山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

秋津洲(あきつしま)の道 (その 4)

2014年12月22日 | 街道歩き

 国見山  


掖上鑵子塚古墳をやり過ごし、これから国見山へ登ります。今まで国見山山頂への道は無かったそうですが、数年前から地元有志や市によって登山道が造られたそうです。山裾に沿って農道を進むが、入口がハッキリしない。案内や標識など期待できず、カンに頼るのみだ。ここだろうと思い入った道が間違っていて、進むに従い山笹と深い雑草で道跡は消えてしまった。これはヤバイと引き返し国見山登頂は断念することにした。引き返す途中に偶然に登山道を見つけました。杉木立に囲まれ薄暗く、見晴らしのきかない山道を20分ほど登ると山頂に着く。14時15分。
海抜229mの山頂は、雑木が伐採され雑草が刈り取られ、応急的な広場となっている。一番高い所に石碑が建てられ、その脇に木製の簡易椅子が設けられていた。休憩するもよし、国見するもよし。といってもそれ程見渡せない。南を望めば金剛山や大峰山系が、北を見れば、木々の間から大和三山がかすかに覗き見える程度。願わくば、秋津洲(御所市)を見渡せるようにして欲しかった。「蜻蛉の臀占」の様子を眺めてみたかったのですが・・・。

石碑には「?間丘」「神武天皇聖蹟傳説地」、裏側に「皇紀2600年」と刻まれている。

日本書紀によると、大和を平定した神武天皇は掖上の「ホホ間の丘」に登って国見をされた,と書かれている。その丘がこの山で、後に「国見山」と呼ぶようになった。神武天皇はここで国見し「なんと素晴らしい国だ、蜻蛉の臀占のようだ」と感嘆されたそうです。日本古典文学大系『日本書紀』の頭注によると「蜻蛉(トンボ、秋津)がトナメ(交尾)して飛んでいくように、山々がつづいて囲んでいる国だなの意」だそうです。こうして日本を「秋津洲(あきつしま)」と呼ぶようになった、とされる。「?間丘」は、国見神社の案内板によれば「ほほまおか」と読むようです。

なお「国見山」という名前の山は、奈良県には幾つかあります。天理市の国見山(標高680m)、宇陀市の国見山(標高1016m)、吉野郡東吉野村の国見山(標高1248m)・・・。

 国見神社  


国見山から下山し、山腹の途中にある国見神社に寄る。本来、こちら側が国見山への登山ルートで道も整っている。私が登ってきた道は反対側で裏ルートまたは下山道だったようです。
山頂から国見神社までの高低差は100m位。15分程で神社に着きました。案内板によると、元々は山頂にあったようですが、いつの頃か東麓の現在地に移され、周辺地区の氏神として祀られているようです。
多くの石燈籠に守られ本殿が鎮座している。ここには主祭神として、天照大神の命により天孫降臨をした瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が祀られている。神武天皇の曾祖父ともされ、東征で大和を平定した神武天皇が、国見山に曾祖父を祀ったと伝えられる・・・神話ですが。

国見神社の参道を真っ直ぐ進むとJR掖上駅の方へ行ってしまうので、一の鳥居の所を左に曲がって行くと、最初に上り始めた場所へ戻れる。在所の住宅路や農道が入り組んでいるので、かなりややこしく一筋縄ではいきませんが・・・。迷いながらも、かろうじて元の入山道に戻ってこれた。手前の左に入る脇道が、正しい国見山への登山道。私は間違って、もう一本向こうの道から竹薮の中に迷い込み酷い目に会いました。これくらいの山に標識など期待できません。では何を頼りに・・・・

 孝安天皇玉手丘上陵(こうあんてんのうたまてのおかのうえのみささぎ)  


国見山へ向かった道を逆戻りし、秋津鴻池病院の裏にある道に入り山裾の道を北へ進む。左側に葛城・金剛の山並みを遠望しながら、平坦な道をのんびり15分ほど歩けば玉手山です。長い階段を登った上には、左に孝安天皇神社拝殿(孝安天皇社)、右手に琴毘羅神社(こんぴらじんじゃ)があります。目的の孝安天皇玉手丘上陵はどこだろう?。山上から北に少し下ると小石畳の整備された階段がある。階段を100mほど進むと整地された広場の奥に、城壁のような重々しい構えをした孝安天皇の玉手丘上陵が現れた。古墳のようですが、玉手山の北の丘陵部分を利用して築造された陵墓のようです。今まで多くの天皇稜を見てきましたが、これほど重厚な拝所を構えた陵墓もそう多くない。
第6代孝安天皇は、歴代天皇中最長の在位期間102年とされ、年齢も日本書紀によれば137歳、古事記では123歳という超長寿の方。この天皇様も「欠史八代」といわれ、その実在性が疑問視されている。それにしては、豪華な陵墓なこと・・・。

