山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

「王陵の谷」 河内飛鳥を往く (その4)

2014年04月29日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 小野妹子の墓  


太子町の南東のはずれにこんもりとした森がある。近づくと森の裾に科長神社への入口が見えます。ここから坂道を登ると、科長神社の石鳥居と右手の小高い丘に登る長い階段が見え、この上に小野妹子の墓と伝えられる塚がある。数えながら登ると121段ありました。上は広場になっており、中央に柵で囲われ、地元の人々が「いもこさん」と呼んでいる墓塚がある。

小野妹子(女性ではありません)は、琵琶湖西畔の近江国志賀郡小野村(現在の志賀町小野付近、湖西線和邇駅近く)で生まれ育つ。推古天皇15年(607)、大礼(だいらい)という冠位に抜擢され、遣隋使節の大使に任命される。聖徳太子から預かった隋の皇帝・煬帝(ようだい)に宛てた国書をもって難波津から船出。二年後の推古天皇17年(609)9月、妹子は裴世清 (はいせいせい)の一行十二人を連れて隋より帰朝。こうして隋との国交を開くことができ、その功績によって大徳冠に昇った。しかし、その後の消息について、史書は何も語らない。

この小野妹子墓は、京都の生け花家元・池の坊家が管理している。聖徳太子の守り本尊である如意輪観音の守護を、太子から託された妹子は坊を建て朝夕に仏前に花を供えたのが池坊流の起源だ、としているからです。そして池の坊家は、大正の初めにこの丘を整備して石段をつけ墳墓の修復をした。
池の坊家の努力により有名になり、観光スポットになったが、これが本当に小野妹子の墓かどうか疑問があるそうです。小野妹子の出身地とされる滋賀県志賀町にある「唐臼山古墳」が小野妹子の墓として有力視されている。
推古天皇、聖徳太子により見出され、遣隋使としての大役を果たした妹子は、推古天皇や聖徳太子の墓があるこの磯長谷に眠るのが相応しいのかもしれない。

 二子塚(ふたごづか)古墳  


科長神社・小野妹子墓のある丘を降り、田畑の広がる中を歩いていると前方の平地にポッコリ飛び出た二子塚古墳と推古天皇陵(山田高塚古墳)が現れる。

二子塚古墳は、方墳を二つつなぎ合わせた双方墳という珍しい形式の古墳。「ふたご」の名のとおり、それぞれにほぼ同じ形、同じ大きさの横穴式石室と家形石棺が残されている。手前の墳丘では、上部に上がるとむき出しになった生々しい石室を見ることができます。築造時期は7世紀後半。
昭和31年(1956)所有者が、個人では古墳の保存には限界があると、「古墳売ります」という新聞広告をだして話題になった。文化庁と太子町とがお金を出し合って購入し、現在は町が所有・管理している。国の史跡に指定されている。

 推古天皇陵(山田高塚古墳)  


宮内庁は推古天皇の「磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)」に治定し管理している。「山田高塚古墳」と呼ばれ、東西に長い三段築成の長方墳で、内部には二基の横穴式石室をもつ合葬墓であると考えられています。

推古天皇は554年、第29代欽明天皇と堅塩媛(きたしひめ、蘇我稲目の娘)との次女として生まれ、名を「額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)」といった。576年23歳の時、異母兄にあたる第30代敏達天皇の皇后となり、二男五女をもうける。
585年、夫・敏達天皇が当時大流行した天然痘で逝去すると、皇位継承で意見が対立。額田部皇女は、まだ若年だった我が子の竹田皇子を将来皇位に就けるべく蘇我馬子と組み、実兄である橘豊日(たちばなのとよひ)皇子の天皇擁立を計る。それが第31代・用明天皇(聖徳太子の父)です。だが、病弱だった用明天皇が2年後の4月には病死すると再び皇位継承問題が再燃した。十代半ばの竹田皇子はまだ早い。そこで額田部皇女と馬子は、凡庸な人だったといわれる泊瀬部皇子を中継ぎの天皇として利用し、587年8月第32代崇峻(すしゅん)天皇として即位さす。ところが次の天皇にと思っていた最愛の息子・竹田皇子が早死してしまう。さらに592年11月崇峻天皇が暗殺されるという前代未聞の不祥事が起こった。民衆の間に動揺が広がる。そうした中、額田部皇女は再三辞退したにもかかわらず、群臣に乞われて593年第33代推古天皇として豊浦宮で即位することになる。日本で最初の女帝で、39歳のときだ。聖徳太子の叔母さんにあたり、太子を摂政として、蘇我馬子と共に政治を行った。大陸の隋との交渉によって先進的な政治制度や文化、芸術などを積極的に吸収し、仏教文化を中心とした飛鳥文化を開花さす。

