山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

嵯峨・嵐山 散歩 2

2020年12月18日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2020年11月25日(水曜日)
司馬遼太郎「街道をゆく」のなかに「嵯峨散歩」というのがある。水尾、天竜寺、保津川と渡月橋、大悲閣、法輪寺、松尾大社、車折神社について述べています。これを読み、私も久しぶりに嵐山へ行ってみたくなった。年に2、3度は行っていたのだが、このコロナ騒動で昨年春以来訪れていない。外国人観光客のいなくなった嵐山ってどんなんだろう、と興味あります。
今回は、大悲閣(千光寺)と嵐山モンキーパークいわたやま

 大悲閣(千光寺)への道  



次は角倉了以ゆかりの大悲閣(千光寺)へ。大悲閣へは渡月橋南詰からさらに渡月小橋を渡った突き当たりを右折する。ちょうど法輪寺の裏口がある場所だ。そこから大堰川(保津川)右岸(南岸)を上流へ約1.2キロ、徒歩20位かかります。
まだ午前中なので渡月橋周辺は人通りが少ない。それともコロナの影響か?。

大堰川(保津川)の左岸(北岸)は、今まで何度も歩いたことがあるのだが、この右岸は初めてです。左岸から川越しに右岸を眺めていて、人通りの少なさから興味が無かったのです。竹林の小径、野宮神社など観光名所が多く観光客で混み合う北側に比べ、南側の川沿いには大悲閣を除いてこれといった観光名所がなく、ウォーキング、ヒッチハイクの人か、アベックさんしか歩いていない。喧騒の観光名所に興味がなく静かに嵐山を感じたい人には、隠れた穴場の散策路かもしれない。別に隠れてもいないのだが、観光雑誌などにはほとんど触れられていないのです。

対岸に小倉山、亀山が見える。司馬遼太郎は「亀の背のような亀山も、この右岸から、水景を前提にしてながめるべきものだということも、このとき知った」と書いています。この右岸でしか亀山の全体が見渡せないのだ。川の北側では近すぎて、亀なのか馬なのかわかりません。

渡月橋がだんだん遠くになってきた。「歩きつつ、ふりかえると、そのつど景観がかわる。渡月橋を中景にしたその景色は、右岸のこの小径からみるのが、もっとも大観といえる」(司馬遼太郎)。納得です。

だんだんと川幅が狭まり、山が迫ってくる。

樹木と川の自然しか見るものがない道だが、この紅葉の時期は退屈しません。
保津川くだりの舟も見えてきた。

大堰川(保津川)に沿って道は続く。道中の所々に大悲閣(千光寺)の案内が置かれています。これぞ素人の手作りという案内板で、親しみを感じます。ただし、周辺の景観とはマッチしていません。英語も混じっているのは、海外観光客が多いいことの表れなのでしょうか。「GREAT VIEW」が待っているようです。

この辺りから北岸の道はなくなっている。保津川の渓谷美を味わうにはこちらの南岸を歩くしかありません。川幅が狭まり白い岩肌が目に付くようになり、川面も青から緑色に変わってきた。
幌付き小舟が保津川下りの舟に接近し食べ物や飲料水を販売している。

道も狭くなり、そろそろ大悲閣に近づいてきたようです。

 大悲閣(千光寺)(だいひかくせんこうじ)  


道はある建物に突き当たる。星野リゾートの旅館「星のや 京都」らしい。塀のようなもので囲まれ入口も見えず、営業しているような様子はない。コロナのせいでしょうか。すぐ横に階段があり、「大悲閣道」と刻まれた石柱が立ち、「大悲閣 千光寺」への入り口となっている。

千光寺はもともと、後嵯峨天皇の祈願所として清涼寺の近くの嵯峨中院にあったが、長らく荒廃してしまっていた。保津川開削に成功した嵯峨の土倉業、角倉了以(すみのくらりょうい、1554-1614))が開削工事で亡くなった人々を弔うために、慶長19年(1614)に千光寺をこの地に移し「大悲閣」とした。自らの念持仏だった千手観音を祀り、晩年にはこの大悲閣で過ごしたという。
了以は天台宗を奉じていましたが、子孫の角倉玄寧が文化五年(1808)に再興したとき、寺は禅宗の黄檗宗となった。公式サイトに「寺は明治維新の際、大悲閣を除き、境内、山林、什宝等多くを失いましたが、明治になって寺地を拡張し、漸次諸堂を整備しました。」とある。

正式名は「嵐山大悲閣千光寺」だが、通常「大悲閣」と呼ばれている。「悲」は”悲しみ”の意味でなく、仏の”慈悲”を指します。
大悲閣は嵐山の中腹、標高100mほどの場所にあるので階段を登らなければ」ならない。登り口には杖も用意されていたが、必要とするほどの険しさではありません。約200段ある石段はつづら折れになっている。要所にはテスリが、また休憩用の椅子まで置かれています。

登り始めて10分位で簡素な山門が見えてきた。山門の奥に梵鐘がのぞく。3回まで自由に撞くことができ、撞くと鐘の音が山峡に響き、爽快な気分になります。

鐘楼の脇を上るとすぐ境内だ。ほんとに小さい境内で、どこか農家の庭先のようです。置かれている赤毛せんの腰掛だけが農家でないことを教えてくれる。
ここで拝観料400円払うと、大悲閣の案内が書かれた手作り印刷の紙切れ1枚くれます。これが拝観券になるのでしょう。どこまでも手作り風のお寺です。拝観時間は<10:00~16:00>

鐘楼のすぐ上に舞台造り風の橋桁で支えられたお堂がある。元は仏堂(客殿とも)だったが、現在は展望所となっており、絶景を売りにするだけに「大悲閣」とはこの建物を指すようだ。
履物を脱いで上がる室内には小さな机が所狭しと並べられ、紙片がのっている。まるで写経の場のようです。これら紙片はお寺や禅宗を解説・紹介した手作り印刷紙で、自由の持ち帰れます。

北側は開け放たれ、額縁にはめ込まれたような保津峡の絶景を眺めることができる。室外に縁側が設けられており、立ってもよし、座ってもよし、ここを訪れる人は少ないので好きなように鑑賞できる。
京都市街から比叡山まで一望できます。

下に目をやれば保津川が見え、ゴツゴツした岩場の間に深緑色の川面が曲がりくねり、時々「保津川下り」の舟が通っていく。
この時期は色鮮やかに染まり、派手で明るい保津峡を見せてくれる。桜の頃、青葉の頃はまた違った顔の保津峡が見られることと思う。冬の嵯峨野が一番いい、と瀬戸内寂聴さんがなにかに書かれていたのを思い出した。薄っすらと白く染まった山峡もまた味わい深いだろうな、と思います。渡月橋や竹林の小径あたりをうろつく観光客が大部分だが、嵐山にもこうした”秘境”があるのを知ってほしい。いや知ってほしくないか・・・。

横から縁側を見ると、狭くて怖そうだ。崖の上に突き出した舞台の造りは大丈夫でしょうね?。ご自由に覗いてください、と双眼鏡まで用意されている。住職の暖かい心遣い、いや必死さが伝わってくる。

