山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

嵯峨・嵐山 散歩 4

2021年03月24日 | 名所巡り

「嵯峨・嵐山 散歩」の最終回は、亀山公園、野宮神社、長慶天皇陵、車折神社です。

 亀山公園  



宝厳院を出て南へ歩くとすぐ大堰川(保津川)に突き当たる。川岸を上流方向へ少し歩くと亀山公園の入り口です。傍が「保津川下り」の船着き場だ。

通常「亀山公園」と呼ばれているが、正式には京都府立「嵐山公園 亀山地区」。天龍寺を含めこの地域一帯は、かって後嵯峨天皇が造った離宮・亀山殿の跡地です。小倉百人一首で有名な小倉山の南側の丘陵で、その地形が亀に似ていることから「亀山」と呼ばれるようになったという。
紅葉で色づく丘陵が亀山公園、その後ろの台形の山が小倉山、さらにその後方にそびえるのが愛宕山だ。

階段を上るとすぐ右に「周恩来総理記念詩」碑が建つ。後に中華人民共和国の国務院総理となる周恩来は、若かりし時、京都大学の聴講生となり学び、帰国を前にし嵐山を訪れた(1919年4月)。その時に詠んだ「雨中嵐山」の詩を刻んだ石碑です。1978年に日中平和友好条約の調印がなされ、それを記念して翌年に建立されたもの。

この広い道を進んでゆけば竹林の小径へ。公園は左側の丘陵上に広がり、散策路が設けられている。この時期、紅葉で彩られているが、亀山公園が最も華やかなのは桜の季節。この辺りは桜並木になり、多くの人で賑わいます。

亀山公園のある小倉山には小倉百人一首を撰集した藤原定家の「時雨亭」跡がある。そこから亀山公園内には百人一首の歌碑が多く設置されています。さらに興味ある人は、宝厳院の南沿いにある小倉百人一首資料館「時雨殿」へ。



広い道から左を見上げると、階段の先に銅像が建つ。大堰川(保津川)や高瀬川を開削した角倉了以の銅像で、三条京阪の高山彦九郎像、円山公園の坂本龍馬像と並んで「京都三大銅像」となっている。「現在の像は2代目で、1代目の像は大正元年に建立され、戦時中の資材供出で撤去された。現在の像は1988年に地元の有志が設置したものである」(Wikipediaより)。

さらに50mほど先の左側に、ふっくらした女性の像が見える。津崎村岡局(1786-1873)といい、尊王攘夷派の公家や西郷隆盛らを助けた幕末維新の女傑だそうです。詳しくは説明版を。

津崎村岡局銅像の左側の森を見ると、宮内庁の立板と柵があり「立入禁止」となっているので、宮内庁の管理地のようです。陵墓を簡素化した造りで、よく見かける構えだ。ここが後嵯峨天皇・亀山天皇の火葬塚なのです。

第88代後嵯峨天皇、第90代亀山天皇はそれぞれ離宮・亀山殿で亡くなり裏山で火葬され、遺骨は亀山殿内に設けられた浄金剛院法華堂に納められたと伝わる。幕末の「文久の修陵」時に、この辺りを火葬場所だと推認し火葬塚が造営された。皇統の対立していた後深草天皇の孫・第93代後伏見天皇(持明院統)の火葬塚もある。「嵯峨野で火葬された」と記録されているので、この場所にもってきたのでしょう。

不敬だと叱責されるかもしれないが、ここで天皇の葬法について調べてみました。
古代ではまだ火葬という考えはなく、一般的な葬法は風葬か土葬だった。天皇についても巨大な前方後円墳で知られるように、遺体をそのまま棺に入れ埋葬した土葬でした。ところが伝来した仏教の影響を受け7世紀末頃から荼毘にふす、すなわち火葬が行われるようになる。天皇で最初に火葬されたのは女帝・第41代持統天皇(645-702、在位:690-697)。崩御すると大宝3年(703)に、遺言にもとづき火葬され夫の天武天皇と同じ八角形墳「檜隈大内陵」(明日香村、野口王墓古墳)に合葬された。夫の木棺(土葬)の横に焼骨を入れた銀製骨壺が並んで置かれたのです。不幸なことに鎌倉時代に大規模な盗掘にあい、銀製骨壺は持ち出され、中の焼骨だけが路上に捨てられていた、という記録が残されている。
その後、三代の天皇が火葬されたが、奈良時代の45代聖武天皇(701-756)から土葬に戻された。しばらく土葬が続いたが53代淳和天皇(786-840)は薄葬の考えから遺言を残し、「多くの民を煩わしてはならない」と荼毘のあとに焼骨を砕き大原野に散骨し、陵墓の造営も禁じたという。平安時代の後半になると火葬が多くなる。これは天皇が在位のまま崩ずれば土葬,譲位して上皇になってから崩じれば火葬が通例となり、多くは生前譲位し上皇となったからです。
鎌倉時代は土葬と火葬が入り混じるが、南北朝合一(1392年)となった100代後小松天皇(1377-1433)からは火葬が通例となり、江戸初期の107代後陽成天皇(1571-1617)まで続く。後陽成天皇は火葬された最後の天皇ということになった。
後陽成天皇の次に亡くなったのが110代後光明天皇(1633-1654)。承応3年(1654)、葬儀がそれまでの慣例に従い火葬のうえ納骨されようとした。ところが後光明天皇は儒学に傾倒し、仏教を「無用の学」と呼ぶほど大の仏教嫌いでした。その上、御所に出入りしていた魚屋「奥八兵衛」が、こんな仏教嫌いの天皇を仏教式に火葬するのはいけないと号泣しながら訴えたといわれる。その結果土葬され、これ以来天皇の土葬が現代の昭和天皇まで続いている。

南北朝時代中頃から泉涌寺(京都市東山区)で天皇の火葬が行われ、遺骨は別の場所に埋葬されていた。ところが110代後光明天皇、108代後水尾天皇(1596~1680)と泉涌寺で仏式(火葬方式)の葬儀が行われ、そのままそこに埋葬(土葬)され石塔が建てられた。このやり方が幕末まで続き、13人の天皇が泉涌寺の[月輪陵]にお眠りになっている。
幕末になると、土葬方式はそのままだが天皇のお墓についても変化が生じてくる。尊皇思想の高揚から復古神道が台頭し仏教の影響を排除しようという動きです。江戸時代最後の天皇・121代孝明天皇は石塔式の月輪陵ではなく、泉涌寺の裏山に円丘墳「後月輪東山陵」が造営され埋葬された。しかし神仏分離令以前だったので、葬式は仏式で行われた。次の122代明治天皇の葬儀になると仏式は排され完全に神式で行われた。そして古代の天皇陵を想起させるような巨大な円墳(伏見桃山陵)が築かれたのです。この流れは大正天皇(武蔵野陵)、昭和天皇(武蔵野陵)と続く。
ところが江戸初期以来長く続いた「天皇の土葬」が大きく変わろうとしています。詳しくは宮内庁のココココを参照。
参考までに宮内庁の発表によれば、神武から昭和天皇に至るまでの124人の天皇のうち火葬になったのは約3分の1だという。そして持統天皇以降では、88人の天皇中46人が火葬で、半分を占めている。

起伏に富んだ園内はこの時期、紅葉が見頃で楽しめる。しかし桜と紅葉のシーズン以外はあまり人影を見かけない。花壇や遊戯施設があるわけでもなく、高台にあるのだが樹木に遮られ見晴らしもよくない。周辺が住宅地なら散歩やウォーキングする人もいるだろうが、観光地だけにそういう人もいない。見どころの多いい嵯峨・嵐山にあってこの公園まで足を運ぶ観光客は少ないようです。竹林の小径や大堰川河岸もすぐ近くなので、人波から解放され一服するなら最適の場所です。



園内が展望が良くないからなのか、より高所に展望台が特別に設けられている。園内を西方向へ横切っていくと、階段が見えてくる。標識に「頂上展望台まで160m」とあるようにかなりの段数があります。






階段を登りきると、柵で囲まれた展望台が設置されている。眼下に保津川渓谷が見渡せ、対岸には午前中に訪れた大悲閣(千光寺)のお堂が見えます。大悲閣と同じくらいの高さでしょうか。これで両岸から保津川(保津峡)を見下ろしたことになる。大悲閣で見てしまった景観なので、あまり感動はありませんでした。展望できるのはこの角度だけで、京都市内、渡月橋など別の方向は見えません。せめてトロッコ列車だけでも、と期待したが通ってくれませんでした。



