山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

2015年秋、紅葉の東福寺 (その 1)

2016年03月28日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2015/11/24(火)京都・東福寺へ紅葉見物に出かけたときの記録です。

かねがね東福寺・通天橋で紅葉を眺めてみたいと思っていた。今年こそはと思い、チャンスをうかがっていると、ネット情報では「見ごろ」と出ている。土日を避け、以降の天気予報を考えると、今日(11/24、火曜日)に限ると判断し出かけました。9時開門とあったので、それに合わせて京阪電車の乗る。ところが、駅で見た東福寺のポスターには8時半開門とあります。紅葉シーズンは繰り上げ開門らしい。誤算でした。

 臥雲橋  



半曇の晴れ、8時半過ぎに京阪・東福寺駅に着く。もうすでに沢山の人がゾロゾロと歩いています。この人並みに従って歩けば、最短コースで東福寺へ行けるはずです。北門から入り、10分ぐらいで臥雲橋に到着しました。この臥雲橋からの眺めも絶景ポイントの一つ、しかもここは無料ときているのでかなり混んでいる。

臥雲橋から通天橋を眺めた写真です。小さな「三ノ橋川」を挟んだこの谷間は「洗玉澗(せんぎょくかん)」と呼ばれている。ここが紅葉の絶景地(ここだけですが・・・)。よく見かける写真は、上方の通天橋からこちらの臥雲橋を見下ろしたものが多いいが、こうして通天橋を見上げるのもなかなか良い。

 通天橋(つうてんきょう)  



30mほどの臥雲橋を渡りきって少し進むと、左に「日下門」が見えてくる。日下門を潜って境内へ。平日の9時前だが、もうすでにこの人混み。正面に見える仏殿(本堂)手前に拝観受付がある。拝観料は大人400円、小人300円で、通天橋・開山堂・洗玉澗を巡れる。再入場はできません。


仏殿(本堂)から開山堂(常楽庵)へ屋根付き廊下が通っている。その屋根付き廊下が、洗玉澗の三ノ橋川の上では橋になっている。それが「通天橋(つうてんきょう)」で、京都を代表する紅葉の名所として知られています。
かって僧侶たちが仏殿(本堂)から開山堂へ通うため、洗玉澗の渓谷を渡らなければならなかった。その労苦を救うため、天授6年(1380年)に普明国師(春屋妙葩)が橋をかけたのが始まりとされている。南宋径山(きんざん)の橋を模したもので「通天」と名付けられた。
昭和34年(1959年)8月の台風で崩壊したが2年後に再建された。その際橋脚部分は鉄筋コンクリートにされたそうです。そうでもしなければこの人混みを支えきれないのでは。偃月橋・臥雲橋とともに東福寺三名橋と呼ばれています。

通天橋の中央部分が張出し舞台(と言っては大げさですが・・・)のように出っ張っている。この位置が写真撮影の絶好場所とされる。ここに皆が集中し、最前列目指して押し合いとなります。手ブレなしにシャッターを切るのが難しい。アングルを考え、明るさを調整してなどとゆっくり時間かけて撮影するなどできません。とにかくシャッターきりまくる。沢山撮っておけば、数枚は気に入った写りもあると思う。中には頭上に紅葉といった写真も。それもよくボケた頭が・・・。
さっき見上げた臥雲橋を、今度は見下ろします。臥雲橋もかなり混雑しているようです。あちこち絶景を見慣れた眼には”絶景”とは感じらませんが、でも綺麗です。

現在は紅葉の名所ですが、昔は桜の名所だったという。しかし室町時代に、あまりにも桜が綺麗でお坊さん達の修行の妨げになるということで全て伐採され、代わりに楓の木が植えられたそうです。この紅葉の景観でも修行の妨げになりそうですが・・・。

それにしても人が多い。紅葉の雲海に漂う人、人、人の波・・・。人に急かされ、押され、心静かに堪能している余裕がありません。平日の早朝でこれですから、土日、祭日などには絶対に来てはいけませんゾ・・・。この人出も修業の妨げにならないのでしょうか。




 開山堂  



通天橋からさらに屋根付の渡り廊下は続いている。廊下の突き当たりで、左に出れば紅葉の広がる洗玉澗の渓谷へ、右へ曲がり登ってゆけば開山堂です。

楼門を潜ると、正面が東福寺創建に携わった円爾弁円(聖一国師)を祀っている開山堂(かいさんどう、別名「常楽庵」、重要文化財)、左が客殿にあたる普門院(ふもんいん、重要文化財)。

