山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

2015年秋、皇室の菩提所・泉涌寺へ (その 3)

2016年04月27日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2015/11/24(火)「御寺(みてら)」と呼ばれる天皇家の菩提所・泉涌寺を訪れた時の記録です。

 月輪陵(つきのわのみささぎ)、後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)  


霊明殿の真後ろに、天皇を初め皇室の方々のお墓が並ぶ月輪陵、後月輪陵が位置している。正面拝所には霊明殿右横から入れます。入口の横には、どこの天皇陵にも見られる画一化された宮内庁の制札が掲げられている。しかし、ここの制札は横に長~~く、たくさんの天皇以下皇族の名前が並んでいます(みな知らない方々ばかりで、著名な天皇さんは見当たらないのだが・・・)。影の薄い御名に比べ、「みだりに・・・・宮内庁」のデカイ文字がひときは目立つ。

1234年、第86代後堀河天皇が亡くなり、泉涌寺内の観音寺に埋葬される(観音寺陵)。仁治3年(1242)1月、次の第87代四条天皇が12才で崩御されると、父である後堀河天皇の近くに葬られたいとの遺言から、泉涌寺で葬儀が行われ、月輪大師の御廟(開山堂)近くに埋葬された。これが月輪陵の最初です。

南北朝時代中頃から泉涌寺で天皇の火葬が行われるようになり、遺骨は別の場所に埋葬された。制札の後半に、第103代後土御門天皇(1442-1500)~第107代後陽成天皇(1571-1617)の5人の天皇には[灰塚]と表記されている。これは火葬後に残った「灰」を埋葬し石碑をたてたもので、供養塔の一種。「骨」を埋めた正式な御陵は「深草北陵」(伏見区深草坊町)にある。ところが、後陽成天皇の葬儀の時に「髪、灰、骨」の形見分けで一悶着あったらしく、その次の第108代後水尾天皇(1596~1680)からは「土葬」されるようになった。そして以後の天皇は葬儀場だった泉涌寺にそのまま埋葬されることになったとのこと。
制札に列挙されているように、以後幕府最後の天皇・121代孝明天皇の前まで続きます。13人の天皇が月輪陵に、2人の天皇が後月輪陵にお眠りになっている。皇族の方々を含め、全部で25陵・5灰塚・9墓が鎮まっています。まさに皇室の香華所(菩提所)に相応しい。

門内に入ると、白砂が敷き詰められた広い前庭となっている。中には入れず、かなり離れて遥拝することになる。陵地は一段高くなっており、中央に構える石段上の唐門が、天皇陵に相応しい威厳を表している。

天皇家唯一の菩提寺として幕府の保護を受けてきた。ところが明治維新政府の神仏分離方針のもと、明治11年(1978) これまで泉涌寺の境内の一部だった月輪陵・後月輪陵は宮内省の管轄になった。それでも歴代の天皇の位牌や尊像は泉涌寺に祀られているというところから、宮内省から若干の補助は受けてきたようです。しかし終戦後の新憲法では、国が直接神社仏閣に資金を供することが禁止された。泉涌寺は皇室の御寺として、通常の寺院のように壇信徒を持っていない。そのためお寺の懐事情も苦しいようですが・・・。

内部を覗けないので、Google Earthで空中から覗きます。天皇陵といえば仁徳天皇陵などの巨大な前方後円墳を思い浮かべるが,7世紀以降になると方墳、円墳へと変化し、さらに八角墳が採用されるようになった。また仏教思想の影響により、火葬の導入(持統天皇)が見られるようになる。
中世にはいると天皇も仏式に火葬され寺に埋葬というのが一般的になる。月輪陵の最初の第87代四条天皇も、ここ泉涌寺で火葬され納骨された。ところが江戸初期の第108代後水尾天皇(1596~1680)から天皇家の葬礼が土葬にかわる。泉涌寺で葬儀が行われ月輪陵内に埋葬され、石造塔形式の陵墓が建立されただけです。こうした方式は、以後孝明天皇の前(第120代仁孝天皇)まで続けられ、かってのように墳丘が造営されるのではない。すべて土葬され仏式の御石塔でお祀りされている。天皇は九重の石塔(宮内庁は「陵形:九重塔」と表現している)、皇妃は無縫石塔(むほうせきとう)、親王墓は宝篋印石塔(ほうきょういんせきとう)だそうです。まさに武士の時代で、皇室の衰えを象徴している。

ところが、幕末にいたって尊皇思想が高揚してくると天皇のお墓についても変化が生じてくる。第121代孝明天皇が崩御されると、月輪陵の裏山に大規模な墳丘を持つ円墳が築造された。明治天皇(伏見桃山陵)、大正天皇(武蔵野陵)、昭和天皇(武蔵野陵)も、土葬され「陵形:上円下方」(宮内庁の呼び方)の墳丘となっている。

★平成25年(2013)11月14日、宮内庁から「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」が発表された(内容は宮内庁サイトを)
それによると、ご葬法について今上天皇(明仁)および皇后(美智子)さまから「御陵の簡素化という観点も含め,火葬によって行うことが望ましいというお気持ち,かねてよりいただいていた」という。それを受けて宮内庁で検討した結果、
・御陵は今までどおりの上円下方形とし、規模は昭和天皇陵の8割程度とする。
・今後の「御葬法として御火葬がふさわしいものと考えるに至った」
と発表された。これにより、江戸時代初期から350年以上続いてきた天皇・皇后の葬儀と埋葬方法は今上天皇の代では大きく変わることになる。

いつの日か、”美しく強いニッポン”の象徴として巨大な天皇陵がそびえることのないよう・・・お願いします

 第86代後堀河天皇・觀音寺陵(かんおんじのみささぎ)  