真下を見下ろすと保津川下りの舟が。石を投げれば届きそうな距離です。

さらに奥に別の展望台があるようだ。100mほど行くと同じような展望台が設置されている。

眺めはさっきの展望台と同じで、少しだけ大悲閣が近くに見えるだけ。コットンコットンと音がしてきました。トロッコ列車が通るようです。身を乗り出しカメラを構えたが、線路わきの樹木のためか見えず肩透かしをくらう。

かってこの保津峡の渓谷に沿って国鉄・山陰線が走っていた。平成元年(1989)、その山陰線(現在の嵯峨野線)は輸送力改善のため小倉山の下をトンネルで通過するようになる。保津峡沿いの旧線は廃線となって放置されていた。しかし保津峡の美しい景観を楽しめる旧線を活用しようと嵯峨野観光鉄道が設立され、トロッコ列車が嵐山~亀岡の間で運行されるようになったのです。今では「保津川下り」と並んで嵐山観光の定番として人気となっています。

 野宮神社(ののみや)  




嵯峨野のシンボル「竹林の小径」、観光客は盛時の3分の1以下だ。この小径を下っていくと天龍寺の北門に出くわす。北門は曹源池庭園の出口になっているが、ここから入ることもできます。当然見えている受付所で500円の「庭園参拝券」を購入してからですが。


北門を過ぎても周辺一帯に竹林が広がる。竹林で覆われやや薄暗い環境の中に野宮神社(ののみや)が鎮座する。この辺りは竹林と縁結びで有名な野宮神社が存在するので嵯峨・嵐山でも特に観光客の多い所。特に若い女性が目立ち、おじさんがウロウロするのは気が引ける場所でした。盛時の混雑を知っているだけに、現在の観光客の数は寂しく感じます。
境内の入り口に「黒木(くらき)の鳥居」が建ち、その両袖には小柴垣が並ぶ。黒木鳥居は日本最古の鳥居形式で、樹皮を付けたままのクヌギの木でできている、とあったので触ってみた。合成樹脂のようで生木とは感じなかったが、説明版を読み納得した。原木に防腐加工が施されているそうです。

天皇が代替わりすると、天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王(未婚の皇女)が伊勢に赴く前に身を清める場所が「野宮」。この「野宮」の地は天皇の代替わりごとに毎回替わっていたが、嵯峨野の清らかな場所から選ばれ造営されていた。嵯峨天皇(786-842)の代から現在の野宮神社の地が野宮に選ばれるようになる。斎王制度は南北朝時代、14世紀前半の後醍醐天皇(1288-1339)の代を最後に廃絶した。その後は天照大神を祀る神社として存続していたが、度重なる戦乱の中で衰退していった。その後、後奈良天皇(1496-1557)、中御門天皇(1701-1737)などから大覚寺宮に綸旨が下され当社の保護に努められ再興されていった。近年では、1980年(昭和55年)に浩宮徳仁親王殿下、1994年(平成6年)には秋篠宮文仁親王殿下並びに同妃殿下が御参拝されるなどし、皇室からの厚い崇敬を受けているそうです。

黒木鳥居から境内に入ります。境内といってもとても狭く、2分もあれば周りきれてしまう。ここに若い女性が集中するので、おじさんが入れる余裕はなかった。でも現在は違いなす。ソーシャルディスタンスもしっかりとれ、余裕で周れます。
入ると正面に野宮大神(天照大神)を祀る本殿がある。神社本殿といえばいかめしく格式ばった姿を思い浮かべるが、ここの本殿は質素な造りで、どこかしら愛着がわく。健康と知恵授けにご利益があるということなので、二拝二拍手一礼。



野宮大黒天はえんむすび・良縁結婚の神様ということなので、パス。
傍に「神石(亀石)」が置かれている。よくみかける”撫でもの”で、ここでは亀です。祈りを込めてなでると願いごと達成です。きっちりと消毒液も置かれていました。


亀の横に水を貯めた桶が置かれている。「禊祓清浄御祈願(みそぎばらいせいじょうごきがん)」とあります。迷惑行為、悪運、悪縁など祓いたいことや清めたいことを御祈祷用紙に記入し、コインを乗せ浮かべます。紙が沈み文字が消えていくと願いが叶うとされています。用紙はお札受所で1枚300円で手に入れる。祓いたいことはいっぱいあるのだが、沈んだコインがどうなるのか気になったのでパス。







今度は本殿から右側方向へ行きます。昭和55年(1980)に浩宮徳仁親王殿下、平成6年(1996)には秋篠宮文仁親王殿下並びに同妃殿下が御参拝されたという。亀は摩られたのでしょうか?、縁結び・恋愛成就をお祈り・・・、それとも子宝安産を。

良縁にも、子宝安産にも縁のない私は、野宮神社で唯一心惹かれるのはこの小さな苔庭。見つめているだけで禊祓清浄されてきます。みずみずしい斎王のイメージも浮かんでくる。

境内あちこちにお願い事を書いた絵馬がたくさん掛けられている。ほとんどが恋と愛と縁。絵馬は社務所で千円で購入する。上の写真は恋愛成就の奉納木(ほうのうぎ)。こちらは安く、授与所で200円。

 長慶天皇陵  



長慶天皇陵は嵯峨・嵐山の東側で、観光地からは少し外れている。JR嵯峨野線「さがあらしやま駅」前の道を真っすぐ南下し大堰川に向かう。その中ほどに入り口がみえます。「長慶天皇陵参道」の標識が建ち、周辺の閑静な住宅地とは異なった厳めしい雰囲気を漂わすのですぐわかる。

土手と生垣で囲まれた参道を進むと左側に陵墓が見えてくる。ここには長慶天皇と息子の承朝王の墓がが並んでいます。

南北朝時代の第98代長慶天皇(ちょうけい天皇、1343-1394、在位16年:1368-1383)は、南朝では後醍醐天皇,後村上天皇に続いて三代目の天皇とされる。後村上天皇の第一皇子で、後醍醐天皇の孫にあたる。名は寛成(ゆたなり)。
応安元年(1368年)父・後村上天皇の死去により26歳で天皇を継いだとされる。行宮(あんぐう)を摂津の住吉(大阪市住吉区)にし、同母弟の煕成親王(後の南朝第4代後亀山天皇)を皇太弟にした。しかし当時、南朝は弱体化し追い込まれており、行宮は天野山金剛寺(大阪府河内長野市)、吉野山、大和栄山寺(奈良県五條市)へと転々としていた。長慶天皇は北朝に強硬姿勢を示していたが、内部で和平派が台頭してきており、ついに穏健な弟に譲位した。これが南朝第4代後亀山天皇で、明徳3年(1392)に北朝の後小松天皇に「三種の神器」を渡し南北朝合一がなり、60年にわたった南北朝時代は終わる。

長慶天皇は譲位後2年程は院政を敷いていたが、その後は落飾し法名覚理と号し禅宗に帰依、長慶院また慶寿院とも称した。
南北朝時代の戦乱期で、しかも長慶天皇は足利幕府の攻撃を受け各地を転々としたため史料が少なく、長慶天皇については不明な点が多い。晩年をどこで過ごし、いつ亡くなったか、確定的なことは分からない。「大乗院日記目録」の応永元年(1394)8月1日条に「大覚寺法皇崩ず、五十二、長慶院と号す」という記載があり、これによって応永元年8月没、享年52歳とされている。

不明な点は天皇に即位したかどうかにもある。衰退した南朝側は財政も逼迫し即位の儀礼も行われた形跡がない。そのため天皇の在位をめぐって江戸時代以降に即位説(徳川光圀「大日本史」)と不即位説(新井白石「読史余論」、塙保己一)があり議論が続いた。幕末の「文久の修陵」を主導した谷森善臣は不即位説にたっていたので、その時は取り上げられなかった。議論は明治に持ち越された。

天皇主権国家を樹立した明治政府にとって、大日本帝國憲法(明治憲法)第一条「大日本帝國ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるように「万世一系」を確定さすことが急務だった。南北朝時代の扱いについて、江戸時代までは北朝こそが正統とされ、南朝は後醍醐天皇を除いて親王扱いだった。明治44年(1911)明治天皇は、皇位の象徴である三種の神器を保持していた南朝を正統とする勅裁を下す。それまで正式の天皇とされていた北朝の歴代天皇に代わって、南朝の第2代後村上天皇は第97代、南朝第4代後亀山天皇は第99代の正式な天皇に認定されたのです。北朝については「南朝が正統であるが、北朝の天皇も歴代以外の天皇」扱いとした。ところが南朝第3代だった後村上天皇の皇子・寛成親王(長慶天皇)については即位が不明とされ在位認定されなかったのです。

