山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

北野天満宮界隈ブラ歩き 2

2019年11月30日 | 寺院・旧跡を訪ねて

■2019年2月25日(月曜日)
二月末,梅花の季節。2回目は北野天満宮の史跡御土居、梅苑、そして社殿背後の紹介です。

(追記)11月23日(土)用事で京都へ行ったので、ついでに北野天満宮に立ち寄った。「もみじ苑」で知られる御土居の紅葉を鑑賞してきました。

 史跡御土居  



社殿西側にもみじ苑/史跡御土居/梅苑への入り口がある。ここしか入り口はなく,入園券売り場のテント小屋が設営されている。ここで800円(大人,子供は400円)の券を手にすると,もみじ苑/史跡御土居/梅苑を自由に歩きまわれます。
テント小屋の先を少しばかり登ると,そこはもう「御土居」と呼ばれる史跡の上だ。まず目にするのが半分朽ちかけた巨樹。「東風(こち)」と名付けられた樹齢600年のケヤキの大樹です。ここから天高く大宰府まで東風を吹き続けているそうです。
御土居の上を左方向へ行けば梅苑です。



史跡に指定されている「御土居(おどい)」とは何でしょうか?。周辺に置かれている説明板を集めてみました。

豊臣秀吉による京都改造事業の一つ。敵から都を守る防塁と、鴨川の氾濫から守る水防を目的として、秀吉が京都の周囲に築いた大土堤です。御土居の高さは約10メートル。洛中洛外がこれで区別されるようになった。
一部が京都市内に現存し、史跡に指定されている。特にここ北野天満宮に残る御土居は当時の原型に近いそうです。



御土居上を北側へ少し進むと展望台があり,御土居東側の北野天満宮境内を見渡せる。本殿,拝殿を構成する社殿の複雑な屋根の構造が見て取れます。


御土居はさらに続いているが,展望台から先へは入れないようになっている。秋のもみじ祭りの時期には開放されるのでしょうか?。





御土居の西側は急斜面となっており,谷底に紙屋川が流れ,紅い太鼓橋が見えます。










 もみじ苑  




大ケヤキの場所に戻り,西側の急斜面を下りてみます。降りた先に,清流紙屋川が流れ、朱塗りの太鼓橋「鶯橋(うぐいすばし)」が架かっている。




鶯橋を起点に,紙屋川の両岸を歩けるように散策路が設けられている。豊臣秀吉の築いた土塁「御土居」の斜面や紙屋川の両岸にイロハモミジなど約350本の紅葉が植えられ,名所「もみじ苑」となっています。モミジを上からも下からも楽しめるのが、ここの良いところ。もみじ苑は11月中旬から12月上旬にかけて公開され、夜間ライトアップもされるそうです(もみじ苑入苑料600円・茶菓子付)。

川沿いの一部には梅林もあり,この時期でも紙屋川沿いを楽しみながら散策できます。

 もみじ苑の紅葉(11/23) 1  



11月23日(土)、京都へ来たので北野天満宮に立ち寄った。御土居の紅葉を見るためです。用事があるため9時半過ぎまでしか滞在できない。そのため朝早く出かけ、天満宮に着いたのは8時過ぎ。
2月の梅花祭の時と違って、静かな大鳥居前です。早朝なのでまだ参拝者もいない。露店も無く、すっきりとした神社らしい参道。梅花祭の際には見られなかった臥牛像も、参道脇にいくつも見られる。

楼門をくぐり、絵馬堂前の風景。参道正面が中門(三光門)、左に紅葉に包まれた紅梅殿が見える。もみじ苑の開園は9時なので、それまで静かな境内を散策。

絵馬堂前の太鼓橋を渡り紅梅殿へ。紅梅殿前の庭園で、梅花祭の際は幔幕で囲い野点大茶湯が催されていました。その時は大茶湯参加者以外は立ち入り禁止になっていた。この時期、紅い紅梅殿が紅く染まり綺麗です。
この庭園は、入苑券の裏に「船出の庭」とある。どういう意味なのだろうか?。

絵馬堂前に入苑券売り場があり、その横が入苑口となっている。入苑料は千円です。8時半過ぎ、売り場の前に立っていると、私の背後に列ができてきた。いの一番に入苑できる。9時までまだ5分少々あるが開けてくれました。

