山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

佐保・佐紀路と平城宮跡 (その 2)

2015年07月18日 | 街道歩き

2015年5月3日(日)/8日(金)、佐保・佐紀路の古刹と平城京跡を訪れ、佐紀盾列古墳群の陵墓を廻る

 不退寺(ふたいじ、業平寺)  


”歩きたくない道”を西へ歩き、JR大和路線を渡ると国道24号に突き当たる。その手前を北側へ200mほど行けば不退寺です。鬱蒼とした雑木の覆われたトンネルのような小径の奥に山門が見える。この風景が不退寺で一番印象に残りました。
不退寺の入り口にあたるの四脚門の南門(重要文化財)をくぐる。正式名称は「金龍山 不退転法輪寺」。入山料400円払い、頂いたパンフレットの由緒書きを要約すれば以下のとおり。
平安遷都の後、平城京をなつかしむ平城天皇は弟の嵯峨天皇に譲位し、大同4年(809)都を離れ平城宮の北東の地に萱葺きの御殿を建て隠棲された。「萱(かや)の御所」と呼ばれたようです。平城上皇が亡くなると、第一皇子の阿保親王が、さらに阿保親王の子息・在原業平(825 - 880)が引き継ぎ住んだという。承和14年(847)在原業平は、仁明天皇の勅願を得てお寺とし、自ら刻んだ聖観音菩薩像を安置すると同時に父阿保親王の菩提を弔った。そして衆生済度の為に「法輪を転じて退かず」と発願し、「不退転法輪寺」と号したのがこのお寺の始まりだという。略して「不退寺」、あるいは「業平寺」とも呼ばれる。

その後、平重衡による南都焼討(養和元年、1181年)などで何度か焼失している。西大寺や興福寺の末寺としてかろうじて存続してきたが、江戸時代の慶長七年(1602)徳川幕府より寺領50石を得て、本堂、多宝塔、南大門、庫裏などが整備されてきた。

南門の先はすぐ本堂です。狭い境内に,せせこましく花木が配置されているので,よけい狭苦しいく感じる。他に誰もいないので,本堂に入ると住職さんらしきがテープレコーダのように早口で解説を始められる。それもダミ声,こういうのは女性の優しい声に限る。うるさいのでそそくさと出てしまった。

このお寺は「南都花の古寺」と自称されている。四季折々、レンギョウ、椿、カキツバタ、菊などが咲き乱れ、晩秋には紅葉、ナンテンなど、一年中花が途切れることなく咲いているという。多宝塔前の池に、浮かぶように咲く黄ショウブが印象的でした。紫色も混じっていたが、これはカキツバタだと住職さんが教えてくれた。
寺務所の横に「石棺」が置かれている。近くにあるウワナベ古墳南側の「平塚古墳」の船型割竹くり抜き石棺だそうです。五世紀のもので,縦長2.7m。
幕末に発掘され、付近の薮の傍らに放置されていた。近隣の農民が石棺を砥石の代わりにして鎌を研いだために、表面が窪んでいる。何でここに置かれるようになったのかは不明。平塚古墳は現在,JR関西線と国道24号線のため跡形もなく無くなっている。

 海龍王寺(かいりゅうおうじ)  


海龍王寺は法華寺の東北隅にくっつくように存在している。入口の表門は、車の通る県道104号線に面した東側向きに建っています。受付で頂いたパンフレットに詳細な「海龍王寺の縁起」が書かれているので、要約します。

