山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

二つの継体天皇陵 1

2021年11月16日 | 古墳を訪ねて

★2021年10月24日(日曜日)
夏も終わり、涼しい季節がやってきた。緊急事態も解除され、どっかへ出かけたくなりました。
昨年に続き今年の盆も帰省できなかった。数年前に無くなった両親の墓前にも手を合わせられませんでした。田舎は、私たちが想像している以上に都会からの流入者に敏感なようです。実家の墓参りの代わりに、近場のお墓へお参りすることにした。、大阪府内には、現在の皇室の直接の祖先と云われる継体天皇のお墓があります(茨木市、高槻市)。私の親戚筋ではないのですが、ひょっとしたら継体天皇百世の孫にあたるかもしれない・・・なんて想像しながら出かけることにした。
ところで継体天皇のお墓が二つあるのです。一つは宮内庁指定の太田茶臼山古墳(茨木市)、もう一つは学者のほとんどが推す今城塚古墳(高槻市)。継体天皇自体が謎の多い天皇さんですが、お墓も多くの問題を孕んでいます。両方訪ねてみます。継体天皇陵のある茨木市、高槻市北方の山裾辺りは「三島野古墳群」と呼ばれ、多くの古墳が残っている。時間があれば幾つか訪れてみたい。

 太田茶臼山古墳(おおたちゃうすやまこふん)(茨木市)  


宮内庁が継体天皇陵だとする太田茶臼山古墳はJR総持寺駅(茨木市)の北約1キロの所にある。「NTTデーターセンター」という横にとてつもなくデッカイ建物が現れる。そこの角を右手の筋に入る。この東西に延びる筋は、どこにでも見られる住宅街にある普通の道路に見えるが、「西国街道」と呼ばれる由緒ある歴史の道です。京都から西国(下関、九州)へ至る重要な幹線道路だった。豊臣秀吉、明智光秀などが駆け抜け、江戸時代には参勤交代に使われ、街道沿いには多くの旅籠が設けられ賑わったという。

西国街道に接して継体天皇陵の正面拝所への入り口が見えます。江戸時代に松下見林、本居宣長、蒲生君平などが、ここが継体天皇の陵墓だ、と主張したことから、明治政府もそれを踏襲し「継体天皇三嶋藍野陵」(みしまのあいののみささぎ)に治定し、現在まで続いている。
参道は少し湾曲しているが、両側に松が植えられ、白砂利が敷き詰められ、天皇陵の風格を漂わせています。

「日本書紀」に継体天皇の出自と即位事情がやや詳しく記述されている。その内容の大筋は以下のとおり。


近江国高島郡三尾(現在の滋賀県高島市近辺)の彦主人王(ひこうしのおおきみ)は、大変美人であると評判だった越前国三国の坂中井の振姫(ふるひめ)を妻とし迎え子を儲けた。その子が後の継体天皇で、「男大迹」(をほど)と呼ばれた(古事記では「袁本杼」)。
男大迹が幼い時に父が死去してしまったので母の振姫は「親族のいない国では育てることはできない」といって、自分の故郷である越前国高向(たかむく、現福井県坂井市丸岡町高椋)に連れ帰り、そこで育てられ、「男大迹王」として5世紀末の越前地方を統治していた。男大迹王は父系から「応神天皇5世の孫」、母の振姫は「垂仁天皇の七世の孫」だという。

大和政権では、武烈8年(506)に武烈天皇が崩御する。跡継ぎがいなかったため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人ら有力豪族らが協議し、越前国三国(古事記では近江)にいた応神天皇から5代目の子孫にあたる男大迹王を皇位継承者として迎えることにした。男大迹王は最初は躊躇したが、説得に応じて即位を決意、507年河内国交野郡の樟葉宮(くずはのみや:大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地)に入った。これが第26代継体天皇(けいたいてんのう、在位:507-531)で、時に58歳だった。さらに同年、大伴金村の進言により、仁賢天皇の皇女で武烈天皇の同母姉である手白香皇女(たしらかのひめみこ)を正妻にする。継体は即位以前に稚子媛(三尾)、目子媛(尾張連出、安閑天皇・宣化天皇の母)などを妻としていたが、手白香皇女が王妃的な地位に就く(後の皇后にあたる)。

