山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

紅葉の談山神社まで9キロ・ウォーキング(その2)

2013年12月30日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2013/12/1(日)、10時半、ようやく談山神社の表門にあたる東大門に到着。近鉄・桜井駅から3時間半で、予定より少し早かった。寄り道しなければ3時間弱でこれそうです。ここからが談山神社の表参道。そそり立つ杉立木の間を抜け、苔むした石垣や怪しげな石塔など見ながら坂道を進むと、20分ほどで賑やかな談山神社入口。


赤い鳥居と140段の石段が立ち塞がる、いや歓迎してくれます。さすが「関西の日光」と呼ばれるだけあり(日光は行ったことありませんが・・・)、色鮮やかな紅葉はワクワクドキドキさせてくれます。ただ若干終末期の紅葉でしたが・・・。談山神社は山腹にへばりついた神社、坂道が結構多い。でもお年寄りの方も心配なく、階段を利用しなくてもいいように緩やかな回り道も用意されています。俺は階段登ったゾ!。


階段登りきると、堂塔が展開する境内だが、まず山へ行く。境内西奥の登山口から、これまた階段を登り御破裂山を目指します。15分ほど山登りを体験すると、御破裂山と談山の分かれ道に出会う。左方向へ進み平坦な尾根道を5分ほどで頂上に着く。厳めしそうな墓所が待っているだけで見るべきものはないが、ちよっと左の道を行けば「大和平野展望絵図」が掲げてある。この図の通りに展望できるかどうかは保証できかねるが、ともかく見晴らしはきく。この横にロープを張り立ち入り禁止にした空き地に、ピカピカのお墓が建ち、「藤原家」と刻まれている。こいつは何だ?、などどうでもよく、さっさと次へ。
さっきの分岐点まで戻り、今度は談山へ。1~2分で丸い広場につき、真ん中に「御相談所」と刻まれた石碑が建っている。ここが殺人計画の謀議場所として名高い「談所(だんじょ)が森」「談の峯(たむのみね)」、即ち「大化改新談合の地」とされる。

殺された入鹿の首が、殺人現場のある飛鳥・真神原を飛び回ったという噂もあるが、この多武峰の森まで鎌足を追っかけてきたという伝承も残されているそうです。「御破裂山(ごはれつざん)」という物騒な名前の由来は、この山が時々鳴動し鎌足の神像にひびが入ることからくるそうですが、これも入鹿の呪いなのではないでしょうか。
拝殿からの眺め。素晴らしい紅葉の景色が眼下に広がる。回廊に高欄、軒から吊らされた釣灯籠が趣をいっそう増してくれます。ここ拝殿内は展示室にもなっており、あの有名な『多武峰縁起』の絵巻が広げられて展示されている。入鹿さん可哀そう、っていう気になるかどうか。

写真は権殿(ごんでん、国重文)と十三重塔 (国重文)。境内の中心で「けまりの庭」と呼ばれる場所。談山神社の数ある景観スポットの中でも特別らしく、記念写真屋さんのスタジオ(?)が設けられている。またこの広場では毎年春(昭和の日)と秋(文化の日)に、京都蹴鞠保存会による蹴鞠(けまり)を奉納するイベントが催されるそうです。



心をそそる案内板が、140石段の途中に立っている。
「恋神社
     恋の道(ご縁を心に願いながら歩きましょう)
     むすびの岩座(ご縁を心に願いながら撫でましょう)」

縁が無いとは知りながらも、歩いていた。たどり着いたところは真っ赤なお堂さん。恋神社と呼ばれる東殿です。なにやら情熱的な恋の歌人・鏡女王(かがみのおおきみ)が祀られているそうです。
ここから見下ろす紅葉の広がりも素晴らしい。撫でるの忘れてた・・・>

鎌足さんも入鹿さんも、どうでもいい。恋さんもどうでもいいヤ、ともかくここの紅葉は素晴らしい。

詳しくはホームページで。

紅葉の談山神社まで9キロ・ウォーキング(その1)