入苑するとすぐお茶屋があります。春の梅花祭の時と同じお茶屋で、すぐ目の前が梅苑だ。
入苑券を見せると、茶菓子のサービスを受けられるのだが、ゆっくりしている時間がないのでお菓子だけ頂く。

お茶屋の横の坂を上ると、そこはもう御土居の上です。茶室・梅交軒が建っている。春の梅花祭では閉まっていたが、今もまだ早朝のせいか開いていない。
茶室・梅交軒前の展望台。下の紙屋川沿いは、まだ「見ごろ」には早いのか青葉のほうが目立っている。

史跡御土居のシンボル「大ケヤキ」。ケヤキも紅葉するんだ、知らなかった。

大ケヤキの所から御土居の上を北へ歩く。人がいてないので写真を撮りやすい。

展望所から社殿を眺める。春とはまたちがった佇まいを見せています。

展望所からさらに奥へ進める。二月の梅花祭の時にはこの先立ち入り禁止になっていたが、今は開放されている。ですから史跡御土居の全体を見れるのは秋の紅葉時期だけのようだ。

 もみじ苑の紅葉(11/23) 2  



御土居を百メートルほど進めば、カーブとなった坂道を下って谷底へ降りるようになっている。

これから谷底の紙屋川沿いを歩く。谷底なので陽が少ないせいか、まだ青葉が目立つ。紅葉から青葉まで、グラデーションがかったまだら模様の風景もまた良いものです。

やがて朱塗りの太鼓橋「鶯橋(うぐいすばし)」が見えてきた。青葉のさえる初夏の頃には、紅い鶯橋がより映えることだろう。

人が増えてきました。鶯橋も史跡御土居のシンボルだけあって人が集まっている。写真撮るのに苦労します。左の階段を登れば大ケヤキの場所だ。

鶯橋の上から南側を撮る。まだ紅葉の「見ごろ」とはいえないようです。下を流れる紙屋川は、かっては紙漉き場だった、と入苑券の裏に書かれていた。

鶯橋から南へ歩く。紙屋川の両岸に散策路が設けられ癒される場所となっています。対岸は梅の見所の一つになっている。マイナスイオンが充満しているような・・・。

この辺り、梅の木が多く植えられ、梅のシーズンには見物人で混みあっている所だ。



鶯橋まで戻り、階段から大ケヤキの場所へ。時刻は9時半過ぎ、40分位の紅葉鑑賞でした。紙屋川沿いは青葉が目立っていたが、こんなものなのでしょうか?。「三分咲き」との表示もあったので、見頃は12月上旬なのだろうか?。
北野天満宮・御土居の「もみじ苑」も京都を代表する紅葉の名所です。梅と紅葉は北野天満宮へ、桜はすぐ北側の平野神社へどうぞ。














 梅苑  



御土居の上に戻ります。大ケヤキの少し先に茶室 梅交軒がある。名前に「梅」とあるのですが,この梅の時期には閉まっていた。紅葉シーズンにお茶をいただけるそうです。「紅葉軒」ですね。






梅交軒前に設けられた朱塗りの欄干付き舞台から御土居の下を見れば鶯橋が見える。紅葉時期にここからみる眺めはさぞ絶景のことでしょう。


御土居の上から紙屋川とは反対側に下っていくと,いよいよ梅苑だ。














入り口近くの茶屋で沢山の人が寛いでいる。入園券を見せると茶菓子が振舞われるということで,多くの人が順番待ちをしています。時間がもったいないので私はパスしました。

約2万坪の境内には50種,1500本の梅が植えられているという。社殿周りや紙屋川沿いにも多くの梅が見られ人だかりができているが,やはり北野天満宮の梅をたっぷり堪能できるのは梅苑です。

梅苑には梅木の間をぬって遊歩道が設けられ,白梅、紅梅、一重、八重などいろいろな梅を楽しめる。
公式サイトには「早咲きの梅は例年12月中旬頃からつぼみがふくらみ始め、正月明けから開花。徐々に咲き繋ぎ、3月末頃まで長く楽しめます。」とあります。
例年2月初旬から3月中旬まで一般公開され,また金・土・日曜には夕方からライトアップもされれそうです。

