山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

近江・桜二景 2(三井寺)

2018年07月25日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2018年4月3日(火) 近江(滋賀県)の桜スポット、石山寺と三井寺を訪れる

 琵琶湖疏水に沿って  


京阪石山・坂本線を使い、石山寺駅から大津市内を横切り20分ほどで三井寺駅に到着。1時半です。駅の西側を出ると、三井寺への案内標識が掲げられ、車道の脇にしゃれた歩道が設けられている。川に沿って真っ直ぐ伸び、桜風景が開ける。桜最盛期、人がゾロゾロ歩いているので、この歩道を進んでいけば三井寺に行けるはずです。
歩道に沿うように川が流れているが、「琵琶湖疏水」の案内板が立てられている。琵琶湖から取水した湖水は、人工的に造られた水路を流れ京都市内へ流れ込む。よく京都・南禅寺に行くので、その周辺の疏水路はよく眼にします。特に南禅寺境内の水路閣や、桜の名所で知られる蹴上のレール坂(蹴上インクライン)は有名だ。入口にあたる滋賀県側を見るのは初めてです。
水門が見えます。「大津閘門(おおつこうもん)」と呼ばれ、門扉を開閉し水位を調整する。傍に開閉用のハンドルらしきものも見えます。

疏水路の出口にあたる南禅寺、岡崎周辺は桜の名所で大勢の人出で賑わうが、入口のここも水路に沿って桜並木がつづき大変綺麗で桜の名所となっている。夜間のライトアップ用でしょうか、照明機材が等間隔に置かれています。
正面のトンネル上方に三井寺観音堂がある。大津市と京都間は長等山で遮られているので、トンネルが必要です。3つのトンネルがあるという。見えてきたのは1番目の「長等山トンネル」で、一番長く全長は2.4キロもある。明治時代なので相当の難工事で、国家的な事業だったらしい。
三井寺は長等山の山腹に位置している。だからトンネルは三井寺の下を通っている。ちょうど三井寺観音堂の真下です。三井寺は「地下水脈が枯れる恐れがある」などと訴え裁判沙汰になったという(5年ほど前に和解成立)。この琵琶湖からの水は現在でも、京都の生活用水、お寺などの庭園への遣水など使用され、京都にとっては必須。当然ながら、京都市は滋賀県にお水代を渡している。

 境内図と歴史  



一般には「三井寺(みいでら)」として知られるが、正式には「長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)」といい、天台寺門宗の総本山です。山号は「長等山」。

三井寺の起源について次のような伝承がある。
「大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。」(Wikipediaより)

大友村主与多王(すぐりよたのおおきみ)家の氏寺だった園城寺(三井寺)を大寺に飛躍させたのが智証大師・円珍(814~891)。讃岐国那珂郡(香川県善通寺市)に生まれ、母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。比叡山で修行後、唐へ留学修行し、多くの経巻、図像、法具を携えて日本へ帰国した。帰国翌年の貞観元年(859年)、園城寺初代長吏(管長のこと)に就任。大友氏の氏寺であった園城寺に「唐院」を設置し延暦寺の別院とする。伽藍を整備して密教修行の道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観10年(868年)、円珍は天台宗最高の地位である天台座主に就任。以後、没するまでの24年間その地位にあった。天台寺門宗では智証大師・円珍を開祖としている。

