山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

馬見古墳群 南から北へ 2

2020年11月21日 | 古墳を訪ねて

★2020年10月27日(火曜日)
馬見丘陵公園の南の入口から入り、北に向って散策する。古墳も楽しめるが、お花一杯なので歩きつかれた疲労も癒されます。

 馬見古墳群と馬見丘陵公園  


★★ 馬見古墳群(うまみこふんぐん) ★★
奈良盆地西部に,馬の背の形をしているということから「馬見(うまみ)丘陵」と呼ばれる標高70~80mの低い丘陵地がある。南北約8キロ・東西約3キロと南北に長く,香芝市・大和高田市・広陵町・河合町など2市3町にまたがっている。この丘陵の東辺部を中心にして,墳長約200mを超える大型前方後円墳4基を含め古代の大小さまざまな約230基の古墳が集中しており「馬見古墳群」と呼ばれています。この中には第23代顯宗天皇,第25代武烈天皇の陵墓参考地も含まれている。大和盆地でも代表的な古墳群で,4世紀から6世紀にかけて造営されたと推定されている。

馬見古墳群は大まかに南群,中央群,北群の3つの地域に分けられる。南群は馬見丘陵公園より南に位置し,狐井城山古墳,築山古墳,新木山古墳などを含む。即ち,今まで歩いてきた所で,東に行ったり西へ行ったりかなり広範囲にわたる。中央群・は,現在公園となっている範囲で,これから周る予定。北群は馬見丘陵公園をはずれ北側に位置する。大塚山古墳,島の山古墳という大きな前方後円墳に代表されます。
馬見古墳群は,古代豪族の葛城氏の本拠地に近いことから関連が考えられるが,確証はない。

「馬見」の名前の由来について、奈良県公式サイトに「その昔、当丘陵地は馬の放牧地として利用されていた。その名残として現在、上牧や下牧の地名が残っている。丘陵内には南北に高田川・佐味田川・滝川・葛下川の4河川が流れているが、それぞれの河川の囲まれたエリアの地形が馬の背の形をしている。聖徳太子が法隆寺を建立する際、明日香から馬に乗り、四方の景色を見ながら通った」の三つの説があると記されている。

★★ 馬見丘陵公園 ★★

馬見古墳群が広がる馬見丘陵周辺は,戦後の高度成長期を経て昭和40年代後半より大規模宅地開発が進み,真美ヶ丘ニュータウンや西大和ニュータウンなどが造られていった。奈良県はこうした開発から自然と古墳を守るため昭和59年(1984)に公園化を決定。奈良公園に次ぐ県内二番目の広域公園です。

南北に長く,とにかくでっかい。古墳があるから起伏に富み,池あり森あり芝生あり,なんといってもすごいのが花壇だ。四季折々の多様な花が植えられている。子供が遊べる大型遊具施設もあり,これほど変化に富み見どころの多い公園を他に知らない。池のほとりのベンチで余生をのんびり過ごすおじいさん,花に夢中になっているおばさん,バードウォッチングで鳥の出現を待つおじさんたち,のんびり散策する人,ウォーキングに汗かく人,古墳の上で古代に思いをはせる(?)人,芝生で弁当広げる人・・・。平日なのだが多くの人が楽しんでいる。広いのでソーシャルディスタンスはしっかりとれます。

(写真は乙女山古墳と花壇)奈良県の公式サイトに月ごとの花情報を知らせてくれる。2020年 馬見花だより

馬見丘陵公園で特筆すべきなのは、お金を使う必要がない、というよりレストランを除いて使うところがないのです。入園無料、駐車場無料、遊具場無料、公園館入館無料・・・、自動販売機も公園館横を除いて見あたりません。お金が使えない、その分足を使います。
広い公園内は、樹木・芝生・植込みなどよく手入れされて整然としている。ゴミも落ちてない。ゴミ箱自体が置いてない。園内に沢山ある広い花壇もビックリするほどよく手入れされている。
公園の広さから考えて維持管理費用はかなりのものと思われます。この費用はだれが負担しているのでしょうか?。県営なので奈良県としか考えられない。奈良県の懐の大きさに感心させられます。