梅をこよなく愛した菅原道真に「飛梅伝説」が伝わる。道真が大宰府へ左遷される際、庭の梅に別れを告げて
   東風(こち)吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
と詠った。すると,その梅が主の菅原道真を慕って一晩のうちに大宰府に飛来したという。こうして道真と梅との深い関係ができ,道真の命日にあたる2月25日に梅花祭が行われるのです。

御土居から「梅花祭野点大茶湯」の様子をのぞき撮り。私には不似合いの場所のようです。

 本殿の背後  



梅苑を後にし、これから本殿の背後に周ります。末社、摂社が並び、その周辺には開花した梅が華やかさを添えている。
北野天満宮境内には多くの「なで牛」が寝そべっているが、一番有名なのが社殿北西の牛舎に横たわるこの牛です。撫でると一つだけ願いが叶うといわれ、「一願成就のお牛さん」と呼ばれている。

菅原道真と牛の縁について、「牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされているが、その理由については「道真の出生年は丑年である」「亡くなったのが丑の月の丑の日である」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など多くの伝承があり、どれが真実なのか、それとも全て伝承に過ぎないのかは今となっては良くわからないものの、それらの伝承にちなみ北野天満宮には神使とされる臥牛の像が多数置かれている」(Wikipedia)、「無実ながら政略により京都から大宰府に流され、延喜3年(903)2月25日、道真公はお住まいであった大宰府政庁の南館(現在の榎社)において、ご生涯を終えられました。門弟であった味酒安行(うまさけ やすゆき)が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることとなりました」(公式ページ)と説明されています。

「一願成就のお牛さま」の傍に絵馬掛所があり、おびただしい数の絵馬が奉納されている。絵馬というより「絵牛」ですが。ほとんどが学業成就、合格祈願のものです。

北野天満宮創設以前からこの地にあった神社「地主社」。そのため境内で最も古い社で、天地すべての神々「天神地祇」を祀っている。

境内図を見ればわるのだが、一の鳥居から楼門を潜り、参道を直進するとこの地主神社に突き当たる。天満宮の社殿は脇にそれており、通常の神社の配置とは異なっている。元からあった地主神社の正面を避けて建てられたからです。「筋違いの本殿」といわれ、天神さんの七不思議の一つになっている。

文子天満宮。託宣を受け、北野に菅原道真を最初に祀った多治比文子を祀っている社。かつては西ノ京にあったがが明治6年(1873年)にここに移された。



社殿の東側に「東門」がある。切妻造り、銅葺きの四足門。東門を出ると、そこは西陣の花街・上七軒の色町です。










北側の出入り口、「北門」です。



北門を出ると、「西陣名技碑」と刻まれた大きな石碑が見える。これは西陣織りの発展に貢献した五世伊達弥助を讃えたもの。説明板は「伊達弥助顕彰碑」となっている。西陣はここ北野天満宮から近い。



北門の外にも露店が並び、人垣ができている。遠くに見える紅い鳥居は、桜の名所「平野神社」。






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北野天満宮界隈ブラ歩き 1

2019年11月22日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2019年2月25日(月曜日)
二月末,梅花の季節です。関西には梅の名所は沢山あるが,京都・北野天満宮に出かけることに。25日は梅花祭が催され,近くの花街・上七軒の芸妓・舞妓さんも参加されるということが決定打になりました。周辺には平野神社,千本釈迦堂,千本ゑんま堂などもあるので,時間がある限り周ってみるつみり。

 北野天満宮へ  



京都の街中にある北野天満宮は,交通の便がよさそうでいて,やや不便な所です。京阪,阪急,JRどれを利用しても直接行けない。いろいろ考えた末,阪急で嵐山まで行き,嵐山電車を利用することに。嵐電の終点が北野白梅町駅で,北野天満宮はすぐだ。その途中にある地蔵院,大将軍八神社に寄ってから北野天満宮に入る。

北野天満宮の正面は今出川通りに面している。そこには一の鳥居が建つのだが,大鳥居が埋め尽くされんばかりに露店がひしめいている。菅原道真の誕生日と、亡くなられた日が25日であったということもあり、毎月25日は天神さんの縁日で,境内で骨董市が開かれる。特に2月25日は菅原道真の命日にあたるので盛大な骨董市となり,人々で大賑わいとなる。境内の外にまで露店があふれています。

