★2020年11月25日(水曜日)
司馬遼太郎「街道をゆく」のなかに「嵯峨散歩」というのがある。水尾、天竜寺、保津川と渡月橋、大悲閣、法輪寺、松尾大社、車折神社について述べています。これを読み、私も久しぶりに嵐山へ行ってみたくなった。年に2、3度は行っていたのだが、このコロナ騒動で昨年春以来訪れていない。外国人観光客のいなくなった嵐山ってどんなんだろう、と興味あります。
今回は、大悲閣(千光寺)と嵐山モンキーパークいわたやま
大悲閣(千光寺)への道
次は角倉了以ゆかりの大悲閣(千光寺)へ。大悲閣へは渡月橋南詰からさらに渡月小橋を渡った突き当たりを右折する。ちょうど法輪寺の裏口がある場所だ。そこから大堰川(保津川)右岸(南岸)を上流へ約1.2キロ、徒歩20位かかります。
まだ午前中なので渡月橋周辺は人通りが少ない。それともコロナの影響か?。
大堰川(保津川)の左岸(北岸)は、今まで何度も歩いたことがあるのだが、この右岸は初めてです。左岸から川越しに右岸を眺めていて、人通りの少なさから興味が無かったのです。竹林の小径、野宮神社など観光名所が多く観光客で混み合う北側に比べ、南側の川沿いには大悲閣を除いてこれといった観光名所がなく、ウォーキング、ヒッチハイクの人か、アベックさんしか歩いていない。喧騒の観光名所に興味がなく静かに嵐山を感じたい人には、隠れた穴場の散策路かもしれない。別に隠れてもいないのだが、観光雑誌などにはほとんど触れられていないのです。
対岸に小倉山、亀山が見える。司馬遼太郎は「亀の背のような亀山も、この右岸から、水景を前提にしてながめるべきものだということも、このとき知った」と書いています。この右岸でしか亀山の全体が見渡せないのだ。川の北側では近すぎて、亀なのか馬なのかわかりません。
渡月橋がだんだん遠くになってきた。「歩きつつ、ふりかえると、そのつど景観がかわる。渡月橋を中景にしたその景色は、右岸のこの小径からみるのが、もっとも大観といえる」(司馬遼太郎)。納得です。
だんだんと川幅が狭まり、山が迫ってくる。
樹木と川の自然しか見るものがない道だが、この紅葉の時期は退屈しません。
保津川くだりの舟も見えてきた。
大堰川(保津川)に沿って道は続く。道中の所々に大悲閣(千光寺)の案内が置かれています。これぞ素人の手作りという案内板で、親しみを感じます。ただし、周辺の景観とはマッチしていません。英語も混じっているのは、海外観光客が多いいことの表れなのでしょうか。「GREAT VIEW」が待っているようです。
この辺りから北岸の道はなくなっている。保津川の渓谷美を味わうにはこちらの南岸を歩くしかありません。川幅が狭まり白い岩肌が目に付くようになり、川面も青から緑色に変わってきた。
幌付き小舟が保津川下りの舟に接近し食べ物や飲料水を販売している。
道も狭くなり、そろそろ大悲閣に近づいてきたようです。
大悲閣(千光寺)(だいひかくせんこうじ)
道はある建物に突き当たる。星野リゾートの旅館「星のや 京都」らしい。塀のようなもので囲まれ入口も見えず、営業しているような様子はない。コロナのせいでしょうか。すぐ横に階段があり、「大悲閣道」と刻まれた石柱が立ち、「大悲閣 千光寺」への入り口となっている。
千光寺はもともと、後嵯峨天皇の祈願所として清涼寺の近くの嵯峨中院にあったが、長らく荒廃してしまっていた。保津川開削に成功した嵯峨の土倉業、角倉了以(すみのくらりょうい、1554-1614))が開削工事で亡くなった人々を弔うために、慶長19年(1614)に千光寺をこの地に移し「大悲閣」とした。自らの念持仏だった千手観音を祀り、晩年にはこの大悲閣で過ごしたという。
