山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

百舌鳥古墳群は世界遺産に相応しいか?

2015年12月23日 | 寺院・旧跡を訪ねて


「堺・百舌鳥野。ここには古代に造営された古墳が、1500年の時を経て今も残っています。古墳文化が花開いた時代、大阪湾にほど近いこの地には、かつてない巨大な前方後円墳が造営されました。そして、それをとりまく中小の古墳とともに、様々な形状の古墳を擁する古墳群を形成しています。古墳の一つ一つがかつての日本の姿を今に伝える貴重な歴史遺産であり、日本の歴史の1ページを語る世界的な遺産でもあります。この遺産を今後も末永く守り、まちづくりへと活用していくため、堺市は百舌鳥古墳群の世界文化遺産登録をめざした取り組みを進めています。」(堺市HPより

現在、堺市を中心に大阪府・羽曳野市・藤井寺市、そして「古墳群は地元市だけでなく大阪全体の貴重な財産だ」として大阪府市長会も全面支援している。現在までの経過は
・平成19年(2007)9月26日、世界遺産の国内暫定リストへの追加を求める提案書を提出
・平成20年(2008)9月26日、国の世界文化遺産特別委員会による審査の結果、「百舌鳥・古市古墳群」をはじめ5件が世界遺産の国内暫定リストに追加された。
・平成27年(2015)7月28日、国の文化審議会世界文化遺産特別委員会での審議の結果、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」(福岡県)の推薦が適当とされ、「百舌鳥・古市古墳群」の今年度の推薦は見送られた。

現在、次年度以降の推薦待ちという状況です。一国一件という枠があるので、当面はかなり厳しいと思われます。

 世界遺産とは・・・  


1972年のユネスコ(国連教育科学文化機関)総会で「文化遺産及び自然遺産を人類全体のための遺産として、損傷、破壊等の脅威から保護し、保存すること」を目的に締結された条約にもとづく。登録されるためには「顕著な普遍的価値を有する」ことが必要とされています。そしてWikipediaには次のように書かれている。
「その「顕著な普遍的価値」を証明できる「完全性」と「真正性」を備えていると、世界遺産委員会から判断される必要がある。完全性とは、その物件の「顕著な普遍的価値」を証明するために必要な要素が全て揃っていることなどを指す。真正性とは、特に文化遺産について、そのデザイン、材質、機能などが本来の価値を有していることなどを指す。」

 百舌鳥古墳群の世界遺産たる「顕著な普遍的価値」  


5,6世紀の墳墓として貴重な歴史遺産には間違いない。ただし、これは誰かを埋葬した墳墓です。その”誰か”を確定的に特定できない点、文化的価値に瑕疵を生じさせている。堺市HPの「世界遺産登録に関するQ&A」に

Q.古墳に葬られている人が特定できなくても、世界文化遺産に登録できるのですか。
A.世界文化遺産への登録にあたっては、それが本当に古墳かどうかという点が問われます。たとえ学術的に被葬者が特定されていない場合でも、ただちに世界文化遺産登録の支障になるものではないというのが世界遺産の専門家の見解です。

その通りだと思います。やや価値を減じるが、その点では世界遺産登録には支障はないと思う。「5,6世紀の巨大な墳墓」という価値はあるのです。問題なのは、世界遺産たる「顕著な普遍的価値」を証明できる「完全性」と「真正性」を備えているか、ということです。

まず「完全性」について。墳墓の被葬者のみならず、内部の構造、石室、埋葬品、埋葬状況など分っていないことが多い。1500年前の遺物なので、解明に困難が伴うのは当然ですが(盗掘ということもある)、解明しようとする努力がなされているかどうか、ということです。これが現在、国の意思によって拒否されている。
宮内庁は「陵墓は単なる文化財ではなく皇室の祖先祭祀の場である。よって静安と尊厳を維持すべきものである」として、一般人の出入りだけでなく考古学者など研究者の立ち入り調査さえを拒否している。皇室用財産で、立ち入ることのできない聖域なのです。現状では「完全性」を追求することができない。