長慶天皇の在位論争を決定づけたのは大正時代になってからでした。八代国治「長慶天皇御即位の研究」や武田祐吉による古写本『耕雲千首』奥書の発見で在位が確定的となったのです。これを受け宮内省は大正15年(1926)皇統加列の詔書を発布し、長慶天皇を正式に第98代天皇として公認した。

天皇として認められると、次の課題はお墓はどこかということです。天皇制国家においては非常に重要なことなのです。ところが長慶天皇については在位だけでなく、晩年の状況を示す記録がほとんど残っていない。
昭和10年(1935)6月,宮内大臣に諮問機関として長慶天皇陵を決定するための臨時陵墓調査委員会が設置され、調査が行われた。長慶天皇は譲位した後は、戦況不利なため南朝勢への協力を求めて全国各地を巡っていたので、北は青森県から南は福岡県まで全国各地に「長慶天皇墓」と称する御陵伝説地が生まれていた。候補地は70を超えていたといわれる。6年近くかけて調査が行われたが、決め手となる根拠が見つからず、確定するには至らなかった。

昭和16年(1941)9月に委員会の答申がだされた。長慶天皇陵をあえて決定するのであれば、長慶天皇の晩年の事情から、現在の陵墓となっている嵯峨の慶寿院(けいじゅいん)址が「最も妥当である」とされたのです。「皇子などの近親者が晩年は地方を引き上げて入洛していることから、天皇も晩年は入洛したことが推定される。また、別称の慶寿院は皇子の海門承朝(相国寺30世)が止住した天竜寺の塔頭慶寿院に因むものであるから、天皇は晩年を当院で過ごし(当時天皇はその在所によって呼ばれた)、崩後はその供養所であったと思われる。したがって、慶寿院の跡地が天皇にとって最も由緒深い所と考えられた。」(Wikipediaより)
あくまで推定で、結局一番ゆかりの深いこの地を選ぶしかなかった。慶寿院跡を整備してひとまず「下嵯峨陵墓参考地」に指定した。この段階ではまだ参考地なのです。

その後の調査でも葬地はなお判明せず、結局臨時陵墓調査委員会は昭和19年(1944)2月11日紀元節の日に下嵯峨陵墓参考地を長慶天皇陵として正式に決定し、陵名を「嵯峨東陵(さがのひがしのみささぎ)」とした。宮内庁の公式陵形は「円丘」となっている。同時に陵域内に海門承朝の墓も治定された。

南隣に「長慶天皇皇子承朝王墓」が並ぶ。海門承朝(かいもんじょうちょう、1374以前 -1443)は長慶天皇の皇子として生まれた。南北朝合一後に落飾して臨済宗夢窓派の僧となり、相国寺住寺や南禅寺住寺などを歴任した。父・長慶天皇の没後、父の菩提のためにここに慶寿院を建立した、といわれる。

どこの天皇陵も広大でよく整備され、手入れがよく行き届いている。いつも思うのだが、宮内庁予算ってすごいんだナァ、って。ここは埋葬地かどうか不確かなのでなおさらだ。

 車折神社(くるまざきじんじゃ)  



長慶天皇陵を出て、南へ向かって歩くと大堰川沿いに三条通りが通っている。三条通りを東に向かって20分ほど、京都バス・市バスのバス停「車折神社前」を目印に歩く。バス停近くの右側に「車折神社」と刻まれた社号柱と朱の灯篭が建っているのですぐわかる。住所は京都市右京区嵯峨朝日町。

(境内図は公式サイトより)(1)本殿、(2)八百万神社、(3)表参道入口、(4)神門、(5)駐車場、(6)河津桜、(7)表参道、(8)芸能神社、(10)大鳥居、(11)溪仙桜、(12)本殿入口、(13)社務所(授与所)、(14)本殿前、(15)春光舎(儀式殿)、(16)清めの社、(17)裏参道入口、(18)嵐電・車折神社駅、(19)古いお守り・扇子、(20)清少納言社、(21)弁天神社、(22)三条通側入口、(23)大国主神社

車折神社の由緒について公式サイトに「ご祭神・清原頼業公は平安時代後期の儒学者で、天武天皇の皇子である舎人親王の御子孫にあたり、一族の中には三十六歌仙の一人である清原元輔、その娘、清少納言らの名も見られます。頼業公は大外記の職を24年間も任め、和漢の学識と実務の手腕は当代無比といわれ、晩年には九条兼実から政治の諮問にあずかり、兼実から「その才、神というべく尊ぶべし」と称えられた程です。頼業公は平安時代末期の1189年(文治5年)に逝去され、清原家の領地であった現在の社地に葬られ、廟が設けられました。やがて頼業公の法名「宝寿院殿」に因み、「宝寿院」という寺が営まれました。この寺は室町時代に至り、足利尊氏によって嵐山に天龍寺が創建されると、その末寺となりました。また、頼業公は生前、殊に桜を愛でられたのでその廟には多くの桜が植えられ、建立当初より「桜の宮」と呼ばれていましたが、後嵯峨天皇が嵐山の大堰川に御遊幸の砌、この社前において牛車の轅(ながえ)が折れたので、「車折大明神」の御神号を賜り、「正一位」を贈られました。これ以後、当社を「車折神社」と称することになりました。」とあります。
近世は荒廃していたが明治21年から明治26年まで車折神社の宮司を任めた日本画家・富岡鉄斎(1836-1924)によって復興された。

三条通りから100mほど入れば表参道の入り口だ。ここから参道は北へ伸び、嵐電の「車折神社駅」まで続き、境内は南北に細長い。この入り口にも社号柱が建っている。社号柱み刻まれている文字は元宮司で近代日本画の巨匠・富岡鉄斎の筆によるもの。50mほど入ると朱色の神門がある。

神門を潜るとすぐ右側に、車折神社を有名にしている境内末社の「芸能神社」がある。ここに祀られているのは、女神で芸能道の祖神である「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」。ご由緒は公式サイトによれば「芸能神社は車折神社の境内社の一社で、昭和32年に他の末社より御祭神・天宇受売命を分祀申し上げ創健した神社である。天宇受売命が芸能・芸術の祖神として古来より崇敬される所以は、<神代の昔、天照大御神が弟である素戔鳴尊の行いを逃れ、天の岩戸にお入りになり固く扉を閉ざされたためにこの世が暗闇になった。その時、天宇受売命が岩戸の前で大いに演舞され、天照大御神の御神慮をひたすらにお慰め申されたところ、大御神は再び御出現になり、この世は再び光を取り戻した。>という故実にもとづく。」だそうです。

芸能神社の周りには、名前が書かれた朱塗りの玉垣がびっしりと並ぶ。その数4千枚以上だそうです。所々に知っている名前が見受けられる。芸能・タレントに詳しくないのだが、チラッとと見ただけで、宮迫博之、森脇健児、梅沢富美男、横山由依、前田敦子、辺見えみり、辺見マリ、南野陽子、藤原紀香、田中理恵・・・。ここは東映や松竹の撮影所が近く、映画やドラマのロケによく使用されるので役者、歌手などの芸能人がよく参拝するという。長嶋一茂、桧山進次郎、赤星憲広、吉田沙保里のスポーツ系もいるが、どんな芸事を祈願したのでしょうか?。清原和博の名も見えるが、清原頼業の末裔?、それとも人生再起をかけタレントをめざしてか?。
誰でもここに名前を載せることができます。社務所で奉納の申込書に名前とか書いて、奉納料13000円支払えばよいのです。ただし期間は2年間だ。超有名人に挟まれ名前が並ぶかも。


芸能神社の向かいが「清少納言社」。清原頼業公と同族(清原氏)である清少納言を祀る。才女清少納言にあやかり「才色兼備」のご利益を授かる、そうです。より美しく、より聡明になる「才色兼備」お守りも800円で売られています。


芸能神社の先に石鳥居と中門が構え、その奥が本殿だ。ところがここは通れないように塞がれています。神様の前に直進するのは不敬だからとか。参道は石鳥居の手前で右に折れて進むようになっている。

