山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

二つの継体天皇陵 2

2021年12月01日 | 古墳を訪ねて

★2021年10月24日(日曜日)二つの継体天皇陵(太田茶臼山古墳、今城塚古墳)を見た後は、その二つの古墳に埴輪を供出していた新池埴輪製作遺跡を訪ねます。さらに中臣(藤原)鎌足の墓とされる阿武山古墳、卑弥呼の鏡とされる三角縁神獣鏡が出土した安満宮山(あまみややま)古墳を訪ねる。

 新池(しんいけ)埴輪製作遺跡  


太田茶臼山古墳と今城塚古墳の埴輪を製造していた埴輪遺跡を訪れました。場所は名神高速道路を越えた北側で、太田茶臼山古墳と今城塚古墳を底辺にした三角形の頂点にあたる所で、三島野古墳群の中心部に位置します。
現在、国指定の史跡(1991年)となり高槻市によって「史跡新池ハニワ工場公園」として整備され、公開されています。今城塚古代歴史館が運営・管理している。

古代の埴輪遺跡とタワーマンションの奇妙な組み合わせです。昭和63年(1988)ごろ、この一帯を阪急不動産が買取り開発することのなったので、高槻市立埋蔵文化財調査センターにより発掘調査が行われた。その結果、新池の東斜面から十数基の埴輪窯、工房跡、井戸などが見つかったのです。日本で見つかったなかでは最古で最大級の埴輪製作跡で、しかも天皇陵の埴輪を焼いていたことが分かっているのはここだけ。

右から復元された1号窯(よう)、2号窯と3号窯。この1~3号窯は、斜面を溝状に掘り込み、ワラを混ぜた土で天井をかけた半地下式の構造をしている。
ここでの埴輪造りは、5世紀中頃に太田茶臼山古墳の埴輪を製造するために始まり、約百年間続けられた。最盛期は6世紀初めごろで、今城塚古墳のために多くの窯が造成され、数万本の埴輪が今城塚古墳に供出されたという。6世紀後半ごろから大きな古墳が築造されなくなったため、埴輪造りも終息します。

(今城塚古代歴史館掲示の図より)半地下式の1~3号窯の仕組み。「埴輪の窯詰めや窯出し、燃料の薪の投入は全て焚口からおこなわれました。煙突効果で燃料の薪を勢いよく燃やし、高温でムラなく、しかも計画的に埴輪を焼くことができました」と説明されている。

埴輪窯は全部で18基が確認されており、4~17号窯は同じ場所にサツキやツツジの植え込みで表現されています。これらは半地下式でなく、斜面をトンネル状に掘り抜いた地下式となっていたそうです。上方に見える土管のようなものは18号窯が展示されているハニワ工場館。

18号窯の場所は「ハニワ工場館」という展示館になっている。
開館時間:午前10時~午後5時、入館無料、休館日<12/29~1/3>

ハニワ工場館内部には、発掘されたままの状態で18号窯の実物が保存展示されている。実際は穴を掘り抜いたトンネル式だが、床面だけが見やすいように展示されている。館内では解説ビデオも上映されていた。

窯が築かれていた斜面を上がった平地には、埴輪の成形が行われていた三基の工房(作業場)跡があり、近くには14棟の工人の竪穴住居も見つかっている。
右から1号工房、2号工房は復元され、左端の窪地は3号工房の跡地。地面を掘り下げた土間で、工人たちが粘土をこねている姿が浮かんできます。土間では粘土入れも見つかっている。

奥に見えるマンションの屋根は、復元された工房の屋根に似せてデザインされたそうです。少しでも古代にマッチさせ、違和感をなくそうとする努力がうかがえますが・・・それでも違和感が。

斜面下に遊歩道が設けられ、左側に新池が広がる。遊歩道脇には埴輪のレプリカが並び、マンガで埴輪やその作り方が楽しく紹介されています。ちなみに高槻市のマスコットキャラクターは「はにたん」といい、武人の埴輪からきている。
ここは粘土の臭いも、薪焚きの煙も浮かんでこない。埴輪をモチーフにした現代風の公園となっています。埴輪遺跡ほうが、周辺のマンション群にマッチさせようと努力しているようにみえます。

新池埴輪製作遺跡の南側、名神高速道路沿いにこんもりと茂った小さな森が見える。「番山古墳」という標識が建っている。南側から東側にかけてかなり大きな溜め池があり、墳丘は深い竹藪でおおわれています。円墳に見えるが実際は帆立貝式前方後円墳だったようです。埴輪など出土品から5世紀中頃の築造とされる。
この周辺は古墳造営や埴輪製作にかかわった人々が居住し、多くの古墳や遺跡が存在していたが、名神高速道の工事や宅地造成、水田などによってほとんどが破壊され消滅してしまった。惨めな姿ながらこうして残された番山古墳は幸せな古墳です。

 阿武山古墳(あぶやまこふん)  


新池ハニワ工場公園から阿武山古墳(あぶやまこふん)をめざします。阿武山は高槻市北方の丘陵地帯にあり、市街地からはかなり離れている。道順をネットで探すがなかなか見つからない。やっと高槻市の「高槻市インターネット歴史館」で見つけました。これはバスを利用することを前提にしているが、山沿いの道が地図で詳しく載っている。これを利用することにし、まず「奈佐原消防署」を探し、そこからは地図に従い山沿いの道を歩きます。


1時間近くかけ新阿武山病院、希望の杜などを左右に見ながら住宅地を抜けると、道は閉ざされた門で行き止まる。「阿武山古墳約900m」の標識が立っているが、今日は何らかの事情で入山できないのでしょうか?。困惑していると、ハイカー姿の3人連れオバサンがやってきた。尋ねると、「門の脇に板が敷いてあるでしょう。そこから入っていけるのよ。私たちも通ります」と教えてくれた。門があり紛らわしいが、この道は地元の人々にとって阿武山へのハイキングコースになっているようです。途中で何人かのハイカーに出会いました。

幅広く、緩やかな坂道なので、オバサン、オジサンには最適な散歩、ハイキングコースとなっている。車道なのだが、車に全く出会わない。しかしよく考えたら今日は日曜日、地震観測所がお休みだからなのかもしれない。だからあの門も閉まっていたのだ。
「京都大学」の標識があるので、大学の所有地なのだろうか?。

休憩所を兼ねた展望所が設けられ、高槻市内が一望できます。観測所の人のためではないし、阿武山古墳を訪ねる人のためだとしたらえらく親切だなア、と思った。しかしこれもよく考えたらそんなことはないし、散歩、ハイキングする高槻市民のためなのだ。

200mほど進むとまた休憩所兼展望所が現れた。今度は茨木市内から大阪方面まで展望できます。中央に見える森は太田茶臼山古墳のようです。そこからここまで歩いてきたのです。今日は、これから同じくらい歩かなければならない。

この展望所から大阪市内が見える。梅田のビル群が、そしてアベノハルカスも見えている。よく晴れている日には大阪城まで見えますよ、とハイカーの人が教えてくれた。



ようやく地震観測所の建物が見えてきた。観測所というからちっぽけな建物を想像していたが、デッカイ建物です。さすが京都大学だ。それにしては地震研究の成果はあまりでてないような気がするが・・・。地震予知ってそれだけ難しいのだナ。
施設入り口の手前に「←阿武山古墳」の標識が立つ。

休憩用の小さな広場があり、阿武山古墳へは右奥の茂みへ入っていく。「阿武山古墳150m」とあり、もうすぐのようだ。

この山道は阿武山山頂へ続くハイキングコースで、時々ハイカーに出会う。右の石畳の先が阿武山古墳です。ここまで新池ハニワ工場公園から1時間半ほどかかりました。

昭和9年(1934)、京都大学阿武山地震観測所の施設拡張工事において、土を掘り下げていて瓦や巨石につきあたったことから偶然に発見された。京都大学や大阪府により学術調査が始まったが、かなり凝った造りの棺や豪華な副葬品などから、被葬者は皇室に関係する人物かもしれないとし、これ以上の調査は冒涜であるとの意見が出てきた。被葬者の尊厳を守るため内務省によって憲兵隊が動員され、研究者らの立ち入りを禁止し、4ヶ月後には棺と遣体は元通りに埋めもどされてしまった。
しかし当時から古文所の記録などから藤原鎌足説が有力だった。

上の図(現地説明版より)で判るように、幅2.5mの浅い溝(周溝)を周囲にめぐらせ、直径約82mの範囲を墓域として区切っている。その中央に一辺18mの墓室領域がある。全体として円墳といっていいのではないでしょうか。築造時期は、出土した土器から見て7世紀前半ごろと考えられており、飛鳥時代としては数少ない貴重な墓として国史跡に指定された(昭和58年8月30日指定)。

阿武山(標高281.1m)の中腹に位置しているので、高槻市を見下ろす景観を期待していたが、見えるのは地震観測所の大きな建物と高い搭だけだった。

一辺18mの方形の墓室領域は鎖柵で囲われ、内部は盛土がなく高い樹木が墓室を取り囲むように生えているだけ。一見しただけでは、墓だと認識できません。正面に「墓室」と書かれた標識が置かれ、花が供えられていました。周囲はコンクリート畳の遊歩道が設けられ、ベンチも置かれ散歩がてらに休憩するのに良い環境になっている。




(写真と図は今城塚古代歴史館掲示より)
中央の木立の下約3mに、花崗岩の切石と部厚い素焼きのタイルで墓室を造り、墓室内部は漆喰で厚く塗り固められていた。上を瓦で覆い、地表と同じ高さになるように埋め戻されていた。墓室は幅1.4m、奥行き2.6m、高さ1.2mで、南側には扉があり、その外に墓道、排水口が設けられていた。
墓室中央には高さ25cmの棺台があり、その上に漆で麻布を何枚も貼り固めて作られ外を黒漆・内部を赤漆で塗られた夾紵棺(きょうちょかん)が安置されていた。日本で初めて発見された夾紵棺です。棺の中には、南枕仰臥伸展葬の状態でミイラ化した男性の人骨が、毛髪、衣装も残存したままほぼ完全に残っていた。60歳代と思われ、身長は推定約164.6cmで、当時としては長身に属する。

玉枕と冠帽の復元品(今城塚古代歴史館より)
鏡や剣、玉などは副葬されていなかったが、錦の衣服をまとい冠帽をかぶり、玉枕をして、胸から顔面、頭にかけて金の糸がたくさん散らばっていた。玉枕は、紺色と緑色の大小約600個のガラス玉を1本の銀線で連ね、錦で包んであった。

(現地説明版の写真より)昭和9年の発見時、出土品の一部と遺骨などを京大の研究者たちが密かにエックス線撮影していた。これらは行方不明になっていたが、昭和57年(1982)にエックス線フィルムや写真が地震観測所から見つかった。フィルムを画像解析した結果、昭和9年の発掘当時でははっきりしなかった事実が、次々と明らかになってきた。発見当初から被葬者は藤原鎌足ではないか、という見方もあった。それは「多武峯略記」(1197年、多武峯・談山神社の記録)に、「鎌足は最初は摂津国安威に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」と記されているからです。これを裏付ける事実が出てきたのです。

胸から顔面、頭にかけてたくさん散らばっていた金の糸が冠の刺繍糸だったことが判明し、この冠が当時の最高冠位を示す「大織冠」にあたるとされた。当時は官位によって冠の色や形が決まっており、鎌足は天智天皇から最高冠位「大織冠」を賜っていた。またX線写真などの分析から、被葬者は亡くなる数ヵ月前に腰椎などを骨折する大けがをしていたことも判明。これは鎌足が落馬によって死亡したとされる説と一致するのです。
こうしたことから被葬者は、「大化の改新」(645年)の立役者の一人であり、藤原氏繁栄の基礎を築いた中臣(藤原)鎌足(614~669)だと、断定的に報じられた。ただし鎌足は669年に死亡しているので、現地説明版は「しかし高位の冠はほかに検証例がなく、墓域から出土した土器から古墳の年代は7世紀前半とかんがえられることなど、被葬者の特定はなお今後の研究に委ねられている」と結んでいる。

 昼神車塚古墳(ひるがみくるまづかこふん)  



阿武山古墳の次は、高槻市東方にある高槻市営公園墓地を目指す。かなりの距離です。山を降り、西国街道を東へ東へ歩きJR高槻駅北側に着く。そこから北へ200mほど歩けば上宮天満宮が鎮座する天神山に突き当たる。右の道を見ればトンネルが見えます。このトンネルの上にあるのが「昼神車塚古墳(ひるがみくるまづかこふん)」。



トンネル上です。右側に墳丘が見え、厳重な柵で囲まれている。現地説明版を要約すると、天神山は「ひるがみ山」ともいい、車塚は前方後円墳の俗称です。この古墳は天神山丘陵の南端にあり、この一帯の豊かな平野を支配した首長の墓です。現在も上宮天満宮の神域としてまもられている。1958年府道建設により削減されそうになったが、住民の要望によって下をトンネルが通ることになった。

6世紀中頃築造と推定され、全長60m、前方部の幅40m、後円部の径35mの北向きの前方後円墳。前方部は後円部よりやや高くつくられ、新しい特徴をそなえている。古墳は天神山の裾部分に盛り土して造られ、三段のテラスから成り立っている。

「上段のテラスには人頭大の河原石を敷き、中断のテラスには埴輪を2列にならべていた。それらはあたかも古墳を守るかのように巫女が立ち、また牙をむき出したイヌたちが、たてがみをふりたてるイノシシを追いつめ、そして、角笛を吹いている猟師の姿などに古代の狩りの情景をうかがうことができる」(現地説明版より)
現在、前方部は復元・整備され、テラスになっている場所に埴輪の複製品が置かれています。

(今城塚古代歴史館掲示の写真より)北側の前方部むき出しになっている。トンネルを造る前の写真だと思われます。
古墳時代後期、この昼神車塚を最後に、三島から前方後円墳は姿を消し、ほどなく大王墓も方墳や八角形墳に移行していく。

 安満宮山(あまみややま)古墳  



昼神車塚古墳から東へ東へと歩き、高槻市北東の安満山山麓にある高槻市営墓地を目指します。1時間近くかけやっと市営墓地の入り口に着きました。この辺りは名神高速道路と一般車道が複雑に入り組み、大変ややこしい場所です。
この安満山山麓は、高槻市公園墓地の造成に先立ち昭和44年(1969)に行われた古墳群の調査により、4世紀後半から7世紀にかけての古墳が40基余り確認され「安満山古墳群」と呼ばれている。ただ多くは公園墓地の造成によって破壊、埋没されてしまったようです。道路や住宅にされるよりマシかな。被葬者はこの地の有力者と考えられている。

入り口付近に安満宮山古墳の説明版があり、1.0kmの標識が立つ。写真の赤●を歩く。空中写真を見れば近道があるように見えるが、間違った所に入り込むと、真っ暗な墓場の中を朝までさ迷い歩くことになるので、それは避けたい。

ここは高槻市の広大な公園墓地です。広すぎるので、歩いて墓参する人はいないでしょう。車道が整備されているのだが、この車道が曲がりくねって登ったり下ったりの坂道となっています。
4時をまわり、そろそろ暮れてくる時刻です。車も通らなければ、誰一人見かけない。薄暗くなった墓地内を一人で歩くのは気持ち良いものではありません。今日は朝から歩きとおしで疲れていることもあり、途中で何度か断念し引き返そうかと思いました。

墓地公園入口から30分かけ、ようやく安満宮山(あまみややま)古墳が見えてきた。入口によく目立つ赤柱が立ち、一見、展望台のようです。
ここは安満山の南西斜面の中腹、標高125mの場所です。平成9年(1997)、墓地の造成工事に先立って事前調査をしたところ、長大な木棺を納めた古墳が発見され、「安満宮山(あまみややま)古墳」と命名された。卑弥呼の鏡・三角縁神獣鏡が出てきたので大騒ぎになったそうです。

発掘調査終了後に、復元整備の工事が行われ、平成10年(1998)12月に一般公開された。入口を入ると円筒形の解説板が設置され、出土した五枚の鏡のレプリカが配置されている。背後には「青龍三年の丘」と刻まれています。
高槻市を一望できる丘でビニールハウス栽培?、なんとも異様な光景です。


墓坑は全体がカマボコ形のガラスで覆われ保護されている。墓坑内部はガラス越しに、あるいは端から直接覗いて見ることができる。銅鏡など出土品のレプリカが発掘時と同じ状態に置かれています。

古墳は全体として東西18m、南北21mの長方形墳で、260年頃(古墳時代前期初頭)の築造とされる。

(写真は円筒形解説板より)墓坑は長さ7.5m、幅3.5m、深さ0.4m。その中央に木棺埋納坑(長さ5.5m、幅1.3m、深さ1.2m)が掘られ、その周囲に排水溝をめぐらしている。木棺埋納坑の底は、水銀朱で一面あかく染まっており、そこにコウヤマキの割竹形木棺が置かれていた。
遺体は東枕に葬られており、副葬品として頭側に銅鏡5枚とガラス小玉(直径3~4mm)1000個以上が、足元側に鉄刀(全長68cm)1点、ヤリガンナ・刀子各1点、板状鉄斧・ノミ・鎌各1点などの鉄製品がひとまとめにして置かれていた。これらの副葬品は一括して国の重要文化財に指定されている(平成12年(2000)6月)。
1号鏡が三角縁神獣鏡
2号鏡が「青龍三年」銘の方格規矩四神鏡
3号鏡が三角縁(点・王・日・月・・吉)獣文帯四神四獣鏡神獣鏡

(ケース入り鏡は今城塚古代歴史館展示、「青龍三年」は円筒形解説板より)青龍三年(235年)は中国・魏の年号であり、「青龍三年」銘の「方格規矩四神鏡」や三角縁神獣鏡(さんかくぶち-しんじゅうきょう)が注目された。
今城塚古代歴史館にあったパンフには「魏志倭人伝には、景初三年(239)6月倭国の外交使節団が邪馬台国を出発、12月に魏の都・洛陽に到着。魏は倭国女王・卑弥呼に対し「親魏倭王」の印綬とともに銅鏡百枚などを与えたと記されています。1,2,5号鏡の3面はその一部と考えられている。ここに眠る人物は、眼下に広がる安満遺跡を拠点とするこの地方の王で、使節団の有力な一員として活躍し、これらの貴重な鏡を女王・卑弥呼から直接、授けられたのでしょう」と書かれています。
厳重にケースで保護されているのでこれは本物でしょうネ。

ふもとには弥生時代の環濠集落として知られる史跡安満遺跡(写真左端の空地)、その南側には淀川と大阪平野が広がっています。中央のビル群にJR高槻駅、阪急高槻駅がある。ここは古墳という古臭い臭いもなく、休息するのに良い所だ。ただし散歩やジョギング、ハイキングで来る所ではない。車で墓参のおりにチョッと休憩という場所です。

今日は、3世紀卑弥呼の時代の安満宮山古墳、5世紀の太田茶臼山古墳、6世紀の今城塚古墳・昼神車塚古墳、7世紀の阿武山古墳と見てきました。薄暗くなってきたので速足で墓場を脱出します。帰りは市バスで阪急高槻駅へ


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二つの継体天皇陵 1

2021年11月16日 | 古墳を訪ねて

★2021年10月24日(日曜日)
夏も終わり、涼しい季節がやってきた。緊急事態も解除され、どっかへ出かけたくなりました。
昨年に続き今年の盆も帰省できなかった。数年前に無くなった両親の墓前にも手を合わせられませんでした。田舎は、私たちが想像している以上に都会からの流入者に敏感なようです。実家の墓参りの代わりに、近場のお墓へお参りすることにした。、大阪府内には、現在の皇室の直接の祖先と云われる継体天皇のお墓があります(茨木市、高槻市)。私の親戚筋ではないのですが、ひょっとしたら継体天皇百世の孫にあたるかもしれない・・・なんて想像しながら出かけることにした。
ところで継体天皇のお墓が二つあるのです。一つは宮内庁指定の太田茶臼山古墳(茨木市)、もう一つは学者のほとんどが推す今城塚古墳(高槻市)。継体天皇自体が謎の多い天皇さんですが、お墓も多くの問題を孕んでいます。両方訪ねてみます。継体天皇陵のある茨木市、高槻市北方の山裾辺りは「三島野古墳群」と呼ばれ、多くの古墳が残っている。時間があれば幾つか訪れてみたい。

 太田茶臼山古墳(おおたちゃうすやまこふん)(茨木市)  


宮内庁が継体天皇陵だとする太田茶臼山古墳はJR総持寺駅(茨木市)の北約1キロの所にある。「NTTデーターセンター」という横にとてつもなくデッカイ建物が現れる。そこの角を右手の筋に入る。この東西に延びる筋は、どこにでも見られる住宅街にある普通の道路に見えるが、「西国街道」と呼ばれる由緒ある歴史の道です。京都から西国(下関、九州)へ至る重要な幹線道路だった。豊臣秀吉、明智光秀などが駆け抜け、江戸時代には参勤交代に使われ、街道沿いには多くの旅籠が設けられ賑わったという。