『日本書紀』によれば、西暦628年3月7日75歳、在位36年間で崩御したとある。「豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)天皇」と諡(おくりな)される。
推古天皇は生前「ここ数年、五穀が実らず、百姓らは大変飢えている。自分のために陵を造って厚く葬ることはしないように。竹田皇子の陵に葬ってくれればそれでよい」という遺言を残していた。そこで遺言どおり遺骸は、早生した長子・竹田皇子が眠る墳墓に一緒に葬られたという。その場所は奈良県明日香村の植山古墳とされている。その後、母子の遺骸は竹内峠を越え、「大和の飛鳥」から「河内の飛鳥」と呼ばれ「磯長谷」に移され改葬された。蘇我氏の懐で安らかに眠っているようです。改葬の時期ははっきりしていない。

 大阪府立近つ飛鳥博物館と梅林  


推古天皇陵から南の丘陵を目指して2キロほどの車道を歩く。出会うのは数人のハイカーだけ、マイカーは一台も見かけない。ようやく「近つ飛鳥風土記の丘」丘陵の入口に建つ大阪府立「近つ飛鳥博物館」に到着。広い駐車場には一台の車も止まっていない。そうか今日は月曜日で、休館日でした。マイカーを見かけなかったのも当然です。
この博物館は、広大な「近つ飛鳥風土記の丘」公園の中核的文化施設として、1994年に開館。建築家・安藤忠雄による設計で、「現代の古墳」をイメージした建物だそうです。外観を眺めただけですが、私にとっては異様な建物に見えます。斜面全体に設けられた階段、その上部に飛び出た巨大な白い箱。何を意味しているのでしょう?。古墳というよりは、”現代の墓場”のイメージがします。こんな墓場には入りたくない。安藤はこの建物を自身の代表作として挙げ、また第26回日本芸術大賞他を受賞している。呆れるネ!。(最近、大阪府(市)と安藤忠雄は癒着してるんじゃないのか・・・?)館内の展示物はほとんどがレプリカだそうです。

博物館が「風土記の丘」の入口になっている。閉館しているので丘へはどこから入ったらよいのだろうか?。標識も見当たらない。”現代の墓場”の脇をすり抜けるように侵入する。大阪府下でも著名な梅園は、博物館の両側に広がっている。その数は140本。ちょうど今が見頃のようです。美しい梅林と異様な”現代の墓場”。まるでお墓への献花のようです。

 一須賀古墳群(いちすかこふんぐん)  


梅林を鑑賞しながら登っていくと、所々剥き出しになった古墳の石室を見ることができる。この広い「近つ飛鳥風土記の丘」全体が墓場なのです。墓場といっても、博物館のような”現代の墓場”でなく、遠く千五百年も離れた”古の墓場”です。
「一須賀古墳群」と呼ばれ、わが国を代表する群集墳。この1.5km四方の丘陵地帯に、見つかっているだけでも200余基の古墳が存在するそうです。6世紀中頃から7世紀前半にかけてお墓で、横穴式石室を盛り土しただけの円墳で、直径10m、高さ数mほどの小規模のものがほとんど。この石室内に2~3個の遺体が埋葬されていたようです。規模からして地方豪族のもののようで、血縁、地縁によって結ばれた一族のものが数代にわたって埋葬されていったと思われる。この丘はそうした氏族たちの埋葬場所だったのです。

多くの古墳のうち40基ほどは整備され、実際に中に入ったりして見学でき、丘全体が実物の遺跡(お墓)博物館のようになっている。昼間といえ、誰もいない”墓場”を徘徊するのは気持ちよいものではありません。