次に真正性について。現在目にする大仙陵古墳(仁徳天皇陵)などの陵墓は、周囲を広い濠に囲まれ、青々とした常緑樹が繁る墳丘を、真っ白な玉砂利が敷き詰められた奥に石の鳥居,陵標,石柵などの設置された拝所から遥拝する。その威厳に満ちた雰囲気は、万世一系皇室の存在を改めて印象づけさせられる。
しかしこうした姿は、原初のものでしょうか?。築造当時は葺石で覆われ埴輪などが並べられていた。決して現在のように青々としたものではない。その後古墳の大部分は、放置され、農民など自由出入りし、さらには盗掘されれるままになっていた。ところが江戸末期,幕末に近づくにつれ様相が一変する。勤皇思想の高まりと尊王攘夷の動きで,陵墓の管理が厳しくなってくる。立ち入りが禁止され、全国的な陵墓の大修理・増築が開始されるのです。濠を拡張・改造し、墳丘を整形し松,杉,カシ,ヒノキなどの常緑樹が植えられ、前方部正面に拝所が設置された。明治維新政府も天皇中心の国づくりのため天皇陵を神聖化し、今日見るような景観に整形・改造・変形していったのです。これで本来の価値を保持しているといえるのでしょうか?。真正性についても疑問です。

 文化財か?、皇室財産としての聖地か?  


宮内庁の管理する陵墓は、現在文化庁の文化財行政の対象となっていない。天皇陵で「国宝」「重要文化財」「特別史跡」「史跡」といった指定を受けているものは皆無なのです。小さな古墳ながら、国の史跡指定を受けている古墳は幾つもある。陵墓でないからです。ここ百舌鳥古墳群でも、いたすけ古墳は国の史跡に指定されている。ところが百舌鳥古墳群で中核をなす大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、田出井山古墳(反正天皇陵)、ミサンザイ古墳(履中天皇陵)、ニサンザイ古墳、御廟山古墳は一切の指定を受けていない。陵墓もしくは陵墓参考地として宮内庁管理の下に置かれているからです。

国内で文化財として扱われていないものが、世界文化遺産として認められるはずがない。正倉院の例があります。正倉院は、1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産(文化遺産)に登録された。その時、正倉院は皇室用財産として文化財保護法による指定の対象外となっていた。しかし世界文化遺産として登録されるには、文化財として国の法律によって保護されていなければならないという条件があった。そこで前年の1997年(平成9年)5月19日、文化財保護法による国宝に指定されたのです。

「百舌鳥・古市古墳群」は、平成20年(2008)9月、国の世界文化遺産特別委員会よって世界遺産の国内暫定リストに追加された。国の認定なので、当然宮内庁も了解したものと考えられる。国は、宮内庁は陵墓を文化財として扱うようになったのでしょうか?。宮内庁の見解を知りたく探したが見つかりませんでした。
今年(2015年)の国内推薦は逃したが、堺市は次年度以降の推薦を目指して更なる努力をすると意気込んでいる。そして多くの税金がつぎ込まれていく。先日の報道では(2015年12月初旬)、関西の大御所・桂三枝まで引き出したようです。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
国の推薦を受けると、ユネスコの審査官がやって来ます。

官「この景観は、原初のものですか?」
市役人「・・・・・」
官「誰のお墓ですか?」
市役人「**さんのようですが、ハッキリしたことは・・・」
官「現在お調べ中ですか?」
市役人「諦めています」
官「中を見させていただけますか?」
市役人「オエライ方が眠っていらっしゃいますのでご遠慮下さい」
官「なぜですか?」
市役人「静安と尊厳を維持したいからです」
官「????」

審査を通るはずがない。ロビー活動、おもてなしによっては・・・(そんなもんかもしれないが・・・)

詳しくはホームページ
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世界遺産をめざす百舌鳥古墳群 (その 2)

2015年12月18日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2015年9月22日(火)、百舌鳥三陵を中心とした百舌鳥古墳群を周る。世界遺産にふさわしいか?

 ミサンザイ古墳(石津ケ丘(いしづがおか)古墳、履中天皇陵)  


大仙公園の南出口を出ると、車道を挟みミサンザイ古墳(履中天皇陵)が見えてきました。この車道沿いの公園内にも幾つか古墳が残されている。出口の左(東)側には「グワショウ坊古墳」「旗塚古墳」、右(西)側には「七観音古墳」です。

公園の南西端にあるのが七観音古墳。直径約25m、高さ約3.5mの円墳で、荒れていた古墳を保護するために盛り土をして整備されている。整備されすぎて古墳には見えない。すぐ南の履中天皇陵の陪冢と考えられている。堺市の調査により葺き石、埴輪のかけらなどが見つかっているが、周濠跡は確認されていない。