平城宮の北東にあたるこの周辺には藤原不比等の大邸宅があった。養老4年(720年)不比等の死後、邸宅は娘の光明皇后が受け継ぎ皇后宮としていた。その邸の一角に、飛鳥時代から毘沙門天を祀った小さな寺院があった。天平3年(731)その寺院を、光明皇后の御願により新たな堂宇を建て伽藍を整えた。目的は、第八次遣唐使として唐に渡っていた僧・玄(げんぼう)が、仏教の経典を網羅した一切経・五千余巻と新しい仏法とを無事に我が国にもたらすこと、さらに平城宮の東北(鬼門)を護ることであった。
天平6年(734)10月、唐から帰国中の玄らが乗った船団は東シナ海で暴風雨に襲われる。狂瀾怒涛に漂いながら一心に経典「海龍王経」を唱えた玄の乗った船だけが、かろうじて種子島に漂着し、無事奈良の都に帰ることができた。そこから寺は「海龍王寺」と名付けられ、玄が初代住持に任ぜられた。また平城京の東北隅にあたることから、「隅寺・隅院」などとも呼ばれたそうです。(Wikipediaには「「隅寺」とは、皇后宮(藤原不比等邸跡)の東北の隅にあったことから付けられた名称と言われている。「平城宮の東北隅にあったため」と解説する資料が多いが、位置関係から見て妥当でない」と書かれているが・・・)
これ以降、海龍王寺において遣唐使の航海安全祈願を営むと同時に平城宮内道場の役割を果たすことにもなり、玄が唐より持ち帰った経典の書写(写経)も盛んに行われたという。

都が平安京に移ると海龍王寺も衰退していく。鎌倉時代に西大寺中興の祖・叡尊により一時復興するが、室町時代になり応仁の乱が起こると奈良も戦場となり大打撃を受けた。江戸時代になり徳川幕府から知行百石を受けるなどの保護を受けたが、明治の王政復古による廃仏毀釈の嵐に飲み込まれ、東金堂や多数の什器を失うという大きな打撃を受け荒廃にまかされた。境内や堂宇の修理や整備が進められたのは戦後になってから。
写真右の本堂には、鎌倉時代に造立された本尊の十一面観音菩薩立像(重要文化財)が安置されている。
光明皇后が自ら刻まれた十一面観音像をもとに、鎌倉時代に慶派の仏師により造立されたもの。黒ずんだ仏像が多いなか、秘仏として戦後まで非公開だったためか保存状態がよく、金箔の輝き・華やかな文様・端整できりりとした顔立ちが印象に残った。「イケ仏」ここにあり・・・。写真左が西金堂(さいこんどう、重要文化財)。

住職の石川重元さんがブログをたちあげ「海龍王寺というお寺の住職です。 平成元年に種智院大学を卒業後、仁和寺の密教学院にて修行いたしました。 イラストレーターのみうらじゅんさんから「イケ住」の称号をいただきましたので、称号に恥じぬよう精進いたします。 仏教を、面白く、わかりやすく伝えたいです」とプロフィールされている。住職さんだけではない、本尊の十一面観音菩薩立像も「イケ仏」ですヨ
西金堂内中央に、高さ4mの五重小塔(国宝)が安置されている。扉が開けられ、間近で鑑賞できます。天平時代の建築様式を現代に伝える貴重な建物だそうです。この塔の初重には扉や壁がない珍しいもの。何のために造られたかは不明だそうです。

 法華寺(ほっけじ)  


法華寺の縁起略をパンフレットから要約します。
養老4年(720年)藤原不比等の死後、その大邸宅は娘の光明子(聖武天皇の妃・光明皇后、民間出身の皇后の第一号)が受け継ぎ皇后宮となっていた。聖武天皇発願による日本総国分寺であった東大寺に対し、法華寺は光明皇后発願による日本総国分尼寺として天平17年(745年)皇后宮に建立された。詳しくは「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」といった。大和三門跡に数えられる。光明皇后ゆかりの門跡尼寺として知られる(門跡寺院とは、皇族、貴族の子女などが住職となる格式の高い寺院の称)。
当時は七堂伽藍を備えて隆盛を極めていたが、平安遷都とともに次第に衰え、平安時代末期にはかなり荒廃していたという。その後も兵火や地震などで被害を受けかっての面影は無くなった。桃山時代の慶長6~7年(1601-2年)頃に、豊臣秀頼と母の淀君が片桐且元を建築奉行として復興したのが、本堂、鐘楼、南大門などの現在の伽藍。しかしこの再建された現在の法華寺は、創建当時の規模の三分の一程度に縮小している。
南大門(重要文化財)は、現在閉ざされ通り抜けできないが、法華寺の正門に当たる。切妻造・本瓦葺の四脚門で、本堂と同時に慶長6年(1601)豊臣秀頼、淀君により再建されたもの。左右の築地塀は格式ある門跡寺院であることを示す「筋塀」で、右横には「総国分尼寺 法華滅罪之寺」と書かれた「石標」が建てられている。門の正面には本堂が佇む。
現在の通用門は、南大門の東側にある「赤門」(「東門」とも)です。「不許酒肉五辛入門内」と刻まれた石標が建つ。さっき訪れた尼寺「興福院」にも同じ石標が建てられていたので尼僧寺院に共通するものでしょうか。