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「王陵の谷」 河内飛鳥を往く (その 3)

2014年04月24日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 聖徳太子御廟(聖徳太子の墓、聖徳太子磯長廟)   


叡福寺の境内を真っ直ぐ進み、二天門をくぐると聖徳太子御廟(聖徳太子の墓) です。鬱蒼と茂る森をバックに三層の屋根が縦に並ぶ。陵墓でこんなの初めて見る。屋根の下には、阿弥陀三尊のご来迎を表した木彫りが掲げられている。聖徳太子が母や妻とともに葬られている「三骨一廟」を意味しているという。周囲は柵で囲まれ、正面の黒い門扉には菊の紋が燦然と光っている。宮内庁により天皇家の陵墓「聖徳太子磯長稜」に指定され管理されている。ということは叡福寺の境内ではない(?)。

聖徳太子は、父・用明天皇と母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)の間に生まれた(574年)。太子の両親は、ともに欽明天皇を父とする異母兄弟で、その母親同士は父、母を同じくする姉妹である。ややこしい近親結婚で複雑な家系図となるが、当時では普通なのでしょうか。それとも天皇家特有のこと?。日本史において聖徳太子ほど賛美され崇拝された人物はいない。推古天皇の摂政として、十七条憲法や冠位十二階を制定、遣隋使の派遣など進んだ政治制度や文化を取り入れ、歴史上の重要な改革を行ったとされる。しかし資格がありながらついに天皇となる事はなく、推古30年(622)に49歳才で皇太子のまま世を去った。ある面では”謎の人物”でもあります。三ヶ月ほどの間に母、皇太子、妻と相次いで亡くなっている。こうした謎の残る経緯から、毒殺説、伝染病死亡説、自殺説などの憶説が広まることに。

御廟は叡福寺の背後にある磯長山の丘陵を利用し造営され、径50メートル、高さ10メートルほどの円墳で「叡福寺北古墳」と考古学では呼ばれている。江戸時代までは誰でも石室内へ入ることができたようで、内部の様子が記録されている。内部は精巧な切石を用いた横穴式石室があり、3基の棺が安置されていたという。中央奥の石棺に穴穂部間人皇女(母)が葬られ、手前左に膳部大郎女、右に太子と推定される棺だとされた。中世の人々はこの三棺合葬の形を阿弥陀三尊に結びつけ,とくに「三骨一廟」と呼び信仰の対象にした。誰でも中に入れたことから、太子信仰の高まりから後世に母と后の棺を追加し、無理やり「三骨一廟」としてのだ、という見解もあるが・・・。
明治12年(1889年)宮内庁の修復調査が実施された際に、横穴入口をコンクリートで埋めてしまった。それ以後、内部を見ることができない。見られてはマズイいのか、とも勘ぐりたくもなる。

資料の少ない古い時代のことなので、いろいろな説が展開される。最初は聖徳太子の棺一つだった、さらには聖徳太子の墓ではない、など唱えられる。極めつけは「聖徳太子は存在しなかった」という説(真説、偽説、戯説、珍説?)まであるが・・・、真相は?

聖徳太子御廟の円墳左側に、背後の山へ登る階段が見える。この上にまだ何かあるんだろうか?、それとも展望台が、と息せきながら200mほどの登り道を上がると、広場になっっており中央に奇妙な塔が建っている。これは何だ?、と周辺を見渡すが、標識も説明もない。あの聖徳太子がお眠りになっているお墓の背後というのに。雑木林に囲まれ展望もなし、木立の間からチラッと見えるのは隣の霊園の墓場ばかり。息せき登ってきたのを悔いました。

 用明天皇陵(春日向山古墳)  


叡福寺を出て、太子町の中心地を東へ10分ほど歩けば用明天皇陵(春日向山古墳)がある。宮内庁治定の「用明天皇・河内磯長原陵(かうちのしながのはらのみささぎ)」です。