 役小角 たらいの森・杓(しゃく)の森  




玉手山を降り、200mほど北進すると広い県道116号線にでる。その国道116号線への出口で、チラッと右横を向くと、民家の一角に小さな石柱が立つ。「役小角 たらいの森」と刻まれています。
修験道の開祖、役小角はこの近くの寺で生まれたが、その誕生の時、産湯を浴せられたたらいを埋めた場所だという。土地の人はこれを「たらいの森」といい、安産祈願の塚として守っているそうです。森にしては貧相ですが・・・








県道116号線にでて、県道沿いを南側へ200mほどバックします。玉手山の裾に目をやると、大きな樹木の下に石柱が見える。これが「役小角 杓の森」です。役小角の誕生時に、産湯を汲んだ杓を埋めた場所だそうです。大きな樹木は棗(なつめ)の老樹で、この辺一帯は「棗ケ原」と呼ばれ、昔から棗の木が多く生い茂っていたという。







 吉祥草寺(きっしょうそうじ)  


16時、県道116号線沿いを北に進み、JR和歌山線の踏切を渡ります。この周辺は、高速道路や県道が交差し車の往来が激しく、「秋津洲の道」では一番の難所です。できたら避けて通りたい所。少し進むとコンビニがあるので、その北側にある脇道を左へ入る。すぐ吉祥草寺の正門です。「役行者 誕生所」の大きな札が掲げられている。寺伝によると役行者が生まれた時、葛城の山野に吉事の時にしか咲かない吉祥草(キチジョウソウ、スズラン科で蘭に似た花、花言葉は吉事・祝福)が咲き乱れたので、この寺名になったという。

この寺が修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ)の生誕地といわれる。「役行者」とも呼ばれています。
役小角は、舒明天皇の代、蘇我氏全盛の時期(630年代、諸説あるが634年が有力)に葛城山東麓の大和国葛木上郡茅原(かつらぎのかみのこおりちはら、現在の御所市茅原)のここで生まれたとされる。「役(えん)」は姓(苗字)で、賀茂君(のちの高賀茂朝臣)の氏族の中の役君の家に生まれた。ただし「役」という苗字の人物は、歴史上「小角」しかおらず、不思議な苗字です。父の幼名が「大角」といったので、「小角」と名を付けたとか。

境内左に雑木林がある。その中に「役小角 産湯の井戸」が残されている。寺伝によれば、役行者御隆誕の時「一童子現れ、自ら香精童子と称し、大峯の瀑水を吸みて役ノ小角を潅浴す、その水、地に滴りて井戸となる」という。
母の名は「白専女(しらとうめ)」とされるが、地元では今でも「とらめ」と呼ばれている。母は「月を飲んだと夢見て」「天から降ってきた金色の独鈷(とっこ)が口に入るのを夢見て」小角を身ごもったという話が伝わる。身籠った母の体から光明が放たれ、不思議な香りが漂うようになったという。そして生まれた小角は、手に一枝の花を握り「かつて願うところはすでに成就した。今は一切の衆生を化して、みな仏道に入らしめる」と語ったという。

怪物・役行者には判らないことが多い。出生もその一つ。修験道信仰の高まりと共に、その開祖・役行者には噂・伝承が付加されていき偶像化されていった。聖徳太子、弘法大師、菅原道真なども同じ類。

最期もまた凄い。朝廷は危険分子として捕まえるため母を人質にとると、「母を免れしめんために出頭し捕縛された。そして伊豆の島に流された。時に身は海の上に浮かび、海の上を走ること陸の上のごとくであった。また空を飛ぶことは、羽ばたき天翔る鳳(おおとり)のごとし。昼は天皇の勅命に従い島に留まり修行した。夜は駿河の富士の御嶽に往きて修行した」(日本靈異記)そうです。三年後(701年)、罪を許され故郷に戻った小角は、何処ともなく天に飛び去った、という。「役行者は、自らは草座に乗り、母は鉢に乗せて唐に渡った」とその最期を閉じられている。

