山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

初瀬街道から長谷寺へ (その 3)

2015年05月24日 | 街道歩き

2014年11月28日(金)、近鉄・桜井駅を出発し、初瀬街道を散策しながら紅葉の長谷寺詣でへの記録です。

 長谷山口坐(はせやまぐちにいます)神社  


参道に入り少し進むと、右手に細い路地があり、奥に朱色の太鼓橋が見える。脇に「延喜式内社 長谷山口座神社」の社標がある。長い石段を登りきると、小さな境内に拝殿と本殿が佇む。
案内板には
「長谷(はせ)山口神社由緒(ゆいしょ)記
当神社は長谷山の鎭(しづめ)の神として太古より大山祗(おおやまつみ)の神を祭神としている。第十一代垂仁天皇の御代倭(やまと)姫の命を御杖として、この地域の「磯城嚴橿の本(しきいつかしのもと)」に約八ヶ年、天照大神をおまつりになった時、随神としてこの地に天手力雄(あまのたぢからを)の神、北の山の中腹に豊(とよ)秋津姫の神をまつる二社を鎭座せられた。」とあります。

 伊勢の辻から化粧坂へ  



長谷参道の名物「くさ餅」の店があります。右に折れる道があり、その角はに「伊勢辻 右 いせみち」と彫られた石の道標(1726年建立)が建っている。ここが「伊勢の辻」と呼ばれ、真っ直ぐ参道を進めば長谷寺へ、右の道に入れば伊賀・伊勢方面への伊勢街道です。

伊勢の辻を右に入り、初瀬川に架かる「伊勢辻橋」を渡ると、道は左右に分岐する。行き先はどちらも伊勢方面で同じだが、右は車も通れる新しい道。左側がかっての伊勢街道です。

左に入っていくと、落ち葉が散乱し、旧街道の雰囲気を漂わす。やがてやや勾配のきつい七曲りの坂道となる。このあたりで伊勢参りの旅人たちが衣装直しや化粧直しをしたことから「化粧坂(けはいさか)」と呼ばれている。長谷寺に参詣した伊勢参りの旅人は、ここを曲がり榛原を経由して伊勢を目指したのです。
15分位で七曲りの坂を登りきると峠に出、視界が開けてくる。ここには峠の茶屋があり、旅人が一服したという。

 紅葉スポット:愛宕神社  



左に折れれば伊勢街道だが、この峠には右への道もある。この道を進めばすぐ紅葉スポット:愛宕神社です。ここも絶好の休息場所で、初瀬川を挟んで長谷寺を真正面から拝することもできる。今も昔も変わらない。

それほど広くない境内の中央に、燈籠と小さな祠が長谷寺本堂と向かい合う形で建っている。かって大きな社が建っていたというが、昭和十七年の火災で焼失し、再建されないままになっているそうです。確か、愛宕神社は火伏せ・防火に霊験のある神さまのはずですが・・・。
ここには建物は無いほうが良い。目立つ社殿がないだけ紅葉がひときわ鮮やかに見える。こんな素晴らしい場所を誰も知らないのでしょうか。私が居た20分ほどの間、誰一人来なかった。紅葉だけなら長谷寺よりはるかに勝ります。

初瀬川のある谷を挟んで長谷寺の全景が一望できます。ここで観音さんに手を合わすだけで十分です。きっと昔の人はそうしたんでしょうネ。
本居宣長の「菅笠日記」(1772年・明和9年)に
「けはひ坂とて さがしき坂をすこしくだる 此坂路より はつせの寺も里も 目のまへにちかく あざあざと見わたされるけしき えもいはず」。彼も化粧坂を登りこの景色を眺めたのでしょうか?