余談になるが、大阪を代表する天王寺公園はどうか。数年前まで、150円の入園料を取っていたので、都心にありながら誰も利用しない。園内にいる人より、園外の道を歩いている人のほうが多い、という惨状だった。手をやいた大阪市は、数年前に近鉄に管理を丸投げする。近鉄は、アベノハルカスの前庭、全面芝の無料「てんしば公園」に作り変えた。無料だけに入園者は増えた。しかし近鉄はボランティア企業でないので、損をするわけにはいかない。園内に金儲けの施設を造り始めた。かって桜見物で賑わった場所にはドッグショップ、レストラン、食品販売所が、花壇があった場所は有料フットサルコート3面に、熱帯植物ホールは取り潰されバーベキュー店などに。西側の空き地も、現在整地され工事用の塀で囲まれている。何ができるのだろう?。かっての公園の三分の一が消え、有料施設になってしまった。
大阪市など無くしてしまえ、というのも頷ける。

竹取公園と車道を挟んで反対側に馬見丘陵公園の南の入口がある。ここから公園に入り、公園内を南から北へ散策しながら古墳と花壇を楽しんでいきます。

 三吉2号墳・ダダオシ古墳  




馬見丘陵公園に入り、右側を見ると芝生広場が広がっている。土盛りで傾斜をつけられ、寝転べば心地良さそうだ。案内によれば、芝生広場でなく復元された「三吉2号墳(みつよし2ごうふん)」でした。芝生面は、申し訳程度の低い柵で囲われ、入ってはいけないようです。

前方部を北に向けた四段築成の帆立貝式古墳。個人の住宅が建ったり果樹園、道路などで墳丘は一部破壊を受けていたが、公園整備事業の事前調査で、全長約90m、後円部径78m、高さ4.7m、前方部幅41.2mの規模と判明した。また、墳丘の周囲には幅7mの周濠があり、さらに外側には幅8mの堤が確認され,円筒埴輪などが採取されている。
現在,盛土などで失われた部分を補修し,公園敷地として取り込まれ復元整備された。階段がつけられ墳丘上まで登れるようになっている。墳丘の上は何もない広場となく、背後の古墳南側は復元されておらず雑木が茂っています。

墳頂から北側と東側は展望が開け眺めがよい。すぐ東側の巨大な巣山古墳もよく見えます。三吉2号墳は巣山古墳の陪塚だったのでしょうか?。
出土した円筒埴輪から巣山古墳に次ぐ時期、5世紀前半に築かれたようです。埋葬施設は不明だが、少数ながら円筒埴輪片、朝顔型埴輪片、家型埴輪片が出土している。墳丘に埴輪の配列がなされていたと考えられる。

公園入口を入って左に見える小山がダダオシ古墳。墳丘長約50m,後円部の径33m、高さ7m、前方部の最大幅は30~34m、高さ4mで,前方部を南に向ける前方後円墳です。説明版に「前方部南東に小石室が見つかった」とある。築造時期は6世紀初頭と推定されています。 東側で幅7mの濠と幅8mの外堤が確認され、周濠と外提を持っていたと考えられている。

 巣山古墳(すやまこふん)  



(墳丘の北側、右が後円部、左が前方部)大きすぎて全体がカメラに収まらない。国の特別史跡(昭和27年<1952>指定)になっており、立ち入ることはできません。

(馬見丘陵公園館に展示されていた立体模型)全長204m、後円部径108m、高さ25m、前方部幅94m、高さ21mの巨大前方後円墳。馬見古墳群の中で最大で,馬見古墳群を代表する古墳。
三段築成の墳丘で、斜面には礫石や割石で葺かれ、円筒埴輪も並べられていた。築造時期は、古墳時代の前期から中期へと移る過渡期、4世紀末~5世紀初頭と推測されている。

(前方部方向へ西側墳丘を撮る)墳丘の周囲は幅40m位の楯形の周濠が巡っており、さらに外堤で囲まれている。空中写真を見れば広い濠に水を貯えているのだが、公園から見える西側は水は少なく、雑草が茂った地面が現れていた。傍まで近寄れないので正確なことは分からない。また空中写真を見れば、堤から墳丘へ連絡する渡り土手が見られます。前方部と後円部が連結するそのくびれ部には祭祀を行う為の方形の造出しが見られる。

(ナガレ山古墳東側に設置された馬見古墳群の立体模型より)後円部に割石を積み上げた二基の竪穴式石室があった。前方部の先端にも方形の壇状の施設があって小型の竪穴式石室があったとみられている。いずれも明治時代の盗掘によって破壊を受けているが、長さ9.5cmの大勾玉(まがたま)や管玉(くだだま)と車輪石、石釧(いしくしろ)、鍬形石(くわがたいし)などの腕輪類、刀子(とうす)や斧などの祭祀用の石製品など多くの遺物が出土しており、現在宮内庁書陵部に収蔵されています。