大仙公園内には、その他にもたくさんの小さな古墳が点在している。古墳標識が立てられているのですぐ判る。ほとんどが大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の陪冢と考えられている。しかし原型をとどめているものは皆無。前方部は削られたり、濠を埋めたり、墳丘を整形したりと、公園化のために縮小・変形してしまっています。

車道を西へ進むと、ミサンザイ古墳西側に入り込む道が設けられている。すぐ近くまで住宅が迫っているが、古墳の堤に沿ってゆったりとした周遊路が整備され、快適に歩ける。堤側は鉄柵で塞がれ、濠越しに墳丘を眺める、というようなことはできない。鉄柵にすがって眺めると、なんか牢に閉じ込めれれている気分になる。
この辺り、ワンちゃんにとって快適な環境ですが、犬の散歩はどうなんでしょうか?
正面拝所は南側に設けられている。宮内庁により,百舌鳥耳原三陵の「履中天皇 百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)」として治定・管理されています。
第十七代履中天皇は、第16代仁徳天皇と磐之媛との間に生まれた第一皇子。弟に第十八代反正天皇、第十九代允恭天皇がいる。磐余(いわれ)の稚桜宮(わかざくらのみや,桜井市池之内)で即位したが、治世6年で亡くなり「百舌鳥耳原陵」に葬ったと、『日本書紀』は伝えている。

ところが出土した埴輪、陪塚の出土品などから5世紀前半頃の築造とされ、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)より古いことがわかってきた。父よりも息子の墓のほうが古い・・・?。現在「百舌鳥耳原三陵」については諸説あり混乱しています。しかし宮内庁が立ち入り・調査を拒否している現状では、これ以上の解明は閉ざされている。いったい誰が眠っているのでしょうか・・・?

ミサンザイ古墳の西側や南側は民家が近くまで接近し取り囲んでいるので、墳丘全体を眺める場所が少ない。ところが東側へ廻ると堤の上が散策路になっており、幅広い周濠と墳丘全体を見渡すことができます。
この古墳もいろいろな呼び名をもつ。「ミサンザイ古墳」「石津ケ丘(いしづがおか)古墳」「上石津ミサンザイ古墳」「百舌鳥陵山古墳(もずみささぎやまこふん)」「履中天皇陵古墳」、混乱してきます。「ミサンザイ」とは「ミササギ(陵)」の転訛したものとか。
墳丘の全長約365m、後円部・・・直径約205m、高さ約27.6m、前方部・・・幅約235m、高さ約25.3m
百舌鳥古墳群では2番目、日本では3番目の大きさを誇る前方後円墳です。三段築成の墳丘で、前方部を南に向けている。現在は、一重の盾形の濠と堤だけだが、調査により幅10m程の二重目の周濠の跡が見つかっている。

 乳岡(ちのおか)古墳  


ミサンザイ古墳(履中天皇陵)の西方かなり離れた場所に乳岡(ちのおか)古墳がある。百舌鳥古墳群では一番最初に築造された古墳だ,ということなので訪ねてみることにした。ミサンザイ古墳から泉北1号線に沿って歩くこと30分。ようやく車道脇に緑の墳丘が見えてきた。正面になる前方部は車道とは真反対の裏側(南側)です。
南へ廻ると、古墳標識と説明版が置かれている。元の大きさは,三段築成のかなり大きな前方後円墳だったようです。百舌鳥古墳群では6番目の大きさになり,田出井山古墳(反正天皇陵)やいたすけ古墳より大きいことになります。前方部の大半が削られて、周濠も埋めたてられ住宅や工場などになってしまっている。
出土遺物から4世紀末頃から5世紀の初め頃に築造されたと考えられ、百舌鳥古墳群では最も古い古墳だそうです。現在、国指定史跡(1974年指定)になっており、フェンスで囲まれ中へは入れない。