写真を撮ろうと前のめりしたら、急崖を2mほど滑り落ちた。足元ご用心・・・

 法起院(ほっきいん)  


愛宕神社から伊勢の辻にもどり、参拝道を進むと右側に「長谷寺開山徳道上人」と刻まれた石標が建ち、奥へ続く路地が見える。
ここは天平7年(735)の開基された法起院で、西国三十三ヶ所観音霊場巡礼を始めた徳道上人が晩年隠棲した寺です。そしてここ法起院は西国三十三カ所霊場巡りの番外札所として、霊場巡りを終えた人が最後に参詣する寺院になっている。
境内はそれほど広くはない。開山堂(本堂)には本尊の徳道上人自身の木像が安置され、本堂の左奥に十三重石塔があり、徳道上人の墓所とされている。

 與喜山(よきやま、天神山)へ  


法起院から少し進むと、参道はほぼ直角に左折している。左に折れ、お土産屋の間を100mほどたどると長谷寺はすぐそこ。左折しないで正面を見ると、初瀬川にかかる紅い欄干の「天神橋」、その先に階段が伸び紅い鳥居が見える。この道は與喜山(天神山)中腹の與喜天満神社、素盞雄神社を迂回して長谷寺へたどるコースです。”裏参道”というのでしょうか。表参道に比べ距離は数倍あり、きつい階段や山道がありで体力的にハードです。しかし土産屋の呼び声を聞くより、はるかに見所は多い。裏へ廻ることにします。

橋の上からは、初瀬川越しに長谷寺が一望できる。
鳥居から少し入ると左側に空き地があり、「與喜寺跡」の石柱だけが建っている。ここも廃仏毀釈で消滅したのでしょうか?。今は、椅子が寂しげに置かれ展望所となっています。初瀬の集落が一望でき、「隠口(こもりく)」のイメージがぴったりです。
「隠口の泊瀬」と萬葉集に多くの歌が詠まれている。、「隠口(隠国、こもりく)」とは泊瀬(初瀬)にかかる枕詞で、両側から山が迫ってそれに囲まれたような「山間の隠れた国」という意味だそうです。

 與喜(よき)天満神社  


與喜寺跡からさらに長~い石段の参道が待っている。杉の大木に囲まれ、100段位はあるでしょうか?。この階段の上、與喜山中腹に鎮座するのが菅原道真公を主祭神とし祀る與喜天満神社です。
道真の神霊が現れ「私は右大臣正二位菅原道真だ、私はこの良き山に神となって鎮座しよう。」と語って神鎮まったという。「良き山」から”與喜(よき)”という名前が付けられたようです。
通史では、出雲(島根県)の野見宿祢は、垂仁天皇により大和へ招来されたという。しかし、初瀬の出雲の地が野見宿祢の出身地だという伝承も残る。だから野見宿祢を先祖とする菅原道真がこの近辺と縁が深いのも頷ける。

 玉鬘庵跡(たまかずらあん)と素盞雄(すさのお)神社  



與喜天満神社境内の脇に「裏参道」と書かれた木札が立てられ、下へ降りる道が見える。この道を降りていけば長谷寺へ行けるので下りて行く。竹薮に囲まれた石段の途中に「源氏物語(玉鬘編)」にでてくるという「玉鬘庵跡」の板札が立っている。板札の矢印の指す方向を探すと、何やら跡らしきものがある。工具箱やらゴミが散乱し、竹林を除いて源氏物語の世界とはほど遠い。「源氏物語」ってノンフィクション?フィクション?。

玉鬘庵跡の立て札から数段下りた所にも「素盞雄神社」の立て札が立つ。右方を見れば、黄色に染まった大樹の下に社殿が見えます。與喜山は天照大神が降臨した山だ、との伝承をもつのでその弟神の素盞雄命の霊を祀ったものと思われる。大銀杏がそびえ、地面一面を黄色に染めあげている。推定樹齢800年、樹高約40m,周囲約7.5m。イチョウの巨樹としては県下最大のもので県指定天然記念物となっている。