本堂(重要文化財)は寄棟造、本瓦葺き。正面7間、側面4間。かっての講堂跡に、桃山時代の慶長7年(1601年)豊臣秀頼と淀殿の寄進で再建された。
本堂の厨子内に安置されている本尊:十一面観音像(国宝)は、カヤの一木造で平安時代彫刻を代表する作品の1つ。「天竺(インド)の仏師・問答師が光明皇后の姿を模してつくった」という伝承をもつ。胸が膨らみ腰を捻る女性らしいお姿をぜひ拝観したかったが、秘仏で見られない。春と秋の特別開扉の期間でしか拝観できないのです。
塀をはさみ本堂の西側に名勝庭園(国史跡)があります。この名勝庭園の中には特別公開日しか入れないが、訪れた日はたまたま公開日だった。江戸時代初期に京都御所から客殿とともに移築された、池を中央に配した回遊式庭園。世にこれを「仙洞うつし」という。「有名な(かきつばた)や松、石なども京都御所より移されたもので四季折々の美しい庭を眺めることができます」という。あちこちの庭園を見慣れたせいか、それほど感動をおぼえなかった。
法華寺には「華楽園」というお花の庭園もあります。こちらは所狭しと花が植えられ、庭園というよりは、花園、植物園といった感じ。5月初旬ですが、藤の花以外にそれほど目だった花はなかった。この時期、花よりは新緑のほうが冴えます。
赤門を入ると正面に「から風呂」(国指定重要有形民俗文化財)と呼ばれる白壁の建物が建っている。これは奈良時代、聖武天皇の妃・光明皇后によって、難病者たちを入浴させるための福祉施設として創設されたもの。千人目の入浴者は「見るに堪えられない病状の患者で、その病人の願いで患部の膿を吸うために朱色の可憐な唇を患部に当てた瞬間、病人は大光明を放ち姿が見えなくなりましたが、実は阿?(あしゅく)如来の化身だった」という伝説が残されている。

風呂といっても「蒸気」での蒸し風呂で、現在のサウナのようなもの。床下の釜で湯を沸かし、すのこの板床の間から上がってくる蒸気を浴室に充満させるしくみ。熱い蒸気が下からお尻に当るので、火傷しないようにお尻に布を敷いた。これが「風呂敷」の語源だそうです。
現存の建物は江戸時代中期に再建されたもの。その後傷みが激しいので、解体修理が進められ2003年9月に作業が完了した。そのため、現在目にする建物は新しく感じる。内部は見れない。特別公開日ってあるんでしょうか?、年間行事予定には入っていないのだが。

 佐紀神社(さきじんじゃ)と隆光大僧正の墓所  



平城宮の裏に佐紀池がある。丁度、大極殿の裏手です。
ここから眺めていると、奈良の時代にタイムスリップしたような気になる(車は走っていますが・・・)。


佐紀池の北側にも道を挟んで、同じような大きさの御前池がある。一見、溜池風ですが、地図をみると佐紀池・御前池と連なったように平城宮内にも幾つか池が並んでいる。かって平城宮と関係あったんでしょうか?。
この御前池を挟んでの西側に佐紀神社と釣殿神社が、東側にも佐紀神社が存在しています。
東西の佐紀神社は、大きさも同じくらい。何故、約100mほどしか離れていない同じような地域に、同名で祭神も同じくする神社が二つも鎮座しているんでしょうか?。詳しいことはよく判っていないようだが、東側の元社から氏神を西側に分祀したのではないかと推測されている。
釣殿神社も境内の御由緒書きには「鎮祀起源については不詳であるが、御前池の東側亀畑の地に鎮座する佐紀神社から分離鎮祀されたものであると推定される」とあります。東の佐紀神社から分離鎮祀され、同じような場所に(西)佐紀神社と釣殿神社が存在する。複雑な村落共同体事情があったんでしょうネ。
(東)佐紀神社と道を挟んだ南側に市立佐紀幼稚園がある。その裏手に「隆光大僧正の墓所」あるというが、さてどうやって裏へ廻るか。勝手に幼稚園に入り込むわけにはいかない。ウロウロと歩いていると、幼稚園東端の草むらに踏み跡が見える。踏み跡をたどると裏へ廻っており、小さな半円状の土盛りがありました。

