山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

「葛城古道」北から南へ (その 4)

2014年11月21日 | 街道歩き

 葛城の道・歴史文化館へ  




14:40分、蜘蛛塚を探して林の中に入っていくが見つけられない。諦め、次の高鴨神社へ向かう。下りの坂道となり階段が続く。これは高天彦神社への参拝道だったのでしょうか。20分ほど下れば出口が見えてきました。

高天原のある高台から降りてきました。それでもヤマトの地が美しく見下ろせる。車道に出て、高鴨神社のある森を目指します。

高鴨神社のすぐ手前に「葛城の道・歴史文化館」があります。好天の日曜日なのに、私以外誰も見かけない。開店休日?の様です。
施設の半分は食堂,休憩室で、奥に葛城の道を紹介する展示室がある。床一面に空中写真が敷き詰めてあり、これが唯一の見ものか。財団法人日本宝くじ協会の助成により、財団法人日本ナショナルトラストが建設したヘリテイジセンターとか。もちろんトイレもあり。

入館無料 /開館時間 午前9時から午後4時 /閉館日 毎週月・金曜日/電話 0745-66-1159

 高鴨神社(たかがもじんじゃ)  


歴史文化館の脇に立つ一の鳥居(朱塗)を入ると、厳粛な参道です。右に社務所、左に池を見て進むと二の鳥居です。鳥居をくぐり石段を登ると、境内正面に拝殿(三間社入母屋造瓦葺)、その背後の石垣の上、透塀にに囲まれた神域内に本殿が、それぞれ南面して鎮座する。本殿(国の重要文化財に指定)は三間社流造り・檜皮葺(ひわだぶき)。室町時代の天文12年(1543年)の再建という。主祭神として味耜高彦根神(阿治須岐詫彦根神,あじすきたかひこねのかみ)が祀られている。大己貴命(大国主命)の子で迦毛大御神とも称される。
高鴨神社の由緒について公式HPには
「この地は大和の名門の豪族である鴨の一族の発祥の地で本社はその鴨族が守護神としていつきまつった社の一つであります。
弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめました。また東持田の地に移った一派も葛木御歳神社を中心に、同じく水稲耕作に入りました。そのため一般に本社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになりましたが、ともに鴨一族の神社であります。このほか鴨の一族はひろく全国に分布し、その地で鴨族の神を祀りました。賀茂(加茂・賀毛)を郡名にするものが安芸・播磨・美濃・三河・佐渡の国にみられ、郷村名にいたっては数十におよびます。中でも京都の賀茂大社は有名ですが、本社はそれら賀茂社の総社にあたります」とある。
参道の左手は氷室池。鯉ならぬ「鴨」が泳いでいるというが見つけられなかった。池上に張り出した舞台が設えられている。観月演奏会,雅楽奉納,コンサートなどが行われているようです。
参道を挟んだ反対側には社務所があり、その横に空鉢の並んだひな壇がある。ここに4月中旬頃~5月上旬頃,咲き誇った日本サクラ草が並べられ公開される。
由緒ある古社だが,それ以上にここが有名なのは日本桜草の名所であること。ここの宮司さんは全国屈指の日本さくら草の栽培者で,明治末期より父子三代に亘って蒐集栽培されてきたそうです。現存している桜草の品種のほとんど、約500種類をここで保存、育成されている。

 風の森峠と志那都彦神社(しなつひこ)  


高鴨神社から終着地・風の森峠を目指す。ゆるやかな下り坂を進むと,周辺はのどかな広々とした田園地帯。田の一角に標識「風の森 志那都彦神社」が建てられている。背後の葛城山・金剛山の吹き降ろし風から田を守っているように見受けられる。


小さな森と集落の中へ入っていくが,標識も無くどっちへ行ったらいいのか途方にくれる。あっちへ行ったり引き返したり,尋ねようにも人影が見えない。ようやく,庭先で農作業されている農婦の方に出会い,風の森バス停を教えてもらった。バス停の近くにあるという「風の森神社」を探しながら歩いたが,いつにまにか風の森バス停に出てしまった。また引き返し,さっきの農婦の方に尋ねると,すぐ近くだった。

