山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

六波羅から建仁寺へ 3(建仁寺:庭園)

2023年06月26日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2023年5月27日(土曜日)
建仁寺(けんにんじ)の庭園(大雄苑、〇△□乃庭、潮音庭)を鑑賞し、最後に京都ゑびす神社へ。

 建仁寺 4: 庭園(大雄苑)  



方丈南側の前庭「大雄苑(だいおうえん)」 。方丈の広い縁側に座りじっくり鑑賞できる(寝そべり禁止)。「方丈前の枯山水庭園。創建当時は不明であるが、現在の作庭は加藤熊吉により昭和初期頃、作庭されたもの。建仁寺は中国百丈山の禅刹を模したといわれ、庭園も百丈山の景色を模して作庭された」(公式サイトより)。方丈は昭和9年(1934)の室戸台風で倒壊し、数年後に再建されているので、その時に作庭されたものと考えられる。庭名は百丈山の別名の大雄山に由来します。

庭中央には、両側に五筋塀を構えた唐門が建ち、その背後に法堂が、さらにその後ろに三門、放生池、勅使門と一直線に並んでいる。これが中国百丈山に由来する禅院の伽藍配置。

西端からの眺め。左奥は法堂への渡り廊下。川に、あるいは大海の波に見立てたのでしょうか、くねった砂紋がひかれている。後ろに松、植栽、巨石が配されています。


庭の西端奥に、緑に囲まれて見える七層の石塔は織田信長の供養塔です。弟である織田有楽斎が兄の追善のため建立したもの。徳川時代には、開山堂南の溝の中に隠されていたが、明治になってから現在の場所に戻されたのだそうです。








大雄苑の庭は降りて歩けず、縁側から鑑賞するだけ。ところが方丈の西北にまわると、庭に降りる階段が設けられ、履物まで置かれている。ここを降り、方丈裏の小径を歩けます。








小径を歩くと、最初に出会うのが「田村月樵遺愛の大硯」。
田村月樵(げっしょう、1846 - 1918、宗立ともいう)は明治期の日本画家、洋画家、画僧。幼き頃から南画や仏画を学ぶ。初め写生画に傾倒し、明治初年には、京都洋画壇の先駆者として活躍した。晩年は、油絵から遠ざかり、ただ仏画のみに没頭する。67~69歳の折に建仁寺方丈の襖絵「唐子遊戯図」や、塔頭・霊洞院の「雲龍図」などを描いた。
「この碑は、月樵が生前愛用した長さが三尺の大硯で、大海原に臨んで一疋の蛙がはらばって前進していくようすを彼自身が刻みつけたというものである」と説明版にあります。

次に「安国寺恵瓊首塚」が現れる。少し長いが説明版です。「安国寺恵は天文七(1538)年、安芸国守護武田氏の一族として生まれた。天文十(1541)年、大内氏との戦いで武田家が滅亡し、当時四歳だった恵瓊は安国寺に身を寄せることになる。以後十二年間、当寺で仏道修行に精進し、十六歳のときに生涯の師と仰ぐこととなる笠雲恵心に巡り会う。この直後、恵瓊は京都東福寺に入り、五山禅林の人として修行を重ねた。そして、恵瓊三十五歳の時、正式に安芸安国寺の住持となり、この頃から毛利家の政治にかかわる外交僧として活躍をはじめる。羽柴秀吉が率いる織田軍が中国地方に侵攻してきた際には、毛利氏の使者として秀吉との交渉にあたり、この交渉を通じて秀吉との繋がりが深まったといえる。やがて、天下人となった秀吉は恵瓊を直臣の大名に取り立て、伊予国二万三千石を与えた。また恵瓊は、建仁寺方丈移築をはじめ東福寺の庫裏の再建など、旧来の建築物の修復に関与し多くの功績を残している」。安国寺恵瓊(あんこくじえけい)は応仁の乱などの戦乱で衰退していた建仁寺を再興した恩人です。

慶長五年(1600)関ヶ原で西軍が敗れると、京都で捕らえられて六条河原で斬首され晒し首にされた。その首を建仁寺の僧が持ち帰り、方丈の裏に手厚く葬った。建仁寺の功労者にしては、やや貧弱なお墓です。これは、徳川幕府のもと、目立った墓は造れず、墓標を刻むこともなく方丈の裏にひっそりと建てられたという。

安国寺恵瓊首塚の背後に見えるのが茶室「東陽坊(とうようぼう)」。天正15年(1587)に豊臣秀吉が催した北野大茶会で、千利休の高弟だった真如堂の僧・東陽坊長盛が北野の紙屋川の土手に副席として建てたものと伝えられ、北野大茶会の貴重な遺構です。
明治中頃、建仁寺開山堂の裏手に移され、大正10年(1921)に現在地に移築された。中に入ることはできませんが、内部を覗き見ることはできます。

茶室の西続きに、幅1mほどの竹垣が接している。建仁寺の僧が竹で創案したという独特の垣で、「建仁寺垣」と呼ばれています。太い4つ割り竹を重ねるように並べ隙間をつくらない。反対側も同じように並べ、これに押縁(おしぶち)といわれる横の竹でおさえ、縄で結んだもの。

 建仁寺 5: 庭園(〇△□乃庭、潮音庭)  