西国街道に接して継体天皇陵の正面拝所への入り口が見えます。江戸時代に松下見林、本居宣長、蒲生君平などが、ここが継体天皇の陵墓だ、と主張したことから、明治政府もそれを踏襲し「継体天皇三嶋藍野陵」(みしまのあいののみささぎ)に治定し、現在まで続いている。
参道は少し湾曲しているが、両側に松が植えられ、白砂利が敷き詰められ、天皇陵の風格を漂わせています。

「日本書紀」に継体天皇の出自と即位事情がやや詳しく記述されている。その内容の大筋は以下のとおり。


近江国高島郡三尾(現在の滋賀県高島市近辺)の彦主人王(ひこうしのおおきみ)は、大変美人であると評判だった越前国三国の坂中井の振姫(ふるひめ)を妻とし迎え子を儲けた。その子が後の継体天皇で、「男大迹」(をほど)と呼ばれた(古事記では「袁本杼」)。
男大迹が幼い時に父が死去してしまったので母の振姫は「親族のいない国では育てることはできない」といって、自分の故郷である越前国高向(たかむく、現福井県坂井市丸岡町高椋)に連れ帰り、そこで育てられ、「男大迹王」として5世紀末の越前地方を統治していた。男大迹王は父系から「応神天皇5世の孫」、母の振姫は「垂仁天皇の七世の孫」だという。

大和政権では、武烈8年(506)に武烈天皇が崩御する。跡継ぎがいなかったため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人ら有力豪族らが協議し、越前国三国(古事記では近江)にいた応神天皇から5代目の子孫にあたる男大迹王を皇位継承者として迎えることにした。男大迹王は最初は躊躇したが、説得に応じて即位を決意、507年河内国交野郡の樟葉宮(くずはのみや:大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地)に入った。これが第26代継体天皇(けいたいてんのう、在位:507-531)で、時に58歳だった。さらに同年、大伴金村の進言により、仁賢天皇の皇女で武烈天皇の同母姉である手白香皇女(たしらかのひめみこ)を正妻にする。継体は即位以前に稚子媛(三尾)、目子媛(尾張連出、安閑天皇・宣化天皇の母)などを妻としていたが、手白香皇女が王妃的な地位に就く(後の皇后にあたる)。

その後、宮を筒城宮(511年、つつきのみや:現在の京都府京田辺市)、弟国宮(518年、おとくにのみや、現在の京都府長岡京市)を経て526年にようやく大和の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現材の奈良県桜井市池之内)に遷った。この記録が事実とすると、即位20年後に大和に入り、その5年後には崩御している。



上述の日本書紀の記述に対して、戦後天皇制のタブーが解かれると、いろいろな立場から解釈されるようになった。
一番過激なのは新王朝論です。継体天皇は近江、越前辺りを基盤とする一地方豪族にすぎず、力によって王権を奪取し、古来の天皇とは血統のつながらない新王朝をつくった。仁賢天皇の娘・手白香皇女を正妃にすることで「手白香命と合せて、天下を授け奉りき」(古事記)とあるように入り婿的な王位継承によって今までの皇統との継続性を保とうとした。「応神天皇5世の孫」というのは、神武天皇から始まる万世一系という考え方に基づく「日本書紀」編纂の時に作為されたものだ、と考える。この新王朝論に基づけば、現在まで続く皇室の始祖は継体天皇ということになります。

「応神天皇5世の孫」だったとし、前王権からの血統の継続性を認める考え方もある。左の血統図は今城塚古代歴史館に掲示されていたもので、応神天皇から継体天皇にいたる5世の系譜が具体的に示されています。日本書紀、古事記では応神から継体に至る中間の系譜は全く記されていない。ところが「釈日本紀」(しゃくにほんき、鎌倉時代末期に卜部兼方によって書かれた「日本書紀」の注釈書)の中で、「上宮記曰く、一に云ふ~」の形で左図のような系譜が引用されているのです。「上宮記」そのものは散逸し残っておらず、またいつ誰が書いたものかなど分かっていないが、文体の分析によって日本書紀より古い遺文である可能性が指摘されいます。しかしこの「上宮記」の内容の信憑性や実際の血統についても意見が分かれています。

中間的な説もあります。「応神天皇5世の孫」はともかく、近江、越前、尾張、美濃、摂津などの地方に勢力をもっていた旧大王家の血筋につながる傍系の王族だった。大和政権の内部事情によって、大伴氏、物部氏などの大和政権中枢の諸豪族たちは継体を迎え入れることによって大和政権の勢力拡大をはかった、と考えるのです。武力による王位簒奪のようなものではなく、大和政権側からの吸収による擁立だった、とするのです。即位から大和の磐余玉穂宮に入るまで20年近くかかっていることから、大和の豪族の中には反対する勢力もあったようです(葛城氏?)。決め手となるような史料はなく、「謎の継体天皇」と云われるほど、その出自、系譜、即位などには今なお不明な点が多い。

継体天皇が大和の磐余玉穂宮に入った翌年(継体21年、527年)、「磐井の乱」が起こる。筑紫の豪族磐井は五世紀半ば以降九州北部・中部に勢力圏を形成し、大和政権に反発する動きをみせていた。継体天皇は大和に入り政権基盤を確立すると、物部氏、大伴氏の軍を九州に派遣し、磐井征伐を実行に移した。この鎮圧に成功したことによって継体政権はより一層強固になり、地方への支配権を強めていった。

磐井の乱を制圧した数年後、継体天皇は病にかかり崩御する。。
「日本書紀」は「二十五年の春二月に、天皇、病甚(おも)し。丁未に、天皇、磐余玉穂宮(いはれのたまほのみや)に崩りましぬ。時に年八十二。冬十二月の丙申の朔庚子 に、藍野陵に葬りまつる。」と記す。治世25(西暦531)年崩御、82歳だった、という。
「古事記」には「天皇の御年、肆拾参歳。丁未の年の四月九日に崩りましき。御陵は三島の藍の御陵なり」とある。43歳で、丁未の年(西暦527年)に崩御された、となっている。そうであれば「磐井の乱」の年に死去したことになる。

継体天皇は地方で生まれたので、生年日の記録が残っていない。崩御年と歳から逆算すると、「日本書紀」では允恭天皇39年(西暦450年)生まれ、「古事記」では西暦485年生まれとなる。「日本書紀」と「古事記」で年齢が倍も違う、これも謎・・・。
両書で共通なのは「藍(あい)」に葬られた、ということ。、古来このあたりを「あい」といい、「阿為」、「安井」、「阿威」、「阿井」など表記がいくつかある。「藍」もその一つで、この地域が島上郡と島下郡に分かれる前の広範囲の地名。継体天皇陵の宮内庁による正式名称は「継体天皇三島藍野陵(みしまのあいののみささぎ)」。現在でも、この辺りには「藍野」という名前が散見される。

「日本書紀」には春二月七日に亡くなり、同年十二月五日に埋葬された、とある。これほど大きな陵墓を短期間で築造できないので、生前から準備していたものと思われます。

この陵墓の学術的古墳名は「太田茶臼山古墳」。「茶臼山古墳」という名前の古墳は全国に沢山ある。私の家の近くの天王寺公園内にもあり、真田幸村古戦場として知られています。古墳の形が茶臼に似ているところから名付けられる。ところで茶臼ってどんな形・・・?。ここは三島の太田村にある茶臼山古墳です。
ところで茶臼の形をよく見てみたいのだが、周囲は頑丈な金網が張り巡らされ近づけない。周囲を歩いたが、墳形を眺めれる場所は二か所しかありませんでした。その一箇所が前方部の西角にある公民館図書館の前(空中写真のB地点)。金網越しに、前方部西側の周濠の一部を見ることができます。満々と水を貯えているようです。公民館図書館の二階からよく見えるのでしょうが、あいにく早朝のため閉まっていた。

墳丘を見渡せるもう一箇所は、前方部東隅の藍野短期大学の北東角(空中写真のA地点)。ここから少し入り込み金網の上から、古墳東側の墳丘と濠を見ることができます。
古墳東側の南半分は住宅が無く、金網をとおして墳丘が見えている。事前にGoogleの空中写真を見た時、外堤に入り周囲を一周できると期待していました。しかし外堤の外側から高い金網で囲まれ、期待は見事に裏切られました。他の天皇陵も同様ですが、何故これほど人々から隔離しなければならないでしょうか?。せめて外堤くらいは歩かせてほしいものです。現皇室の始祖かもしれない、というのに全く親近感がわきません。

金網の隙間にカメラを差し入れ撮りました。太田茶臼山古墳の東側墳丘と周濠です。
太田茶臼山古墳は、墳丘全長226m,後円部直径135m,高さ19m,前方部幅147m,高さ20mの前方後円墳で、その大きさは全国第21位。墳丘は三段築成で,また後円部と前方部が接する所の両側くびれ部に造出しをもつ。周囲に幅28~33mの盾形の一重の周濠が巡り、その外側には幅約30mの周堤が巡らされている。

これもカメラを差し込み、前方部を撮ったもの。左側木立の中央に正面拝所が設けられている。

昭和61年(1986年)、宮内庁が外堤護岸工事のため事前発掘調査をしたところ外堤の内側から円筒埴輪の破片が沢山見つかった。この埴輪の分析から、太田茶臼山古墳の築造時期が5世紀中頃であることが判明したのです。継体天皇の没年は6世紀中頃とされているのだが・・・謎です。かねてよりこの古墳を継体天皇陵とすることに疑問を抱く研究者が多かったが、この築造時期が判明したことで「被葬者は別人」だということが確定的となったのです。現在、被葬者を継体天皇だとするのは宮内庁だけとなっている。それでは真の被葬者は誰か?。継体天皇の父・彦主人王、曽祖父に当たる意富富等(オホホド)王、さらに曽曽祖父の椎野毛二派王など、諸説あるが謎のまま。

継体天皇陵の問題は、平成24年(2012)の国会でも取り上げられた(民主党・野田内閣)。その時の答弁は「発掘調査等の成果に基づく諸説については承知しているが、宮内庁としては、治定を覆すに足る確実な資料を得るには至っていないと考えている。」でした。江戸時代以前の天皇陵で「確実な資料」が得られる天皇陵など一つも無い。それでも宮内庁は初代神武天皇から現代まで、全ての天皇陵を治定しているのです。

天皇陵の全体像はGoogle Earthで空中から見るしかありません。空から見ると整然とした前方後円墳の形をしている。この土地は民有地だったが、明治の初めに買収され大改修により立派な陵墓に整形された。それ以前はどのような姿をしていたのでしょうか?。
古墳周辺には幾つかの陪塚(ばいちょう)が見られます。陪塚とは大型古墳の被葬者の親族や臣下を埋葬したり、被葬者のための副葬品を埋納したもの。

古墳の東側に「くすのき公園」という小さな公園があり、この中に陪塚がある(空中写真の1)。宮内庁管理なので柵で囲まれ、陪冢を示す石柱が立てられています。墳丘長約28mの前方後円墳だったようですが、現在は径10m位の円形にしか見えない。前方部・周溝から円筒埴輪片・人物埴輪片(腕部)が出土しているそうです。
空中写真の2,3,4も陪塚です。

太田茶臼山古墳北側の名神高速道路を潜り抜け、東へ100mほどの所に「二子山古墳」がある。宮内庁により継体天皇陵の陪冢に指定され、柵で囲まれ石柱が建つ。一部が高速道路の下にくい込んでいるように見え、一般道は古墳を避けるように大きく迂回させられている。ガードレールが設置されているのは、直進し突っ込む車があるからでしょうか。宅地造成、道路建設などで多くの古墳が消滅している中で、こうして残された幸せな古墳です。皇室をバックにした宮内庁の力を見せつけられます。
全長40m、後円部(高速道路側)直径20m、前方部幅30mの前方後円墳だったようです。5世紀後半頃の築造と推定され、葺石・各種埴輪が出土している。

 今城塚古墳(いましろづかこふん、高槻市) 1(墳丘)  



(古墳南西角から南側墳丘と内堤を撮る)太田茶臼山古墳から西国街道を東へ1.5キロほど行けば今城塚古墳があります。現在、宮内庁を除いてほとんどの学者、研究者が継体天皇の真の墓だとしている巨大古墳です。宮内庁による陵墓治定されず陵墓参考地ともなっていないので、継体天皇陵だとしたら全国に多くある天皇陵の中で墳丘に自由に出入りでき、発掘調査が可能な唯一の天皇陵となる。


■★・・・ 歴史 ・・・★■
今城塚古代歴史館に「今城塚古墳の歴史」という年表が掲載されている。それを参考にしながら今城塚古墳の歴史について整理してみます。

・531年(継体25年)、継体天皇は病にかかり崩御する。墓について、「古事記」は「三島藍野陵」、「日本書紀」は「藍野陵」と記載。
・927年(延長5年)、平安時代の法典「延喜式」に継体陵は「三嶋藍野陵」で、摂津国島上郡の所在とある。
・平安時代末期の歴史書「扶桑略記録」に「三島藍野陵」は摂津国島上郡とある。
・1200年(正治2年)、「諸陵雑事注文」に「摂津島上郡継体天皇」と記載が見える。
・1288年(正応元年)、西園寺公衡の日記「公衡公記」に「島上陵の墓荒らしの犯人逮捕」の記事が書かれている。
これらから継体天皇陵の場所は「摂津国島上郡」だったことがわかる。当時の地名からすると今城塚は島上郡にあり、太田茶臼山は島下郡だった。だから今城塚古墳のほうが天皇陵と見なされていたようです。
(右の写真は昭和30年頃の今城塚古墳、今城塚古代歴史館掲載の写真より)
ところが応仁の乱後、戦国時代に突入、この頃から継体天皇陵は不明となってしまい、記録から消えてしまいます。今城塚古墳は、戦国時代の武将三好長慶(1522-1564)が城を構えたことから大きく変形された(織田信長説もあり)。「今城塚」の名は城だったことからくるようです。さらに追い打ちをかけるように1596年(文禄5年)に慶長伏見大地震が発生。地震の地滑りで、墳丘の盛り土の多くが崩落し、内濠の大半が埋没してしまった。埋没した内濠は田畑に利用され、崩れた墳丘は平べったい丘のようになってしまう。江戸時代元禄期になり陵墓に対する意識が高まり、幕府による陵墓の探査が行われた。それに対して高槻藩は「継体陵はない」と幕府へ報告している(1697年)。崩れ変形してしまった今城塚古墳は、ただの小山にしか見えなかったのでしょう。

・1696年(元禄9年)、松下見林(儒医・歴史学者、1637-1703が「前王廟陵記」で、初めて太田茶臼山古墳を継体天皇陵だとの見解をだす。
・1798年(寛政10年)、本居宣長(国学者、1730-1801)は「古事記伝」を完成し、この中で「嶋上は嶋下の写し誤れるか」として太田茶臼山古墳を継体陵と推断している。
・1808年(文化5年)、蒲生君平(儒者で尊王家、1768-1813)も「山陵志」で太田茶臼山古墳とした。
尊王の立場から、崩れた今城塚より、地震の影響を受けず山稜の姿を残していた太田茶臼山の方を注目したものと思われます。以後これが定説となり、明治政府もこれを受け継ぎ太田茶臼山古墳を正式な継体天皇陵として追認し、大規模な修陵が行われた。政府のこの方針は戦後の現在まで続いているのです。

しかし大正時代に入り、島上郡でない太田茶臼山古墳を継体天皇陵とすることに疑問を抱き、今城塚に注目する人も現れだします。戦前の1940年頃に設けられた臨時陵墓調査委員会で、今城塚を「陵墓参考地に編入すべし」との答申も行われている。
・1958年(昭和33年)、国は、日本の歴史を跡づけるかけがえのない貴重な文化財として今城塚を史跡に指定
・1970年(昭和45年)、高槻市は今城塚の土地公有化を開始し、大阪府や国の援助を受けながら買い上げ作業が始まる。
・1985年(昭和60年)、史跡公園をめざす整備基本計画を策定
・1997年(平成9年)、史跡の保存と整備のための発掘調査を開始する(~平成18年)。出土した埴輪の年代考証から6世紀前半築造の古墳と判明し継体天皇の没年とも合致する。5世紀中頃築造の太田茶臼山古墳では継体天皇の没年と合わず、築造時期や地名の考証によって今城塚古墳が継体天皇陵であることが確定的となった。
・2004年(平成16年)、史跡公園としての古墳整備工事が始まる(~平成23年)
・2011年(平成23年)4月、今城塚の史跡公園を一般に公開し、「今城塚古代歴史館」も同時オープンした。

(Google Earthより)(A:西国街道、B:埴輪祭祀場、C:(1F)トイレ・(2F)展望バルコニー、D:今城塚古代歴史館)
墳丘長:192m、後円部直径100m、二重の盾形周濠が囲う。内濠、外濠を含めた兆域は全長350m、全幅340もの大きさをもつ前方後円墳。墳丘が崩れてしまっているので詳しい高さは不明だが、前方部は二段。後円部は三段に築かれ、斜面には葺石が施されていた。ただし、埋葬施設のあった後円部三段目は崩れてしまい現在は無くなっている。

荒廃していた今城塚古墳は高槻市により7ヵ年の歳月をかけて整備・復元された。事実上天皇陵でありながら、宮内庁により天皇陵治定されなかったため、自由に手を加えることができたのです。2011年(平成23年)4月、今城塚古墳公園と今城塚古代歴史館の2つをあわせて「高槻市立いましろ大王の杜(だいおうのもり)」の名称でオープンしました。「継体天皇の杜」と断定できないところに高槻市の苦渋を感じます。
墳丘には自由に立ち入ることができ、内濠は芝生が植えられ芝生公園となっている。中堤は復元され、古墳の周りを一周でき、散歩・ジョギングなどに最適な環境が提供されています。空中写真で見れば完全な前方後円墳なのですが、公園の中にいると古墳だという感覚が全くしない。随所に配置されている埴輪を見て、ここは古墳なのだなァと感じさせられるだけです。

墳丘には何カ所か入り口が設けられている。まず最初に後円部に入ってみます。高さ10mもないくらいの小山で、内部は雑草と樹木が生い茂り、その中を数本の山道(散策路)が通っている。所々に古墳の説明パネルが設置されているだけで、それ以外に古墳を暗示するようなものはありません。
(左は平成19年(2007)3月2日産経新聞)(上は平成19年(2007)3月2日毎日新聞、緑色の部分が現在残っている後円部)
この後円部北側で、平成18年(2006)発掘調査が行われ、墳丘二段目上の大規模な石組み遺構「石室基盤工」が見つかった。地震による地滑りで約4m崩れ落ちたが、ほぼ原型をとどめていた。東西18m、南北11mにわたり一辺20~40cmの河原石や板石が敷き詰められていたのです。これは墳丘三段目に設けられた重い横穴式石室が沈み込まないように下から支えるための基盤工と判明。現在は失われてしまっているが、石室を覆う三段目の墳丘が存在したことが明らかになった。

また周辺から石室に納められた家形石棺の破片が見つかっている。破片は産地が異なる三種類あるのです。熊本県宇土市近辺の阿蘇溶結凝灰岩のピンク石、兵庫県高砂産の竜山石(大王家の棺材として多く用いられてきた)、二上山の溶結凝灰岩の白石。このことから三つの石棺が埋葬されていたことがわかる。他の二つの石棺の被葬者は誰でしょうか?。いまだに分かっていない。
(右は「葺石と排水溝の出口」今城塚古代歴史館展示写真より)盛り土に浸透した雨水を外へ流す排水溝も設けられていた。墳丘の盛り土の内部に石積みの排水溝を築き、ここから古墳の外へ伸ばし、雨水を外へ流している。

後円部から前方部へ歩きます。木立と雑草に覆われた山中と同じで何もありません。立ち入り禁止場所など無いが、所々、道脇にロープが張られている。入り込むと危険な箇所なのでのでしょう。見るべきものが無い墳丘内なので、ほとんど人は見かけません。墳丘の外では声が飛び交っているのですが。
内濠、堤、外濠は公園化のため大きく手が加えられ元の姿からは大きく変わってしまっているが、墳丘そのものには手が加えられておらず、元の姿のままのようです。

 今城塚古墳 2(内濠・内堤・外濠)  




前方部南西隅から墳丘を出て、これから内濠部分を歩いてみます。

まず目にするのは「造出し」(つくりだし)。前方後円墳の両側くびれ部(前方部と後円部の接合部分)に設けられた四角い突出箇所です。ここで供物を捧げるなどの儀式がおこなわれた。写真は南側の造出し。地滑りの崩落した土で埋もれていたが、発掘で見つかり復元された。

墳丘南側。手前が後円部。内濠は崩落土を撤去し、芝生がはられ市民の良い遊び場となっています。幅4~50mあるので球技などのスポーツも楽しめます。常時開放されており、これほどのびのびと遊べる所はそうありません。皆楽しそうに遊んでいるが、どれほどの人が天皇陵かもしれない前方後円墳、と意識しているでしょうか?

墳丘北側。くびれ部に北側の「造出し」が見えます。

公園化のため2005年(平成17年)に周濠の水抜きが始まったが、前方部を囲むように水を貯えた内濠が残された。この領域だけが前方後円墳の姿を見せてくれます。その上整然と並べられた埴輪列が古代を感じさせてくれる。

南側の内濠と内堤。堤は幅20~30m位あり、古墳を一周できる。1周約950mで、ジョギングにちょうど良いかも。

南側の内堤の外側。外濠と外堤がある。外濠も芝生広場となっており、古墳を一周している。外堤は、住宅や道路となっており、ほとんど無いに等しい。

墳丘北側の内堤。両側にびっしりとレプリカの円筒埴輪が並べられている。説明版に「古墳を何重にもとりまく円筒埴輪列は、聖域をあらわす垣根であり、邪悪な霊などを立ち入れなくする結界です。内堤の上面には内外2列、そして墳丘の各テラスや墳頂部の外縁にも円筒埴輪がめぐり、その総数は約6000本と推定されています」とある。

今城塚古墳で最も注目されるのが埴輪祭祀場(はにわさいしば)です。2001年(平成13年)、北内堤中央部の張り出しで、200体以上の形象埴輪が整然と配置された姿で見つかった。この場所は、古墳の完成後に内堤を外濠側に突き出した形で盛り土し、長さ65m、幅10mの張り出し部が設けられていた。

埴輪祭祀場は、門の埴輪を中央に配した柵形埴輪列で区切られた4つのゾーンに分けられ、動物埴輪(馬、牛、鶏、水鳥など)、人物埴輪(巫女、力士、武人、楽人、鷹飼いなど)、家、太刀、盾など200個以上の形象埴輪が配列されていた。これは大王の死にかかわっておこなわれた儀式の様子を再現するために設けられたと考えられている。これまで見つかった埴輪祭祀場で最大のものだそうです。

現在同じ場所に、実物大の埴輪のレプリカが並べられ、当時の祭祀の様子が再現されています。これだけ多くの種類の埴輪が一箇所で鑑賞できるのは日本でここだけではないでしょうか。実物の埴輪は「今城塚古代歴史館」に展示されています。

古墳を一周する堤に三箇所のトンネルがくり抜かれ、外濠から内濠へ直結している。写真は墳丘北側のトンネルです。トンネル内の壁面に堤の断面が見られる。「現在地は、江戸時代に内堤を崩して水路を通していた場所です。発掘調査の結果、古墳築造時の地面がみつかり、この付近では約2mの盛土をして内堤を築いていたことがわかりました。盛土は、下の方に黒灰色系、上の方に黄灰色系の土を用い、縁から内側へ敷きならすようにほどこされていました」と説明されている。

これはトンネルを抜けた北側の外濠で、堤の上に埴輪祭祀場が見える。右側の茶色の建物が、トイレ兼展望所。本来は外濠を囲むように外堤があったのですが復元されていない。そのため濠のようには見えません。
前方後円墳の墳丘を取り囲む、内濠、堤、外濠はよく整備され、市民の憩いの場、遊び場として開放されている。ボール投げをしたり、走ったり、シートを敷いて団らんしたり、寝転んだり・・・。「天皇のお墓だ」という難しいことは考えず、皆さんそれぞれ楽しんでいます。宮内庁は「天皇の静安と尊厳」を損なうと言うだろうが、これが国民に開かれた天皇陵の姿だと思う。墓室のあった領域だけを立ち入り禁止にし、それ以外は国民に開放したら良いのです。

こちらは墳丘の西側、即ち前方部の外濠。外堤が復元され、濠だという形がよくわかります。

宮内庁が継体天皇の陵墓とする太田茶臼山古墳はどうでしょうか。堤の外側から堅固な柵で囲い、立ち入るどころか、墳丘の姿さえよく眺めることができないようにしている。国民から隔離し遠ざけることで、天皇の、皇室の威厳を高め、君が代が「さざれ石のいわおとなりて苔のむすまで」八千代に強固になることだと考えているのでしょう。天皇陵の「静安と尊厳」など、墓泥棒によってとっくの昔に失われているのです。
今城塚古墳を見て、世界遺産に登録された古市古墳群にある津堂城山古墳という巨大な前方後円墳を思い出しました。明治時代に竪穴式石室と巨大で精巧な長持形石棺が発見され注目されました。宮内庁は、石室が見つかった後円部の一部だけを允恭天皇を被葬候補者に想定した「藤井寺陵墓参考地」に指定し、柵を設け立ち入り禁止にしている。それ以外の前方後円墳の大部分は藤井寺市によって公園化され市民に開放されています。「国民に開かれた天皇陵」の例を、この津堂城山古墳に見ました(ココを参照)


北側の外濠にあるトイレ。二階が展望台バルコニーになっており、墳丘全体を見渡せる。墳丘は平べったい丘にしか見えず、前方後円墳というイメージは浮かんできません。城で、地震で崩れた影響でしょう。堤の埴輪祭祀場は全体がよく眺められます。









展望台バルコニーから北側に向かって通路が設けられ、「今城塚古代歴史館→」の標識が見えます。この通路を100mほど行けば今城塚古代歴史館です。







 今城塚古墳 3(今城塚古代歴史館)  



平成23年(2011)4月にオープンした古代体感ミュージアム。今城塚古墳だけでなく三島古墳群の説明もある。入館無料、ただし名前、住所などの記入を求められます。
開館時間:午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日:月曜日、休日の翌日、年末年始(12/28-1/3)

今城塚古墳から発掘された埴輪や土器などがメインに展示されている。その他、阿武山古墳、安満宮山古墳、昼神車塚古墳などの解説・展示もあります。また古墳造りの様子を表した立体模型やそれを映像でも解説してくれる。

手前から、二上山白石、阿蘇ピンク石、竜山石の石材を使った三つの家型石棺の模型です。

左の朝顔形埴輪は、高さ約130cmで、後円部では円筒埴輪4本ごとに1本、前方部や内堤ではコーナーに1本ずつ置かれていた。
多くの円筒埴輪には、上部に船絵がヘラ描きされていた。三日月形の船体に二本のマストを立て、船体の右端から下へ二本の錨綱がたれ、帆をおろして停泊する帆船を描いたとみられます。この近くには港があり、淀川水系を使い西方と往来していたことを示している。

家型埴輪は、円柱を使った高床式で、入母屋式の屋根をもつ。屋根には、千木(ちぎ、屋根の両端に交差させて突き出た木)や、堅魚木(かつをぎ、棟木の上に並べた円棒)が配され、神殿の形をしています。
「鷹飼人」(たかかいびと)と両手を掲げた「巫女」(みこ)の埴輪。こうした埴輪は、この後訪れる近くの「新池埴輪製作所跡」で制作されたものです。

これは展示室前のロビーに置かれていた「今城塚古墳の阿蘇ピンク石製の石棺片」の実物。



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馬見古墳群 南から北へ 3

2020年12月03日 | 古墳を訪ねて

★2020年10月27日(火曜日)馬見丘陵公園内を楽しんだ後、川合大塚山古墳、島の山古墳という二つの大きな前方後円墳を訪ねる。
(追加)馬見古墳群には顯宗天皇、武烈天皇の陵墓参考地があります。二人の宮内庁治定の本陵は西へ2.5キロほど離れた場所にあるので、後日(11月12日)訪れてみました。

 馬見丘陵公園館と周辺  



中央エリア西側にある馬見丘陵公園館は馬見丘陵公園全体の中心施設です。傍に広い駐車場(204台駐車可)もあるので、ここから公園に入る人も多いと思われる。1階が展示場で、馬見丘陵の古墳について展示や模型、映像を使いわかりやすく説明している。また園内の自然や花、野鳥についても学ぶことができます。係りの人が常駐されているので、お花のこと、古墳のことなど質問してみるのもよい。

公園館の南は「芝生の丘」と呼ばれているが、コスモスが一面に咲いている。ピンクと薄赤色の可愛い花が咲き乱れ、心を和ましてくれます。

公園館から北へ少し行き、右へ曲がると「菖蒲(しょうぶ)園」です。傍の森が乙女山古墳なので、その濠を利用して菖蒲園にしたのでしょうか。約3,000平方メートルの敷地に、約100品種3万株の花菖蒲が群生するという。花期は、5月下旬から6月なので今は閑散としています。6月には「馬見花菖蒲まつり」が開催されるそうです。

菖蒲園に隣接する南側の丘は「古墳の丘」と呼ばれている。ただの芝生の丘にしか見えないのだが、「古墳の丘」と呼ばれるのには訳があります。ここにカタビ1~4号墳の四基の古墳があり「カタビ古墳群」と称される。5世紀前半~7世紀前半に築造された小規模な方墳や円墳だが、木棺や円筒埴輪、須恵器などが確認されています。現在は1つの丘状には整地され、芝生で覆われ、個々の古墳を判別することはできません。

 乙女山古墳(おとめやまこふん)と花の道  



古墳の丘の上からの眺めると、右に「乙女山古墳」の前方部が盛り上がっている。乙女山のイメージとはほど遠いただの雑木の山でしか見えない。それを慰めるように左側に色鮮やかな花畑が広がっている。乙女に花を捧げているようです。

乙女山古墳の堤に上がり前方部の方へ歩いてみます。傍に下池が広がり、整地され気持ち良さそうな空間となっています。散策路は板敷きで、周りは芝生となっている。しかし誰もいてません。皆、反対側のお花畑の方へ行ってしまわれるようです。

前方部で散策路は行き止まりになっている。乙女山古墳の説明板が設置され、休憩用のベンチが置かれているだけです。説明板が無ければ、古墳とは見えず、だだの藪山でしかない。説明板には青々とした濠が描かれているが、全く見えず、濠があるような雰囲気も無い。

今度はお花畑を通り抜け、後円部へ廻る。だだの雑木林でしか見えないが、濠らしき窪みがうかがえられる。こちらにも説明板が設置されています。
所在地は「北葛城郡河合町大字佐味田小字乙女」。周りは広陵町だが、この古墳一帯は河合町の飛び地になっている。地名の「乙女」から古墳名がつけられたようだ。
これには次のような地名伝承がある。応永15年(1408)、この辺りで箸尾為妙と筒井順覚の戦があり、箸尾氏の少女が犠牲になり小山に葬られたことから、その場所を乙女山と呼ぶようになったと伝わる。

<ナガレ山古墳東側の古墳地形模型より>
わが国最大級の帆立貝式古墳で、築造時期は出土の埴輪、墳形などから5世紀前半と推定されている。昭和31年(1956)に国の史跡に指定された。

乙女山古墳を背に、乙女に捧げるように花壇が広がっている。「花の道」と名付けられた花畑で、四季折々の花が楽しめるように、適宜植え替えられているようです。手前がバラ園で、26品種、約500株のバラが植えられているという。

この時期、コスモスが美しい。

黄色、オレンジのマリーゴールドが咲き乱れている。

これはベゴニア

 馬見花苑と池上古墳  



花の道を北へ抜けると、色鮮やかな広い空間が目に入ってくる。「彩の広場」と「馬見花苑」と呼ばれるエリアです。

まず「彩の広場」に入る。背の丈を越えるようなダリアが群生しています。ここは春にはチューリップに、夏にはヒマワリに植え替えられ彩りを替えているという。現在はダリアの季節で、約120種1000株のダリアが群生している。なかには「皇帝ダリア」と呼ばれ、草丈4~5mにもなるようなダリアもあるそうですが、見頃は11月中旬から12月上旬とのことなので、まだ見られません。垣根のようなダリアの間を歩きます。

こちらはサルビア、コスモスの花壇。「彩の広場(ダリア園)」と「馬見花苑」の間は、「花見茶屋」と呼ばれ休憩所とカフェレストランがあります。

「集いの丘」のなだらかな斜面を利用した美しい大花壇で、「馬見花苑」と呼ばれている。現在サルビア、マリーゴールドなどが咲き乱れているが、春には一面チューリップ畑になるそうです。

「集いの丘」は広い芝生広場になっており、イベントや遊び場に利用させる。奥に見える大型テントはイベント時にはステージとなる。車道を挟んで「集いの丘」の反対側には大型遊具施設が設置されている。

車道を越えた東側に見える小山が池上古墳。傍まで寄ってみたが、標識も案内も無く、古墳の雰囲気は全くしない。全長92m、後円部径約80.6m、前方部幅約32m、長さ約11.4mの帆立貝式前方後円墳。墳丘の周囲に周濠と外堤をもつ。乙女山古墳と同じ五世紀前半の築造とされている。

馬見丘陵公園の中央エリアから北エリアを通り、これから公園を外れた大塚山古墳、島の山古墳という二つの大きな前方後円墳へ向います。
大型テントの横に、車道をまたぐ歩道橋「はなえみはし」があり、それを渡ると北エリアに入る。馬見丘陵公園の北エリアには古墳も花壇もありません。別名「緑道エリア」とも呼ばれるように、約1.2キロほどの散策路が北へ伸びているだけです。散策路は緑の樹木に囲まれ、幅広く良く整備されている。しかも道は二本あり併走している。一本はサイクリングできるとか。

 川合大塚山古墳(かわいおおつかやまこふん)  



公園を抜けると河合町の街並みが現れ、家並みに浮かぶように大塚山古墳が見えてくる。「大塚山古墳」という名称は全国各地に多く見られるので、地名を付けて「川合大塚山古墳」とも呼ばれているようです。

(空中写真のA地点から撮る)
前方部の西角に着く。大塚山古墳の周りには遮るものがなく、すぐ傍から墳丘を間近に見ることができる。上の写真は後円部方向を撮ったもの、左の写真は前方部です。

(空中写真のB地点から撮る)後円部の方へ近寄ってみる。上の写真は前方部方向を撮ったもの。幅広い周壕をみると、水を溜めている箇所もあるが、多くは田畑のように見え、作物が植えられているような所もある。国指定史跡なのだが、周壕は除外され民有地となっているのでしょうか?。

同じ場所から後円部を撮る。ここには説明板が置かれていた。
馬見古墳群で最大の全長215m、前方部を南に向けた三段築成の前方後円墳。空中写真をみれば幅広い盾形の周壕がハッキリしているが、大部分が田畑のようになっている。墳丘には葺き石と埴輪列が見られたが、埋葬施設については竪穴式石室と思われるが、詳細は不明。遺物は、埴輪(円筒・朝顔・人物・家・盾・蓋)須恵器、土師器などが確認されている。

(空中写真のC地点から撮る)後円部が正面に見える位置に周る。近くで農作業されている人に聞いてみました。民有地となっている濠は国によって買われ、数年後には国に返される、という返事でした。

昭和31年(1956)、周辺の古墳7基を含め「大塚山古墳群」として国の史跡に指定された。なお大塚山古墳と島の山古墳を馬見古墳群に含めるかどうかは議論があるようです。

 島の山古墳  



川合大塚山古墳から東へ歩くこと40分、かなり疲れました。時刻も夕方5時になり、やや薄暗いのと夕陽の強さで写真が撮りにくくなってきた。
到着した所は島の山古墳の南西角、つまり前方部西側の隅。空中写真で見れば、住宅の建てこむ前方部を除き周壕に沿って道が設けられているので、墳丘への見通しは良さそうです。

(空中写真のA地点から撮る)後円部方向へ墳丘西側を撮る。紅葉のようだが、夕陽に染まっているだけです。川合大塚山古墳と違って、周壕には満々とした水が貯えられ墳丘を映し出している。これぞ前方後円墳、という感じがします。

こちらは同じ場所から前方部を撮ったもの。前方部は濠の際まで住宅がせまっている。家の中から釣りができそうだ。濠は前方部でせき止められているように見えるが、空中写真を見れば墳丘内部へ通じる渡り堤のようです。当初からあったものでしょうか?。現在、古墳は国指定史跡になっており、墳丘内部へ入ることは禁止されているようです。

西側の濠に沿った側道の柵に、島の山古墳を解説したパネルが7枚ほど掲示されていた。発掘調査に関する川西町教育委員会のものです。
三段構築の墳丘からは葺石と埴輪列(朝顔形円筒、家形、盾型、靫形)が検出された。東西くびれ部には造り出しがあり、平成17年(2005)の調査で西側くびれ部から祭祀に用いられたと考えられる植物製の籠が出土している。出土品は碧玉製車輪石・鍬形石・鏡片・垂下式耳飾・石製刀子・玉類など。古墳は国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されています。

(空中写真のC地点から撮る)後円部です。Wikipediaに「当古墳の位置は大和盆地の河川が合流する場にあり、交通の要所を押さえた場にあることが大塚山古墳群と共通している。また川合大塚山古墳と島の山古墳の墳形規格が同じであるという点からも、この二つの古墳は関係が深いとみられる」とあります。

(空中写真のD地点から撮る)墳丘の東側を撮る。東側も西側同様に水を貯えた濠が廻り、それに沿って側道が設けられている。古墳名は所在地の磯城郡川西町唐院字嶋ノ山という地名による。

今日は長い一日だった。薄暗い時間から歩き始め、夕方近鉄・結崎駅に着いた時は真っ暗だった。総歩数:58588歩、総歩行距離:43.9km、どちらも過去最高を記録した。

 武烈天皇陵(ぶれつてんのうりょう)  



日を改め、11月12火(木)に武烈天皇、顯宗天皇の本陵を訪ねました。
宮内庁治定の武烈天皇陵の所在地は「奈良県香芝市今泉」で、JR和歌山線の志都美(しずみ)駅近くだ。大阪からは、JR大阪天王寺駅から大和路線に乗り、王寺駅で和歌山線に乗り換え、二つめの駅です。
志都美駅西側へ出ると、正面に武烈天皇陵のある森が見えている。

駅からは10分もかからずに着く。宮内庁の正式名は「傍丘磐坏丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)」、陵形は「山形」としている。
「日本書紀は「傍丘磐坏丘陵」、古事記は「片岡之石坏岡」と記す。諸説あったが、幕末の修陵では不明とされていた。明治22年(1889)に現在地に「傍丘磐坏丘北陵」として治定され、陵を造り拝所が設けられた。これは日本書紀が第23代顯宗天皇と武烈天皇を同じ「傍丘磐坏丘陵」としているので、「北陵」「南陵」と区別したのです。
宮内庁も「自然地形を利用した山形の陵」(国会答弁)と公表しているように、単なる自然丘で古墳とは思えない、というのが通説になっている。何を根拠に現在地にしたのでしょうか?。宮内庁も馬見古墳群内の新山古墳を「大塚陵墓参考地」として武烈天皇を被葬候補者に想定しているのです。

第25代武烈天皇(ぶれつてんのう)は、仁賢2年(489)に仁賢天皇の第一皇子として誕生、母は雄略天皇の皇女・春日大娘皇女。他に皇子はいなかったので6歳で皇太子に。仁賢11年(498)父・仁賢天皇が崩御すると、他に候補がいなかったので10歳という異例の若さで即位する。宮は「泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)」(奈良県桜井市初瀬)に置かれた。桜井市出雲の十二柱神社に「武烈天皇泊瀬列城宮跡」の石碑が建っています。

武烈元年(499)春日娘子(かすがのいらつめ)を皇后に立てる。この皇后の父母とも正体がよく分かっていない。長い皇室の歴史で出自不明の皇后というのは他に例がない。子供も無く、「男女無くして継嗣絶ゆべし」(日本書紀)、「日続知らすべき王無かりき」(古事記)と書かれている。跡継ぎが無いのです。

日本書紀は武烈天皇の悪逆非道、淫猥な行為の数々を書き残している。「孕婦の腹を割きて其の胎を観す」「人を池の樋に入らせ、そこから流れ出る人を三つ刃の矛で刺し殺して喜んだ」等々、書くのも憚られるような異常な行為が記述されている。そして「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」、人々は皆恐怖に震えていたという。
絶対権力をもつ天皇といえ、十代では考えられない行動だ。こうした暴虐ぶりは日本書紀だけに書かれ、古事記には一切見られない。何故でしょうか?。また皇室の正史「日本書紀」が天皇の残虐卑猥な行為を事細かに書き残す、というのも不思議です。
悪業天皇は在位8年、18歳で崩御された。跡継ぎが無かったので、越前からやってきた継体天皇が即位する。これを王朝交替とみなす考え方がある。応神天皇からの王朝は武烈天皇で終り、新王朝が始まったというのです。そこで前王朝最後の天皇を暴君に仕立て、新王朝の開始を正当化し際立たせようとした。頷ける考え方です。暴君が”清徳””聖純”のような名では困るので、”武烈”が相応しかったのでしょう。

本当は、18歳で亡くなった気の優しい青年ではなかったか、と想像してしまう。またあまりにリアリティーに欠けるので、存在さえ疑う人もいるようです。

 顯宗天皇陵(けんぞうてんのうりょう)  



志都美駅と武烈天皇陵との間を南北にはしる国道168号線を、南へ25分ほど歩けば顯宗天皇陵だ。車道脇なのですぐ分かります。

ここは宮内庁によって第23代顯宗天皇(けんぞうてんのう)の「傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)」に治定され、陵形は前方後円墳となっている。武烈天皇陵同様に、所在について諸説があったが、幕末の修陵時には不明のままだった。明治22年(1889)に現在地に決まる。武烈天皇陵の「北陵」にたいして「南陵」として区別された。何を根拠に明治政府が治定したのか明らかでない。

第23代顯宗天皇陵(けんぞうてんのう)は市辺押磐皇子(履中天皇の長子)の第三子として誕生。母は葛城蟻臣の女・妃媛命。弘計王(おけのみこ)と呼ばれ、兄は億計王(おけのみこ、後の仁賢天皇)と呼ばれた。

父が雄略天皇に殺されたので、幼い兄弟は丹波に逃れ、さらに播磨に身を隠した。その後二十数年経ち、供物を調えるため播磨に勅使が使わされ、兄弟の身分が明らかになった。跡継ぎのいなかった清寧天皇は宮中に迎え入れて、兄・億計を皇太子に、弘計を皇子とした。清寧5年(484)清寧天皇が崩御する。皇太子の兄・億計と弟の弘計は互いに譲りあう。結局、兄・億計の説得に折れ、弟の弘計が顕宗天皇として36歳で即位した。そして兄が皇太子になるという特異な例となった。顕宗3年(487)、在位3年で崩御し、兄・億計が第24代仁賢天皇として即位する。

前方部を南西に向けた前方後円墳とされるが、いびつに変形しており陵墓にしては小さい。
拝所の前に庚申塚が置かれ、小さな休憩所が設けられている。陵墓のすぐ横は国道で、ひっきりなしに車が走り騒々しい。顯宗天皇の「静安と尊厳」が守られるような環境ではありません。宮内庁は馬見古墳群内の築山古墳を「磐園陵墓参考地」として顯宗天皇を被葬候補者に想定している。築山古墳は二百メートル級の巨大な前方後円墳です。どちらも明確な根拠が無いのならば、築山古墳のほうが顯宗天皇は安らかに眠れるのではないでしょうか。

 孝靈天皇陵(こうれいてんのうりょう)  



武烈天皇陵、顯宗天皇陵のあるこの地域には、もう一つ孝靈天皇陵が存在しています。これらを合わせて「片岡三陵」と呼ばれている。ついでなので訪ねてみました。JR大和路線の王寺駅で降り、南の丘陵へ歩くこと15分で拝所入口に到着します。所在地は奈良県北葛城郡王寺町本町3丁目。

宮内庁の公表する陵名は「片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)」、陵形は「山形」。
孝靈天皇の陵について日本書紀は「片丘馬坂陵」、古事記は「片岡馬坂上」と記している。元禄時代の探陵で現在地に治定された。その根拠は、葛下川が西流する南側丘陵は馬瀬坂と呼ばれていたのと、尾根上に小円墳があり地元で御廟所と呼んでいた、ということによる。幕末の修陵でも踏襲され、現在に至る。
車道左手に階段が見え、制札と石柱が建つ。拝所は小高い丘の上なので階段を登らなければならない。

第7代孝靈天皇(こうれいてんのう)は第6代孝安天皇の第一皇子で、26歳才で皇太子となる。先帝が亡くなると53歳で即位された。皇后は豪族磯城氏の娘・細媛命(ほそひめのみこと)。二人の間には、卑弥呼の墓として有名な箸墓古墳の被葬者とされている倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)がいる。また第三皇子の彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、通称吉備津彦命)は桃太郎伝説のモデルと言われている。

在位76年、127歳(日本書紀)、106歳(古事記)で崩御されたと伝わる。非常に伝説的な人物で、日本書記、古事記ともほぼ系譜の記載のみで事績の記述はない。そういうところから欠史八代の一人に数えられ実在性が疑われている。となるとこの立派な陵墓も・・・。

高台に位置するだけに見晴らしが良い。大和盆地が見渡せます。陵墓の周囲を一周できる道があり、展望を楽しめるようだが、あいにくロープがはられ立ち入り禁止になっていた。


詳しくはホームページ

馬見古墳群 南から北へ 2

2020年11月21日 | 古墳を訪ねて

★2020年10月27日(火曜日)
馬見丘陵公園の南の入口から入り、北に向って散策する。古墳も楽しめるが、お花一杯なので歩きつかれた疲労も癒されます。

 馬見古墳群と馬見丘陵公園  


★★ 馬見古墳群(うまみこふんぐん) ★★
奈良盆地西部に,馬の背の形をしているということから「馬見(うまみ)丘陵」と呼ばれる標高70~80mの低い丘陵地がある。南北約8キロ・東西約3キロと南北に長く,香芝市・大和高田市・広陵町・河合町など2市3町にまたがっている。この丘陵の東辺部を中心にして,墳長約200mを超える大型前方後円墳4基を含め古代の大小さまざまな約230基の古墳が集中しており「馬見古墳群」と呼ばれています。この中には第23代顯宗天皇,第25代武烈天皇の陵墓参考地も含まれている。大和盆地でも代表的な古墳群で,4世紀から6世紀にかけて造営されたと推定されている。

馬見古墳群は大まかに南群,中央群,北群の3つの地域に分けられる。南群は馬見丘陵公園より南に位置し,狐井城山古墳,築山古墳,新木山古墳などを含む。即ち,今まで歩いてきた所で,東に行ったり西へ行ったりかなり広範囲にわたる。中央群・は,現在公園となっている範囲で,これから周る予定。北群は馬見丘陵公園をはずれ北側に位置する。大塚山古墳,島の山古墳という大きな前方後円墳に代表されます。
馬見古墳群は,古代豪族の葛城氏の本拠地に近いことから関連が考えられるが,確証はない。

「馬見」の名前の由来について、奈良県公式サイトに「その昔、当丘陵地は馬の放牧地として利用されていた。その名残として現在、上牧や下牧の地名が残っている。丘陵内には南北に高田川・佐味田川・滝川・葛下川の4河川が流れているが、それぞれの河川の囲まれたエリアの地形が馬の背の形をしている。聖徳太子が法隆寺を建立する際、明日香から馬に乗り、四方の景色を見ながら通った」の三つの説があると記されている。

★★ 馬見丘陵公園 ★★

馬見古墳群が広がる馬見丘陵周辺は,戦後の高度成長期を経て昭和40年代後半より大規模宅地開発が進み,真美ヶ丘ニュータウンや西大和ニュータウンなどが造られていった。奈良県はこうした開発から自然と古墳を守るため昭和59年(1984)に公園化を決定。奈良公園に次ぐ県内二番目の広域公園です。

南北に長く,とにかくでっかい。古墳があるから起伏に富み,池あり森あり芝生あり,なんといってもすごいのが花壇だ。四季折々の多様な花が植えられている。子供が遊べる大型遊具施設もあり,これほど変化に富み見どころの多い公園を他に知らない。池のほとりのベンチで余生をのんびり過ごすおじいさん,花に夢中になっているおばさん,バードウォッチングで鳥の出現を待つおじさんたち,のんびり散策する人,ウォーキングに汗かく人,古墳の上で古代に思いをはせる(?)人,芝生で弁当広げる人・・・。平日なのだが多くの人が楽しんでいる。広いのでソーシャルディスタンスはしっかりとれます。

(写真は乙女山古墳と花壇)奈良県の公式サイトに月ごとの花情報を知らせてくれる。2020年 馬見花だより

馬見丘陵公園で特筆すべきなのは、お金を使う必要がない、というよりレストランを除いて使うところがないのです。入園無料、駐車場無料、遊具場無料、公園館入館無料・・・、自動販売機も公園館横を除いて見あたりません。お金が使えない、その分足を使います。
広い公園内は、樹木・芝生・植込みなどよく手入れされて整然としている。ゴミも落ちてない。ゴミ箱自体が置いてない。園内に沢山ある広い花壇もビックリするほどよく手入れされている。
公園の広さから考えて維持管理費用はかなりのものと思われます。この費用はだれが負担しているのでしょうか?。県営なので奈良県としか考えられない。奈良県の懐の大きさに感心させられます。

余談になるが、大阪を代表する天王寺公園はどうか。数年前まで、150円の入園料を取っていたので、都心にありながら誰も利用しない。園内にいる人より、園外の道を歩いている人のほうが多い、という惨状だった。手をやいた大阪市は、数年前に近鉄に管理を丸投げする。近鉄は、アベノハルカスの前庭、全面芝の無料「てんしば公園」に作り変えた。無料だけに入園者は増えた。しかし近鉄はボランティア企業でないので、損をするわけにはいかない。園内に金儲けの施設を造り始めた。かって桜見物で賑わった場所にはドッグショップ、レストラン、食品販売所が、花壇があった場所は有料フットサルコート3面に、熱帯植物ホールは取り潰されバーベキュー店などに。西側の空き地も、現在整地され工事用の塀で囲まれている。何ができるのだろう?。かっての公園の三分の一が消え、有料施設になってしまった。
大阪市など無くしてしまえ、というのも頷ける。

竹取公園と車道を挟んで反対側に馬見丘陵公園の南の入口がある。ここから公園に入り、公園内を南から北へ散策しながら古墳と花壇を楽しんでいきます。

 三吉2号墳・ダダオシ古墳  




馬見丘陵公園に入り、右側を見ると芝生広場が広がっている。土盛りで傾斜をつけられ、寝転べば心地良さそうだ。案内によれば、芝生広場でなく復元された「三吉2号墳(みつよし2ごうふん)」でした。芝生面は、申し訳程度の低い柵で囲われ、入ってはいけないようです。

前方部を北に向けた四段築成の帆立貝式古墳。個人の住宅が建ったり果樹園、道路などで墳丘は一部破壊を受けていたが、公園整備事業の事前調査で、全長約90m、後円部径78m、高さ4.7m、前方部幅41.2mの規模と判明した。また、墳丘の周囲には幅7mの周濠があり、さらに外側には幅8mの堤が確認され,円筒埴輪などが採取されている。
現在,盛土などで失われた部分を補修し,公園敷地として取り込まれ復元整備された。階段がつけられ墳丘上まで登れるようになっている。墳丘の上は何もない広場となく、背後の古墳南側は復元されておらず雑木が茂っています。

墳頂から北側と東側は展望が開け眺めがよい。すぐ東側の巨大な巣山古墳もよく見えます。三吉2号墳は巣山古墳の陪塚だったのでしょうか?。
出土した円筒埴輪から巣山古墳に次ぐ時期、5世紀前半に築かれたようです。埋葬施設は不明だが、少数ながら円筒埴輪片、朝顔型埴輪片、家型埴輪片が出土している。墳丘に埴輪の配列がなされていたと考えられる。

公園入口を入って左に見える小山がダダオシ古墳。墳丘長約50m,後円部の径33m、高さ7m、前方部の最大幅は30~34m、高さ4mで,前方部を南に向ける前方後円墳です。説明版に「前方部南東に小石室が見つかった」とある。築造時期は6世紀初頭と推定されています。 東側で幅7mの濠と幅8mの外堤が確認され、周濠と外提を持っていたと考えられている。

 巣山古墳(すやまこふん)  



(墳丘の北側、右が後円部、左が前方部)大きすぎて全体がカメラに収まらない。国の特別史跡(昭和27年<1952>指定)になっており、立ち入ることはできません。

(馬見丘陵公園館に展示されていた立体模型)全長204m、後円部径108m、高さ25m、前方部幅94m、高さ21mの巨大前方後円墳。馬見古墳群の中で最大で,馬見古墳群を代表する古墳。
三段築成の墳丘で、斜面には礫石や割石で葺かれ、円筒埴輪も並べられていた。築造時期は、古墳時代の前期から中期へと移る過渡期、4世紀末~5世紀初頭と推測されている。

(前方部方向へ西側墳丘を撮る)墳丘の周囲は幅40m位の楯形の周濠が巡っており、さらに外堤で囲まれている。空中写真を見れば広い濠に水を貯えているのだが、公園から見える西側は水は少なく、雑草が茂った地面が現れていた。傍まで近寄れないので正確なことは分からない。また空中写真を見れば、堤から墳丘へ連絡する渡り土手が見られます。前方部と後円部が連結するそのくびれ部には祭祀を行う為の方形の造出しが見られる。

(ナガレ山古墳東側に設置された馬見古墳群の立体模型より)後円部に割石を積み上げた二基の竪穴式石室があった。前方部の先端にも方形の壇状の施設があって小型の竪穴式石室があったとみられている。いずれも明治時代の盗掘によって破壊を受けているが、長さ9.5cmの大勾玉(まがたま)や管玉(くだだま)と車輪石、石釧(いしくしろ)、鍬形石(くわがたいし)などの腕輪類、刀子(とうす)や斧などの祭祀用の石製品など多くの遺物が出土しており、現在宮内庁書陵部に収蔵されています。

(写真は前方部の西側の出島状遺構らしき跡)平成15年(2003)、前方部の西側で、墳丘から周濠へ張り出す出島状遺構が発見された。大きさは南北約16メートル、東西約12メートル,高さ1.5メートル程の規模で、二段に築かれ、葺石を施してた。そこからは水鳥形埴輪や家型、柵型、蓋(きぬがさ)形といった形象埴輪が数多く発掘され注目された。祭祀の場として造り出しがあるのだが、それとは別に何らかの祭祀が行われたと思われる。

また周濠の北東角から準構造船の部材が出土している。葬送の際に棺を載せて運んだ「喪船(もふね)」と考えられている。

被葬者はだれか?。縄張りに近いことから古代の有力豪族であった葛城氏が考えられるが、規模の大きさから大和王権の大王墓だという考えもあるそうです。

巣山古墳の前方部側に周ると花畑が広がり、白、赤、ピンクの花が一面に咲いています。コスモスです。パンフレットには「春まちの丘」と案内されている。

 佐味田狐塚古墳(さみたきつねづか)  



巣山古墳前方部の外堤北西隅に近接して佐味田狐塚古墳(さみたきつねづか)があります。現在、芝生を張った土盛り状に復元整備されている。
墳丘全長78m、後円部径55m、同高7m、前方部幅31m、同高5mの規模で、南側に前方部を向けた帆立貝式の前方後円墳。周囲に浅い空濠がめぐる。5世紀前半の築造と推定されている。

墳丘に登ると横断橋が架かっている。公園内を東西に横切る町道建設によって北側の後円部と南の前方部に真っ二つに分断されてしまったのです。
横断橋から見ると、片側2車線の車道に色がつけられた部分が橋の両側にある。これは墳丘の存在した範囲を示し、道路建設によって削り取られてしまった部分です。県、町はこうして償いの気持ちを表したのでしょうか。

横断橋を渡り、北側から後円部を撮ったもの。墳丘に植込みが配置されている。これは葺石をイメージしたものでしょうか。
道路工事に伴う発掘調査で、後円部から木棺を粘土で保護した粘土槨が確認され、鏡や鉄刀の破片などが出土している。

 カリヨンの丘  



佐味田狐塚古墳から東方にあるカリヨンの丘へ向う。なだらかな丘陵状になっている広場は「カリヨンの丘」と名付けられています。「カリヨン」って?。後で調べるとフランス語のようで「組み鐘。音の高さを異にする一組の鐘を配列したもの。手または機械で相互に打ち鳴らして奏する。16~17世紀のヨーロッパで教会や市庁舎に設置された」とあった。
丘の上の施設に時計と鐘が設置されており、1時間ごとにカリヨンの演奏が聴くことができ、季節ごと時間ごとに曲が変わるそうです。鐘が鳴るなんて知らなかったので、聴き漏らしました。

この時期、カリヨンの丘はほぼ全面に色鮮やかに紅葉したコキアが群生している。これは花でなく、別名「ホウキグサ」「ハナホウキギ」と呼ばれる草です。緑色から、秋になると紅葉しとても鮮やかで美しい赤に変化します。群生する光景は圧巻です。掃きホウキに使えそうな形を見せている。昔はこの茎を乾燥させてホウキを作っていたとか。ふんわりとした姿と柔らかな感触は花としてみても違和感が無い。コキアの丘にカリヨンの鐘の音が響くのを聴いてみたかった。

幻想的な雰囲気が漂うカリヨンの丘 に、古墳の墓(石棺)という全く場違いなものが置かれている。他に置きな所はなかったのでしょうか?。
丘の西側にある小屋に収められているのが北今市1号墳石棺です。ここから5キロほど西の香芝市北今市3丁目で見つかったもので、古墳はすでに消滅してしまっているが石棺だけが馬見丘陵公園内に移設されました。
建物の中にはベンチも置かれています。墓を眺めながら休息し、カリヨンの鐘の音に耳を傾ける・・・いいかも

公園の南エリアと中エリアをつなぐ歩道橋の下に置かれているのが北今市2号墳石棺。とりあえずここに置いとけ、といった感じだ。

 ナガレ山古墳  



次は公園の西側へ向い、馬見丘陵公園で一番注目を集めているナガレ山古墳へ行く。古墳といえば、普通は樹木が青々と茂る森や小山を想像してしまうが、築造当初の古墳はそんなものではありませんでした。ナガレ山古墳は、築造当初の姿に復元され、古墳とはこんなのだ、ということを私達に見せつけてくれます。

全長105m,後円部径64m・高さ8.5m、前方部幅70m・高さ6.2mの前方後円墳。前方部は二段、後円部は三段築造。墳丘全体に葺石が敷かれ、埴輪列がめぐっている。築造時期は、その形状や埋葬施設の構造,埴輪列から5世紀前半の築造と考えられています。

前方部から後円部方向を撮る。「ナガレ山」の名は、所在地の「河合町佐味田字別所下・ナガレ」という小字名による。地元では「お太子山」と呼んでいたようだが。

東側のくびれ部から前方部へ少し寄ったところで,墳丘裾の埴輪列に直交する2列の埴輪列が確認された。これは葬送の際に墳丘上へ登る通路ではないかと考えられている。

前方部の上から後円部方向を撮る。
埋葬施設について説明板に「後円部墳頂の埋葬施設は明らかでありませんが、盗掘の際に捨てられた土から勾玉など多くの遺物が出土しました。また、前方部墳頂にも埋葬施設があり、箱形木棺を粘土で覆った粘土槨です。木棺を覆った粘土の中に多数の鉄製品が埋納されていました。」とありました。

写真に見える前方部の楕円形図は、内側が「粘土槨」、外側が「墓壙」と表示されていた。

昭和50年(1975)から翌年にかけ土砂取りにより墳丘の一部が破壊さるという事態に。そこで昭和51年(1976)に国の史跡に指定され保存されることになった。昭和63年(1988)から発掘調査を行い、整備工事が行われ平成8年度(1996)に完成し、翌年5月から一般公開されました。
復元整備は築造当時の姿を再現することを目的に、墳丘全体に盛土を施し、墳丘を葺石で覆い、円筒埴輪が並べられた。

(後円部墳頂から撮る) 墳丘裾と中段を中心に600本以上の埴輪列が復元されています。円筒埴輪のうち、3割は公募により10歳から84歳まで125名の河合町民が手作りで粘土帯を積み上げて復元したもので、作った人の名前が刻まれているそうです。上部に丸いお皿のようなものが付いているのが朝顔型埴輪。また復元された葺石には、調査で確認されたニ上山山麓の安山岩や花崗岩が使われている。

後円部上から二上山や金剛山,葛城山などの山並みが見渡たせる。ここで休息を兼ねて古代の情緒に浸ってみるのもよいものです。

葺石や円筒埴輪列で復元されているのは墳丘の東縦半分だけ。反対側の西半分は芝生で覆われています。
出土遺物として、円筒埴輪・形象埴輪・石製模造品(刀子・斧・紡錘車形)・石製玉類・鉄製品(刀・剣・鏃・刀形・剣形・鋤先形・鎌形)・土師器・須恵器・水銀朱などがある。これらの出土品は河合町中央公民館に展示されているそうです(見学には事前の申し込みが必要)。

ナガレ山古墳東側の散策路を挟んだ反対側に、馬見丘陵公園内にある主な古墳の地形模型が展示されています。大変参考になる。

 倉塚古墳(くらつかこふん)・一本松古墳  





馬見丘陵公園の中央には上池と下池という二つの大きな池があり、その二つの池の間の散策路を通って池の東側に行けば倉塚古墳・一本松古墳だ。

ナガレ山古墳東側の置かれている古墳の地形模型より。倉塚古墳の前方部に接するように一本松古墳の後円部がある。(右側が北方向になる)

別名スベリ山古墳。元々経90m位の円墳と見られていたが、測量により前方部を東に向けた大きな前方後円墳だということがわかった。ただ古墳そのものは詳しい調査が行われていない。出土した円筒埴輪の特長から5世紀前半頃の築造と推測されている。

倉塚古墳も公園整備により樹木が伐採され、全面に芝生が植えらている。緩やかな木製階段が設けられ、墳頂まで登れます。古墳の上だという感じは無く、この芝生の丘で寝転びのんびり休息するのにちょうどよい。
前方に一本松古墳のふくらみも見えている。

散策路を挟んで倉塚古墳の北側に見えるのが一本松古墳。「倉塚北古墳」と呼ばれていたが、地元で「一本松山」と呼ばれていたことから「一本松古墳」となった。
前方部を北東に向けた全長130m、高さ12mほどの前方後円墳。発掘調査で周濠の一部と堤が確認されたが、
奈良時代の土器が多量に出土していることから周濠は奈良時代に埋められたと思われる。築造された時期は、埴輪棺墓に使用された埴輪から倉塚古墳より古い4世紀末頃と見られています。
一本松古墳の後円部南東に接する形で、一辺12mの方墳「一本松2号墳」も見つかっている。

後円部上から前方部を眺める。墳丘は樹木が部分的に伐採され、 墳形が分かりやすいように整備されています。
埋葬施設については、東側外堤から埴輪棺墓と土坑墓が検出されているが、副葬品は無く詳細は不明。


詳しくはホームページ

馬見古墳群 南から北へ 1

2020年11月13日 | 古墳を訪ねて

★2020年10月27日(火曜日)
またお墓参りだ。今度は奈良盆地西南部、法隆寺南方5キロほどに位置する馬見古墳群(うまみこふんぐん)です。南北に長い馬見丘陵を中心に、4世紀後半から6世紀にかけて築造された古墳が散在している。大和盆地でも有数の古墳群です。中央に位置している馬見丘陵は「県営馬見丘陵公園」として整備され、広い広い公園内は自然と花と、そして古代のお墓を楽しめる(?)素敵な場所となっている。

どこから攻め込むか思案した結果、近鉄大阪線・五位堂駅近くの狐井城山古墳から出発し、東西にジグザグしながら北上し馬見丘陵公園に入る。公園を楽しんだ後、さらに北上し大塚山古墳、島の山古墳まで行きます。かなり広範囲なので、途中で断念することも考えていました。馬見丘陵公園は、私が今までに訪れたなかではトップクラスの公園だった。たくさんのお花が咲きほこっているが、開花時期を調べて訪れることをお勧めします。
総歩数<58588歩>、<43.9km>、<2232cal>

 狐井城山古墳(きついしろやまこふん)  


近鉄大阪線・五位堂駅に着いたのは朝6時過ぎ。まだ薄暗く、出勤時間前なので人も見かけない。最初の目的地・狐井城山古墳(きついしろやまこふん)はこの駅から西へ、歩いて30分位の所にある。住宅路を西へ西へと歩く。
狐井城山古墳が見えてきました。古墳に接近できる場所を探す。古墳東側に住宅の間から堤に通じる道を見つけた。堤は枯れ草が刈り取られ、なんとか這い登れました。

堤の上は、道は無いのだが草が刈り取られているので歩けます。古墳の東側から後円部を撮った写真。全長約140m、後円部径約90m、後円部高さ10m、前方部幅約110mの前方後円墳。前方部は北東に向く。幅18mといわれる周濠は満々と水をたたえています。5世紀後半~6世紀前半の築造と推定されている。
遠くに見える山並みは、葛城山、金剛山。

堤の上は、後円部辺りで行き止まりだが、前方部の方向へは正面まで歩ける。前方部の前は、少し広い空き地になっている。この空き地から北側の住宅路に道が通じていた。

古墳の西側は車道で、濠を挟んで墳丘が丸見えだ。ただし2m以上のフェンスで囲まれている。戦国時代に城があったことから「城山古墳」と呼ばれたが、全国に同名の古墳が多いことから、地名を付けて「狐井城山古墳」と呼ばれる。

被葬者はだれだろうか?。古代葛城氏の縄張りに近いこともあって、葛城氏の関係者と考えられている。しかし周濠をもったかなり大きな前方後円墳なので、第23代顕宗天皇や第25代武烈天皇との説もある。

狐井城山古墳のすぐ南に、恵心僧都源信(942―1017)が生まれたという伝承がある阿日寺があるので寄ってみる。道端に石碑「恵心僧都誕生之地」が建ち、その路地を入った先が阿日寺です。

この寺には、平安時代の「木造大日如来坐像」や鎌倉時代の「阿弥陀聖衆来迎図」が伝わり、ともに重要文化財に指定されている。「阿弥陀」と「大日如来」からそれぞれ一字をとり「阿日」寺となったそうです。


 築山古墳とその周辺古墳  



狐井城山古墳の次は築山古墳です。直線距離で2キロ以上あり道も分かりにくく、電車を利用するのもありだが、歩くことにした。40分ほどかけ、ようやく住宅の間から築山古墳が見えてきた。古墳後円部の中央です。堤に上がると濠に沿って歩道が設けられている。

北側の、後円部と前方部の境目辺りで周濠は途切れ、墳丘と地続きになった箇所がある。そこには塀が設けられ番小屋があり、宮内庁の警告文が張り出されている。築山古墳は、宮内庁が第23代顕宗天皇を被葬候補者として「磐園陵墓参考地(いわぞのりょうぼさんこうち)」に指定し管理している。
宮内庁治定の本陵は、ここから4キロほど北西に離れた香芝市にある。後日に訪れてみます。

今度は後円部から墳丘の南側へ周ってみる。こちらは古墳南側の側面。広い濠が墳丘を取り囲み、その濠に沿って細道が続く。民家の裏側なので気がひけるのだが、古墳を間近に見ながら一周できます。

前方部です。広く澄み切った濠が印象的だ。
全長は210m、後円部径は120m、前方部幅105m、三段築成の前方後円墳。築造時期は、採集された埴輪片から4世紀後半と考えられている。埋葬施設は明らかでない。


築山古墳の周辺には多くの古墳、陪塚(ばいづか)があり、築山古墳群を形成している。その中で主要な以下の3古墳を訪ねた。


築山古墳南の栂池公園に接して茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)がある。直径50mの円墳です。樹木は伐採され、丸裸の土盛りで、子供の遊び場に相応しいように見えます。しかし周囲はフェンスで囲まれ入れないようになっている。

反対の西側に周ると、「磐園陵墓参考地陪塚」という宮内庁の立て札が立っていた。築山古墳の陪塚(ばいづか)だということです。宮内庁は、参考地の陪塚であっても取り上げ、国民から隔離してしまうのだ。住宅地のど真ん中に鎮座する皇室の聖域となっている。

築山古墳の南にある狐井塚古墳(きついづかこふん)を訪ねます。フェンスで囲まれ、宮内庁の警告文が張られている。全長75mの前方後円墳だが、空中写真で見ない限り、単なる森にしか見えない。

古墳の南西部(後円部?)に周ると、住宅間の細路の奥に入口のようなものが見られる。柵で閉められ、立入り禁止の宮内庁の警告文が見える。ここは宮内庁が「陵西(おかにし)陵墓参考地」として占拠している。北にある築山古墳が顕宗天皇陵かもしれない、ということからここを顕宗天皇皇后・難波小野王(なにわのおののみこ)の陵墓と推測したようです。

築山古墳の東側にはコンピラ山古墳がある。直径95mで、全国的にも最大規模の円墳だそうです。見つかった埴輪の特徴から、5世紀前半の築造と推定されている。「コンピラ」は墳丘上にあった金毘羅神社からきている。

近づこうとしたが住宅や田畑に囲まれているので近づけず、遠くから眺めるしかなかった。単なる小山にしか見えません。

 新山古墳(しんやまこふん)  



築山古墳の北1キロにある新山古墳(しんやまこふん)へ向う。近鉄大阪線の踏切を渡り、高田川に沿った国道132号線の歩道を歩く。

全長約126m、後方部幅67m,高さ約10メートル、前方部幅約66m、前方部を南にむけた前方後方墳です。墳丘は2段築成で葺石・埴輪(円筒・家・蓋・盾など)が見つかっている。出土した埴輪から4世紀後半の築造と推測され、馬見古墳群中で最も古い古墳とされています。

南側の前方部に入口が見える(空中写真のAの地点)。ここも柵で閉められ、「大塚陵墓参考地」という宮内庁の石柱が建つ。第25代武烈天皇が被葬候補者とされています。武烈天皇は5世紀後半の天皇なので、古墳の築造時期と合わないのだが?。
宮内庁治定の本陵は、ここから5キロほど北西に離れた香芝市にある。後日に訪れてみます。

周濠のように見えるが、濠ではなく池です。空中写真を見ればよくわかる。

明治18年(1885)、地主が植樹しようと後方部中央で穴を掘ったところ竪穴式石室が見つかった。ここから銅鏡34面(三角縁神獣鏡・直弧文鏡・画文帯神獣鏡など)や玉類、鍬形石、車輪石、石釧、金銅製帯金具、台座形石製品などの貴重な副葬品が多数発見された。これら出土品は国の重要文化財・考古資料に指定され、一部が東京・奈良国立博物館に収蔵・展示されている。新山古墳は昭和62年(1987)に国の史跡に指定されました。

 別所城山第1・2号墳(べっしょしろやまだい1・2ごうふん)  



新山古墳から城山児童公園を目指して西へ20分ほど歩くと城山児童公園の森が見えてきました。住所は「香芝市真美が丘4-5」。この公園内に、平成6年(1994)に香芝市指定史跡となった別所城山1号墳、2号墳があります。

写真は公園の南側。児童公園となっているが、名前のような雰囲気は感じられない。二基の古墳を保存するために造られた公園のようにみえます。

公園の北側へまわると小さな広場となっている。正面には丘の上に登る広い階段が設けられており、児童でも簡単に丘(古墳)に登って遊べる(学べる)ようになっている。

登った上は別所城山1号墳の墳頂になる。写真は、1号墳の墳頂から別所城山2号墳の方向を眺めたもの。丘上は適度に樹木や草が除かれ、子供が遊べる雰囲気がでています。古墳の上だという感じはしない。

 三吉石塚古墳(みつよしいしづかこふん)  



城山児童公園から北へ歩くこと30分、新木山古墳と三吉石塚古墳が見えてきた。まず大きな新木山古墳の手前にある復元古墳の三吉石塚古墳(みつよしいしづかこふん)から見ていきます。

東からの写真。三吉石塚古墳(みつよしいしづかこふん)は、所在地の北葛城郡広陵町三吉字石塚からきている。新木山古墳の外堤西側に主軸を同じくして接しているので新木山古墳の陪塚と思われるが、築造時期がズレているので疑問も残る。平成4年(1992)に県指定史跡となる。

後円部に短い小さな前方部がつく形の帆立貝式前方後円墳。全長は45mで、前方部が新木山古墳の位置している東側を向いている。見事に築造当時の姿に復元されています。東側と南側に後円部の上まで登れる階段が設けられている。築造当初にこんな階段などあるずがない。階段をなくし、葺石の上を這い登らせる、っていうのはどうだろうか?。

後円部の墳丘は二段築成で、一段目には円筒埴輪列に朝顔形埴輪を置いた埴輪列がめぐり、後円部の墳頂には蓋(きぬがさ)、短甲、家などの形象埴輪が置かれていた。築造時期は5世紀後半と指定され、埋葬施設や被葬者は未調査のため不明。

周囲には馬蹄形の周濠がめぐり,さらに外堤が確認されている。墳丘と周濠内側には葺石が敷かれていた。
説明板に「墳丘と周濠部分の内側に10~30cmの葺石を施し、特に後円部の葺石が縦一列に並ぶ所があり、この葺石の列石間が1つの作業単位で、作業方法を示す基準と考えられています。葺石の材料は、前方部に使用されている黒雲母花崗岩が当麻町西方から、後円部の輝石安山岩が香芝市の二上山麓から運ばれてきたものです。」とあります。

古墳は広陵町の町営墓地に囲まれている。現代の一般庶民の墓と古代の貴人の墓が対照的です。今の世でこんな土盛りの墓に眠れるのは天皇のみです。

 新木山古墳(にきやまこふん)  



三吉石塚古墳の墳頂から眺めた新木山古墳(にきやまこふん)の後円部。古墳名は、所在地の北葛城郡広陵町赤部字新木山からきている。新木山古墳もかっては手前の古墳のように葺石で覆われ埴輪列がめぐっていたことでしょう。天皇陵を含め古代の古墳は、青々とした森を想像してしまうが、実際の姿は全く別物ということですね。

後円部北側まで濠が廻っているが、後円部から前方部までの南側は濠が埋められ耕作地として使われています。墳丘は鉄柵で囲まれ、宮内庁が陵墓参考地として立入禁止としている。何故、周濠は見逃されているのでしょうか?。

後円部から前方部方向へ墳丘の南側を眺めたもの。全長200m,後円部径117m、後円部高さ19m、前方部幅118m、前方部高さ17mで、前方部を東に向けた前方後円墳。 両くびれ部に造り出しが存在する。
埋葬施設は不明。勾玉、管玉、棗玉が見つかり宮内庁で管理されている。築造時期は、外堤から出土した円筒埴輪により5世紀前半と考えられている。

南側一帯の濠も田畑として利用されています。

南側中央辺りで墳丘に近づくと、宮内庁の立て札が見えます。「三吉陵墓参考地」と書かれている。調べると、第30代敏達天皇の子で、第34代舒明天皇の父にあたる押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)を想定しているようです。

周濠は墳丘北側と前方部にのみ残り、水を貯えている。前方部の北側は池となっており、周濠と一体となっている。かっての溜池でしょうか。それ以外は埋め立てられ田畑として利用されている。陵墓参考地としては珍しい。

 牧野古墳(ばくや古墳)・佐味田宝塚古墳(さみたたからづかこふん)  



新木山古墳から、新しい一戸建て住宅が建ち並ぶ中を西へ西へと歩きます。20分ほどで牧野史跡公園の森に到着。

牧野史跡公園は、公園というほどの施設はなく、名前のとおり古墳史跡を保存するための公園のようです。公園図に牧野古墳の位置がはっきり示されていないのが残念だ。別名「うまさん公園」とあり、なんかピンとこない。どこが”うまさん”なのでしょうか?。近くには「ねずみさん公園」もあります。

公園正面入口から入って右へ曲がるとすぐ左に階段が見える。階段を登ると石室の入口が見えている。
直径55m、高さ13m、三段築成の円墳。二段目に南を向い開口している横穴式石室です。築造時期は石室や石棺、出土遺物から6世紀末と見られている。
昭和32年(1957))に国の史跡に指定され,史跡公園として整備された。

奈良県下でも最大級の大きさを誇る両袖式の横穴式石室。全長17m、玄室部は長さ7m・幅3.3m・高さ4.5m、羨道部は長さ10.4m・幅1.8m・高さ2mで、大きな花崗岩を積んで構築されている。
玄室内には奥壁に沿って長さ2.1mの横向きに刳抜式の家形石棺が安置され、その手前の方に置かれていた石棺は形が崩れていたが破片や痕跡から長さ2.6mほどの組合せ式の家形石棺であったと推定されている。
盗掘にあっていたが、副葬品は玄室内を中心に多数残されていた。金環や玉類の装飾具、一万個以上に及ぶガラス小玉、銀装大刀、矛、鉄鏃等の武器、金銅装の馬具二組、土器類など。
被葬者は誰か?。敏達天皇の皇子押坂彦人大兄皇子の成相墓(ならいのはか)の可能性が高いといわれる。押坂彦人大兄皇子は宮内庁によって新木山古墳が陵墓参考地となっているのだが、両古墳を比較すると、大きさ、形状、築造時期とも全く異なっているのだが・・・?

なお、見学希望日の2週間前までに広陵町教育委員会文化財保存課(0745-55-1001)へ申し込むと石室内部を見学できるそうです。

牧野古墳から北東に300m程の所に佐味田宝塚古墳(さみたたからづかこふん)がある。傍に近づけず、これといった案内も無いので確信がもてないが、それらしき森を佐味田宝塚古墳らしいとして写真を撮りました。

全長112m、後円部直径60m・高さ8m、前方部の幅45m・高さ8mで、前方部を北東に向けた二段築成の前方後円墳。周濠は確認されていないという。築造時期は4世紀後半と推定されている。
明治14年(1881)に地元民により後円部の墳頂が発掘され粘土槨が見つかり、木棺を覆っていた粘土内から約36面の銅鏡を含む約140点の副葬品が出土したことで全国的に注目された。特に日本で唯一の出土例である家屋文鏡(かおくもんきょう)と呼ばれる直径22.9cmの大型鏡が注目されている。鏡背に4棟の建物の図像(竪穴式住居,高床倉庫,高殿,平地式建物)があしらわれており、古墳時代の建築を具体的に示す資料として注目されています。「卑弥呼の鏡」ともいわれる三角縁神獣鏡も11面以上出土しています。昭和62年(1987)に国の史跡に指定された。また副葬品の大部分も平成13年に重要文化財に指定され、一部が東京・奈良国立博物館に収蔵・展示されている。

 竹取公園と讃岐神社(さぬきじんじゃ)  



牧野古墳前の広い車道を東へ1キロ、竹取公園に着く。竹取公園は、広陵町が「竹取物語」の伝説を元に「町おこし」として建設した公園です。

「竹取物語」は平安時代初期の,仮名文による日本最古の物語といわれる。「かぐや姫」のお話で、日本人なら誰でも児童の頃から知っている物語です。そのため、わが町こそ物語の舞台だ、と主張する地域があちこちに現れ、町おこしに利用している。京田辺市,京都府向日市,香川県長尾町(現さぬき市),岡山県真備町,広島県竹原市,鹿児島県宮之城町など。ここ広陵町もその一つ。各自治体それぞれの言い分があるようですが、広陵町の言い分は上をお読み下さい。

公園に入ると大きな切り竹のオブジェが置かれている。竹取公園のシンボルマークのようだが、よく見るとトイレマークがついていた。

家族連れで楽しめる普通の公園だが、すぐ横にお花いっぱいの馬見丘陵公園があるので、こちらの公園はちと物寂しそうです。園内には竹取物語を紹介するパネルが並んでいます。

竹取公園から南へ200mほどの森の中に讃岐神社が鎮座している。拝殿と本殿があるだけの小さな神社です。
現在の祭神は大物忌命・倉稲魂命・猿田彦命・大国魂命を祭る。

「今は昔、竹取の翁というものありけり。名をば讃岐造(さぬきのみやつこ)となむいひける」で始まる『竹取物語』。竹取翁の出身部族である讃岐氏は、持統-文武朝廷に竹細工を献上するため、讃岐国(香川県)の氏族齋部(いんべ)氏が大和国広瀬郡散吉(さぬき)郷(現広陵町三吉)に移り住んだものとしている。そして讃岐神社が建てられた。「讃岐」「散吉(さぬき)」「三吉(みつよし)」は同じものだという。またこの辺りには「藪ノ下」、「藪口」、「竹ケ原」という地名が残り、竹取物語の舞台となったと説かれている。


詳しくはホームページ

宣化天皇陵からキトラ古墳へ 2

2020年10月23日 | 古墳を訪ねて

★2020年10月3日(土曜日)
午後からは牽牛子塚古墳~真弓鑵子塚古墳~岩屋山古墳~マルコ山古墳~束明神古墳~岡宮天皇陵~キトラ古墳~檜隈寺跡の順に歩きます。
(追記)牽牛子塚古墳が誰でもが認める斉明天皇陵だが、宮内庁は車木ケンノウ古墳に固執している。そこで後日(11月12日)、車木ケンノウ古墳を訪れてみました。

 牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)  




次は牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)だ。沼山古墳のある公園から車道を南へ200mほど歩けば白橿中学校の校舎に突き当たる。中学校背後に見える丘陵の反対側に牽牛子塚古墳は位置している。校舎の西側に入り、プール横を通って丘陵に入って行く。雑草の中に、かすかに道跡が残っている。一本道なので困ることはない。

10分ほどで丘の頂に出ると、柵が現れ牽牛子塚古墳の領域には入れないようになっている。牽牛子塚古墳石室の閉室について明日香村教育委員会のページには「牽牛子塚古墳等整備工事の進捗に伴い、工事が完成するまでの間、史跡地内及び牽牛子塚古墳の見学ができなくなります。期間 平成33年3月31日(予定)まで」とありました。高松塚古墳やキトラ古墳のような歴史公園に復元整備するようです。平成33年って来年だっけ?。
上記のページに載っていた完成図です。飛鳥時代の『見える化』の取り組みとして、墳丘を屋根で覆い当時の石を模したタイルを積んで八角形の外観を再現し、石槨も見学可能にする構想、だそうです。

柵を少し乗り越え撮った写真で、古墳の北側になる。
2009年(平成21年)から2010年(平成22年)にかけて明日香村教育委員会による発掘調査が行われ、対角線約33メートル、高さ約4.5メートル、版築(はんちく、何層にも土をつき固める手法)による三段築成の八角墳であることが判明した。また、三角柱状に削った白色凝灰岩の切り石やその破片が多数出土しており、墳丘斜面を装飾していたと思われる。

山道は丘陵上を東に向って続いている。時々整備工事の現場が見えます。これは東側から眺めたもの。

埋葬施設は、凝灰岩の一個の巨石(横幅5m,奥行き3.5m,高さ2.5m)をくり抜いて造った横口式石槨。この巨石は約15km離れた二上山西麓より運搬されたもの。
厚さ45cmの壁によって仕切られた東西二つの石室が南を向いて開いている。左右両室は奥行き2.1m,幅1.2m,高さ1.3mでほぼ同形・同大。天井は丸みをおびており、壁の全面には漆喰が塗られていた。床面には長さ約2m、幅約80cm、高さ10cmの棺台(棺床)が削り出しによって造られていた。
「古墳全体に使用された石の総重量は550トン以上と考えられる。運搬には丸太(ころ)を用いても数百人、地面を引きずったとすれば1,400人もの人員が必要であり、これについては、巨石を大勢で長距離運ぶこと自体に律令国家の権力を誇示する意図があったという見方がある。」(Wikipediaより)

盗掘を受けていたが、大正時代に夾紵棺(きょうちょかん、麻布を漆で何重にも貼り重ねてつくった当時としては最高級の棺)の断片と棺を飾った金銅製の金具、ガラス玉、30代後半と推定される女性の一本の歯など出土し、大正12年(1923)に「牽牛子塚古墳」の名称で国の史跡に指定された。これらの出土品も昭和28年(1953)、国の重要文化財に指定され奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に保管されている。
築造年代は、遺物等から7世紀中葉から8世紀初頭までが推定されている。

これは南側から撮った写真。

ほぼ同形同大の二つの墓室をもつこの古墳の被葬者は誰か、ということが以前から注目されていた。
今まで、古墳の立地や歯牙等から斉明天皇と娘の間人皇女(孝徳天皇の皇后)の母娘の合葬墓とする説が有力だった。第37代・斉明天皇(女帝、594-661、第34代舒明天皇の皇后)は、百済救援のため九州におもむいたが、661年筑紫の朝倉宮で没した。遺骸は大和へ運ばれ、モガリの後の天智6年(667)に子・間人皇女(665年死去)と合葬されたという。日本書記には,斉明天皇と「間人皇女とを小市岡上陵に合せ葬せり。是の日に,皇孫大田皇女を,陵の前の墓に葬す」と記されている。牽牛子塚古墳のある場所は明日香村大字越で、「越」は古代の「小市」が転化したもので、場所も日本書記の記述に合致する。
八角墳と判明したこともこの説を裏付ける。中国の道教の影響から「八」が重視され、七世紀中葉以降の天皇陵は八角墳が多くなる。斉明天皇の夫・舒明天皇の陵墓(段ノ塚古墳)、子の天智天皇の陵墓(御廟野古墳)および天武天皇の陵墓(野口王墓、持統天皇との合葬墳)がいずれも八角墳です。
さらに2010年(平成22年)の調査で、牽牛子塚古墳に隣接して小さな古墳が見つかり、地元の小字名から「越塚御門古墳(こしつかごもんこふん)」と名付けられた。日本書記に記述されている大田皇女の墓である可能性が高い。大田皇女(おほたのひめみこ)は,中大兄皇子(天智天皇)の娘,即ち斉明天皇の孫にあたり,大海人皇子(天武天皇)の妃、持統天皇と姉妹。そうだとすると、母・娘・孫娘の女性三代が眠るという特異な墓域です。
平成26年(2014)、国の史跡「牽牛子塚古墳」に越塚御門古墳が追加指定された。

こうしたことから牽牛子塚古墳は斉明天皇と間人皇女との合葬墓であることがほぼ確定され、学界の常識となっている。しかし宮内庁は、ここから2.5キロメートル西に離れた、奈良県高市郡高取町大字車木に所在する車木ケンノウ古墳を斉明天皇陵として治定している。見直しの声が高まっても「墓誌など確実なものが発見されない限りは陵墓治定を見直す必要はない」との立場をとっている。車木ケンノウ古墳にも墓誌などあるはずがない。墓誌が残されている古墳など存在しないので、明治初期にあやふやな理由で決められた天皇陵は、誤っていても治定替えできないことになる。ましてや、公園化され石室も含め一般公開されると、ますます天皇陵へ治定替えはできなくなる。「陵墓は皇室祭祀の場であり、静安と尊厳を保持しなければならない」ので、何人も踏み込むことの出来ない聖域だ、というのが宮内庁の論理だからです。斉明天皇と娘、孫娘の静安と尊厳はどうなるんでしょうか?。

 真弓鑵子塚古墳 (まゆみかんすづか)  



牽牛子塚古墳の整備工事現場を避けながら丘陵上に山道が東へ続いている。かなり荒れた道だ。
しばらく歩くと「カンス塚→」の標識が現れ、その矢印の方へ歩くと「真弓鑵子塚古墳」の案内板が設置されていた。案内板がある小道へ這入っていくとすぐ小山です。

小山へ入っていくと、道は金網のフェンスで遮られこれ以上進めない。しかしよく見ると、フェンスの右端が広げられ、かろうじて通れるくらい開いている。好奇心の強い誰かがこじ開けたのでしょう。
私も少々好奇心があるので、ゴメンナサイと言いながら這入っていった。フェンスの先はすぐ10段ほどの階段になっている。階段上で左右に道が分かれる。案内などあるはずがなく、さてどちらに行くか?。左に行ったら正解でした。

20mほどで石室が見えてくる。石室の開口部は小さく、格子戸で閉鎖されている。格子の間からレンズを差し入れ撮ってみたが、暗すぎて写らない。フラッシュがないと無理なようです。

南向きの片袖式横穴式石室は全長17.8mあり、羨道、棺を置く玄室、奥室からなる。大きな石を積み上げた石室の壁面は、三段目以降が内側に迫り出させる持ち送り(穹窿式)により、ドーム状の天井となっている。これほど大規模なドーム状石室は国内では珍しいそうです。「鑵子(カンス)」とは湯釜・茶釜のことで、このドーム形状からきている。この周辺には「鑵子塚」との名を持つ古墳がいくつか存在しています。
玄室の広さはあの石舞台古墳をしのぎ国内最大級とされる。追葬により複数の棺を納める意図があったと思われます。石室の西側と奥室の床から家型石棺の破片が出土しており、石棺が二棺あったと思われる。さらに見つかった鉄釘から木棺が1棺以上があった可能性があるという。
玄室から続く北側に通路状の奥室を持つのが珍しい。割石を小口積みにした閉塞石が見つかっていることから、これは北側からの入口で、内から石壁で塞いだものと想定される。

丘陵の一部を削り出し盛土した直径約40m、高さ約8mの二段築成の円墳。
ここに眠っている被葬者は?。朝鮮半島に多く見られるドーム状の石室や、渡来人の古墳からよく見つかる遺物が出土していることから渡来系氏族だと考えられる。特に明日香村南西部から高取町にかけての地域は檜隈と呼ばれ、檜隈寺を中心に東漢氏(やまとのあやうじ)が多数居住していた。蘇我氏に近づいて勢力を伸ばした渡来系氏族・東漢氏が有力視されている。

 岩屋山古墳(いわややまこふん)  



牽牛子塚古墳や真弓鑵子塚古墳のある場所から東の近鉄吉野線・飛鳥駅を目指して歩く。飛鳥駅の東側駅前は、高松塚古墳に近いこともあってよく整備され開けている。ところが西側の駅裏は昔からの越の集落で、細い路地が入り組み曲がりくねっています。岩屋山古墳はすぐ駅裏なのだが、見つけるのに苦労しました。
路地から横を見ると、少し入った正面に古墳の盛り土だけがポッコリと佇んでいる。丘陵の一部のような形状を想定していたが、周りに森や丘のようなものはありません。墳丘の一部は削平されて民家となっているようです。

石段をのぼると南向きに石室が大きく開口している。版築による二段築成で、下段は方形だが、上段は封土が削り取られているため形状は明確でない。方形か、円形か、八角墳との見方もある。
全長約17mの両袖式横穴式石室は、巨大な花崗岩の切石を組みあげて造られている。表面の滑らかさといい、これほど精巧に切石加工が施されている古墳も珍しいという。手前の長さ12mの羨道は、手前が二段積み、奥が巨石を3枚並べた一段だけ。5枚の天井石がのっかる。

奥の玄室は二段積みで、各壁とも上段は内側へ少し傾いた構造をしている。天井石は大きな一枚岩が被さる。石と石との隙間には、丁寧に漆喰が塗り込められています。築造年代は7世紀前半頃と推定されている。なお石室内は既に乱掘されており、埋葬当時の遺物は発見されなかったらしい。

ここと同じような規格をもつ切石積石室の構造を「岩屋山式石室」は呼び、石室編年の指標の1つとなっている。古墳時代終末期の横穴式石室の代表的な形式だそうです。このような「岩屋山式」の横穴式石室は、飛鳥地方から桜井地方にかけて多く分布しており、今日見てきた小谷古墳もその一つ。
被葬者については、八角墳だとするなら当時としては最大クラスの古墳となり斉明天皇の可能性もあるという。その他、吉備姫王、巨勢雄柄宿禰らの名があげられるが詳細は不明。

石室にも、墳上にも自由に出入りでき、これほど開放的な古墳も珍しい。古墳勉強のモデルケースにできそうだ。横穴式石室が開口していたので、古くからその存在が広く知られていた。明治時代に英人・ウイリアム・ゴーランドが石室に入り「舌を巻くほど見事な仕上げと石を完璧に組み合わせてある点で日本中のどれ一つとして及ばない」と書いている。桜井市の文殊院西古墳と並んで「日本一美しい古墳」と云われています。昭和43年(1968)に国の史跡に指定された。

墳丘上からの眺めもよい。こちらは東側で、中央に見える森は欽明天皇陵で、その後方には明日香村が広がる。どこにでも見られるありふれた風景だが、その歴史を知ればまた違った感慨が湧いてくる眺めです。

 マルコ山古墳  



岩屋山古墳の次はマルコ山古墳です。少し距離があります。込み入った越の集落を南に抜け、マルコ山古墳へ続く道にでる。さらに西方の丘陵目指して20分位歩くと、古墳のある地ノ窪集落が見えてきました。集落に入るとすぐ右手に、緑美しく復元された古墳の墳丘が現れる。案内標識も置かれていた。名前のとおり「マルッコイ」古墳だ。

高松塚古墳で日本中が沸き立っていた頃、高松塚とよく似ているということでマルコ山古墳も注目され調査されました。しかし残念ながら”美人”は見つからなかった。期待をもたせてくれてアリガトウ、ということからか高松塚古墳と同じように復元整備されたのです。国の指定史跡になっている。

真弓丘陵の東西にのびる尾根の南斜面を利用して作られている。この時期、お墓に彼岸花が供されています。

以前の調査で円墳とされていたが、平成16年(2004)、西側の民家が立ち退いたのを機に再調査した結果、1辺約12mの六角形古墳(下段の最長対角線約24m、高さ5.3m)だということが判った。八角墳は多いが、六角墳というのは非常に珍しい。墳丘は版築(土を層状につき固めて壁などを作る方法)による盛土を行って、二段築成で築かれていた。築造時期は7世紀末~8世紀初めの古墳時代終末期と想定される。

発掘後、埋め戻されてしまったので石室は見ることができません。南向きに開口していた横穴式石室は、高松塚古墳やキトラ古墳と同じように凝灰岩の切石を組み合わせて築いたもの。天井石の内側は屋根型に刳り込まれ、床を含む内壁には漆喰がぬられていた。
盗掘にあい副葬品などは持ち去られ少ないが、漆塗木棺(乾漆棺)の破片、鉄釘や銅釘、金銅六花形飾金具、金銅製大刀金具、尾錠などが出土している。

墳丘の裾に右へ回りこむ道がついている。その先に屋根付の施設があるので休憩所かと思ったらトイレでした。これは背後の北側。UFOか、土饅頭か?、子供達の遊び場にも良い。特に道は設けられていませんが、墳丘上まで登ることもできます。

被葬者は?。当時、天皇や皇太子は八角墳に葬られており、六角墳は円墳の高松塚、キトラ両古墳より格上で、天皇につぐ身分の高い皇族関係の人が想定される。30歳代と思われる男性の人骨が出土していることから壮年の男性と推定され、天智天皇の川島皇子が有力視されている。

 束明神古墳(つかみょうじん)  



次は束明神古墳(つかみょうじん)です。マルコ山古墳からは直線距離にすると近いのだが、間に田畑が遮り、近くて遠い。いったん近鉄線傍まで戻り、そこから奈良県立高取国際高等学校に沿った北側の道を西へ歩く。田畑を越えた先に、さっきのマルコ山古墳が見えている。この田畑を横断しようと二度挑戦したがダメだった。イノシシ(熊?)用の柵が張り巡らされているのです。無理やり越えるとケガをするし、イノシシに間違えられる・・・。

春日神社のある山裾の佐田集落を目指します。。黄金の稲穂と、畦道に咲く真っ赤な彼岸花が秋を感じさせてくれる。

民家が入り組み込み入った佐田の集落の中を歩く。やっと春日神社の階段を見つけました。100段あるこの階段を登ると春日神社です。鳥居の右上に古墳と思われる土饅頭が見えていた。

現在、小さな土盛りにしか見えないが、これは神社によって削られてしまったためです。調査によれば、丘陵の尾根の南側を直径約60mにわたり造成し、その中央部に対角長36mの八角形墳が造成されていたことが判明した。7世紀後半から末頃の終末期古墳に属する。
南側に開口する横口式石槨は、長さ約3m、幅約2m、高さ約2.5mで、二上山の凝灰岩を縦横50cm、厚さ30cmの切石にし積み上げて造られていた。床には漆喰が塗られていた。現在は埋め戻されているが、復元された石槨が橿原考古学研究所付属博物館の前庭にあるそうです。

被葬者については、天武天皇と持統天皇の息子の草壁皇子(くさかべのみこ)が有力視されている。歯牙6本が出土し、年齢は青年期から壮年期の男性のものと推定され、689年に28歳の若さで病死した草壁皇子に合致する。古墳の周辺から出土した須恵器の破片などからも7世紀後半から末頃の築造であること、高貴な人の墓とされる八角墳であること、また文献(万葉集・延喜式)に佐田の近くの「真弓の岡」に葬られた、と記述されている。こうしたことから総合的に判断して草壁皇子の陵墓だとするのが大方の見方になっている。

佐田の村でも岡宮天皇(草壁皇子)の御陵だという認識が以前からあったようです。幕末に、陵墓指定の調査が入るとの話が伝わると、村人達は陵墓指定されると強制移住させられるのではないか、と恐れた。そこで古墳にめぐらせていた玉垣をはずし、石室を壊した。役人がやってきて鉄の棒を墳頂から突いたが石室にあたらず断念した、という伝承が伝わっている。結局、300m南の現在の陵墓地が「岡宮天皇陵」となった。

 岡宮天皇陵(おかみや)  



草壁皇子の墓「岡宮天皇陵」は、束明神古墳から300mほど南です。南へ下る道の途中で右へ入る。標識は立っているが、見逃しやすい。

右の道へ入り、ゆるい坂を上ってゆく。すると階段が二つ現れる。正面の簡素な門のある階段は素戔鳴命神社へ、左の階段が陵墓へのもの。

どの天皇陵でも見られる同じような構えの陵墓です。ただ柵で閉められ中に入れず、正面に回ることはできない。「岡宮天皇真弓丘陵」(まゆみのおかのみささぎ)となっている。「岡宮天皇」とは歴代天皇の系譜に入っていないが、天武天皇と持統天皇の息子の草壁皇子に後になって追号されたものです。

天武天皇の崩御後、皇太子だった草壁皇子が父を継いで天皇になるはずだったが、持統3年(689)4月に28歳という若さで病死し、天皇として即位することなく佐田の近くの「真弓の岡」に葬られた。草壁皇子の妃は天智天皇の皇女で持統天皇の異母妹にあたる阿陪皇女で、後に元明天皇として即位する。さらに娘は元正天皇、息子は文武天皇として即位し、孫には聖武天皇がいる。身内のほとんどが皇位についているのです。こうしたことから淳仁天皇(草壁皇子の異母弟に当たる舎人皇子の皇子)即位後の天平宝宇2年(758)に、「岡宮御宇天皇」(おかのみやぎょうてんのう)という尊号が贈られた。

草壁皇子墓は佐田の近くの丘陵とされていたが、はっきりとした場所は江戸時代まで不明だった。幕末の文久2年(1862)から始まった「文久の修陵」で、歴代天皇陵の探索とその修陵が行われた。岡宮天皇陵もその時に現在地に治定され、遥拝所が設けられたのです。もともと現在地には素戔鳴命神社の本殿が鎮座していたが、神社は東側に移動させられてしまった。草壁皇子墓を現在地とする根拠はなく、束明神古墳こそ草壁皇子の墓だ、というのが現在の大方の見立てです。

離れて眺めた岡宮天皇陵。環境はすこぶる良さそうです。右側の森の中に隠されてしまった素戔鳴命神社が思いやられます。

 キトラ古墳  



今日の目的地・キトラ古墳へ向います。近鉄吉野線・壷坂山駅に出て、そこかキトラ古墳目指して東の方向に歩く。さすが人気のキトラ古墳だけあって、駅前からはよく整備された遊歩道が設けられている。案内標識によると、壷坂山駅から1キロのようだ。
キトラ古墳の墳丘は小高い阿部山の南斜面に築かれている。2013年に石室の考古学的調査は終了し、石室は埋め戻されて墳丘の復元整備が行われた。現在、整備は完了し「国営飛鳥歴史公園 キトラ古墳周辺地区」となっている。特別史跡キトラ古墳を周辺の自然環境や田園環境とあわせて一体的に守るとともに、多くの人が飛鳥の歴史や文化、風土を味わい過ごせるよう整備された国営飛鳥歴史公園の1地区です。2000年11月に国の特別史跡に指定されている。

丘陵の南斜面を平らに削り、そこに版築によって築かれた二段築成の円墳です。上段が直径9.4m、高さ2.4m、テラス状の下段が直径13.8m、高さ0.9m。版築(はんちく)とは、板枠で囲んだ中に土を入れたたき棒などで突き硬く固め、最後に板枠を外す。これを繰り返し高くしていく。

現在の墳丘は、発掘調査の成果をもとに、上段・下段とも保護盛土を施して築造時の大きさに復元したもの。地形も古代の姿に近いものにしている。

墳丘の南側は広場となっている。名付けて「古墳鑑賞広場」。こうした公園化された古墳ってどうでしょうか?。草や藪をかき分け石室に達する、という古墳巡りの興奮がありません。しかし子供達を含め多くの人が古代の有様を気楽に鑑賞できます。これが明日香村のすすめる飛鳥時代の『見える化』の取り組みなのでしょう。

古墳鑑賞広場から復元墳丘を見上げる。丸太の椅子の場所が、一番美しく古墳を眺められるそうです。現在復元整備中の牽牛子塚古墳もこんな風になるんでしょうか?。

「キトラ」の名前由来について国営飛鳥歴史公園サイト
「名前の由来は、中を覗くと亀と虎の壁画が見えたため「亀虎古墳」と呼ばれたという説、古墳の南側の地名「小字北浦」がなまって「キトラ」になったという説、またキトラ古墳が明日香村阿部山集落の北西方向にあるため四神のうち北をつかさどる亀(玄武)と西をつかさどる虎(白虎) から「亀虎」と呼ばれていたという説など、いろいろな説があります。」とありました。

■★● 壁画の発見までの経緯、●★■
●昭和47年(1972)、高松塚古墳で極彩色壁画「飛鳥美人」が見つかり、日本中が沸きあがった。その後「飛鳥美人の夢を再び」と、周辺で美人探しが始まる。マルコ山古墳も期待され、昭和52年(1977)から報道陣の注目するなか発掘調査が行われたが美人は現れなかった。
その後、「阿部山の人から、あのような古墳が、私の集落にもある」という話が伝わる。その場所は地元では「キトラ」と呼ばれていた。これがキトラ古墳の発掘調査の糸口となった。
●昭和58年(1983))11月7日、高松塚古墳の時の経験を踏まえ、慎重を期して墓室内部をファイバースコープによる探査が始められた。発掘せずに古墳内部を調査するという考古学上初めての試みです。たまたま南壁の左上に盗掘のための穴が開いていた。

「盗掘坑を通じ石室内に斜めにガイドパイプを差し込み、そこから髪の毛の1/10の太さのファイバー3万本を束ねて作った3万画素のファイバースコープを挿入して撮影しました。開始からまもなく、北壁のやや高い位置に玄武の壁画を発見。高松塚古墳に次ぐ第二の壁画古墳であることが判明しました。このファイバースコープによる調査は飛鳥古京顕彰会がNHKに要請しておこなわれました。」(キトラ古墳壁画体験館「四神の館」の説明より)
こうして石室の奥壁に玄武と思われる壁画が発見された。高松塚古墳に次いで二例目となる大陸風壁画古墳として世間や学会から注目を集めました。

●15年後の平成10年(1998)の第二次調査で、上下左右に向きを変える40万画素小型CCDカメラで探査し、青龍、白虎、天文図を発見。

そして平成13年(2001)の第三次調査では、上下左右のほかに後方にまでレンズを向けられる334画素デジタルカメラを用いて、南壁の朱雀を確認し、獣頭人身十二支像の存在も確認された。

●発掘後、湿気のため石室内にカビが発生し、壁画の変質が進行していることが判明。すでに壁から浮き上がり、剥落が懸念される部分が多数あることも確認された。そのため壁画全体を取り外して石室外で保存修復処置を行うことが決定された。平成16年(2004)8月より損傷の激しいものから順次取り外し作業が開始され、平成22年(2010)11月までにはぎ取り作業を完了した。現在、取り外した壁画は細心の注意をはらって修理、強化処理をおこないこの施設で保存管理されています。

平成25年(2013)3月までに石室の考古学的調査は終了した。「石室内調査を終了し、石室と墓道部を再び埋め戻しました。石室南側の盗掘坑は、石室石材と同じ凝灰岩でふさぎ、すき間は漆喰でていねいに埋めました。墓道部は、石灰を混ぜた土をつき棒や木槌で叩き締める方法、つまり「版築」の手法で埋め戻しました。こうしてキトラ古墳は眠りについたのです」(「四神の館」の説明より)。穴を封印した石材には「キトラ古墳石室の盗掘口を閉塞する」という文字を刻んだ銅板が取り付けられているそうです。

 キトラ古墳壁画体験館「四神の館」  


墳丘の北側にあるのが平成28年(2016)に開館したキトラ古墳壁画体験館「四神の館」。
1階は文化庁の「キトラ古墳壁画保存管理施設」となっており、壁画の本物が保管されている。壁画や出土品の保管室は、天井・壁・床を二重構造にし、保管室内と二重壁内とにそれぞれ独立した空調システムを採用することで外気の影響を受けにくい構造になっている。文化庁が設置し、奈良文化財研究所が施設の管理・運営と壁画公開事業などに協力している。
一階の展示室では、期間限定で壁画実物を公開してます。令和2年10/17~11/5日には「第17回公開国宝・キトラ古墳壁画」として西壁・白虎と天文図が公開される。無料、事前登録制(往復ハガキか公式サイトで)。

地下は常設館で、レプリカ、映像、写真などを駆使してキトラ古墳やその壁画、天文図などを解説している。写真撮影もできます。この時期、マスク着用は必須となっている。込み合うと入場制限されるかも。土曜日の午後だったが、この日は十数人だけでした。
開館時間:9:30分~17:00分(12月から2月は16:30まで)、入館無料。

(写真右は石室の実物大レプリカ)墳丘の中央に横口式石室があり、大きさは奥行き2.4m、幅1.0m、高さ1.2mとやや小さい。二上山から運ばれた18個の凝灰岩の切石を「相欠き」という工法で組み上げて造られていた。「相欠き」とは「つなぎ合わせる2つの部材をカギの手形に組み合わせる工法のこと。現在でも使われている。この工法で石をがっちり組み合わせて石室が造られています」(「四神の館」の説明より)

石室の天井は屋根形に加工され、南の天井石も外形が屋根形に加工されています。石と石とのすき間は漆喰で埋められ、奥壁・側壁・天井の全面にも漆喰が塗られ、その白い漆喰面に四神や十二支、天文図などの極彩色壁画が描かれていた。
石室の南側には棺や閉塞石を搬入するための幅2m位の通路が設けられていた。この墓道の床面に南北方向に並行する4列のコロレールの痕跡が確認されている。溝幅は20cm程で断面半円形をしているので丸太を埋めて、その上を搬入用のコロを動かしたと思われる。石室を閉塞すると、墓道も版築によって丁寧に再び埋め戻している。

(写真は実物大の閉塞石レプリカ)墓道から石室への入口だった南側は、棺を搬入後に閉塞石(へいそくせき)で塞がれた。石の周囲には丁寧に漆喰を詰めてあった。この南壁になる閉塞石の左上隅に高さ65cm、上幅40cm、下幅25cmの穴が空けられていた。これは盗掘のためのもので、周辺から見つかった瓦器片などから盗掘は鎌倉時代とされる。偶然にも、盗掘穴は内側に描かれた朱雀を避けて開けられていた。

昭和58年(1983))、この開いていた盗掘穴からファイバースコープを差し入れ、北壁に描かれていた玄武の壁画を発見したのです。こうしてキトラ古墳は長い眠りから覚めることになった。

床面を除いて、石室内の各壁面に四つの方位を守る神とされる四神や十二支が描かれ、石室の天井には天文図、日月像が描かれていた。それぞれ漆喰を塗った上に繊細な筆づかいで描かれたものです。
高松塚古墳に続き日本で2番目に発見された大陸風の壁画古墳で、これらの壁画は令和元年(2019)7月、国宝に指定されました。



<西壁の白虎>白い漆喰の上に、口内と腹に僅かに赤色が見られるだけで、黒線の太さと濃淡を変えることだけで描かれている。これだけ鮮やかな壁画が千三百年間地中に埋もれていたとは驚きです。



<南壁の朱雀>高松塚古墳では、盗掘により南壁の朱雀が失われていたため、我が国で四神の図像全てが揃う古墳壁画はキトラ古墳壁画のみ。左足は曲げ、右足を伸ばし、今にも飛び立とうとする瞬間に見えます。

<東壁の青龍>残念ながら、天井石の隙間から流れ込んだ泥土によって頭部以外はハッキリしない。大きく開いた口が印象的です。

<北壁の玄武>玄武とは亀に蛇が絡まった像のこと。写真が撮れなかったので明日香村のWebサイトから紹介します。
「玄武は北壁中央上よりに描かれている。 亀の甲羅には亀甲紋が施されており、腹から頸の部分にかけて縞模様がみられる。 頭は大きく後ろへ振り返り、蛇と相対面する。 口はしっかりと閉じており、目は蛇の顔を睨みつけている。 頭から腹にかけては黄土色に着色している。 蛇は亀に一回絡まって、頸をみずからの尾にも絡ます。 腹の部分は縞模様を呈し、背中には鱗を模した縞模様を施す。 全体にやや緑色が施されているようである。」

<十二支像>北壁の真ん中を「子」として時計回りに、各壁面の四神の下に3体ずつ十二支の獣面(獣頭)人身像が描かれていた想定されている。現在画像が確認できているのは、北壁の「亥(い)」「子(ね)」「丑(うし)」、東壁の「寅(とら)」、南壁の「午(うま)」、西壁の「戌(いぬ)」の6体だけです。

館内の説明に「キトラ古墳の特徴のひとつは、動物の頭と人間の体で十二支をあらわした獣頭人身十二支像(じゅうとうじんしんじゅうにしぞう)が描かれていること。身につけている中国風の衣服が陰陽五行説にのっとった各方位の色で描かれている。手に武器をもっている点は中国の意匠では見られない特徴ですが、仏教の影響とも朝鮮半島の影響とも言われています。
キトラ古墳に十二支像が描かれた理由。古代中国では、天文図、四神図、そして十二支の人形(俑(よう))を置いて、棺が模擬世界の中心に置かれていることを表現しました。キトラ古墳の場合、人形(俑)としてではなく壁画として描き、葬られた人の魂を邪悪なものから避ける守護神としたと考えられます。確認できる6体の十二支像。午は壁にかぶさっていた泥に図像が転写された状態で確認されました」とあります。

(「確実に存在するが、位置の推定が難しい金箔も図に示している。星座名については、複数の候補の中からひとつに絞り込んだものもある」と注釈されている)
<天文図>天井の平坦面には、円形の中国式の天文図が描かれている。三重の円同心(内規・天の赤道・外規)と太陽の通り道である黄道が石槨に彫まれた線に朱線を入れて描かれている。外規の内側には総数277個の金箔の星と、これを朱線で結んだ北斗七星などの星座が配置されている。「円を描くためのコンパスを使ったあとも確認されており、正確とは言えないまでも、実用的な天文図をもとにして描いたと考えられています」(館内の説明)
さらに屋根形の天井の東の傾斜部には金箔で太陽が、、西側の傾斜部には銀箔で月が描かれている。この天文図は、本格的な中国式星図としては、現存する世界最古の科学的な天文図だそうです。令和2年(2020)2月、日本天文学会は「日本天文遺産」に認定した。

これは「四神の広場」と名付けられた芝生広場。
キトラ古墳は7世紀末~8世紀初め頃に造られたと推測され、終末期古墳です。被葬者は誰か?。石室内から被葬者の人骨と歯牙も発見され、分析により「いろいろな歯の形からはガッチリした体格の男性であることが、歯の状態や骨の状態からは熟年から初老であることが、また虫歯や欠けた歯からは病気をもっていたことが読み解けます」(館内の説明)。
「誰が埋葬されているかは未だ判然としていない。年代などから、天武天皇の皇子、もしくは側近の高官の可能性が高いと見られている。また、金象眼が出土したことから、銀装の金具が出土した高松塚古墳の埋葬者よりも身分や地位の低い人物が埋葬されていると推測される。」(Wikipediaより)
古墳周辺の一帯が「阿部山」という名前の地名であることから右大臣の阿倍御主人、その他、弓削皇子、高市皇子などがあげられている。

 檜隈寺跡(ひのくまでら)・於美阿志神社(おみあし)  



四神の広場を通って、キトラ古墳から北へ500mほど離れた檜隈寺跡へ寄ってみる。7年前に明日香村を訪ねたおりに檜隈寺跡にも寄ったので、これで二度目になる。その時は、高松塚古墳から檜前の集落の中を通って南の檜隈寺跡へ向った。檜前の集落は、旧い民家が並び、その間を細い生活道路が曲がりくねっていた。それなりに歴史を感じさせてくれました。
今回は南側のキトラ古墳から北へ歩きます。写真正面の森が檜隈寺跡のある於美阿志神社だが、周辺の環境が一変してしまっている。広い散策路に案内所、休憩所、トイレ、案内板が完備され、歴史公園なのに古代の歴史は感じられません。

於美阿志神社(おみあし)に着きました。ここだけは7年前と同じです。
於美阿志神社は、もともと社前の檜垣坂を隔てた西方に鎮座していたが、檜隈寺跡の方が高台の乾燥地であるという理由で、明治40年7月に現在の地に遷されてきた。於美阿志神社は東漢直氏の祖・阿智使主(あちのおみ)を祭神として祀っている。社名の由来ははっきりしない。一説には、「阿智使主」の呼称が逆転して「使主阿智」となり、それがさらに転訛して「於美阿志」となったとされているが、はたしてどうだろうか。

この辺りは、古代に「檜隈(ひのくま)」と呼ばれた地域で、5世紀の前半頃から大陸の文化や技術を伝えた渡来人が居住していた地とされる。朝鮮半島由来の大型構造の建物の遺構が多く確認されているという。
祖先は中国の漢人で、祖国の戦乱を避け朝鮮半島の百済に移り、そこから渡来してきた東漢直(やまとのあやのあたい)一族の本拠地。日本書紀応神20年9月に「東漢直の先祖、阿智使主(あちのおみ)がその都加使主(つかのおみ)、並びに十七県のともがらを率いて渡来し、檜隈郷の地が与えられたと」記されている。東漢氏は、新興豪族・蘇我氏と結びつくことで、大和政権の外交・財政・軍事などに深く関わって成長してきたとされています。

この場所には、かって東漢一族の氏寺として檜隈寺が建っていた。創建年代は出土した瓦などから7世紀後半~8世紀初頭にかけてと考えられている。中世にかけしだいに廃れ、本居宣長が明和9年(1772)に訪れた当時の檜隈寺は、仮の庵が残るのみで境内には古瓦が散乱していた、と記録している。かっての檜隈寺の遺構は現在の於美阿志神社の地下に眠っています。 檜隈寺跡は国の史跡に指定されている。

於美阿志神社の境内となっている檜隈寺跡は1969年以降、4次にわたる発掘調査が実施された。その結果、檜隈寺の伽藍配置は、西を正面とし中門を置き、その対面の東に塔を、北に講堂を、南に金堂を配し、全体を回廊で囲むという特異な伽藍配置となっている。これは丘陵地に位置する地形上の制約によるものと考えられている。


神社社殿の左側(北側)に、土盛りで一段と高くなった広い空き地が残されている(右の写真)。ここはかっての講堂跡で、瓦が大量に出土しており、講堂の規模は飛鳥寺や法隆寺西院の講堂に匹敵するといわれる。

神社社殿の右側(南側)に、柵で囲まれた十三重石塔(重要文化財)が建つ。ここは檜隈寺の塔が建っていた場所で、檜隈寺が廃れた後の平安時代後期に、塔心礎の上に十三重石塔が建てられた。元々は十三重であったが、現在は十一重で、上の二重と相輪は無くなっている。凝灰岩製で現高約4.3m。
この柵の右側に塔の礎石らしきものが残されている。説明板には「塔心礎のレプリカ」とありました。



境内には第28代「宣化天皇檜隈廛入野宮跡(ひのくまいおりのみや)」(在位は536年から539年までの3年余り)の石柱も立っている。宣化天皇(536-539)の宮があったとの伝説により、1915年(大正4年11月)奈良県教育委員会が建立したもの。

於美阿志神社の西側も広い「明日香村近隣公園」となっていて、土曜日の午後なので子供たちの奇声が響いていた。キトラ古墳からここまで公園が連続しているのです。丘あり、谷あり、芝生広場あり、農業体験できる田んぼまである。さすが国営の公園だ。

於美阿志神社から北へ20分ほど歩けば近鉄吉野線・飛鳥駅です。ここが明日香観光の拠点になっている。駅前広場には、広い駐車場、総合案内所、24時間トイレ、多目的トイレ、レンタルサイクル、二人乗り電気自動車などの観光に必要なものは何でもそろっている。車道を挟んだ向かいには農産物直売所「あすか夢販売所」があり、人気となっています。
5時前、歩き疲れたので阿部野橋へ急ぎます。

 斉明天皇陵(車木ケンノウ古墳)  


牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)こそ斉明天皇陵だ、という大方の考えに対して、宮内庁は頑として「車木ケンノウ古墳」説を押し通す。そこで実際に車木ケンノウ古墳(くるまきけんのうこふん)を見てみようと、後日(11月12日)に訪れました。真弓丘陵の東側に牽午子塚古墳が,そから2.5キロほど離れた西側に車木ケンノウ古墳が位置します。JR和歌山線掖上駅を降り丘陵を目指す。
小さな橋を渡ると車木の集落。集落内の道も判りづらい。案内標識など全くありません。出会えばだが、地元の人に尋ねるのが一番です。

教えてもらい、掖上駅から20分位でやっと入口にたどり着く。ここから長い階段が始まります。宮内庁の心やさしい注意書きが目にとまり、やっとここが宮内庁管理の聖域だ、ということがわかった。”***するな”という命令調は見られませんでした。ここには女性達が眠っているからでしょうか?。
..
階段を少し登った左脇にお堂らしき建物がある。これが華厳寺なのだろうか?。どこを探しても寺名など表記されていません。数段上ると、今度は右側に階段が見える。これを登ると八幡神社だ。
階段は九十九折れて登っていく。階段数を数えたら、最上部の陵墓まで全235段ありました。勾配はきつくないが,かなり疲れます。

140段目辺りで,左に登る階段があり,その上に拝所が見える。「天智天皇妃大田皇女 越智崗上墓」(おちのおかのえのはか)とある。”皇妃”でなく”妃”,また”陵”でなく”墓”です。宮内庁のマニュアルでは,”陵”は天皇と皇后にしか使えないのです。
大田皇女(おおたのひめみこ)は中大兄皇子(後の天智天皇)の娘,即ち斉明天皇の孫にあたる。叔父である大海人皇子に嫁ぐが,夫が天武天皇として即位するのを見ることなく,7歳の大伯皇女、5歳の大津皇子を残したまま若くして亡くなっってしまう。皇妃になれず妃のままです。大田皇女の死後,大海人皇子の妃となったのは妹の讃良皇女だった。妹は天武天皇の皇后となり草壁皇子を生み、天武天皇亡き後に自ら持統天皇として君臨する。残された大津皇子は、皇位継承をめぐって草壁皇子と対立し、686年に謀反の罪で処刑されてしまう。後援者たる母親に雲泥の差があることからくる悲劇だった。
斉明天皇は生前,孫の大田皇女を可愛がり,私が死んだ時はこの子と一緒に葬っておくれと,と伝言していたという。
ここを墓だとしたのに何か根拠でもあるのでしょうか?。ただの山肌にしか見えないのだが。


美しく整然と敷き詰められた石段が印象的です。土木工事を好んだという斉明天皇にお似合いの階段となっている。瑞垣に囲まれた拝所が見えてきた。

拝所の前に鉄の門扉があり、それ以上近寄ることはできない。
「斉明天皇 孝徳天皇皇后間人皇女 越智崗上陵」(おちのおかのえのみささぎ)
「天智天皇皇子 建王墓」(たけるのみこのはか)
が並列されている。

日本書紀に「斉明天皇と間人皇女を小市岡上陵に合せ葬せり、是の日に,太田皇女を陵の前の墓に葬す」と記されている。中大兄皇子は667年、母と妹を合葬し、そして娘をその墓の前に埋葬したのです。間人皇女(はしひとのみこ)は斉明天皇の娘で,中大兄皇子の妹。孝徳天皇の皇后になる。

この墓域には建王墓もあるようです。建皇子(たけるのみこ)は中大兄皇子の息子で太田皇女の弟。中大兄皇子にとって嫡男となる息子だったが,不幸なことに生まれつき口がきけないという障害をもっていた。斉明4年(658)8歳という幼さで夭逝する。斉明天皇はこの孫の死を悲しみ,同じ墓に葬るよう命じていたという。

墳丘の周りを一周できるように瑞垣に沿って小道が設けられている。2分ほどで一周できてしまう小さな墳丘です。宮内庁は陵形:円丘としているが,どう見ても陵墓のようには見えません。ものものしい正面拝所の構えがなければただの山中でしかない。
発掘調査もされていないので(させる気もない)ので,埋葬施設も出土品もない。なぜここが斉明天皇陵とされたかというと,地名が「越智」であること,そして地元ではこの地を「天皇山」と呼んでいたので幕末の文久の修陵で治定された。宮内庁はそれを現在まで踏襲しているのです。
牽牛子塚古墳で新しい事実が次々と明らかになり,今や牽牛子塚古墳を斉明天皇だとするのが常識になっている。

車木の集落から眺めた葛城山と金剛山。この辺りは,まだ古代の歴史を感じさせてくれます。

民主党政権下の平成22年には国会でも取り上げられ,「宮内庁としては、治定を覆すに足る陵誌銘等の確実な資料が発見されていないことから、斉明天皇陵の治定を見直さなければならないとは考えていない」と答弁しています。天皇陵を含め「陵誌銘等の確実な資料」を有する古墳など存在しないのだが。

「車木」(くるまき)という地名は,斉明天皇を葬送する霊車が来て、ここに止まったことからくる,と言い伝えられているという。「ケンノウ」は「天皇山」から・・・?


詳しくはホームページ
>

宣化天皇陵からキトラ古墳へ 1

2020年10月10日 | 古墳を訪ねて

★2020年10月3日(土曜日)
酷暑の夏もようやく終り、肌にやさしい季節になってきた。コロナは相変わらずだが、どっかへ出かけたくなった。さて、どこを歩き回るか?。

そうだ、お墓参りに行こう!。毎年お盆には帰郷し、先祖のお墓参りをしていた。今年も早くから切符を手に入れ準備をしていたのだが、直前に実家に電話を入れると、「今年だけは帰ってくれるな、隣近所から後ろ指さされる」と諭されました。数年前に合い前後して亡くなった両親の墓前に手を合わせることもできません。
その代わりといってはナンですが、近場のお墓へ行こう。大和盆地はお墓だらけで、沢山のお墓、「古墳」とも言いますが、散在している。千五百年ほど前のお墓で、日本の礎を築いた人々が眠っています。私の親戚筋ではないのですが・・・ひょっとしたらどっかで繋がっているかも?。
近鉄・橿原神宮前駅から宣化天皇陵へ行き、そこから近鉄吉野線の西側を南へ歩きます。最終地はキトラ古墳で、かなりの距離がある。田畑の多い地域なのでコロナの心配はなさそう。総歩数<44086歩>、<33.0km>、<1752cal>

 史跡益田池堤(ますだいけ)  



朝7時半の近鉄南大阪線橿原神宮前駅の西口。駅西口を出て車道に沿って西へ歩きます。20分ほど歩いた所に宣化天皇陵があるので、そこをめざす。
途中で高取川にかかる益田大橋が現れる。この橋を渡った先にこんもりとした森が見えます。ここに県指定史跡「益田池堤跡」があるので立ち寄ってみることに。

車道脇なので入口はすぐ分かる。「益田池児童公園」となっています。
「益田池」とは、平安時代に堤を築き高取川を堰き止めて造られた巨大な灌漑用の溜池です。ダムの貯水池のようなもの。平安時代初期、弘仁13年(822)に工事を始め、天長2年(825)に完成した。堤の規模は幅約30m、高さ8m、長さは200m。池の範囲は畝傍山の南、久米寺の西南一帯の高取川流域。現在その跡地は橿原ニュータウンとなっている。

広々とし、緑に覆われ気持ちよさそうな公園です。休憩所も設けられている。堤跡は50mほど残され、堤の上に登る階段も用意されています。堤の上はは30mほどで行き止まりになっている。造られた当時からこういう形状をしていたのだろうか?。

なお、「田を益すの功ありし」灌漑用の池なので「益田池」の名前となったようです。益田池の完成にともない弘法大師空海が碑文「大和州益田池碑銘」を残している。空海は、弘仁12年(821年)に讃岐国(香川県)の満濃池を改修したことで土木技術の面でも有名でだが、益田池の工事には直接関わっておらず、弟子の真円らが携わったという。「大和州益田池碑銘」の一部に
「ここに一坎(いっかん)有り。其の名は益田。之を掘るは人力にして、成るは也(また)天に自(よ)りす。
車馬 霧のごとくに聚(あつ)まり、男女(なんにょ) 雲のごとくに連なる。」
(ここに一つの池がある。その名を益田という。それを掘ったのは人の力であるが、出来上がったのはやはり天のお陰である。車や馬は霧のように集まり、人びとは雲のように連なった。)

 新沢千塚古墳群(にいざわせんづか)  



益田池堤から県道戸毛久米線をさらに西へ歩く。やがて左手に宣化天皇陵が見え、案内標識も建っている。標識はこの県道をさらに西へ行けば新沢千塚古墳群があることを示しています。そこで先に新沢千塚古墳群の方へ行き、その後でここに戻ってくることにしました。



宣化天皇陵から10分ほど歩けば古墳群の丘が見え、「新沢千塚古墳群公園」(橿原市)となっている。



新沢千塚古墳群公園の現地案内図です(上が南で、下が北になる)。
戦争直後から1960年代にかけて発掘調査が行われた。その結果、総数約600基ほどの墳墓が見つかった。そのうち約400基ほどが、この公園内にあるそうです。そのほとんどは直径10~15mほどの円墳で、日本を代表する群集墳です。昭和51年(1976)に国の史跡指定を受け、平成24年(2012)から「新沢千塚古墳群公園整備事業」が行われており、現在も進行中。

中央を横切る県道戸毛久米線を挟んで北群公園(図では下)と南群公園(図では上)に分けられる。まず南群に入ってみます。

南群公園の中央にあるのが「新沢千塚ふれあいの里」。地元で採れた野菜、果物、植物のほか、奈良の特産品・工芸品などを販売しており、休憩所にもなっている。建物の奥が「龍の広場」と「四季の広場」

公園内は縦横に散策路、階段が設けられ、気持ちよく散歩できるようになっている。でもよく考えたら墓場なのだが・・・。





手前が225号墳、墓穴が復元され露出しているのが221号墳。





225号墳の南側にあるのが224号墳。展望用なのか、階段が付けられている。



「ふれあいの里」の建物の裏側に周ると、県道をまたいで北群公園へ渡る歩道橋が架けられている。正面に見える建物が「シルクの杜」。有料だがプール、風呂、トレーニングルームなどを備える。屋上には無料で利用できる足湯があるが、コロナのため現在は閉めているとか。
左端に見えるのが橿原市の原始から近世までを紹介する「歴史に憩う橿原市博物館」。ここの古墳群からの出土品も展示している。入館料:大人300円、9時~17時(月曜日が休館)
両施設とも開館前なので入っていない。

これから北群を周ります。シルクの杜を西側に回り、散策路を進むと階段が見える。登った上が173号墳。直径約14.0m、高さ約3.5m、5世紀後半の円墳で、土師器、須恵器、埴輪、武具、鏡などが出土している。

丘陵上を東へ歩く。よく整備された快適な散策路だが、次々に現れる土饅頭が異様だ。写真左の土饅頭が115号墳です。

道を挟んで115号墳の向かいが一番有名な126号墳。外見は平べったく地味な古墳だが、内部から貴重な副葬品が多数出土し注目された。中国大陸、朝鮮半島からの副葬品だけでなく、はるか遠く古代ペルシャからシルクロードを経てもたらされたと考えられるガラス製品が見つかったのです。5世紀後半築造の古墳なので、正倉院遺物よりも三百年古い時代にヨーロッパから伝わっていたことになる。貴重な副葬品は国重要文化財に指定され、東京国立博物館に保存され、復元品をこの公園内の「歴史に憩う橿原市博物館」に展示している。

目立たない小さな墳墓にも関わらず、金銀の装飾品を身にまとい、枕元にシルクロードを経て伝わった透明なガラス碗や青いガラス皿が置かれた被葬者は一体誰だろう?。

丘陵上から畝傍山を望む。

土饅頭に囲まれた道を東へ歩く。子供達が喜んで山登りして遊べるようです。これら全ての古墳は内部を掘り下げ調査したのでしょうね。その埋葬施設のほとんどは、墳丘上から墓壙を掘り、副葬品と木棺を納めて埋める木棺直葬(もっかんちょくそう)という方式だそうです。

この古墳群の墳墓の築造は、5世紀前半に始まり、6世紀後半までの200年間。近くの宣化天皇陵(鳥屋ミサンザイ古墳)と重なるので、何か関連があるのでしょうか?。被葬者として推測されているのが、大伴氏あるいは渡来系の蘇我氏や東漢氏だが、確定されていない。

北群公園の一番東端に139号墳があります。多くの副葬品から、この古墳群の盟主に当たる人物の墓ではないかとみられている。
脇は畝傍山への眺望が楽しめるビューポイントとなっています。









 宣化天皇陵(鳥屋ミサンザイ古墳)(せんかてんのうりょう)  




新沢千塚古墳群から県道戸毛久米線を引き返し、宣化天皇陵の入口まで戻ります。古墳名は「鳥屋ミサンザイ古墳」(とりやみさんざいこふん)で、全長138m、径83m、高さ18m、二段築成の前方後円墳。「ミサンザイ」は陵(みささぎ)の訛ったものなので、この古墳が古くから陵墓としての伝承されていたことを示している。
前方部は北東を向いているので、県道から入ると丁度正面に宮内庁の遥拝所が設けられている。

遥拝所はどの天皇陵にも見られる同じみの風景です。
「日本書紀」によれば、宣化天皇は539年に崩御され「身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのうえのみささぎ)」に葬ったとあり、さらに先に崩じていた皇后・橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ、第24代仁賢天皇の皇女)とその孺子(わくご・幼児)が合葬されたと記されている。ただし「古事記」には記載されていない。
第28代宣化天皇(せんかてんのう、467年頃~539年、在位:536年~539年)は、第26代継体天皇と尾張の目子媛(めのこひめ、尾張連草香女)との第二皇子として生まれた。諱を「檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)」という。兄の第27代安閑天皇が崩御すると、跡継ぎの子供がいなかったので同母弟の宣化天皇が満69歳という高齢ながら即位することになった(536年)。宮を檜隈の廬入野に移し、「檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりののみや)」と呼ばれる(キトラ古墳の近くなので、今日の最後に立ち寄ってみます)。539年に73歳で崩御される。在位わずか3年余りと短いため、あまり主立った事績は残されていない。ただ即位すると蘇我稲目を大臣に任命したことから、その子の蘇我馬子・蝦夷・入鹿と続く蘇我氏の全盛の礎が築かれることになった。
幕末から明治にかけ、当時の宮内省は鳥屋ミサンザイ古墳を宣化天皇の陵墓と治定し、あわせて皇后との合葬陵とした。

石柱には、判読しがたいのだが写真を拡大して見ると「宣化天皇 宣化天皇皇后橘皇女 身狭桃花鳥坂上陵」と刻まれている。

日本書紀では安閑・宣化朝の後、539年に異母弟で継体天皇の第四皇子の欽明天皇が第29代として即位したことになっている。しかし他の史料によれば、531年の継体天皇の死後、すぐに欽明天皇が即位したとなっている。このことから安閑・宣化天皇は即位していなかった、あるいは531年~539年の間は安閑・宣化朝と欽明朝が並立し内乱に発展していたという説がある。万世一系の天皇系統を確定しようとした明治政府は安閑・宣化天皇は即位したと断を下し、現在の歴代系統となった。

正面拝所の左手から土手堤に出ることができる。陵墓の周囲は約10~25m幅の盾形周濠が巡っているが、西側部分は大きな池となっています。これは明治の修陵工事時に、元々あった灌漑用の溜池「鳥屋池」と周濠とをつなげたもの。

堤に建つ石柱には「皇紀二千六百年記念」と刻まれ、背面には「昭和十三年三月一日」の日付がある。すぐ北にある橿原神宮と神武天皇陵が、全国から建国奉仕隊が動員され聖域の大拡張が行われた時期。おおいに皇威高揚され、天皇を中心とした大東亜共栄圏を目指し戦争へ突入する。そして無惨な敗戦です。戦没者の墓碑も建っており、当時の雰囲気を感じさせる。

今度は前方後円墳の西方に回ります。西側も幅15m位の濠が廻り水を貯えている。ただ後円部の先端では途切れ雑草が生い茂っていた。
この古墳の築造時期については、墳丘裾付近から出土した円筒埴輪、朝顔形埴輪や須恵器から六世紀前半が推定されている。

 桝山古墳(ますやまこふん、倭彦命墓)  



次は宣化天皇陵(鳥屋ミサンザイ古墳)の南側にある桝山古墳(ますやまこふん、倭彦命墓)に行きます。天皇陵の後円部から集落の中に這入っていく。集落を抜けると、稲穂の先に桝山古墳の森が見えてきます。一辺約90m・高さ約15m、三段築成の方墳で、方墳としては全国で最大規模の古墳です。

この古墳は、宮内庁によって第10代崇神天皇皇子の倭彦命(やまとひこのみこと)の墓に治定され、天皇陵と同じような正面遥拝所が設けられている。日本書記に「倭彦命を身狭の桃鳥花坂に葬った」とあり、身狭(むさ)の桃花鳥坂(つきさか、築坂邑)が現在の橿原市鳥屋町付近にあたるからです。

Wikipediaには「倭彦命墓の所在に関する所伝は失われ、江戸時代には『大和志』・『大和名所図会』等において鬼の俎・鬼の雪隠東方の石室を倭彦命墓に比定する説もあった。1877年(明治10年)4月に内務省によって現在の墓に定められ、1886年(明治19年)に宮内省(現・宮内庁)によって用地買収とともに同地にあった神社が移転され、1890年(明治23年)から修営された。ただしその治定には否定的な見解が強い。」とあります。

古墳の築造時期は表面で採取された埴輪から5世紀前半とされる。4世紀前半か中頃に亡くなった倭彦命とは合わないのだが。

宮内庁の正式名は「崇神天皇皇子倭彦命 身狭桃花鳥坂墓(むさのつきさかのはか)」。「陵」でなく「墓」です。「陵」は天皇・皇后・上皇・皇太后の墓所に使い、皇子以下の皇族の墓所は「墓」なのだ。石柱に彫られている墓名の文字は雑で品格がない。天皇にこんな文字を刻んだら切腹ものだろう。鳥居はコンクリート製です。

この倭彦命墓には「殉死の禁止と埴輪の起源」伝承がある。殉死する近習の者たちを墓の周りに生き埋めにした。ところが土中から数日間泣き叫ぶ声が聞こえて、ついには死んで腐っていき、犬や鳥が集まって食べた。垂仁天皇はおおいに心を痛め、それ以後は殉死を止めさせ、代わりに埴輪で囲うようにした。

東側の畑の中から撮った桝山古墳。空中写真で見れば前方後円墳に見え、遥拝所はその前方部に設けられている。実は後円部(上の写真では左側の部分)だけが本来の古墳(方墳)で、名前のように”桝”形の山だった。ところが明治時代の陵墓整備で前方部が付け加えられ、そこに拝所を設けた。空中写真から想像するに、かなりの民家が強制退去させられたことと思う。当時の役人は、皇室の墓所は前方後円墳でなければならない、という大いなる忖度がはたらいたのでしょう。

北方を眺めれば宣化天皇陵(鳥屋ミサンザイ古墳)が、その先に畝傍山が見えます。畝傍山の奥に初代天皇の神武天皇陵があります。

 小谷古墳(こたにこふん)  



桝山古墳の次は小谷古墳です。小谷古墳へは、北側へ迂回し住宅街の中を進めば無難だが、かなりの距離がある。桝山古墳の東側に丘陵が見え、その山向こうに小谷古墳がある。この山を越えることができれば、かなりの近道になるのだが、道があるかどうか?。

農作業されていた方に尋ねると、道はあると親切に教えて下さいました。田畑の中を森に近づくとT字路にな。ここがポイントで、右の道をとること、と地元の方は強調されていた。すぐにイノシシ避けの金網の柵扉があるので、通ったら必ず閉めておくこと。後は山中の一本道なので迷うことはない。10分ほど歩けば視界が開け、畑の中を100mほど下れば左手に古墳が見えてくる。

畑の横の土盛りの上に屋根が覗いている。そこは小さな広場に整備され、屋根付の休憩所が設けられベンチも置かれている。地元の人のためのものとは思えず、明らかに小谷古墳の見学者用のものだ。山肌をよく見ると、雑木の間から石室の巨岩が露出していました。

ここは貝吹山から北東に延びる尾根の先端部で、石室は市街地を見下すように南向きに築かれている。墳丘は山崩れなどで封土の大部分が流失しているので墳形は明らかでないが、長さ約30m・高さ約8m位の円墳あるいは方墳と推測されている。
柵で囲われ近寄れず、石室内部は見ることができない。墳丘を覆う封土が流失し横穴式石室が剥き出しになっている。あの有名な明日香村の石舞台古墳と同じようですが、一枚岩の天井石は石舞台古墳より大きいという。
石室の全長は約11.6m、そのうち羨道部分が長さ約6.45mで、その奥に一段高い床面の玄室が長さ約5mある。
玄室は奥壁・側壁とも二段積みされ、下段は垂直に、上段は斜めに積まれ、隙間は漆喰で埋められていた。玄室には刳り抜き式の家形石棺が置かれていた。盗掘により蓋が開いた状態だったので副葬品は見つかっていない。石棺の奥や右側に広い空間があるため、他に二棺置かれていた可能性があるという。築造時期は古墳時代終末期の7世紀代の築造と推定されてる。

古墳の前は、公園風の広場になっている。休憩所といい、この公園といい、石舞台古墳のように売り出そうとしたのでしょうか?。
向こうに見える小山に益田岩船がある。そこへ向います。

現地説明板の全文を以下に。
「この古墳は、貝吹山から北東に延びる尾根の先端に築かれた、前方後円墳を含む八基の古墳群のなかにあり、その東端部に位置します。古墳は、尾根の南斜面に築かれており、墳丘の背面は幅20m・直径50mにわたって半円状に切り取られています。古墳の形状は、封土の大半を失っており不明ですが、円墳あるいは方墳であったと考えられています。墳丘の規模は、30m前後で高さは約8mです。埋葬施設は、巨大な花崗岩の切石を2段に積み上げた両袖式の横穴式石室です。玄室の天井石は1枚からなり、石舞台古墳の天井石よりも巨大なものです。また、石積みの間には漆喰が使用されています。規模は全長約11.6m・玄室長約5m・幅約2.8m・高さ約2.8m、羨道部は長さ約6.45m・幅約1.9m、高さ約1.8mを測ります。玄室の床面は羨道より一段高くなっていますが、これは明日香村の岩屋山古墳と共通する特徴です。玄室には凝灰岩の刳抜式家形石棺が盗掘により蓋が開いた状態で安置されています。棺身は長さ2.4m・幅1.16m・高さ0.82mで、棺蓋は縄掛突起がなく緩やかな傾斜の蒲鉾型を呈するもので、家形石棺の中でも珍しい型式のものです。副葬品は未調査のため不明ですが、石室や石棺の型式・規模から終末期の古墳と考えられています。この古墳の被葬者は、天皇家を含めた有力氏族であったとの見方が有力で、江戸時代には斉明天皇陵に比定されていたこともあります。橿原市教育委員会」

 益田岩船(ますだのいわふね)  



小谷古墳から少し東へ出て、橿原ニュータウンに沿った車道を南へ歩く。小山に近づくと右手に入る道があり、剥がれそうな案内標識が置かれています。道はすぐ「白樺西集会所」に突き当たり、左右に分岐する。左の道を30mほど行けば右側に階段が現れ、益田岩船の案内板が建てられている。

この山は貝吹山東峰の岩船山(海抜130m)で、その頂上付近に益田岩船があります。階段は48段あり、そこから緩やかな上り坂の山道となる。平易な山道で誰でも登れるが、一部雨が降れば足場の悪い箇所があります。10分ほどで竹薮の中から巨石が現れる。


深い竹薮に囲まれ、巨石だけがポツンと置かれている。だれが、何の目的でこんな巨石を置いたのか、今だに明らかになっていない。こうした謎の石造物は、隣接する明日香村にも亀石や酒船石など数多く存在するが、この
岩船が最大のもの。昭和51年(1976)に、指定名称「岩船」で奈良県指定史跡に指定されている。

西側から上面を見たもの。上部から側面にかけて幅1.6mの溝が東西に掘られ、この溝に1辺1.6m、深さ1.3mの方形の穴が二つくり抜かれている。
何のために造られたのか?。古くからある説は、益田池を讃える空海揮毫の石碑を載せるための台だったというもの。益田池は現在の橿原ニュータウン辺りまで広がっており、ここから益田池を見下ろせます。「益田岩船」の名称もここからきている。

現在有力なのが横口式石槨説。上面の二つの穴は墓室で、北壁面を下に横転させれば横口式石槨となる。南東500mほどの場所にある牽牛子塚古墳とソックリです。しかし完成させずに放棄されている。

左の写真は北面、右は西面。西面を見れば水漏れし濡れています。これは西室にヒビ割れが生じていることを示している。このため、建造途中で破損が判明し放棄されたのだ、と考えるのです。
また、滑らかに仕上げられた上部に対し、下部には荒削りな格子状の溝が彫られている。これは滑らかにする加工の途中で中断され、そのまま放棄されたと横口式石槨説は説く。

その他、占星術の天文観測台説、物見台説があり、松本清張は小説「火の路」でゾロアスター教の拝火台説を唱えている。いまだに謎です。

こちらは東面と南面。東,西,北面はほぼ垂直に切り立っているが,南面だけはなだらかに傾斜している。
建造時期は、岩の加工法や穴の尺などに古墳時代最末期の特徴が見られるため、7世紀頃と推定されている。

周辺を見渡してもここにこんな巨石が元から存在していたとは考えられない。どこからどのようにして運び込んだのでしょうか?。


 沼山古墳(ぬまやまこふん)  



次は沼山古墳(ぬまやまこふん)だ。益田岩船のある岩船山とは車道を挟んで反対側にある白橿近隣公園の中にあります。写真は公園の北側、ここからでも行けそうだが、念のため南側の正面に周る。

公園の正面で、左に白樺南コミュニティーセンターが、右がグランドになっている。
突き当たりに、小さく目立たない案内「沼山古墳→」があったので、右へ折れる。すぐ左手に階段があり、ここを登ってゆく。階段は登りきるのではなく、78段目で左に入れとの矢印があります。

矢印の方へ入って行くとすぐ休憩所が設置され、その少し先に横穴式石室が開口しているのがわかります。

石室開口部は鉄の扉で封鎖されている。昭和57年(1982)に公園整備に伴って奈良県立橿原考古学研究所による発掘調査が実施された。出土品は橿原考古学研究所(橿原市畝傍町)に保管されている。県指定史跡。


石室は花崗岩の自然石を積み上げている。手前に羨道(長さ4.5m・幅1.8m・高さ1.8m)があり、その奥に玄室(長さ4.95m・幅2.95m・高さ4.25m)がある。







玄室内は高さ2mまで垂直に積み、それから上は四壁を内側に積上げているので、ドーム状の天井となっている。正方形に近い平面形・ドーム状天井を特徴とする形態の石室は真弓鑵子塚古墳(明日香村)・与楽鑵子塚古墳・乾城古墳(高取町)でも知られており、渡来系集団の古墳の特徴だそうだ。





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