 いたすけ古墳  


ミサンザイ古墳(履中天皇陵)から東へ、JR阪和線の踏み切りを越え住宅街の中を進むと「いたすけ古墳」が目に飛び込んでくる。

墳丘の全長約146m、後円部径約90m、高さ約12.2m、前方部幅約99m、高さ約11.1m、百舌鳥古墳群では八番目の大きさ。前方部を西に向けた三段築成の前方後円墳。一重の楯形周濠が巡っている。墳丘には埴輪と葺石のあることが確認され、その特徴から5世紀中頃から後半頃の築造と推測されている。
古墳の横腹にあたる南側は、堤上に遊歩道が設けられているので、真横から濠越に古墳の全体を眺めることができます。以前は「イタスケ古墳」とカタカナ表記されていたが、昭和31年(1956)国の史跡に指定された時「いたすけ古墳」というひらがな表記に統一されたそうです。
いたすけ古墳が注目され脚光を浴びたのは、全国的な保存運動からです。百舌鳥古墳群にはかって100基以上の古墳が存在していた。それが現在では半分以下になってしまっている。戦後、法の不備から古墳は民有地に払い下げられ、所有主が土建業者に売却し宅地開発などで壊され消滅してしまったからです(大塚山古墳、カトンボ山古墳、七観山古墳、平塚古墳など)。いたすけ古墳は残された唯一の貴重な古墳だった。

昭和30年(1955),当時私有地だったこの古墳に宅地開発の計画が持ち上がった。土建業者が住宅の壁土に利用するため墳丘の土砂採取をし,その跡地を住宅地にする計画です。工事車輌を墳丘に入れるための橋が周濠に架けられ、樹木が伐採され始めた。
市民・研究者を中心に”いたすけを守れ”との声が沸き起こり、全国的な保存運動に発展。保存のための募金活動も全国的に行われた。その結果工事は中止され,堺市が古墳と橋を開発会社より買い取り文化財として保存することになる。翌31年(1956)5月には国の史跡に指定された。

いたすけ古墳は古墳保存運動のシンボルとなり、出土した冑形埴輪は堺市の文化財保護のシンボルマークになっています。堺市博物館には、昭和30年(1955)時の保存運動の新聞記事が多数掲示され、当時いかに大きな社会問題だったかがうかがい知れる。現在でも南側の濠で、橋桁の一部を醜い姿でそのまま目にすることができます。シンボルとして残されているのでしょうか・・・。

 御廟山古墳(ごびょうやま)と林家住宅  


いたすけ古墳から東へ数分で御廟山古墳(ごびょうやま)につく。墳丘長さ約186m、後円部直径約113m、高さ18m、前方部幅約136m、三段築成の前方後円墳。百舌鳥古墳群で四番目の大きさ。現在盾形の濠と堤が巡っているが、外側にも二重濠があったことが確認されている。埴輪の特徴から、5世紀中頃の築造と考えられている。

江戸時代地元では、この古墳は東側に位置する応神天皇を祀る百舌鳥八幡宮の奥の院、即ち応神天皇の御廟と考えられていた。江戸時代の絵図には応神天皇陵と書かれているものもある。また神功皇后陵の伝承も残る。
現在、宮内庁は応神天皇の可能性を考慮して墳丘部分を「百舌鳥陵墓参考地」に指定し管理している。外濠は堺市の管理。陵墓参考地ながら、宮内庁が管理していて学術調査すら一切拒否しているため、主体部の構造や副葬品などは不明のまま。

御廟山古墳のすぐ東側に、江戸時代の大庄屋の屋敷「林家住宅」が保存され,国の重要文化財に指定されている。白漆喰の土塀で囲まれ,主屋・土蔵・不動堂・稲荷社がある。また切妻造の茅葺屋根と一段低い瓦葺の屋根が組み合わせられた「大和棟(やまとむね) 」と呼ばれる屋根形式に特徴があるそうです。
内部は公開されていない。近所のオバサンの話では、役所に申し込みある程度人数が揃ったら見せてくれるそうです。またタイミングよければ、団体さんに公開される時一緒に入れるそうです。

 百舌鳥八幡宮(もずはちまんぐう)  


御廟山古墳、林家住宅から、民家の密集する中をさらに東へ200mほど行けば百舌鳥八幡宮に出る。
境内はかなり広い。時間がなかったので周りきれず、本殿周辺を見ただけ。奥の本殿は三間社流造で、屋根は檜皮葺。本殿と拝殿との間に幣殿を設ける権現造。
社伝によれば、昔、神功皇后が三韓征伐を終えて難波に戻られたとき、この地に留まり、幾万年の後まで天下太平で人民を守ろうという御誓願を立てられたという。欽明天皇(在位532~571)の時代,八幡神の宣託をうけ神社を創建し応神天皇を祀ったのが創起とされている。
本殿右前には,幹囲り5.2m、樹高25m、樹齢 7~800年ともされるクスノキの名古木があり、大阪府指定の天然記念物に指定されている。