 境内図と歴史  



(境内に掲示されている境内図)
北野天満宮は菅原道真(845-903)を神として祀る神社です。

道真の生まれた菅原家は、曽祖父の代から文筆をもって朝廷に仕え、祖父、父ともに学者の最高位である文章博士に任命されていた学者一族だった。その影響か、道真も5歳で和歌を詠み、10歳過ぎで漢詩を創作したという。23歳で文章得業生、33歳の若さで式部少輔、文章博士となり、学者としては最高の栄進を続けた。宇多天皇、醍醐天皇に重用され,昌泰2年(899年)には右大臣にまで登りつめる(55歳)。
ところが二年後の延喜元年(901) 正月25日、突如として右大臣の地位を解任され、九州の太宰府へ左遷された。ライバルであった左大臣・藤原時平によって 「菅原道真は、娘が嫁いだ醍醐天皇の弟、斎世親王を担いで天皇の廃立を企てている」と讒言されたのです。道真は太宰府で半ば軟禁状態のまま失意の日々を送り、延喜3年(903)2月25日に望郷の念を抱いたまま非業の死を遂げた(59歳)。

道真の死後、京の都では疫病がはやり、醍醐天皇の皇子が相次いで病死、道真追放を画策したとされる藤原時平以下の関係者が次々変死し、時平の縁者も若死にするという変事が続く。世間では、道真の祟りであるという噂が広がっていった。
祟りを恐れた朝廷は、延長元年(923)左遷証書を焼却し道真を右大臣に戻したり、正二位を追贈したりするが怪異は収まらない。
延長8年(930)の6月26日、清涼殿に落雷があり多くの官人が雷に撃たれて死亡した。
その後も天災,地震などが続く。これは道真の祟りだとされ、御霊信仰と結びついて恐れられた。

こうした中で北野天満宮が創建された。公式サイトに「北野天満宮の創建は、平安時代中頃の天暦元年(947)に、西ノ京に住んでいた多治比文子や近江国(滋賀県)比良宮の神主神良種、北野朝日寺の僧最珍らが当所に神殿を建て、菅原道真公をおまつりしたのが始まりとされます。」とある。
これは多治比文子らに「北野に社殿を造り自分を祀るように」との御託宣があったからだとされる。その後に藤原時平の甥・藤原師輔が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直された。
永延元年(987)には一条天皇から「北野天満宮天神」の神号が贈られる。道真は天神(雷神)として神格化され、全国各地に道真を祀る神社が建立されていった。
正暦4年(993)には、朝廷から菅原道真に正一位・右大臣・太政大臣の官位が贈られた。

以来,「国家の平穏を祈る神社」として皇室からの厚い信頼を受け行幸が続いた。逆に,いかに道真の怨霊を怖れていたかがわかります。

室町時代の文安元年(1444)年、戦火により炎上し一時衰退する。
その後建て直され,天正15年(1587)10月には豊臣秀吉によって「北野大茶湯」が催された。
1607(慶長12)年、秀吉の遺命により豊臣秀頼が社殿を造営する。
江戸時代には道真の御霊としての性格は薄れ、「学問の神様」として広く信仰されるようになった。
「江戸時代には、各地に読み書き算盤を教える寺子屋が普及し、その教室に天神さまがおまつりされたり、道真公のお姿を描いた「御神影」が掲げられて、学業成就や武芸上達が祈られてきました。このことがのちに「学問の神さま」、「芸能の神さま」として皆さまに広く知られるようになった所以です。現在、全国各地には道真公をおまつりした神社が、およそ1万2000社あるとも言われ、その多くは当宮から御霊分けをした神社です。」(公式サイトより)

 一の鳥居から参道へ  


高さ11.4mの大鳥居は大正10年10月に建立された。上部に掲げられた扁額「天満宮」は高さ2.7m・幅2.4m、平成26年に修復されたので新しい。
一の鳥居から楼門までの参道には二の鳥居,三の鳥居がある。