了以は天台宗を奉じていましたが、子孫の角倉玄寧が文化五年(1808)に再興したとき、寺は禅宗の黄檗宗となった。公式サイトに「寺は明治維新の際、大悲閣を除き、境内、山林、什宝等多くを失いましたが、明治になって寺地を拡張し、漸次諸堂を整備しました。」とある。
正式名は「嵐山大悲閣千光寺」だが、通常「大悲閣」と呼ばれている。「悲」は”悲しみ”の意味でなく、仏の”慈悲”を指します。
大悲閣は嵐山の中腹、標高100mほどの場所にあるので階段を登らなければ」ならない。登り口には杖も用意されていたが、必要とするほどの険しさではありません。約200段ある石段はつづら折れになっている。要所にはテスリが、また休憩用の椅子まで置かれています。
登り始めて10分位で簡素な山門が見えてきた。山門の奥に梵鐘がのぞく。3回まで自由に撞くことができ、撞くと鐘の音が山峡に響き、爽快な気分になります。
鐘楼の脇を上るとすぐ境内だ。ほんとに小さい境内で、どこか農家の庭先のようです。置かれている赤毛せんの腰掛だけが農家でないことを教えてくれる。
ここで拝観料400円払うと、大悲閣の案内が書かれた手作り印刷の紙切れ1枚くれます。これが拝観券になるのでしょう。どこまでも手作り風のお寺です。拝観時間は<10:00~16:00>
鐘楼のすぐ上に舞台造り風の橋桁で支えられたお堂がある。元は仏堂(客殿とも)だったが、現在は展望所となっており、絶景を売りにするだけに「大悲閣」とはこの建物を指すようだ。
履物を脱いで上がる室内には小さな机が所狭しと並べられ、紙片がのっている。まるで写経の場のようです。これら紙片はお寺や禅宗を解説・紹介した手作り印刷紙で、自由の持ち帰れます。
北側は開け放たれ、額縁にはめ込まれたような保津峡の絶景を眺めることができる。室外に縁側が設けられており、立ってもよし、座ってもよし、ここを訪れる人は少ないので好きなように鑑賞できる。
京都市街から比叡山まで一望できます。
下に目をやれば保津川が見え、ゴツゴツした岩場の間に深緑色の川面が曲がりくねり、時々「保津川下り」の舟が通っていく。
この時期は色鮮やかに染まり、派手で明るい保津峡を見せてくれる。桜の頃、青葉の頃はまた違った顔の保津峡が見られることと思う。冬の嵯峨野が一番いい、と瀬戸内寂聴さんがなにかに書かれていたのを思い出した。薄っすらと白く染まった山峡もまた味わい深いだろうな、と思います。渡月橋や竹林の小径あたりをうろつく観光客が大部分だが、嵐山にもこうした”秘境”があるのを知ってほしい。いや知ってほしくないか・・・。
横から縁側を見ると、狭くて怖そうだ。崖の上に突き出した舞台の造りは大丈夫でしょうね?。ご自由に覗いてください、と双眼鏡まで用意されている。住職の暖かい心遣い、いや必死さが伝わってくる。
一隅に三重塔の模型が置かれている。角倉一族(外祖父)で、わが国最初の算術書「塵劫記」を残した吉田光由(1598-1672)も晩年にはこの大悲閣千光寺の近くで過ごしたと伝わり、そこから「そろばん上達の寺」「そろばん寺」と呼ばれた。この三重塔は、京都のそろばん業者が寄贈したもので、全てそろばんで造られているのです。高さ約1.1m、約1万玉あまりのそろばん玉を使い一乗寺(兵庫県加西市)の国宝を表現したもの。最上部の屋根上に乗せた「相輪」なども玉で細かに表現され、壁などもそろばんそのものが使われているそうです。
右の写真のように立派な本堂が建っていました。ところが昭和34年(1959)9月の伊勢湾台風により甚大な被害を受け、この本堂は1978年に解体され、現在の仮本堂となっている。写真は、伊勢湾台風後の、取り壊し寸前の本堂です(展望所に置かれていた紙片より)。舞台造りの大悲閣も金属ワイヤーで支えられていたが、2012年に正式な改修工事が行われ、大悲閣は元の姿を取り戻したという。