この日境内では、櫓が組まれ紅白の幔幕が張り巡らされ、秋祭りの準備中でした。尋ねると、今度の土日(9月26日~27日)に例祭が行われるそうです。見所は、氏子9町による大小16基の「ふとん太鼓」が勇壮に練り歩くこと。ふとん太鼓は、太鼓を仕込んだ台の上に朱色の座布団を五段重ねにした造りで、高さ約4m、重さ約3t。約70人で担ぎ、「ベーラベーラベラショッショイ」という独特のかけ声と太鼓の音に合わせ練り歩くそうです。
山車に布団とは・・・不思議な組み合わせです?。調べてみると、「堺まつり ふとん太鼓連合保存会」ホームページに
「堺では明治時代まではだんじりが一般であった。(ほかにも船地車が曳行されていた)しかし、明治29年の旧暦八月一日のことである堺市中之町西の紀州街道(地車が1台通れるほどの細い道であった)において、湊組の船地車と北の鍛治屋町地車が鉢合わせとなり、お互い道を譲らず争論となり、あげくの果てには周辺民家の瓦を剥がし瓦合戦になってしまい、湊組が突きかかり2名の殺傷者を出してしまった。 堺警察の警官が数十名駆けつけ双方の数十名を捕縛した。この事件は「堺の地車騒動」といわれている。この事件より祭礼には地車は一切曳行してはいけなくなった。後に日本は日露戦争に勝利しそれを祝し、翌年明治39年練物曳行は許可された。 その翌年に菅原神社の北開仲、北浜、並松町 船待神社の西湊が地車に代わり"ふとん太鼓"を新調しそれぞれの神社に奉納した。・・・ふとん太鼓の五枚の座布団は神様が座るところといわれている。」と書かれている。

上記の事件以降、堺では山車に布団を用い、今ではそれが名物になっている。堺より南の岸和田方面では、現在でもだんじりが使われています。一昨日の20日、岸和田のだんじり祭りを見てきました。勇壮なだんじりが町中を走り回る。時々ひっくり返ったり民家を壊したりすることはあるが、現在では統制が取られているのでぶつかることはない。あれが正面衝突したら死者もでることでしょう。今度の土日に見学に来る予定だったが、用事ができ叶わず。来年にはぜひ。

 ニサンザイ古墳(土師ニサンザイ古墳)  



百舌鳥八幡宮の石の大鳥居を出て、ニサンザイ古墳目指して南へ歩く。
墳丘全長は約290m、後円部の高さは約24.6m。百舌鳥古墳群では三番目,全国でも八番目の大きさを誇る三段築成の前方後円墳。かって二重目の周濠があったが,今は住宅地になってしまい、一重の盾形周濠だけとなっている。周濠の周りの堤上は周回路となっており、墳丘を眺めながら散策できます。出土した埴輪の特徴から5世紀後半の築造であり、百舌鳥古墳群では最も新しい大型前方後円墳。

”ニサンザイ”の語源は”ミサンザイ”同様に「陵」が語源と考えられている。江戸時代から「反正天皇陵」の伝承があり,反正天皇の真陵とみる見解もかなり多い。現反正天皇陵(田出井山古墳)よりは面積で4倍も大きい。そのためか宮内庁も反正天皇陵かもしれない、と想定し「東百舌鳥陵墓参考地(ひがしもずりょうぼさんこうち)」として治定、管理している。被葬者不明の陵墓参考地なのです。それなら考古学的な調査をすればよいのに・・・。どなたの「静安と尊厳」を保つためなのでしょうか?

今年(2015年)の夏,「百舌鳥古墳群の堀、真っ赤に染まる 浮草が大量繁殖か」の見出しの新聞記事を見た。ニサンザイ古墳の幅約50mの濠の北側一面が真っ赤に染まっているという。雑草が生えるのを抑制するために農業用に改良された浮草が、鳥の足について運ばれたりして入り込み、大量に繁殖したとみられている。墳墓だけに、血の流れに見え異様に感じられてしまいます。血の流れの間の青草には薄ピンク色の小さな花が咲き、対照的に綺麗だった。浮草の片付けをされていた作業員の方に尋ねると「こけいあおい」という花だそうです。

 筒井家屋敷と御廟表塚古墳  


帰るため南海・中百舌鳥駅へ向かって歩いていると、車道左手に青々と樹木の繁った屋敷が見えてくる。ここが筒井家屋敷と御廟表塚古墳がある場所です。横道に入っていくと突き当たりになる。突き当たり左に筒井家屋敷、右手に御廟表塚古墳が位置しています。