梅の名所だけあって狛犬の台座にまで梅の絵が描かれています。






楼門までの参道には骨董品を並べた露店がひしめく。参道には幾つか見所があるが,探すのに一苦労する。露店のテントが邪魔で参道脇が見通せない。見つけても店が邪魔で近づけないのです。
露店の僅かな隙間を通って参道の右側に入り込む。この右側は「右近の馬場」と呼ばれ「右近衛大将だった菅原道真公が好まれた右近衛府の馬場,俗に右近の馬場という。桜狩が行われた程の桜の名所」と説明板が立つ。
現在は「右近の車場」と化しているが。









まず,右側の参道裏に入り込みます。最初に石の玉垣で囲まれ「影向松(ようごうのまつ)」と名付けられた神木があります。菅原道真が肌身離さず持っていた仏舎利が、道真の死後に大宰府から飛来してこの松にかかったとという。そして「立冬から立春前日までに初雪が降ると天神さまが降臨され、雪見を愛でながら詩を詠まれるという伝説があり、現在でも初雪が降った日には、硯と筆と墨をお供えして「初雪祭」の神事を行っています。」(公式サイト)そうです。


豊臣秀吉が天正15年(1587)に催した「北野大茶湯」で、お水を汲んだと伝わる井戸です。「太閤井戸」と呼ばれている。近くに石碑「北野大茶湯之址」も建っています。奥に楼門が見えます。
なお参道の左側には茶室「松向軒」があり、その北側は植木市となっている。




これが三の鳥居で,その先に楼門が見える。かなり人が増え,歩きにくくなってきた。
毎月21日に開かれる東寺の“弘法市(弘法さん)が有名だが,25日の北野天満宮の“天神市(天神さん)”も人気があり,京都の二大骨董市とされ,京都の年中行事になっています。
この辺りは骨董市というより,食べ物の露店が多い。




 楼門と絵馬所  



露店で賑わう人混みの中を進むと楼門につき当たる。風格のある立派な門だ。公式サイトに「楼門の上部に掛けられた額には、「文道大祖 風月本主」の文言が刻まれています。平安時代中期の学者・慶滋 保胤(よししげ の やすたね)、大江匡衡(おおえのまさひら)が菅原道真公を讃えた言葉です。年末に奉掲するジャンボ絵馬も、京の師走の風物詩として知られています。」
「風月本主(ふうげつのほんしゃ)」は、自然界、森羅万象、あらゆるものの主であるという意味だそうです。


楼門をくぐると,すぐ左側に絵馬所がある。現在の絵馬所は元禄13年(1700)に建てられたもの。京都に現存する絵馬堂の中では最も古く,京都市指定有形文化財となっている。
絵馬所内部の天井。絵馬は、生きた馬の代わりに板などに馬の絵を描いて奉納したもの。馬以外にも色々な絵が描かれるようになった。歴史を感じさせる絵馬が掲げられています。

 宝物殿と神楽殿  



楼門を潜って真っ直ぐ進むと右手に、昭和2年(1927)開館の宝物殿がある。宝物殿周辺も梅が綺麗に咲いています。
入り口で入館料:500円支払い中へ入る。係員が「スマホ,携帯以外での撮影はできません」と。スマホで撮れて,なぜデジカメではダメなのでしょうか。最近のスマホの画質は他のカメラに劣るものではないのに。しかたなく持参のカメラでなくスマホで撮りました。

開館日 縁日(毎月25日)、観梅・紅葉シーズン、
1月1日、12月1日、4月10日~5月30日
開館時間 9時~16時
料金 一般500円、中・高校生300円、こども250円

公式サイトには「古文書、刀剣、蒔絵や屏風、茶道具といった美術的にも価値の高い工芸品を多数収蔵し、常設展のほか、季節ごとにテーマを決めた企画展も開催」とある。展示されているのはほとんどが刀剣でした。現在刀剣展の開催中なのでしょうか?。
館内の説明板を要約します。北野天満宮には現在100振の刀剣が宝刀として納められている。御祭神菅原道真は学問だけでなく、文武に優れた人だった。道真を祀る北野天満宮は皇室だけでなく、室町幕府の足利氏や豊臣氏など多くの武士たちから篤い崇敬を受けてきた。そうした流れの中で北野天満宮には、多くの刀剣が奉納されてきたという。