泉涌寺の東の山中に第121代孝明天皇の後月輪東山陵がある。直ぐ裏手で近いので訪れてみることに。泉涌寺境内の北側、仏殿の横に守衛所があり、ここから出入りできる。拝観券を見せると再入場もできます。
後月輪東山陵へは、ここを出て右側の緩やかな坂道を山中の方向に登って行くとすぐです。

5分位進むと、左手に階段が見え、宮内庁の例の制札が建っている。「後堀河天皇 観音寺陵」とある。
階段から坂道を登った行くと、左下には泉涌寺の建物が見えます。天福2年(1234)崩御された第86代後堀河天皇は、泉涌寺内の東山観音寺に埋葬されたという。これがその「観音寺陵(かんおんじのみささぎ)」です。宮内庁は「陵形:円丘」としている。

承久3年(1221)「承久の乱」がおこり、後鳥羽上皇を中心とした天皇側と鎌倉幕府との天下分け目の決戦が起こる。結局天皇側は負け、後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇の三上皇は配流され、仲恭天皇は退位させられた。幕府は次の天皇として後鳥羽上皇の直系子孫でない後堀河天皇(第86代、ごほりかわてんのう、1212-1234)を即位させた。まだ10歳で、幕府の言うがままで何もできない。10年後(1232年)、息子でまだ2歳の四条天皇に譲位し院政を行うが、2年後に23歳の若さで崩御した。



 第121代孝明天皇後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)  


後堀河天皇觀音寺陵からさらに進むと、左側にコンクリートの柵が見えてくる。入いるナ!、という宮内庁の意思表示で、この中に孝明天皇の女御・英照皇太后の御陵「後月輪東北陵」が築かれている。柵に沿って少し進むと広場に出る。
ちなみに明治天皇は英照皇太后の子ではない。孝明天皇と英照皇太后との間には2人の皇女がいたが、2人とも幼児期に夭折してしまう。そこで天皇と典侍の中山慶子との間に生まれた祐宮睦仁親王(当時9歳)を養子にもらい、「実子」と称した。この睦仁親王がのちの明治天皇なのです。

広場に宮内庁の制札「孝明天皇後月輪東山陵、英照皇太后後月輪東北陵」が掲げられている。その横には塀と扉しかなく、陵墓でよく見られる石の鳥居や柵などからなる正面拝所ではなし。どうやら孝明天皇、皇太后の陵墓はこの奥で、一般人は入れないようになっている。遥拝したければこの扉に向かってどうぞ、ということでしょうか。
第121代孝明天皇は幕末最後の天皇で明治天皇の父。慶応2年(1866)12月25日36歳で突然崩御する。公式には天然痘で亡くなったとされていますが、毒殺説、刺殺説などが残る。

前代の第120代仁孝天皇までは埋葬し、九重の石塔を建てるだけの簡素なものだった。次の孝明天皇から再び大きな墳丘が造営されるようになったのです。王政復古の象徴です。現代まで続いている。

 第85代仲恭天皇九条陵(ちゅうきょうてんのうくじょうのみささぎ)  



東福寺、泉涌寺周辺にはもう一つ天皇陵が在ります。第85代仲恭天皇・九条陵(ちゅうきょうてんのうくじょうのみささぎ)です。地図では東福寺塔頭の光明院のすぐ裏手になっている。そこで光明院を訪れた後、地図を頼りに住宅地を抜け裏山へ入っていった。雑木林の中へ入り込むと、広場とその正面に陵墓の遥拝所が現れた。どこにもある制札は見かけなかったが、「仲恭天皇九条陵」の石柱が建てられている。宮内庁は「陵形:円丘」としている。

第85代仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう、1218-1234)は在位78日間で、歴代天皇の中でも最も短命の天皇として知られる。承久3年(1221)「承久の乱」が起こる。祖父後鳥羽上皇が鎌倉幕府の討幕計画を画策し、父順徳天皇もこれに加わった。そのためわずか3歳で天皇になった。しかし2ケ月後、後鳥羽上皇軍は幕府執権北条泰時に敗れ、後鳥羽上皇は隠岐、父順徳上皇は佐渡に配流される。そして仲恭天皇は廃位となり、後堀河天皇が即位したのです。
仲恭天皇は明治時代になるまで正式な天皇として認められず、「半帝」「九条廃帝」と揶揄されてきた。正式な即位式も無く短命で、反乱を起こした反幕府側だったためです。廃位後は、母の実家九条道家の邸(九条殿)に母と共に暮らし、天福二年(1234)に17歳で崩御する。
明治時代になって、幕末以来の尊王思想の影響を受け、歴代天皇の系統の見直しが行われた。明治3年(1870)「仲恭天皇」と追号され、第85代天皇として初めて歴代天皇に加えられたのです。
仲恭天皇の埋葬地はどこか?。わずか78日間在位期間で、かつ長い間天皇として認められてこなかった。そうした仲恭天皇については歴史資料も乏しく、ましてや埋葬地など分っていない。晩年は叔父で、東福寺を創建した九条道家の九条殿で過ごしたということから、明治22年(1889)その近辺に円丘墳が築かれた。これが現在の「九条陵」です。
ところがもう一つ候補地がある。東福寺の項で紹介した法性寺の横に位置する「東山本町陵墓参考地」(東山区本町十六丁目)です。そこには柵で囲まれた空き地が在り、宮内庁の制札「東山本町陵墓参考地」が立っている。
東山本町のこの地に円丘状の土塚があり、塚上に廃帝社と呼ばれる祠があったということがわかってきた。そこで宮内庁は大正13年(1924)、「ここかもしれない・・・」として陵墓参考地に指定し、現在にいたっている。

