山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

紀三井寺から和歌の浦へ 3

2020年07月20日 | 寺院・旧跡を訪ねて

新和歌浦から高津子山へ

 紀州東照宮(きしゅうとうしょうぐう)  



玉津島神社を出て、天神山の山裾を目指して歩きます。川に沿ってよく整備された歩道が設けられている。欄干に擬宝珠、這い松のような背の低い格好いい青松が等間隔に植えられ、その間には和歌と墨絵の描かれたパネルが配される。景観保存の試みが窺えます。かってこの辺りは海辺だったでしょうが、現在は埋め立てられ住宅地となっていて、昔の面影は全くありません。

西へ15分ほど歩けば紀州東照宮の紅い大鳥居が見えてくる。玉津島神社から20分ほどでしょうか。とつぜん徳川の家紋・三つ葉葵が目に飛び込んでくる。

紀州東照宮は、徳川家康の十男である紀州徳川家初代藩主・頼宣(1602~71)が、元和7年(1621)に父・家康の霊を祀り南海道の総鎮護として創建したもの。現在は頼宣も合祀されている。その華麗で豪華な権現造りの社殿は「関西の日光」とも呼ばれています。

三つの鳥居を潜ると小石の敷き詰められた参道です。参道の両側には、徳川家の家臣達が寄進した石灯籠が並ぶ。400年の歴史を刻むだけに、今にも崩れそうだ。

神社らしく鬱蒼とした樹木の覆われた参道を進み、一度左に曲がると正面に階段が見えてくる。煩悩の数と言われる108段の石段で「侍坂(さむらいざか)」と呼ばれている。かなりの階段に見えるが、紀三井寺の結縁坂の階段の半分以下です。紀三井寺で厄払いし、ここで煩悩落としします。

階段左横には「ゆるやか坂」がある。遠回りになるが、ゆるい階段と坂道で権現さんまで行けます。ただし、煩悩は落ちないでしょうが。奠供山にあったような昇降器はどうだろう、ここならエスカレーターか。



煩悩を落としながら登りつめた先はきらびやかな朱塗りの楼門です。楼門とその両脇の東西廻廊は国の重要文化財となっている。



楼門の左右に仁王像が・・・よく見たら武将の絵姿でした。もちろん徳川家康でしょうね、牢に閉じ込められた・・・。反対側は頼宣でしょうか。



境内奥の一段と高くなった所に豪華な唐門が構え、唐門の両側から伸びた瑞垣(みずがき)がコの字形に社殿を囲んでいる。社殿は、拝殿・石の間・本殿を一つの建物にまとめた権現造りとなっている。桃山時代の遺風をうけた江戸初期の代表的な建造物といわれ、拝殿・石の間・本殿、唐門、東西瑞垣、楼門、東西回廊が重要文化財に指定されています。本殿に祀られているのは東照大権現(徳川家康)と南龍大神(紀州藩初代藩主徳川頼宣)。
よくみると、足場用の鉄パイプが社殿を囲んでおり、台風被害により修復中のようです。唐門から中へ入り、社殿をぐるっと一周したが、足場のパイプが目立ち、神々しい厳かさは感じられなかった。
社殿見学は、午前9:00~午後5:00、大 人:300円、小中高生:100円

社殿にある左甚五郎作と伝わる彩り鮮やかな彫刻と狩野探幽の豪華な襖絵が有名です。実物を目にすることができなかったのですが、社務所に写真が掲示されていた。






境内東の「神輿舎(みこしや)」。正面扉には和歌祭の様子を撮った写真が貼り付けられています。名前からして和歌祭で使われる神輿が置かれているのでしょう。
和歌祭は、頼宣が元和7年(1621)に紀州東照宮を創建し、その翌年から始めた例大祭。家康の命日である5月17日に近い日曜日に行われる。108段の侍坂を勇壮に下る神輿がみものとか。

楼門を通して和歌浦湾を撮る。

 和歌浦天満宮(わかうらてんまんぐう)  