初瀬川を挟んで向かいの山が長谷寺で、ここから長谷寺全体を眺望できる

 連歌橋  



與喜山からの出口にも紅い橋が架かっている。「連歌橋」と呼ばれている。
かって長谷寺に集まった僧や貴族たちが與喜天満神社境内の連歌会所・菅明院での連歌会のため、初瀬川に架かるこの橋を渡ったとことから名付けられたそうです。
連歌橋から長谷寺の入口は直ぐ近く。




詳しくはホームページ

初瀬街道から長谷寺へ (その 2)

2015年05月13日 | 街道歩き

2014年11月28日(金)、近鉄・桜井駅を出発し、初瀬街道を散策しながら紅葉の長谷寺詣でへの記録です。

 脇本遺跡  


玉列神社を後にし、民家と田園の広がる三輪山の山裾の道を東に歩く。「東海自然歩道」の標識があり、かつての初瀬街道と重なるのでしょうか。車も通らなければ人も見かけない、のどかな田舎道です。
田舎道はやがて右に大きくカーブし、平行して通っていた国道165号線にでる。その交わる辺りに脇本バス停があり、この一帯が脇本の集落です。山裾や国道の反対側には民家が集中しているが、脇本バス停を中心にして広大な空間が空き地になっている。この空間こそ、雄略天皇の「泊瀬朝倉宮跡」ではないかとされる「脇本遺跡」の場所です。

写真は「2012/9/29 橿原考古学研究所の現地説明会資料」によるもの。
この付近は、縄文・弥生時代から古墳時代にかけての遺物が出土し、脇本西遺跡・脇本東遺跡として以前から知られていた。昭和59年(1984)から桜井市と橿原考古学研究所によって、朝倉小学校校庭から国道165号線周辺にかけての発掘調査が行われた。

その結果、5世紀後半のものと推定される大規模な建物の存在を示す掘立柱の柱穴や溝の遺構が発見され、考古学的見地から『記紀』にみえる第21代雄略天皇の「泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)」跡と推定されています。現在、この建物遺構の跡は私有地のため埋め戻され稲田となっている。
2012年6月には七世紀後半の大型建物跡を発見され、伊勢神宮に斎王として向かった「天武天皇の娘、大伯皇女(661~701年)が心身を清めたとする泊瀬斎宮(はつせのいつきのみや)の一部である可能性が考えられる」と発表した。9月には泊瀬朝倉宮の関連施設と想定される五世紀後半の池状遺構を発掘したと発表された。

 黒崎の集落と白山神社  



脇本から、白山神社のある黒崎の集落へ向かう。黒崎の古い民家を見ていると、玄関の軒先にしゃもじが並べて掲げられている。どれも「八十八才」と書かれ、柄の部分に名前がある。民家の方に尋ねると、地区の八十八才になられた人の名前を書き込み門口に飾り、そのしゃもじでご飯を食べると長生きできる、という風習からきているようです。桜井周辺で古くから伝わっているとか。

日本全国いたるところにある白山神社の一つ。石川県白山市に鎮座する白山比(しらやまひめ)神社を総本山とし、菊理媛命(くくりひめのみこと)こと白山比命(しらやまひめのみこと)と菅原道真公を祭神とする。
境内はそれ程広くはなく、どこにでも見かける並みの神社です。拝殿奥には、朱塗・春日造で檜皮葺の本殿が覗く。
   
雄略天皇の歌を刻んだ石碑が置かれ、国道沿い神社入口の右手瑞垣越しに「万葉集発燿讃仰碑(はつようさんぎょうひ)」の石柱がのぞく。
雄略天皇がこの辺りの丘で摘み草をしている乙女たちに語りかけ歌ったもので、万葉集の冒頭を飾っている。そこから「万葉集」発祥の地であると。さらに雄略天皇の泊瀬朝倉宮の場所だとも、主張されている。