この神社を自分だけで探し当てるのは大変だと思う。風の森バス停から風の森神社までの道順です。
バス停から西側に入っていく緩やかな坂道を200mばかり進む。民家が現れた辺りに最初の右に入る道がある。そこを入ると50m位で右手にお寺の石垣が見え,その真ん中あたりに小さな階段がある。階段を登ると正面にみすぼらしいお寺がある。お寺の左を見れば・・・ここまで来ればもう迷うこともない。

薄暗い雑木林の奥に,小さな祠が薄気味悪い雰囲気を漂わせ鎮座しておられる。「風の森」という銘柄の清酒が御供えされている。風の森神社といっているが,正式には「志那都彦神社(しなつひこ)」という。古事記・日本書紀の中で風の神として記されている「志那都比古神(しなつひこのかみ)」が祀られている。
「風の森峠」とはこの周辺をさすのだろうか。地図を見れば,この地は南から大和盆地への入り口に当たる。ヤマトへ進入する南風を防いでくれる神様ということでしょう。

境内看板には、
「本社は、御所市大字鴨神、旧高野街道・風の森峠の頂上に位置しています。御祭神は、志那都比古神をおまつりしています。志那都比古神は、風の神であり、古事記、日本書紀には、風の神に因んだ事柄が記載されています。又、葛城地方は、日本の水稲栽培の発祥の地ともいわれており、風の神は、五穀のみのりを、風水害から護る農業神としてまつられています。日本では、古くから、風の神に対する信仰があり、毎年旧六月には、各地で薙鎌を立てて、豊作を祈る風祭が行われています。」とあります。

御所市から五条市へ通じる国道24号線がはしっている。かっては京、大和方面から高野山へ向かう参詣道「高野街道」で,さらに紀伊地方とを結ぶ道でもあった。峠の近くに風の森バス停があり,葛城古道の終点,もしくは出発点ともなっている。

志那都彦神社を出てバス停へ。まだ四時なので船宿寺まで足を伸ばそうかと思いガイド本を開いているとブレーキ音がした。1時間に1本しかやって来ない定期バスがドンピシャのタイミングで止まってくれたのです。もう乗るしかありません。近鉄・御所駅へ。

       ~「葛城古道」北から南へ ~(完)

詳しくはホームページ

「葛城古道」北から南へ (その 3)

2014年11月17日 | 街道歩き

 極楽寺へ  


長柄の町並みを通りすぎ、右を眺めると葛城山・金剛山がはっきり見えてくる。よくみると葛城山・金剛山を背にした大空に数台のハンググライダーが舞っているではないか。葛城山の山頂?山腹のどこかにハンググライダーの基地があるようで、そこから大空を飛行し、手前の平地に着地しているようだ。役行者のように大空を舞い、空からヤマトを見下ろしてみたいものです。

次の目的地・極楽寺を目指します。春日神社、高木神社、住吉神社の傍を通り、緩やかな坂道を金剛山の方向に登ってゆく。後ろを振り向くと、巻向山、音羽山、竜門岳などを背にヤマトの地が広がる。右端は高取山だろうか?。古道としては「山の辺の道」に劣るが、展望という点では遮るものが少ない葛城古道のほうがはるかに優ります。周りは柿園だ。まだ小さく青い柿の実だが、ハイカーが簡単にもぎ取れそうな位置にある。渋柿でしょうか?。やがて県道30号線(御所香芝線)に突き当たる。

県道を10分ほど歩くと右手高台に鐘楼が見えてくる。坂道を登ると鐘楼の下を潜り境内に入るようになっている。鐘楼が山門になっているのは珍しく、初めての体験です。浄土宗知恩院派のお寺で,正式には「仏頭山法眼院極楽寺」という。
寺伝によれば,天暦5年(951)興福寺の名僧一和(いちわ)が創建した寺と伝えられている。心静かに修行修学できる地を探していた一和上人は,金剛山の東麓に、毎夜光を放つものを見た。不思議に思った上人がその場所を探し訪ねると,そこから仏頭(弥陀仏の頭)が見つかった。これこそ有縁の地と考へられ 「仏頭山」と呼び見つかった仏頭を本尊として草庵を結び、法眼院と名付けたという(御所市観光協会HPより)。