本殿にはご祭神・清原頼業が祀られている。
車折神社のご神徳は、頼業公のご学徳により学業成就・試験合格、さらに清原頼業(かねより)の名に因み、「金寄(かねより)」と掛けて商売繁盛、売掛金回収、金運向上に御利益がある。


本殿のさらに奥にあるのが境内社「八百万(やおよろず)神社」で、あらゆる神々(八百万の神々) が祀られている。津々浦々に座すあらゆる神々の広大な繋がり(ネットワーク)にあやかり、「人脈拡大」のご利益を授かる、そうです。「人脈拡大」お守りは800円で。





参道に戻り北へ歩くと左側に「清めの社」が見える。赤鳥居の間からのぞく円錐形の石が珍妙だ。「裏参道より本殿入口付近に出る石鳥居の脇に境内社・「清めの社」があります。清めの社のご神力(パワー)により、車折神社の境内全体(敷地)は「悪運・悪因縁の浄化」「厄災消除」のご神力が充満しており、全国各地より大勢の方が、厄除け・八方除けのご祈祷を受けに来社されます。また、清めの社の円錐形の立砂は石をモチーフにしており、車折神社が石(パワーストーン:祈念神石)との関わりが深いことを物語っています。」(公式サイトより)

清めの社から北へ進むと嵐電(京福電車)の「車折神社駅」に突き当たる。かって駅周辺も車折神社の境内だったが、1910年に京福電鉄(四条大宮-嵐山)開通の際に境内地を無償提供し車折神社駅を誘致したそうだ。鳥居を出るとすぐプラットホームだ。嵐電(京福電車)に乗って嵐山まで帰ります。この駅には乗車券の販売所も販売機も見当たらない。初めての人は戸惑うでしょう。料金は一律200円で、降車時に払うシステムなのです。

プラットホームから撮った裏参道の入り口。夕方薄暗かったが、時々人とすれ違う。こんな時間に参拝者?と訝ったが、そうでもないようだ。車折神社の参道は、南の三条通りバス停から北の嵐電・車折神社駅まで真っすぐつながっている。地元の人にとっては南北を行き来する便利な通路なのです。

嵐山まで帰ってきました。夕方の5時半、明かりに照らされる嵐山も風情がある。まだ人通りはたえません。

「嵯峨・嵐山 散歩」完

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嵯峨・嵐山 散歩 3

2021年03月11日 | 名所巡り

三回目は、渡月橋・中ノ島公園・大堰川(保津川)・天龍寺・後嵯峨天皇陵・亀山天皇陵・宝厳院です。

 渡月橋と中ノ島公園  



「嵐山モンキーパークいわたやま」を降りとすぐ渡月橋だ。

大堰川(保津川)に架かる橋長155m、幅12mの渡月橋(とげつきょう)は観光地・嵯峨嵐山の代名詞のようになっており、両岸を結ぶ観光の中心です。「日本百名橋」にも入っている。
ただし、車両も通る2車線の橋なので(京都府道29号の一部)、両側に一段高くした歩道が設けられているとはいえ観光客の多いい時は危険な橋でもあるのです。コロナ禍の現在は安全なのですが。

この橋が最初に架けられたのは平安時代の承和年間(834-848)と伝わる。弘法大師の高弟で法輪寺を再興した僧、道昌(どうしょう、798-875)が大堰川を修築するとともに、「十三まいり」で知られる法輪寺へ参詣する利便のために橋を架けた。これが始まりです。そのため当時「法輪寺橋」と呼ばれ、位置は現在地より100m~200mほど上流だったようです。
鎌倉時代に後嵯峨上皇がこの一帯に離宮・亀山殿(嵯峨殿)を造営すると、橋も庭園の一部として取り込まれた。第90代・亀山天皇(1274-1287)が満月の晩に舟遊びをされたおり、橋の上空の月を眺め「くまなき月の渡るに似たり」と詠われたことから「渡月橋」と呼ばれるようになったという。その後、亀山殿の地に天竜寺が造営されると、朱塗りの渡月橋は天竜寺十景の一つに数えられるようになる。
江戸時代の慶長11年(1606)、角倉了以によって保津川の開削工事が始まり、この時少し下流の現在地に架け替えられという。

渡月橋は何度も焼亡と流失を繰り返してきた。昭和7年(1932)6月、洪水により橋の半分が流出してしまう。二年後の昭和9年(1934)に架け替えられたのが現在の橋です。橋脚、橋床など主要部分は鉄筋コンクリート製だが、周辺の景観との調和を図るため欄干だけが木製(国産のヒノキ)で造られている。欄干の下部分に桁隠しの板が張られている。これも少しでも鉄骨を見えなくする工夫なのでしょう。橋脚の上流側に7本のコンクリート製の杭が設置されている。これは洪水の際の「流木止め」で、橋を守るためのものです。

二年前(2018年)の9月、台風21号が関西を襲い、渡月橋の橋上まで濁流が暴れているテレビ映像を見て衝撃を受けました。その時、東側の欄干が100mほど損壊したのです。嵐山のシンボルだけあって、すぐに修復されましたが。

渡月橋の南側下流沿いの広場が中ノ島公園。正しくは「嵐山公園中ノ島地区」。大堰川本流と用水路として掘られた傍流に囲まれた中洲の島なのです。他に「嵐山公園亀山地区」(亀山公園)、「嵐山公園臨川寺地区」(渡月橋の北側下流沿い)に分かれる。

河原に砂浜を思わせる砂利道、そして松林。山、川、橋が一体となった景観は、窮屈な都会暮らしの身には一時のくつろぎを与えてくれます。ここは、行楽客で賑わう嵐山の最盛期でも、広いので混雑することもない。露店が並び、音楽祭などのイベントもよく行われていたが、今はコロナ自粛によって閑散としています。

こちらは公園の東側で、阪急嵐山線の終点駅からの入り口になる。私はいつも阪急電車を利用するので、ここから嵐山散策が始まります。川沿いの砂利道を歩くもよし、お店の並ぶ左側の畳道を歩くのも楽しい。

ここ中ノ島公園は、私にとり京都で一番好きな場所です。路傍の石に座り、往来する人を観察し、山を眺め川を見つめ、世のことわが身のことを思索する。数年前の夏の早朝、二人の御婦人が近づいてこられたのでゾクッとしました。「朝の礼拝にご一緒しませんか?」って。救いを差し伸べたくなるほどみすぼらしく貧相な姿格好をしていたのでしょう。まだイエス様のご加護を要しないので、丁重にお断りしました。いつの日か必要になったら、ここへ来てしょんぼり佇んでいようと思います。

夕方5時半の渡月橋。ふつうは街灯が立つものだが、この橋には街灯がなく、代わりに足元を照らす低いポール型のLED照明灯60基が車道と歩道の間に設置されている。景観を重視するため高い街灯を避けたのです。

 大堰川(保津川)  



渡月橋の上から大堰川(保津川)の上流方向を眺めたもの。左に嵐山、右に亀山、小倉山に挟まれ大堰川が流れる。この時期、嵐山は色鮮やかに染まっています(撮るのが下手なので、写真はケバケバしいが・・・)。
渡月橋から上流100mほどに川幅いっぱいに堰が造られ、堰より上流側と下流側では川の様相が異なっている。

堰によって水がせき止められ、流れがゆるやかになり湖のようになっています。そのため屋形船、ボートなどの格好の舟遊びの場所となっている。ここは保津峡にたいして「嵐峡」とも呼ばれます。
この風光明媚な嵐山周辺は古く平安時代から景勝地として知られ、皇族、貴族達は別荘を築き遊楽の場所とした。この川は平安貴族たちが舟遊びを楽しんできたところなのです。天皇も行幸され舟遊びされたという記録も残っている。それを現代に蘇えさすために堰き止めされたのでしょうか?、それとも洪水対策?。
ここで毎年五月、車折神社の三船祭が催され、平安王朝の舟遊びが再現されています。貸しボートもコロナの影響をうけてか暇そうだ。

私は、この川の名は「保津川」だと思っていた。ところがそうではないようです。Wikipediaによると、最上流域では「上桂川(かみかつらがわ)」、南丹市付近ではと「桂川」、そこから亀岡市にかけては「大堰川(おおいがわ)」、そして嵐山までは「保津川(ほづがわ)」となり、渡月橋付近では「大堰川」、渡月橋を超えると「桂川」にと名前を変えている。川はその地域の生活と密着しているので、所々の事情によって呼び名が変わるのでしょう。最後は伏見で鴨川と合流し、大阪府との境で木津川、宇治川と合流し淀川となり大阪湾へ。
「1896年(明治29年)4月に旧河川法が公布、同年6月の施行以降、行政上の表記は「桂川」に統一されている。国土地理院の測量成果においても、全流域において「桂川」の表記に統一されており、他の呼称が用いられることはない」(Wikipediaより)そうです。