 出雲へ  



黒崎の田舎道から国道165号線に合流し、車道脇の歩道を歩かされることになる。ひたすら長谷寺方向へ歩きます。出雲地区に入ると、国道脇に「流れ地蔵」を祀る小さなお堂があります。
案内板によれば、室町時代末の地蔵石仏(高さ1.4メートル、幅63センチ、仏身1.15メートル、花崗岩)で、文化八年(1811年)の大洪水で、初瀬川上(長谷寺の桜の馬場)から現在地まで流されてきたのを当時の出雲村の人たちが助けて祀った、とされる。
この地域にも「出雲」があるようだ。とはいえ、お地蔵さんが流されるほどの大洪水とは。

ここは”出雲人形”で知られる。起こりは、垂仁天皇の時代に野見宿禰が出雲(島根県)の国から土師部(はじべ)を呼び寄せ埴輪をつくらせたことからくるという。土師部が此の地にも住み着き、埴輪つくりの技術を応用して土人形を作るようになった。ということは1500年も受け継がれてきた伝統工芸ということになります。天神や力士、狐などの型に粘土をつめて天日で乾かし、田の中に穴を掘って並べ、上から籾ワラなどをかぶせて火をつけて焼き上げ、泥絵具で彩色するという素朴なもの。これを”出雲人形”と呼び街道を行き交う人に売られていたという。

 十二柱神社(じゅうにばしらじんじゃ)  


出雲の集落には十二柱神社がある。祭神として、神世七代(かみよのななよ)の神と地神五代の神、合計十二柱の神が祀られています。
境内に出雲村伝説として「十二柱神社は出雲ムラの村社。大昔は、神殿がなく”ダンノダイラ”(三輪山の東方1700メートルの嶺の上にあった古代の出雲集落地)の磐座を拝んだ。明治の初めごろまで、年に一度、全村民がダンノダイラへ登って、出雲の先祖を祀り偲んだ。一日中、相撲したり遊んだり食べたりした」と書かれている。
「ダンノダイラ」は現在の出雲集落の真北約1.4キロ、三輪山の背後から尾根続きになる巻向山山腹にあたる。標高400m近い山中だが、小川や沼地の跡も残り、そこから水を引き田畑を耕し生活できたようだ。今でも巨岩が剥き出しになっていて,かっての磐座信仰が偲ばれるという。
十二柱神社の石柵の並ぶ長い参道を進むと、途中に「相撲開祖 野見宿禰顕彰碑」なる石碑が置かれている。参道の奥に鳥居が立ち、その右横の石垣上に立派な五輪塔が見えます。これが野見宿禰(のみのすくね)の五輪塔(高さ2.85メートル)。
通史によれば、相撲開祖・野見宿禰は島根県の出雲国から召され垂仁天皇に仕えた、とされている。しかしこの地域の人々は、野見宿禰はここ出雲集落の出身で、この地から召されたと主張します。十二柱神社の南300m、初瀬川を渡った先の狛川(こまがわ)沿いに、古代より野見宿禰の古墳と称される直径20mを越える塚があり、その上に鎌倉時代初期に創られたという五輪塔が建っていた。明治16年に塚は取り壊され、五輪塔は十二柱神社境内に移された。塚のあった場所には、現在でも「野見宿禰塚跡」の碑が建っているという。

第25代武烈天皇は「小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのすめらみこと、日本書紀)・小長谷若雀命(古事記)」と呼ばれ、『古事記』には「長谷(はつせ)の列城宮(なみきのみや)におられて、天下を治めること8年」とある。その泊瀬列城宮(はつせなみきのみや)伝承地が、ここ十二柱神社境内とされ、拝殿の右側に「武烈天皇泊瀬列城宮跡」の石碑と「武烈天皇社」と書かれた小さな祠があります。

武烈天皇は非常に残虐な天皇であったとされ、子供がいなかったので、ここで皇統が途絶えてしまった。そこで、次の天皇として越前から継体天皇を迎え入れることになった。しかし武烈天皇については、その実在性を含め謎が多いとされています。

 長谷寺参拝道へ  


十二柱神社を後にし、再び国道165号線に出、長谷寺を目指す。車がひっきりなしに往来する国道の路側帯の歩道を歩く。この道は榛原・名張を経て三重県・中部圏へ通じている。