境内は広くないが綺麗に手入れされ、ベンチやトイレも設けられ一服するのにちょうど良い。高台にあるので見晴らしも良いはずですが、塀でよく見えなかった。探せばどっかあったでしょうネ。

 橋本院から高天原  


極楽寺からもとの県道30号線(御所香芝線)に戻り、南へ少し進むと右へ入る入口がある。「橋本院 →」の標識があるのですぐ判ります。山側へ向い登って行くと、山中に入る手前にイノシシ避けの柵が設けられている。ここからが葛城古道で最大の難所です。見晴らしのきいたのどかな遊歩道は一変し、険しい山道に突入します。杉木立に囲まれた薄暗い山道が階段状に続く。といってもこの山道は20分ほどでしょうか。

山道から平坦な道になると前方が開け,橋本院が見えてきた。庭園風の境内の中に入る。庭園というより、雑然とし何やらいろいろ植えられている農家の裏庭といった感じです。中央に池があるが,これもため池に見えてしまう。「瞑想の庭」と書かれた立て札がある。見て楽しむより,目を閉じ瞑想した方がよさそうな庭園です。時期が悪かったのか目に付く花は見られなかった。
手元のガイド本では,葛城古道のコースはこの橋本院の境内を通り抜けなければならないようになっている。その割には訪れる人も少ないようで,静かな境内です。その分手入れもゆき届いていないように見受けられる。一抹の侘しさを感じる一風変わったお寺さんです。歴史は古く、養老年間(715年~724)に元正天皇の勅により僧行基が開いた「高天寺」(たかまでら)というお寺が、金剛山中腹の高台にある高天原といわれる神話の地に創建された。その後、戦乱で焼き払われ、なんとか一院だけ焼け残る。 こうして残った一院が池の橋の横にあったことから「橋本院」と呼ばれるようになったという。
橋本院の山門を出ると開けた田園が広がる。ここが「高天原」と呼ばれる神話の舞台です。

日本神話では,皇祖神天照大神が治め神々が住む所を「高天原」という。ここから瓊々杵尊(ににぎのみこと)が日向の高千穂の峰に降臨したとされています。
金剛山を昔は「高天山(たかまやま)」と呼んでいた。その中腹の原に神々が集った「高天原」があったということでしょう。
「葛城王朝説」を唱える鳥越憲三氏は
「遠く葛城族が住む背後の山が、ならぶ二上山や葛城山よりも高くそびえているのを見て、その山を高天山(タカマヤマ)と名づけた。そして、その中腹のひろい台地に神々が集い、そこで神遊びが行われると感じたのは、当時の思考ではあたりまえのことであった。そして、その神々のいます広い台地を高天原と呼んだのであった」(「神々と天皇の間」(1970))と書かれている。

「高天原」の所在地については古来より諸説あるようです。wikipediaが取り上げているものだけでも以下のごとく。
・葛城山中腹のこの地 - 奈良県御所市高天
・後ろに高千穂峰がそびえる宮崎県高原町(たかはるちょう)
・宮崎県高千穂町(たかちほ)
・阿蘇・蘇陽 - 熊本県山都町
・蒜山(ひるぜん) - 岡山県真庭市
・生犬穴(おいぬあな) - 群馬県上野村
・常陸国多賀郡(茨城県)-新井白石説
・長崎県壱岐市
・氷ノ山(ひょうのせん)西麓 - 鳥取県八頭郡若桜町舂米(つくよね)
・霊石山・伊勢ヶ平 - 鳥取県八頭郡八頭町
・和歌山県の高野山
・海外だが中国南部説もあるそうです。

橋本院本堂の瓦屋根が見え、「史跡高天原」の石柱の前に広がる景色は、どこの田舎にでも見られる田園風景です。天照大神をはじめ神々が集った地とは想像すらできない。石柱の横には駐車場が設けられ,その奥に綺麗なトイレが見える。ここまで来たら,記念に”神々のふるさと高天原で用をたす”のも悪くない。