渡月橋の欄干には「大堰川」と刻まれている。5世紀後半に大陸から渡来してきた秦氏がこの嵐山周辺に住み着き、農耕用水を引くため川に大きな堰(せき)を造った。このあたり古くは葛野川(かどのがわ)と呼ばれていたので、この堰は「葛野大堰(かどのおおい)」と呼ばれたようです。そこから「「大堰川」となったのです。

嵐山周辺は秦氏が農耕地として開発し、川に堰を造り農耕用水を取り込んでいた。しかし大堰川(保津川)そのものは、急流と巨岩がむき出しの暴れ川だったので舟運には利用されていなかった。わずかに筏流しによって上流の丹波の木材を京へ運び込むのに使われていたのに過ぎなかった。
この舟運にむかない大堰川(保津川)を大きく変えたのが江戸初期の京都の豪商・角倉了以(すみくらりょうい、1554-1614)でした。若くして家業の土倉業を引き継ぐと、それまでの吉田姓から角倉家を名乗るようになる。そして朱印状を与えられ、東南アジアとの朱印船貿易で莫大な富を得た。

得た富をもとに、慶長10年(1605)に大堰川(保津川)開削工事を江戸幕府に上申する。工事の許可と通航料徴収などの権利を得ると、翌年慶長11年(1606)3月に息子の角倉素庵とともに開削工事に着手。舟を通すためには川中の邪魔な岩石を除かなければならない。大石を両岸に引き揚げる、巨岩は鉄棒を打ちつけたり貿易で手に入れた火薬を使って破砕する、急流はならし、浅瀬は石で囲い深くし、川岸の岩を削り川幅を広げた。こうしてわが国で初めての舟運のための河川工事は6か月で完了している。角倉了以53歳の時です。

以後、丹波地方の木材や農作物、薪炭などが保津川の舟運を利用して京へ運ばれるようになった。ここ嵯峨は丹波と京都をつなぐ水運の要地となり、木材などを扱う問屋などが軒を並べたという。また角倉家は独占的に通行料を徴取することにより莫大な利益を得たのです。司馬遼太郎は次のように書いている。「出発点の丹波の保津に官許の「角倉役所」を置いて通行料をとり、終点の渡月橋下流には倉敷料をとる役所をおいた。つまりは、もとをとった。帳尻をあわせる感覚は商人のものといっていい」。

保津川の舟運も明治になると転機を迎える。明治32年(1899)に京都鉄道(後の山陰本線、現在のJR嵯峨野線)が開通、また国道9号線も開かれ物資輸送は陸上に移っていく。そこで舟運は物資輸送から観光客輸送に切り替えていった。これが有名な「保津川下り」で、庶民だけでなく、多くの文人や有名人が体験してきた。大正15年(1926)には昭和天皇、秩父宮妃殿下、昭和58年(1983)には常陸宮妃殿下と皇族の方々もお下りになっている。また海外でも知られ、大正時代にはルーマニア皇太子や英国皇太子エドワード8世も乗船されている。

嵐山到着です。下船場は渡月橋上流300m位の亀山公園入り口あたりに設けられている。皆さん満足した顔で降りてこられます。
私もかなり以前になるが体験。トロッコ列車で亀岡へ行き、湯ノ花温泉に泊まり翌日「保津川下り」で嵐山まで帰ってきました。変化に富んだ渓流約16kmをおよそ2時間弱かけて下る舟旅です。20人ほど乗った平底船は蛇行しながら岩場をすり抜け、激流で激しく揺られながら下ってゆく。水しぶきを浴びる箇所もあるので水除けカッパを貸してくれます。3人の船頭さんが乗り込み、長い竹竿で巧みに舟を操る。そして「青蛙岩」「孫六岩」「獅子岩」、保津峡の景色などをユーモアたっぷりに紹介してくれる。このスリルと緊張感、そして変化に富んだ渓谷美が保津川下りの醍醐味でもあります。さらに巧みな動作とユーモアあふれた舟頭さんも楽しさを増してくれる。嵐山が近くなると、川幅が広くなり流れも穏やかになってくる。どこからともなく小舟がスーと近づき横付けしてきます。「オデンにイカ焼きあるよ、甘酒やビールあるよ!」って。
私の場合は初夏だったが、保津峡の渓谷美を満喫するなら紅葉の時期が一番良いのではないでしょうか。「保津川遊船企業組合」(TEL:0771-22-5846)のパンフレットを見ると、冬場でもやっているようです。12月上旬~3月9日まで、囲い付きの船内に、ジュウタンをしきストーブが置かれた「冬季お座敷暖房船」です。舟に揺られながら保津峡の雪景色を楽しむのもよいかもしれない。

乗客を降ろした舟は、どのようにして亀岡まで戻しているのでしょうか?。

戦前までは、川岸の道からロープで舟を引っ張りながら、約4時間かけて保津川を溯って亀岡の乗船場まで戻していたそうです。現在はトラックで国道9号線を走って戻している。渡月橋の南のある渡月小橋から下流側を見るとクレーンが見えます。このクレーンで吊り上げ、大型トラックに3台重ね積みし走ってゆく。

 天龍寺(境内図と歴史)  



渡月橋を渡って大堰川(保津川)の北側にゆく。お土産屋、お食事処が並び、一番混雑する所です。かなりの人出だが、それでも最盛期の半分くらい。邪魔な人力車はなんとかしてほしいものです。

(境内図は天龍寺公式サイトより)
■■■ 天龍寺(てんりゅうじ)の歴史 ■■■
天龍寺のあるこの地には平安時代初期、檀林皇后と称された嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(786-850年)が開創した禅寺・檀林寺があった。わが国最初の禅学興隆の道場として知られるが、皇后没後、延長6年(928)に焼失しその後は廃絶していた。鎌倉時代中期、後嵯峨天皇(1220-72)は上皇になるとこの地に広大な離宮を造営した(建長7年1255年)。背後の小倉山の姿が亀の甲に似ていることから亀山殿(嵯峨殿)と呼ばれた。さらに亀山上皇が仮の御所を営んだ。
亀山殿は後嵯峨天皇から亀山天皇を経由して孫の後醍醐天皇へと引き継がれた。後醍醐天皇(1288-1339)は鎌倉幕府を倒し天皇中心の「建武の新政」を行ったが、足利尊氏が離反し暦応元年(1338年)征夷大将軍となり、新政は崩壊する。京を追われ吉野に逃れた後醍醐天皇は、当地で翌年の暦応2年(1339年)8月に薨去した。
★~・~創建~・~★
禅僧・夢窓疎石(むそうそせき1275-1351年)は足利尊氏に、後醍醐天皇の菩提を弔う寺院の建立を勧めた。禅の師として夢窓疎石に師事していた尊氏は受け入れ、荒廃していた亀山殿の地に勅願寺を建てることにした(暦応2年(1339))。
「夢窓は、調停者の立場になった。かれは、双方(後嵯峨天皇と足利尊氏)から敬せられており、たとえば足利尊氏やその弟の直義はかれのもとで参禅していた。果てもない乱のあげく、後醍醐は吉野で崩じた。夢窓は尊氏に、「菩提のために巨刹を建ててはどうか」と、提案した。造寺そのものよりも、造寺をすることで双方の妄執が昇華されることを望んだにちがいない。尊氏は、大いに賛同し、天竜寺が大いに興ることになる」(司馬遼太郎「街道をゆく」の「嵯峨散歩」より)
暦応4年(1341)7月、地鎮祭を行い、疎石や尊氏が自ら土を担いで造営を手伝ったという。「造営に際して尊氏や光厳上皇が荘園を寄進したが、なお造営費用には足りず、直義は夢窓と相談の上、元冦以来途絶えていた元との貿易を再開することとし、その利益を造営費用に充てることを計画した。これが「天龍寺船」の始まり。」(天龍寺公式サイトより<http://www.tenryuji.com/>)
造営費の捻出に成功し堂宇の建築が進められた。康永4年(1345)秋、疎石を開山に迎えて後醍醐天皇七回忌法要を兼ねて盛大に落慶法要が営まれた。初め年号をとって「暦応資聖禅寺」と号したが、その後尊氏の弟・足利直義が大堰川に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。
★~・~衰退~・~★
将軍 足利家の帰依を受けた天龍寺は京都五山の第一位に格付けされるなど大いに興隆したが、室町幕府の没落や天災などの影響を受け次第に衰退していく。
「延文3年(1358年)1月、伽藍が焼失する(1回目の大火)。貞治6年(1367年)2月、伽藍が焼失する(2回目の大火)。応安6年(1373年)9月、仏殿、法堂、三門などが焼失する(3回目の大火)。康暦2年(1380年)12月、庫裏などが焼失する(4回目の大火)。文安4年(1447年)7月、伽藍が焼失する(5回目の大火)。応仁2年(1468年)9月、応仁の乱に巻き込まれ、伽藍が焼失する(6回目の大火)。」(Wikipediaより)
天正13年(1585年)に豊臣秀吉は嵯峨、北山など寺領1720石を天龍寺に寄進し本格的な復興が始まった。徳川家からも支援を受け再建していった。ところが「文化12年(1815年)1月、法堂、方丈などが焼失する(7回目の大火)。元治元年(1864年)7月、禁門の変(蛤御門の変)で長州藩兵が立て籠もり、攻撃してきた幕府軍や薩摩藩兵の兵火にかかって大打撃を受け、伽藍が焼失する(8回目の大火)。」(Wikipediaより)
★~・~明治以降~・~★
現在の建物は明治時代後半に再建されたものです。
「以後は歴代の住持の尽力により順次旧に復し、明治9年には臨済宗天龍寺派大本山となった。しかし翌明治10年(1877)には上地令により嵐山53町歩を始め(このうち蔵王堂境内175坪をのぞく)亀山全山、嵯峨の平坦部4キロ四方の境内はほとんど上地することとなった。その結果現在の境内地はかつての10分の1、3万坪を残すこととなっている。・・・こうした逆境の中、天龍寺は復興を続け、明治32年には法堂、大方丈、庫裏が完成、大正13年には小方丈(書院)が再建されている。昭和9年には多宝殿が再建、同時に茶席祥雲閣が表千家の残月亭写しとし、小間席の甘雨亭とともに建築された。翌10年(1935)には元冦600年記念として多宝殿の奥殿、廊下などが建立されほぼ現在の寺観となった。」(天龍寺公式サイトより)