やがて「ようこそ長谷寺へ」の大きな看板のある初瀬観光センターに出くわす。現在”もみじ祭り”のまっ最中らしい。正面には長谷寺参拝道への入口を示す紅い門も見えます。初瀬観光センター内に出雲人形が展示されていました。非常に可愛らしいお人形さんです。ここで販売しているのかどうか、聞き忘れた。

紅い歓迎門を潜り、長谷寺へ向かう。約1キロほどあります。門から100mほど行くと、右手に紅い欄干の橋が見える。「参急橋」(さんきゅうはし)と刻まれている。「お参りに急ぐ」ことからこの名が付いたそうです。近鉄・長谷寺駅へはこの橋を渡り、かなりキツイ階段を登った上にある。距離はしれているが、急な勾配なので、帰りの疲れた身体には堪えました。

初瀬街道から長谷寺へ (その1)

2015年05月09日 | 街道歩き

2014年11月28日(金)、近鉄・桜井駅を出発し、初瀬街道を散策しながら紅葉の長谷寺詣でへの記録です。

 桜井茶臼山古墳(さくらいちゃうすやまこふん)  


桜井駅の南出口から、寂れた商店街を抜け東へ歩くと「跡見橋」が見えてきた。神武天皇が東征の折に、ここで後ろを見返したからという。「跡見橋」の手前で右手に入っていく細道がある。小川と民家の間の細い路地を通り、左側に曲がってゆくと正面に雑木林の小山が見える。これが茶臼山。
この地域の地名は「外山(とび)」、そこから「外山茶臼山古墳(とびちゃうすやまこふん)」とも呼ばれる。
鳥見山の北側にのびる丘陵尾根の先端を成形して墳丘を築いたものと想定される。墳丘の規模は、全長約207m・後円部径約110m・同高さ19m・前方部幅約61m・高さ11mの三段築成の前方後円墳で大きさは我が国三十一番目の規模をもつ。築造時期は古墳時代前期前半(4世紀初頭)で、箸墓古墳に続く初期の古墳とされている。ここ後円部の墳上からは、東西約9.8m・南北約12.3mの方形壇があり、その周囲を丸太で囲んだ「丸太垣 」跡が見つかっている。方形壇の約0.8m下には、南北6.8m・幅約1.1m・高さ約1.6mの竪穴式石室が南北方向に築かれていた。天井は12枚の巨石で塞がれ、石室内の石材は全て水銀朱で塗られていた。その石室の中央には木棺が納められていたが、現存していたのは高野槇で造られた長さ5.2m・幅70cmの底の部分と側面の一部だけという。その後の再発掘で、石室から国内最多の13種、81面の銅鏡が見つかった。古墳時代前期の古墳で、箸墓古墳に次ぐ時期の大王級の墓と考えら、初期ヤマト王権を考える上で重要な古墳と思われる。その割には、ただの丘陵のようにひっそりと佇んでいる。1973(昭和48)年国の指定史跡に。

古墳の西側から北側にかけ山裾は刈り込まれ道が通っている。しかし途中で行き止まりになっていて、一周はできない。墳頂への登り道を探すがはっきりしない。それ程高くないので、登れそうな所を雑草を掻き分けながら登ってみる。墳頂は雑草ボウボウで何にもありませんでした。古墳を示す形跡は何一つ見当たりません。雑木林に覆われて見晴らしもきかない。下の民家の方とお話しすると、2009年発掘調査当時は見学者の行列ができていたそうですが、現在は埋め戻されてしまい訪れる人もほとんどいないとか。



ここからは桜井市の民家越しに三輪山がくっきりと見える。三輪山の手前には初瀬川が流れ、それに沿う形で
初瀬・伊勢街道が東へ向かっている。ここは東方から大和に入る重要な場所でもある。




 宗像神社(むなかたじんじゃ)  