2013年12月28日 | 寺院・旧跡を訪ねて
2013/12/1(日)、紅葉シーズンももうそろそろ終わり。今年最後の締めに、「関西の日光」談山神社へ紅葉参拝に出かけることにした。バスで行っては、単なる物見遊山。健康(メタボ)のため歩こう、と大義名分をつける。
桜井市発行の観光パンフレットに「近鉄・桜井駅から談山神社まで片道約8.8km、5時間」のハイキングコースと紹介されている。よーしこれだと、5:30 家を出、近鉄上本町駅 6:12発の急行に乗り、6:50 桜井駅に到着。天気快晴、肌寒し、心うきうき。夜があけ、しらじらとした早朝の空気はどこでも美味しいものだ。談山神社をめざし多武峰街道を、サァー歩こう!

まず駅近くの「若桜神社」に立ち寄る。小さく慎ましやかな神社ですが、古い記録では履中天皇が磐余稚桜宮を築いたとされる。ただし同じ磐余にある「稚桜神社」だという説もあり、現在でも決着がついていないようです。
次に、これも多武峰街道沿いにある等彌神社(とみじんじゃ)へ。期待してなかった神社だが、境内を周って驚いた。大変奥が広く深く、静寂さの中に落ち着いた神社で、気分を爽やかにしてくれます。訪れる人は無く、地元の方が早朝ウォーキングや散歩をされているだけ。この時期、紅葉も鮮やかで、もう少しのんびり散策していたい気分になる。
写真左の赤い鳥居をくぐれば、「鳥見山観光散策路(往復約2km)」という登山路が頂上まで続いている。この鳥見山の山頂は、初代神武天皇が橿原宮に即位後初めて「霊畤を立て、皇祖天津神を祀り、大考をのべられた」とされる場所です。すなわち天皇家の大嘗祭、新嘗祭の発祥の地なのです。今回は時間が無く登らなかったが、いつか登ってみたい。正面の階段を登ると、最深部の本殿・上津尾社が鎮座する。
人通りのほとんどない早朝の道を、歩くこと一時間半で聖林寺(しょうりんじ)着く。談山神社手前の山腹に瓦屋根をのぞかす聖林寺は、門構えといい建物の大きさといい、どこでも見られるありふれた社寺に見えます。
この何でもなさそうなお寺が、観光スポットとしてパンフレットやガイド本には必ず載っているのは、それだけの値打ちを秘めているから。それは天平時代を代表する国宝「十一面観音立像」がお祭りされているからです。早朝すぎて拝観できなかったが、写真で見ると、この仏様の数奇な運命を表しているように、かなり痛み傷ついておられます。それが哀れさを誘い、よりいっそう魅力的なのでしょうか。

このお寺の庭から見晴らす景色がすばらしい。ここまで歩いてきた道すがらが一望できる。等彌神社のある鳥見山、その奥に三輪山の山稜。ここも「ヤマトはクニのまほろば」を感じさせてくれる場所のようです。
九時、歩くこと二時間で談山神社までの中間点、崇峻天皇・倉梯柴垣宮(くらはしのしばがきのみや)・倉梯岡陵に着きました。今まで沢山の天皇陵(古墳)を見てきたので、”アアまたか”とう風景です。厳めしい構えと柵、番小屋、どこも同だ。そしてここが果たして崇峻天皇の埋葬地か?、多くの疑問があるのも他の天皇陵と同じ。

天皇陵なんて、どれもこんなものです。江戸時代の古い伝承記録を元に天皇陵と定め、未だにそれを保守している。宮内庁は、科学的な検証を行おうとする姿勢さえ示さない。発掘調査どころか、立ち入りさえ許さない。先日、あの箸墓古墳に考古学者の代表数名が立ち入りを認められ、頂上部を歩いて目視だけの観察をした、それだけでニュース記事になるほどです。宮内庁様は、何を恐れておられるんでしょうか?