円珍の没後、比叡山・延暦寺は円珍の弟子達と慈覚大師円仁の弟子達に分裂、対立するようのなる。両派の対立は激化し武力衝突にまで発展し、ついに正暦4年(993)円珍派は比叡山を下りて三井寺に移った。これをきっかけに天台宗は、延暦寺を「山門」、三井寺を「寺門」と呼ぶようになり、二分されることになる。
それ以後三井寺は、比叡山の宗徒によって何度も焼き討ちに遭っている。しかし朝廷や貴族の尊崇を集め、その都度再興されてきた。
中世に入ると、源頼義が前九年の役(永承6年、1051)出陣にあたり三井寺に戦勝祈願したことから源氏との繋がりを深める。源頼政が平家打倒の挙兵をした時は、三井寺は平家軍により全山焼き払われたという(1180年)。源頼朝が平家を滅ぼすと、源氏の保護の下に焼失した伽藍も次第に再建されていった。続く南北朝の内乱時でも北朝・足利氏を支持したことから、室町幕府の保護を受け発展していく。
文禄4年(1595)11月豊臣秀吉は突然、「寺領取り上げ諸堂取壊」という三井寺の闕所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じた。理由は定かでない。この結果、三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も取り壊し、強制的に移築され廃寺同然となった。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、比叡山西塔の転法輪堂(釈迦堂)として現存している。ところが秀吉は死の直前、北政所に三井寺再建の遺言を残して没した。そして慶長年間に徳川家康、毛利輝元などの支援の下に、金堂・唐院、仁王門、三重塔、鐘楼などが再建され、現在の三井寺の寺観となったようです。

正式には「園城寺(おんじょうじ)」だが、「三井寺」と通称される。これは井戸「閼伽井屋」の霊泉が天智・天武・持統の三代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われ、それが転じて「三井寺」と呼ばれるようになったという。

 大門(仁王門、重要文化財)・釈迦堂  


桜の美しい琵琶湖疏水路に沿って歩いて行くと突き当たりになる。真上には三井寺観音堂が位置しているのだが、ここからは入れません。突き当りを右折し、更に大門(仁王門)まで10分位歩きます。途中に、長等神社があり、三井寺の総門もある。西国三十三箇所観音霊場の第十四番礼所となっている観音堂に参拝するにはこの総門から入るのが近道だが、観音信仰を持たない私は大門を目指します。


総門があるが、現在三井寺の表門は大門です。それだけの風格を備えた重層の楼門です。この楼門は移転を繰り返してきた。室町時代の宝徳4年(1452)に近江の常楽寺(滋賀県湖南市)に建立され、後に秀吉によって伏見城に奪われる。秀吉死後、徳川家によって伏見城取り壊しが行われ、慶長6年(1601)にここに移築された。変転を経たせいか、少々傷みが見られます。

大門の内側では、運慶作といわれる仁王像が両側で睨みをきかせている。そこから「仁王門」とも呼ばれている。

大門の外から見た境内。正面の階段を登ると金堂です。
大門を潜ると左側に拝観受付がある。年中無休、午前8時~午後5時。拝観料:600円。私は「西国三十三所草創1300年記念 特別拝観券」1000円を購入。これには、観音堂特別公開と文化財収蔵庫の拝観が含まれます。

受付の反対側、大門(仁王門)を入ってすぐ右手に、釈迦堂(食堂、重要文化財)がある。室町時代の建物で、御所の清涼殿を食堂として移築したものと伝わる。そのせいか落ち着きと風格を感じる。正面の唐破風の向拝は江戸時代に付け足されたもの。
案内板に「本尊の釈迦如来像は、「三国伝来の釈迦」として信仰を集めてきた京都・嵯峨野・清涼寺ご本尊の模刻像で、釈尊のお姿をそのまま写したとされ、その独特の尊容から「清涼寺式」と呼ばれています」とあります。

参道を奥へ進むと階段があり、その上に金堂(本堂)が建つ。ただし見えているのは金堂の正面ではなく右側(東面)。この辺りも桜が綺麗。

 金堂(本堂、国宝)  



金堂は三井寺の総本堂で一番大きな建物。正面七間 側面七間 一重 入母屋造、向拝一間 桧皮葺。「桃山時代を代表する壮大華麗な名建築」として知られ、国宝に指定されている。
金堂も、比叡山・延暦寺との争い、源平の争い、南北朝の動乱などで焼失、再建を繰り返してきた。文禄4年(1595)11月には豊臣秀吉により廃寺命令が出され、当時の金堂は織田信長の焼き討ちで壊滅した比叡山の復興のために延暦寺西塔に移築され、釈迦堂として現存している。現在の金堂は秀吉没後の慶長4年(1599)、正室北政所によって再建されたもの。
正面の階段を上がり内部に入る。内部は外陣、内陣、後陣に分けられている。内陣は一段低い位置で土間になっており、それを取り囲むように板敷きの外陣、後陣があり、堂内を一周することができる。