一隅に三重塔の模型が置かれている。角倉一族(外祖父)で、わが国最初の算術書「塵劫記」を残した吉田光由(1598-1672)も晩年にはこの大悲閣千光寺の近くで過ごしたと伝わり、そこから「そろばん上達の寺」「そろばん寺」と呼ばれた。この三重塔は、京都のそろばん業者が寄贈したもので、全てそろばんで造られているのです。高さ約1.1m、約1万玉あまりのそろばん玉を使い一乗寺(兵庫県加西市)の国宝を表現したもの。最上部の屋根上に乗せた「相輪」なども玉で細かに表現され、壁などもそろばんそのものが使われているそうです。

右の写真のように立派な本堂が建っていました。ところが昭和34年(1959)9月の伊勢湾台風により甚大な被害を受け、この本堂は1978年に解体され、現在の仮本堂となっている。写真は、伊勢湾台風後の、取り壊し寸前の本堂です(展望所に置かれていた紙片より)。舞台造りの大悲閣も金属ワイヤーで支えられていたが、2012年に正式な改修工事が行われ、大悲閣は元の姿を取り戻したという。

司馬遼太郎はここ大悲閣千光寺を訪れたのだが、山上は修理中のため登ってはいけないとあり、石段の途中で引き返すはめになった、と書いている。司馬遼太郎が訪れ年はいつか判らないが、多分この台風被害の後だったのでしょう。

これが現在の本堂で、角倉了以の念持仏の千手観音菩薩が本尊として祀られている。まるで民家風で、解体され40年以上経つのだが、いまだに再建されず仮本堂のままのようです。日本を代表する観光地・嵯峨嵐山にあって、その辺鄙さゆえに訪れる人も少なく、僅かな拝観料だけでは現状を維持するのが精一杯だろうと伺えられます。ここへの道すがら、お寺の必死さを感じさせられました。
遺命により作られた角倉了以木像も祀られている。ここは司馬遼太郎に語ってもらおう。「丸坊主に道服を着,工事用のすきを手にし,片ひざを立て,巻いたロープをざぶとんがわりにしてすわっている。木槌(きづち)頭で,前頭部が思いきって発達し,数理や計画の能力に富んでいたろうことが想像できる。両眼はかっと見ひらき,唇は文字どおり「へ」の字にまがり,自分の構想に人がついて来ぬことにかんしゃくでもおこしているような顔つきである。下あごは異常に発達している。顔面を上へ持ちあげ,石でも噛みくだきそうなほどに頑丈で,意思のつよさを思わせる。」(司馬は途中で引き返しているのだが、「写真で周知である」と書いているので、写真を見ての観想だと思う)
保津川を見下ろしている様子で、現在では保津川下りの舟の安全を祈っているのでしょう。

仮本堂の向かいにある御朱印所です。犬の置物か、と思ったら動き出しました。
境内には林羅山の撰文による了以の顕彰碑、夢窓国師の座禅石もあるようだが、探していません。

大悲閣千光寺からの帰り道。遊覧船では和服姿のお嬢さんが、大声で山峡に向って歌っていました。この環境の中で、大声を出し踊りたくなるのもわかります。声からして韓国系のようでした。落っこちないようにね。

 嵐山モンキーパークいわたやま  



保津峡の絶景の次はサルです。渡月橋の入口まで戻ると、階段があり、櫟谷宗像神社と「嵐山モンキーパークいわたやま」の案内がでている。

階段を上がり鳥居を潜ると、そこは櫟谷宗像神社の境内だ。櫟谷宗像神社(いちたにむなかた)は松尾大社の摂社で、松尾三社の一つとなっている。松尾大社の公式サイトに「櫟谷神社と宗像神社の二社同殿で御鎮座されており御祭神は、櫟谷神社が奥津島姫命、宗像神社が市杵島姫命になっている。この二神は異名同神(紀の一書)と見られていますが、天智天皇の七年(668)筑紫の宗像から勧請されたものと伝えられています。両社とも大堰川(桂川)の水運の安全を祈って祀られたものと思われ、明治十年に当松尾大社の摂社となりました。」とあります。

境内の一隅、階段を登った左脇に「嵐山モンキーパークいわたやま」の受付がある。入園券を購入し中へ入る。

公式サイトより)
新型コロナウイルスの影響により当面、下記の営業時間になります。
開園時間9:00~16:00(山頂は16:30)
※但し、大雨や大雪など著しい悪天候の場合は閉園
※おサルが山に帰った場合早く閉園になります。
休園日:不定期
入園料:大人(高校生以上)550円 ,こども(4歳~中学生)250円

京都大学のサル研究所があり公開されている、というのは知っていたが、訪れるのは初めてだ。現在でも京都大学の施設なのでしょうか?。最初に130段の階段がある。階段が苦手の人のために、スロープの坂道も用意されています。途中にいくつか注意書きが掲げられているので、しっかり読んでおこう。

階段を登りきると、あとはよく整備された山道です。なだらかな上り坂で、休憩用のベンチも置かれているが、私のような年配者でも必要としません。所々に「オサルクイズ」が置かれ、退屈を紛らわしてくれます。英語版も用意されている。聞けば、ここ嵐山モンキーパークは国内よりは海外観光客の方に人気があるそうです。

コロナに関係なく、おサルさんとはしっかりソーシャルディスタンスをとる必要があるようです。クイズあり、注意書きあり、おサル豆知識ありで、道中は退屈しません。

山下の入口から20分位で、簡素な遊園地らしき広場にでる。長い滑り台やターザンロープなどの遊具が設置されている。『長~~いすべり台』が人気です♪、とか。

遊具のある広場から階段を登れば、素晴らしい視界がひらけ、そこはおサルの自由な世界だ。おサルが主、人が従の空間です。ここは嵐山のなかの一つ、標高160mの岩田山の頂上です。
「ニホンザルは雑食ですが、他の動物を捕まえて食べることはしません。主に食べるのは、木の実や葉で夏になると昆虫類も食べます。園内にはシカをはじめいろいろな野生動物が生息していますがみんな仲良くくらしています」(坂道の説明板)そうです。

おサルを見学する前に、まず展望所へ。標高160mからは嵯峨野はもちろん、京都市内を一望できます。このこたちは毎日この風景を見ながら暮らしているのですね。

この嵐山モンキーパークは、昭和29年(1954)に京都大学が研究のために、嵐山でくらしていた野生のニホンザルを餌付けしたのが始まりです。昭和32年(1957)から一般にも公開されるようになった。口コミ、現在ではSNSで広がり、外国観光客に人気があるようです。奈良の鹿同様に、動物と人とが自然に触れ合うのが珍しいのでしょうか。

現在 約120頭 のニホンザルが野生の状態で暮らしている。全てのニホンザルに、個々に名前がついており、家族関係がわかるようになっているそうです。識別名の記入された首輪とか腕輪があるのかとみるが、それらしきものは付けていない。係りの人に尋ねると、顔と体つきで覚えているそうです。学校の先生が生徒を覚えるのと一緒で、性格もわかります、と笑っておられた。すごいですね、120頭のサルですヨ。一緒に生活していると覚えられるものでしょうか?。

広場にある建物はこの休憩所だけ。この広場で、1日3回(10時30分、12時30分、14時30分)のエサやりタイムがあり、パーク内のほとんどのサルが集まって、おサルの饗宴を見学できるという。12時過ぎに到着したので少し待てば見れると思ったら、今日は1時になるという。そこまで待っていられないので諦めました。