その後、宮を筒城宮(511年、つつきのみや:現在の京都府京田辺市)、弟国宮(518年、おとくにのみや、現在の京都府長岡京市)を経て526年にようやく大和の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現材の奈良県桜井市池之内)に遷った。この記録が事実とすると、即位20年後に大和に入り、その5年後には崩御している。



上述の日本書紀の記述に対して、戦後天皇制のタブーが解かれると、いろいろな立場から解釈されるようになった。
一番過激なのは新王朝論です。継体天皇は近江、越前辺りを基盤とする一地方豪族にすぎず、力によって王権を奪取し、古来の天皇とは血統のつながらない新王朝をつくった。仁賢天皇の娘・手白香皇女を正妃にすることで「手白香命と合せて、天下を授け奉りき」(古事記)とあるように入り婿的な王位継承によって今までの皇統との継続性を保とうとした。「応神天皇5世の孫」というのは、神武天皇から始まる万世一系という考え方に基づく「日本書紀」編纂の時に作為されたものだ、と考える。この新王朝論に基づけば、現在まで続く皇室の始祖は継体天皇ということになります。

「応神天皇5世の孫」だったとし、前王権からの血統の継続性を認める考え方もある。左の血統図は今城塚古代歴史館に掲示されていたもので、応神天皇から継体天皇にいたる5世の系譜が具体的に示されています。日本書紀、古事記では応神から継体に至る中間の系譜は全く記されていない。ところが「釈日本紀」(しゃくにほんき、鎌倉時代末期に卜部兼方によって書かれた「日本書紀」の注釈書)の中で、「上宮記曰く、一に云ふ~」の形で左図のような系譜が引用されているのです。「上宮記」そのものは散逸し残っておらず、またいつ誰が書いたものかなど分かっていないが、文体の分析によって日本書紀より古い遺文である可能性が指摘されいます。しかしこの「上宮記」の内容の信憑性や実際の血統についても意見が分かれています。

中間的な説もあります。「応神天皇5世の孫」はともかく、近江、越前、尾張、美濃、摂津などの地方に勢力をもっていた旧大王家の血筋につながる傍系の王族だった。大和政権の内部事情によって、大伴氏、物部氏などの大和政権中枢の諸豪族たちは継体を迎え入れることによって大和政権の勢力拡大をはかった、と考えるのです。武力による王位簒奪のようなものではなく、大和政権側からの吸収による擁立だった、とするのです。即位から大和の磐余玉穂宮に入るまで20年近くかかっていることから、大和の豪族の中には反対する勢力もあったようです(葛城氏?)。決め手となるような史料はなく、「謎の継体天皇」と云われるほど、その出自、系譜、即位などには今なお不明な点が多い。

継体天皇が大和の磐余玉穂宮に入った翌年(継体21年、527年)、「磐井の乱」が起こる。筑紫の豪族磐井は五世紀半ば以降九州北部・中部に勢力圏を形成し、大和政権に反発する動きをみせていた。継体天皇は大和に入り政権基盤を確立すると、物部氏、大伴氏の軍を九州に派遣し、磐井征伐を実行に移した。この鎮圧に成功したことによって継体政権はより一層強固になり、地方への支配権を強めていった。

磐井の乱を制圧した数年後、継体天皇は病にかかり崩御する。。
「日本書紀」は「二十五年の春二月に、天皇、病甚(おも)し。丁未に、天皇、磐余玉穂宮(いはれのたまほのみや)に崩りましぬ。時に年八十二。冬十二月の丙申の朔庚子 に、藍野陵に葬りまつる。」と記す。治世25(西暦531)年崩御、82歳だった、という。
「古事記」には「天皇の御年、肆拾参歳。丁未の年の四月九日に崩りましき。御陵は三島の藍の御陵なり」とある。43歳で、丁未の年(西暦527年)に崩御された、となっている。そうであれば「磐井の乱」の年に死去したことになる。

継体天皇は地方で生まれたので、生年日の記録が残っていない。崩御年と歳から逆算すると、「日本書紀」では允恭天皇39年(西暦450年)生まれ、「古事記」では西暦485年生まれとなる。「日本書紀」と「古事記」で年齢が倍も違う、これも謎・・・。
両書で共通なのは「藍(あい)」に葬られた、ということ。、古来このあたりを「あい」といい、「阿為」、「安井」、「阿威」、「阿井」など表記がいくつかある。「藍」もその一つで、この地域が島上郡と島下郡に分かれる前の広範囲の地名。継体天皇陵の宮内庁による正式名称は「継体天皇三島藍野陵(みしまのあいののみささぎ)」。現在でも、この辺りには「藍野」という名前が散見される。