隆光(りゅうこう)大僧正は慶安2(1649)年ここ佐紀(大和国超昇寺郷、現在の奈良市二条町)で生まれた。万治元年(1658)仏門に入り、長谷寺・唐招提寺で修学した後、江戸へ出る。5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の寵愛を受け、綱吉の護持僧となり、あの「生類憐みの令」を進言する。その後ろだてを背景に大和の社寺の復興にも寄与した。東大寺大仏殿再建や法隆寺、長谷寺、室生寺などといった奈良の主だった寺院の復興、再建に大きな力となった。それが幕府の財政悪化をもたらすなど悪評高いが、地元の大和では大恩人。しかし宝永六年(1709)将軍綱吉が急死すると、江戸から追放され、かって再興に尽力した通法寺(河内の太子町にある源氏の菩提寺)の住職に左遷される。晩年は生れ故郷のここ佐紀村に帰り超昇寺で隠棲、享保9年(1724)に没している。
超昇寺は今の佐紀幼稚園周辺にあったようだが、明治の廃仏毀釈により廃寺になり消滅し跡形もない。「いま、その故地に市立佐紀幼稚園の建設開園されるにあたり、奈良市および有縁の者相謀り、墓域を整備し、以てその遺徳を顕彰せんとするものである。 昭和五十三年十一月吉日」の板が立つ。大和の大恩人にしては、目立たないやや寂しい墓所です。
隆光大僧正の墓は他にもある。通法寺跡近く、河内源氏の祖である源頼信の墓の傍のブドウ畑の中に。そして出家得度した唐招提寺西方院に、再興に尽力した室生寺にも。しかしこれらは分骨墓で、ここ佐紀が本墓です。

隆光大僧正の墓所あたりで眺めた平城宮大極殿。大極殿の真裏になる。黒緑の方形跡は「大膳職(だいぜんしき)」の跡。平城宮の給食センターでした。

 秋篠寺(あきしのでら)  


秋篠寺は近鉄・大和西大寺駅の北西に位置し、駅から歩いて20分位、タクシーは770円と表示されていた。私は平城宮から駅前を通り徒歩でやって来たが、住宅地ばかりで安らぎをおぼえるような所は一ヶ所もなかった。タクシーが最善かも。
深い森の入口に、秋篠寺の南門が見えてきた。秋篠寺には、現在ではバス停が近いこともあって東門から入る人が多いそうだが、秋篠寺の正門は南門です。東門と比べても、その風格が違う。
南門の手前左側に赤い鳥居が建ち、石柱「八所御霊神社」が立っている。冤罪などで非業の死を遂げた崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原広嗣、橘逸勢、吉備大臣らの「怨霊」を鎮めるための御霊神社です。
南門左側の塀伝いに青葉に覆われ薄暗い小径を進めば、陶芸家の今西方哉(いまにしまさや)氏の「秋篠窯」です。敷地内で取れる秋篠の土を使って焼き物を焼いておられるとのことですが、入口は塞がれ、煙突からも煙は見えませんでした。

南門を潜ると境内です。境内といっても、お寺でよく見かけるお堂や塔、草花が見られるわけではない。雑木に覆われた薄暗い雑然とした空間が広がっているだけ。その中に一本の小径が通っている。天皇家と縁深いお寺といえ、明治の廃仏毀釈によって惨めな姿に成り果ててしまったようです。受付で頂いたパンフに「明治初年廃仏毀釈の嵐は十指に余る諸院諸坊とともに寺域の大半を奪い、自然のままに繁る樹林の中に千古の歴史を秘めて佇む現在の姿を呈するに至っています」と嘆いておられる。
南門から小径に入ったすぐ右横に「東塔の礎石跡」が残されている。反対側には西塔跡もあるようですが、柵で立ち入ることができません。この辺りは殺風景は空き地風が広がっているだけです。