筒井家は戦国武将として名高い筒井順慶を祖先に持つ名家。江戸時代にはこの一帯を開墾した庄屋で,その名家の屋敷が残されている。現在は17代目の御当主がお住まいのようです。

説明板【百舌鳥のクス】によれば、幹周10.1m、樹高13m、推定樹齢800~1000年。大阪府下で一番古い樹木であるといわれています。府指定の天然記念物であるとともに、堺市指定の保存樹林でに指定されています。昭和25年の台風で大きな枝が折れるなど大きな被害をこうむったそうです。裏側に廻ると大きな空洞ができ痛々しいとか。

筒井家屋敷の傍にあるのが御廟表塚古墳(ごびょうおもてづか)。
もとは前方部を西に向けた二段築成の帆立貝形前方後円墳だったが、現在は前方部が削平され住宅地となってしまっているため円墳に見えます。墳丘の全長は約75m、後円部径約54m、、高さ約10mと推定されている。
周濠も後円部側の一部を残し埋め立てられ、失われている。円筒埴輪や朝顔形埴輪、家型埴輪などが出土し、それらから5世紀後半ころの築造と推定されています。平成26年(2014)、後円部及び北東隅に残された周濠の一部が国の史跡に指定された。

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世界遺産をめざす百舌鳥古墳群 (その 1)

2015年12月10日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2015年9月22日(火)、百舌鳥三陵を中心とした百舌鳥古墳群を周る。世界遺産にふさわしいか?

 田出井山古墳(反正天皇陵)  


百舌鳥古墳群巡りの出発点を田出井山古墳(反正天皇陵)とします。南海電車堺東駅の裏側・東出口から出る。堺市一の繁華街・堺東駅のすぐ前に堺市役所がそびえる。最上階の21階展望ロビーは無休で開放されている(9:00~21:00)。地上80mの高さから360度パノラマ展望ができ,ボランティアガイドさんもいて,親切に説明してくださる。
大仙陵古墳(仁徳天皇陵)は余りに大きすぎ,近くで眺めてもその全体像がつかみにくく、上空から眺めるしかない。この堺市役所21階展望ロビーは、上から古墳群を見下ろせ、絶好のビューポイントです。
堺東駅東側は,表側(西出口)の騒々しい繁華街と違い,閑静な住宅街です。その中を200mほど行くと突然高い鉄柵で囲まれた繁みが現れる。鉄柵に沿い進むと,すぐ正面拝所が見えてきました。
ここは宮内庁によって「反正天皇 百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)」に治定・管理されている。その根拠は,平安時代の「延喜式諸陵寮」(927)に「百舌鳥耳原北陵 反正天皇」と記されていることからくる。一番大きな大仙陵古墳を「百舌鳥耳原中陵」とし,仁徳天皇陵にあてはめ,その北側に位置しているこの古墳を「北陵」としただけである。それ以外に明確な根拠があるわけではない。
百舌鳥古墳群では七番目の大きさで,天皇陵にしては小さく,これを反正天皇陵とすることを疑問とする人も多い。現仁徳天皇陵の東方に位置するが,倍近い大きさのニサンザイ古墳を反正天皇陵だとする意見もある。宮内庁もニサンザイ古墳を、反正天皇陵かもしれないとして陵墓参考地に指定し管理している。
考古学的には「田出井山(たでいやま)古墳」と呼ばれる。濠や墳丘を眺めようとしても、古墳のすぐ傍まで接近している住宅のため見ることができない。。北側に位置する方違神社の境内からはよく見えます。方違神社の境内へきて、初めて古墳らしさを感じます。
全長約148m、後円部径約76m、高さ約14m、前方部幅約110m、高さ約15mの前方後円墳で,百舌鳥古墳群では七番目の大きさ。現在盾形の濠と堤が巡っているが、前方部外周で行われた発掘調査で、かつて二重濠があったことが確認されている。5世紀後半の古墳とされているが、宮内庁は学術調査など一切認めておらず,詳しいことはわかっていない。

 方違神社、けやき通り  


田出井山古墳(反正天皇陵)のすぐ北側に方違神社がある。
御祭神は「方違幸大神(かたたがえさちおおかみ)」だが,方違神社は「ほうちがいじんじゃ」と読む。この神社は”方違”という言葉が全てを表しています。