茶臼山古墳を後にし、南側の国道165号線を少し東へ歩くと宗像神社が見えてきた。

鳥居を潜ると正面に拝殿があり、その背後に社殿が鎮座する。社殿は塀で囲われているため、紅い屋根が少し見えるだけ。三棟からなり、中央が本殿で、右が春日社で左が春日若宮社。もともと宗像三神を祀っていたが南北朝時代に兵火で焼失し山麓に小祠だけとなる。明治に復活するまで 神域は奈良興福寺の支配下にあり、春日社だったようです。「神社は荒廃の一途を辿りましたが、幕末の国学者、鈴木重胤が嘉永七年(1854)当地を訪れた際、宗像三神の荒廃を嘆き、村民と相談の上、安政六年(1859)に改めて筑前の宗像本社から神霊を迎え再興し、翌年社殿が完成した。その後明治八年(1875)春日神社の社号を廃して宗像神社とした。明治21年社殿を更に改築して、初めて現在のごとく宗像の神を中央の位置とした」(宗像神社のホームページより)
境内の入口近く左側に「能楽宝生流発祥之地」と刻された石碑が建っている。伊賀国にいた世阿弥の弟蓮阿弥が大和へ来て、ここ外山の地で興こしたのが外山座(とびざ)で、後の宝生流となる。

 朝倉駅手前の天誅組烈士之墓  


宗像神社から国道165号線沿いを東へ進むと広い交差点にでる。この辺りは「宇陀が辻」と呼ばれ、桜井の伊勢街道(初瀬街道)から宇陀方面へ入る起点になっている。「忍坂」と書かれた標識の道を入っていくと宇陀へ続いている。真っ直ぐ行けば朝倉から長谷寺方面への伊勢街道(初瀬街道)です。長谷寺まで6キロの道路標識が見えます。


国道165号線から少し右脇に入り進むと、近鉄朝倉駅の手前の線路脇に「天誅組烈士之墓」の石碑が建つ。側面には「大正七年五月日 建之」「慈恩寺 有志者」と刻まれている。

文久3年(1863)、高取城攻略に失敗し幕府方に追われ、東吉野を経て散り散りになった天誅組。関為之助と前田繁馬の若き二人は、初瀬村まで逃れたが見つかり、全身に銃弾を受けて戦死した。
この石碑から上り、近鉄の踏み切りを渡った山裾に慈恩寺共同墓地がある。その中に若い命を散らした関為之助と前田繁馬の墓がある。

 欽明天皇・磯城嶋金刺宮跡(きんめいてんのう・しきしまのかなさしのみやあと)  


国道165号線に戻り少し進むと、前方が開け、紅葉に囲まれた三輪山と大和川の広い河川敷が現れた。かって市場が栄え、宮殿があった場所なのです。中国・隋の使者がここで船から降りたという。いくら想像たくましくしても、古代ヤマトのイメージが浮かんでこない。
大和川に架かる「真佐野渡橋(しんさのとはし)」の手前を左に入り、河川敷沿いに歩いて磯城嶋公園へ向かいます。


この周辺は真っ白なコンクリートの固まり「中和幹線道路」が築かれ、景観が全く一変してしまい”いにしえ”の雰囲気は全く無い。
高架の下を潜り北側に出ると川沿いに小さな公園が見える。巨大な高架道路と大和川に挟まれ、窮屈そうな磯城嶋公園です。


この磯城嶋公園の東端に、四つの石碑が建つ。右から『磯城邑傳稱地』『欽明天皇磯城嶋金刺宮跡』『仏教公伝』『柿本人麻呂の歌碑』の碑が並ぶ。いかにも急場しのぎでまとめて置かれたといった風に見えます。『欽明天皇磯城嶋金刺宮跡』碑は、今まで中和幹線道路の南側の桜井市水道局前庭に置かれていたが、何らかの事情でここに移されたようだ。