紀州東照宮の前に御手洗池公園がある。紅欄の橋とぼんぼり、そして開花中の桜に彩られた美しい公園です。

御手洗池公園の北側に和歌浦天満宮が見えている。また階段だ!。
大鳥居傍の由緒書きには
「醍醐天皇延喜元年春(901)右大臣菅原道真公は筑前大宰府に左遷せられ赴任の時、海上風波を避難せられ暫時、此の和歌浦の地に立寄り地元漁民達がこれをお迎え申し上げ綱を巻き、円座を作りここに休まれました。世に綱引天神とも申されます。風波静まり、御船で御任地に向かわれる時、
  ”老を積む身は浮船に誘はれて、遠ざかり行く和歌の浦波”
  ”見ざりつる古しべまでも悔しきは 和歌吹上の浦の曙”
二首の御歌を詠じられ、遠く太宰府へ旅立たれました。
その後、人皇六十三代村上天皇の康保年間(964~968)に至って、参議橘直幹が太宰府より帰京の途中御船を停め、菅公を追慕し、此地に神籬を立て道真公の神霊を勧請してお祀りし、宝殿を営築したのが当社の始まりです。」と書かれている。(綱引天神については、神戸市須磨区の綱敷天満宮の説もあり)

和歌浦天満宮は標高約93mの和歌浦天神山の中腹に位置する。そのため紀三井寺、紀州東照宮同様にきつい石段を登らなければならない。段数を数えたら50段だったので少しはましですが、その代わり踏み石が不整形でデコボコしていてかなり上り辛い。その分、中央に手摺は用意されています。
階段手前には狛犬が・・・いや木彫りの狛牛でした。

階段左側にゆるやかな石段が設けられている。「女坂」と呼ぶそうですが、正面のゴツゴツした階段はさしずめ「男坂」でしょうね。距離は三倍ほどありそうだが、石灯篭が並ぶ女坂のほうが雰囲気ありそうです。

階段を登りきると、紀州東照宮と同じように楼門(重要文化財)とその両脇の廻廊が構える。
楼門(重要文化財)の案内板に「この楼門は四本の太い丸柱をもち、一間一戸、入母屋造、本瓦葺の建物である。墨書によって慶長十(一六〇五)年に再建されたことがわかる。一階の柱間には厚い板扉が釣込まれている。二階は三間二間の建物としているが、このような類例は非常に少ない。軒は二軒扇垂木であるが、軒の反りがのびやかで全体として秀麗な印象を与える建物である。桃山時代の建築様式を示す美しい楼門であるが、全体に禅宗様式が取り入れられている。」とあります。

境内正面に唐門があり、その奥に本殿が控える。和歌浦天満宮は、天正13年(1585)の豊臣秀吉による紀州攻めによって焼き打ちにあい、社殿、宝物、古記録など焼失してしまう。慶長11年(1606)紀伊藩主浅野幸長が天神山の中腹を開墾して社地を造成し、本殿、唐門、拝殿、楼門、東西廻廊などを再建した。これが現在の社殿です。

本殿(重要文化財)は桁行五間・梁間二間の入母屋造、檜皮葺き。蟇股などに極彩色で飾られた豪華な彫刻が見られます。本殿や楼門などの建築や彫刻には、紀州根来出身の大工棟梁の平内吉政・政信親子が関わったといわれる。政信は後に江戸幕府の作事方大棟梁になった当代屈指の工匠という。
祭神は学問の神様である菅原道真。大宰府天満宮、北野天満宮とともに日本の三菅廟といわれています。


どこの天満宮でも合格祈願の絵馬が溢れているが、ここでも同様です。学問といえば文殊菩薩か、菅原道真。
北野天満宮の絵馬は牛の絵柄だったが、ここでは菅原道真その人です。大宰府天満宮は?。

楼門を境内側から撮る。門を額縁として、御手洗池公園から和歌浦湾への美しい景観を眺めることができます。



「和歌の浦・急峻三社巡り」の幟がゆらぐ。三社を巡ってきたのだが、興味ないので御朱印はもらっていない。
観光名所の紀三井寺・和歌の浦巡りだが、”急峻”の名に相応しく健脚の人でないと苦労するでしょう。一番辛かったのは30mほどの奠供山でした。これから最後の高津子山登りが待っている。

 新和歌浦 



明治になっても、玉津島神社、東照宮や妹背山、片男波の砂洲がある和歌の浦は別荘地・行楽地として賑わった。明治42年(1909)に路面電車(南海電鉄和歌山軌道線)が和歌浦まで開通し、多くの人々が気軽に訪れることができるようにもなった。さらに観光客を呼びこもうと、奠供山エレベーター開設(1910年)にみられるように開発の気運が高まる。しかしさらなる開発を阻止し自然景観を守ろうとする開発反対の動きも起きてきた。