休憩所は、見学者のサルへのエサやり場も兼ねている。この建物内からでしかエサをやることはできず、エサの持ち込みも、広場でのエサやりも禁止されています。
窓は金網がはられており、手前の板棚にエサを置いてやると、金網の間から手を差込み取ります。エサは休憩所で1袋100円で討っている。バナナ、りんご、落花生などだが、一番の好物はバナナとか。

屋根の上も憩いの場のようです。どこから上がるのだろうか。エサ場の金網かな?。

屋根の上で毛づくろい(グルーミング)しています。親子、夫婦、親分・子分・・・気持ち良さそうだナァ。
説明板によれば、ニホンザルの出産期は4月から7月で、その頃はかわいい赤ちゃんを間近で観察することができる。妊娠期間は約6ヶ月で双子はほとんど生まれない。大人になるまで10年かかり、寿命はだいたい30年だそうです。

おサルさんたちが京の町を見下ろしている。毎日見ているこの風景、でもなんの感慨も浮かばないだろうナ。

下山途中で渡月橋をみると、かなり人出が増えてきたようです。


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嵯峨・嵐山 散歩 1

2020年12月13日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2020年11月25日(水曜日)
司馬遼太郎「街道をゆく」のなかに「嵯峨散歩」というのがある。水尾、天竜寺、保津川と渡月橋、大悲閣、法輪寺、松尾大社、車折神社について述べています。これを読み、私も久しぶりに嵐山へ行ってみたくなった。年に2、3度は行っていたのだが、このコロナ騒動で昨年春以来訪れていない。外国人観光客のいなくなった嵐山ってどんなんだろう、と興味あります。

ところで、関西に住んでいるのだが「嵯峨」といってもピンとこない。「サガへ行ってきた」といっても「九州へか?」というのがオチである。ところが「アラシヤマ」なら通じるのです。正確には、川を挟んで南が「嵐山」で、北側が嵯峨(嵯峨野)だろうが、渡月橋を挟んだ周辺の観光地一帯を「嵐山」と呼んでいるのが一般的だ。そこでタイトルを「嵯峨・嵐山 散歩」にしました。水尾についてだが、愛宕山の麓で余りにも遠い。一日で歩いて周れる範囲内ではありません。水尾は省きました。その代わりに、嵐山モンキーパークいわたやま、亀山公園、野宮神社、長慶天皇陵を加えました。
今回は松尾大社と法輪寺です。

 松尾大社へ  



大阪から嵐山へは、阪急・京都線の桂駅で嵐山線に乗り換えます。終点の嵐山駅の一つ手前が松尾大社駅で、駅のホームから、すぐ傍に松尾大社の赤鳥居が見えている。

駅の西口をでると、すぐ目の前に赤い大鳥居が構えている。鳥居前の車道は、京都のど真ん中を東西に貫いている四条通で、西の端はこの鳥居で塞がれている。四条通の東の端が八坂神社だ。京の町は、東西の二つの神社によって見守られているのです。東の八坂神社は観光客が多くいつも騒々しい。西の松尾大社は閑散としており、静かで神々しい雰囲気を保っている。

一の鳥居を入ると、左手に二つの石碑が建つ。手前の石碑には「義民市原清兵衛君之碑」とある。奥の石碑には「洛西用水竣功記念碑」とあり、上古には秦氏によって、近世には角倉了以により大堰川の改修が行われた。このたび農民の要望により桂川両岸一帯の用水排水溝を整備し昭和42年完竣したことの記念碑だ、というような意味のことが刻まれている。

松尾山を背にして二の鳥居が見えてきた。「七五三」の幟がはためく参道を進む。
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
■ 松尾大社の歴史                             ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
◆◇◆~秦氏による創建~◆◇◆
松尾大社の背後は松尾山(標高223m)だ。その山頂にある巨石は、神の降臨する磐座(いわくら)として古くから住民たちによって尊崇され祭祀が行われていた。
5世紀頃,大陸から渡来してきた秦(はた)氏一族がこの地方に定住し、河川を治め農産林業を興した。大宝元年(701)、一族の長・秦忌寸都理(はたのいみきとり)が山頂の磐座の神霊を勧請し、山麓の現在地に社殿を造営し秦氏の総氏神としたのが松尾大社の起りと伝えられている。
秦忌寸都理の女の知満留女(ちまるめ)が斎女として奉仕し、さらにその子の都駕布(つがふ)が初めて祝(神職)を務めた。以後この子孫が明治初年まで松尾大社の幹部神職を勤めた秦氏(東・南とも称した)です。(1871年に祠職の秦氏世襲(33家)が廃止された)

◆◇◆~平安時代以降~◆◇◆
平安京遷都後は、玉城鎮護の神として朝廷の崇敬を受け、東の賀茂神社(賀茂別雷神社・賀茂御祖神社)とともに「東の厳神、西の猛霊」と並び称された。天皇の行幸も数十回行われたとされ、貞観8年(866)には正一位の神階が与えられたといわれている。
多くの寄進を受け、室町時代末期までには全国で数十ヶ所もの荘園を有した。また中世以降は醸造の神として人々の信仰を集めている。
江戸時代には江戸幕府から1200石の朱印地が安堵され、また嵐山一帯の山林一千余町歩を持っていた。また幕末には、勅使を派遣される勅祭社に擬せられたこともあったという。

◆◇◆~社名について~◆◇◆
社名は古くから「松尾神社」だったが、「終戦後は、国家管理の廃止により、官幣大社の称号も用いないことになったことから、同名神社との混同を避けるために昭和25年(1950)に松尾大社と改称し現在に至っております。」(公式サイトより)
また「松尾」の読み方について「公式には「まつのお」であるが、一般には「まつお」とも称されている。文献では『延喜式』金剛寺本、『枕草子』、『太平記』建武2年(1335年)正月16日合戦事条、『御湯殿上日記』明応8年(1499年)条等においていずれも「まつのお/まつのを」と訓が振られており、「の」を入れるのが古くからの読みとされる。」(Wikipediaより)

二の鳥居には、有栖川宮幟仁親王の筆になる額「松尾大神」が掲げられている。両柱間に張られた注連縄に榊(サカキ)の小枝が12束(閏年は13束)垂れ下っている。これは「脇勧請(わきかんじょう)」と呼ばれ、サカキの枯れ方により、月々の農作物の出来具合を占った太古の慣習で、サカキが完全に枯れると豊作という。鳥居の原始形式を示すものだそうです。

 松尾大社(社殿)  




二の鳥居を潜ると境内だ。まず正面に現れるのが楼門です。寛文7年(1667)の建造。正面が三間一戸で、屋根は入母屋造檜皮葺。高さ約11mもあり、質素ながらどっしりしている。
司馬遼太郎は「楼門は縦材と横材の組みあわせがいかにも力学的で、そのくせ重くるしさがなく、軽やかに安定している。シックイ壁の白さと、露出した茶黒い構造との色合いもよく、京都で完成された二本建築の一つのゆきついたかたちともいえる」とベタ褒めしています。
楼門の左右に閉じ込められているのは、仁王さんでなく「随神(ずいしん)」とよばれる人。「随神とは、平安時代、貴族の外出時に護衛のために随従した近衛府の官人で、神社においては、神を守る者として安置される随身姿の像のこと」と説明書きされている。



楼門から階段を上がった広場の中央に、能舞台のような独立した建物がある。これが拝殿です。檜皮葺きの入母屋造り、江戸時代初期の建造といわれている。
今、来年の干支の巨大絵馬を飾る作業の真っ最中でした。






1時間後にみたら枠組みが出来上がっていたのだが、絵馬が飾られるまで待っていられない。はて、来年の干支ってナンだっけ?