「日本書紀」には春二月七日に亡くなり、同年十二月五日に埋葬された、とある。これほど大きな陵墓を短期間で築造できないので、生前から準備していたものと思われます。

この陵墓の学術的古墳名は「太田茶臼山古墳」。「茶臼山古墳」という名前の古墳は全国に沢山ある。私の家の近くの天王寺公園内にもあり、真田幸村古戦場として知られています。古墳の形が茶臼に似ているところから名付けられる。ところで茶臼ってどんな形・・・?。ここは三島の太田村にある茶臼山古墳です。
ところで茶臼の形をよく見てみたいのだが、周囲は頑丈な金網が張り巡らされ近づけない。周囲を歩いたが、墳形を眺めれる場所は二か所しかありませんでした。その一箇所が前方部の西角にある公民館図書館の前(空中写真のB地点)。金網越しに、前方部西側の周濠の一部を見ることができます。満々と水を貯えているようです。公民館図書館の二階からよく見えるのでしょうが、あいにく早朝のため閉まっていた。

墳丘を見渡せるもう一箇所は、前方部東隅の藍野短期大学の北東角(空中写真のA地点)。ここから少し入り込み金網の上から、古墳東側の墳丘と濠を見ることができます。
古墳東側の南半分は住宅が無く、金網をとおして墳丘が見えている。事前にGoogleの空中写真を見た時、外堤に入り周囲を一周できると期待していました。しかし外堤の外側から高い金網で囲まれ、期待は見事に裏切られました。他の天皇陵も同様ですが、何故これほど人々から隔離しなければならないでしょうか?。せめて外堤くらいは歩かせてほしいものです。現皇室の始祖かもしれない、というのに全く親近感がわきません。

金網の隙間にカメラを差し入れ撮りました。太田茶臼山古墳の東側墳丘と周濠です。
太田茶臼山古墳は、墳丘全長226m,後円部直径135m,高さ19m,前方部幅147m,高さ20mの前方後円墳で、その大きさは全国第21位。墳丘は三段築成で,また後円部と前方部が接する所の両側くびれ部に造出しをもつ。周囲に幅28~33mの盾形の一重の周濠が巡り、その外側には幅約30mの周堤が巡らされている。

これもカメラを差し込み、前方部を撮ったもの。左側木立の中央に正面拝所が設けられている。

昭和61年(1986年)、宮内庁が外堤護岸工事のため事前発掘調査をしたところ外堤の内側から円筒埴輪の破片が沢山見つかった。この埴輪の分析から、太田茶臼山古墳の築造時期が5世紀中頃であることが判明したのです。継体天皇の没年は6世紀中頃とされているのだが・・・謎です。かねてよりこの古墳を継体天皇陵とすることに疑問を抱く研究者が多かったが、この築造時期が判明したことで「被葬者は別人」だということが確定的となったのです。現在、被葬者を継体天皇だとするのは宮内庁だけとなっている。それでは真の被葬者は誰か?。継体天皇の父・彦主人王、曽祖父に当たる意富富等(オホホド)王、さらに曽曽祖父の椎野毛二派王など、諸説あるが謎のまま。

継体天皇陵の問題は、平成24年(2012)の国会でも取り上げられた(民主党・野田内閣)。その時の答弁は「発掘調査等の成果に基づく諸説については承知しているが、宮内庁としては、治定を覆すに足る確実な資料を得るには至っていないと考えている。」でした。江戸時代以前の天皇陵で「確実な資料」が得られる天皇陵など一つも無い。それでも宮内庁は初代神武天皇から現代まで、全ての天皇陵を治定しているのです。

天皇陵の全体像はGoogle Earthで空中から見るしかありません。空から見ると整然とした前方後円墳の形をしている。この土地は民有地だったが、明治の初めに買収され大改修により立派な陵墓に整形された。それ以前はどのような姿をしていたのでしょうか?。
古墳周辺には幾つかの陪塚(ばいちょう)が見られます。陪塚とは大型古墳の被葬者の親族や臣下を埋葬したり、被葬者のための副葬品を埋納したもの。