「産湯の井戸」のすぐ近くには「役行者 腰掛け石」がある。各地の山々を踏み分けて修行している間にも、時々この茅原に戻り、この石に座して精神修行をされたという。有り難い石なので、皆様もこの石に座してみてください、とあります。丁度坐りやすいくらいの高さで、平べったくなっている。
京都祇園祭の山鉾に「役行者山」がある。室町通三条上ル役行者町で、そこにも「役行者神腰掛け石」があります。傍の立札には、吉祥草寺の立札とほぼ同じ内容が書かれています。ただ「役行者神は、この石に手を当て全身の凝りを解したとされています。皆様もこの石に手を当てて、役行者神の精神と御徳をいだかれ、全身の凝り、特に肩の凝りなどを解される事を心よりお祈り致します」が付加されている。私は特に凝りはないが、年が年なのでチョッと触っときました。

        「秋津洲(あきつしま)の道」~・~完

詳しくはホームページ

秋津洲(あきつしま)の道 (その 3)

2014年12月16日 | 街道歩き

 巨勢山古墳群(こせやま)  


宮山古墳からさらに東へ歩き,警備員が監視する京奈和自動車道建設予定地を越えて進むと、道の右側に「巨勢山古墳群」の案内板が立ち、すぐ南側に巨勢山丘陵が迫っています。巨勢山丘陵は御所市平坦部の南側にある大きな丘陵地帯で,南北2.5km、東西3kmの地域に総数約800基の墓が密集するという我国最大級の群集墳を形成している。五世紀~七世紀にわたり次々とお墓がつくられていった。前方後円墳4基があるが,多くは径十数メートル前後の円・方墳から成っている。
開発や土砂採取などで壊滅の危機にあったが、平成14年(2002)12月に国の史跡に指定され保護されることになった。


北の方向を眺めると、のどかな美しい田園地帯が広がります。弥生時代からの秋津遺跡が展開した場所です。まもなく高速道路が完成し、より美しい風景に生まれ変わることでしょう・・・(-_-;)。

写真の右端が「條庚申塚古墳(じょうこうしんづか、巨勢山642号墳)」。
「巨勢山古墳群」の案内板の概略図をもとに,案内板脇の横道を山側に入っていくと石灯籠があり,その横を登るとすぐ狭い平地にでる。中央に小さな祠があるだけで,周りを見回しても遺跡らしい痕跡は何も無い。さっさと降りました。
ところが後で分かったことですが,あの小さな祠が大変な意味をもっていたのです。祠は「庚申堂」で,古墳名にもなった。「庚申塚古墳」という名の古墳は全国に沢山あるので地区名の”條”を付ける。実はその祠「庚申堂」の下に口が開いており,そこから石室の一部が見れたという。
横穴式石室は,羨道部分と玄室の半分以上は石材が抜き取られているが,玄室の奥壁とわずかに側壁が残されているそうです。祠にダマされました。山ではよく見かける祠なので、よく観察しなかった。

写真の中央が「條大池古墳」で、南北二つの古墳からなっている。
條庚申塚古墳から降り,横の道を丘陵へ向かって上っていくと條庚申塚古墳の全景と「條大池」が見えてくる。写真では判りにくいが、右の條庚申塚古墳の背後に繋がっており、墳形がはっきりとは判別できないが二つの藪が見えます。右側(北)が「條池北古墳:巨勢山641号墳」で、左側(南)が「條池南古墳:巨勢山640号墳」。
現地の案内板より要約すると。荒廃のひどかった北古墳・南古墳は昭和59年の調査の結果、尾根・墳丘の変化も激しく、盗掘で横穴式石室は破壊され、大半の石材は抜き取られ、大きな窪地となっていたそうです。ここにある三古墳は「特異な石棺や優秀な馬具を持っているという事実等から、古墳群中でも葛城氏を支えた有力層の墳墓にふさわしい古墳と言うことができる」と案内板は結んでいる。

條庚申塚古墳の説明版から東へ200mほど所に小山がある。説明版が立てられているので「條ウル神古墳」(じょううるがみ・巨勢山658号墳)とすぐ分かる。古墳名は所在地「御所市條 字ウル神」からくる。