(写真は前方部の西側の出島状遺構らしき跡)平成15年(2003)、前方部の西側で、墳丘から周濠へ張り出す出島状遺構が発見された。大きさは南北約16メートル、東西約12メートル,高さ1.5メートル程の規模で、二段に築かれ、葺石を施してた。そこからは水鳥形埴輪や家型、柵型、蓋(きぬがさ)形といった形象埴輪が数多く発掘され注目された。祭祀の場として造り出しがあるのだが、それとは別に何らかの祭祀が行われたと思われる。

また周濠の北東角から準構造船の部材が出土している。葬送の際に棺を載せて運んだ「喪船(もふね)」と考えられている。

被葬者はだれか?。縄張りに近いことから古代の有力豪族であった葛城氏が考えられるが、規模の大きさから大和王権の大王墓だという考えもあるそうです。

巣山古墳の前方部側に周ると花畑が広がり、白、赤、ピンクの花が一面に咲いています。コスモスです。パンフレットには「春まちの丘」と案内されている。

 佐味田狐塚古墳(さみたきつねづか)  



巣山古墳前方部の外堤北西隅に近接して佐味田狐塚古墳(さみたきつねづか)があります。現在、芝生を張った土盛り状に復元整備されている。
墳丘全長78m、後円部径55m、同高7m、前方部幅31m、同高5mの規模で、南側に前方部を向けた帆立貝式の前方後円墳。周囲に浅い空濠がめぐる。5世紀前半の築造と推定されている。

墳丘に登ると横断橋が架かっている。公園内を東西に横切る町道建設によって北側の後円部と南の前方部に真っ二つに分断されてしまったのです。
横断橋から見ると、片側2車線の車道に色がつけられた部分が橋の両側にある。これは墳丘の存在した範囲を示し、道路建設によって削り取られてしまった部分です。県、町はこうして償いの気持ちを表したのでしょうか。

横断橋を渡り、北側から後円部を撮ったもの。墳丘に植込みが配置されている。これは葺石をイメージしたものでしょうか。
道路工事に伴う発掘調査で、後円部から木棺を粘土で保護した粘土槨が確認され、鏡や鉄刀の破片などが出土している。

 カリヨンの丘  



佐味田狐塚古墳から東方にあるカリヨンの丘へ向う。なだらかな丘陵状になっている広場は「カリヨンの丘」と名付けられています。「カリヨン」って?。後で調べるとフランス語のようで「組み鐘。音の高さを異にする一組の鐘を配列したもの。手または機械で相互に打ち鳴らして奏する。16~17世紀のヨーロッパで教会や市庁舎に設置された」とあった。
丘の上の施設に時計と鐘が設置されており、1時間ごとにカリヨンの演奏が聴くことができ、季節ごと時間ごとに曲が変わるそうです。鐘が鳴るなんて知らなかったので、聴き漏らしました。

この時期、カリヨンの丘はほぼ全面に色鮮やかに紅葉したコキアが群生している。これは花でなく、別名「ホウキグサ」「ハナホウキギ」と呼ばれる草です。緑色から、秋になると紅葉しとても鮮やかで美しい赤に変化します。群生する光景は圧巻です。掃きホウキに使えそうな形を見せている。昔はこの茎を乾燥させてホウキを作っていたとか。ふんわりとした姿と柔らかな感触は花としてみても違和感が無い。コキアの丘にカリヨンの鐘の音が響くのを聴いてみたかった。

幻想的な雰囲気が漂うカリヨンの丘 に、古墳の墓(石棺)という全く場違いなものが置かれている。他に置きな所はなかったのでしょうか?。
丘の西側にある小屋に収められているのが北今市1号墳石棺です。ここから5キロほど西の香芝市北今市3丁目で見つかったもので、古墳はすでに消滅してしまっているが石棺だけが馬見丘陵公園内に移設されました。
建物の中にはベンチも置かれています。墓を眺めながら休息し、カリヨンの鐘の音に耳を傾ける・・・いいかも

公園の南エリアと中エリアをつなぐ歩道橋の下に置かれているのが北今市2号墳石棺。とりあえずここに置いとけ、といった感じだ。

 ナガレ山古墳  



次は公園の西側へ向い、馬見丘陵公園で一番注目を集めているナガレ山古墳へ行く。古墳といえば、普通は樹木が青々と茂る森や小山を想像してしまうが、築造当初の古墳はそんなものではありませんでした。ナガレ山古墳は、築造当初の姿に復元され、古墳とはこんなのだ、ということを私達に見せつけてくれます。

全長105m,後円部径64m・高さ8.5m、前方部幅70m・高さ6.2mの前方後円墳。前方部は二段、後円部は三段築造。墳丘全体に葺石が敷かれ、埴輪列がめぐっている。築造時期は、その形状や埋葬施設の構造,埴輪列から5世紀前半の築造と考えられています。