本殿は屋根が少し見えるだけなので、Wikipediaの説明してもらおう「本殿は、弘安8年(1285年)の焼失を受けて室町時代初期の応永4年(1397年)に再建されたのち、天文11年(1542年)に大改修されたものになる。部材のほとんどは天文11年のものであるため、現在の文化財に関する公式資料では天文11年の造営とされている。形式は桁行三間・梁間四間、一重、檜皮葺。屋根は側面から見ると前後同じ長さに流れており、この形式は「両流造」とも「松尾造」とも称される独特のものである。本殿は東面しており、彫刻や文様など随所には室町時代の特色が表れている。天文の大改修後は嘉永4年(1851年)、大正13年(1924年)に大修理が加えられ、昭和46年(1971年)に屋根葺き替え等の修理が行われた。この本殿は国の重要文化財に指定されている。」
「両流造(りょうながれづくり、松尾造)」は、松尾大社以外に宗像神社、厳島神社にみられるだけという。

本殿に祀られている御祭神は次の二柱。
●「大山咋神(おおやまぐいのかみ)」で「山の上部(末)に鎮座されて、山及び山麓一帯を支配される(大主)神」(公式サイトより)。
●「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」別名「中津島姫命(なかつしまひめのみこと)」で、「福岡県の宗像大社に祀られる三女神の一神として古くから海上守護の霊徳を仰がれた神です。おそらく外来民族である秦氏が朝鮮半島との交易する関係から、航海の安全を祈って古くから当社に勧請されたと伝えられております。」(公式サイトより)

本殿の正面に唐破風形の立派な門が構える。これが中門だろうか?。この中門から両側に回廊が延び本殿を囲んでいる。また中門と本殿は釣殿(つりどの)という建物で接続している。回廊は板敷で、釣殿・回廊・門の屋根はいずれも檜皮葺である。これらはいずれも江戸時代初期の建築という。
門の中央上部には菊の紋が輝き、その上に松尾大社神紋の「双葉葵」の紋が見られる。上賀茂神社、下鴨神社と同じです。

なお、通常非公開の本殿(重要文化財)の特別参拝の案内がでていた。
○参 拝 料 1名に付き、1,000円(幼稚園児以下は無料)
○所要時間 神職による説明とお祓いの儀式を含めて約20分程
○参拝受付 午前10時、午前11時30分、午後1時30分、午後2時30分

 松尾大社(庭園)  



これから庭園の見学に。庭園は有料で、本殿前の広場右端(北側)の社務所で受け付けている。
受付の横のほうに庭園入口がある。「曲水の庭」「上古の庭」「蓬莱の庭」の三庭園を総称して「松風苑」とよんでいます。松尾山山頂の磐座への登拝もここから。回廊から続いている廊下の下を潜っていく。
なお、「蓬莱の庭」だけはこの入口でなく、楼門の手前に入口がある。
  拝観時間:平日・土 9時~16時 日・祝 9時~16時30分
  庭園・神像館拝観料:大人500円 学生400円 子供300円


廊下の下を潜ると案内図がある。図のとおり、階段を上り真っ直ぐ行けば「亀の井」「霊亀の滝」へ、階段手前で右へ折れれば庭園と神像館へ行けます。

階段を上ったすぐ右に見えるのが「亀の井(かめのい)」、別名「よみがえりの水」。松尾山からの湧水で神聖な水と云われる。この霊水は延命長寿によいとされるが、酒に混ぜると腐敗しないということで有名です。そのため中世以降、醸造の神様として、全国の酒造家などから信仰を集めてきた。背後の建物は葵殿。

「亀の井」から少し登ってゆくと、「滝御前」の額がかかった赤鳥居があり、その奥に小さな滝が見える。松尾山からの渓流が流れ落ちるもので、「霊亀(れいき)の滝」と呼ばれています。

稲荷神社の狐、天満宮の牛、春日神社の鹿など、神社と動物はよく縁付けられる。松尾大社では亀が神使とされています。神社文書によれば、松尾の神が大堰川を遡り丹波地方を開拓するにあたって急流では鯉に乗り、緩流では亀に乗ったといい、この伝承により鯉と亀が神使とされた。

これから庭園を廻ります。「亀の井」手前の階段前を右に折れると葵殿へ渡る廊下があり、その下を潜ると「曲水の庭」が現れる。
松風苑(しょうふうえん)の説明板があり「当社の松風三庭は、現代庭園学の泰斗・重森三玲氏(明治29年~昭和50年)が長年にわたる庭園研究の奥義を結集し、この地上に残す最高の芸術作品として、全身全霊を傾けて造られたものです。総工費一億円、三庭に用いられた四国吉野川産の青石(緑泥片岩)は二百余個、丸一ヶ年の工期を経て去る昭和五十年に完成した、昭和を代表する現代庭園です」とあります。

(後ろの建物は葵殿)「曲水の庭(きょくすいのにわ)」は、「王朝文化華やかなりし平安貴族の人々が、慣れ親しんだ雅遊の場を表現したもの・・・あでやかな中にも気高い当時の面影を内に秘めて、しかもきわめて現代風に作庭され、四方どちらか見ても美しい八方美の姿が本庭の特色です」(説明板)、だそうです。
奥に築山と石組みを配し、その前に小石を敷き詰めて洲浜を表し、その中を御手洗川から引き入れた清流が曲水となって流れている。王朝風の優雅さと、立石による荒々しさが調合されているのが現代風なのでしょう。

「曲水」といえば鳥羽・城南宮の「曲水の宴」が想起される。苔むした「平安の庭」に曲がりくねって流れる小川を舞台に雅な王朝の宴が催されるのです。白拍子の舞が披露されるなか、川沿いに座った平安装束の歌人が和歌を詠み短冊にしたため、曲水を流れくる盃のお神酒をいただくのです。
城南宮ほど雅でないが、ここでも春には雛流しが行われるという。

次に神像館への渡り廊下の下を潜ると「上古の庭」が現れる。
神像館の入口もここになる。神像館に入ると、係りの人が解説用のテープを流してくれます。目玉は館内中央に展示されている男神像二体と女神像一体。松尾大社の祭神を表したもので、老年像が大山咋神、女神像が市杵島姫命、壮年像をその御子神として表わしたものという。平安時代初期の作で、等身大坐像・一木造り、我が国の神像彫刻中、最古最優品として重要文化財に指定されています。その他、摂社・末社に祀られていた神像18体も展示されている。
お寺に仏像は普通だが、神社で姿の見えない神を具現化するのは珍しい。これは神仏習合の影響で、境内に神宮寺が置かれ、そこに神像が安置されていたものです。近代、1868年の神仏分離令後の廃仏毀釈により、京都国立博物館に遷され、1994年に返還された。

「上古(じょうこ)の庭」は「磐座の庭」ともいわれ、松尾大社が創建される以前を表したもの。神の領域は結界の石によって立ち入れない聖域とされている。
感得できない自分が悲しい・・・。