メイン通りを少し北へ行けば門がある。これが「総門」と呼ばれ、天龍寺表参道の入り口です。総門から数十メートル行けばまた門がある。これは「中門」と呼ばれる。天龍寺にしては簡素な門です。
天龍寺は禅宗の臨済宗天龍寺派大本山。正式名称は「霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)」。平成6年(1994)ユネスコ世界遺産に登録された「古都京都の文化財」の一つです。

中門と塀で繋がっている勅使門(ちょくしもん)です。閉ざされ通れないようになっている。天皇の勅使をお迎えする時だけに使われ、普段は開かずの門なのです。
総門、中門と比べ古さびて、四脚門の風格をもつ。もともと秀吉の建てた伏見城の門だったが、伏見城取り壊しで御所に移され、さらに寛永18年(1641)に現在地に移築された。幸い江戸時代の火災を免れ、天龍寺で最も古い建造物となっています。

中門から真っすぐな参堂が続き、その左脇は苔と紅葉の庭になっている。そして参堂と庭の両側には多くの塔頭寺院が並んでいます。

 天龍寺(伽藍)  


参堂の先には、切妻造の屋根と大きな三角形の白壁の独特な形をした庫裏(くり)が建つ。天龍寺を象徴する景観です。庫裏とはお寺の台所をさすのだが、現在の天龍寺では諸堂拝観の玄関口となっています。

庫裏に入ると拝観受付がある。諸堂(大方丈・書院・多宝殿)参拝券は300円(法堂と庭園は除く)。時間は8時30分~16時45分(受付終了16時30分)
庭園(曹源池・百花苑)は別途500円必要です。ただし庭園内を散策しないで、その美しい曹源池を眺めるだけなら大方丈や書院(小方丈)の縁側でも十分鑑賞でき、500円節約できます。

下駄箱に履物を置き、上がると大きなメガネ男が睨んでいる。なんじゃこら・・・。調べると、禅宗の開祖・達磨大師を画いた達磨図の衝立だった。前管長の平田精耕老師が描いたものだそうです。禅宗って、こういうう雰囲気の宗派なのでしょうか?。

大方丈と書院(小方丈)は庫裏と棟続きになっている。庫裏の西側が書院(小方丈)です。大正13年(1924)の建築で、来客や接待や様々な行事、法要などに使用される、そうです。この部屋にも達磨図が掛かっている。
畳の上に注意書きが置かれている。撮影禁止とか入室禁止かと思ったら、「寝転び禁止」でした。四畳半暮らしの身には、こうした大広間で大の字になってしばし寝転んでいたいものだ。ましてや外は天下の名庭園です。

書院(小方丈)の南側は廊下で、曹源池庭園に面しています。ここから眺めても庭園を十分鑑賞できます。

書院(小方丈)から回廊風の渡り廊下が西北へ伸び多宝殿へ繋がっている。曲線あり、スロープあり、小階段あり、花頭窓あり、廊下の両側は開け放たれ花園風の庭を眺められるなど趣向が凝らされた廊下になっています。

後醍醐天皇の聖廟とされている多宝殿(たほうでん)。昭和9年(1934)に当時の管長であった関精拙老師によって建立された。この場所は幼少の後醍醐天皇が勉学した所で、後醍醐天皇の吉野行宮時代の紫宸殿の様式を取り入れた建物。
南側に、階段付き一間の向拝をもった拝堂がある。拝堂の奥には相の間を挟んで繋がった祠堂があり、中央に後醍醐天皇の木像が安置され、両側に歴代天皇の尊牌が祀られている。

多宝殿から書院(小方丈)に戻り、次は大方丈です。大方丈(だいほうじょう)は書院(小方丈)の南側に棟続きとなっている。本堂にあたる大方丈は、書院(小方丈)と同じく明治32年(1899)に再建され、天龍寺では最も大きな建物です。東側が正面で「方丈」の扁額が掛かり、前は白砂と松だけの簡素な庭。法堂の大屋根が覗いています。裏となる西側は曹源池庭園に面している。周りは回廊風の広い縁が巡らされ、大方丈を一周できます。

大方丈の内部は「六間取り(表3室、裏3室)の方丈形式」だそうです。こちらは「立入禁止」となっています。
中央の「室中の間」には本尊の釈迦如来像(重要文化財)が祀られている。檜材の寄木造、彫眼、漆箔仕上げ。天龍寺の創建よりはるかに古い平安時代後期の作で、八回にも及ぶ天龍寺の火災にも難を逃れ、天龍寺では最も古い仏像。

大方丈の縁伝いに西側に回ると、多くの人が名勝・曹源池庭園を眺めている。庭園参拝券500円払い庭に降りなくても縁側で眺めるだけでも十分鑑賞できます。

以上でお堂の見学を終え、いったん庫裏から外へ出る。次は鏡天井の「雲龍図」で有名な法堂(はっとう)へ。法堂は庫裏や大方丈の手前(東側)にある白壁の美しい大きな建物です。法堂は常時公開されていません。土日祝日と春夏秋の特別公開期間だけです。法堂参拝受付は法堂の西側にあり、庭園・諸堂参拝料とは別に500円必要です。
堂内に入るとまず天井を見上げます。天井の直径9mの円の中に、雲に乗った龍が墨色で描かれ躍動している。どの角度からみても目が合う「八方睨みの龍」といわれています。八方とは、四方と四隅のこと。平成9年(1997)に法堂移築100年・夢窓国師650年遠諱記念事業として加山又造画伯(1927~2004)により新しく雲龍図が描かれたものです。それまでは明治32年(1899)に鈴木松年画伯により描かれた雲龍図があったが損傷が激しかったので描き直された。

 天龍寺(曹源池庭園)  



次は曹源池庭園へ周ります。大方丈、小方丈の縁側からでも十分鑑賞できたのですが、庭を歩き縁側からは見えない所を歩いてみます。
庭園に入るには500円のt「庭園参拝券」を購入する必要がある。庫裏前の広場の南側に受付と庭園入口があります。入口を入ると、そこは大方丈東側の白砂の敷き詰められた庭です。縁に沿って歩き反対側の西側へ行けば曹源池庭園。