天上の国が地上にあるのも不思議な気がするが・・・・。神話とはそういうものでしょう。
ところで「たかあまはら、たかあまのはら、たかのあまはら、たかまのはら、たかまがはら」どれが正解でしょうか?。

 高天彦神社(たかまひこじんじゃ)  


高天原からは平坦な道が続き,やがて集落の中に入っていく。橋本院から10分ほど歩けば高天彦神社です。
葛城王朝を築いた葛城一族の祖神・高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)を祀る神社です。「白雲峯」(694m)と呼ばれる背後の美しい円錐形の山をご神体とするため本殿は無い。現在,社務所もなく宮司さんもおられず,高鴨神社のご神職が管理なされているそうです。だから高天彦神社のお守りや御札などは高鴨神社で授かる。

高天彦神社一の鳥居の外側に,鬱蒼と茂った杉の巨木に挟まれた狭い参道が50mほど続く。その参道の入り口近くに「鶯宿梅(おうしゅくばい)」といわれる梅の古木があります。
奈良時代に、高天寺で修行をしていた小僧が若くして亡くなり その師が嘆き悲しんでいると、梅の木に鶯がきてホーホケキョではなく、 「初春のあした毎にはくれども あはでぞかえるもとのすみかに」 と鳴いたという伝説があるそうです。

鶯宿梅からさらに進むと「蜘蛛窟」があるという。それらしき方向に歩くが,いっこうに見つからない。どっかで入り口を見落としたのだろう。諦めて次の目的地・高鴨神社を目指す。後でネットで調べると,葛城古道で最も見つけられないのが高天彦神社の「蜘蛛窟」だという。納得しました。

詳しくはホームページ

「葛城古道」北から南へ (その 2)

2014年11月12日 | 街道歩き

 葛城坐一言主神社(かつらぎにいますひとことぬし)  


九品寺から次の綏靖天皇高丘宮跡を目指したが、どこでどう道を間違えたのか県道30号線(別名を御所香芝線)に出てしまった。車の往来を眺めながら、俺はどっちへいったらよいんだ?、と狼狽。葛城の道は迷い道です。近くで作業中の農婦の方にお尋ねする。車道を歩き、ロータリーから県道30号線の下をくぐるトンネルを出ると、石鳥居のある細い参道と一般道が並列している。この鳥居は「二の鳥居」で、「一の鳥居」はズッーと東の長柄の集落にありました。

参道正面の50段の石段を登ると、狭苦しい境内に拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥に本殿(一間社流造・銅板葺)が鎮座する。祭神は一言主大神と大泊瀬幼武尊(わかたける、雄略天皇)とが合祀され、全国各地の一言主大神を御祭神とする神社の総本社となっている。一言主神は、地元で「一言(いちごん)さん」「いちごんじんさん」として親しみをこめて呼ばれ、願い事を一言だけ叶えてくれる神様として有名です。そのせいか葛城古道の中でもここが一番の人出でした。しかし一言主神の出自や実体は謎に包まれているようです。

「一言」の云われとなった神と雄略天皇の出会いの場を、記紀によりアレンジ再現すると
・・~・・~・・~・・~・・~・・~
雄略天皇がお供を従えて葛城山で狩をしている時、天皇らと全く同じ姿格好をした一行(神)と出会った。
天皇「この国には自分をおいて王はないのに、同じ格好をしたお前は何者だ!」
神「この国の王は私だ、同じ姿のお前こそ何者だ!」
天皇「無礼者!、矢を撃つぞ!」
神「「そちこそ無礼者!、矢を撃つぞ!」
天皇「それではお互いに名乗り合おう、まずそちから」
神「吾は悪事(マガコト)も一言、善事(ヨゴト)も一言で言い放つ神、葛城の一言主の大なり」