「上古の庭」から塀の外に出て、庭園や神像館、葵殿の周囲を一周できるようになっている。その裏道の中ほどに、簡易鳥居が建ち「磐座登拝口」となっている。ただし「入山禁止」のロープが張られています。手続きすれば入山できるのでしょうか?。公式サイトに「この度の平成30年9月の台風21号通過による倒木・山崩れ等の影響により、磐座登拝道の修復が不可能となり、今後一斉の"磐座登拝"を廃止致します。」とあったのだが。

磐座信仰で有名なのが奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)だ。大神神社には拝殿しかなく、本殿は背後の三輪山(みわやま、467m)そのものです。この三輪山に2013年5月登りました。入山受付所で入山者カードに氏名、住所、電話番号を書き、三百円支払うと「三輪山参拝証書」と書かれた白いタスクをくれます。山中では、飲食、写真撮影が禁止され、タスキを外すことも禁止されている。さらに下山しても山中での情報を他人に話してはならない、とされどこまでも神秘で厳粛な山です。首に掛けたタスキの鈴がチリンチリンと鳴り、なにかお遍路さんのような気分でした。
ここ松尾山はどうなんでしょう?。


「蓬莱(ほうらい)の庭」は少し離れた所にあります。楼門の外に出て、北側を見ると入口がある。

現代の作庭家・重森三玲(1896-1975)の最晩年(1975年)の作庭で、絶作でもある。三玲氏が池の形を指示し、その後、長男・完途氏がその遺志を継いで完成させたもので、最初で最後の親子合作の庭園だそうです。
「伝統を重んじながらも、現代的な表現を目指した重森三玲の終生の目標であった「永遠のモダン」の、まさに最終表現の庭園が展開している」(受付で頂いたパンフより)
ぐるっと一周でき、いろいろな角度から鑑賞できる。重森三玲の庭園を見るたびに、庭園とは難しいものだ、というのが率直な感想です。

 松尾大社(その他)  



第二の赤鳥居をくぐった左手に三艘の舟が積み置かれている。
松尾祭の「神幸祭」(4月20日以降最初の日曜日)で、松尾大社から出発した神輿六基と唐櫃は各氏子地域を巡幸した後、桂川に架かる桂大橋上流付近の桂離宮東側で舟渡御(川渡り)を行う。この舟渡御で使用される「駕輿丁船(かよちょうぶね)」とよばれる舟です。

同じく赤鳥居をくぐった左手にお酒の資料館があります。松尾大社の祭神・大山咋神は酒の神様として崇敬され「日本第一酒造之神」の石柱が建つ。酒だけでなく醸造祖神として、全国の味噌、醤油、酢等の製造及び販売業の方からも崇敬を受けているという。開館は午前9時~午後4時、入館無料。朝8時半前だったが開いていて入れました。


松尾大社と酒の関わり、酒の歴史と祈り、酒の文化、酒造りの工程のコーナーに分かれ、展示と解説がされている。古くからの酒造用具や手法なども展示されている。

拝殿の左(南側)に「神輿庫」という建物がある。名前からしてお祭りの神輿が収められているものと思われます。
軒下に積み上げられた酒樽がすごい。全国の酒造家から奉納されたものです。私が知っているのは「日本盛」くらい。酒好きの人は、これを見ているだけでほろ酔い気分になるのでは。

神輿庫の前に「樽うらない」がある。樽の中の黒い部分に当たれば「大吉」、赤い所なら「当り」、樽の中に当たらなかったら「あまり福」。樽をハズしてもハズレはないので、お守りがもらえます。。

本殿前左手の覆屋の中に、大〆縄を幹に巻かれた古木が残されている。これは雌雄根を同じくし「相生(あいおい)の松」と呼ばれていたが、昭和31・32の両年にそれぞれ350年の天寿を全うした。こうして保存され、夫婦和合、恋愛成就の象徴として信仰されている。

右の写真は生存時の様子(案内板より)

亀と鯉は松尾大社の神使いです。相生の松の背後に「幸運の撫で亀」がある。撫でると“寿命長久・家庭円満”のご利益があるといわれるが、写真のようにカバーで隠されている。コロナの影響です。
本殿正面を挟んで反対側には「幸運の双鯉(そうり)」がある。撫でると“恋愛成就・夫婦円満・立身出世”のご利益があるのだが、こちらも隠されています。


「撫で亀」はもう一箇所あります。拝殿前の階段右脇ですが、触られないように頭巾で覆われ隠されている。賽銭箱はしっかり開いていますが。








 法輪寺(ほうりんじ)  



次は法輪寺(ほうりんじ)です。松尾大社から渡月橋に向って20分位歩けば左に法輪寺の入口が見えてくる。渡月橋の手前200m位でしょうか。
所在地は「京都府京都市西京区嵐山虚空蔵山町68」、寺名は「智福山法輪寺」、宗派は「真言宗五智教団」

車道脇の入口を少し登ると山門があり、その奥に階段が見える。

◆◇◆~法輪寺の歴史~◆◇◆
寺伝によれば、和銅6年(713年)、行基が元明天皇の勅願により、国家安穏、五穀豊穣、産業の興隆を祈願する勅願所として「葛井寺(かづのいでら)」を建立したとされる。これが法輪寺の起源で、開基は行基となる。
西暦800年頃、弘法大師の高弟・道昌僧正(どうしょうそうしょう)が大堰川を修築し、橋を架けた。この橋がのちに「法輪寺橋」と呼ばれ、さらに「渡月橋」となる。道昌は空海の指示により葛井寺を再興し、虚空蔵菩薩像を安置した。そして貞観10年(868)、寺号を「法輪寺」に改めたのです。

天慶年間(938~947)には空也上人が入寺して伽藍を整えた。吉田兼好の『徒然草』や清少納言の『枕草子』の中に登場するなど、文化人にも親しまれていた。
応仁の乱(1467~1477)によって災禍を受け、衰退していく。江戸時代の慶長11年(1607)に後陽成天皇と加賀前田家によって再建されたが、元治元年(1864)七月の蛤御門の変で建物はことごとく灰燼に帰してしまう。
その後、本堂が明治17年(1884)に再建され、客殿、玄関、庫裏、山門など大正3年(1914)までに順次整えられ、現在の寺観になった。

山門を入ったすぐ右側に、お寺には不似合いな「電電塔」という顕彰台が設けられている。なんと電気のトーマス・エジソンと電波のルドルフ・ヘルツの胸像がはめ込まれているのです。


参道階段60段目の左脇に赤鳥居の「電電宮(でんでんぐう)」が鎮座している。
公式サイトに「道昌僧都が百日間の求聞持法を修し、満願の日に井戸で水を汲んでいると明星が天空より降りそそいで、虚空蔵菩薩が来迎したと伝えられています。本尊の顕現としての明星天子を本地として『電電明神』を主神とする『明星社(みょうじょうしゃ)』が鎮守社のひとつとして奉祀されました。」とあります。
元治元年(1864)の蛤御門の変で焼失したが、昭和44年(1969)に社殿が再建され、「電電宮」と改称された。同時に電電宮並びに電電塔奉賛会(電電宮護持会)が発足した。
電電宮の手前にあるのが「獣魂供養塔」。毎年4月中旬に京都市食肉協同組合による畜肉の獣魂を慰霊する法要が行なわれるそうです。

電電宮護持会の会員名には、関西のみならず全国の電気・電力・IT・通信・放送に関わる有力企業の名前がずらりと並んでいます。毎年5月23日を電電宮大祭日と定めている。

