歩きながら入口を探すのは大変です。しかし猿沢池の東側の広い道を真っ直ぐ南へ進むとわかり易い。
入口には世界遺産登録の碑が建ち、正面の東門の脇に拝観受付所があります。拝観料500円払い、東門から境内に入る。この時、詳しい「元興寺略史」と彩色の「元興寺極楽坊縁起絵巻」のパンフレットを頂ける。
なお東門は、東大寺西南院にあった門を室町時代の応永18年(1411)に移築し、極楽坊正門としたもの。鎌倉時代の四脚門で重要文化財に指定されています。

元興寺は、わが国最初の本格的仏教寺院として蘇我馬子が飛鳥に建立した法興寺(現在の飛鳥寺)が前身です。和銅3年(710年)の平城京遷都に伴って、飛鳥にあった薬師寺、厩坂寺(のちの興福寺)、大官大寺(のちの大安寺)などは新都へ移転した。法興寺も養老2年(718年)、新都へ移転し「元興寺」と称した。しかし飛鳥の法興寺も中金堂や本尊(止利仏師が造った飛鳥大仏)などを残し、「本(もと)元興寺」と呼ばれるようになった。飛鳥の「本元興寺」は、平安時代に焼失するが、「飛鳥寺(あすかでら)」として再建され今日に至っている。
平城京に移転した元興寺やその東南一帯は「平城(なら)の飛鳥」と呼ばれるようになった。近くにあった川も「飛鳥川」と呼ばれ、今日でも「飛鳥小学校」の名が残っています。

奈良時代の元興寺は近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院で、今日「奈良町(ならまち)」と通称される地区の大部分が元は元興寺の境内であったという。
(パンフレットより)「奈良時代の元興寺伽藍は、南から北に向かって南大門、中門、金堂(本尊は弥勒仏)、講堂、鐘堂、食堂(じきどう)が一直線に並んでいた。中門左右から伸びた回廊が金堂を囲み、講堂の左右に達していた。回廊の外側、東には五重塔を中心とする東塔院、西には小塔院があった。これらの建物はすべて焼失して現存していない。講堂の背後に、長屋のように細長い僧房(僧の居住する建物)がいくつか並んでいる。このうち東側手前の東室南階大房(赤色の部分)という僧房が鎌倉時代に改造され、現存する本堂(極楽堂)と禅室です。」
中世以降は次第に衰退し、伽藍は荒廃していった。藤原氏を後ろ盾に持つ興福寺の隆盛にともない、興福寺の勢力下に収められていった。

この元興寺には、奈良時代に「東室南階大房」という僧坊に居住していた学僧・智光法師が画工に描かせた阿弥陀如来浄土変相図(智光曼荼羅)が残されていた。平安末期の災害や騒乱からくる末法思想の流行により、阿弥陀信仰や極楽浄土への願望が高まってくる。こうした風潮のなかで浄土曼荼羅が信仰を集め、智光曼陀羅を祀る堂は「極楽坊」と呼ばれ、奈良に於ける庶民の浄土信仰の中心となっていった。
室町時代の宝徳3年(1451年)、土一揆のあおりで元興寺は炎上し、五重塔などはかろうじて残ったが、金堂など主要堂宇や智光曼荼羅の原本は焼けてしまった。この頃を境に、寺は智光曼荼羅を祀る「極楽院」、五重塔を中心とする「元興寺観音堂」、それに「小塔院」の三つの寺院に分裂。極楽院は奈良西大寺の末寺となって真言律宗寺院となり、智光曼荼羅、弘法大師などの民間信仰の寺院として栄えた。これが現在の通称「元興寺極楽坊」です。
明治に入ると廃仏毀釈の大嵐に遭う。公式サイトには次のような年表が載っている。
明治元 1868 廃仏毀釈の嵐を受ける
明治三 1870 寺領(朱印地)が没収される
明治五 1872 極楽院に学校ができる(極楽院学校→研精舎→鵲小学校)

こうして明治以降、「お化け寺」と呼ばれるくらい荒れ果て、「無住で、西大寺住職兼務預寺となり、堂舎は小学校(市立飛鳥小学校前身研精舎)や私立女学校(浄土真宗東本願寺経営の裁縫学校)などに使用されている」(公式サイトより)。元興寺は寂れ荒廃し、域内に民家が建ち並び宅地化が進み、現在の「ならまち」が形成されていった。
境内の整備や建物の修理など行われていったのは戦後になってから。昭和30年(1955)に「元興寺極楽坊」と改称、さらに昭和52年(1977)に「元興寺」と改称されている。
境内地は昭和40年に国史跡に指定され、平成10年(1998)12月、ユネスコの世界文化遺産「古都奈良の文化財」のひとつとして登録された。現在なお西大寺の末寺で、宗派は真言律宗に属し、本尊は智光曼荼羅。