この後が記紀で若干ニュアンスが異なる。
古事記では、それを聞いた天皇は弓矢を捨て「恐れおおいことだ、大さまとは気づかなかった」と申して、自分の太刀や弓矢を始めお供の衣服をも脱がせて一言主神に献上し、拝礼された。一言主は悦んで献上品を受け、天皇が帰るときは、泊瀬の山の入口まで見送られた。
日本書紀(雄略紀)では、二人は共に狩を楽しみ、日が暮れて狩が終わると、神は天皇を久目川(現曽我川)まで送って行ったという事です。
天皇家の正史・日本書紀の立場として、天皇が葛城の神にひれ伏すことなどできなかったのでしょう。事実、この周辺を本拠とした葛城氏は雄略天皇によって滅ぼされている。
さらに後世になれば、一言主神は惨めな神として扱われている。『続日本紀』(平安時代初期の797年に編纂された)や『釈日本紀』(鎌倉末期の書紀註釈書、13世紀末頃)によれば、「一言主神が雄略天皇と獲物を競いあい、天皇の怒りに触れ、一言主神は土佐国に流刑された」と記紀とは異なる内容となっている。そして天平法宇8年(764)、葛城氏の末裔・高賀茂朝臣田守らが、由緒ある一言主神を戻してほしいと願いで、その後許されて葛城の高宮付近に祀られたという。それが現在の一言主神社です。高知市には流刑された「一言主神」を祀る土佐神社が現在も存在しているそうです。

さらに『今昔物語』には、役行者が一言主神を呪によって縛り上げ、谷の底に置くという逸話がある。流刑されたり、縛りつけられた神様など聞いたこともない。謎に包まれた哀れな神様のようですが、私も両手を合わせ、一言だけお願いしました。もちろん、一言分のお賽銭で・・・。

一言願掛けとともにこの神社を有名にしているのが、拝殿前の大銀杏の御神木。「乳銀杏(ちちいちょう)」と呼ばれている。幹周:4m、樹高:25m、樹齢1200年と言われる古木で、県の保護樹木に指定されている(平成9年7月18日指定)
樹の前にある説明板には「幹の途中から乳房のようなものがたくさん出ており、「乳イチョウ」「宿り木」と呼ばれている。この木に祈願すると子供を授かりお乳がよく出ると伝えられており古くから親しまれてきた」と書かれている。見上げると大木の樹皮がめくれ、お乳のようなものがたくさん垂れ下がっている。これは樹皮のコルク質が発達し表面が柔らかくなって出来たもので、銀杏の古木に見られるという。
この大銀杏に手を合わせ、さらに一言主神様に「お乳がたくさん出ますように!」とお願いすれば、絶対間違いなし、ですネ。

この神社には土蜘蛛伝説による蜘蛛塚が残されている。
『日本書紀(神武紀)』に「高尾張邑(たかおわりむら)に土蜘蛛がいた。その人態は、身丈が低く、手足が長く、侏儒(シュジュ、小人の意)に似ていた。磐余彦尊(いわれひこ、後の神武天皇)の軍は葛(かづら)の網を作り、覆い捕らえ、これを殺した。そこで邑の名を変えて葛城邑(かつらぎむら)とした」と書かれている。
これは神武東征のおり、葛城山裾を平定した時のお話。「葛城」の名称の始まりでもある。日本最初の正史とされる天皇家の歴史書は、皇軍に反抗した在地土着の民たちを、「土隠(つちごもり)」する獣の如く”土蜘蛛”と蔑称し、後世に残した。天孫降臨族が地の国の先住民を獣を押し潰すごとく制圧していく英雄創として描く。その後、この土蜘蛛の話は陸奥、越後、常陸、摂津、豊後、肥前など各地の風土記にもでてくるそうです。
その後「土蜘蛛」は都(朝廷)を脅かす「怨霊」や「妖怪」とみなされ、神楽・能・歌舞伎・狂言・謡曲など古典芸能の題材となり現在まで語り継がれている。
神楽の口上で、土蜘蛛は「大和の国は葛城山に住む土蜘蛛である」と謡われ、歌舞伎の「土蜘」では「汝知らずや、我れ昔、葛城山に年を経し、土蜘の精魂なり。此の日の本に天照らす、伊勢の神風吹かざらば、我が眷族の蜘蛛群がり、六十余州へ巣を張りて、疾くに魔界となさんもの」と語る。こうした演目が語り継がれているのは、”わが恨みを忘れるな!”という地の声か、それとも妖怪退治でカタルシスを得ている支配族の自己満足か。征服者・天皇族は後世になっても虐殺・略奪していった民の亡霊に悩まされてきたのでしょう。