開山堂に続く細道(参道?)の右手はサツキの植栽が散らばった緑の池泉庭園、左手が枯山水の白い庭園と、左右対照的な構図の庭園となっている。
普門院前の枯山水庭園は、砂紋が描かれた白砂が格子状に広がり、白砂全体が市松模様に見えます。南側の一角に植込みと石組みからなる鶴島、亀島が配置されているが、それ以外は白砂だけで単調に見えます。しかし奥の池泉築山式庭園と一体としてみれば味わいがあります(参道の人の列が邪魔でが・・・)。

客殿の前には長椅子が並べられている。通天橋でもみくちゃにされた身体を休めるようにとの配慮からでしょうか。ここの椅子に座りペットボトルを傾けながら、眼前の白砂と、その奥の苔や松の緑を眺めているとホッと一息つけます。ここには紅葉のような華やかさはありませんが、安らぎをおぼえます。

 洗玉澗(せんぎょくかん)  



開山堂から、今度は廊下の眼前に広がる紅葉地帯に出てみる。ここは「洗玉澗(せんぎょくかん)」と呼ばれる渓谷になっている。
こうして通天橋を見上げるのも絵になります。それにしてもすごい人出です。この時期、関西だけでなく全国からやって来るという。外人さんも多いが、ここでも中国語が飛び交っていた。

谷底へ降りてみます。谷底に「三ノ橋川」が流れています。この三ノ橋川に架かる臥雲橋と通天橋との間が紅葉の名所なのです。下から見上げる紅葉越しの通天橋も素晴らしい景色です。真っ赤に染まった夕焼けに浮かび上がる通天橋といったところ。
三ノ橋川はやや干からび、せせらぎは聞こえない。水面にそそと流れる楓・・・なんて絵になるんでしょうが。
谷底から反対側の斜面を登っていくと、そこが拝観料範囲の出口になっている。通天橋→開山堂→洗玉澗→出口と周るのが有料コース。いったん出れば、再度拝観料を払わなければ入れない。



 方丈庭園「八相の庭」  


通天橋拝観受付の横の門を潜ると、広い境内となっている。正面に切妻造りの白い建物が見える。これが方丈の庫裡(台所)で、方丈庭園への受付となっている。方丈(住職の居所)は庫裡の左側、庫裡と屋根付き廊下で繋がっている。方丈、庫裡とも明治14年に焼失したが、現在の方丈は明治23年(1890)に再建、庫裡は明治43年(1910)に再建されたもの。
受付で拝観料400円支払い、靴を脱ぎ中へ入ります。京都では庭を「見学」するとは言わず「拝観」するというそうです。方丈を囲う東西南北に庭園が配置されている。昭和を代表する作庭家・重森三玲(1896-1975)によって昭和14年(1939)に作庭された枯山水式の庭園。重森三玲の初期の作品で、彼のデビュー作とも言える。
四方の庭によって、釈迦の生涯を八段階に分けた「八相成道(はっそうじょうどう)」を表現しているそうです。そこから方丈庭園を「八相の庭」とも呼ぶ。平成26年(2014)10月、国の名勝に指定されました。

これが南庭庭園。方丈の南側には広い縁が設けられ、眼前に展開する枯山水の南庭を寛いで鑑賞できるようになっている。
この南庭は何を表現しているか?。ジッーと見つめていても何も浮かんでこない。頂いたパンフレットに頼ることに。「古来中国大陸の蓬莱神仙思想では、東の大海の彼方に仙人が住む「蓬莱」「方丈」「瀛洲」「壷梁」と呼ばれる四仙島があり、島には仙薬財宝があると信じられた。広さ210坪の枯山水庭園である南庭は、この
四仙島を十八尺の長石を基本に巨石を剛健に配し、渦巻く砂紋によって「八海」を表す」と書かれています。突き立っている石、横たわっている石、丸い石、ぞれぞれ意味があるんですネ。難解です・・・。禅の修行を積まなければ理解できないのかも。
要するに、大海に浮かぶ四つの島なのだ。西の隅に配された築山は、京都五山を表現しているそうです。
なお、庭園奥の中央にある唐門は、昭憲皇太后(明治天皇皇后)より下賜されたもので、「恩賜門」とも呼ばれるそうです。
西庭から北庭へ曲がる角に、一段低くなった展望台が設けられている。「通天台」と呼ばれ、文字通り通天橋を裏から望む展望台です。通天橋はかなりの込み具合。談山神社や大原・三千院などの紅葉を鑑賞してきたので、それほど絶景だと感動しなかったが、異常な人出です。やはり交通の便の良さでしょうか。JRや京阪の駅から徒歩10分位というのは身近ですネ。
裏から眺めた通天橋の紅葉も冴えます。