そこで開発推進派が目をつけたのが、和歌浦に隣接して、当時はほとんど観光客が訪れることがなかった、新和歌浦です。
Wikipediaは次のように記します「大正6年(1917)に伊都郡の資産家森田庄兵衛が開発会社新和歌浦土地を設立し、和歌浦は転機を迎えた。庄兵衛は和歌浦港より西側の海岸線を買い占め、道路を開いて本格旅館を相次いでオープンさせた。庄兵衛の死後も新和歌浦のリゾート開発は継続され、1932年には年間100万人を誘致する観光地となった。その一方で、旧来の和歌浦は老舗旅館が相次いで廃業・移転し、片男波と歌われた海岸は工業用地として開発されるなど、行楽地としてのポジションは新和歌浦側に移ってしまった。」
大正中頃から和歌の浦西方の海岸に沿い、山を削り、トンネルを通して、大旅館や遊園地を建設し、一大観光スポット「新和歌浦」として開発されていった。観光の中心は和歌の浦から新和歌浦へ移っていった。

昭和から戦後も大規模な開発が続けられます。「1950年に、毎日新聞による「新日本観光地百選」の海岸の部にて1位を獲得すると、その美しさが全国的に知られるようになり、加えて縁結び信仰が強かった玉津島神社の存在意義も相俟って、全国随一の新婚旅行スポットとなり、観光客は一段と増加した。さらにその後は瀬戸内海国立公園への編入も決定したことで、年間宿泊者350万人を数える一大観光地に成長した。 高津子山(たこずしやま、章魚頭姿山とも)にはソメイヨシノが植樹され、春先になる絢爛と花を咲かせることから、「西の嵐山」などと称された。ほかに、新和歌浦ロープウェイ(和歌の浦温泉 萬波 前の高津子山に存在した)の敷設や和歌浦遊覧船の周航開始など、次々に観光開発が進行し、うらぶれた漁村であった一帯は大きな変化を遂げることになった。」(Wikipediaより)

しかし戦後日本の高度成長が終わろうとする1960年代末頃から様相が一変する。旅行が多様化してくると、海岸と宿泊施設だけでは旅行客を呼び込めなくなってきた。また新婚旅行は宮崎など九州地方に流れ、国内温泉ブームは白浜や勝浦へ人々を向わせ、新和歌浦への宿泊客は大幅に減少していった。1971年には旅館寿司由楼火災で16人死亡、南海和歌山軌道線が廃止、和歌浦遊覧船周航も廃止、遊園地やロープウエイの閉鎖、さらに著名な大型ホテルや著名旅館が経営に行き詰まって倒産するなど、暗い話題ばかりが和歌浦を包み込んでしまった。

Wikipediaはさらに書きます「上記の廃業ホテル、旅館は手付かずのまま放置されていた。それ故、2002年頃に廃墟ブームが勃発すると、巨大な廃墟物件を抱えていた和歌浦は「廃墟の聖地」と揶揄されるまでになっていた。「宇宙回転温泉」と称する回転型の浴用施設(温泉と名乗っているが温泉ではない)を設けていた廃業旅館や、火災で大量の死者を出し、ボウリング場を併設して再起を図るも心霊現象が起こるなどの風評もあり、汚名を返上できず廃業したホテルなどは、その巨大さと豪華さと荒れ具合ゆえに当時多くの話題を生んでいる。特に高度経済成長期に闇雲な建て増しを行い、建物内部が迷路のような構造となっていた廃業旅館は、サバイバルゲーム愛好者や廃墟マニアにとって屈指の人気スポットであった。」

日本屈指の観光スポットから廃墟スポットへ、これからその光と陰の跡を訪ねてみます。

和歌浦天満宮から車道を西へ15分ほど歩けば和歌浦漁港が見えてくる。ここには平成24年11月に開設された新鮮な魚介類や水産加工品を販売する交流施設「おっとっと広場」がある。販売だけでなく、おいしい魚料理が食べられるようですが、残念ながら土日祝祭日のみのようです。