神武天皇は土蜘蛛を捕え、彼らの怨念が復活しないように頭、胴、足の三部分に切断し別々に埋めたという。ここ一言主神社境内には、それを供養するためか三カ所に土蜘蛛塚が残されている。胴の部分は拝殿右脇に、頭は本殿の下に、足は参道入口の鳥居脇に置かれている。

 綏靖天皇高丘宮跡(すいぜいてんのうたかおかのみや)  


一言主神社入口の階段右横に山側に入っていく道があり、そこからハイカーが下ってくる。どうやらこの道が九品寺から綏靖天皇高丘宮跡伝承地を経て一言主神社へ続く「歴史の道・葛城古道」らしい。私は入口を見失い、高丘宮跡を経ずに別の道を通って一言主神社へたどり着いてしまった。
せっかくだから、逆コースながら綏靖天皇高丘宮跡へ行ってみることにした。人家の散在する坂道を通り過ぎると平坦な道となり視界が開け、田畑が広がる。所々に杉林の茂みが見える。ガイド本によると高丘宮跡は杉林の中だと書かれている。農道のような畦道のような道を不安を抱きながら進むと、前方の杉林の一角に石碑が見えてきました。

「日本書紀」によれば、初代神武天皇の第三子だった神渟名川耳命(かむぬなかわみみのみこと)は、神武崩御後、異母兄の反乱を鎮圧し、ここ葛城高丘宮で第二代「綏靖」天皇として即位したという。しかし現代の歴史学では、「欠史八代」などと呼ばれて、二代綏靖天皇から八代開化天皇までの実在性が疑問視されている。
それよりもここ「高丘宮」の地は、仁徳天皇の后となった磐之媛(いわのひめ)の望郷の歌で有名です。
「あおによし 奈良を過ぎ 小楯 大和を過ぎ  我が見が欲し国は 葛城高宮吾家のあたり」
この辺りは葛城氏の根拠地でもあった。磐之媛は、葛城氏の実質的な祖・葛城襲津彦(そつびこ)の娘。16代仁徳天皇の皇后となり、17代履中天皇、18代反正天皇、19代允恭天皇の母でもある。気性の激しい女性だったようで、夫・仁徳帝の浮気を許さなかったようだ。仁徳帝が磐之媛の留守中に別の皇女を妃にしたので、これに怒り宮に帰らず山城の筒城に篭ってしまったという。この時、生まれ故郷の「葛城高宮」あたりを懐かしんで詠んだ歌なのでしょうか?。

石碑から少し先へ行ってみました。イノシシ避けの柵が設けられていた。「イノシシはヤマトに入るな!」ということでしょう。この畦道が本来「葛城古道」で、この道を通って高丘宮跡に入ってくる予定っだったのですが・・・。真っ直ぐ伸びる畦道の先に”ヤマトの国”が広がっている。磐之媛もこの風景を眺めながら育ったのでしょうか。

 長柄神社(ながらじんじゃ)  


11:30 一言主神社に戻り、参道からトンネルをくぐり東へ長柄の集落を目指して歩く。500mほど行くと集落内に大きな鳥居が現れる。これが一言主神社の「一の鳥居」で、神社前にあったのは「二の鳥居」。この一の鳥居から一言主神社の参道になるのでしょうか?。
鳥居をくぐると突き当たりになるので右に曲がって進むと、長柄の民家が並ぶ。長柄神社の案内板に「長柄」の名称の由来として次のように書かれている。「長柄の地名は、長江(ながえ)が長柄(ながえ)になり、音読して長柄(ながら)になった。長江はゆるやかく長い葛城山の尾根(丘陵)を意味し、ナガラは急斜面の扇状地に残った古語であるともいわれる」。ところが何故か現在の地名は「名柄(ながら)」と書く。天理市の長柄町と混同されるので、「名柄」にしたという説もあるが、歴史ある名称なのに残念です。