古墳の東側に「くすのき公園」という小さな公園があり、この中に陪塚がある(空中写真の1)。宮内庁管理なので柵で囲まれ、陪冢を示す石柱が立てられています。墳丘長約28mの前方後円墳だったようですが、現在は径10m位の円形にしか見えない。前方部・周溝から円筒埴輪片・人物埴輪片(腕部)が出土しているそうです。
空中写真の2,3,4も陪塚です。

太田茶臼山古墳北側の名神高速道路を潜り抜け、東へ100mほどの所に「二子山古墳」がある。宮内庁により継体天皇陵の陪冢に指定され、柵で囲まれ石柱が建つ。一部が高速道路の下にくい込んでいるように見え、一般道は古墳を避けるように大きく迂回させられている。ガードレールが設置されているのは、直進し突っ込む車があるからでしょうか。宅地造成、道路建設などで多くの古墳が消滅している中で、こうして残された幸せな古墳です。皇室をバックにした宮内庁の力を見せつけられます。
全長40m、後円部(高速道路側)直径20m、前方部幅30mの前方後円墳だったようです。5世紀後半頃の築造と推定され、葺石・各種埴輪が出土している。

 今城塚古墳(いましろづかこふん、高槻市) 1(墳丘)  



(古墳南西角から南側墳丘と内堤を撮る)太田茶臼山古墳から西国街道を東へ1.5キロほど行けば今城塚古墳があります。現在、宮内庁を除いてほとんどの学者、研究者が継体天皇の真の墓だとしている巨大古墳です。宮内庁による陵墓治定されず陵墓参考地ともなっていないので、継体天皇陵だとしたら全国に多くある天皇陵の中で墳丘に自由に出入りでき、発掘調査が可能な唯一の天皇陵となる。


■★・・・ 歴史 ・・・★■
今城塚古代歴史館に「今城塚古墳の歴史」という年表が掲載されている。それを参考にしながら今城塚古墳の歴史について整理してみます。

・531年(継体25年)、継体天皇は病にかかり崩御する。墓について、「古事記」は「三島藍野陵」、「日本書紀」は「藍野陵」と記載。
・927年(延長5年)、平安時代の法典「延喜式」に継体陵は「三嶋藍野陵」で、摂津国島上郡の所在とある。
・平安時代末期の歴史書「扶桑略記録」に「三島藍野陵」は摂津国島上郡とある。
・1200年(正治2年)、「諸陵雑事注文」に「摂津島上郡継体天皇」と記載が見える。
・1288年(正応元年)、西園寺公衡の日記「公衡公記」に「島上陵の墓荒らしの犯人逮捕」の記事が書かれている。
これらから継体天皇陵の場所は「摂津国島上郡」だったことがわかる。当時の地名からすると今城塚は島上郡にあり、太田茶臼山は島下郡だった。だから今城塚古墳のほうが天皇陵と見なされていたようです。
(右の写真は昭和30年頃の今城塚古墳、今城塚古代歴史館掲載の写真より)
ところが応仁の乱後、戦国時代に突入、この頃から継体天皇陵は不明となってしまい、記録から消えてしまいます。今城塚古墳は、戦国時代の武将三好長慶(1522-1564)が城を構えたことから大きく変形された(織田信長説もあり)。「今城塚」の名は城だったことからくるようです。さらに追い打ちをかけるように1596年(文禄5年)に慶長伏見大地震が発生。地震の地滑りで、墳丘の盛り土の多くが崩落し、内濠の大半が埋没してしまった。埋没した内濠は田畑に利用され、崩れた墳丘は平べったい丘のようになってしまう。江戸時代元禄期になり陵墓に対する意識が高まり、幕府による陵墓の探査が行われた。それに対して高槻藩は「継体陵はない」と幕府へ報告している(1697年)。崩れ変形してしまった今城塚古墳は、ただの小山にしか見えなかったのでしょう。

・1696年(元禄9年)、松下見林(儒医・歴史学者、1637-1703が「前王廟陵記」で、初めて太田茶臼山古墳を継体天皇陵だとの見解をだす。
・1798年(寛政10年)、本居宣長(国学者、1730-1801)は「古事記伝」を完成し、この中で「嶋上は嶋下の写し誤れるか」として太田茶臼山古墳を継体陵と推断している。
・1808年(文化5年)、蒲生君平(儒者で尊王家、1768-1813)も「山陵志」で太田茶臼山古墳とした。
尊王の立場から、崩れた今城塚より、地震の影響を受けず山稜の姿を残していた太田茶臼山の方を注目したものと思われます。以後これが定説となり、明治政府もこれを受け継ぎ太田茶臼山古墳を正式な継体天皇陵として追認し、大規模な修陵が行われた。政府のこの方針は戦後の現在まで続いているのです。