曹源池庭園(そうげんちていえん)は、曹源池を中心に南に嵐山を、背後に亀山、小倉山を借景にした池泉回遊式庭園です。天龍寺の創建に関わった夢窓疎石の作庭で、何度も火災にあった伽藍と違い創建時のままの姿をとどめているとされている。我が国で最初に国指定の特別名勝・史跡とされた庭園で、苔寺(西芳寺)、南禅院とともに夢窓疎石作の三名勝史跡庭園となっている。

池の中央奥に石組みが見える。公式サイトに「方丈からみた曹源池中央正面には2枚の巨岩を立て龍門の滝とする。龍門の滝とは中国の登龍門の故事になぞらえたもので、鯉魚石を配するが、通常の鯉魚石が滝の下に置かれているのに対し、この石は滝の流れの横に置かれており、龍と化す途中の姿を現す珍しい姿をしている。曹源池の名称は国師が池の泥をあげたとき池中から「曹源一滴」と記した石碑が現れたところから名付けられた。」とあります。国師とは夢窓疎石のことで、「曹源一滴」とは「一滴の水は命の水であり、あらゆる物の根源」という意味だそうです。

広い庭園内には散策路が回遊している。これから庭園内を北へ散策し、さらに曹源池奥の丘へ登ってみます。
多宝殿から北へ歩くと、周辺にはたくさんの花木が植えられている。北門開設と同時に昭和58年(1983)に整備された庭園で、「百花苑(ひゃっかえん)」と呼ばれている。ツツジ、しゃくなげ、あじさいなど四季折々の花が楽しめ、池を中心にした庭園とはまた異なった感慨を味わえる。

百花苑内の道は北門で終わり、天龍寺境内もここまで。北門を出ると、そこは嵯峨嵐山のもう一つのシンボル・「竹林の小径」です。北門には受付があり、ここから曹源池庭園に入ることもできる。
この出口の前に大きな硯石の碑が建っています。傍の説明版によると、明治32年(1899)に法堂が再建された時、修行僧60余人がかりで摺った墨をもって鈴木松年画伯が最初の雲龍図を一気に描きあげた。画伯と当時の管長の遺徳をしのんで建てられた碑だという。花苑とは不似合いです。法堂の横とか、他に場所がなかったのでしょうか。

曹源池庭園背後の丘には一本の散策路が南北に通っている。この時期、紅葉で彩られ楽しませてくれます。

境内図には「望京の丘」とあるのだが、曹源池庭園も見えず、大方丈の屋根が見えるくらいで見晴らしはあまり良くない。景観よりも雰囲気を楽しむ散策路のようだ。

散策路を南へ降りると「東司(とうす)」が建つ。トイレマークがあるのでお手洗いだとわかるが、洒落たつもりで「東司」としたのでしょう。禅寺では修行僧が使用する便所のことを「東司」と呼ぶからです。東福寺の東司は圧巻で、便所なのだが国の重要文化財に指定されている。

最後に東司で締めて、以上で天龍寺散歩は終わります。


 後嵯峨天皇陵・亀山天皇陵  


天龍寺表参道の入り口になる総門の前に後嵯峨天皇陵・亀山天皇陵への標識が立つ。この場所から「西へ二町」の所らしい。

■■第88代後嵯峨天皇と第90代亀山天皇■■
★第88代後嵯峨天皇の即位
鎌倉時代の承久3年(1221)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げた承久の乱が起こる。結果は天皇側が負け、首謀者だった後鳥羽上皇は隠岐島に配流されるなど、関係者の処罰がなされた。後鳥羽上皇の血統につながらない後堀河天皇、さらにその子の四条天皇が即位する。四条天皇はわずか12歳で急逝したが、兄弟も跡継ぎも存在しなかった。幕府は、承久の乱で土佐国へ配流されていたが乱には直接関与していなかったとされる土御門天皇の子・邦仁王を擁立します。仁治3年(1242)、第88代後嵯峨天皇(1220-1272、在位:1242~46)が23歳での即位する。

★後嵯峨天皇、退位し院政へ
後嵯峨天皇は宮廷の実力者である西園寺家と婚姻関係を結ぶことで自らの立場の安定化を図り、在位4年で寛元4年(1246)に数え4歳の皇子・久仁親王(第89代後深草天皇、1243-1304)に譲位した。正元元年(1259)、後嵯峨上皇は17歳だった後深草天皇を病気を理由に退位させ、後深草天皇とは同母弟であった恒仁親王を第90代亀山天皇(1249-1305、在位:1260-1274)として即位させた。後嵯峨上皇は病弱で好色だった後深草天皇を嫌い、その愛情は弟の恒仁親王のほうへ厚かったという。
後嵯峨上皇は、現在の天龍寺のある場所に離宮亀山殿、嵯峨殿を築き、後深草・亀山両天皇の二代26年余りにわたり院政を行なった。この院政時代は、鎌倉幕府の北条氏との間での連携によって政治の安定が図られた時期でもあった、という。また後嵯峨上皇は和歌にも長じ、『続後撰和歌集』『続古今和歌集』を撰集させている。

★後嵯峨上皇の出家と崩御、亀山上皇の院政
仏教を深く信仰していた後嵯峨上皇は、文永5年(1268)出家し法名を「素覚」と称し、法皇となり大覚寺を御所として院政を続けた。そして同年、亀山天皇を寵愛した後嵯峨上皇は兄の後深草上皇の皇子をさしおいて、弟の亀山天皇の皇子・世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子に立て亀山天皇の系統を直系とした。その4年後の文永9年(1272)2月17日、亀山殿別院寿量院で崩御した。享年53歳。

ところが、御嵯峨上皇が後継者を決定せず幕府に一任して崩御したことから、後深草上皇と亀山天皇の兄弟間で皇統をめぐり対立が起こる。委ねられた幕府は後深草上皇・亀山天皇の兄弟どちらとも決めかねて、両方の母后・大宮院に相談した。その結果、後嵯峨法皇の意思は亀山天皇親政にあるとの返答を得た。そこで文永11年(1274)亀山天皇は在位15年で退位し、皇太子の世仁親王を第91代後宇多天皇(1267-1324)として即位させ、自ら上皇として院政(1274~87)を開始した。亀山上皇の院政中に「文永の役」(文永11年、1274年)「弘安の役」(弘安4年、1281年)という二度の元寇(蒙古襲来)が起こっている。

★持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の南北朝時代の幕開け
亀山上皇優位の情勢に不満を抱いた後深草上皇は、建治元年(1275)太上天皇の尊号辞退と出家の意思を表明し、また執権北条時宗に働きかけ自分の息子・熈仁親王(後の伏見天皇)を後宇多天皇の皇太子にすることに成功する。そして後宇多天皇の退位を迫っていった。
幕府は弘安9年(1286)、両統迭立の議を決め、両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承(両統迭立)し、院政を行うよう定めた。その結果、弘安10年(1287)に後宇多天皇は退位し第92代伏見天皇が即位することになる。その父である後深草上皇が御所を持明院に移し、亀山上皇に代わって院政を始めることになった。
これ以後、後の北朝である後深草上皇の系統を「持明院統」、南朝となる亀山天皇の系統を「大覚寺統」といい、皇統継承を巡る両者の長い争いとなる。それが南北朝時代、更には後南朝まで続く200年に渡る大乱の源となった。
亀山天皇以後の皇位は、第91代後宇多天皇(大覚寺統)→第92代伏見天皇(持明院統)→第93代後伏見天皇(持明院統)→第94代後二条天皇(大覚寺統)→第95代花園天皇(持明院統)と継承されていった。

★亀山上皇の出家と崩御
正応2年(1289)伏見天皇が皇子(後の後伏見天皇)を皇太子にしたことから,亀山上皇は失意のあまり南禅寺で出家した。剃髪し、法名を「金剛源(こんごうげん)」と称した。禅宗に深く帰依し、離宮を禅寺として南禅寺を創建し禅林寺殿とも呼ばれた。禅宗が公家社会に浸透する端緒になる。
嘉元3年(1305)9月に離宮亀山殿で崩御、享年57歳。