平成14年(2002)3月、新聞の一面に「蘇我馬子の墓といわれる石舞台古墳に匹敵する巨大な横穴式石室を発見」という記事が踊った。大正5年の報告書では「二百メートル級の前方後円墳」と記録されているが、現在の墳丘は開墾などで削られほとんど形状を残しておらず墳丘の形は不明だが、全長100m以上はあるだろうと推定されている。横穴式石室は東に開口し、泥がたまった状態で高さ3.8m、長さ7.1m、入り口の幅2.7m。石棺は全長2.7m、幅1.5m、高さ0.53mで、同時期の古墳の石室としては欽明天皇の見瀬丸山古墳、蘇我馬子の石舞台古墳につぐ最大級のものだそうです。被葬者は巨勢(許勢)氏の重要人物、許勢臣稲持や比良夫らが想定されている。
案内板末尾に、赤字で大きく「私有地につき立ち入り御遠慮下さい」と書かれているのがひときは目に付く。遠巻きに眺めて立ち去ることに。

 日本武尊琴弾原白鳥陵(やまとたけるのみこと・ことひきのはらしらとりりょう)  


條ウル神古墳から住宅路を北へ歩くと、国道309号線にでるので、真っ直ぐ東の国見山の山裾を目指して進む。交通量は多いが、汚くも広い歩道が設けられているので安心です。15分ほど歩くと、県道116号(大和高田御所線)と交わり、車の往来激しく危険地帯です。角にファミリーマートがあるので昼食と飲料を仕込む。

ここらは国見山の西麓で、富田という地区。民家の脇の細い路地の先に階段が見える。近づくと、白砂利の階段が敷き詰められ綺麗に整備された階段が続いている。さすが宮内庁管理の御陵だと感心する・・・、ところが登ってみて貧弱なのに驚いた。今年の5月に,羽曳野市古市の日本武尊白鳥陵(前の山古墳)の傍を通ったが,濠で囲われデッカク立派な古墳だった。それに比べここ御所市冨田の琴弾原白鳥陵はなんとお粗末なこと。民家の裏山の雑木林といった風で,手入れされている様子も無い。陵墓参考地といえ,他の陵墓と比べここの柵・扉・立て札はお粗末で,番小屋は無い。朝廷のお膝元であるはずの大和の地にありながら重視されているように見えない。何故なんでしょう?。日本書紀では三か所だが,古事記では能煩野から直接河内へ飛び,琴弾原には寄っていない。これが影響しているのでしょうか?日本武尊は死に臨んで大和への思いを詠んだのが
「大和は国のまほろば
     たたなづく青垣山 こもれる大和し美し」
美しい大和を望郷しながら、その大和からもさらに飛び立ってしまう、とはどういうことでしょうか?。

遥拝所の横が荒れた平地になっており、汚らしい木製のベンチが置かれていた。午後1時、ここでこれから登る国見山を眺めながら昼食のおにぎりを食べる。国見山は白鳥陵のすぐ裏なので,白鳥陵側からの登山道がありそうだ。ネットで調べてもの見つからない。御所駅前の案内所で尋ねても「ありませんネ」という返事。もしかしたら地元の人しか知らない裏道があるかもしれないと思い,白鳥陵の近くで地元の人に尋ねてみた。しかし”ないですネ”という返事。天皇が国見をした,という由緒ある山なのに、何故登り道がないのでしょうか?。不思議な気がします。ズーと北に回り,大回りして登るしかありません。

 掖上鑵子塚古墳(わきがみかんすづか)  


県道116号線(大和高田御所線)に戻り,北へ進む。左に葛城・金剛の山並みを見,右にはこれから登る国見山が見える。

右前方に秋津鴻池病院の大きな施設が見えてくるので,そちらの方向に曲がる。病院の脇の道路を森へ向かって東へ進む。山間に入り、峠のような所を越えていく。

山間を抜けると右の山側に入る脇道がある。その角に「鑵子塚古墳」の小さな鉄板プレートが架かっています。プレートはサビで名前がはがれ,悪戯なのかねじ曲げられている。地図で確認すると,この分岐路の位置にあるのが掖上鑵子塚古墳のようだ。一見,古墳のようには見えない。脇道にはいり,左手に古墳を眺めながら国見山の方向に向かうと、ようやく古墳らしく見えてきた。入り口もなく,標識も説明版も見当たらない。もしかしたら反対側にあるのかも。
全長約150m,後円部直径約102m、高さ17.5m,前方部幅約88m,高さ12m,後円部三段、前方二段の段築が認められる。宮山古墳に匹敵する規模を持ち,5世紀中頃から後半の築造とされる。被葬者は不明。
後円部中央に盗掘跡あり,過去の記録から竪穴式石室があり長持形石棺が収められていたと考えられる。多くの遺物があったとされるが,多くは盗掘によって散逸し明らかでない。国の史跡に指定されています。