法輪寺では、SDカード(容量は2GB)と変換アダプターがセットになったマイクロSDカードのお守りを販売しているそうです。カードには本尊・虚空蔵菩薩の画像ファイルが入っているようだが、気になるのはお値段・・・。

階段を登りきると、正面に本堂がたたずむ。明治17年(1884)の再建で、本尊の虚空蔵菩薩が祀られています。奥州会津柳津の円蔵寺、伊勢の朝熊山の金剛證寺とともに「日本三大虚空蔵」の一つで、「嵯峨の虚空蔵さん」と呼ばれ親しまれている。
本堂前の両脇には、虚空蔵菩薩が丑寅年生れということから右手に寅、左手に牛の石像が置かれている。寅年と丑年生まれの方は特に御利益があるようです。

登りきった階段の上から振り返った写真。階段は全部で92段ありました。広くて優しい階段で、登りやすかった。

境内左手には多宝塔が、その横に針供養塔が。2月8日と12月8日は針供養の日です。コンニャクに使用済みの針を刺して供養し、さらなる針仕事の技術上達を祈願する。これは硬いものを通していた針を柔らかいコンニャクに刺し休ませる、という意味だそうです。現在でも毎年12月8の針供養の際には、皇室で使用された針を供養し宝塔に納めているという。平安時代、清和天皇によって針供養の堂が建立されたことが由緒とされる。

階段を登りきった境内右脇に羊の像が置かれている。羊は虚空蔵菩薩が姿を変えたものだとされ、羊の頭に触れると智恵を授かれるといわれている。

羊の横には「うるしの碑」があります。碑文によると、文徳天皇の第一皇子・惟喬親王(これたかしんのう、844-897年)が当寺に参籠され、本尊虚空蔵菩薩より「うるしの製法」と「漆塗りの技法」を伝授され、それを全国に広めたという。その参籠満願が11月13日だったので、その日を「うるしの日」と定め、漆業の発展を毎年祈願しているそうです。

境内北側には、境内と同じくらい広い見晴台がある。欄干で囲われ、「舞台」と呼ばれるのもうなずけます。

真下に渡月橋を望むことができ、嵯峨、嵯峨野の景観が広がる。

京都市内から比叡山、東山の山々まで見渡すことができます。 あいにく今日は曇り空なのですが・・・。

見晴台から眺めた法輪寺境内。階段の除いて、これが法輪寺の全てです。

渡月橋を南に渡りきった所に法輪寺への裏参道があり、渡月橋からは最短で登れます。「十三まいり」の文字が掲げられた簡易な門が微笑ましい。私は登ってないのだが、狭くて急な階段が想像されます。

法輪寺は「十三まいり」の寺として有名です。4月13日の前後1ヶ月の間に、干支が一巡する数え年十三歳になった子供が、晴れ着で正装し法輪寺にお参りし、智恵を授けていただけるようにご本尊の虚空蔵菩薩に祈願するのです。平安時代の初め、幼くして帝位についた清和天皇が13歳の頃に通過儀礼として行なったのが始まりとされる。天皇家や貴族などの限られた人々だけの儀礼だったが、江戸時代中頃から近畿地方を中心に一般の人々にも広まっていった。
法輪寺でお参りをした後、渡月橋を渡って帰路につく。このとき、渡月橋を渡りきるまで後ろを振り返ってはならないとされる。途中で振り返ると、授かった知恵が全部戻ってしまう、という言い伝えがあるからです。

この裏参道は、「十三まいり」で渡月橋へ行くために設けられた道でしょうか。あるいは単に渡月橋からの近道としてのもの?。


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馬見古墳群 南から北へ 3

2020年12月03日 | 古墳を訪ねて

★2020年10月27日(火曜日)馬見丘陵公園内を楽しんだ後、川合大塚山古墳、島の山古墳という二つの大きな前方後円墳を訪ねる。
(追加)馬見古墳群には顯宗天皇、武烈天皇の陵墓参考地があります。二人の宮内庁治定の本陵は西へ2.5キロほど離れた場所にあるので、後日(11月12日)訪れてみました。

 馬見丘陵公園館と周辺  



中央エリア西側にある馬見丘陵公園館は馬見丘陵公園全体の中心施設です。傍に広い駐車場(204台駐車可)もあるので、ここから公園に入る人も多いと思われる。1階が展示場で、馬見丘陵の古墳について展示や模型、映像を使いわかりやすく説明している。また園内の自然や花、野鳥についても学ぶことができます。係りの人が常駐されているので、お花のこと、古墳のことなど質問してみるのもよい。

公園館の南は「芝生の丘」と呼ばれているが、コスモスが一面に咲いている。ピンクと薄赤色の可愛い花が咲き乱れ、心を和ましてくれます。

公園館から北へ少し行き、右へ曲がると「菖蒲(しょうぶ)園」です。傍の森が乙女山古墳なので、その濠を利用して菖蒲園にしたのでしょうか。約3,000平方メートルの敷地に、約100品種3万株の花菖蒲が群生するという。花期は、5月下旬から6月なので今は閑散としています。6月には「馬見花菖蒲まつり」が開催されるそうです。

菖蒲園に隣接する南側の丘は「古墳の丘」と呼ばれている。ただの芝生の丘にしか見えないのだが、「古墳の丘」と呼ばれるのには訳があります。ここにカタビ1~4号墳の四基の古墳があり「カタビ古墳群」と称される。5世紀前半~7世紀前半に築造された小規模な方墳や円墳だが、木棺や円筒埴輪、須恵器などが確認されています。現在は1つの丘状には整地され、芝生で覆われ、個々の古墳を判別することはできません。

 乙女山古墳(おとめやまこふん)と花の道  



古墳の丘の上からの眺めると、右に「乙女山古墳」の前方部が盛り上がっている。乙女山のイメージとはほど遠いただの雑木の山でしか見えない。それを慰めるように左側に色鮮やかな花畑が広がっている。乙女に花を捧げているようです。

乙女山古墳の堤に上がり前方部の方へ歩いてみます。傍に下池が広がり、整地され気持ち良さそうな空間となっています。散策路は板敷きで、周りは芝生となっている。しかし誰もいてません。皆、反対側のお花畑の方へ行ってしまわれるようです。

前方部で散策路は行き止まりになっている。乙女山古墳の説明板が設置され、休憩用のベンチが置かれているだけです。説明板が無ければ、古墳とは見えず、だだの藪山でしかない。説明板には青々とした濠が描かれているが、全く見えず、濠があるような雰囲気も無い。

今度はお花畑を通り抜け、後円部へ廻る。だだの雑木林でしか見えないが、濠らしき窪みがうかがえられる。こちらにも説明板が設置されています。
所在地は「北葛城郡河合町大字佐味田小字乙女」。周りは広陵町だが、この古墳一帯は河合町の飛び地になっている。地名の「乙女」から古墳名がつけられたようだ。
これには次のような地名伝承がある。応永15年(1408)、この辺りで箸尾為妙と筒井順覚の戦があり、箸尾氏の少女が犠牲になり小山に葬られたことから、その場所を乙女山と呼ぶようになったと伝わる。

<ナガレ山古墳東側の古墳地形模型より>
わが国最大級の帆立貝式古墳で、築造時期は出土の埴輪、墳形などから5世紀前半と推定されている。昭和31年(1956)に国の史跡に指定された。