小径を奥へ進んでいくにしたがい空気が変わってくる。雑然とした空き地が、しだいしだいに新鮮度を増し緑が深くなっていく。整然とした間隔で茂る樹木、その足元には緑の絨毯・苔が。秋篠寺の魅力の一つ「金堂跡の苔庭」です。
唐招提寺の鑑真和上御廟前の苔庭や、京都・大原三千院を見ているせいか、それほど感動は受けなかったが・・・。もう少し湿っているか露で光っていたら、また違った印象を受けたと思います。

苔庭脇の受付で拝観料(500円)を払い生垣の中へ入ります。本当の境内はここからなのでしょう。手入れが行き届いた狭い敷地に数棟の堂宇が見られるだけ。知名度に比べ、簡素でもの静かな情景に、肩透かしをくらったような、それでいてホッと安らぎを覚えるような気分にさせてくれる。奈良でも有数の人気のお寺なのだが、私以外に中年のご夫婦一組をみかけただけでした。観光客で賑わう京都のお寺とは一味違った趣を感じさせてくれる。忙しく足しげく見て廻る、といった京都に比べ、奈良のお寺は”浸る”ことができます。

秋篠寺は、地元の豪族秋篠氏の氏寺だったともいわれているが、創建の正確な時期や事情はわかっていない。寺伝によれば、宝亀七年(776)に平城京最後の天皇・第49代光仁天皇の勅願により、法相宗の僧・善珠によって薬師如来を本尊とする寺として造営されたのが始まりとされます。奈良に建てられた最後の官寺、秋篠宮家の名の由来ともなった寺でもあります。
創建当時は金堂、講堂、東西両塔をもつ大寺院だったようですが、保延元年(1135)戦火のため伽藍の大部分を焼失してしまう。鎌倉時代以降、現本堂の改修など少しずつ復興されてきたようですが、明治の廃仏毀釈によってわずかの堂宇が残されるのみになってしまったという。
本堂(国宝)は、保延元年(1135)の兵火で伽藍のほとんどを焼失した際、焼け残った講堂を大改修し本堂としたもの。内部は床を張らずに土間になっており、薄暗い中に仏像が居並ぶ。檀上中央に本尊の薬師如来坐像(重文)と脇侍の日光・月光両菩薩の立像、その両側を十二神将が守る。
一番左側に位置するのが、秋篠寺で一番有名な伎芸天立像(ぎげいてんりゅうぞう、重文)。パンフによれば「大自在天の髪際から化生せられた天女で、衆生の吉祥と芸能を主宰し諸技諸芸の祈願を納受したまう」と書かれている。諸技諸芸の神さまなので多くの芸術家や芸能人から慕われ、また天女さんなので、腰を少しひねり優しい眼差しをしておられるので、人気があるのも当然なような気がする。堀辰雄が、その女性的で優雅な身のこなしを「東洋のミューズ」と賛美したという。日本で現存している唯一の伎芸天像。天平時代に乾漆造で作られたが、その後の火災で頭部だけ残された。鎌倉時代に木彫りの寄木造りで体部を補なったものだそうです。

受付の外へ出て、出口の東門に向かう途中に香水閣(こうすいかく)がある。平安時代の初め、僧常暁(じょうぎょう)が当時の閼伽井(あかみず、香水井)の水面に映る大元帥明王像を感得したという伝えがある。
大元帥明王(たいげんみょうおう)とは、国土を護り敵や悪霊の降伏に絶大な功徳を発揮すると言われる明王さんです。
毎年正月七日に宮中行事で大元帥修法が行われ、この香水閣の井戸から汲み上げられた霊水が平安京禁裏まで運ばれたという。この儀式は東京遷都の前年の明治4年まで連綿と続けられたそうです。
普段は門が閉じられているが、毎年6月6日の大元帥明王像の御開帳に合わせて公開される。その時には、泉から柄杓で霊水をすくい、参拝者に振舞われるそうだ。


詳しくはホームページ