山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

六波羅から建仁寺へ 2(建仁寺:境内・堂内)

2023年06月18日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2023年5月27日(土曜日)
建仁寺(けんにんじ)の境内を歩いた後、本坊・方丈・大書院・法堂とお堂の中を見学します。

 建仁寺(けんにんじ):境内 



(境内図は公式サイトよりDL)
★★~建仁寺の歴史~★★
建仁寺の開祖・栄西(えいさい、公式サイトでは「ようさい」となっている)は、備中(岡山県)吉備津宮の社家・賀陽(かや)氏の子として誕生(永治元年(1141))。13歳で比叡山延暦寺に登り、翌年得度(出家)し天台・密教を修学します。 28歳(1168年)で南宋に渡るが半年で帰国。47歳(1187年)に二度目の渡宋を果たします。天台山に登り、万年寺の住持虚庵懐敞(きあんえじょう)のもとで臨済宗黄龍派(おうりょうは)の禅を五年に亘り修行、その法を受け継いで建久2年(1191)に帰国しました。
栄西は建仁2年(1202)、鎌倉幕府第2代将軍・源頼家の援助を得て、六波羅探題に近接する幕府直轄領に建仁寺を創建した。寺名は、朝廷から元号を賜ったもの。当時の京都では真言(密)、天台(止観)の既存宗派の勢力が強大だったため、建仁寺内に真言院・止観院を構え真言・天台・禅の三宗並立の寺とした。栄西は建保3年(1215、75歳)建仁寺で没する。
その後、焼失し荒廃するが、正嘉元年(1258)に東福寺開山の円爾(聖一国師)が当山に第十世住職として入寺し仏殿などを復興する。翌、正元元年(1259)には宋の禅僧・蘭渓道隆が第十一世として入寺し、禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となった。室町幕府は京都五山を制定し、建仁寺をその第三位として厚く保護した。最盛期に塔頭60余りあり、黄竜派、諸派の僧が集まり「学問づら」と呼ばれた。ところが応仁・文明の乱(1467-1477)などの戦乱により殆どの堂宇を焼失し、衰退する。
現在の大部分の建物は江戸時代以降の再建による。天正年間(1573 - 1592)には、毛利氏の外交僧として活躍し、豊臣秀吉により直臣の大名に取り立てられた安国寺恵瓊によって方丈や仏殿が移築され復興が始まった。豊臣秀吉が寺領820石を寄進し(1586年)、徳川家康により寺領が安堵されている(1614年)。徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備されていった。

明治に入り、新政府の神仏分離令や廃仏毀釈によって塔頭34院が14院へ統廃合され、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小され現在にいたります。明治9年(1876)、臨済宗の諸派から建仁寺派が独立し、建仁寺は総本山になった。京都最古の禅寺で、正式名は「東山(とうざん)建仁禅寺」

八坂通に面し、南側の正面にあたる勅使門(重要文化財)。「銅板葺切妻造の四脚門で鎌倉時代後期の遺構を今に伝えています。柱や扉に戦乱の矢の痕があることから「矢の根門」または「矢立門」と呼ばれています。元来、平重盛の六波羅邸の門、あるいは平教盛の館門を移建したものといわれています」(公式サイト)
勅使門は通れないのだが、脇に小門があり、そこから入る。

勅使門から放生池を挟んで三門へとつづく。この三門は大正12年(1923)、静岡県浜松市の安寧寺から譲り受け移築したもの。「三門」とは空門・無相門・無作門の三解脱門のこと。扁額にあるように「望闕楼(ぼうけつろう)」とも呼ばれる。「望闕楼高くして帝城に対す」という詩に由来し、「御所を望む楼閣」という意味だそうです。

三門 の奥が建仁寺の本堂にあたる法堂(はっとう)。明和2年(1765)の再建。
勅使門、池、三門、法堂、方丈が一直線に並び、この伽藍配置は東福寺、嵐山の天龍寺と同じ。この様式は臨済宗(禅宗)の規格なのでしょうか。公式サイトに「栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました」とあるので、中国の禅宗寺院にならったもののようです。なお、天龍寺の三門は焼失して無く、東福寺の三門は国宝となっている。