前方部から後円部方向を撮る。「ナガレ山」の名は、所在地の「河合町佐味田字別所下・ナガレ」という小字名による。地元では「お太子山」と呼んでいたようだが。

東側のくびれ部から前方部へ少し寄ったところで,墳丘裾の埴輪列に直交する2列の埴輪列が確認された。これは葬送の際に墳丘上へ登る通路ではないかと考えられている。

前方部の上から後円部方向を撮る。
埋葬施設について説明板に「後円部墳頂の埋葬施設は明らかでありませんが、盗掘の際に捨てられた土から勾玉など多くの遺物が出土しました。また、前方部墳頂にも埋葬施設があり、箱形木棺を粘土で覆った粘土槨です。木棺を覆った粘土の中に多数の鉄製品が埋納されていました。」とありました。

写真に見える前方部の楕円形図は、内側が「粘土槨」、外側が「墓壙」と表示されていた。

昭和50年(1975)から翌年にかけ土砂取りにより墳丘の一部が破壊さるという事態に。そこで昭和51年(1976)に国の史跡に指定され保存されることになった。昭和63年(1988)から発掘調査を行い、整備工事が行われ平成8年度(1996)に完成し、翌年5月から一般公開されました。
復元整備は築造当時の姿を再現することを目的に、墳丘全体に盛土を施し、墳丘を葺石で覆い、円筒埴輪が並べられた。

(後円部墳頂から撮る) 墳丘裾と中段を中心に600本以上の埴輪列が復元されています。円筒埴輪のうち、3割は公募により10歳から84歳まで125名の河合町民が手作りで粘土帯を積み上げて復元したもので、作った人の名前が刻まれているそうです。上部に丸いお皿のようなものが付いているのが朝顔型埴輪。また復元された葺石には、調査で確認されたニ上山山麓の安山岩や花崗岩が使われている。

後円部上から二上山や金剛山,葛城山などの山並みが見渡たせる。ここで休息を兼ねて古代の情緒に浸ってみるのもよいものです。

葺石や円筒埴輪列で復元されているのは墳丘の東縦半分だけ。反対側の西半分は芝生で覆われています。
出土遺物として、円筒埴輪・形象埴輪・石製模造品(刀子・斧・紡錘車形)・石製玉類・鉄製品(刀・剣・鏃・刀形・剣形・鋤先形・鎌形)・土師器・須恵器・水銀朱などがある。これらの出土品は河合町中央公民館に展示されているそうです(見学には事前の申し込みが必要)。

ナガレ山古墳東側の散策路を挟んだ反対側に、馬見丘陵公園内にある主な古墳の地形模型が展示されています。大変参考になる。

 倉塚古墳(くらつかこふん)・一本松古墳  





馬見丘陵公園の中央には上池と下池という二つの大きな池があり、その二つの池の間の散策路を通って池の東側に行けば倉塚古墳・一本松古墳だ。

ナガレ山古墳東側の置かれている古墳の地形模型より。倉塚古墳の前方部に接するように一本松古墳の後円部がある。(右側が北方向になる)

別名スベリ山古墳。元々経90m位の円墳と見られていたが、測量により前方部を東に向けた大きな前方後円墳だということがわかった。ただ古墳そのものは詳しい調査が行われていない。出土した円筒埴輪の特長から5世紀前半頃の築造と推測されている。

倉塚古墳も公園整備により樹木が伐採され、全面に芝生が植えらている。緩やかな木製階段が設けられ、墳頂まで登れます。古墳の上だという感じは無く、この芝生の丘で寝転びのんびり休息するのにちょうどよい。
前方に一本松古墳のふくらみも見えている。

散策路を挟んで倉塚古墳の北側に見えるのが一本松古墳。「倉塚北古墳」と呼ばれていたが、地元で「一本松山」と呼ばれていたことから「一本松古墳」となった。
前方部を北東に向けた全長130m、高さ12mほどの前方後円墳。発掘調査で周濠の一部と堤が確認されたが、
奈良時代の土器が多量に出土していることから周濠は奈良時代に埋められたと思われる。築造された時期は、埴輪棺墓に使用された埴輪から倉塚古墳より古い4世紀末頃と見られています。
一本松古墳の後円部南東に接する形で、一辺12mの方墳「一本松2号墳」も見つかっている。

後円部上から前方部を眺める。墳丘は樹木が部分的に伐採され、 墳形が分かりやすいように整備されています。
埋葬施設については、東側外堤から埴輪棺墓と土坑墓が検出されているが、副葬品は無く詳細は不明。