談山神社へ残り半分、山間の多武峰街道を歩く。ハイキングコースといえ車道と同じ。歩道はなく、狭い路肩を車を避けながら進むのは気分がそがれます。そうした時、横を流れる寺川のせせらぎと色鮮やかな紅葉が元気付けてくれます。

詳しくはホームページで。

11月21日、京都♯大原♭・・金比羅山♪♪(その2)

2013年12月21日 | 山登り

山を下りると、そこは紅葉盛りの寂光院だった。紅黄に彩られた階段を登り、山門をくぐるとすぐ本堂です。右に「四方正面の池」、左に「汀(みぎわ)の池」を配置した本堂は、庵に近いような質素で素朴な造り。壇ノ浦で平家滅亡の悲劇を体験した建礼門院徳子が出家し、余生の住まいとしたのに相応しいのかもしれない。今は、真っ赤なカエデや山茶花に彩られ華やかだが、山間のひっそりした、訪れる人のいない隠れ家だったのでしょう。ここを後白河法皇がお忍びで訪れる「大原御幸」で「平家物語」は幕を閉じるという。

平成12年(2000年)5月9日未明、もの静かなこのお堂は一瞬のうちに炎につつまれた。何者かが本堂西側の縁側付近に大量の灯油をまいて火を付けたのです。全てが失われました、お堂も、仏も、建礼門院の遺物も。今もって犯人はわからず時効を迎えてしまっている。諸行無常の響きあり・・・平成の「れきしヒステリー」

寂光院を後にし高野川を渡り、のどかな山里の道を三千院へ向かう。前方には、昨年の今頃登った比叡山が横たわります。その山頂付近に広大な境内をもつ「日本仏教の母山」延暦寺が、威光たけだけしく京の都を見下ろす。
一部の僧侶が山から降り、新しい仏の道を探し求めていったのがこの大原の里。

三百メートルほど続く参道は、右手に高野川の支流・呂川が流れ、左側には京の特産品のお土産店が並ぶ。特に、建礼門院が名付け親とされる「紫葉漬」が有名です。私は「ゆず入りポン酢」(1400円)を買い、帰ってから湯豆腐で一杯やるのを楽しみに。

近くには律川という高野川の支流もあり、三千院はこの「呂川」と「律川」にサンドイッチされた位置にあります。この両川の名は、ここ大原の寺院で誕生した声明(節をつけて謡うように読経すること)のふたつの旋法、唐風の「呂」と和風の「律」の節回しからきているそうです。この二つの旋法を使い分けられないのが「呂律がまわらない」、今風では音痴、または酒飲み・・・。

ようやく三千院の門前に着きました。「紅葉の馬場(桜の馬場)」と呼ぶそうです。

 「京都 大原 三千院
    山に疲れた 男が一人~♪♪」

 「京都 大原 三千円~♪♪」  京都駅からタクシーで三千円の時代もあったようだ(昭和40年代)。
大原のメインスポットだけあって,平日にもかかわらず人出が多い。年配の方がほとんどだが、若い女性も多い。”~に疲れた”人が多いいのでしょうか・・・(*^_^*)、わたくしは山に疲れましたが・・・!(^^)!。

客殿、宸殿では貴重な仏像・襖絵,掛け軸などを鑑賞できますが、それらはさておき((*^_^*))、庭です。
杉木立と絨毯のように敷き詰められた緑の苔、そして赤や黄に色付いた紅葉の織りなす景色がなんともいえない。春は桜、夏はカエデの新緑、秋の紅葉、そして雪景色になったりと、季節々により趣を変え、叙情をかきたて堪能させてくれるそうです。四季を通じて多くの観光客が訪れるのも肯ける。紅葉の奥に見えているのが三千院の本堂にあたる往生極楽院。それはさておき((*^_^*))、庭です。

三千院のシンボル(?)、マスコットキャラ(?)の「わらべ地蔵」さん。ここが一番の人だかり。多くのシャッターを浴びたせいか、つぶらな瞳を閉じている。現代の彫刻家・杉村孝(1937-)作とか。こんな人知らんが、「三千院のわらべ地蔵」はメディアなどにも取り上げられた超有名人です。全部で七体あるようだが、三体しか見れなかった。

この後、実光院・勝林院・宝泉院・来迎院・音無の滝などを廻りましたが、詳しくはホームページをのぞいてください!