司馬遼太郎はここ大悲閣千光寺を訪れたのだが、山上は修理中のため登ってはいけないとあり、石段の途中で引き返すはめになった、と書いている。司馬遼太郎が訪れ年はいつか判らないが、多分この台風被害の後だったのでしょう。
これが現在の本堂で、角倉了以の念持仏の千手観音菩薩が本尊として祀られている。まるで民家風で、解体され40年以上経つのだが、いまだに再建されず仮本堂のままのようです。日本を代表する観光地・嵯峨嵐山にあって、その辺鄙さゆえに訪れる人も少なく、僅かな拝観料だけでは現状を維持するのが精一杯だろうと伺えられます。ここへの道すがら、お寺の必死さを感じさせられました。
遺命により作られた角倉了以木像も祀られている。ここは司馬遼太郎に語ってもらおう。「丸坊主に道服を着,工事用のすきを手にし,片ひざを立て,巻いたロープをざぶとんがわりにしてすわっている。木槌(きづち)頭で,前頭部が思いきって発達し,数理や計画の能力に富んでいたろうことが想像できる。両眼はかっと見ひらき,唇は文字どおり「へ」の字にまがり,自分の構想に人がついて来ぬことにかんしゃくでもおこしているような顔つきである。下あごは異常に発達している。顔面を上へ持ちあげ,石でも噛みくだきそうなほどに頑丈で,意思のつよさを思わせる。」(司馬は途中で引き返しているのだが、「写真で周知である」と書いているので、写真を見ての観想だと思う)
保津川を見下ろしている様子で、現在では保津川下りの舟の安全を祈っているのでしょう。
仮本堂の向かいにある御朱印所です。犬の置物か、と思ったら動き出しました。
境内には林羅山の撰文による了以の顕彰碑、夢窓国師の座禅石もあるようだが、探していません。
大悲閣千光寺からの帰り道。遊覧船では和服姿のお嬢さんが、大声で山峡に向って歌っていました。この環境の中で、大声を出し踊りたくなるのもわかります。声からして韓国系のようでした。落っこちないようにね。
嵐山モンキーパークいわたやま
保津峡の絶景の次はサルです。渡月橋の入口まで戻ると、階段があり、櫟谷宗像神社と「嵐山モンキーパークいわたやま」の案内がでている。
階段を上がり鳥居を潜ると、そこは櫟谷宗像神社の境内だ。櫟谷宗像神社(いちたにむなかた)は松尾大社の摂社で、松尾三社の一つとなっている。松尾大社の公式サイトに「櫟谷神社と宗像神社の二社同殿で御鎮座されており御祭神は、櫟谷神社が奥津島姫命、宗像神社が市杵島姫命になっている。この二神は異名同神(紀の一書)と見られていますが、天智天皇の七年(668)筑紫の宗像から勧請されたものと伝えられています。両社とも大堰川(桂川)の水運の安全を祈って祀られたものと思われ、明治十年に当松尾大社の摂社となりました。」とあります。
境内の一隅、階段を登った左脇に「嵐山モンキーパークいわたやま」の受付がある。入園券を購入し中へ入る。
(公式サイトより)
新型コロナウイルスの影響により当面、下記の営業時間になります。
開園時間9:00~16:00(山頂は16:30)
※但し、大雨や大雪など著しい悪天候の場合は閉園
※おサルが山に帰った場合早く閉園になります。
休園日:不定期
入園料:大人(高校生以上)550円 ,こども(4歳~中学生)250円
京都大学のサル研究所があり公開されている、というのは知っていたが、訪れるのは初めてだ。現在でも京都大学の施設なのでしょうか?。最初に130段の階段がある。階段が苦手の人のために、スロープの坂道も用意されています。途中にいくつか注意書きが掲げられているので、しっかり読んでおこう。