詳しくはホームページ

馬見古墳群 南から北へ 1

2020年11月13日 | 古墳を訪ねて

★2020年10月27日(火曜日)
またお墓参りだ。今度は奈良盆地西南部、法隆寺南方5キロほどに位置する馬見古墳群(うまみこふんぐん)です。南北に長い馬見丘陵を中心に、4世紀後半から6世紀にかけて築造された古墳が散在している。大和盆地でも有数の古墳群です。中央に位置している馬見丘陵は「県営馬見丘陵公園」として整備され、広い広い公園内は自然と花と、そして古代のお墓を楽しめる(?)素敵な場所となっている。

どこから攻め込むか思案した結果、近鉄大阪線・五位堂駅近くの狐井城山古墳から出発し、東西にジグザグしながら北上し馬見丘陵公園に入る。公園を楽しんだ後、さらに北上し大塚山古墳、島の山古墳まで行きます。かなり広範囲なので、途中で断念することも考えていました。馬見丘陵公園は、私が今までに訪れたなかではトップクラスの公園だった。たくさんのお花が咲きほこっているが、開花時期を調べて訪れることをお勧めします。
総歩数<58588歩>、<43.9km>、<2232cal>

 狐井城山古墳(きついしろやまこふん)  


近鉄大阪線・五位堂駅に着いたのは朝6時過ぎ。まだ薄暗く、出勤時間前なので人も見かけない。最初の目的地・狐井城山古墳(きついしろやまこふん)はこの駅から西へ、歩いて30分位の所にある。住宅路を西へ西へと歩く。
狐井城山古墳が見えてきました。古墳に接近できる場所を探す。古墳東側に住宅の間から堤に通じる道を見つけた。堤は枯れ草が刈り取られ、なんとか這い登れました。

堤の上は、道は無いのだが草が刈り取られているので歩けます。古墳の東側から後円部を撮った写真。全長約140m、後円部径約90m、後円部高さ10m、前方部幅約110mの前方後円墳。前方部は北東に向く。幅18mといわれる周濠は満々と水をたたえています。5世紀後半~6世紀前半の築造と推定されている。
遠くに見える山並みは、葛城山、金剛山。

堤の上は、後円部辺りで行き止まりだが、前方部の方向へは正面まで歩ける。前方部の前は、少し広い空き地になっている。この空き地から北側の住宅路に道が通じていた。

古墳の西側は車道で、濠を挟んで墳丘が丸見えだ。ただし2m以上のフェンスで囲まれている。戦国時代に城があったことから「城山古墳」と呼ばれたが、全国に同名の古墳が多いことから、地名を付けて「狐井城山古墳」と呼ばれる。

被葬者はだれだろうか?。古代葛城氏の縄張りに近いこともあって、葛城氏の関係者と考えられている。しかし周濠をもったかなり大きな前方後円墳なので、第23代顕宗天皇や第25代武烈天皇との説もある。

狐井城山古墳のすぐ南に、恵心僧都源信(942―1017)が生まれたという伝承がある阿日寺があるので寄ってみる。道端に石碑「恵心僧都誕生之地」が建ち、その路地を入った先が阿日寺です。

この寺には、平安時代の「木造大日如来坐像」や鎌倉時代の「阿弥陀聖衆来迎図」が伝わり、ともに重要文化財に指定されている。「阿弥陀」と「大日如来」からそれぞれ一字をとり「阿日」寺となったそうです。


 築山古墳とその周辺古墳  



狐井城山古墳の次は築山古墳です。直線距離で2キロ以上あり道も分かりにくく、電車を利用するのもありだが、歩くことにした。40分ほどかけ、ようやく住宅の間から築山古墳が見えてきた。古墳後円部の中央です。堤に上がると濠に沿って歩道が設けられている。

北側の、後円部と前方部の境目辺りで周濠は途切れ、墳丘と地続きになった箇所がある。そこには塀が設けられ番小屋があり、宮内庁の警告文が張り出されている。築山古墳は、宮内庁が第23代顕宗天皇を被葬候補者として「磐園陵墓参考地(いわぞのりょうぼさんこうち)」に指定し管理している。
宮内庁治定の本陵は、ここから4キロほど北西に離れた香芝市にある。後日に訪れてみます。

今度は後円部から墳丘の南側へ周ってみる。こちらは古墳南側の側面。広い濠が墳丘を取り囲み、その濠に沿って細道が続く。民家の裏側なので気がひけるのだが、古墳を間近に見ながら一周できます。