私は裏から入ったのだが、表側には小石を敷き詰めた立派な参道が築かれていた。そしてこの参道からの眺めがすこぶる良い。京都市内が見渡せます。歴代天皇中で最も影が薄い天皇で、真陵かどうかも不明なので御陵は別にして、東福寺訪問後の気分転換に裏山に登ってみるのもよいかも。人の散歩は許されているようですので・・・

この参道の途中に「崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵(すとくてんのうちゅうぐうこうかもんいんつきのわみなみりょう)」があります。
藤原聖子(ふじわらのきよこ)は、摂政・藤原忠通の娘で、後に崇徳天皇の中宮となりました。ところが崇徳上皇は保元の乱で敗れて讃岐に配流されてしまう。聖子は京都に留まって出家し「皇嘉門院」となり、縁戚の九条家で余生を過ごしたという。この辺りが九条家の領地なので、ここにお墓が造られたのでしょう。
見晴らしの良いこの場所が選ばれたのも、崇徳上皇の怨霊を鎮めるためでしょうか?

詳しくはホームページ

2015年秋、皇室の菩提所・泉涌寺へ (その 2)

2016年04月21日 | 寺院・旧跡を訪ねて

015/11/24(火)「御寺(みてら)」と呼ばれる天皇家の菩提所・泉涌寺を訪れた時の記録です。

 大門(重要文化財)と楊貴妃観音堂  


来迎院から元の参道(泉涌寺道)に戻る。10分位歩くと泉涌寺の入口となる大門(重要文化財)にたどり着く。大門には、泉涌寺の山号「東山」(とうぜん)の額が掲げられているところから「東山門」とも呼ばれている。くる。門脇に受付があり伽藍拝観料 500円必要。
創建について公式サイト
「当寺は天長年間(824-34)、弘法大師がこの地に草庵を結び、法輪寺と名付けられたことに由来し、後に仙遊寺と改名された。建保6年(1218)に、当寺が開山と仰ぐ月輪大師・俊(がちりんだいし・しゅんじょう)が宇都宮信房からこの聖地の寄進を受け、宋の法式を取り入れた大伽藍の造営を志し、嘉禄2年(1226)に主要伽藍の完成をみた。その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改めた。この泉は今も枯れることなく涌き続けている。」と書かれている。

月輪大師は肥後国(熊本県)出身で、正治元年(1199年)宋に渡り天台と律,禅を学び、12年後の建暦元年(1211年)日本へ帰国した。彼は宋から多くの文物をもたらし、泉涌寺の伽藍は全て宋風に造られた。嘉禄2年(1226)に伽藍の完成をみた。そうしたことから実質的な開祖は鎌倉時代の月輪大師とされる。

泉涌寺は皇室・公家・武家など朝野から尊信篤く,深く帰依された。貞応3年(1224)には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められ,仁治3年(1242)に四条天皇が当寺に葬られてからは、歴代天皇の山稜がこの地に営まれるようになる。こうして皇室との結びつきが深まり、皇室の御香華院(菩提所)として篤い信仰を集めることとなり,「御寺(みてら)」と呼ばれるようになった。

伽藍は中世の戦乱で荒廃するが、信長・秀吉・徳川家の寄進で再興され、なかでも寛文4年(1664年)からの6年間に徳川家綱によって大規模な再建事業がなされ、現在の姿になった。

大門を潜ると,真っ直ぐな広い参道が仏殿まで続いている。寺院では珍しく下りの坂道となっています。そこから「下り参道」と呼ばれている。紅葉シーズンだが、華やかな明るさはなく、深緑に覆われ静寂な雰囲気が漂う。大混雑の東福寺に比べ、地味な泉涌寺はさすがに訪れる人は少ない。路上に散乱する落葉が、泉涌寺で唯一の華やかさでした。

大門を入った左横に,後水尾天皇中宮東福門院が寛文5年(1665年)に寄進した楊貴妃観音堂がある。
建長七年(1255年)中国に渡った僧・湛海律師(月輪大師の弟子)が仏舎利とともに宋より請来した中国・南宋時代の観音菩薩坐像が祀られている。
通称「楊貴妃観音像」(重要文化財)と称されている。玄宗が亡き楊貴妃の面影を偲ぶため香木で等身坐像にかたどった聖観音像を造ったという伝承が残され,近世初期以降に楊貴妃観音として信仰を集めた。
私は拝観していないのだが,整った鼻筋、紅を差したような唇,日本一美しい観音像といわれているそうです。そして口のまわりにヒゲが・・・との噂も?。

 雲龍院(うんりゅういん)  


大門を潜ってすぐの右側(楊貴妃観音堂の反対側)に入っていくと雲龍院があります。右側の門が「勅使門」で、皇族方の出入りだけに使われ普段は閉じられている。近年では常陸宮妃華子殿下がお使いになられたそうです。我々下々のものは、手前の山門から入り拝観料400円支払う。

山門脇の由緒書きによれば、南北朝時代の応安5年(1372)に北朝第4代の後光厳天皇が竹巌聖皐(ちくがんしょうこう)律師を招いて菩提所として建立されたのがこの寺のはじまりとされる。その後、歴代天皇の信仰があつく、皇室の帰依を受けて発展したとされる。以来、天皇家ゆかりの寺として、泉涌寺山内にありながら別格本山という高い寺格が与えられている。