方丈裏の小径から堂内に戻る。本坊と小書院(左側の建物)に挟まれて、白砂の敷かれた小さな枯山水庭園があります。「〇△□乃庭」という珍しい庭名が付けられている。そのまんま「まるさんかくしかくのにわ」と読む。平成18年(2006)に北山安夫による作庭で、「単純な三つの図形は宇宙の根源的形態を示し、禅宗の四大思想(地水火風)を、地(□)水(○)火(△)で象徴したものとも言われる」(公式サイトより)



◯□はわかりやすい。○は中央の苔の円地に椿の木が立っている所。□は手前の井戸です。それでは△はどこでしょうか?。


写真の左上をみれば三角形に見える。砂を盛り上げ線状にし、庭園を囲うように枠が造られています。これが△で、西南の廊下で見れば分かりやすく、それ以外の場所では分かりにくい。

小書院の内部です。右に「〇△□乃庭」、左に「潮音庭」を眺められる。江戸時代の臨済宗古月派の禅僧、画家・仙厓義梵(せんがい-ぎぼん、1750-1837)が「この世の全ては○△□で表せる」といい、「○△ロ」の掛軸を残した。これを元に作庭されたという。小書院の奥に「○△ロ」の掛軸が掛かっている(これは複製?)



本坊-小書院-大書院と廊下でつながっている。写真右下隅に「〇△□乃庭」があり、その北側が小書院で、潮音庭を間に挟み突き当りが大書院となっている。



小書院(手前)と大書院に挟まれた中庭「潮音庭(ちょうおんてい)」。「建仁寺本坊中庭にある潮音庭は、中央に三尊石その東には坐禅石、廻りに紅葉を配した枯淡な四方正面の禅庭であります」(公式サイト)。左右を渡り廊下で囲み、四方正面としてどの角度からでも鑑賞できる。
小堀泰巌の作庭、監修は現代の作庭家・北山安夫という。

西側廊下から見る。

大書院の縁側から鑑賞。秋には紅葉、冬にはヤブツバキが美しく、この時期は緑がさえます。

東側廊下から見る。



堂内から外に出ると、大勢の修学旅行生がいる。また騒々しい以前の京都が復活したようです。

法堂西側の西門から出て、京都ゑびす神社へ向かいます。






 京都ゑびす神社  



建仁寺の西門を出て、南に100mほどで京都ゑびす神社の石鳥居が見えてくる。
建仁2年(1202)、栄西が建仁寺を建立するにあたり、鎮守社として恵美須神を主祭神として建仁寺境内に創建された。栄西が南宋から帰国する際に海上で暴風雨に遭い遭難しそうになったが、恵美須神が現れその加護によって難を逃れたということによる。
応仁の乱(1467-1477)で建仁寺が焼失したさいに、現在地に移転再建された。明治の神仏分離によって建仁寺から分離独立する。

石鳥居をくぐった境内すぐの右手にあるのが「財布塚」と「名刺塚」。両脇に松下幸之助と吉村孫三郎揮毫の石柱が建っている。先代宮司が、古い財布とか名刺とかをそのまま捨ててしまうのは忍びないと、松下幸之助さんと吉村孫三郎(戦前に吉村紡績を設立、現在「ヨシボー(株)」)さんにお願いし賛同を得て寄進されたものです。毎年9月の第四日曜日に名刺感謝祭が行われ、古くなった名刺が焚かれる。

次に、ゑびす神がにこやかにお出迎えしてくれます。右手に竿を持ち、左脇には釣った鯛を抱えています。釣った魚を物々交換でコメに変えるということから、漁業の神様であり、商売繁盛の神様です。

ゑびす(恵比寿)神は「都七福神」の一つで、新年に七福神の社寺をめぐる「都七福神巡り」が行われる。それ以上に有名なのが、親しみを込めて「えべっさん」とも呼ばれる「十日えびす」。西宮神社(西宮市)、今宮戎神社(大阪市)と並んで日本三大えびすで、1月10日がゑびすさんのお誕生日だったことに由来する。9日を宵戎、10日を本戎、11日を残り福といい、この三日間は宝物をかたどった縁起物を枝先に付けた笹をもった人々で周辺は溢れかえります。






次に、二の鳥居が現れる。通常、扁額が掛かる所に笑みを浮かべたゑびすさんの顔が掛けられている。顎の下に「福箕(ふくみ)」と呼ばれる網が取り付けられ、これにお賽銭を投げ入れると願い事が叶うそうです。その下には、キャッチミスないように熊手まで用意されている。さすが商売繁盛の神様だ。一万円札を投げてみたが、届かなかった(ウソです)。






これは拝殿で、奥に本殿があるが見えない。「八重事代主大神(やえことしろぬしのおおかみ)」が祀られている。これはゑびす神の正式な名前。商売繁盛のご縁があったのか、拝殿左右に高島屋と大丸の提灯が奉納されている。
正面でお参りの後、もう一度側面へとあります。

左側面に周ると、「優しくトントンと叩いて」お参りくださいとある。ちょうど本堂の真横で神様とも近い。ゑびすさんは高齢になられ、耳が遠くなられたこともあり、正面の鈴の音では気づかない。真横に回り、優しく肩をトントンとたたいてお参りするのです。ちょっと頼りない神様です。


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