詳しくはホームページ

秋津洲(あきつしま)の道 (その 2)

2014年12月10日 | 街道歩き

 秋津遺跡(あきついせき)・中西遺跡  



野口神社のある蛇穴の里からは、田園越しに葛城山・金剛山がよく見える。この周辺は、かって葛城氏、鴨氏、少し遅れて蘇我氏が展開した場所です。

次に目指すは秋津遺跡。迷路のような蛇穴の集落を抜け、田畑と民家,町工場の点在する道を南へ歩く。ガイド本によれば秋津小学校の東側辺りになっている。すぐ東側には高速道路が並行している。秋津小学校はすぐわかったが,遺跡はどこだろう?。空き地はあちこち見受けられるが,遺跡らしい場所はない。もちろん標識や案内などもない。

それらしい空き地を探していると,高速道路の下まで来てしまった。何やら工事中らしく,柵が設けられ,工事用の道が造られダンプカーが行き来する。警備員が近づいて「工事関係の方ですか?」と職務質問風の尋ねかたをする。姿格好を見れば工事関係者かどうかわかりそうなものだが。逆に「この辺りに遺跡を知りませんか?」と尋ねる。警備員は知るはずもないが,お話していると「時々,遺跡を捜してこられる人がいますネ」とか。
この辺りは,高速道路「京奈和自動車道」の新規建設工事の現場のようです。ちょうど秋津小学校の東側まで完成し,その先を建設中のようだ。金網の柵で囲われ,工事現場用のプレハブが立ち並び,盛り土があちこち見られる。そして各所に工事中を知らせる立て看板が目立つ。テロ警戒の看板まで見かけた。あちこちに警備員の姿も目につく。現場の雰囲気から,遺跡などかまってられるか!,といった雰囲気です。秋津遺跡の痕跡を見つけるのを断念することに。
秋津遺跡とは,京都、奈良、和歌山を結ぶ高速道路「京奈和自動車道」の建設工事に先立って,2009年(平成21年)から奈良県立橿原考古学研究所による発掘調査が行われ,それによって発見された遺跡です。付近一帯の古い村名「秋津村」に因んで「秋津遺跡」と命名された。
遺跡からは古墳時代前期(4世紀前半頃)の板塀跡が見つかり、その内側からは掘立柱の大型建築跡が見つかる。橿原考古学研究所は「祭祀や儀式の建物だった可能性がある」としている。さらに下層から弥生時代前期の多くの水田遺構が見つかった。さらにその下層の縄文時代晩期(約2800~2500年前)の土の中から、オスのノコギリクワガタの全身(約6.35センチ)が完全な形で発見された,というニュースもある。

弥生時代前期から古墳時代前期(4世紀前半頃)に続く遺跡は,「謎の4世紀」を含め古代史の解明に大いに期待された。しかし高速道路の建設現場を見渡せば,重機で掘り崩され、ブルトーザーに飲み込まれていくのを目にします。この遺跡はまもなく永遠に地上から消される運命に,それとも鴨都波遺跡のように”地下保存”されるんでしょうか。すぐ南の我国最大級の群集墳がある巨勢山丘陵を見れば,ポッカリと大きな穴が開いている。巨勢山古墳群の横穴式石室ではありません。高速道路がここまで繋がるのを待っている巨大トンネルです。懐古より生活が第一の世には,やむを得ないのかも。

秋津小学校の横の道を南に進むと,東西に走る国道309号線に突き当たる。西を見れば葛城山・金剛山が、その手前に室宮山古墳が横たわっている。道路を除けば、古の香りが漂いそうな情景です。秋津遺跡のすぐ南側に位置するこの辺りも「中西遺跡」と呼ばれ,弥生時代の遺物が見つかっている。弥生時代前期の埋没林が出土し,多くの水田跡が確認された。この中西遺跡と秋津遺跡をあわせ、現在まで日本最大規模の約1800枚の水田跡が見つかっている。これら全て”地下保存”・・・?(-_-;)

 寶國寺(ほうこくじ)  