和歌浦漁港を左下に見下ろしながら車道脇の歩道を歩く。よく見ると、歩道の手摺は欄干風で擬宝珠まで付いている。かっての観光遊歩道の名残りでしょうか。その行き先にトンネルが二つ見える。右のトンネルは現在も車が通っている。左のトンネルは赤錆びたレンガに蔦が覆っている。新和歌浦の開発が始まった大正時代に掘られたトンネルです。このトンネルの横に歩道が見える。しかし古いトンネルも歩道も立入禁止になっています。
観光パンフレットにのっている「新和歌浦・観光遊歩道路」の入口がこの辺りになっているが、立入禁止になっている歩道がそれなのでしょうか?。パンフレットを見れば、観光遊歩道路は新和歌浦の海岸に沿って設けられており新和歌浦観光のメインストリートのようなもの。


トンネルの手前に漁港へ降りる階段があるので、とりあえず下へ降りてみた。そこは和歌浦漁港の西の端で、高架道路の橋脚らしき残骸が残っている。かっての観光遊歩道路の名残でしょうか?。

高架道路らしき残骸の海側に階段があり、そこから歩道が通っている。どうやら海岸道路、即ち観光遊歩道路らしい。ところが「工事中につき通行止」となっている。残念!、引き返すか、と考えたが、せっかく来たのだから行ける所まで行ってやろう、と通行止のロープを跨ぐ。歩道に上がると小さな灯台が立っている。現役の様子はないので、これも過去の遺物なのでしょうか。
灯台もとで作業服姿の人に出会う。尋ねると「この先で遊歩道の補修工事をやっているので通れませんヨ」とのこと。どうするか、行ける所まで行くことに。

灯台を過ぎると観光遊歩道路は砂浜となる。新和歌浦が華やかし頃、浴衣姿に下駄履きで、カランコロンと、いやジャリジャリと多くの観光客が砂を踏みしめ歩いたことでしょう。
中央の白い建物の脇で重機が見える。そこで道路の補修工事をやっているようだ。砂浜の手前に上に登る細い坂道があったので、ここで観光遊歩道路とは別れる。

車道まで登ると、そこはさっきのトンネルの出口でした。現役のトンネルには「新和歌浦隧道・1971年6月」と表示されている。旧トンネルの上部に文字が刻まれているが読めません。内部を覗くとゴミ捨て場となっていた。

車道を高津子山の登り口目指して歩きます。右側の建物には「国民宿舎・新和歌浦ロッジ・天然紀州温泉元気の湯」の看板が。その先のハイカラな白いたてものは「エビカリス」となっている。営業しているのでしょうか?。全く人を見かけません。車も停まっていない。車道もほとんど車は通らない。私一人がカメラをぶら下げ歩いているだけ。ゴーストタウンのようです。

さらに歩くとオレンジ色の建物です。ホテル「萬波」とあり、現在でも営業しているとか。しかし人の気配は全くありません。このホテルの前に高津子山への登り口があるのです。

ホテル「萬波」の手前に写真のような案内を見ました。この坂道を降りると観光遊歩道へ降りれるようです。半分諦めた観光遊歩道だが、工事現場は通り過ぎているので再度挑戦することに。

坂道を少し降りると、ここにもトンネルを見つけました。新和歌浦開発期の二番目のトンネルだ。ちょうどホテル「萬波」前広場の下辺りになる。30mほどの長さで、出口の先には道は無く、崖っぷちとなっている。この廃道は、かっての栄華を示す印として残されているのでしょうか。

廃トンネルの手前に坂道があり、傍に「遊歩道、ビーチ、夢の鐘」の標識が立つ。ところがここにも「立入禁止」のロープが張られている。ここも強行突破、ロープを跨ぎます。ちょうどホテル「萬波」の横を降りていく。

坂道を降りるとホテルと砂浜の間にでる。工事箇所は砂浜の向こう側です。砂浜の先には、親和歌浦の観光スポットの一つだった「蓬莱岩(ほうらいいわ)」が見える。浜辺から突き出た奇妙な形の岩で、一箇所穴が開いている。長年の波風の浸食によってこんな形状になったのでしょう。中国の不老不死の地とされる霊山・蓬莱山にかこつけた名前だが、「双子岩」でよかったのでは・・・。