しかし大正時代に入り、島上郡でない太田茶臼山古墳を継体天皇陵とすることに疑問を抱き、今城塚に注目する人も現れだします。戦前の1940年頃に設けられた臨時陵墓調査委員会で、今城塚を「陵墓参考地に編入すべし」との答申も行われている。
・1958年(昭和33年)、国は、日本の歴史を跡づけるかけがえのない貴重な文化財として今城塚を史跡に指定
・1970年(昭和45年)、高槻市は今城塚の土地公有化を開始し、大阪府や国の援助を受けながら買い上げ作業が始まる。
・1985年(昭和60年)、史跡公園をめざす整備基本計画を策定
・1997年(平成9年)、史跡の保存と整備のための発掘調査を開始する(~平成18年)。出土した埴輪の年代考証から6世紀前半築造の古墳と判明し継体天皇の没年とも合致する。5世紀中頃築造の太田茶臼山古墳では継体天皇の没年と合わず、築造時期や地名の考証によって今城塚古墳が継体天皇陵であることが確定的となった。
・2004年(平成16年)、史跡公園としての古墳整備工事が始まる(~平成23年)
・2011年(平成23年)4月、今城塚の史跡公園を一般に公開し、「今城塚古代歴史館」も同時オープンした。

(Google Earthより)(A:西国街道、B:埴輪祭祀場、C:(1F)トイレ・(2F)展望バルコニー、D:今城塚古代歴史館)
墳丘長:192m、後円部直径100m、二重の盾形周濠が囲う。内濠、外濠を含めた兆域は全長350m、全幅340もの大きさをもつ前方後円墳。墳丘が崩れてしまっているので詳しい高さは不明だが、前方部は二段。後円部は三段に築かれ、斜面には葺石が施されていた。ただし、埋葬施設のあった後円部三段目は崩れてしまい現在は無くなっている。

荒廃していた今城塚古墳は高槻市により7ヵ年の歳月をかけて整備・復元された。事実上天皇陵でありながら、宮内庁により天皇陵治定されなかったため、自由に手を加えることができたのです。2011年(平成23年)4月、今城塚古墳公園と今城塚古代歴史館の2つをあわせて「高槻市立いましろ大王の杜(だいおうのもり)」の名称でオープンしました。「継体天皇の杜」と断定できないところに高槻市の苦渋を感じます。
墳丘には自由に立ち入ることができ、内濠は芝生が植えられ芝生公園となっている。中堤は復元され、古墳の周りを一周でき、散歩・ジョギングなどに最適な環境が提供されています。空中写真で見れば完全な前方後円墳なのですが、公園の中にいると古墳だという感覚が全くしない。随所に配置されている埴輪を見て、ここは古墳なのだなァと感じさせられるだけです。

墳丘には何カ所か入り口が設けられている。まず最初に後円部に入ってみます。高さ10mもないくらいの小山で、内部は雑草と樹木が生い茂り、その中を数本の山道(散策路)が通っている。所々に古墳の説明パネルが設置されているだけで、それ以外に古墳を暗示するようなものはありません。
(左は平成19年(2007)3月2日産経新聞)(上は平成19年(2007)3月2日毎日新聞、緑色の部分が現在残っている後円部)
この後円部北側で、平成18年(2006)発掘調査が行われ、墳丘二段目上の大規模な石組み遺構「石室基盤工」が見つかった。地震による地滑りで約4m崩れ落ちたが、ほぼ原型をとどめていた。東西18m、南北11mにわたり一辺20~40cmの河原石や板石が敷き詰められていたのです。これは墳丘三段目に設けられた重い横穴式石室が沈み込まないように下から支えるための基盤工と判明。現在は失われてしまっているが、石室を覆う三段目の墳丘が存在したことが明らかになった。