乙女山古墳を背に、乙女に捧げるように花壇が広がっている。「花の道」と名付けられた花畑で、四季折々の花が楽しめるように、適宜植え替えられているようです。手前がバラ園で、26品種、約500株のバラが植えられているという。

この時期、コスモスが美しい。

黄色、オレンジのマリーゴールドが咲き乱れている。

これはベゴニア

 馬見花苑と池上古墳  



花の道を北へ抜けると、色鮮やかな広い空間が目に入ってくる。「彩の広場」と「馬見花苑」と呼ばれるエリアです。

まず「彩の広場」に入る。背の丈を越えるようなダリアが群生しています。ここは春にはチューリップに、夏にはヒマワリに植え替えられ彩りを替えているという。現在はダリアの季節で、約120種1000株のダリアが群生している。なかには「皇帝ダリア」と呼ばれ、草丈4~5mにもなるようなダリアもあるそうですが、見頃は11月中旬から12月上旬とのことなので、まだ見られません。垣根のようなダリアの間を歩きます。

こちらはサルビア、コスモスの花壇。「彩の広場(ダリア園)」と「馬見花苑」の間は、「花見茶屋」と呼ばれ休憩所とカフェレストランがあります。

「集いの丘」のなだらかな斜面を利用した美しい大花壇で、「馬見花苑」と呼ばれている。現在サルビア、マリーゴールドなどが咲き乱れているが、春には一面チューリップ畑になるそうです。

「集いの丘」は広い芝生広場になっており、イベントや遊び場に利用させる。奥に見える大型テントはイベント時にはステージとなる。車道を挟んで「集いの丘」の反対側には大型遊具施設が設置されている。

車道を越えた東側に見える小山が池上古墳。傍まで寄ってみたが、標識も案内も無く、古墳の雰囲気は全くしない。全長92m、後円部径約80.6m、前方部幅約32m、長さ約11.4mの帆立貝式前方後円墳。墳丘の周囲に周濠と外堤をもつ。乙女山古墳と同じ五世紀前半の築造とされている。

馬見丘陵公園の中央エリアから北エリアを通り、これから公園を外れた大塚山古墳、島の山古墳という二つの大きな前方後円墳へ向います。
大型テントの横に、車道をまたぐ歩道橋「はなえみはし」があり、それを渡ると北エリアに入る。馬見丘陵公園の北エリアには古墳も花壇もありません。別名「緑道エリア」とも呼ばれるように、約1.2キロほどの散策路が北へ伸びているだけです。散策路は緑の樹木に囲まれ、幅広く良く整備されている。しかも道は二本あり併走している。一本はサイクリングできるとか。

 川合大塚山古墳(かわいおおつかやまこふん)  



公園を抜けると河合町の街並みが現れ、家並みに浮かぶように大塚山古墳が見えてくる。「大塚山古墳」という名称は全国各地に多く見られるので、地名を付けて「川合大塚山古墳」とも呼ばれているようです。

(空中写真のA地点から撮る)
前方部の西角に着く。大塚山古墳の周りには遮るものがなく、すぐ傍から墳丘を間近に見ることができる。上の写真は後円部方向を撮ったもの、左の写真は前方部です。

(空中写真のB地点から撮る)後円部の方へ近寄ってみる。上の写真は前方部方向を撮ったもの。幅広い周壕をみると、水を溜めている箇所もあるが、多くは田畑のように見え、作物が植えられているような所もある。国指定史跡なのだが、周壕は除外され民有地となっているのでしょうか?。

同じ場所から後円部を撮る。ここには説明板が置かれていた。
馬見古墳群で最大の全長215m、前方部を南に向けた三段築成の前方後円墳。空中写真をみれば幅広い盾形の周壕がハッキリしているが、大部分が田畑のようになっている。墳丘には葺き石と埴輪列が見られたが、埋葬施設については竪穴式石室と思われるが、詳細は不明。遺物は、埴輪(円筒・朝顔・人物・家・盾・蓋)須恵器、土師器などが確認されている。

(空中写真のC地点から撮る)後円部が正面に見える位置に周る。近くで農作業されている人に聞いてみました。民有地となっている濠は国によって買われ、数年後には国に返される、という返事でした。

昭和31年(1956)、周辺の古墳7基を含め「大塚山古墳群」として国の史跡に指定された。なお大塚山古墳と島の山古墳を馬見古墳群に含めるかどうかは議論があるようです。

 島の山古墳  



川合大塚山古墳から東へ歩くこと40分、かなり疲れました。時刻も夕方5時になり、やや薄暗いのと夕陽の強さで写真が撮りにくくなってきた。
到着した所は島の山古墳の南西角、つまり前方部西側の隅。空中写真で見れば、住宅の建てこむ前方部を除き周壕に沿って道が設けられているので、墳丘への見通しは良さそうです。

(空中写真のA地点から撮る)後円部方向へ墳丘西側を撮る。紅葉のようだが、夕陽に染まっているだけです。川合大塚山古墳と違って、周壕には満々とした水が貯えられ墳丘を映し出している。これぞ前方後円墳、という感じがします。

こちらは同じ場所から前方部を撮ったもの。前方部は濠の際まで住宅がせまっている。家の中から釣りができそうだ。濠は前方部でせき止められているように見えるが、空中写真を見れば墳丘内部へ通じる渡り堤のようです。当初からあったものでしょうか?。現在、古墳は国指定史跡になっており、墳丘内部へ入ることは禁止されているようです。

西側の濠に沿った側道の柵に、島の山古墳を解説したパネルが7枚ほど掲示されていた。発掘調査に関する川西町教育委員会のものです。
三段構築の墳丘からは葺石と埴輪列(朝顔形円筒、家形、盾型、靫形)が検出された。東西くびれ部には造り出しがあり、平成17年(2005)の調査で西側くびれ部から祭祀に用いられたと考えられる植物製の籠が出土している。出土品は碧玉製車輪石・鍬形石・鏡片・垂下式耳飾・石製刀子・玉類など。古墳は国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されています。

(空中写真のC地点から撮る)後円部です。Wikipediaに「当古墳の位置は大和盆地の河川が合流する場にあり、交通の要所を押さえた場にあることが大塚山古墳群と共通している。また川合大塚山古墳と島の山古墳の墳形規格が同じであるという点からも、この二つの古墳は関係が深いとみられる」とあります。

(空中写真のD地点から撮る)墳丘の東側を撮る。東側も西側同様に水を貯えた濠が廻り、それに沿って側道が設けられている。古墳名は所在地の磯城郡川西町唐院字嶋ノ山という地名による。

今日は長い一日だった。薄暗い時間から歩き始め、夕方近鉄・結崎駅に着いた時は真っ暗だった。総歩数:58588歩、総歩行距離:43.9km、どちらも過去最高を記録した。

 武烈天皇陵(ぶれつてんのうりょう)  



日を改め、11月12火(木)に武烈天皇、顯宗天皇の本陵を訪ねました。
宮内庁治定の武烈天皇陵の所在地は「奈良県香芝市今泉」で、JR和歌山線の志都美(しずみ)駅近くだ。大阪からは、JR大阪天王寺駅から大和路線に乗り、王寺駅で和歌山線に乗り換え、二つめの駅です。
志都美駅西側へ出ると、正面に武烈天皇陵のある森が見えている。