前方部です。広く澄み切った濠が印象的だ。
全長は210m、後円部径は120m、前方部幅105m、三段築成の前方後円墳。築造時期は、採集された埴輪片から4世紀後半と考えられている。埋葬施設は明らかでない。


築山古墳の周辺には多くの古墳、陪塚(ばいづか)があり、築山古墳群を形成している。その中で主要な以下の3古墳を訪ねた。


築山古墳南の栂池公園に接して茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)がある。直径50mの円墳です。樹木は伐採され、丸裸の土盛りで、子供の遊び場に相応しいように見えます。しかし周囲はフェンスで囲まれ入れないようになっている。

反対の西側に周ると、「磐園陵墓参考地陪塚」という宮内庁の立て札が立っていた。築山古墳の陪塚(ばいづか)だということです。宮内庁は、参考地の陪塚であっても取り上げ、国民から隔離してしまうのだ。住宅地のど真ん中に鎮座する皇室の聖域となっている。

築山古墳の南にある狐井塚古墳(きついづかこふん)を訪ねます。フェンスで囲まれ、宮内庁の警告文が張られている。全長75mの前方後円墳だが、空中写真で見ない限り、単なる森にしか見えない。

古墳の南西部(後円部?)に周ると、住宅間の細路の奥に入口のようなものが見られる。柵で閉められ、立入り禁止の宮内庁の警告文が見える。ここは宮内庁が「陵西(おかにし)陵墓参考地」として占拠している。北にある築山古墳が顕宗天皇陵かもしれない、ということからここを顕宗天皇皇后・難波小野王(なにわのおののみこ)の陵墓と推測したようです。

築山古墳の東側にはコンピラ山古墳がある。直径95mで、全国的にも最大規模の円墳だそうです。見つかった埴輪の特徴から、5世紀前半の築造と推定されている。「コンピラ」は墳丘上にあった金毘羅神社からきている。

近づこうとしたが住宅や田畑に囲まれているので近づけず、遠くから眺めるしかなかった。単なる小山にしか見えません。

 新山古墳(しんやまこふん)  



築山古墳の北1キロにある新山古墳(しんやまこふん)へ向う。近鉄大阪線の踏切を渡り、高田川に沿った国道132号線の歩道を歩く。

全長約126m、後方部幅67m,高さ約10メートル、前方部幅約66m、前方部を南にむけた前方後方墳です。墳丘は2段築成で葺石・埴輪(円筒・家・蓋・盾など)が見つかっている。出土した埴輪から4世紀後半の築造と推測され、馬見古墳群中で最も古い古墳とされています。

南側の前方部に入口が見える(空中写真のAの地点)。ここも柵で閉められ、「大塚陵墓参考地」という宮内庁の石柱が建つ。第25代武烈天皇が被葬候補者とされています。武烈天皇は5世紀後半の天皇なので、古墳の築造時期と合わないのだが?。
宮内庁治定の本陵は、ここから5キロほど北西に離れた香芝市にある。後日に訪れてみます。

周濠のように見えるが、濠ではなく池です。空中写真を見ればよくわかる。

明治18年(1885)、地主が植樹しようと後方部中央で穴を掘ったところ竪穴式石室が見つかった。ここから銅鏡34面(三角縁神獣鏡・直弧文鏡・画文帯神獣鏡など)や玉類、鍬形石、車輪石、石釧、金銅製帯金具、台座形石製品などの貴重な副葬品が多数発見された。これら出土品は国の重要文化財・考古資料に指定され、一部が東京・奈良国立博物館に収蔵・展示されている。新山古墳は昭和62年(1987)に国の史跡に指定されました。

 別所城山第1・2号墳(べっしょしろやまだい1・2ごうふん)  



新山古墳から城山児童公園を目指して西へ20分ほど歩くと城山児童公園の森が見えてきました。住所は「香芝市真美が丘4-5」。この公園内に、平成6年(1994)に香芝市指定史跡となった別所城山1号墳、2号墳があります。

写真は公園の南側。児童公園となっているが、名前のような雰囲気は感じられない。二基の古墳を保存するために造られた公園のようにみえます。

公園の北側へまわると小さな広場となっている。正面には丘の上に登る広い階段が設けられており、児童でも簡単に丘(古墳)に登って遊べる(学べる)ようになっている。

登った上は別所城山1号墳の墳頂になる。写真は、1号墳の墳頂から別所城山2号墳の方向を眺めたもの。丘上は適度に樹木や草が除かれ、子供が遊べる雰囲気がでています。古墳の上だという感じはしない。

 三吉石塚古墳(みつよしいしづかこふん)  