写真は金堂の背後。内陣には三井寺の本尊・弥勒菩薩像が厨子の中に祀られている。この弥勒仏は唐から百済を経て日本に渡来し、天智天皇の念持仏となり、三井寺創建時に本尊として祀られた。「いまだかってこの仏さまを拝したひとは誰もいません。御像を納める厨子の扉を開ける方法もわからない、まったくの秘仏なのです。三井寺は史上記録に残るだけでも十数度にわたる焼き討ちにあい、金堂をはじめ堂塔伽藍が一挙に焼失するようなことが幾度もありました。こうした幾度の法難をくぐりぬけ創建以来のご本尊をいまに守ってこれたことは奇跡にちかいことです」(三井寺発行の小冊子「三井寺」p47より)。誰も見てない、それならあるのか無いのかもわからないのでは?。弁慶が比叡山に持ち去った・・・。


金堂のテラス(?)より正面を眺める。この参道を真っ直ぐ進むと観音堂へ行ける。金堂前の灯籠下には、天智天皇の左薬指が埋められているそうです。


三井寺境内には、所々に「映画**がこの場所で撮影されました」というポスターが掲示されています。金堂前のこの広場では、市川海老蔵さんの映画「利休にたずねよ」のロケが行われたそうです。






 鐘楼(三井の晩鐘)と閼伽井屋(あかいや)  



金堂前の広場の右側(東側)の隅に、近江八景の一つ「三井の晩鐘」として知られる梵鐘を吊るした鐘楼があります。写真の右隅の建物です。
この梵鐘は桃山時代の慶長七年(1602)、「弁慶の引摺り鐘」の跡継ぎとしての鋳造された。姿の平等院鐘、銘の神護寺鐘と共に、音の三井寺鐘として日本三名鐘に数えられている。また環境庁の「日本の音風景百選」にも選ばれている。
傍の受付で申し込めば、冥加料として一突き300円で鐘を突き、音色を聴くことができます。日本三名鐘の一つを突けれるので、私も突いてみました。残念ながら、凡人にはその音色の良さが分かりません。

なお、重要文化財指定は建物の鐘楼のみで、梵鐘は滋賀県の文化財指定です。
金堂の左側(西側)に周ると、金堂と接するようにして「閼伽井屋(あかいや)」と呼ばれる重要文化財の建物がある。正面三間 側面二間の小さな建物だが、桧皮葺の向唐破風造りの屋根に特色がある。正面の格子戸から覗くと、注連縄の張られた岩を中心に幾つかの石が置かれ、水が静止している。ゴボッ、ゴボッと水音がするので、今でも湧き出ているのでしょう。
現在でも湧き出ているというこの井戸は、「三井寺」の名称の元になった。ここから湧き出す霊泉が天智・天武・持統の三代の天皇の産湯として使われたことから「御井(みい)の寺」と称された。その後、三井寺の開祖・智証大師円珍が、この霊泉を天台密教の三部潅頂の法水に用いたことから「三井寺」と呼ばれるようになったという。
建物は慶長5年(1600)、金堂と同じく北政所によって再建されたもの。