『日本書紀』や『古事記』によれば、欽明天皇は即位した翌年の7月、磯城郡の磯城嶋(しきしま)に金刺宮(かなさしのみや)を営んだと記す。第29代欽明天皇は、継体天皇と手白香皇女(たしらか)との間に生まれ、異母兄・宣化天皇の後を継いで32年間(539 - 571)在位した。そして敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇・推古天皇の四天皇の親であり、聖徳太子の祖父に当たる。

ここから1キロほど北西には「崇神天皇磯城端離宮跡(しきのみずがきのみや)」がある。三輪山の南西麓で、大和川沿いのこの地域は、古くは「磯城(しき)」と呼ばれていたようです。飛鳥(明日香)に都が置かれる以前の時代です。現在、飛鳥は注目されているが、その前の大和王朝の礎を創った「磯城・磐余」(桜井市)の地がもっと注目されてよいと思うのですが・・・。仏教が最初に持ち込まれた場所でもあり、聖徳太子が青春時代を送った所でもあるんです。
現在の地名は「外山区城島町」となっており、「磯城嶋」の名残を残す。「磯城嶋(敷島、しきしま)」は日本の古名「大和」にかかる枕詞であり、日本の原点とされるべき地域なのです。

『仏教公伝』の碑には、郷土の文芸評論家・保田與重郎(やすだよじゅうろう)氏の著作から引用し、
"初瀬川の南に、磯城金刺宮がある。佛教が正式に渡来したのはこの都である。日本佛教発祥の地である" と刻まれている。

 玉列(たまつら)神社  



公園を後にし、慈恩寺集落へ入っていく。初瀬川右岸沿いに走る県道199号線(慈恩寺三輪線)の北側、三輪山の山裾の住宅道(東海道自然歩道?)を歩いていると玉列神社の標識に出会う。坂道を山側に上って行くと、階段と鳥居が見える。

階段の上り口で、右側を見ると鮮やかな紅葉と朽ちかけた巨樹が目に付く。つっかい棒で支えられ辛うじて倒れないでいる様子。傍には奈良県保護樹木の標識が建てられ「樹齢800年といわれ、「阿弥陀寺のケヤキ」「雷の落ちた木」と言って地域住民の人々に親しまれている」と書かれている。欅(ケヤキ)の大木で、落雷に遭いこのような姿になってしまったようだ。幹の中央に空洞がポッカリ空いている。それでも生きている証に、色ついた葉枝を精一杯広げているのが痛々しい。欅の周りには、付近の街道沿いから拾い集められた小石仏や道標が並べられている。
鳥居を潜って薄暗い参道を進むと、正面階段上に拝殿(割拝殿)が見え、その奥に石垣上に瑞垣に囲まれて本殿(春日造・桧皮葺)が建つ。祭神は大物主(大神神社の祭神)の御子神である玉列王子(たまつらのみこ)神とされる。しかし記紀などにはみえず、確たる出自・神格などは不詳だそうです。本殿右下に三つの境内社が並ぶ。右から”金の神様”金山彦社、”道と教えの神様”猿田彦社、”火(かまど)の神様”愛宕社。

玉列神社は古くは「玉椿(たまつばき)大明神」と呼ばれ、椿の神社として有名。後ろの山には椿の大木が多く茂り、また境内には早咲き、遅咲きなど200種500本あり、その時期になると境内は椿の花で埋め尽くされ彩られるという。参道脇には椿の苗木が多数植えられ、奉納者の名前や、「京錦、若武者、らんまん、薩摩、さかさ富士・・・」などの名札が添えられている。

毎年椿が見頃な3月の最終日曜日には椿まつりも開催され、神事・浦安の舞・御神酒の振る舞い・椿にゅう麺(三輪そうめん?)の振る舞い・椿の展示・販売・椿饅頭(150円)の販売が行われるという。
境内の広場には「奉納演芸場」が設けられている。椿まつりでは、この舞台で髪に椿の花を付けた巫女による神楽「浦安の舞」の奉奏が行われるそうです。