最後に、帰り(往き)は八瀬(やせ)へ寄ろう。混雑したバスに40分も揺られるよりは、叡山電車を途中から(まで)利用するのが良い。叡山電鉄の八瀬駅周辺も紅葉(桜)の名所ですゾ!。どの行き先のバスも八瀬駅前に止まるヨ。

もう一つ最後に、大原から30分ほど奥へ歩けば紅葉で知られた「古知谷(こじだに)」へでる。そこの山門から阿弥陀寺へ続く約600mの渓谷沿いの道は、まさに「紅葉の回廊」だそうです。これを見れなかったのが、一番悔しい・・・(-_-;)。

11月21日、京都♯大原♭・・金比羅山♪♪(その1)

2013年12月15日 | 山登り
京都・大原へ一度行ってみたかった。紅葉の時節、今が最適かもしれない。寂光院や三千院の紅葉を見るだけなら、単なる暇つぶしに・・・実際そうなんだが。大義名分に周辺の山を探す。あった!、「大原三山」が。先日「高野三山」に行ってきたばかりだが、「大和三山」といい、どこも「三山」がお好きなようだ。大原三山の一つ金比羅山へ登ろう、ついでに大原の里へ紅葉見物に。紅葉のついでに山だが・・・いや、どっちがどうでもイイヤ、と早朝六時前家を出る。

京阪電車・京都出町柳駅から乗車した大原行きのバスは大混雑。しかし登山口のある戸寺で下車したのは俺一人。チョット寂しい気が。この戸寺が海抜210m、目の前の金比羅山が標高570m。標高差は360mほどなので初心者向きの山でした。
江文神社をすぎ、静原・鞍馬へ通じる府道40号の江文峠に出ると登山口があります。「金比羅大権現」の大きな石碑と鳥居があるので参道になっているようだ。どこの山も信仰の対象になっているようで、頂上には神社やお寺が鎮座する。だから登山道は参拝すための参道でもあるのです。

その入り口に「クマ出没注意!」の注意書きが。そして「クマは音に敏感です。外出する際には鈴等の音の鳴るものを携帯しましょう」と補足されている。今まで何度も出会った警告なので、今回は痴漢撃退用防犯ベルを購入し持参してきた。写真の白い紐の部分を引っ張れば鳴るようになっている。途中の山中でテスト試音してみたら、かなりの音量だったので大丈夫か・・・。でも逃げてくれるんでしょうネ?。実際、熊と御対面したらどうなるんでしょう?、手が震えたりして・・・、想像などしたくない。
登山途中に見晴らしの良い場所などありません。頂上近くになればやっと比叡山が一望できるようになります。

頂上はこの有様。赤い鳥居に、倒れ掛かった祠。石塔が倒れ、赤い板の柵が戦乱の後のようになぎ倒されている。その昔、保元の乱(1156年)敗れた崇徳上皇は讃岐(香川)の地に島流しされ、非業の死をとげた。京の都に災いが起こるたびにその怨霊が恐れられた。その怨霊を鎮めるための、この頂上にも金比羅大権現と崇徳天皇を祀る社が建てられたというが、今はない。この悲惨な有様は、崇徳天皇の怨霊のたたりか?


この頂上の裏側へ廻ると、大きな石柱が断崖絶壁の際に建っている。恐る恐る覗きみると、ハングル文字が刻まれているではないか。実は、ハングルでなく神代文字の一種で「阿比留(あびる)文字」というものだそうだ。まァ、そんなことはどうでもよく、ここは絶好の眺望場所。大原の里から比叡山まで見渡せる。見とれて足元が疎かにならないように。お陀仏ですゾ!