また周辺から石室に納められた家形石棺の破片が見つかっている。破片は産地が異なる三種類あるのです。熊本県宇土市近辺の阿蘇溶結凝灰岩のピンク石、兵庫県高砂産の竜山石(大王家の棺材として多く用いられてきた)、二上山の溶結凝灰岩の白石。このことから三つの石棺が埋葬されていたことがわかる。他の二つの石棺の被葬者は誰でしょうか?。いまだに分かっていない。
(右は「葺石と排水溝の出口」今城塚古代歴史館展示写真より)盛り土に浸透した雨水を外へ流す排水溝も設けられていた。墳丘の盛り土の内部に石積みの排水溝を築き、ここから古墳の外へ伸ばし、雨水を外へ流している。

後円部から前方部へ歩きます。木立と雑草に覆われた山中と同じで何もありません。立ち入り禁止場所など無いが、所々、道脇にロープが張られている。入り込むと危険な箇所なのでのでしょう。見るべきものが無い墳丘内なので、ほとんど人は見かけません。墳丘の外では声が飛び交っているのですが。
内濠、堤、外濠は公園化のため大きく手が加えられ元の姿からは大きく変わってしまっているが、墳丘そのものには手が加えられておらず、元の姿のままのようです。

 今城塚古墳 2(内濠・内堤・外濠)  




前方部南西隅から墳丘を出て、これから内濠部分を歩いてみます。

まず目にするのは「造出し」(つくりだし)。前方後円墳の両側くびれ部(前方部と後円部の接合部分)に設けられた四角い突出箇所です。ここで供物を捧げるなどの儀式がおこなわれた。写真は南側の造出し。地滑りの崩落した土で埋もれていたが、発掘で見つかり復元された。

墳丘南側。手前が後円部。内濠は崩落土を撤去し、芝生がはられ市民の良い遊び場となっています。幅4~50mあるので球技などのスポーツも楽しめます。常時開放されており、これほどのびのびと遊べる所はそうありません。皆楽しそうに遊んでいるが、どれほどの人が天皇陵かもしれない前方後円墳、と意識しているでしょうか?

墳丘北側。くびれ部に北側の「造出し」が見えます。

公園化のため2005年(平成17年)に周濠の水抜きが始まったが、前方部を囲むように水を貯えた内濠が残された。この領域だけが前方後円墳の姿を見せてくれます。その上整然と並べられた埴輪列が古代を感じさせてくれる。

南側の内濠と内堤。堤は幅20~30m位あり、古墳を一周できる。1周約950mで、ジョギングにちょうど良いかも。

南側の内堤の外側。外濠と外堤がある。外濠も芝生広場となっており、古墳を一周している。外堤は、住宅や道路となっており、ほとんど無いに等しい。

墳丘北側の内堤。両側にびっしりとレプリカの円筒埴輪が並べられている。説明版に「古墳を何重にもとりまく円筒埴輪列は、聖域をあらわす垣根であり、邪悪な霊などを立ち入れなくする結界です。内堤の上面には内外2列、そして墳丘の各テラスや墳頂部の外縁にも円筒埴輪がめぐり、その総数は約6000本と推定されています」とある。

今城塚古墳で最も注目されるのが埴輪祭祀場(はにわさいしば)です。2001年(平成13年)、北内堤中央部の張り出しで、200体以上の形象埴輪が整然と配置された姿で見つかった。この場所は、古墳の完成後に内堤を外濠側に突き出した形で盛り土し、長さ65m、幅10mの張り出し部が設けられていた。

埴輪祭祀場は、門の埴輪を中央に配した柵形埴輪列で区切られた4つのゾーンに分けられ、動物埴輪(馬、牛、鶏、水鳥など)、人物埴輪(巫女、力士、武人、楽人、鷹飼いなど)、家、太刀、盾など200個以上の形象埴輪が配列されていた。これは大王の死にかかわっておこなわれた儀式の様子を再現するために設けられたと考えられている。これまで見つかった埴輪祭祀場で最大のものだそうです。

現在同じ場所に、実物大の埴輪のレプリカが並べられ、当時の祭祀の様子が再現されています。これだけ多くの種類の埴輪が一箇所で鑑賞できるのは日本でここだけではないでしょうか。実物の埴輪は「今城塚古代歴史館」に展示されています。

古墳を一周する堤に三箇所のトンネルがくり抜かれ、外濠から内濠へ直結している。写真は墳丘北側のトンネルです。トンネル内の壁面に堤の断面が見られる。「現在地は、江戸時代に内堤を崩して水路を通していた場所です。発掘調査の結果、古墳築造時の地面がみつかり、この付近では約2mの盛土をして内堤を築いていたことがわかりました。盛土は、下の方に黒灰色系、上の方に黄灰色系の土を用い、縁から内側へ敷きならすようにほどこされていました」と説明されている。