第31代用明天皇は、欽明天皇の第4皇子。母は蘇我稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ)で、蘇我氏の血を引いた最初の天皇といえる。聖徳太子の父でもある。短命のため業績は無いが、歴代天皇の中で初めて仏教への帰依を表明されたことで知られている。その意思は推古天皇、聖徳太子などの蘇我系に引き継がれ、排仏派の物部氏との争いに発展していく。

 孝徳天皇陵(山田上ノ山古墳)  


竹内街道を東へ進んでいくと、左側に石標と階段が見える。孝徳天皇陵への入口です。小高い丘の上が「王陵の谷」最後の王墓で、宮内庁が孝徳天皇「大阪磯長陵」に治定し管理ている。別名「うぐいすの陵」と呼ぶとか。考古学的には「山田上ノ山古墳」という径32mの円墳です。

この孝徳天皇には「悲憤のうちに薨去」「哀れな末路」「失意の内に病死」の見出しが付けられる。
第35代・皇極天皇の代、飛鳥板蓋宮で起きた「乙巳(いっし)の変」(645年6月)と呼ばれるクーデターで蘇我本宗家は滅ぶ。女帝の皇極天皇は退位し、有力者に皇位を譲ろうとしたが、激動の時期誰も引き受けようとしない。結局は皇極帝の実弟であった軽皇子が周囲から天皇位に押し上げら第36代孝徳天皇として即位することになる(在位645 - 654)。足が不自由で、しかも気が弱く凡庸な性格であることを自覚していた皇子は、天皇の器ではないと幾度も固辞したが押し切られた。クーデターの翌々日のことで、軽皇子はすでに50歳の老人であった。
大化改新で人心を一新するため難波長柄豊碕宮に遷都し住む。自ら望んで皇位に就いたわけではない。実権はクーデターの首謀者・中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足が握り、クーデター後の「大化改新」と呼ばれる改新政治では蚊帳の外におかれた。ところが8年後の白雉4年(653)、反対する天皇を難波に置き去りにし、夫人の間人(はしひと)皇后、皇極上皇、中大兄皇子らは公卿大夫・百官らを引き連れ、ようやく造営が終わったばかりの難波の宮を捨て、さっさと飛鳥の河辺行宮に戻ってしまう。難波に置き去りにされ、悲痛のあまり病に倒れた孝徳帝は翌年59歳で薨去した。
蘇我氏滅亡後なのに、飛鳥と離れた蘇我系の王墓の谷に埋葬された。そういう意味でも悲運の天皇といえる。憤死説や毒殺説までも・・・。

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「王陵の谷」河内飛鳥を往く(その2)

2014年04月18日 | 寺院・旧跡を訪ねて

大和の史跡巡りを始めてから、石に出会うとパタッと立ち止まるようになった。今まで何も気に留めなかったのに、最近石を注視する変な(?)クセが。
道端の石材店の置き場に居並ぶ石像、燈籠などをしげしげと眺めます。オヤッ、「寝そべり地蔵さん」が・・・




 西方院(さいほういん)   


太井川沿いに太子町の中心へ進み小高い丘に登ると広々とした墓地が広がり、その向こうに叡福寺の塔や聖徳太子の眠る森が見えます。この墓地を管理するのが西方院。伝承によれば、推古天皇30年(622年)聖徳太子が死去した後に、三人の侍女(乳母)、月益姫(蘇我馬子の娘)・日益姫(小野妹子の娘)・玉照姫(物部守屋の娘)は剃髪して仏門に入り、その名も善信・禅蔵・恵善と改め、聖徳太子廟がある叡福寺の門前にお堂を建立して太子の冥福を祈ったのが西方院の始まりと伝えられる。そして太子の遺髪を納め、太子自作の阿弥陀如来尊像を本尊として祀ったという。日本最古の尼寺とされています。
寺の南側の墓地内には、この三尼公(善信尼、禅蔵尼、恵善尼) の墓と伝えられる三基の石塔が覆屋に囲まれて残されている。


西方院入口の右横に下りの階段があり、その先には聖徳太子の眠る森をバックに叡福寺の門が望まれる。
聖徳太子に仕えた侍女たちは、ここから向かいの太子御廟を礼拝し、太子を懐かしんだことと思われます。