正面上部の軒下には左甚五郎作とされる龍神の彫刻がある。この龍は、夜な夜な琵琶湖にでて暴れるので、甚五郎が自ら龍の目玉に釘を打ち込み鎮めたという伝説が残る。

目玉に五寸釘が打たれている、ということだが写真を拡大してもよく分かりません。





 霊鐘堂と一切経蔵  



(向こうが本堂、手前が霊鐘堂)金堂西方の一段高い所に霊鐘堂がある。入口には「弁慶鐘」と大きく書かれています。
梵鐘は無銘だが、奈良時代に遡る日本でも有数の古鐘で、重要文化財に指定されている。伝承では、平将門の乱で功績をあげた俵藤太(藤原秀郷)が三上山(近江富士)のムカデ退治のお礼に琵琶湖の龍神から貰い受け、その後三井寺に寄進した鐘だと伝えられている。

比叡山との争乱時に「弁慶の引摺り鐘」と呼ばれるようになる伝説を残している(説明板参照)。鐘の表面をよく見ると、確かに引き摺り傷のような痕が見られます。「歴史的には、この鐘は文永元年(1264年)の比叡山による三井寺焼き討ちの際に強奪され、後に返還されたというのが史実のようである。」(Wikipediaより)
この鐘は「霊鐘」とも呼ばれるように、数々の話が伝わっています。三井寺に良くないことがある時は、鐘は汗をかき撞いても鳴らず、良いことがある時は自然に鳴る、という。また建武の争乱時、略奪を恐れて鐘を地中に埋めたところ、自ら鳴り響き足利尊氏軍を勝利に導いたともいわれる。

「弁慶の引摺り鐘」の横に古錆びた大鍋が置かれている。説明板によると、口径166cm、深さ93cm、鎌倉時代のもの。「弁慶の汁鍋」と名付けら「寺伝によると、武蔵坊弁慶が所持していた大鍋で、三井寺の大鐘を奪い取ったときに残していったものと伝えられています」とあります。

霊鐘堂の先に一切経蔵(重要文化財)が建つ。山口市内にあった禅宗寺院・国清寺(現在の洞春寺)の経蔵を、慶長七年(1602)に毛利輝元によって寄進、移築されたものです。室町時代初期の建物で、宝形造・桧皮葺で裳階(もこし)付き。そのため二層に見えるが、内部的には一層の建物。
内部に入ると、中央に巨大な八角形の輪蔵が置かれています。各面は上部に千鳥破風模様をもち、書架のような扉が多数あります。この中に一切経(高麗版)が納められているという。
「一切経」は仏教のあらゆる法門の経典を集めたもので、一回転さすと「一切経」をすべて読誦したのと同じ功徳があると言われている。以前、信貴山・長護孫子寺の経蔵堂を訪れた時、拝観者が功徳を得ようと一生懸命に回し過ぎたので壊れてしまい、修復中のため閉まったままでした。ここの八角輪蔵も廻してよいのでしょうか?。床下が覗けます。昔の芝居小屋にみられる廻り舞台の仕組みと同じで、中心軸で回転できるようです。

 唐院(大師堂 ・潅頂堂 ・三重塔)  



一切経蔵の向こうに小橋があり、その先に三重塔と唐院の建物が見えます。この辺りも桜の綺麗な所。
映画「武士の献立」「るろうに剣心」の撮影場所だ、との案内がみえます。


この三重塔(重要文化財)も変遷を繰り返す。奈良県の比蘇寺(現在の世尊寺)から、慶長2年(1597)秀吉が伏見城へ、そして慶長6年(1601)家康が三井寺へと。時の権力者の恣意であっちへこっちへと。
一層目の須弥壇には、木造・釈迦三尊像が安置されています。

三重塔の先に唐院の建物が見えます。唐院というのはこの区域の総称で、智証大師円珍が唐から持ち帰られた経巻法具などを納めたところからそう呼ばれる。手前に見える灌頂堂、その奥の長日護摩堂、そしてこれらの建物の背後になり見えない大師堂からなっている。智証大師の廟所であり、三井寺で最も神聖な場所とされており、唐院内部へは柵で囲われ立ち入ることができない。