これはトンネルを抜けた北側の外濠で、堤の上に埴輪祭祀場が見える。右側の茶色の建物が、トイレ兼展望所。本来は外濠を囲むように外堤があったのですが復元されていない。そのため濠のようには見えません。
前方後円墳の墳丘を取り囲む、内濠、堤、外濠はよく整備され、市民の憩いの場、遊び場として開放されている。ボール投げをしたり、走ったり、シートを敷いて団らんしたり、寝転んだり・・・。「天皇のお墓だ」という難しいことは考えず、皆さんそれぞれ楽しんでいます。宮内庁は「天皇の静安と尊厳」を損なうと言うだろうが、これが国民に開かれた天皇陵の姿だと思う。墓室のあった領域だけを立ち入り禁止にし、それ以外は国民に開放したら良いのです。

こちらは墳丘の西側、即ち前方部の外濠。外堤が復元され、濠だという形がよくわかります。

宮内庁が継体天皇の陵墓とする太田茶臼山古墳はどうでしょうか。堤の外側から堅固な柵で囲い、立ち入るどころか、墳丘の姿さえよく眺めることができないようにしている。国民から隔離し遠ざけることで、天皇の、皇室の威厳を高め、君が代が「さざれ石のいわおとなりて苔のむすまで」八千代に強固になることだと考えているのでしょう。天皇陵の「静安と尊厳」など、墓泥棒によってとっくの昔に失われているのです。
今城塚古墳を見て、世界遺産に登録された古市古墳群にある津堂城山古墳という巨大な前方後円墳を思い出しました。明治時代に竪穴式石室と巨大で精巧な長持形石棺が発見され注目されました。宮内庁は、石室が見つかった後円部の一部だけを允恭天皇を被葬候補者に想定した「藤井寺陵墓参考地」に指定し、柵を設け立ち入り禁止にしている。それ以外の前方後円墳の大部分は藤井寺市によって公園化され市民に開放されています。「国民に開かれた天皇陵」の例を、この津堂城山古墳に見ました(ココを参照)


北側の外濠にあるトイレ。二階が展望台バルコニーになっており、墳丘全体を見渡せる。墳丘は平べったい丘にしか見えず、前方後円墳というイメージは浮かんできません。城で、地震で崩れた影響でしょう。堤の埴輪祭祀場は全体がよく眺められます。









展望台バルコニーから北側に向かって通路が設けられ、「今城塚古代歴史館→」の標識が見えます。この通路を100mほど行けば今城塚古代歴史館です。







 今城塚古墳 3(今城塚古代歴史館)  



平成23年(2011)4月にオープンした古代体感ミュージアム。今城塚古墳だけでなく三島古墳群の説明もある。入館無料、ただし名前、住所などの記入を求められます。
開館時間:午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日:月曜日、休日の翌日、年末年始(12/28-1/3)

今城塚古墳から発掘された埴輪や土器などがメインに展示されている。その他、阿武山古墳、安満宮山古墳、昼神車塚古墳などの解説・展示もあります。また古墳造りの様子を表した立体模型やそれを映像でも解説してくれる。

手前から、二上山白石、阿蘇ピンク石、竜山石の石材を使った三つの家型石棺の模型です。

左の朝顔形埴輪は、高さ約130cmで、後円部では円筒埴輪4本ごとに1本、前方部や内堤ではコーナーに1本ずつ置かれていた。
多くの円筒埴輪には、上部に船絵がヘラ描きされていた。三日月形の船体に二本のマストを立て、船体の右端から下へ二本の錨綱がたれ、帆をおろして停泊する帆船を描いたとみられます。この近くには港があり、淀川水系を使い西方と往来していたことを示している。

家型埴輪は、円柱を使った高床式で、入母屋式の屋根をもつ。屋根には、千木(ちぎ、屋根の両端に交差させて突き出た木)や、堅魚木(かつをぎ、棟木の上に並べた円棒)が配され、神殿の形をしています。
「鷹飼人」(たかかいびと)と両手を掲げた「巫女」(みこ)の埴輪。こうした埴輪は、この後訪れる近くの「新池埴輪製作所跡」で制作されたものです。

これは展示室前のロビーに置かれていた「今城塚古墳の阿蘇ピンク石製の石棺片」の実物。



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