写真の建物は霊明殿。明治元年(1868年)に再建された皇族の位牌堂です。
(公式サイト)「当院は後水尾天皇以降の歴代の陵が後山にあり、皇室と大変密接なご関係のお寺です。霊明殿はその皇族の位牌堂のことで、現在の建物は明治元年に孝明天皇・大宮御所・静寛院宮・各尼門跡宮からの援助を受け建立されました。内陣の中央には、北朝の後光厳天皇、後円融天皇、後小松天皇、称光天皇の御尊牌そして左側には後水尾天皇から孝明天皇までの歴代天皇、右側には東福門院・普明照院といった江戸時代の皇子・皇女の尊牌が奉安されています」とある。

霊明殿の前の燈籠は、最後の将軍となった15代将軍徳川慶喜が寄進したもの。白砂で形造られ皇室の十六菊の御紋が印象的。京都を愛したサスペンスの女王、山村美紗さんのお墓もここ雲龍院にあるという。(皇室の仲間入り・・・?、皇室を題材にしたサスペンスって面白そう・・・)

多くの人は、皇族の位牌が安置されているから雲龍院を訪れるのではない。この雲龍院の魅力は、庭園の美しさとそれを眺める仕掛けです。訪れる人の大部分は庭園を眺めることが目的でしょう。
書院前には広い庭園が広がっている。東山月輪山を借景に、苔と石組み、刈込、楓、松を配置した築山式庭園です。畳敷き「大輪(だいりん)の間」には縁側、半開きされた障子、赤い毛氈が設えられ、好みの位置・角度から庭を額縁の絵のように鑑賞できるようになっている。それほど人も多くないので寝転がって寛ぐのが一番でしょうか。枯山水より、こうした緑の築山式庭園のほうが落ち着きます。

「大輪の間」の隣が「れんげの間」。雪見障子の四角いガラス越しに、額縁で切り取ったように四枚の絵色紙が眺められる。「しきしの景色」と名付けられています。左の窓から椿・灯籠・楓・松が透かし見える。四季折々に異なった趣の絵色紙を鑑賞できるという。
部屋の一角に座布団が置いてあり、その座布団に座って鑑賞するのが「報道ステーションのお天気お姉さん推奨」と説明書きされていました。

台所から右へ曲がりさらに奥の部屋に行くと、有名な「悟りの間」があります。悟りの間には、四角い窓と丸い窓があります。四角い窓は「迷いの窓」と呼ばれているそうです。人生に於ける「生老病死」の苦しみを四つの角で象徴しているとか。

正確な真円を描いてる「悟りの窓」は、禅における悟りの境地を表しているという。春には紅梅やシャクナゲが、秋には紅葉が鑑賞できるそうです。
知られた撮影スポットだけあって、玄人、素人集まってくる。良いアングルをとるには順番待ちしなければなりません。

 泉涌水屋形と清少納言の歌碑  


下り参道の正面に仏殿があり、その東横に「泉涌水屋形(せんにゅうすいやかた)」がある。泉涌寺の名前の由来ともなった湧き水が出た場所です。今も尽きることなく水が湧き出ています。寛文8年(1668)の再建で、間口2間に奥行き1間半の屋形で覆われている。

泉涌水屋形の傍に,平安時代の歌人・清少納言(966-1025)の歌碑が設置されている(1974年建立)。
清少納言は一条天皇皇后定子(藤原定子、977 -1001)に仕えた。定子が亡くなり鳥部野陵に埋葬されると、彼女はその近くの泉涌寺付近に庵を結び隠棲し生涯を終えたとされています。
歌碑には,藤原行成と交わした歌「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」の歌が彫られている。

 仏殿と舎利殿(しゃりでん)  



境内の中央にあるのが本殿にあたる「仏殿」(重要文化財)。応仁の乱で焼失後,寛文8年(1668年)徳川四代将軍徳川家綱の援助で再建された。桁間5間、梁間5間、一重裳階付入母屋造、本瓦葺で唐様建築の代表作。

内部には、運慶の作と伝えられている本尊の三世仏が祀られている。即ち過去・現在・来世を表す阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来です。そしてお堂の左奥には開山された月輪大師像が祀られています。
仏殿内陣の鏡天井には,江戸時代の画家狩野探幽の「雲竜図(うんりゅうず)」(パンフは「蟠龍図(ばんりゅうず)」となっている)が描かれている。畳八畳分の大きさをもつ龍の絵です。

仏殿の背後にある白壁の建物が舎利殿(しゃりでん)。御所にあった御殿を移築したもので、ここには仏牙舎利(釈尊の骨)が祀られている。安貞2年(1228)、月輪大師の弟子湛海が宋から持ち帰ったもので、釈迦の口元の骨(歯)だそうです。
現在同時に将来された韋駄天像・月蓋(がつがい)長者像(共に重文)とともに内陣に奉祀されている。

ここ舎利殿の天井にも狩野山雪筆の『蟠龍図』(ばんりゅうず)が描かれている。天井画の下で手を叩くと、その音が反射して龍が鳴いているような音が返ってくるという。そこから「鳴き龍」と呼ばれている。通常非公開ですが、12年に1度、辰年にのみ特別公開されるそうです。 世阿弥作と伝えられる謡曲「舎利」の舞台がこの舎利殿。

 御座所(ござしょ)と霊明殿(れいめいでん)  


舎利殿の裏手にはお坊さんの住む本坊と繋がって御座所(ござしょ)がある。御座所とは天皇・皇后をはじめ皇族の方々が訪れた際に休息所として使用した所。現在も皇室や宮内庁の関係者が来寺したときには休息所として使用されているが、普段は一般にも公開されている。