日本には古来から「方角(方向)がいい」「方角が悪い」という「方違え(かたたがえ)」の風習があった。
方違神社の公式サイトに「陰陽道(おんみょうどう)に基づく考え方で、平安時代に最も盛んに行われた風習です。外出の際、目的地が禁忌の方向に当たる場合、前夜に別の方角に行って泊まり、方角を変えてから出発するなど、直接目的地に行かず屈折して行くことで凶方を避けることを「方違え」と言います。
ご由緒にもありますが、方違神社の鎮座する三国ヶ丘は、摂津の国と河内の国と和泉の国の三つの国の境界地点です。この国境地は摂津の国から見ると南にあり、和泉の国からは北にあります。つまり南であり北でもあるので南北を相殺しています。同様に東西も相殺しているため、当地には方角が無いとされ、旅に出るときや家を移るときにお参りをすれば、一挙に三国を旅したことになり、おのずと「方違え」をしたことになると考えられてきました。」と記されている。
神社は,摂津、河内、和泉三国の境に位置し(現在は堺市堺区北三国ケ丘町),“三国山”“三国の衢(ちまた)”また“三国丘”とも称され,どの方角にも属さない清地として古くから方位、地相、家相などの方災除けの神社として信仰を集めてきた。ちなみに、”堺”という地名は”三国の境”に由来する。

方違神社から東へ数分歩くと,「けやき通り」と呼ばれる美しいケヤキの並木道にでる。
道いっぱいにケヤキがアーチ状に覆い,清涼感たっぷりです。百舌鳥三陵周遊路のハイキングコースに含まれている。このけやき通り沿いには、大阪府指定天然記念物「方違神社のくろがねもち」が痛々しい姿で佇み、さらに南へ行けばレトロな雰囲気を残す明治の上水道施設として国の登録有形文化財に登録されている「旧天王貯水池」の跡が見れます。けやき通りは大通りに出、そこの向陵西町交差点ので終りです。大仙陵古墳(仁徳天皇陵)はもう目の前。

 大仙陵古墳(仁徳天皇陵)  


広い大通りを横切らないと大仙陵古墳(仁徳天皇陵)へ行けない。西へ100mほど行った所に大通りをまたぐ歩道橋が見えます。まず歩道橋上から眺めてみることに。大通りを挟んで北側に永山古墳が見える。大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の陪塚(ばいちょう)とされている。陪塚とは,大古墳の近くにある,近親者や従者を葬ったされる小さな古墳のこと。大仙陵古墳の周辺には,築造時期が接近する小型の古墳が多数点在しているが,宮内庁はそのうち12基を陪塚として指定し,管理している。
北側から西を廻り、やっと大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の正面にたどり着く。古墳名は「大仙古墳(だいせんこふん)・大山古墳」。仁徳天皇の陵墓として親しまれてきたので「仁徳天皇陵古墳・大仙陵古墳」とも呼ばれる。また年配の人(俺も・・・)は,教科書にそう書かれ教えられてきたから単に「仁徳天皇陵」と呼ばれることも多い。堺市民は親しみを込めて「御陵さん」と呼んでいるそうです。
近年では,仁徳天皇の墓だ,ということが学問的に確認できないので,「伝仁徳天皇陵」と呼んだり,天皇名を付けず「大仙古墳,大仙陵古墳」と呼ばれることが多くなっている。なお宮内庁の公式名は「仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵」(もずのみみはらのなかのみささぎ)

古墳の規模について,堺市の公式サイトでは以下の数値を公表している。
周濠を含めた古墳最大長:840m,最大幅:654m
墳丘は全長:486m
後円部
 直径:249m、高さ:35.8m
前方部
 幅:307m、長さ:237m,高さ:33.9m
 
三段に築成された日本最大の前方後円墳。あまりに大きすぎて全体が見渡せない。古墳全体を眺めるには、堺市役所にある21階展望ロビーを利用するのが、手っ取り早い。年中無休(9:00~21:00)で,360度パノラマ展望ができ,ボランティア・ガイドさんがおられ、懇切丁寧に説明してもらえます。それ以外では,上空の飛行機の窓から覗き見るか、概観を俯瞰するならGoogle Earthを使う手もある。