方丈庭園には、七個の円柱の石で北斗七星を表現した東庭「北斗の庭」、市松模様を表現した西庭や北庭もあります。東、南、西、北と四面の庭園を鑑賞したが、枯山水庭園というのは難しい。感じるものなのか、思惟するものなのか?。かって龍安寺の有名な石庭を見た時も、困惑し何も得られなかった。それなりの素養と感性を必要とするのでしょうネ。私には苦手です。やはり築山式の池泉庭園のほうが良い。



詳しくはホームページ

2016年初詣 熊野街道で住吉大社へ (その 4)

2016年03月12日 | 街道歩き

2016年1月3日(日)、2016年初詣・初歩きは熊野街道(大阪市内)を歩いて住吉大社へ

 天王寺公園と阿倍野界隈  


四天王寺、堀越神社から阿倍野の繁華街はすぐ。JR天王寺駅、近鉄・阿部野橋駅、近鉄百貨店が入るアベノハルカスが集中する。その足元に大阪市の天王寺公園があります。公園周囲が私の日課のウォーキングコース。歩いていると、4時半過ぎ「公園内におられますお客様にお知らせいたします。当公園はまもなく閉園いたすますので・・・」とアナウンスが聞こえてくる。都心にありながら5時閉園。とりたてて見所も無いのに有料。桜シーズンの1週間を除いてほとんど利用する人はいなかった。都心の一等地に広い敷地を占め、大阪を代表する公園というのに、公園外の歩道を歩いている人のほうが多いという惨状だった。そうした状態が数十年間放置されてきたのです。役所の怠慢・無気力・無能でしかない。
ところがやっと無能に気づいたのか、指摘されたのか、民間活力の導入によって活性化させようと目覚めたのです。管理運営事業者に近鉄が選定され、昨年(2015)10月にリニューアルオープンした。
天王寺公園全体が、年中無休・入園無料となり、一歩市民に近づいてきた。さらに公園の半分ほどが芝生広場に改造された。愛称“てんしば”と呼ばれ、子供たちが飛んだり、走ったりしている。今のところ、成功しているよです。しかし収益がでるように見えないので、近鉄さんがその維持管理にどこまで粘れるかでしょうか。
昼12時、アベノハルカス前の交差点に架かる立体歩道橋からの眺め。ここからは「あべの筋」と呼ばれ、車の通行量の多い道に入ります。この道もかっての熊野街道とされている。現在は、大阪唯一の路面電車・阪堺電軌鉄道が、ゴットンゴットンとのどかに動いている。日本一の高層ビルと下町情緒が微妙なバランスで共存しています。チンチン電車はいつまでもつんでしょうか?

あべの歩道橋からあべの筋を南下、阪神高速の高架と交わる所が阿部野交差点。ここには道標「八軒家から6.0キロメートル」の石柱が建ち、「熊野かいどう」の説明版も置かれている。
さらにあべの筋を南下すると、繁華街から離れ下町風情が強くなる。チンチン電車がとってもよくマッチしてきます。

 松虫塚(まつむしづか)  


やがてあべの筋は阪堺電車「まつむし」駅へ。車とチンチン電車の混在した騒々しい下町です。この周辺は、町名も、通りの名も、駅名も「まつむし」となっている。
「まつむし」のいわれとなった松虫塚が近くにあるということなので訪ねてみる。樹齢800年とも云われる榎の大樹の傍らに、歩道を塞ぐように石柵で囲まれた塚がある。傍の説明版「松虫塚の伝説」を見ると、松虫(いまの鈴虫)の名所だったこの地には数々の物語が伝わっているようです。能「松虫」の題材にもなっている。