建物は明治17年(1884)年、明治天皇の命により京都御所内にあった皇后宮の御里御殿(おさとごてん)を移して再建されたもの。女官の間、門跡の間、皇族の間、侍従の間、勅使の間、玉座の間などの部屋があり,狩野探幽などの貴重な襖絵が見られる。またここの「御座所庭園」も美しさで有名です。
中へ入るには特別拝観料(300円)が別途必要。今日は枯山水の庭園をたくさん見てきたので,庭園はもういいか,と入らなかった。しかし皇族の気分を味わえるよい機会だったのにと,後で後悔しました。

御座所の東側には「海会堂(かいえどう)」と呼ばれる御堂がある。明治政府が発足すると、神仏分離・廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる。神道を基とする皇室も例外ではない。他の寺院のように仏教物を破壊するわけにもいかない。そこで明治9年(1876)、京都御所にあった天皇の念持仏が祀られている御黒戸(おくろうど=仏間)を丸ごと泉涌寺に持ってきた。これが海会堂で、今でも歴代天皇、皇后、皇族方の御念持仏が祀られているそうです。

舎利殿の右奥が霊明殿。ここには天智天皇、光仁天皇そして桓武天皇以降、昭和天皇に至る歴代天皇・皇后の尊牌(位牌)がお祀りされている。これも明治初期の神仏分離で、各地の寺院に分散していた皇室の位牌を集め、ここ霊明殿に祀りしたもの。

毎月の御命日やお彼岸・お盆等には御法要が行われ、また日々の回向が行われているという。そして祥月御命日には皇室の代理として宮内庁京都事務所からの参拝が行われるそうです。

現在の建物は明治15年(1882)の炎上後、明治天皇によって明治17年(1884)に再建されたものである。入母屋造、檜皮葺で寝殿風の造り。

門より中へ入ることはできない。菊の御紋が目を光らせている・・・。




詳しくはホームページ

2015年秋、皇室の菩提所・泉涌寺へ (その 1)

2016年04月15日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2015/11/24(火)京都・東福寺の紅葉見物の後、近くの泉涌寺(せんにゅうじ)に立ち寄る。泉涌寺は「「御寺(みてら)」と呼ばれ、天皇家と大変深い関係があります。境内には月輪陵と呼ばれる御陵があり、沢山の天皇さんが眠っておられる。今まで前方後円墳などの多くの天皇陵を見てきたが、天皇陵の総本山たるここを見過ごすわけにはいかない。

 新熊野神社(いまくまのじんじゃ)  


京阪・JRの東福寺駅へ戻り、今度は東大路通りを北東へ歩く。泉涌寺道への入口が見えるが、それを通り越し200mほど進むと路傍にクスノキの大樹が見えてくる。ここが新熊野神社です。

後白河法皇(在位:1155年~1158年)は退位後も法住寺にて院政を敷き、「法住寺殿」と呼ばれていた。当時熊野詣が盛んで、法皇も34回熊野に参詣したという。しかし紀州熊野はさすがに遠い。そこで永暦元年(1160年)、近くに鎮守社として新熊野神社を創建し、熊野の神をここに勧請したのです。造営を平清盛・重盛父子に命じ、熊野より土砂材木等を運び社域を築き社殿を造営、神域に那智の浜の青白の小石を敷き霊地熊野を再現しようとした。紀州の熊野に対して、京の新しい熊野として「新熊野(いまくまの)」と呼ばれた。同時に鎮守寺として三十三間堂も創建された。




神社入口左手に、しめ縄のかけられた樟(クスノキ)の大樹がそびえる。神社創建時に、熊野より移植した後白河上皇みずからお手植といわれている。幹周/6.58m、樹高/21.9m、樹齢/伝承800年。樹齢900年以上京都市指定天然記念物 (S58年6月1日指定)


ここの境内は、能楽発祥の地といわれている。能楽の礎をつくった観阿弥・世阿弥の出たところです。






 泉涌寺道(せんにゅうじみち)  


新熊野神社から東大路通りを200mほどバックすると、泉涌寺へ通じる道がある。これが「泉涌寺道(せんにゅうじみち)」と呼ばれ、泉涌寺の大門まで500mほど緩やかな坂道となっています。



泉涌寺道の中ほどに泉涌寺の総門が構える。道の両側には、即成院、戒光寺、悲田院、来迎院、今熊野観音寺などの泉涌寺の塔頭寺院が点在している。

毎年成人の日(1月の第2月曜日)には、泉涌寺道で「泉山七福神巡り(せんざんしちふくじんめぐり)」が盛大に行われるそうです。泉涌寺道沿道の塔頭を順に参拝していく人で、例年多くの人出があるという。

 即成院(そくじょういん)  


泉涌寺総門の手前にある即成院は、泉涌寺の山内にある塔頭です。
寺伝によれば,正暦3年(992)、恵心僧都源信により伏見(宇治川北岸)に建立された光明院を起源とするとされる。 その後いろいろ転移を繰り返し、最終的に泉涌寺塔頭の法安寺と合併し明治35年(1902年)に総門近くの現在地に移された。本堂には、本尊・木像阿弥陀如来坐像並びに二十五菩薩坐像が安置されている。いずれも国の重要文化財に指定されています。本尊は、ぽっくり信仰を集め「ぽっくり寺」とも呼ばれるとか。
即成院は那須与一ゆかりの寺とされており、本堂裏には与一の墓と伝えられる高さ3メートルにも及ぶ石造宝塔が建っている。与一は、熱心に即成院の阿弥陀さまを信仰していた。そして平家の船上に掲げた扇の的を見事一発の弓矢にて射抜くという武勲を立てた。最終的には即成院の阿弥陀さまの前で亡くなったという。
門を潜った右手に「与一の手洗い所」が設けられている。「願いが的へ」と書かれた箱もあります。紙石鹸が入っており、湿らせた手に紙石鹸をのせ、願いを込めて手を洗うと「願いが的へ」へ通じるという。
那須与一は『平家物語』に描かれた半ば伝説上の人物とされるのだが・・・