観光遊歩道は、砂浜を通りホテル「萬波」の裏側から田野浦漁港へ続いている。ところが写真のように「キケン!立入厳禁」となっている。ここまで立入禁止を無視してきたが、ここでは表現がかなりキツイ。制止ロープの先を見れば、ホテルの裏側が土砂崩れし道をふさいでいます。どうすべきか?。
ここまで山部赤人が来たとは思えないのだが、側壁には彼の歌が刻まれ旅情を誘う。キケンを無視して、ここでもロープを跨ぎました。

崩れたガレキが道を10mほど覆っている。気を付けながら歩けばそれほど危険ではないのだが、ホテル丸ごと倒れてくるのではないかという恐怖感を覚えました。後でネットで調べると
「平成30/4/16 和歌浦観光遊歩道路における崖崩れについて
和歌浦観光遊歩道路(萬波リゾート東側付近)において、崖崩れが発生し、観光遊歩道上にコンクリート片や土砂等が流入しました。現在、遊歩道上の危険箇所を閉鎖し、立入禁止の措置を行っていますので、お知らせいたします。」という和歌山県観光課の発表が載っていた。2年前の出来事だが、そのまま放置されている。県からも見捨てられた和歌浦観光遊歩道路です。

キケン箇所を無事に過ぎると、今では古さびたコンクリートの観光遊歩道が続く。遊歩道は三つ目の砂浜に出会います。砂浜を歩いていると右側の岩壁に、あばら骨だけになった建物の遺物が残されている。これは何の廃墟なのでしょうか。撤去されず無惨な姿をさらしたままなのは、現在の新和歌浦の姿を象徴しています。
かって観光地として栄えた新和歌浦には、廃業旅館などが廃墟として多く残されたままだったが、「それにより不法侵入が絶えず、また心ない破壊活動、放火未遂などにより、環境面や防犯面で周辺住民や一般宿泊者、関係者から苦情が絶えなかった。それに加え、廃業旅館は建て増しによる耐震性の不備が指摘され、その巨大さもあって南海大地震が起これば崩落して周辺に多大な被害をもたらすことが予想された。そのため、2005年10月にこれらを含めた廃墟物件は軒並み撤去されることになり、一連の騒動は終止符を打った。」(Wikipediaより)

砂浜が終りコンクリート歩道が始まる所に、赤レンガ造りの小さな塔が建ち、鐘が吊るされている。「夢の鐘」と呼ばれ、昭和60年頃に和歌の浦観光旅館組合が建てたものらしい。傍の説明板は擦れて判読しがたいのですが「この夢の鐘は山部赤人が歌ったように数羽の?が大空に舞い上がっているイメージを?のカーブとステンレスで形どられた鶴で表現しました。ミラータイルに映る青い空と???夢の音色を奏てます。ここを訪れる人のおもいおもいの幸せを祈ってこの鐘をついて下さい」とあります。
今や「悪夢の鐘」に。

新和歌浦観光ホテルに添って歩道を歩く。パンフレットには観光遊歩道となっているのだが、ここまで観光客どころか地元の人とも全く出会っていない。道が寸断され、過去の痕跡が傷ついたまま残存されているこの道を、今なお和歌山県の観光パンフレットに推奨コース「観光遊歩道路」と案内するのは疑問に感じます。

ホテルの裏へ回ると田野浦漁港が見えてきた。観光遊歩道は漁港の先から浪早ビーチ、浪早崎、雑賀崎へと続いているのだが、これ以上は無理です。朝から石段の上がり降り、そしてかなりの距離を歩いてきたので足にかなりの疲労を感じる。これから高津子山へも登らなければならない。新和歌浦観光遊歩道とはここでお別れします。田野浦の家々の間を曲がりくねりながら坂道を登り、車道に出る。

車道を歩くとホテル「萬波」が見えてきました。田野浦漁港から10分くらいです。ホテルの下には誰も通らない観光遊歩道が見え、ホテルが気のせいか傾いているように見える。こうしてみるとさらに恐怖感が増してきた。また赤レンガの廃トンネルの出口がみえます。現在の車道が開通するまではこのトンネルを通行していたのですね。

 高津子山(たこずしやま、たかづしやま、章魚頭姿山とも)  



これから最終地・高津子山(たこずしやま)に登ります。高津子山へは二つのコースがある。一つは紀州東照宮の東側にある市立和歌浦小学校の横から歩くコース。これはかなりの距離がありそうだ。もう一つはこれから登るホテル萬波の前からのコースで、約20分と案内されている。