極楽坊本堂は、かっての僧房(東室南階大房)を鎌倉時代の寛元2年(1244)に東向きに改造したもの。
「極楽坊本堂または極楽堂とも。寄棟造、瓦葺で、東を正面として建つ(東を正面とするのは阿弥陀堂建築の特色)。この建物は寄棟造の妻側(屋根の形が台形でなく三角形に見える側)を正面とする点、正面柱間を偶数の6間とし、中央に柱が来ている点が珍しい(仏教の堂塔は正面柱間を3間、5間などの奇数とし、正面中央に柱が来ないようにするのが普通)」(wikipediaより)

極楽坊本堂の内部は、中央に3間四方の板敷き内陣があり、特別公開の「軸装智光曼荼羅」が祀られていた。
智光曼荼羅とは奈良時代の僧・智光が夢で見た極楽浄土の様子を描かせた阿弥陀浄土図で、楼閣と池の間に阿弥陀如来と観音、勢至菩薩・十八聖衆・舞楽菩薩・比丘尼を描いた変相図。当麻曼荼羅、清海曼荼羅と共に浄土三曼荼羅と呼ばれている。
奈良時代の元の智光曼荼羅は、室町時代の宝徳3年(1451)の土一揆により焼失してしまったが、転写本とされる「板絵本」「厨子入本」「軸装本」の三図が同寺に残されていた。
たまたま私が訪れた時は秋の彼岸に合わせた特別公開日(9月17日~25日)で、3点の智光曼荼羅が初めて同時公開されていた。この極楽坊本堂の内陣には「軸装智光曼荼羅」(県指定文化財)が掲げられ拝観できる。これは縦約2メートル、横約1・5メートルの絹本着色図で、室町時代の成立とされ、極楽往生を願う仏事「往生講」の際、お堂の四方に掛けて浄土を演出したという。この日は、沢山の人が正座拝観し、お寺の方の説明に耳を傾けられていました。なお「板絵本」「厨子入本」は、隣の法輪館(収蔵庫)で特別公開されていました。

極楽坊本堂と法輪館の間から奥へかけて沢山の小さな石仏が並べられている。説明版によればこの石仏群を「浮図田(ふとでん)」と呼ぶそうです。寺域や周辺地域から集められた2500基ばかりの石塔、石佛類(総称して「浮図」)を田圃の稲のように並べたことからくるようです。中世から江戸時代にかてのものが多いという。その正面には日本スリランカ友好協会の記念としてスリランカ型佛足石が祀られている。

毎年8月23日・24日には、この浮図田で地蔵会万灯供養が行われる。夕刻より灯明皿に灯りが点けられ幻想的な供養が行われる。「ならまち」の夏のおわりを象徴するお祭りだそうです。

元興寺も「萩の寺」として知られています。極楽坊本堂(写真の左)や禅室(右)を取り囲むように萩が植えられている。時期的に最盛期なのですが、花着きが良くないのかそれほど鮮やかではありませんでした。
写真に見える本堂の裏側(禅室側)の屋根には、一部に飛鳥・奈良時代の古瓦が現在なお現役で使用されているという。「ここに使われている古瓦は上部が細くすぼまり、下部が幅広い独特の形をしており、この瓦を重ねる葺き方を行基葺(ぎょうきぶき)という。」(wikipediaより)。色が褐色をしているそうだが、どれだろう?。一週間前までは、この本堂と禅室の間に足場が組まれ、古代瓦見学会が催されていたそうです。

 元興寺塔跡(五重塔跡)と小塔院跡  


「ならまち」の中心部で、現在の元興寺の南側にはかっての大寺院・元興寺の金堂や講堂、五重塔、南大門がそびえ立っていた。それらは全て焼失し残っていない。五重塔には僅かにその痕跡が残っている。
元興寺と御霊神社との間に石碑「史蹟 元興寺塔址」が立っている。参道らしき小路を奥へ入ってゆきます。
「元興寺」と書かれた扁額の山門を入ると直ぐ境内らしい広場に出る。周辺を民家に挟まれ窮屈そうな境内には小堂や石塔・供養塔などが乱雑に配置されている。本堂らしき?建物も。

境内の一部に柵がなされ、基壇と礎石が残されている。これがかっての五重塔の跡のようだ。五重塔は総高は24丈(約72メートル)との記録があり、東寺五重塔より高かったことになる。実際には19丈程度(約57メートル)であったとされるが、それでも東寺の五重塔(54.8メートル)より高い。残念ながら安政6年(1859)、近隣火災の類焼で観音堂などとともに焼失してしまう。塔跡から出土した元興寺塔跡土壇出土品と、薬師如来立像(国宝)は、奈良国立博物館に寄託されています。
元興寺の法輪館にある五重小塔(国宝)は、この五重塔の設計モデルではなかったかといわれている。


「ならまち」の西側、奈良市音声館の前に小塔院跡への入口がある。「真言律宗 小塔院」の門標が見える。細い小径を入って行きます。
小径の奥に小さな広場が現れる。落ち葉が散らかり、雑草が生え、寺院の面影は全くありません。朽ち果てそうな木製ベンチが置かれ、その下から野良猫が眼を光らせている。どこが跡なのかの目印もない。
ここにはかって小塔堂を中心とする元興寺の小塔院があった場所とされています。昭和40年(1965)国の史跡に指定されています。



詳しくはホームページ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする