山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

佐保・佐紀路と平城宮跡 (その 3)

2015年08月01日 | 街道歩き

2015年5月3日(日)/8日(金)、佐保・佐紀路の古刹と平城宮跡を訪れ、佐紀盾列古墳群の陵墓を廻る

 平城宮跡の歴史と保存運動  



1300年前、奈良に都が移され「平城京」と呼ばれた。その平城京の北端中央に、天皇が住まわれる内裏や儀式の施設、役人の執務所などが集まった、いわゆる朝廷の御所がある。これが「平城宮」です。
東西・南北が約1kmの広さをもち、周囲は5メートル程度の高さの大垣が張り巡らされ12の門が設置され、役人等はそれらの門より出入りしたという。広さは約120ヘクタール、甲子園球場が30個も入る広大なスペースだった。現在は、発掘調査を経て保存・再現が進められている。国の所有で、国土交通省 近畿地方整備局が管理し、正式には「国営平城宮跡歴史公園」というようです。

和銅元年(708年)2月元明天皇は、藤原京を放棄し新しい平城京へ遷都するという詔を発する。当時もっとも文化の進んでいた唐の都・長安をモデルに新しい大規模な都造りが行われた。和銅3年(710年)3月10日に平城京へと遷都する。奈良時代の始まりで、律令国家としてのしくみが完成し、天平文化が花開いた。

しかしこの平城京も74年間という短期間で終わり、長岡京を経て平安京(京都)へ遷っていく。平城宮内の建物の多くは長岡京へ移され、平城宮跡地は放置され荒廃し、忘れられていく。周辺には南都七大寺(東大寺、興福寺、薬師寺、西大寺など)が残るが、それらの中央にあった平城宮跡は見捨てら、以来千年間田畑となり土の下に忘れられていった。その場所さえ分らなくなっていたという。

江戸時代末になって、藤堂藩の大和古市奉行所に勤めていた北浦定政は、地名や水田の畝などから平城京の条坊を調査、その実測研究から嘉永5(1852年)に『平城宮大内裏跡坪割之図』を著し、平城宮の跡地を推定し平城宮研究の先駆けとなった。こうして長い間歴史に埋もれていた平城宮が蘇ってきた。

明治33年(1900年)奈良県技師だった関野貞が、大極殿の跡を明らかにすると、これをきっかけに保存運動が始まる。奈良公園の植木職人であった棚田嘉十郎は公園で仕事をしていると、観光客に「社寺仏閣はお参りしてきたけれど、天皇がおられた御所の跡はどこにありますか?」と尋ねられても返答ができなくて困ったという。彼は私財を投げうって保存活動に尽くし、また上京し多くの著名人の署名を集め地元の有志に援助を求めます。
その姿に感激された佐紀町の大地主 溝辺文四郎氏も、棚田氏を助けて保存運動に尽力を尽くす。明治39年(1906)、両氏の呼びかけで、有志が寄って「平城宮址保存会」が設立された。さらに大正2年(1913)には、大極殿と内裏跡保全のため、「平城大極殿址保存会」が結成された。
大正10年(1921)、私財を使い果たし心労で棚田嘉十郎は自害するという悲劇が。しかしその努力は少しずつ実を結び、平城宮跡の中心部分が民間の寄金によって買い取られ、国に寄付された。その結果、翌大正11年(1922)大極殿と朝堂院の跡が国の史跡の指定を受け、さらに翌年国有地とされた。昭和27年(1952)に特別史跡となり、現在に至っている。

昭和28年(1953)11月、進駐軍の命によって一条大路の改修が行われた時、遺蹟が発見されて大騒ぎになつた。千年以上土中に眠っていた平城宮の遺物が顔を出したのです。文化庁が中心となって周辺土地の買上が進められ、土地の公有化が図られるとともに、奈良国立文化財研究所による本格的な発掘調査・研究が進められた。平城宮の様子が次第に明らかになってきた。
昭和53年(1978)には『特別史跡平城宮跡保存整備基本構想(遺跡博物館構想)』が策定された。これに基づき文化庁を中心に、全額国費によって主要な遺跡の復原や史跡整備が進められた。文化庁直轄の都城跡は,全国でも平城宮跡と藤原宮跡だけである。

平成10年(1998)12月、東大寺などとともに「古都奈良の文化財」としてユネスコの世界遺産に登録された(考古遺跡としては日本初)。平成10年(1998)朱雀門の復元、平成21年(2009)には国営公園に、平成22年(2010)第一次大極殿の復元。現在なお調査発掘、復元が行われている。

 第一次大極殿(だいこくでん)  



平城宮跡のシンボル的存在が大極殿です。平城宮の中心施設で最大の建物。奈良時代の後半は場所が移動したので便宜的に”第一次”を付ける。
大極殿は、天皇の即位式や外国使節との面会、元旦の朝賀など、国のもっとも重要な儀式のために使われた。「大極(太極)」とは宇宙の根源のことで、古代中国の天文思想では北極星を意味します。

昭和45年(1970)から第一次大極殿地区の発掘調査が始められた。第一次大極殿の建物は、740年恭仁京へ遷都の際に破壊されたり、一部移築されたりしためよく分らない。しかし基壇や階段の基礎部分の痕跡は見つかり、それを基に第一次大極殿の平面規模を確定したという。そして遷都1300年となる2010年の完成を目指して、文化庁を中心に復原工事が始まった。わずかに残る文献を参照し、重層の構造や内部架構は現在唯一の重層金堂である法隆寺金堂の形式を、軒の出と組物は時代が近い薬師寺東塔を模したそうです。そして平成22年(2010)「平城京遷都1300年祭」の時に完成し、お披露目となった。

凝灰石で化粧された二重の基壇の上に、入母屋造本瓦葺の屋根をもつ二重の建物。正面柱間は全て解放され、側面と背面は白壁となっている。もちろん現代建築なので、地震による揺れを最小限に軽減させるための免震装置が導入されている。

大極殿内部の中央に天皇の玉座の高御座(たかみくら)がある。「重要な国家的儀式の時に大極殿に出御して高御座に着座された。貴族たちは、大極殿の南に広がる内庭に立ち並び、大極殿の天皇を拝しました」そうです。この実物大の模型は「大正天皇の即位の際に作られた高御座(京都御所に現存)を基本に、細部の意匠や文様は正倉院宝物などを参考に創作されました」そうです。
席料を支払ってもよいから、一瞬でも座らせて欲しいものです。一瞬でも天皇様に・・・。


大極殿内から、南の朱雀門方向を眺めたもの。大極殿は、平城京の中心線上の真北に位置し、南北320m、東西180mが築地回廊で囲まれている。回廊内の広場は「大極殿院」と呼ばれる内庭で、儀式の際に高官が整列した場所。東西に楼閣を構え、南側には南門がある。南門を出ると朝堂院の建物と広場が広がり、その南に朱雀門が建つ。朱雀門から約4kmの朱雀大路が伸び、平城京の入り口である羅城門(現在の大和郡山市)につながっていた。
西側の池端からの撮った第一次大極殿。第一次大極殿の中へは無料で入って見学できます。
■開園時間:9:00~16:30(入園は16:00まで)
■休園日:月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日)、年末年始休園

 内裏(だいり)と第二次大極殿  



第一次大極殿の東側に内裏の建物があった。内裏(だいり)とは、天皇が日常住まわれていた建物。大極殿は奈良時代の前半・後半で場所を移動するが、内裏は同じ位置のまま。
現在、内裏の柱跡にはツゲの木が植樹され、高さ1mほどの円柱形に刈り込まれている。一見、奇妙な風景に見えるが、内裏の柱跡とすれば納得です。

内裏の南側に道を挟んで大きな土壇が見える。これが「第二次大極殿」の基壇です。
聖武天皇は740年から、都を恭仁京(京都)、難波京(大阪)、紫香楽京(しがらき、滋賀)と転々と移し替えた。結局、天平17年(745)紫香楽宮から平城宮に戻り、内裏の前に新しい大極殿を造り直した。元明天皇が建てた最初の大極殿を「第一次大極殿」、聖武天皇が建てたこの大極殿を「第二次大極殿」と便宜上名付けている。

東西46m、南北24m、高さ3mほどの基壇が復元され、基壇上の柱跡には丸い石が縦列に埋め込まれている。重い建物を支えるために、土を何層にもつき固めた版築(はんちく)という工法で築かれていたという。
数年前、この上でLIVEショーをやていました。

 朝堂院(ちょうどういん)  


第一次大極殿を囲う回廊の南門を出ると、広大な広場が展開する。ここが「朝堂院」と呼ばれ、東西約210メートル、南北約260メートルの広場で、かって政務や式典、儀式、供宴などが行われた場所だそうです。
広場の左右には一段高い基壇が残されている。これは4つあった朝堂の建物の跡で、「四堂朝堂(よんどうちょうどう)」と呼ばれた。唐招提寺の講堂(国宝)は平城宮朝堂院にあった建物の一つ「東朝集殿」を移築したもの。平城宮で唯一現存している建物だそうです。
朝堂院も大極殿の移動と共に場所を変える。ここは「第一次(中央区)朝堂院」、第二次大極殿前の朝堂院は「「第二次(東区)朝堂院」と呼ばれる。

この広場は数年前の写真をみると、草茫々としていたが、現在は写真のように学校のグランドのようになっている。2012年に国交省が、「国営公園としての利便性を向上させるための整備」の一環として、草地だった広場をソイルセメントで舗装すると発表したことから、騒動が持ち上がった。ソイルセメントはコンクリではないが、土をセメントで固めたもの。有識者や住民たちが声明文「即時中断を」を出し、「地中に埋まる遺構に影響が出る恐れがある」と反対運動を始めた。
結局2014年工事が開始され、ご覧のとおり舗装は完了している。私には、その善し悪しは分らないが、数年前に近鉄電車内から眺めた、あの青々とした草地の広がるイメージが懐かしく感じられます。土のグランド化して何のメリットがあるんでしょうか?。草刈りの手間が省ける、天平祭行列で行進しやすい、ぐらいしか思いつかないが。ここは邪魔になる電線がないことから、お正月の凧揚げスポットになっている。凧揚げで走りやすくなったかも。奈良時代にはどんなんだったでしょうネ・・・土?草?半々?。

 朱雀門(すざくもん)  


平成10年(1998)復元した平城宮の正門「朱雀門」は、高さ22m・間口は25m・奥行き10mの入母屋二層構造。
復原にあたって朱雀門に関する直接的資料は、発掘調査によって明らかになった基壇や柱位置、出土した屋根瓦ぐらいしか無かった。「今回の復原では平安宮朱雀門が二重門であることなどから二重門と設定し、その基本構造を、古代に於いて唯一の遺構である法隆寺中門に倣いました。朱雀門は奈良時代前期の建築であり、その年代が法隆寺よりくだることから、様式は同年代の薬師寺東塔を参考にしました。そして、朱雀門の規模が大きいために、各部材の大きさや比例関係などは、より近い条件を持つ東大寺転害門も参考にしました」そうです。

朱雀門から第一次大極殿を撮った。
平城宮は四方を高さ5メートルの築地塀で囲まれ、それぞれの面には3門ずつ計12の門があった。朱雀門は南の正面中央に位置し、最も重要な正門だった。「天子南面す」と云われるように、どの宮殿も南より入り北へ直進し、天皇に謁見するようになっている。
中国の伝説上の神獣(神鳥)に「青竜(せいりゅう)・白虎(びゃっこ)・朱雀(すざく)・玄武(げんぶ)」の四神(四獣・四象)がある。それぞれ東西南北の守護獣とされ、「朱雀」は南方を守護する神獣なのです。数年前に発掘され話題となったたキトラ古墳の南壁には、「朱雀」が鮮やかな朱色の鳥として描かれていた。朱は赤であり、五行説では南方の色とされてる。
朱雀門を潜り南側に出ると、また広場が・・・。これは広場でなく、「朱雀大路(すざくおおじ)」の一部を復原したもの。朱雀大路は75m幅で、真っ直ぐ南へ向かって約4km伸び、平城京の入り口である羅城門(現在の大和郡山市)につながっていた。都のメインストリートで、外国使節の送迎儀式や大衆の憩いの場として賑わっていたようです(御堂筋でのタイガースの優勝パレードや歩行者天国のような・・・夢のまたユメ)
朱雀門・朱雀大路・羅城門などは、唐の長安に始まった条坊制に基づいたもので、周辺諸国に波及し日本にも遣隋使、遣唐使を通じて伝わったもの。

 東院庭園  


昭和42年(1967)平城宮跡の南東隅で大きな庭園の遺跡が発見された。この周辺は日本書紀で「東宮」もしくは「東院」と呼ばれ、称徳天皇の「東院玉殿」や光仁天皇の「楊梅宮」、さらには聖武天皇の「南苑(南樹苑)」が設けられた場所ではないかと推定されている。
発掘調査の結果、庭園部分とその周辺一帯の様相がほぼあきらかになり、復原されている。そして「東院庭園」と名付けら、2010年に国の特別名勝に指定されました(入園料:無料)。

東院庭園の敷地は東西80m、南北100m。中央に池を配し、池の西岸には宴会や儀式を行う「正殿」が建ち、東岸から平橋で渡れるようになったいる。北側にも建物があり、反橋(そりばし)で繋がっている。石を敷き詰めた池や石組みのある築山、中島、趣向をこらした建物や橋などからなっている。ここで天皇や貴族が儀式や宴を催していたと思われる。正殿・平橋は平成5年(1997)に復原完成したもの。


詳しくはホームページ


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1 コメント

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検索からおじゃまします (なぞの旅人スー)
2015-08-02 00:14:21
私も1週間前に平城宮跡を訪ねました。見なかった部分、特に宮跡保存活動の歴史が興味深かったです。棚田氏自害の話は衝撃的でした。平城宮跡を再訪することが後にあると思います。
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