どの陵墓もそうですが,埋葬施設のある後円部でなく,前方部に遥拝所が設けられ正面となっている。前方部が南を向く大仙陵古墳(仁徳天皇陵)も,西側の周回路から南側に出ると雰囲気が一変する。今までよく見えなかった濠が現れ,松並木と鉄柵のある低い堤を隔てて整然とした広い車道と遊歩道が真っ直ぐ伸びている。満々と水を貯えた濠も見通せる。といってもこれは三重目の濠で,その内部にさらに二重の濠が廻っている。内側の二重の濠は,上空から見下ろすしか見ることができない。

大仙陵古墳は,宮内庁によって「仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵」(もずのみみはらのなかのみささぎ)に治定されている。前方部正面の遥拝所は,鳥居・灯籠・陵標・玉垣,玉砂利など宮内庁管理の画一的陵墓の形式に沿ったもので,金太郎飴のようなもの。しかし広さ,奥行きは他のどこの陵墓よりも大きく,その前に立つと背筋を伸ばさなければならないような威厳を感じさせる。

遥拝所は三つに区分けされている。
一番奥,第一堤上に鳥居,灯篭,陵標が設けられ,周囲は玉垣といわれる石の垣で整然と囲われている。ここは皇族用の拝所で,天皇と皇族以外は入れない。
埋められた二重目の濠上から第一堤上にかけては特別拝所で,ここも一般人は入れないように柵で区切られ鉄扉で塞がれている。一般人が入れるのはその手前,第二堤上までである。ここにはボランティアガイドさんが常駐されていて,大仙陵古墳の詳しい解説をしてもらえます。

江戸時代までは,桜見物など物見遊山や酒宴,ワラビ取りやシバ集めなど墳丘には自由に出入りできたという。ところが江戸末期,幕末に近づくにつれ様相が一変する。勤皇思想の高まりと尊王攘夷の動きで,陵墓とされる場所に制限が加えられてくる。立ち入りを禁止され、石の鳥居,陵標,石柵などからなる拝所が設置され天皇の墓所らしく大修理・増築が行われた。それまで雑草の生える禿山だったり,竹や雑木が茂っていた墳丘には,松,杉,カシ,ヒノキなどの常緑樹が植えられ,今日見るような景観に整えられていったのです。民衆に身近だった存在から,人々から隔離され,遠くから仰ぎ見る聖域に変わってしまった。「立ち入るな」「魚釣りするな」「犬を散歩させるな」等なにかとやかましく、明治の皇国日本の片鱗が今でも漂っています。

 大仙公園(だいせんこうえん)  


大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の遥拝所がある南側は,広い車道を挟んで大仙公園となっている。33万平方メートルの広大な敷地に堺市博物館、日本庭園,大芝生広場,園池、茶室などが配置され、緑に覆われ市民の憩いの場となっている。公園内には小さいが古墳が点在し,歴史も体感できる古墳公園でもある。「日本の都市公園100選」(1989年)、「日本の歴史公園100選」(2007年)に選ばれています。

大仙公園観光案内所の手前の公園内に、「百舌鳥耳原」由来を説明した仁徳天皇と鹿の像が建てられている。
『日本書紀』によれば、仁徳天皇は河内の石津原(現在の堺市石津町から中百舌鳥町一帯)に行幸して陵地をさだめ,工事が開始された。陵を造り始めた十八日に,野原から鹿が走り出てきて、工事人たちの前で倒れて死んだ。その時、鹿の耳から百舌鳥が飛び去ったという。それで、この地を「百舌鳥耳原」と名付けたとされる。

公園中央にある堺市博物館は市制90周年記念事業として昭和55(1980)年に開館。古代から近代までの堺の歴史を,出土品や文化財などを展示しながら説明している。「ここに来れば堺の歴史と文化がわかる」そうです。
百舌鳥古墳群での出土品を展示している。また百舌鳥古墳群シアター(無料)では,200インチ大型スクリーンを使ったVR(バーチャル・リアリティ)映像で百舌鳥古墳群を空中散歩させてくれる。巨大すぎて全体像がつかみにくい大仙陵古墳(仁徳天皇陵)もよくわかる。
ただ残念なのは、あれだけ力を入れている世界遺産登録への情報が少なかったこと。登録したいという堺市の理由付けを知りたかったのだが・・・。
開館時間:9時30分~17時15分
観覧料:一般 200円、高・大学生 100円、小・中学生 50円
65歳以上は無料とある。証明するものを持参してなかったが、食品スーパーの「65歳以上優待パス」を見せると、笑顔で通してくれた・・・(^.^)

詳しくはホームページ
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