 悲田院(ひでんいん)  


総門を入ってしばらく歩くと、右手に悲田院への標識が見える。悲田院とは奈良時代より、仏教の慈悲の思想に基づき、身寄りのない老人、孤児、貧窮者、病者などを収容するの救済のための福祉施設。平安時代にも京に幾つか建てられたという。正保2年(1645)、高槻城主・永井直清が現在地に移建し、如周和尚を迎えて住持としたのが現在の悲田院でとされる。
泉涌寺の塔頭寺院のひとつで、本尊は阿弥陀如来。除災招福の毘沙門天が有名とか。

山の中腹に位置しているため、眺望がすこぶる良い。建物の西側には、柵が設けられベンチが置かれている。まさに展望台で、京都タワーをはじめ、京都市内を一望できます。境内は無料で入れますので、疲れを癒すのに最適な場所です。

 今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)  


悲田院から泉涌寺参道に戻り、少し歩くと左側に「紅葉まつり」の立て看とともに「頭の観音さん 今熊野観音寺」の標識が見える。緩い坂道を下ってゆくと今熊野川に架かる朱色の橋が見えてきます。橋の名前は「鳥居橋」。朱色の橋といい、”鳥居”という名前といい、まるで神社のようです。古くからこの地には熊野権現社が鎮まっていた名残のようです。
鳥居橋を渡ると今熊野観音寺の境内に入ります。通常の寺のように山門はありません。この鳥居橋が門の代わりなのでしょうか?。

寺伝によれば、平安の昔、弘法大師空海が創建したと伝わる。850年代、左大臣藤原緒嗣が伽藍を造営したと伝えられ、当初は東山観音寺と称していた。「熊野信仰」の大流行の際、後白河法皇が永暦元年(1160)に新熊野神社を勧請創建された際、その本地仏を祀る寺として今熊野観音寺と称するようになったという。その後、泉涌寺をも凌ぐ大寺となったが、応仁の乱の戦禍でほとんどの堂宇を失ってしまった。
境内に入り杉並木の参道を通り抜けると、本堂へ続く階段前に「子護り大師」像が建つ。子どもの心身健康・学業成就などにご利益があるといわれている弘法大師像です。像の周りには砂が敷き詰められ、「南無大師遍照金剛と唱えながら四国八十八箇所のお砂を踏んでお大師様を廻って下さい」と書かれた札が立てられている。

「子護大師像」後ろの石段を上がると本堂の前に出る。本堂も応仁の乱で消失たが、正徳3年(1713)に再建され現在に至っています。本尊は、弘法大師御作と伝えられる十一面観世音菩薩(身丈・一尺八寸)。秘仏なので直接拝観することはできない。
本堂の東側に、弘法大師をお祀りしている大師堂があり,その入口階段横に「ぼけ封じ観音」が建てられている。
頭痛の悩んでおられた後白河法皇が、今熊野観音に頭痛平癒のご祈願を続けられたところ、不思議にもたちまちに癒えた、という「後白河法皇頭痛封じ霊験記」からきているそうです。

「ぼけ封じ観音」の傍には多数の小さな「身代わり石仏」並んでいる。授与所で奉納料(2万円)を支払い,いただいた小石仏にボケ封じの願を掛け,本堂で御祈祷を受けた後この場所に奉安される。
「ぼけ封じ近畿十楽観音霊場」なるものがあり,今熊野観音寺はその第一番札所だそうです。私もそろそろ霊場巡りを・・・それとも身代わり石仏を((-_-;))。

 来迎院(らいごういん)  


今熊野観音寺から引き返し鳥居橋を渡ると,参道に出る手前に宮内庁書陵部の管理事務所「月輪陵墓監区事務所」がある。その前の道を林の中へ入っていくと来迎院への入り口が見えてくる。

薄暗い山中の山門。いかにも大石内蔵助が隠れ住み,謀議を話し合ったという雰囲気が現在でも漂う。訪れる人は少ない。

泉涌寺の塔頭寺院。創建は,大同元年(806年)に弘法大師空海が唐で感得した三宝(仏・法・僧)荒神像を安置して開いたと伝えられ、今も大師ゆかりの独鈷水がある。応仁の乱(1418)の兵火により伽藍が焼失し、荒廃したが、織田信長や徳川家の援助により再興される。明治時代になると廃仏毀釈により荒廃したが、大正時代になって修復され、現在に至る。本堂には運慶の作と伝えられる阿弥陀如来が安置されている。
本堂前を奥へ進むと,大石内蔵助ゆかりの含翆軒と含翆庭があります。拝庭料400円払い,中に入る。小さな庭園はこの時期紅葉で色づくが,それ以外熊笹で覆われ,華やかさはない。

庭の一角に大石内蔵助が建てたという茶室・含翆軒(がんすいけん)が佇む。
赤穂浅野家断絶後,大石は外戚にあたる当時の泉涌寺長老でここの住職であった卓巖和尚を頼り、来迎院の檀家となって寺請証文を受け山科に居を構えた。そしてここ来迎院でよく茶会を催し、赤穂の浪人たちと密談をかわした、とされています。そして、今も本堂に安置されている勝軍地蔵を念持仏として祈願していた。その甲斐あってか見事に討ち入りを成就さした。