駅からは10分もかからずに着く。宮内庁の正式名は「傍丘磐坏丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)」、陵形は「山形」としている。
「日本書紀は「傍丘磐坏丘陵」、古事記は「片岡之石坏岡」と記す。諸説あったが、幕末の修陵では不明とされていた。明治22年(1889)に現在地に「傍丘磐坏丘北陵」として治定され、陵を造り拝所が設けられた。これは日本書紀が第23代顯宗天皇と武烈天皇を同じ「傍丘磐坏丘陵」としているので、「北陵」「南陵」と区別したのです。
宮内庁も「自然地形を利用した山形の陵」(国会答弁)と公表しているように、単なる自然丘で古墳とは思えない、というのが通説になっている。何を根拠に現在地にしたのでしょうか?。宮内庁も馬見古墳群内の新山古墳を「大塚陵墓参考地」として武烈天皇を被葬候補者に想定しているのです。

第25代武烈天皇(ぶれつてんのう)は、仁賢2年(489)に仁賢天皇の第一皇子として誕生、母は雄略天皇の皇女・春日大娘皇女。他に皇子はいなかったので6歳で皇太子に。仁賢11年(498)父・仁賢天皇が崩御すると、他に候補がいなかったので10歳という異例の若さで即位する。宮は「泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)」(奈良県桜井市初瀬)に置かれた。桜井市出雲の十二柱神社に「武烈天皇泊瀬列城宮跡」の石碑が建っています。

武烈元年(499)春日娘子(かすがのいらつめ)を皇后に立てる。この皇后の父母とも正体がよく分かっていない。長い皇室の歴史で出自不明の皇后というのは他に例がない。子供も無く、「男女無くして継嗣絶ゆべし」(日本書紀)、「日続知らすべき王無かりき」(古事記)と書かれている。跡継ぎが無いのです。

日本書紀は武烈天皇の悪逆非道、淫猥な行為の数々を書き残している。「孕婦の腹を割きて其の胎を観す」「人を池の樋に入らせ、そこから流れ出る人を三つ刃の矛で刺し殺して喜んだ」等々、書くのも憚られるような異常な行為が記述されている。そして「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」、人々は皆恐怖に震えていたという。
絶対権力をもつ天皇といえ、十代では考えられない行動だ。こうした暴虐ぶりは日本書紀だけに書かれ、古事記には一切見られない。何故でしょうか?。また皇室の正史「日本書紀」が天皇の残虐卑猥な行為を事細かに書き残す、というのも不思議です。
悪業天皇は在位8年、18歳で崩御された。跡継ぎが無かったので、越前からやってきた継体天皇が即位する。これを王朝交替とみなす考え方がある。応神天皇からの王朝は武烈天皇で終り、新王朝が始まったというのです。そこで前王朝最後の天皇を暴君に仕立て、新王朝の開始を正当化し際立たせようとした。頷ける考え方です。暴君が”清徳””聖純”のような名では困るので、”武烈”が相応しかったのでしょう。

本当は、18歳で亡くなった気の優しい青年ではなかったか、と想像してしまう。またあまりにリアリティーに欠けるので、存在さえ疑う人もいるようです。

 顯宗天皇陵(けんぞうてんのうりょう)  



志都美駅と武烈天皇陵との間を南北にはしる国道168号線を、南へ25分ほど歩けば顯宗天皇陵だ。車道脇なのですぐ分かります。

ここは宮内庁によって第23代顯宗天皇(けんぞうてんのう)の「傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)」に治定され、陵形は前方後円墳となっている。武烈天皇陵同様に、所在について諸説があったが、幕末の修陵時には不明のままだった。明治22年(1889)に現在地に決まる。武烈天皇陵の「北陵」にたいして「南陵」として区別された。何を根拠に明治政府が治定したのか明らかでない。

第23代顯宗天皇陵(けんぞうてんのう)は市辺押磐皇子(履中天皇の長子)の第三子として誕生。母は葛城蟻臣の女・妃媛命。弘計王(おけのみこ)と呼ばれ、兄は億計王(おけのみこ、後の仁賢天皇)と呼ばれた。

父が雄略天皇に殺されたので、幼い兄弟は丹波に逃れ、さらに播磨に身を隠した。その後二十数年経ち、供物を調えるため播磨に勅使が使わされ、兄弟の身分が明らかになった。跡継ぎのいなかった清寧天皇は宮中に迎え入れて、兄・億計を皇太子に、弘計を皇子とした。清寧5年(484)清寧天皇が崩御する。皇太子の兄・億計と弟の弘計は互いに譲りあう。結局、兄・億計の説得に折れ、弟の弘計が顕宗天皇として36歳で即位した。そして兄が皇太子になるという特異な例となった。顕宗3年(487)、在位3年で崩御し、兄・億計が第24代仁賢天皇として即位する。

前方部を南西に向けた前方後円墳とされるが、いびつに変形しており陵墓にしては小さい。
拝所の前に庚申塚が置かれ、小さな休憩所が設けられている。陵墓のすぐ横は国道で、ひっきりなしに車が走り騒々しい。顯宗天皇の「静安と尊厳」が守られるような環境ではありません。宮内庁は馬見古墳群内の築山古墳を「磐園陵墓参考地」として顯宗天皇を被葬候補者に想定している。築山古墳は二百メートル級の巨大な前方後円墳です。どちらも明確な根拠が無いのならば、築山古墳のほうが顯宗天皇は安らかに眠れるのではないでしょうか。

 孝靈天皇陵(こうれいてんのうりょう)  



武烈天皇陵、顯宗天皇陵のあるこの地域には、もう一つ孝靈天皇陵が存在しています。これらを合わせて「片岡三陵」と呼ばれている。ついでなので訪ねてみました。JR大和路線の王寺駅で降り、南の丘陵へ歩くこと15分で拝所入口に到着します。所在地は奈良県北葛城郡王寺町本町3丁目。

宮内庁の公表する陵名は「片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)」、陵形は「山形」。
孝靈天皇の陵について日本書紀は「片丘馬坂陵」、古事記は「片岡馬坂上」と記している。元禄時代の探陵で現在地に治定された。その根拠は、葛下川が西流する南側丘陵は馬瀬坂と呼ばれていたのと、尾根上に小円墳があり地元で御廟所と呼んでいた、ということによる。幕末の修陵でも踏襲され、現在に至る。
車道左手に階段が見え、制札と石柱が建つ。拝所は小高い丘の上なので階段を登らなければならない。

第7代孝靈天皇(こうれいてんのう)は第6代孝安天皇の第一皇子で、26歳才で皇太子となる。先帝が亡くなると53歳で即位された。皇后は豪族磯城氏の娘・細媛命(ほそひめのみこと)。二人の間には、卑弥呼の墓として有名な箸墓古墳の被葬者とされている倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)がいる。また第三皇子の彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、通称吉備津彦命)は桃太郎伝説のモデルと言われている。

在位76年、127歳(日本書紀)、106歳(古事記)で崩御されたと伝わる。非常に伝説的な人物で、日本書記、古事記ともほぼ系譜の記載のみで事績の記述はない。そういうところから欠史八代の一人に数えられ実在性が疑われている。となるとこの立派な陵墓も・・・。

高台に位置するだけに見晴らしが良い。大和盆地が見渡せます。陵墓の周囲を一周できる道があり、展望を楽しめるようだが、あいにくロープがはられ立ち入り禁止になっていた。


詳しくはホームページ
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