 叡福寺(えいふくじ)  

西方院からの階段を降り道路を横切ると、広い駐車場があり「聖徳皇太子磯長御廟」という大きな石碑が立っている。正面には叡福寺への入口となる階段と南大門がひかえています。
叡福寺の始まりは寺伝によれば、太子の没後、伯母にあたる推古天皇が方六町の土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたこととされている。そして奈良時代の神亀元年(724年)に、聖徳太子の追福のために聖武天皇の勅願によって大規模な伽藍が造営された、とされる。だが、この聖武天皇創建説には異論が多く、実際には太子信仰の高まりと共に平安後期に創建されたと考えられている。
いずれにしても、叡福寺は境内にある聖徳太子御廟を守る寺であり、奈良の法隆寺や大阪の四天王寺と並んで太子信仰の中心をなす寺です。

石段の上には、左右に金剛力士像が睨みをきかす南大門が建つ。現在の門は昭和33年に再建されたもの。門の額縁にはB級戦犯とおぼしき不埒の総理大臣名が・・・。額縁の真下を避け門をくぐると、叡福寺の境内です。通常、お寺は正面に本堂・金堂などが建つが、ここ叡福寺の真正面に対するのは聖徳太子墓になっている御廟です。寺の中心線は、あくまでも聖徳太子御廟で、その左右に伽藍が配置されている。


南大門をくぐった左側、境内の西側に、手前から多宝塔【国指定文化財】、金堂【府指定文化財】が並ぶ。
承応元年(1652)に再建された多宝塔には、東面に本尊として釈迦・文殊・普賢の三尊像が、西面に金剛界の大日如来を安置し、4本の柱には四天王の像が描かれている。昭和52年国の重要文化財に指定さる。

享保17年(1732)に再建された金堂は、止利仏師作の如意輪観音を本尊としています。高さ90cmの如意輪観音の坐像で、聖徳太子の本地が観世音菩薩であるという平安朝以来の信仰に基づいているという。
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「王陵の谷」河内飛鳥を往く   (その1)

2014年04月14日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 「磯長谷(しながだに)」  


”山ごもれる”大和の国は、生駒山・二上山・葛城山によって大阪(難波、河内)と隔てられている。西国(吉備、北九州など)、さらには大陸の中国、朝鮮との交流にはこれらの山を越えなければならない。そのため山間の数少ない切れ目を利用し行き来していた。それが大和川の水運であり、日本最古の官道と云われる竹内街道(たけのうちかいどう)です。竹内街道が、二上山と葛城山とに挟まれた竹内峠を越えて河内に出た辺り、二上山山麓の西斜面の谷あいを「磯長谷(しながだに)」と呼んでいる。石川の支流の飛鳥川が流れる谷で、現在では大販府南河内郡太子町に属する。
この谷間は「王陵の谷」とも呼ばれ、蘇我氏と縁の深い用明天皇、推古天皇や聖徳太子などの王族が眠っている場所でもあります。今回はこの谷間の古跡を巡りながら、「近つ飛鳥風土記の丘」の梅林を見に行くのが目的です。

2014/3/3(月)8時半、出発地点の近鉄南大阪線・上ノ太子駅に着き、まず”源氏のふるさと”を目指して歩き始める。駅から飛鳥川を渡り、なだらかな丘陵地帯を登っていく。近くも、遠くも、この地域はブドウの産地。見渡す限りブドウ畑が広がり、山の斜面にブドウ畑の白いシートが陽光を反射しひときわ目立つ。まるで雪景色のようです。右上にかすんで見えるのが、二上山の雄岳(左)と雌岳。

 壷井八幡宮(つぼいはちまんぐう)  


なだらかな丘陵を超えると、住宅街の中に楠の木の巨木が茂る森が目に入る。これが壺井八幡宮です。八幡神として誉田別尊(応神天皇)・仲哀天皇・神功皇后を主祭神として祀る河内源氏の氏神です。
誰一人訪れる人のいない寂しい神社。かっての源氏はどうなってしまったのでしょう?。そもそも「源氏って何?」