城山児童公園から北へ歩くこと30分、新木山古墳と三吉石塚古墳が見えてきた。まず大きな新木山古墳の手前にある復元古墳の三吉石塚古墳(みつよしいしづかこふん)から見ていきます。

東からの写真。三吉石塚古墳(みつよしいしづかこふん)は、所在地の北葛城郡広陵町三吉字石塚からきている。新木山古墳の外堤西側に主軸を同じくして接しているので新木山古墳の陪塚と思われるが、築造時期がズレているので疑問も残る。平成4年(1992)に県指定史跡となる。

後円部に短い小さな前方部がつく形の帆立貝式前方後円墳。全長は45mで、前方部が新木山古墳の位置している東側を向いている。見事に築造当時の姿に復元されています。東側と南側に後円部の上まで登れる階段が設けられている。築造当初にこんな階段などあるずがない。階段をなくし、葺石の上を這い登らせる、っていうのはどうだろうか?。

後円部の墳丘は二段築成で、一段目には円筒埴輪列に朝顔形埴輪を置いた埴輪列がめぐり、後円部の墳頂には蓋(きぬがさ)、短甲、家などの形象埴輪が置かれていた。築造時期は5世紀後半と指定され、埋葬施設や被葬者は未調査のため不明。

周囲には馬蹄形の周濠がめぐり,さらに外堤が確認されている。墳丘と周濠内側には葺石が敷かれていた。
説明板に「墳丘と周濠部分の内側に10~30cmの葺石を施し、特に後円部の葺石が縦一列に並ぶ所があり、この葺石の列石間が1つの作業単位で、作業方法を示す基準と考えられています。葺石の材料は、前方部に使用されている黒雲母花崗岩が当麻町西方から、後円部の輝石安山岩が香芝市の二上山麓から運ばれてきたものです。」とあります。

古墳は広陵町の町営墓地に囲まれている。現代の一般庶民の墓と古代の貴人の墓が対照的です。今の世でこんな土盛りの墓に眠れるのは天皇のみです。

 新木山古墳(にきやまこふん)  



三吉石塚古墳の墳頂から眺めた新木山古墳(にきやまこふん)の後円部。古墳名は、所在地の北葛城郡広陵町赤部字新木山からきている。新木山古墳もかっては手前の古墳のように葺石で覆われ埴輪列がめぐっていたことでしょう。天皇陵を含め古代の古墳は、青々とした森を想像してしまうが、実際の姿は全く別物ということですね。

後円部北側まで濠が廻っているが、後円部から前方部までの南側は濠が埋められ耕作地として使われています。墳丘は鉄柵で囲まれ、宮内庁が陵墓参考地として立入禁止としている。何故、周濠は見逃されているのでしょうか?。

後円部から前方部方向へ墳丘の南側を眺めたもの。全長200m,後円部径117m、後円部高さ19m、前方部幅118m、前方部高さ17mで、前方部を東に向けた前方後円墳。 両くびれ部に造り出しが存在する。
埋葬施設は不明。勾玉、管玉、棗玉が見つかり宮内庁で管理されている。築造時期は、外堤から出土した円筒埴輪により5世紀前半と考えられている。

南側一帯の濠も田畑として利用されています。

南側中央辺りで墳丘に近づくと、宮内庁の立て札が見えます。「三吉陵墓参考地」と書かれている。調べると、第30代敏達天皇の子で、第34代舒明天皇の父にあたる押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)を想定しているようです。

周濠は墳丘北側と前方部にのみ残り、水を貯えている。前方部の北側は池となっており、周濠と一体となっている。かっての溜池でしょうか。それ以外は埋め立てられ田畑として利用されている。陵墓参考地としては珍しい。

 牧野古墳(ばくや古墳)・佐味田宝塚古墳(さみたたからづかこふん)  



新木山古墳から、新しい一戸建て住宅が建ち並ぶ中を西へ西へと歩きます。20分ほどで牧野史跡公園の森に到着。

牧野史跡公園は、公園というほどの施設はなく、名前のとおり古墳史跡を保存するための公園のようです。公園図に牧野古墳の位置がはっきり示されていないのが残念だ。別名「うまさん公園」とあり、なんかピンとこない。どこが”うまさん”なのでしょうか?。近くには「ねずみさん公園」もあります。

公園正面入口から入って右へ曲がるとすぐ左に階段が見える。階段を登ると石室の入口が見えている。
直径55m、高さ13m、三段築成の円墳。二段目に南を向い開口している横穴式石室です。築造時期は石室や石棺、出土遺物から6世紀末と見られている。
昭和32年(1957))に国の史跡に指定され,史跡公園として整備された。