大師堂(重要文化財)は開祖・智証大師円珍の廟所で唐院の中心。二体の智証大師坐像(ともに国宝)が祀られている。
灌頂堂(かんじょうどう、重要文化財)は、伝法潅頂などの密教の最高儀式を行う場所。また大師堂の拝殿としての役割をも備えているという。
灌頂堂と渡り廊下でつながる長日護摩堂は、「鎮護国家の為め長日に亙り護摩供を修する道場」だそうです。
灌頂堂の正面に、唐院の表門となる四脚門(重要文化財)がある。四脚門を出て階段を降りると石垣で囲まれた石畳参道が伸び、金堂前からの三井寺中心参道につながっている。この石畳参道から四脚門を潜り、唐院に至るのが本来の順路だが、私は裏から入り表へ抜けたというわけだ。
唐院・四脚門へと続く石畳は『石榴坂の仇討ち』のロケ地だったそうです。

 中央参道  



唐院を降りると、三井寺の中央参道です。左(北)側は金堂正面に通じている。

右(南)側は、村雲橋を渡り勧学院の石垣に沿って歩くと、突き当りが微妙寺です。そこを左に折れて進むと観音堂へ至ります。この中央参道も桜満開で、ちょうど見頃でした。派手さはないが、広々とした空間に爽やかな春を感じさせてくれます。ピンクの枝垂桜が被さる村雲橋辺りは撮影スポットのようです。
この村雲橋にはある伝説が残る。傍の説明板では分かりにくいので、寺発行の小冊子「三井寺」から引用すると「むかし、智証大師がこの橋を渡ろうとされた時、ふと西の空をご覧になって大変驚かされました。大師が入唐の際、学ばれた長安の青竜寺が焼けていることを感知されたのです。早速、真言を唱え橋上から閼伽水をおまきになると、橋の下から一条の雲が湧き起こり、西に飛び去りました。のちに青竜寺からは火災を鎮めていただいた礼状が送られてきたといい、以来、この橋をムラカリタツクモの橋、村雲橋と呼ぶようになったと伝えています」

村雲橋を渡ると、突き当りが微妙寺です。その途中に、石垣が切れ、右に入っていく道があります。そこを入ると国宝の勧学院客殿の表門です。
勧学院(国宝)は学問所として、延応元年(1239)に創建された。 その後、火災や秀吉の破却にあいますが、慶長五年(1600)秀頼の命を受けた毛利輝元により再建され現在に至ります。桃山時代の初期書院造の代表作とされ、狩野光信の華麗な障壁画が部屋を飾っているそうです。現在、この障壁画は文化財収蔵庫に保管展示されている。残念ながら、門中央には、入るな!、の制止札が。


微妙寺は三井寺の五別所の一つで、正暦5年(994)の創建。本尊は十一面観音立像(重要文化財、平安時代初期)、現在は文化財収蔵庫に保管展示されている。





微妙寺の真向かいに、白壁のまぶしい真新しい平屋の建物がある。智証大師生誕1200年慶讃記念事業として平成26年(2014)10月に開館した「三井寺文化財収蔵庫」です。入館には別途300円必要ですが、私は「特別拝観券(1000円)」なので、別途料金無しに入れる。
仏像は、ガラスケースに閉じ込められているより、薄暗いお堂の隅に置かれているほうが似合います。狩野光信の障壁画も同じで、黒錆びた柱に囲まれ畳越しに鑑賞するほうが。


 観音堂へ向う  



微妙寺の前を左折し数分歩くと、紅くしゃれた小さなお堂に出くわす。毘沙門堂(重要文化財)です。
元和2年(1616)、園城寺五別所のひとつ尾蔵寺の南勝坊境内に建立されたもの。戦後、解体修理の上、現在地に移された。
毘沙門堂周辺は桜吹雪に見舞われ、まるで雪景色のようです。