詳しくはホームページをのぞいてください!


11月6日、高野山女人道の高野三山を歩く

2013年12月10日 | 山登り
サァ~、高野三山へ入ろう。奥の院御廟橋の手前、水向地蔵の横に「三山巡り参詣道」の石柱と登山口を示す標識があるのですぐ分かる。そこの横道を入り小橋を渡ると、山の方へ向っている山道がある。数分進むと、なんと大師御廟前へ出てしまった。どうも高野三山への登山道とは違うようだ。引き返し,周りを見渡すと駐車場の奥に隠れるように車道が走っている。不安な気持ちで歩いて行くと、向こうにロープの張られた横道が見える。そこで思い出した。昨夜ネットで下調べをした時、「ロープの張られた道に入る・・・」と書かれていたのを。しかし、登山口だと知らせる案内らしきものは何も無い。しばらく進み、何の標識にも出会わなかったら引き返すつもりで入ってゆく。15分くらい進むと「--→摩尼峠」の標識が現れ、ホッとしました。昨夜ネットを見ていなかったら、あの車道をどんどん進んでいただろう。どこへ行ったやら・・・。高野町は、なぜ高野三山への入り口に標識を設けないのでしょうか?。これでは入山を嫌がっているように思えます。

楊柳山(ようりゅうさん)山頂。標高1008m,高野三山の最高峰。祀られているのが楊柳観音。この観音さんは手に楊柳枝(ヤナギ)を持っていることが特徴だそうです。そこから「楊柳山」という山名になったのだろうか?。

高野三山歩きの詳しい内容はホームページを見ていただくとして、この山について。

高野三山とは、奥の院をグルッーと取り囲むようにその背後に連なる摩尼山(まにさん)、楊柳山(ようりゅうさん)、転軸山(てんじくさん)の峰々を指します。標高は1000mありますが、高野町が900m位なので実際の高度は100mほど。三山を上がり下りするので起伏はかなりあるが、山歩きとしては手ごろなコース。ただし見晴らしは全く・・・で、ただ黙々と歩むだけ。
途中に幾つか「高野山女人道」と表記された標識が立っている。「摩尼山←-黒河峠-→楊柳山」のように、来た方向と進む方向は記されている。ところが第三の道、即ち分岐する道はあるのだが、全て「---×」と進入禁止になっている。危険?、崩落・崩壊?、行き止まり?・・・。どうも、どれも奥の院の方へ下りて行く道のようです。聖域の背後から進入されたくない、ということでしょうか。ですから、いったんこの山へ入ったなら、前へひたすら進み三山を乗り越えるか、それとも登山口まで引き返すしかない。体調、天候などの急変で断念し、途中で町内の方向へ下山しようとしてもできないようです。
女人禁制時代の「高野山女人道」のままなのでしょうか?。かって女人達は高野山内には入れず、それを取り巻く険しい峰々を巡り、木立の隙間から垣間見える寺院や御廟を眺め、涙するしかなかった。今は寺院や御廟さえ見えない。
不安な気持ちを抱きながらも、かろうじて最後の転軸山から降りてきました。ところが、ここから近くと思われる参詣道の方へ出る道が、これまたよく分からない。持参の地図はあいまい、車道脇の標識はどれも不動坂の「女人堂」を指す。どこまでいっても、外部から高野山の聖域内へ入るのを拒んでいるように感じられました。


11月6日、紅葉の高野山を訪ねて(その4)

2013年12月09日 | 寺院・旧跡を訪ねて

高野町内の東方へ歩いてゆけば家並みが途絶え、静寂な森が現れる。「一の橋」を渡ると、大師御廟のある奥の院まで異様な世界が展開する。杉木立に囲まれた参詣道が2キロにわたって続き、その両側には、墓、墓、墓・・・、塔、塔、塔・・・が乱雑に、所狭しと、そして「ワレこそは、あの偉大な・・・」と大見得を張って、延々と続いていく。