国道309号線を西進し室ネコ塚古墳の傍を通って宮山古墳の西側に廻り込むと寶國寺がある。
寺伝に因るとその昔、弘法大師が高野山に向かう途中でこの地に立ち寄り,修行のため宮山古墳のお堀の岸に草庵を作ったのが始まりとされる。高野山真言宗のお寺で,「室のお大師さん」と呼ばれて親しまれている。また御本尊の弘法大師(空海)像は,人々の苦しみを身替りとなって背負って下さるということから「身替り大師」とも呼ばれ人々の信仰を集めています。境内には、触ると癌封じの御利益があるという「瓦岩」もある。

 八幡神社(はちまんじんじゃ)  


寶國寺から,室の集落の中をそのまま東へ歩いていると,池のある美しい公園に出る。「桜田池公園」の看板があり,すぐ北側の山が宮山古墳です。山裾を東側へ回り込むように歩くと,八幡神社にでる。宮山古墳へ登るにはこの神社の境内を通らなければならない。

境内に入ると左奥に「室宮山古墳 登り口」の標識がある。ここから1~2分で宮山古墳の後円部の墳頂に上れます。
その横に石碑「孝安天皇秋津嶋宮址」が建つ。第六代孝安天皇(日本足彦国押人尊)の「室秋津洲宮」はこの辺りだろうとの推定から,大正四年大正天皇の即位を記念して、奈良県が建立したもの。ここが本当に秋津島宮跡かの根拠は無い。さらには孝安天皇が存在したかどうかの根拠も・・・

トイレが有るかどうかが大問題。拝殿裏に見つけました。造りはあの野口神社と同じで,不安がよぎる。ドアのノブを引っ張ると開いたので、ホッとしました。

 室宮山古墳(室大墓古墳:むろのおおばかこふん)  


宮山古墳は,墳丘長238メートル、後円部径105メートル、高さ25メートル、前方部幅110メートル、高さ22メートル,三段築成の前方後円墳。案内板に「丘尾切断による墳丘」と書かれているので,すぐ南から伸びる丘陵部分を利用して築造されてたと想像される。古墳時代中期前半,5世紀前半の築造とされる。
大きさは全国で18番目の大きさ。周りに周濠が巡らされていたが,現在は大部分が埋め立てられ、畑や住宅地になっている。1921年(大正10年)3月に国の史跡に指定されている。

八幡神社境内の登り口から70段の階段を上ると1~2分で後円部の墳頂の上にでる。墳頂は樹木が伐採され整地された直径20m位の平地となっている。周囲は雑木で囲われ見晴らしは全くきかない。この古墳上から、葛城・金剛の山並みやヤマトの地を見渡たせたらナァ、残念ながらできません。

中央付近にポッカリと穴が開いている。これは後円部頂上に二つある竪穴式石室の南側の石室で,天井石が一枚剥ぎ取られ,内部が露出している。
覗き込むと,地中奥に向かって直径30cm位の穴が開いている。これは長持形石棺といわれ,その入り口左右に大きな縄掛突起の付けられている。これは全国で唯一、現地で実際に長持形石棺を見学できるのはここだけだそうです。降りて覗いてみたいが,下は狭くぬかるみ,なにか不気味なので,上から写真だけ撮ることにした。覗き込んで写真を撮っていると,胸ポケットの地図を落としてしまったのです。否応なしに降りるはめになり、ついでに長持形石棺の横穴の写真を撮りました。「内面に朱が塗られている」とのことだったが、そこまでは写っていなかった。
後円部頂上には,石室を囲むように二重の埴輪列が置かれていた。楯、靭、甲冑などの形象埴輪を外向きに並べ、その外側には倉庫や母屋などの家型埴輪が一列に置かれていたという。
露出石室の横に埴輪のレプリカが置かれている。高さ147cmの奇妙な形をしたもので,「靭(ゆき)形埴輪」と呼ばれている。
また明治年間,前方部の開墾時に木棺と三角縁神獣鏡など鏡11面、さらに玉類が多数出土しているという。


被葬者は誰であろうか?。かっては孝安天皇とか武内宿禰が唱えられたが,近年は古代の豪族葛城氏の祖・葛城襲津彦説が多い。五世紀代に長持形石棺を持つ古墳は、大王級の人物が被葬者とされることが多い。5世紀前半,この周辺に大きな勢力が存在していたことを示している。