観音堂へ上る石段の脇に小さな祠が建つ。伽藍を守護する十八明神を祀る。しかし「ねずみの宮さん」として親しまれている。「白川院の時、当寺の頼豪阿闍梨という高僧に皇子降誕を祈誓するよう勅命が下りました。 まもなく祈祷の験あって皇子が誕生し、その賞として当寺念願の戒壇道場建立の勅許を得ました。ところが、比叡山の横暴な強訴により勅許が取り消されてしまい、 これを怒った頼豪は、二十一日間の護摩をたき壇上に果ててしまいました。 その強念が八万四千のねずみとなって比叡山へ押し寄せ、堂塔や仏像経巻を喰い荒らしたと 「太平記」は伝えています。この社は、この時のねずみの霊を祀っているために北の比叡山の方向を向いて建っているとも 伝えられています。」(三井寺発行の小冊子「三井寺」から)









十八明神のすぐ横が長い階段で、これを登った上に西国三十三箇所観音霊場の第十四番礼所の観音堂がある。巡礼者にとってはかなり辛いお参りとなる。休み々しながら後ろを振り返ると、満開の桜の間から大津の市街や琵琶湖が垣間見えます。




階段を登りきると、すぐ左手にあるのが百体観音堂と観月舞台。
手前の百体観音堂は、中央に如意輪観音像を安置し、その左右に西国三十三所、坂東三十三所、秩父三十四所の各霊場の本尊、合わせて百体の観音像を安置することから「百体堂」と呼ばれています。宝暦3年(1753)の建物で、県指定文化財。

月を愛でるための「観月舞台」ですが、現在は「観桜舞台」でしょうか。ただし入ることはできません。建物と背景の桜が絶妙のバランスで見とれてしまいます。高台にあるため大津市街から琵琶湖の眺めも良い。
崖にはみ出て建つため、舞台造り(懸造り)そのもの。嘉永3年(1849)の建物で、県の有形文化財。

 観音堂  



瓦葺の大きな建物が観音堂。西国三十三箇所観音霊場の第十四番礼所として、多くの人々が訪れます。本尊は如意輪観音、脇侍の毘沙門天と愛染明王。本尊の如意輪観音坐像は秘仏で、33年に一度開扉されるという。次は25年後のご開帳なので、俺は・・・。
仏像を祀る正堂、合の間、礼堂からなる。
後三条天皇の病気平癒を祈願して延久4年(1072)に創建はされたと伝えられている。次のような伝説が。
「観音堂はもとは聖願寺とも正法寺とも呼ばれ、 現在地よりもはるか山上の華の谷というところにありました。 この華の谷に登るには道が険しく、また女人結界のため婦人方は参詣ができず、 観音さまの御利益を願う人々からは残念に思われていました。ところが、文明九年三月のある夜、寺中の僧たちが一様に寂しげな様子の老僧が夢の中に現われ、自分は華の谷に住まう者だが、いまの場所では大悲無辺の誓願を達成できないので、 これからは山を下り人々の参詣しやすい地に移り、衆生を利益したいと告げられる夢をみるということがありました。僧たちは協議して観音堂を山下に移すことにし、ついに文明十三年(1481)に現在の地に移されたといいます。」(寺発行の小冊子「三井寺」p50)
貞享3年(1686)に火災にあい、元禄2年(1689)に再建されたのが現在の観音堂です。 県指定文化財
観音堂の右側、階段を挟んで百体観音堂の反対側に鐘楼(県指定文化財)が建つ。鐘は「童子因縁之鐘」と呼ばれています。それは「この鐘を鋳造するに際し、当時の僧たちは大津の町々を托鉢行脚しました。 そして、とある富豪の家に立ち寄り勧進を願ったところ、その家の主は「うちには金など一文もない。 子供が沢山いるので子供なら何人でも寄進しよう」との返事で、しかたなくそのまま帰ってくるということがありました。ところが梵鐘が出来上がると不思議にもその鐘には三人の子供の遊ぶ姿が浮かび上がっており、 その日にかの富豪の子供三人が行方不明になったという伝説が伝わっています。」(寺発行の小冊子「三井寺」p51)
袴腰の正面が開いており、中へ自由に入れる。内部は二階建てになっており、二階にも上がれます。「童子因縁之鐘」は、残念ながら第二次世界大戦で供出の憂き目にあい残っていない。現在のは、二代目でしょうか?。
広場の東端に、観音堂と対面して建つのが絵馬堂。絵馬が掲げられるなずの軒下や屋根裏には絵馬は見当たりません。今は、長椅子が置かれ、休憩所となっています。傍には売店もあり眺望もよく、休息するのに良い場所です。
観月舞台にしても、この絵馬堂にしても、大きな屋根を数本の柱だけで支えている。高台にあり、しかも吹き抜け状態。台風などの強風によく持ち堪えているな、と感心します。