階段を登りきると、あとはよく整備された山道です。なだらかな上り坂で、休憩用のベンチも置かれているが、私のような年配者でも必要としません。所々に「オサルクイズ」が置かれ、退屈を紛らわしてくれます。英語版も用意されている。聞けば、ここ嵐山モンキーパークは国内よりは海外観光客の方に人気があるそうです。
コロナに関係なく、おサルさんとはしっかりソーシャルディスタンスをとる必要があるようです。クイズあり、注意書きあり、おサル豆知識ありで、道中は退屈しません。
山下の入口から20分位で、簡素な遊園地らしき広場にでる。長い滑り台やターザンロープなどの遊具が設置されている。『長~~いすべり台』が人気です♪、とか。
遊具のある広場から階段を登れば、素晴らしい視界がひらけ、そこはおサルの自由な世界だ。おサルが主、人が従の空間です。ここは嵐山のなかの一つ、標高160mの岩田山の頂上です。
「ニホンザルは雑食ですが、他の動物を捕まえて食べることはしません。主に食べるのは、木の実や葉で夏になると昆虫類も食べます。園内にはシカをはじめいろいろな野生動物が生息していますがみんな仲良くくらしています」(坂道の説明板)そうです。
おサルを見学する前に、まず展望所へ。標高160mからは嵯峨野はもちろん、京都市内を一望できます。このこたちは毎日この風景を見ながら暮らしているのですね。
この嵐山モンキーパークは、昭和29年(1954)に京都大学が研究のために、嵐山でくらしていた野生のニホンザルを餌付けしたのが始まりです。昭和32年(1957)から一般にも公開されるようになった。口コミ、現在ではSNSで広がり、外国観光客に人気があるようです。奈良の鹿同様に、動物と人とが自然に触れ合うのが珍しいのでしょうか。
現在 約120頭 のニホンザルが野生の状態で暮らしている。全てのニホンザルに、個々に名前がついており、家族関係がわかるようになっているそうです。識別名の記入された首輪とか腕輪があるのかとみるが、それらしきものは付けていない。係りの人に尋ねると、顔と体つきで覚えているそうです。学校の先生が生徒を覚えるのと一緒で、性格もわかります、と笑っておられた。すごいですね、120頭のサルですヨ。一緒に生活していると覚えられるものでしょうか?。
広場にある建物はこの休憩所だけ。この広場で、1日3回(10時30分、12時30分、14時30分)のエサやりタイムがあり、パーク内のほとんどのサルが集まって、おサルの饗宴を見学できるという。12時過ぎに到着したので少し待てば見れると思ったら、今日は1時になるという。そこまで待っていられないので諦めました。
休憩所は、見学者のサルへのエサやり場も兼ねている。この建物内からでしかエサをやることはできず、エサの持ち込みも、広場でのエサやりも禁止されています。
窓は金網がはられており、手前の板棚にエサを置いてやると、金網の間から手を差込み取ります。エサは休憩所で1袋100円で討っている。バナナ、りんご、落花生などだが、一番の好物はバナナとか。
屋根の上も憩いの場のようです。どこから上がるのだろうか。エサ場の金網かな?。
屋根の上で毛づくろい(グルーミング)しています。親子、夫婦、親分・子分・・・気持ち良さそうだナァ。
説明板によれば、ニホンザルの出産期は4月から7月で、その頃はかわいい赤ちゃんを間近で観察することができる。妊娠期間は約6ヶ月で双子はほとんど生まれない。大人になるまで10年かかり、寿命はだいたい30年だそうです。
おサルさんたちが京の町を見下ろしている。毎日見ているこの風景、でもなんの感慨も浮かばないだろうナ。
下山途中で渡月橋をみると、かなり人出が増えてきたようです。
ホームページもどうぞ