詳しくはホームページ

秋津洲(あきつしま)の道 (その 1)

2014年12月05日 | 街道歩き

前回は,葛城・金剛山系の山麓を通る「葛城古道」を北から南へ歩きました(2014/9/14(日))。その葛城古道の東側に広がる御所市内にも多くの古墳・古跡が存在しています。御所市では,その一部を「秋津洲の道」ハイキングコースとして宣伝しています。今回はその「秋津洲の道」を歩き、”秋津洲”の語源になった国見山に登ってみることにしました。
2014/11/10(月)、近鉄・御所駅からスタートし,鴨都波神社→秋津遺跡→室宮山古墳→日本武尊白鳥陵→国見山→吉祥草寺へと一周し,近鉄・御所駅へ帰ってくるコースです。近鉄が主要駅に置いている「てくてくマップ:秋津洲の道」、御所市観光協会の「秋津洲の道コース」の二つの地図入りパンフレットが大変役立ちます。近鉄・御所駅横の観光案内所に両方置いているので、是非立ち寄って下さい(早朝の7時半頃から開いてます)。

 鴨都波神社(かもつばじんじゃ)  


近鉄御所線の御所駅から、国道24号線を南へ歩き,柳田川に架かる柳田橋を渡ると鎮守の森が見える。そこが鴨都波神社です。駅から徒歩5分位。葛城山を源流とする柳田川が葛城川に流れ込む合流点に鎮座している。国道沿いに石の鳥居が建っているのでここから入るが,正確にはこれは裏門で,表参道は反対側の東側です。
神社の公式HPには以下のように書かれている。
「鴨都波神社が御鎮座されたのは、飛鳥時代よりもさらに古い第10代崇神天皇の時代であり、奈良県桜井市に御鎮座されている「大神神社」の別宮とも称されています。
 おまつりされている神様は、「積羽八重事代主命」(つわやえことしろぬしのみこと)と申され、大神神社におまつりされている「大国主命」(おおくにぬしのみこと)の子どもにあたる神様です。国を守る農耕の神様として大変崇められ、宮中におまつりされている八つの神様の一神でもあります。そもそもこの葛城の地には、「鴨族」と呼ばれる古代豪族が弥生時代の中頃から大きな勢力を持ち始めました。当初は、「高鴨神社」付近を本拠としていましたが、水稲農耕に適した本社付近に本拠を移し、大規模な集落を形成するようになりました。そのことは、本社一帯が「鴨都波遺跡」として数多くの遺跡発掘によって明らかになっています。彼らは、先進的な優れた能力を発揮して、朝廷から厚く召し抱えられました。そのような「鴨族」とのかかわりの中から誕生した本社は、平安時代には名神大社という最高位に列せられた由緒ある名社であります。」
 
金剛山に源を発する葛城川と葛城山に源を発する柳田川が合流し水の豊かなこの神社一帯からは,「鴨都波遺跡」と呼ばれる弥生中期からの多くの遺物が出土している。ここから南方にある高鴨神社付近を本拠としていた鴨氏がこの地に移り農耕に従事しながら「水の神」を祀ったものと思われる。
ずっと南にある高鴨神社を「上鴨社」,葛城御歳神社を「中鴨社」というのに対して、この神社は「下鴨社」と呼ばれる。また高鴨神社、鴨山口神社と並んで、葛城3鴨神社の一つ。高鴨神社とともに京都の上・下賀茂神社の本家にあたるともいわれる。

 鴨都波遺跡(かもつばいせき)  


鴨都波遺跡を探して鴨都波神社周辺を見渡すが,遺跡らしき場所も標識も案内も見当たらない。弥生中期からの大規模遺跡「鴨都波遺跡」は,現代において忽然と姿を消してしまったようです。神社境内で主婦の方を見かけたので,「遺跡はどこですか?」と尋ねると,「南の学校や警察,済生会病院を含めここら一帯です」とのこと。「何か残っていませんか?」と聞くと,「この辺りには残されていないが,病院の中にチョットあるようです」とのこと。
せっかく来たんだから鴨都波遺跡の痕跡ぐらいは見たい,と思い済生会病院まで後戻りする。病院敷地内を探すが見つけられない。正面入口の守衛さんの尋ねると,「この中ですヨ」と建物の中を指す。病院建物の中に入ると,待合ロビーの一角に,少しだけ遺物が展示され解説パネルが掛けられていた。さらに病院内の廊下を進み,奥の出口から建物の裏に出るとラセン階段脇に鴨都波1号墳の説明パネルがガラスケース入りで設置されていました。