観光パンフレットの地図には登り口の近くに展望台があると記されている。上を見上げると展望台が見えており、そちらに通じる細い脇道が見える。近道ならとその脇道に入りしばらく登るとロープが張られていた。立入禁止、危険などの表示は何もなく、ただ道をふさぐようにロープが張られているだけです。これで今日5度目の制止ロープだ。ここでも突破する。
少し行くとコンクリートの道に割れ目が入り、今にも崩落しそうだ。俺の重みで一気に・・・なんて想像すると足がすくむ。恐る恐る踏み越えた。

展望台となっている場所はコンクリート敷きの広い広場だ。新和歌浦が観光客で賑わっていた頃、新和歌浦遊園があり頂上までロープウェイで結ばれていたという。ここはロープウェイの出発駅・新和歌浦駅の跡ではないだろうか。新和歌浦の観光業が行き詰まり、1997年に廃止、撤去されている。
ここからの和歌の浦方面の眺めが素晴らしい。紀三井寺の白い新仏殿もはっきり見える。海に浮かぶ奠供山も想像できます。

後ろを振り返れば高津子山頂上の展望台が見えている。あそこまでロープウェイがひかれ、ゴンドラが行き来している情景が浮かんできます。


広場の横に細い階段が上っており、「展望台→」の標識が立つ。この辺り、かっての遊園の面影が残っています。


階段を上がると、すぐまた展望所兼休憩所がある。すぐ下にさっきの広場を見下ろせる。こうして上から見ると、
ロープウェイ駅の跡だというのがよくわかります。ここも新和歌浦の残滓の一つなのだ。こんなに美しい景観が広がっているのに、放置されているのはどうしてでしょうか?。和歌山県はもう新和歌浦を見捨てたのでしょうか。

頂上を目指して歩く。ゆったりとした坂道で、登るというより歩くという感じです。道幅も広く、横の樹木もまばらなため景観も楽しめ、快適に歩けます。ただ、少々足にきているが・・・。
桜の満開期なのだが誰一人として出会いません。皆さん、自粛、ホームステイを忠実に守られているのでしょうか。

頂上に到着です。頂上は、小さな広場と展望台があるだけ。周りには展望をよくするためか、樹木はほとんどありません。ここにはかって360℃見渡せる回転展望台が設置されていたそうですが、1999年に撤去され、代わりに現在の木製の展望台が造られたという。事業主・南海電気鉄道とあります。それにしても桜スポットの最盛期にもかかわらず人が全くいません。「三密」とははるかに程遠いのだが。

三角点があり、136.6mとある。「章魚頭姿山」(たこずしやま)の表記も見える。なんとも読み難い漢字なので、「高津子山」の当て字を使ったのだろうか?。調べてみると、たこ(蛸)は「章魚」とも書くようで、”タコの頭の姿をした山”ということです。海辺の漁村からは、そのように見えたんでしょうね。傍には「和歌山県朝日夕陽百選」の碑が建つ。ここからの夕陽はさぞ絶景だろうと想像できます。

展望台に上がる。360度遮るものがなく見渡せます。東の方向です。手前の和歌浦漁港から遠く名草山まで俯瞰できる。紀三井寺のお堂も見えている。ここから見ていると、海に浮かぶ片男波の砂洲、奠供山、鏡山などの島々、奈良・平安の頃の風景が浮かんできます。

南側の真下にはホテル萬波と観光スポットの蓬莱岩が。

西側の雑賀崎と番所庭園の方向。沖合いに微かに見えるのは淡路島?、四国?。

北側の和歌山港。手前に見えるのが養翠園。紀州徳川家十代藩主・徳川治宝(はるとみ)により造営された大名庭園で、海水をとり入れた汐入式の池が珍しいそうです。庭園と建物は国指定名勝の指定を受けている。

北東方向。山肌にそいソメイヨシノが植えられている。新吉野と呼ばれた時もあったそうですが、その可能性を秘めている。桜スポットとしてはまだ物足りないが、360度見渡せるこの展望と桜をコラボすれば吉野山に匹敵するかも・・・。近鉄の吉野山に対抗して、南海電鉄はここの再開発を再考すべきです。和歌山県も見捨てないで欲しい。

それにしても人がいない。桜満開の高津子山で出会ったのは三人だけでした。三密の大阪へ帰ります。


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