奈良県下でも最大級の大きさを誇る両袖式の横穴式石室。全長17m、玄室部は長さ7m・幅3.3m・高さ4.5m、羨道部は長さ10.4m・幅1.8m・高さ2mで、大きな花崗岩を積んで構築されている。
玄室内には奥壁に沿って長さ2.1mの横向きに刳抜式の家形石棺が安置され、その手前の方に置かれていた石棺は形が崩れていたが破片や痕跡から長さ2.6mほどの組合せ式の家形石棺であったと推定されている。
盗掘にあっていたが、副葬品は玄室内を中心に多数残されていた。金環や玉類の装飾具、一万個以上に及ぶガラス小玉、銀装大刀、矛、鉄鏃等の武器、金銅装の馬具二組、土器類など。
被葬者は誰か?。敏達天皇の皇子押坂彦人大兄皇子の成相墓(ならいのはか)の可能性が高いといわれる。押坂彦人大兄皇子は宮内庁によって新木山古墳が陵墓参考地となっているのだが、両古墳を比較すると、大きさ、形状、築造時期とも全く異なっているのだが・・・?

なお、見学希望日の2週間前までに広陵町教育委員会文化財保存課(0745-55-1001)へ申し込むと石室内部を見学できるそうです。

牧野古墳から北東に300m程の所に佐味田宝塚古墳(さみたたからづかこふん)がある。傍に近づけず、これといった案内も無いので確信がもてないが、それらしき森を佐味田宝塚古墳らしいとして写真を撮りました。

全長112m、後円部直径60m・高さ8m、前方部の幅45m・高さ8mで、前方部を北東に向けた二段築成の前方後円墳。周濠は確認されていないという。築造時期は4世紀後半と推定されている。
明治14年(1881)に地元民により後円部の墳頂が発掘され粘土槨が見つかり、木棺を覆っていた粘土内から約36面の銅鏡を含む約140点の副葬品が出土したことで全国的に注目された。特に日本で唯一の出土例である家屋文鏡(かおくもんきょう)と呼ばれる直径22.9cmの大型鏡が注目されている。鏡背に4棟の建物の図像(竪穴式住居,高床倉庫,高殿,平地式建物)があしらわれており、古墳時代の建築を具体的に示す資料として注目されています。「卑弥呼の鏡」ともいわれる三角縁神獣鏡も11面以上出土しています。昭和62年(1987)に国の史跡に指定された。また副葬品の大部分も平成13年に重要文化財に指定され、一部が東京・奈良国立博物館に収蔵・展示されている。

 竹取公園と讃岐神社(さぬきじんじゃ)  



牧野古墳前の広い車道を東へ1キロ、竹取公園に着く。竹取公園は、広陵町が「竹取物語」の伝説を元に「町おこし」として建設した公園です。

「竹取物語」は平安時代初期の,仮名文による日本最古の物語といわれる。「かぐや姫」のお話で、日本人なら誰でも児童の頃から知っている物語です。そのため、わが町こそ物語の舞台だ、と主張する地域があちこちに現れ、町おこしに利用している。京田辺市,京都府向日市,香川県長尾町(現さぬき市),岡山県真備町,広島県竹原市,鹿児島県宮之城町など。ここ広陵町もその一つ。各自治体それぞれの言い分があるようですが、広陵町の言い分は上をお読み下さい。

公園に入ると大きな切り竹のオブジェが置かれている。竹取公園のシンボルマークのようだが、よく見るとトイレマークがついていた。

家族連れで楽しめる普通の公園だが、すぐ横にお花いっぱいの馬見丘陵公園があるので、こちらの公園はちと物寂しそうです。園内には竹取物語を紹介するパネルが並んでいます。

竹取公園から南へ200mほどの森の中に讃岐神社が鎮座している。拝殿と本殿があるだけの小さな神社です。
現在の祭神は大物忌命・倉稲魂命・猿田彦命・大国魂命を祭る。

「今は昔、竹取の翁というものありけり。名をば讃岐造(さぬきのみやつこ)となむいひける」で始まる『竹取物語』。竹取翁の出身部族である讃岐氏は、持統-文武朝廷に竹細工を献上するため、讃岐国(香川県)の氏族齋部(いんべ)氏が大和国広瀬郡散吉(さぬき)郷(現広陵町三吉)に移り住んだものとしている。そして讃岐神社が建てられた。「讃岐」「散吉(さぬき)」「三吉(みつよし)」は同じものだという。またこの辺りには「藪ノ下」、「藪口」、「竹ケ原」という地名が残り、竹取物語の舞台となったと説かれている。


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