天皇は多くの后を囲い、やたら子供を生みたもう。天皇家といっても懐事情から、生みたもう子供らの全ての面倒を見切れない。そこで何人かの子には、皇室と祖(源流)を同じくするという名誉の意味をこめた”源”姓を与え、地方に土地を与え「その地で、自分の力で生きていけ!」と追い出す。これを歴史用語で「臣籍降下(しんせきこうか)」と呼ぶそうです。そしてその地に土着化して武士団となるものが多かった。56代清和天皇を祖とする源氏を「清和源氏」と呼びます。他に、嵯峨源氏、文徳源氏、宇多源氏など二十一流あるといわれる。「平氏」も似たようなもの。桓武天皇が孫を臣籍降下し、平安京にちなんだ”平”の姓を与えたもの(桓武平氏)。
「清和源氏」の流れをくむ源満仲の三男・頼信(968-1048)が河内守に任官し、「香炉峯(こうろほう)」といわれていたこの辺りに私邸を営む(寛仁4年(1020))。これが「河内源氏」の始まり。そして頼信の子・源頼義(988-1075)が私邸の東側に社殿を造営し、源氏の氏神である石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請し河内源氏の氏神としたのが「壺井八幡宮」です。
そして頼義の子・源義家(1039-1106、八幡太郎義家)の代に最盛期を迎える。源義家の死後,河内源氏は衰退し,ついには平清盛に滅亡寸前まで追い詰められる。しかし義家の4代の孫である源頼朝と弟・義経の活躍で起死回生し,ついには鎌倉幕府を開き日本の支配権をも朝廷から奪いました。この時、河内源氏の総氏神は壺井八幡宮から鎌倉の鶴岡八幡宮に移ってしまいます。脚光を浴びていく鶴岡八幡宮、忘れられていく壺井八幡宮・・・。鎌倉の鶴岡八幡宮に比べ、現在の壺井八幡宮の静けさ・寂しさはどうしたものでしょう?。

平忠常の乱(1028)での頼義の活躍を目にした相模守・平直方は、相模国鎌倉を持参金として自分の娘を頼義に嫁がせた。これが河内源氏と鎌倉との繋がりの始まりです。そして頼義が東国進出の際、壺井八幡宮を鎌倉に分社し鶴岡若宮を造った。源頼朝が幕府を開く際、鶴岡若宮を現在地に移し、改めて石清水八幡宮を勧請したのが鎌倉の鶴岡八幡宮の創始とされる。そうした意味で、壺井八幡宮は「元鶴岡八幡宮」なのです。もう少し脚光を浴びてもよさそうですが。

 通法寺跡と源頼義の墓  


壷井八幡宮から10分ほど歩いた所に通法寺跡がある。源頼義が源氏の菩提寺として居館の隣に小堂を建てたことから始まる。やがて源氏の隆盛と共に河内源氏の氏寺として栄えた。
しかし徳川幕府が崩壊し明治維新となると、廃仏毀釈によって廃寺とされ全てが破壊され消滅しました。現在、通法寺は門が唯一残っているだけ。この門とて戦後復元されたもの。

門を入ってすぐ左側の境内に、源頼義(988-1075)の墓が見えます。境内は頼義の墓以外何も無く、広々とした空き地になっており、廃仏毀釈の凄まじさ痛感させられます。通法寺の境内だったと思われる空き地の突き当たりに、河内源氏の居館があったようですが、現在はブドウ畑になっていて痕跡さえない。


 丘の上の頼信、義家の墓  



通法寺跡右側の竹薮の茂る小高い丘の上の頼信、義家の墓があります。
頼信、頼義の墓に比べこの義家の墓が最も大きく立派です。「八幡太郎義家」として活躍し一番有名になったためでしょうか。







最後に河内源氏の祖・頼信の墓。

この周辺には、壺井八幡宮・通法寺跡・河内源氏三代の墓など源氏ゆかりの史跡が残り、「源氏の里」と呼ばれている。
そしてこの河内源氏の系統からは、源頼朝・足利尊氏・新田義貞・木曾義仲・武田信玄・今川義元・明智光秀・徳川家康など名だたる名将が輩出しているのです。


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