目に付いたものだけでも
奥州仙台伊達家、曽我兄弟、薩摩島津家、小田原北条家、紀州初代藩主徳川頼宣、武田信玄勝頼、上杉謙信、浅野内匠頭 赤穂四十七士、因幡之国鳥取城主池田候、石田三成、明智光秀、初代 市川団十郎、安芸浅野家、豊臣家、織田信長

ここは鎌倉時代から現代までの公家、高僧、諸大名、有名な戦国武将などの約20万基を超える墓碑や供養塔、祈念碑、慰霊碑が約2キロにわたって立ち並ぶ一大霊場となっている。信玄も謙信も、信長も明智も、豊臣や徳川など生前の憎悪を超えて敵味方なくみんな一緒に眠っています。 まるで歴史散歩をしているようです。

左から「曽我兄弟、明智光秀、初代市川団十郎」
これは武田信玄勝頼墓所、説明の案内板まで掲示されている。

豊臣家墓所。さすが一番広いスペースを確保している。その割りには、墓はチョボイ。



また現代の一流企業の慰霊碑や供養塔もある。江崎グリコ、パナソニック、日産など。こういうのはチョッと興ざめになる。清浄な気分が損なわれるので、勘弁してほしい。
私は目にしていないが、コーヒーカップ(UCC上島珈琲)、ロケット(明和産業)、福助人形(福助足袋)、シロアリのモニュメント風の供養塔もあるとか。高野山をおちょくってはいけませんゾ。


玉川にかかる御廟橋。橋を渡り、正面の階段を上がると燈籠堂(とうろうどう)で、弘法大師の霊が祀られている大師御廟(だいしごびょう)は、燈籠堂の裏手地下にあるようです。不浄な私には近づいてはならないような神聖な場所のような気がして、目の前の階段は登りませんでした。サァー、山へ入って汚れを落とそう・・・

詳しくはホームページをどうぞ!!

11月6日、紅葉の高野山を訪ねて(その3)

2013年12月08日 | 寺院・旧跡を訪ねて
大門をくぐってすぐの高野山内西側に、「壇上伽藍」と呼ばれる聖域があります。東端の「奥の院」と並び、高野山を代表する二大シンボルとなっている。「伽藍」とは,梵語(サンスクリット)で僧侶が集い修業する閑静清浄な場所という意味。「壇上」は「壇場」とも書き、空海が朝廷から賜った高野山西部の小高い台地に壇場をひらき、真言密教の道場として諸堂(金堂、根本大塔など)を創建した場所を指す。そこからこれら諸堂の集まっている地域の総称を「壇上伽藍」と呼ぶようになったそうです。大師教会本部横に、「蛇腹道」と呼ばれるが真っ直ぐな参道がある。紅葉に覆いかぶされた参道を抜けると、壇上伽藍の諸堂が展開し、その周辺は色鮮やかな紅葉の真っ盛りの世界。さすがにここは訪れる人が多い。信仰心の厚い人達なのか、それとも紅葉目当てか。多分に後者が多いいのではないでしょうか。私も例外ではありません・・・(大師さまスミマセン!)
「壇上伽藍」の中心が、この真っ赤な「根本大塔」。真っ赤すぎて、清浄と荘厳の高野山には似合わないような気がしますが、曼荼羅(まんだら)の世界には相応しいのでしょうか。真言密教のシンボルと云われるだけあって、中へ入って行く人が多いい。私は、紅葉と山が目当てなので、先を急ぎます(大師さまスミマセン!)。

「蛇腹道」の近くに「金剛峯寺(こんごうぶじ)」があります。ここは真言宗管長のお住いとなっており、高野山内にある117寺院の本坊であり、真言宗の全国3600におよぶ末寺、信徒約1千万人の総本山なのです。いわば「総理官邸」のような大切な所。焼失などしてはいけません。そのためか、檜皮葺の大屋根の上には雨水を貯めた天水桶が、そしてハシゴが架けられている(役立つのかナ?・・・)。


さらに東へ歩くと「苅萱堂(かるかやどう)」に出会う。「石童丸物語」や,浄瑠璃「苅萱道心」で知られたお堂です。堂内には、この悲しい物語を絵にした30枚の額絵が掲げられている。無料なので、訪れたらぜひ堂内を一周してみてください。

詳しくはホームページをどうぞ!