天龍寺表参道の突き当りに庫裏がある。庫裏の前で右手を見れば簡素な門が建つ。内は紅葉が見頃の庭園風になっているが、誰一人見当たりません。「天龍寺僧堂南門」の看板が掛かり、門は竹の横棒でふさがれ立入り禁止になっている(のように見える)。しかしよく観察すると、立木で見えにくいが天皇陵の石柱が建ち、門脇に「墓参以外立入禁止」とあります。ということは墓参なら入っていい、ということです。私はただ写真を撮りたいだけの「墓撮」なのだが、今回だけは手を合わすことにして入りました。
庫裏前には大勢の人がおりその視線が気になり、横棒を潜るのには大変な勇気がいりました。

門から真っすぐ進めば僧堂だが、手前左手に御陵のお堂が見えている。人影は全くありません。誰もいてないので、私は不審者のようで、ここから早く逃げ出したいような気持になります。皆さん天龍寺へは、名勝・曹源池庭園を見にくるのであって天皇陵など興味はないのです。そもそも天皇陵が存在していることさえ知らない人が殆どだと思う。

ここには「後嵯峨天皇嵯峨南陵」と「亀山天皇亀山陵」が同じ陵域にあり、父子が並んで祀られている。

文永9年(1272)2月19日後嵯峨天皇は離宮・亀山殿の寿量院で崩御、遺詔により亀山殿の別院薬草院で火葬し、遺骨はこの亀山殿内に設けられた淨金剛院の法華堂に納められました。
嘉元3年(1305)9月15日亀山天皇は離宮・亀山殿で崩御、裏山で火葬され、遺骨は分骨され後嵯峨天皇と同じ浄金剛院法華堂に、一つは南禅寺に、もう一つは高野山金剛峯寺にそれぞれ納められた。

両天皇が納骨された淨金剛院法華堂があった離宮・亀山殿は、1339年以降足利尊氏によって同地に広大な天龍寺が創建され、その際に浄金剛院は廃絶され陵墓は所在不明となってしまっていた。幕末に全国の天皇陵を確定し補修しようとする動きが起こる(「文久の修陵」)。その時に、浄金剛院法華堂跡地を現在地に確定し、そこにあった舎利殿と経蔵を撤去し、慶応元年(1865)5月新たに法華堂二堂を建立したのです。この時、亀山天皇から勅願所とされた東本願寺が報恩のため二陵の修理費用を支出したという。当初は両陵ともに浄金剛院法華堂と呼ばれていたが、後に嵯峨殿法華堂・亀山殿法華堂に改められ、さらに明治39年(1906)には嵯峨陵、亀山陵となり、大正元年(1912)に「後嵯峨天皇嵯峨南陵」「亀山天皇亀山陵」という現陵名になった。

南面して東西方向に建ち並ぶ両法華堂は同形で、5m四方・高さ4mの規模で、檜皮葺宝形造り。屋根頂部に方形の露盤があり、その上に火炎の宝珠をつけている。周りは透塀がめぐらされ、両堂の前面には金箔が美しい唐門が構える。

向かって右側が後嵯峨天皇の嵯峨南陵で、左側が亀山天皇の亀山陵です。ここは天龍寺境内なのだが、この陵域だけは宮内庁管理なのです。宮内庁の公式陵形名は「方形堂」となっている。なお、裏の亀山公園内には両天皇の火葬塚が残されています。

 紅葉の宝厳院(ほうごんいん)  



天龍寺法堂前から南側へ、つまり大堰川(保津川)へ通ずる道がある。その中ほど右手に宝厳院(ほうごんいん)というお寺があります。いつもは目立たない小さなお寺ですが、紅葉シーズンになると塀越しに見える燃え盛る紅葉の鮮やかさ、そして案内の大きな看板と、否が応でも目にとまります。この道はよく通るのだが一度も入ったことがなかった。紅葉シーズンになるとこの山門前に行列ができているのです。それを見ると入る気がしなかった。今年はコロナの影響で写真のように閑散とし、並ばなくても入れる。入ってみよう。

宝厳院は天龍寺の塔頭寺院で、正式には「大亀山宝厳院」(だいきざん ほうごんいん)と呼ぶ。
通常は非公開だが、春・秋の特別公開時のみ入れます。現在は<秋の特別拝観:2020年9月19日(土)~12月6日(日)>です。
【拝観時間】9:00~17:00 ※受付終了は、本堂が16:30、庭園は16:45です。
【拝観志納料】(庭園)大人:500円・小中学生:300円 ※宝厳院本堂特別公開は、別途志納料(大人:500円・小中学生:300円)が必要です。

宝厳院の見どころは「「獅子吼(ししく)の庭」と呼ばれる回遊式庭園につきる。春から初夏にかけては新緑や苔が、秋は約300本のカエデが真っ赤に染め上げる紅葉の名所として知られている。室町時代に中国に二度渡った臨済宗禅僧・策彦周良禅師(さくげんしゅうりょう)によって原型が作庭され、その後移転時に引き継がれていったもの。
庭内の案内板に次のように書かれています。
「「獅子吼」とは佛尊が説法する事、すなわち真理、正道を説いて発揚することを獅子吼と称し、佛尊の説法を聞くことにより心が癒され安心を得ることが出来ると同様、この庭を散策すると鳥の鳴き声、風の音、水の流れ等が自然と心を癒してくれる。これを「無言の説法」と言う。この事より「獅子吼の庭」と命名された」
庭園内には一本の散策路が設けられている。さあ、「無言の説法」を聴きに行こう。

最初に天龍寺の曹源池庭園を模したようなシーンが目に飛び込んでくる。小石を敷き詰め池(海)を表しているようです。手前の少し大きな岩は「舟石」、小石群は「苦海」、奥の地上の立石は「三尊石」と表記されている。
迷いの世界にいる人間は「舟石」に乗り「苦海」を渡り、彼岸(悟りの世界)にいる釋尊、文殊菩薩、普賢菩薩の三尊佛のもとに参ずる、ということでしょう。
左奥の石組みは曹源池庭園にもあった「龍門瀑(りゅうもんばく)」とあります。

宝厳院の創建は室町時代ですが、現在のお寺は平成になってから移転、再興されたもので、比較的新しいようです。

室町時代の寛正2年(1461)、幕府の菅領・細川頼之が天龍寺開山の夢窓国師より三世の法孫にあたる聖仲永光禅師を開山に招聘して創建。当時は上京区の京都御所の近辺にあった。しかしすぐ応仁の乱(1467年 - 1477年)に巻き込まれて焼失してしまう。天正年間(1573年 - 1591年)に豊臣秀吉の援助により再建される。明治時代になり京都中心部の区画整理による河川工事のため立ち退きを余儀なくされ、天龍寺塔頭の弘源寺境内に移転。平成14年(2002)、住職が現在地を購入して移転、再興した。

獅子吼の庭の特色に各所に大きな岩が配されていることがある。道の両側にある写真の岩は「碧岩」と呼ばれ、約2億年前に海底にあり、微生物やプランクトンの堆積したものとか。

本堂の右隣の書院前。宝厳院は鮮やかな紅葉が美しいが、それを引き立たせるみずみずしい緑の苔も主役の一つ。
散紅葉に苔の絨毯、どこか人工的に演出された自然美のように見えてしまいます。ライトアップされた夜はどんなシーンが展開されるのでしょうか。

庭園には一本の小川が流れている。天龍寺の曹源池庭園から引いた小川のようです。水音は聴こえなかったが、川面に揺れる浮紅葉も目をひきつけます。

出口近くにあるひときわ大きな岩は、獅子の横顔に似ていることから「獅子岩」と呼ばれている。緑の毛皮に赤い散り紅葉をうけ、とてもいかめしい獅子には見えません。
右奥に見えるのが竹を束ねて造った「豊丸垣(ほうがんがき)」。

出口が近づいてきました。またおこしやす、と羅漢さんたちが赤い絨毯の上で見送ってくれている。羅漢(らかん)とは、釈尊の弟子で崇高な修行者「悟りをえた人」の意。企業や個人によって奉納された羅漢さんを、境内だけでなく宝厳院周辺でもたくさん見かけます。

出口通路となっている紅葉のトンネル。塀に青垣、赤絨毯、そしてお見送りの羅漢さんと趣のある道です。宝厳院では紅葉の夜間ライトアップ(夜間特別拝観)も行われている。私は人工的に彩色された自然というのは嫌いなのですが・・・。

今回感じたのは、京都の観光名所を訪ねるにはコロナ過の今がチャンスだ、ということ。人波に煩わされない、とりわけ自撮棒連がいないのがいい。


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