刀剣の中でも有名なのが「鬼切丸」(別名:髭切)。重要文化財に指定されている。鬼切丸はその後、源氏数名の手を経て新田義貞、斯波氏、最上氏へと伝わり、代々家宝として保持されてきた。最上家の衰運により北野天満宮に奉納されることになったという。

現在、京都文化博物館で「北野天満宮 信仰と名宝 ―天神さんの源流―」(2019年2月23日(土)~4月14日(日)が開催されている。なのでここの宝物殿の名宝のほとんどが京都文化博物館のほうへ出向されている。
この宝物殿の一番の見ものの国宝「北野天神縁起絵巻 承久本」もそうです。ここには無い。あっても展示されているのは複製品だろうが。(もしかして出向しているのも複製品?)
ポスターを見ると、鬼切丸はそっちへ出張中のはずなのだが・・・?。


宝物殿の北側にあるのが神楽殿。狂言や日本舞踊などが催されるのだが,毎月25日に限って神楽舞が奉納される。
雅楽人,舞人はスタンバイしているのだが,なかなか始まらない。隣の社務所で「次の上演は何時からですか?」と尋ねたら,上演時間はきまっておらず,「梅花祭野点大茶湯」を終えた方が来られたら始まる,そうです。

 中門(三光門)  



これは中門です。境内図を見れば判るのだが、楼門から中門、本殿へは真っ直ぐつながっていない。楼門を潜り、少し左へ折れ、絵馬所の前から直進するのが中門、本殿への参道となっている。これは地主神社との関係で、後で書きます。
現在の門は、慶長12年(1607)に豊臣秀吉の遺命に基づき、豊臣秀頼の寄進によって建てられたものとされている。上部に掲げられた『天満宮』の勅額は後西天皇御宸筆による。重要文化財です。
ひと際鮮やかな装飾が目をひきます。華麗な彫刻の中に、日、月、星が刻まれていることから、この中門は「三光門」とも呼ばれている。ところがいくら探しても星だけは見当たりません。公式サイトには「三光とは、日、月、星の意味で、梁の間に彫刻があることが名の由来ですが、星の彫刻だけが見られないともいわれています。その理由は、かつて朝廷があった大極殿から望むとちょうどこの門の上に北極星が輝くことから。天空と一つになって平安京を守っていた場所がこの北野の地なのです。この伝説は「星欠けの三光門」として今も当宮の七不思議に数えられています。 社殿と同じく、桃山時代の建築様式で重要文化財に指定されています。」と説明されている。天空に北極星が輝いているので、あえて彫刻として刻まなくてもよいということでしょう。


多彩な装飾の中から、日と月の彫り物を見つけるのは大変です。勅額「天満宮」の反対側に赤い太陽が、そして本殿側の梁の裏側に黄色の太陽が輝いている。
本殿側の表に月が見える。日、月とも小さいので、目を凝らさないと探すのが容易でない。
右の写真から月が判りますか?。ちょうど写真の中央で、白い動物に挟まれています。




 梅花祭(2月25日)  



三光門前に人混みができ、騒々しい。左の広場では、幔幕が張られ茶会が催されている。これは道真の命日にあたる2月25日の梅花祭に特別に催される「梅花祭野点大茶湯」。秀吉ゆかりの「北野大茶湯」にちなんだもの。
近くにある花街・上七軒の芸妓・舞妓さんからお茶を振舞われるので人気があるようです。野点拝服券(1,500円、宝物殿拝観券・おさがり引換券付)を求めて長い列ができていました。
皆さん、遠くから垣根越しに写真を撮っているが、係員がそれを制止している。何故、写真がダメなのでしょうか?。わずかなスキをみつけてパチリ・・・。

三光門の通行が制限され、やがて神官さんの列が本殿に向ってやってくる。神官さんの冠をみると、梅でなく黄色の菜種だった。何故、梅でないのだろうと思い調べると「菅原道真と梅との結びつきから、命日にあたる2月25日に行われる梅花祭では「梅花御供(ばいかのごく)」とよばれる特殊神饌が献供されている。これは明治以前に太陰暦が用いられていた時代には魂を「宥める」にあやかって菜種がささげられていたが、新暦になり、梅花祭の時期が変わったために梅の花が用いられるようになったとされている。なお、2012年現在では梅花祭における菜種は、神職が身に付け奉仕を行うという形で残されている。」(Wikipediaより)とありました。