 安倍晴明神社と葛の葉(くずのは)伝説  


阿倍野筋の一筋西の南に延びる道に入り、しばらく行くと平安中期に活躍した、陰陽師安倍晴明の生誕地とされる安倍晴明神社がある。祭神はもちろん安倍晴明。境内には、「安倍晴明誕生地」の石碑、「安倍晴明公 産湯井の跡」や「鎮石(孕み石)」が置かれている。
安倍晴明はあまりに有名なので、他に生誕地説が全国に数箇所あります。奈良県桜井市にある安部氏一族の氏寺となる安部文殊院(安部寺)で出生したとするのが信憑性が高く、後世この地より安部一族が大阪阿倍野に移った経緯から、阿倍野に建立されたものであるというのが有力なようです。
白狐や逆立ちしている狐の像が目に付く。狐は、安倍晴明の母についての有名な「葛の葉(くずのは)伝説」からくるものです。「葛の葉伝説」は、現代でも『蘆屋道満大内鑑』(あしやどうまん おおうち かがみ、 通称「葛の葉」)として人形浄瑠璃文楽や歌舞伎、あるいは舞踊で広く演じられています。

約千年余りも前、摂津国阿倍野(大阪市阿倍野区)の里に住んでいた安倍保名(晴明の父)は、父の代に没落した家の再興を願い、信太森葛葉稲荷に日参していた。ある日稲荷の境内で、数人の狩人に追われていた一匹の傷ついた白狐を助けてやります。その時の争いで、保名は数箇所に手傷を負ってその場に倒れてしまった。狩人たちが立ち去った後、御神木楠ノ樹の下から1人の女(葛の葉)が走り出て保名を介抱して家まで送りとどけてくれました。葛の葉が保名を見舞っているうち、いつしか二人は恋仲となり、夫婦になり童子丸(後の安倍晴明)という子供をもうけるのでした。ところが葛の葉(母親)の正体が白狐であることを5歳の童子丸に見られてしまう。その夜、葛の葉はいよいよこの家を去る時だと決心し、我が子の寝顔を打ちまもり
「コレ童子丸、今この母が申すことをしかと聞き覚えよ、我はもと人間ならず、六年前 信太の森にて、父保名どのに助けられし狐ぞや。・・・・」
と打ち明ける。そしてせめて夫への形見に一筆書き残さんと傍らの障子に、口にくわえた筆で
「恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」
の一首を残して、白狐の姿と変じて信太の森へと帰ってゆくのでした。

 阿倍王子神社(あべおうじじんじゃ)  



安倍晴明神社から南へ50m位に阿倍王子神社がある。東側のあべの筋沿いにも鳥居が建つが、こちらの熊野街道側が正面になります。入口傍には「八軒家から7.1キロ」の道標が立つ。

境内にはいると参道両側に、柵で囲われた4本の楠の樹があり、このうち3本は神木とされている。それぞれの神木には、注連縄が張られ、神名が付けられているようです。こうした巨樹があるかどうかで、神社の雰囲気がガラッと変わってきますネ。

熊野街道九十九王子の一つで、地名から「阿倍王子(あべのおうじ)」と呼ばれ、熊野神社の分霊社である。熊野街道から入る参道中央に「安倍王子旧跡」と刻まれた石柱が立つ。八軒家浜の第一王子「窪津王子」から数えて五番目の王子だが、戦国時代の戦乱により途中の坂口、郡戸、上野の各王子が焼失し、安土桃山時代には二番目の王子となっていた。そのためか鳥居脇に「第二王子社」の石柱も建っています。大阪市内の熊野街道沿いには6つの王子社があったが、旧地に現存しているのはこの阿倍王子だけ。

 阪堺電車(チンチン電車)と宝泉寺(ほうせんじ)  


アベノハルカスから始まる阿倍野筋は、住吉大社までほぼ阪堺電車(チンチン電車)が併走している。そしてこの道筋はかっての熊野街道とほぼ同じです。
各地で邪魔者扱いされ廃止れることの多い路面電車ですが、大阪市内で唯一残る路面電車。南大阪の下町をゴトゴトガッタンと走っている、その路線名は「阪堺電車・上町線」。運営は「阪堺電気軌道株式会社(はんかいでんききどう)」だが、南海電気鉄道の完全な子会社。南大阪と堺市内をのどかに走っている。地元の人は「チン電」と呼んでいるそうです。運賃は全線210円均一。