長柄の街中をさらに南に進むと、左角に古く由緒ありそうな鐘楼と白壁が印象的な「浄土宗・龍正寺」が建つ四つ辻に出る。今歩いてきた南北の道が「長柄街道(旧高野街道)」で、かって京都・奈良の人々が吉野川沿いに五條を通り高野山へお参りする道でした。東西に交わる道が、かっての「水越街道」。河内から大和葛城山と金剛山の間の水越峠を越えて大和に下りて来る街道です。現在は国道309号線となり、水越トンネルが開通している。こうした交通の要衝に発達したのが長柄の街で、その中心にあるのが長柄神社。龍正寺の角を左に曲がると、すぐ長柄神社です。


ケヤキの巨樹に覆われた長柄神社境内はそれほど広くない。日本書紀には、天武天皇が境内で流鏑馬(やぶさめ)をご覧になったと記されているが、当時は馬が疾走できるほど広かったのでしょうか?。
現在の境内には、一服できるベンチが置かれ、子供の遊び場なのかブランコが垂れ下がっている。かって天皇が行楽された場所が、今は庶民の憩いの場になっており、親しみを感じさせてくれる神社です。

拝殿奥に鎮座する本殿は、一間社春日造・檜皮葺・丹塗り、創建年代は不明。奈良県の重要文化財に指定されている。祭神は下照姫命(したてるひめのみこと)。地元では「姫の宮」と呼んでいる。出雲大社に祀られている「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の娘にあたる神様です。また高鴨神社の神様「阿治須岐高日子根命(あじすきたかねひこのみこと)」の妹でもある。安産の神様のようです。

筆でガッポリ稼がれたのか、神社入口に「堺屋太一 建之(池口小太郎)」の新しく立派な石灯籠が。実家の池口家はすぐ近くです。

 長柄の旧家  




長柄の集落に入って最初に目にするのが、かっての大庄屋「末吉家」住宅。母屋は江戸中期に建てられたもの。どっしりと落ち着いた古風な佇まいの家構え。それ以上に屋敷内の巨木(ケヤキかクスノキ?)に歴史を感じさせられる。現在、家人は裏に新宅を建て、住んでおられるそうです。





長柄神社のある辻から、さらに数軒南に進むと江戸中期の建物「本池口家」がある。ここはあの元国務大臣で著作家の堺屋太一さんの実家でもある。堺屋さんの本名は「池口小太郎」。Wikipediaには「大阪市生まれ。本籍地は奈良県」とあるので、もしかしたら父の実家なのかも?。近くには同様に古い作りの「池口家」もありました。



本池口家の南隣が「中村家住宅(国重文)」。表札もかかっていない。これだろうかと自信なかったので、通りがかりの方に尋ねると「コレですヨ」とおっしゃる。

江戸時代初期の慶長年間(1596~1615)に建てられた長柄を代表する旧家。御所市内で最も古い建物で、中世の吐田(はんだ)の城主吐田越前守の子孫にあたる中村正勝が建てたと推定されています。中村家は長柄で代々郡山藩の代官を務めた家柄なので、代官屋敷のような造りになっている。
白壁と黒褐色の格子戸・板の色合いのバランスが美しい。昭和47年8月から同49年8月まで、奈良県教育委員会により改体修理が行なわれたようで、そのせいか他の旧家と比べて新しく感じた。現在でも個人の私有なので、内部は非公開となっている。しかし奈良県を代表する旧家で、国の重要文化財・観光スポットにもなっているので案内板くらいは置いて欲しいものです・・・。

中村家住宅と道を挟んだ南隣が「葛城酒造」で有名な「久保家」。元々は、大宇陀町で元禄年間(168~1704)から酒造りをされていた老舗だが、明治20年にここに分家された造り酒屋さん。この辺りは葛城山からの良質の伏流水があるため大和でも有数の地酒の産地という。家の軒先には、酒造業のシンボルともいえる杉玉がぶら下げられています。代表銘柄は「百楽門」で、ネットで注文できます。


詳しくはホームページ