紅葉の高野山を訪ねて(その2)

2013年12月07日 | 寺院・旧跡を訪ねて
弁天岳を下りきると、真っ赤な「大門」が目の前にそびえる。これが高野山の総門にあたり、ここをくぐって高野山内へ入っていくのです。女人禁制の時代には、女性はこの門をくぐることができず、門の前を素通りし険しい峰々を巡ってゆくしかなかった。
朝の静寂な町中を歩いていくと、紅葉に彩られた寺院が並ぶ。やがて「高野山霊宝館」前に着く。高野山1200年にわたり守りつがれてきた国宝、重文の数々が保管されている。ここの紅葉も美しい。高野山は「一山境内地」と称される。117の寺院がある高野山は全体がお寺で、町内すべてが境内地なのです。荘厳さを漂わせ落ち着いた町内は、なにか安らぎを与えてくれます。同じ宗教町だが、天理市とはだいぶ違うようだ。天理は新興宗教の即興の町,高野山は千五百年の歴史の重みを感じさせてくれる町なのです。
霊宝館の横に「高野山大師教会本部」がある。真言宗の布教活動の中心施設らしい。近くの歩道のベンチ脇に、可愛らしくも不思議な石造物を見つけました。つい坊主頭をさすってやりたくんる。明日香の謎の石造物を数々見てきたが、これも謎の?でしょうか。詳しくはホームページを見てネ!

紅葉の高野山を訪ねて(その1)

2013年12月06日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2004(平成16)年,吉野,熊野と併せて世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録された高野山。一度は訪れたいとタイミングをさぐっていた。ネットで調べると紅葉の最盛期という。2013/11/6日(水)ゴー。
南海電車・大阪なんば駅から急行で1時間40分、電車終点の極楽橋駅に到着。予定はここから女人堂までトレッキング。ところが駅員は「途中、台風で壊れている、それに熊が出たとか・・・」と脅す。これはたまらんと発射間際のケーブルに飛び乗る。ケーブル高野山駅に着く。さてここから予定の女人堂まで、どうやって歩いて行くかだ。駅から二本の車道がでている。一つは大門を廻って高野町へのコース。高野町から女人堂へ回れるが、とてつもなく遠回りで、計画とは大きくずれてしまう。もう一本が女人堂に直結しており、バス利用で5分位。徒歩でも15分位で近い。ところがなんと、この道は南海バス専用で人どころか一般車さえ通れないのです。結局、南海電車のケーブルとバスに乗り女人堂へ行くしかなかった。歩けば、蛇腹にくねった平坦な道でウォーキングに最適。南海電車のやり方に怒りをおぼえました。お大師さま、天罰を!。朝の女人堂ははすがすがしかった。かって女人禁制のため高野山内に入れなかった女性達は、周辺の険しい峰々を巡り、木立の隙間から垣間見える伽藍や奥の院に手を合わすしかなかったのです。そうした女性たちのために宿泊所として設けられたのが女人堂です。この女人堂は、その昔「小杉」さんという女性が建てたものです。堂内にはその小杉さんの悲しい物語が綴られた一片の紙が貼り出されています。涙をさそいます・・・。堂横には、その小杉さんを祀った小さな祠が設けられていました。
この女人堂の正面に弁天岳への登山口がある。これから登っていくコースが「高野山女人道」。それにしても、かって女性たちが必死に歩んだ女人道、今はケーブルやバスを使わざるを得ないとは・・・・弁天岳からの眺め。熊野の方向でしょうか?。歩かなければ、こうした景色を見ることはできないヨ!

詳しくはホームページをどうぞ!!