観音堂の広場も高台にあり、見晴らしが良いのでが、ここよりさらに一段高い所にも展望所があります。絵馬堂や売店の横から登っていく階段が見える。それほど高くはありません。
広場に出る。何もありません、ただ広いだけ。照明機材が置かれているので、夜間のライトアップがおこなわれるのでしょうか。

観音堂まえの広場が俯瞰できます。大津の街並みや琵琶湖もよく見える。

 弘文天皇長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)  


園城寺(三井寺)の創建に関係する大友皇子の墓が近くにあるというので立ち寄ってみることに。現在は「弘文天皇陵」として宮内庁管理の陵墓です。

大門(仁王門)の前を北上し、突き当りを右に曲がると広い車道に出る。車道のすぐ横を京阪石山坂本線が走っている。歩くこと十数分、大津市役所を過ぎると、写真のような標識が設置されていた。
地図をみると、この周辺には皇子山球場、皇子山総合運動場、皇子山駅、皇子が丘公園など「皇子」の付く施設が幾つもある。「皇子」とは大友皇子を指すのでしょうね。それだけ大友皇子はこの地域にとって重要な人物だったのでしょうか。
標識の場所を左に入る。数十m入った先でさらに左に入り込み、大津市役所の背後に回りこむ位置に陵墓はある。写真に見えるビルが市役所です。
大友皇子の墓は、「弘文天皇長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)」として宮内庁が陵墓管理している。
歴史上、弘文天皇というより大友皇子のほうがよく知られている。大津宮を造営した天智天皇死後、古代史最大の争乱といわれる壬申の乱(672年)が勃発する。天智天皇の第一皇子だった大友皇子と、叔父にあたる大海人皇子(後の天武天皇)との皇位継承をめぐる争いだ。結果、大友皇子は負け、首を吊って自害する。享年わずか25歳で、悲劇の皇子です。
問題は、天智天皇死後天武天皇即位までの間に天皇不在だったか、大友皇子が天皇としての役割を担っていたか、ということです。日本古代史の正史とされた日本書紀では、大友皇子の即位の記事がないということで天皇としてみなされていなかった。しかし日本書紀は壬申の乱で勝利した天武天皇が編纂させた歴史書なので、話がややこしくなる。江戸時代より大友皇子を天皇として認めるべきかどうかの論争が繰り返されてきた。
明治3年(1870)、明治政府は「第39代弘文天皇」(在位:672年1月9日 - 672年8月21日)として追号し、初めて天皇として認めることにしたのです。

天皇として認められると、次はお墓は何処か、という問題が発生します。天皇の「静安と尊厳」を維持するためにも何処かに決めなければならない。それが宮内庁(省)の形式主義です。日本書紀は、”「山前」(やまさき)という場所で自害した”と伝えるだけです。「山前」とは何処か?。沢山の候補地から、長等山麓にあった「亀丘」と呼ばれる古墳が採用された。遺跡名は「園城寺亀丘古墳」。そしてどこの天皇陵にも見られる形式的な陵墓構えが造られた。しかしこの古墳は大友皇子の年代と全く合わないとされる。発掘すれば、トンデモナイものがでてくるかも。それを防ぐために、宮内庁は一切の発掘調査を、いや立ち入りさえ拒んでいるのです。形式主義を守るために。


詳しくはホームページ