詳しくはホームページ

2015年秋、紅葉の東福寺(その2)

2016年04月04日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2015/11/24(火)京都・東福寺へ紅葉見物に出かけたときの記録です。

 本堂と三門  


境内のほぼ中央に二つの巨大な建物が佇む。 東福寺の中心伽藍である本堂(仏殿 兼 法堂)と三門(国宝)です。
本堂(仏殿 兼 法堂)は、鎌倉時代中頃に高さ5丈の本尊釈迦像を安置するため建てられた。明治14年(1881年)に焼失したが、昭和9年(1934年)に再建された。裳階付き重層入母屋造り、高さ25.5m、間口41.4mで昭和期の木造建築としては最大級のもの。
本尊釈迦三尊像(中尊は立像、脇侍は阿難と迦葉)が祀られているが、これは明治14年の火災後に万寿寺から移されたもので、鎌倉時代の作。
皆さん正面の扉から中を覗き、見上げていらっしゃる。内部の大天井には仏教を守護する雲龍図が描かれている。内部が非公開のため入ることはできないので、覗いているのです。。京都生まれの画家、堂本印象画伯の作品で、東西約22m、南北約11mの天井に描かれた龍の大きさは体長54m、胴廻り6.2mにもなるという。私も見上げたが薄暗くてよく判らなかった。
本堂の南には三門(国宝)がどっしりと構える。元応元年(1319)の大火によって失われた後、室町時代初期の応永年間(1394年~1428年)に室町幕府四代将軍、足利義持によって再建された。「三門」とは空門・無相門・無作門の三解脱門のことで、現存する禅宗寺院の三門としては日本最古のもの。国宝になっている。
五間三戸(柱間五間で入口が三つの門)、二階二重門、入母屋造、本瓦葺、棟高は22m余で、南禅寺・知恩院の門と並び京都の三大門と称される。
手前の池は「思遠池(しおんち)」。夏には、「思遠の蓮」と呼ばれる美しい白い蓮が咲くそうです。池の中央には、三門へとつながる石橋が懸けられている。近くには勅使門があり、天皇の勅使が出入りする時だけに使われる橋です。

思遠池の橋を渡り、そのまま直進すれば三門を潜り本堂へ通じている。天皇の勅使しか歩めないコースです。

三門の左右には階上へ登るための階段が設けられている。しかし特別公開(3月14日~16日の涅槃会に公開、拝観料:大人500円)以外は一般公開されていない。
楼上からは洛南一帯の雄大な景色を一望でき、かの石川五右衛門が「ここも絶景だゾ!、絶景だゾ!」と叫んだとか、叫ばなかったとか・・・。


 浴室と東司(便所)  


本堂や三門の東側の境内を歩いて見ます。こちらには浴室(重文)、五社成就宮、十三重石塔、大鐘楼などがある。
浴室(重文)は、室町時代の長禄3年(1459年)の瓦銘が残り、禅宗伽藍としては現存最古の浴室建築。奈良・東大寺の湯屋に次いで古い浴室で、1907年(明治40年)に国の重要文化財に指定される。内部は非公開。
内部は、土間の奥の左右に腰掛が設けられ、中央の板敷を洗い場にした蒸し風呂形式。現在のサウナの同じ。説明版によれば、「沐浴にお湯を使用すると膨大な量となる。当然お湯を沸かす貴重な水はもとより、水を沸かす薪の量も多く、東山三十六峰の山々が禿げ山になる可能性がありました。そのためお湯でなく蒸気で体の垢をふやかし擦り落とすことで、お湯の使用量を格段に節約し、自然を大切にしたのである」のだそうです。
後方に釜と焚き口があり、蒸気をスノコを通して下から送っていた。

本堂や三門の西側には禅堂と東司(とうす)がある。二階建てに見える白壁の建物が禅堂で、お坊さん達が寝食を共にしながら坐禅をし修業する道場。
手前の平屋の建物が「東司」、いわゆる共同トイレです。現代でもこれだけの規模の便所って無いですよネ。
禅堂内で修行する僧が使用するもので、禅寺には必ず禅堂の隣に用意されていたという。室町時代の建築で、現存するのはここだけで、浴室と共に室町時代の禅僧の生活を知る上で貴重な建物となっている。
非公開だが、東側の連子窓から内部を見ることはできる。いわゆる”覗き見”です。窓の下には覗き見し易いように親切に踏み段が置かれています。内部は中央通路をはさんでその両側に便壺が十五個づつ並んでいる。多くの修行僧が一斉に用を足すことから「百雪隠(ひゃくせっちん、百間便所)」とも呼ばれる。

説明版に「当時の排泄物は貴重な堆肥肥料であり、京野菜には欠かせない存在となっていた。京都の公家、武家、庶民の台所をおいしい野菜で潤した。叢林としても現金収入の大きな糧となっていた」とあります。厳しい修行に励んだ僧たちの便だからこそ、おいしい京野菜が・・・。

明治35年(1902)に国の重要文化財に指定されている。便所で重要文化財指定って他にあるんだろうか?。浴室と共に室町時代の禅僧の生活を知る上で貴重な建物です。

 勅使門(ちょくしもん)と六波羅門(ろくはらもん)  


三門前の思遠池の南西角にあるのが勅使門(ちょくしもん)。天皇の勅使をお迎えする時だけに使われる。通常は閉ざされ、開かずの門なのです。天皇の勅使は、この勅使門から入り思遠池中央に架けられた石橋を渡り、三門をくぐって本堂前に進む。
桃山時代の天正18年(1590)に、現在地より南方にある塔頭の南明院に建造された。明治18年(1885)に現在地へ移築された(私の推測だが、明治初めの廃仏毀釈で東福寺の境内が大幅に縮小され、勅使門も境内外になってしまったので移築したのでは・・・)。四脚門、切妻造、本瓦葺で、1993年(平成5年)4月9日に京都府指定文化財に。