 社殿(国宝)  



三光門の奥には拝殿、本殿などからなる国宝の社殿がひかえる。見えているのは拝殿で、檜皮葺き屋根の正面には唐破風がみえる。その奥に本殿があるが、正面からは見えません。「千年余りの歴史のなかで何度も火災にあいましたが、そのたびに朝廷や将軍家によって造営修繕がなされ、現在の本殿は豊臣秀吉公の遺命により豊臣秀頼公が慶長12年(1607)に造営されたものです。」(公式サイトより)

本殿に祀られている主祭神は菅原道真。相殿神として中将殿(道真の長子・菅原高視)、吉祥女(道真の正室)も祀られている。

社殿の前庭には、拝殿に向かって左側には梅、右側には松が植えられている。「右近の橘、左近の桜」はよく知られているが、ここは「右近の梅、左近の松」となっている。それぞれ、梅紋と松紋が描かれた提灯がぶら下がる。梅紋、松紋とも北野天満宮の神紋です。梅の木は樹齢400年以上で「御祭神菅原道真公の御心に寄り添い飛翔した各地の”飛梅伝説”の原種であることが明らかになっている」と説明されています。

菅原道真と梅との関係は有名だが、松とも縁があるという。道真が忠臣に松の種を持たせ、当地に播くように託した。後、道真の神霊が降臨された時、一夜にして多くの松が生じたそうです。

大変きらびやかな建物で、黄金色に輝く吊燈籠や装飾がまぶしい。拝殿内部を覗いてみると、ここにも黄金色の吊燈籠が並ぶ。「通常は拝殿前よりご参拝いただきますが、ご祈祷の際には拝殿に昇殿いただきます。神前での厳粛な雰囲気とともに、内部の美しい装飾にもご注目ください。」(公式サイトより)
毎月25日のライトアップ時には吊燈籠にも火がともされ、幻想的な雰囲気をかもしだすという。

楼門や三光門と同じように虹梁や蟇股(かえるまた)などに色鮮やかな彫刻が見られます。龍や鶏、孔雀などが躍動する姿が精緻に彫られている。これが桃山期の特色なのでしょうか。

彫刻の中に「天神さんの七不思議」の一つとされる牛の彫刻があります。菅原道真が牛と縁が深いことから境内には多くの牛の像や彫刻がある。それらは全て寝そべった臥牛の姿をしています。道真公の遺骸を運ぶ途中で車を引く牛が座り込んで動かなくなったため、やむなく付近に埋葬したいう故事からきている。
ところがこの拝殿の蟇股の牛は、後ろ足を立てた「立ち牛」となっている。七不思議の一つなので理由は判らないようですが、腰を上げることで躍動感がでて、蟇股にマッチしているように見えます。

(上の写真は社殿を西側から撮る、左は社殿を東側から撮ったもの)
正面から見ると拝殿しか見えないが、横に回り脇から見るとその複雑な構造がよく判る。公式サイトに「本殿と拝殿が石の間という石畳の廊下でつながり、本殿の西には脇殿を、拝殿の両脇には楽の間を備えた複雑な構造。八棟造、権現造りと称され、神社建築の歴史を伝える貴重な遺構として国宝に指定されています。」とある。
本殿、石の間、拝殿、楽の間を合わせて1棟として国宝に指定されている。

ここは本殿の背後です。御簾が垂れ下がり拝殿となっており,「裏の社」と呼ばれています。ここには「御后三柱(ごこうのみはしら)」という御神座,即ち菅原家のご先祖・天穂日命の神、道真の祖父・菅原清公卿、道真の父・菅原是善卿が神として祀られている。

社殿前の広場で天神さんのお守りなどがが販売されています。学問の神さまとして菅原道真を祀っているだけあって学業に関したお守りが多い。この鉛筆で勉学すれば,合格間違いないでしょう。鉛筆箱には「文道大祖 風月本主」の文言がみえる。これは楼門に掛けられた額と同じで,菅原道真の学才を讃えた言葉です。
また道真と牛は縁があるので,お守りは「神使い お牛さま」,絵馬には通常の馬の絵柄でなく牛が描かれている。


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