地下鉄や私鉄の発達した現代、やはり路面電車は不利。特に堺市内は利用者が減り、廃止の動きまででた。そこでなんとか活性化させようとして考えられたのが新型車両。堺市と国の補助により導入され、2013年8月より運行開始された。愛称募集から「堺トラム」と名付けられた。「トラム」とは路面電車のこと。超低床式車両で、停留場の乗り場からの段差がほとんどない。車いすやベビーカーでも乗降しやすい仕様で、高齢者や障害者・妊婦等の交通弱者の外出支援、誰もが利用しやすい車両となっています。また、窓が大きいため、車内からの眺望が非常に優れている。庶民的な下町を走る路面電車らしくない新型車両です。

帝塚山4丁目の駅舎の東側裏筋に入り、電車通りから離れる。ここから住吉大社初詣の交通規制がなされ、車は入れません。しばらく行くと右側に「十三石仏」で有名な宝泉寺があります。正門の左側に小さな門を構えた小堂があり、覗くと丸彫りの十三石仏がお雛さんのように並んでいる。

不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・地蔵菩薩・弥勤菩薩・薬師如来・観世音菩薩・勢至菩薩・阿弥陀如来・阿門如来・大日如来・虚空蔵菩薩の十三仏で、仏さんの有名どころが勢ぞろいしています。やや窮屈そうですが。

 住吉大社(すみよしたいしゃ)  


やっと住吉大社に到着。外ののんびりした正月風景とはうって変わって、境内の中は大混雑。参道の両側には露店がひしめき、参拝者であふれかえっている。広い参道だが、その半分以上を露店が占めているので、人はその狭い隙間を往来させられている。露店が無ければ、もっとゆったりお参りできるのにと思う。神社も露天も持ちつ持たれつなので仕方ないのでしょうか。
まず、住吉大社の名物になっている反橋(太鼓橋)を渡ってお参りしようと、橋を目指すのですが、そこまで行くのが大変でした。

ようやくたどり着いた太鼓橋周辺は大混雑、なんとか横から割り込みました。
半円形の橋は半径20m、高さ3.6m、幅5.5m。思った以上に傾斜はきつく、下駄履きでは怖いでしょう。
この太鼓橋は、秀吉の側室、淀君が慶長年間(1596~1615)に寄進したもの。地上の人の国と天上の神の国とをつなぐ虹の掛け橋だそうです。夜は21時までライトアップされ、関西夜景100選にも選ばれています。
住吉大社の創建については、「日本書紀」は次のように伝えている。第十四代仲哀天皇の妃である神功皇后の新羅征討時に、筒男三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)の力により征討が成功し、また叛乱、海難を無事に切り抜け大和に帰還できたという。そこで神功皇后は、皇后摂政11年に三神をこの住吉の地に祀られた。筒男三神は「住吉三神」とも呼ばれる。
記紀の神話では、伊邪那岐命 (いざなぎのみこと) が身の穢れを清めるため海に入って禊祓いした時に筒男三神が生まれたという。だから海の神様で、国家鎮護・航海安全の守り神なのです。
その後、雄略天皇の時に神功皇后自身も祀られ、四祭神となった。

太鼓橋を渡り四角の柱の鳥居を潜ると、住吉さんの社殿が鎮座するメインエリアです。奥(東側)から第一本宮:底筒男命(そこつつのおのみこと)、第二本宮:中筒男命(なかつつのおのみこと)、第三本宮:表筒男命(うはつつのおのみこと)と縦一列に並んでいる。そして第三本宮の右横に神功皇后を祀る第四本宮が配置されている。
第一本宮前で参拝を、と思ったが大混雑で社殿前まで進めない。参拝を諦め混雑から脱出する。結局、住吉大社での初詣はかなわず、人波にもまれながら境内を歩いただけで帰ることに。

太鼓橋を渡り、四つの本宮をチョコと眺めただけの住吉さんでした。あとは人に押され、人波に流され出口へ出されました。やっと人波から解放されジャンパーの前を見ると、大判焼きのアンコがベットリと付いている。首からぶら下げていたカメラの液晶、ボタンなどにもベットリ。駅のトイレに駆け込みふき取りました。
やはり初詣は、近くの閑散とした大江神社(タイガース神社)に限るようです。

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