勅使門の直ぐ西にある門で、こちらは開いており、境内南側の通用門としてくぐれる。もと北条氏の六波羅探題にあったものを移したことから、この名で呼ばれている。

鎌倉時代前期の門で、東福寺では月下門とともに最も古い建築物で、国の重要文化財に指定されている。
一間一戸・切妻造・本瓦葺。



 芬陀院(ふんだいん、雪舟寺)  


本堂西の日下門から出ると、さらに西の中門まで参道が伸びている。その中ほどに「雪舟寺」として有名な、東福寺の塔頭寺院のひとつ芬陀院(ふんだいん)があります。大混雑の東福寺境内から一歩外れると、訪れる人も少なく、静かな雰囲気になってくる。
鎌倉後期の元亨年間(1321~1323)に、時の関白・一條内経(うちつね)が父親の菩提を弔うために創建した寺。それ以来、摂関家の一つであった一条家の菩提寺となっている。一條内経の戒名が「芬陀利華院殿(ふんだりかいんでん)」だったので「芬陀利華院」と呼ばれていたが、略して「芬陀院」となった。

ここの南庭は禅院式枯山水の「鶴亀の庭」といわれ、寛正年間(1460-1466)から応仁年間(1467-1468)に、時の関白一條兼良公の好みにより雪舟が作庭したと伝えられている。
水墨画などで有名で、また禅僧でもあった雪舟(1420-1506)が少年時代を過ごした備中(岡山県)の宝福寺は東福寺の末寺だった。その縁で雪舟が東福寺に参った時は芬陀院に起居していたという。

その後二度の火災で荒廃していたが、作庭家・重森三玲(1896-1975)が東福寺の方丈「八相の庭」や光明院「波心庭」を作庭した同じ年の昭和14年(1939)に、修復・復元した。重森三玲はそれまでの実測調査の結果と、雪舟が山口に作った常栄寺庭園の実測資料を参考にして復原したという。白砂と苔と石組みによる京都最古の枯山水庭です。
白砂の奥にウマスギゴケを敷き詰め、その中に石組みで表された鶴島と亀島が浮かんでいる。右の二重基段状になっているのが亀島、左が折鶴を暗示した鶴島。

方丈の東側には、昭和14年(1939)南庭の修復・復元時に、重森三玲が新たに作庭した「東庭」がある。モチーフは南庭と同じ苔と石組による鶴亀の島からなる枯山水庭園。
その奥に茶室「図南亭(となんてい、恵観堂)」があり、茶室には丸窓が設けられ、障子の隙間から東庭を切り取って眺めることができます。

 光明院(こうみょういん)  



東福寺境内から南に出て、南に続く路地には幾つかの東福寺塔頭寺院が並んでいる。その中の一つに「光明院(こうみょういん)」があります。「苔の虹寺」とも呼ばれ、美しい庭園があるというので訪ねてみることに。

明徳2年(1391)金山明昶(きんざんみょうしょう)により創建された東福寺塔頭。入口には「雲嶺庭」の石柱が建ち、数段の石段を登った山門には「波心庭」の札が掛けられている。

方丈前の枯山水庭園は、重森三玲の作庭で「波心の庭(はしんのにわ)」と呼ばれている。東福寺方丈庭園と同時期(昭和14年、1939年)に作られたもので、重森三玲の初期の名作とされる。
寺号にちなみ「光明」をテーマに作庭され、大海原を表す白砂と杉苔の間に、斜線状に立石が並べられ、仏の光を表しているという。また、背後の刈り込まれたサツキやツツジは雲紋を表すそうです。

庭の奥には、茶亭「蘿月庵(らげつあん)」がある。紅葉の時期にはここの茶亭でお抹茶や京番茶とおはぎ、饅頭などをいただくことができます。
抹茶+おはぎか饅頭:600円
京番茶+おはぎか饅頭:400円
ここも芬陀院同様に、訪れる人は多くないので、静かに落ち着いた気分で鑑賞できます。
蘿月庵の丸窓は月を表し、「波心庭」から眺めると、東の空に月が昇る様子を楽しむことができるそうです。
京の寺には窓越し、障子越しに庭や紅葉を鑑賞できる仕掛けが多い。作為を感じなくも無いが、これも創作美としてとらえるべきでしょうネ。

 法性寺(ほうしょうじ) 


東福寺境内を西に外れた、京阪電車沿いの本町通り(鳥羽街道)に小さな小さなお寺が在ります。京阪・東福寺駅にも近い。入口は閉められ、誰も振り向かない街中のありふれたお寺に見えます。ところがこのお寺は、東福寺よりも古く大変由緒ある古刹なのです。
浄土宗西山派の尼寺「法性寺(ほうしょうじ)」。延長三年(924)、左大臣・藤原忠平によって創建された。藤原家の氏寺として栄え、藤原忠通(法性寺入道)の時には、広大な寺域に大伽藍を構え、京洛二一ケ寺の一刹に数えられていた。しかし、その後藤原氏の衰退や兵火により、堂宇は悉く焼失してしまった。 その跡地に創建されたのが現在の東福寺なのです。
現在の法性寺は明治維新後に再建されたもので、東福寺に比べ陰の薄い存在になってしまっている。本堂に安置されている千手観世音菩薩像は、旧法性寺の五大堂の一つである灌頂堂の本尊と伝えられ、国宝に指定されています。


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