鴨都波遺跡は、葛城山系に源流をもつ柳田川と金剛山麓より北に流れる葛城川の合流点に位置し、水に恵まれた場所です。鴨波神社を中心にして、周辺の奈良県立青翔高等学校(前身は県立御所高校)・高田署分庁舎・済生会病院を含む南北500メートル、東西450メートルにわたって広がっていた。弥生時代前期に始まり,中後期に最盛期を迎え、さらに古墳時代前期(4世紀)まで続く大遺跡。弥生時代の土器や石器、竪臼などの農具が多数出土し、高床式の住居跡も発掘されており、古くから鴨族がこの地に住みついて農耕をしていたことがわかる。

しかし現在は、病院内の説明パネルを除いて、何一つ痕跡すら残されていない。全て発掘調査後に埋め戻されてしまっている。「調査終了後埋め戻されて、現地で地下保存されている」(病院の説明パネルより)そうです。”地下保存”だそうです(-_-;)。

 孝昭天皇掖上博多山上陵(わきがみのはかたのやまのかみのみささぎ)  


9:25分 済生会病院を出て、鴨都波神社から国道24号線沿いに南へ5分位歩くと,三室の集落があり右手の小山の脇に天皇陵の正面拝所が見えてる。少し離れているので注意して見ないと見落とすかも。国道から脇道に降りて近づいてみる。宮内庁管理の天皇陵なので,遥拝所,柵,番小屋,注意立て札などどこの天皇陵でも同じ造り。味気ないことこの上なし。
第5代孝昭天皇は、在位期間83年で,113歳(日本書紀),93歳(古事記)で崩御したとされる。いわゆる欠史八代の1人で、その実在性が疑問視されている。

 野口神社(のぐちじんじゃ)  


孝昭天皇陵からまた国道24号線を南へ行き、葛城川に架かる御所橋を渡る。国道から左(東方)を見渡せば平地に田畑が広がり,集落が点在している。その中に樹木が密集した場所がある。そういう所には神社やお寺があることが多い。”あの森が野口神社に違いない”と見当をつけ目指す。久しぶりに俺のカンが当たった。田畑の中の細道を歩く。ここらの地区名は「御所市蛇穴」となっている。正確に読める人はいないだろう。”さらぎ”と読む。『奈良の地名由来辞典』には「蛇が円くなり穴を作ることをサラキといい、土器をサラキというのも、土器は蛇が円くなるような過程をへて製作されるからであろう」と書かれているそうです。
町名変更などで由緒ある名称が消えていくこの時代、この名前を受け継がれておられる地区の住民の方には頭が下がります。
もともと御神体は木彫りの竜で、作物の収穫を司る水の神(龍神)を葛城川の岸辺に鎮め祀り五穀豊穣を祈願したのが始まりとされる。
縁起によると、神武天皇(神倭伊波礼毘古命、かむやまといはれひこノみこと)の御子・日子八井命(彦八井命、ひこやいノみこと)を祖神とする茨田連の子孫が河内国からここに移住、祖神を祀るようになり、御祭神は神倭伊波礼毘古命・彦八井命の二神になったという。
野口神社が有名なのは、蛇塚と「汁かけ祭り」です。
恋の狂気から蛇に変身した娘が閉じ込められた場所が現在の野口神社の地とされる。元々この場所には井戸があって、その中に蛇を埋めて塚になったと言い伝えられています。境内には井戸を模った石組みの蛇塚があります。そして毎年5月5日に、その娘の霊を供養するため「汁かけ祭り(蛇綱引き:じゃづなひき)」が行われる。十四mもある藁で作った蛇綱を地区の各戸を一軒一軒引き回し、邪気払い病除を祈願していく。そして巡行が終ると神社拝殿横の蛇塚に蛇綱をトグロに巻納め、行事が終了する。かっては、厄除けもため参詣者にワカメの味噌汁をかけていたが、近年はさすがに行われていないとか。

年をとればトイレが近い。民家が散在し見晴らしの良い田園地帯、脇道でという訳にもいかない。野口神社裏にありました。ホッとして駆け寄ったが、カギが・・・。近くて遠いのがトイレです。我慢、ガマン・・・。

詳しくはホームページ