浴室(京都府指定有形文化財)については、解説版を参照。
祠は楽神廟(らくじんびょう、楽大明神)。傍らの説明版を要約します。栄西禅師の母親が岡山吉備津神社の末社である楽の社にお参りされ、夢に明星を見て禅師を胎内に授けられたという因縁により、楽の社の神を楽大明神としてここに祀った。福徳・知恵・記憶力増進のご利益あるとされ、受験合格の祈願に多くの方がお参りされるそうです。

「宝陀閣」と呼ばれる楼門が建ち、その奥に開山堂がある。開山堂は「旧護国院とも呼ばれる建仁寺開山栄西禅師の塔所。堂内中央には入定塔と呼ばれる石塔があり、その下には栄西禅師がお眠りになっていると伝わる。また、庭園には栄西禅師が宋より持ち帰ったとされる菩提樹が植えられている」(公式サイト)。開山堂は非公開。楼門、開山堂とも明治18年(1885)、京都宇多野鳴滝にある建仁寺派妙光寺から移築されたもの。

開山堂前の洗鉢池の北側に茶碑と平成の茶園がある。茶碑は昭和58年祇園辻利により寄進建立され、茶碑の裏側の「平成の茶苑」は茶の将来八百年を記念し平成3年に植樹されたもので、毎年5月には茶摘みが行われる。
栄西禅師は「日本の茶祖」といわれる。留学していた中国の南宋より茶種を持ち帰って栽培を奨励し、茶を抹茶にして飲む喫茶手法を普及させた。今までごく一部の上流社会だけに限られていた茶を、広く一般社会にまで拡大普及させたのです。茶と桑の効用を説く『喫茶養生記(きっさようじょうき)』(茶桑経)上下巻を著して日本の茶文化の基礎を築いた。その巻頭語には「茶は養生の仙薬・延齢の妙術である」と書かれている。
6年ほど前に高尾の高山寺を訪れた時、境内に「日本最古の茶園」という茶畑がありました。高山寺の開祖・明恵上人は栄西より茶種を分けてもらい、それを高山寺の境内に植えて茶園を開いた。山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたという。当初は薬、覚醒用に利用されたが、その後、宇治へ伝わり、そして日本各地へと広まっていったという。

生垣で作業されている方がおられたので、もしかしたら”お茶かな?”とおもい尋ねると、そうでした。境内でお堂などを囲む緑色の低い垣根は全てお茶の木でした。そうと知ったら、記念に一葉、という気持ちになりますが・・・。

白壁の東の鐘楼(大鐘楼、元和8年(1622)再建)は北門を入ってすぐのところにある。西の鐘楼(小鐘楼、寛文12年(1672)建立)は法堂への渡り廊下の脇にある。上の写真では右端に見える。
東の鐘楼は京都で三番目に大きく、「陀羅尼尼(だらに)の鐘」とも呼ばれています。陀羅尼経を読誦しながら鐘を撞いことからくるそうです。次のような記事もあります。「平安時代、源融(822-895)の河原院のものだったという。河原院の荒廃後、鴨川七条の南の渕(釜ヶ淵)に沈んでいた。土中にあったともいう。栄西は官に乞い、鐘を引き上げたともいう。この際に、鐘が容易に引き上げられなかった。栄西は自らの名と弟子・長音座(ちょうしゅざ)の名を掛け声として呼べと命じた。「エイサイ」「チヨーサ」と掛け声があがると、鐘を引き上げることができた。掛け声は、後に「エッサ、エッサ」のもとになったともいう。」

建仁寺の北門。祇園の花見小路通に続いているので、ここから入るのが普通。左の写真は外から撮ったもの。観光客で混雑する花見小路通の突き当りは、静寂な禅の寺・建仁寺です。

北門を出ると、両側に情緒ある花街風の建物が並び、石畳の風情ある祇園花見小路通が四条通まで続いています。京都でも有数の賑やかな通りで、半分以上は外国の方です。運よけば舞妓さんにも出会える。時々ニセ舞妓さんや、花魁姿に変身した黒人さんも見かけます。花見小路通の南の端、即ち北門を出たすぐ傍には祇園甲部歌舞練場がある。総ヒノキ造2階建て、二階席、桟敷席、花道まで備え、京都の登録有形文化財となっている由緒ある劇場。祇園の芸妓・舞妓さんの踊りが見られ、また京舞や狂言、文楽など古典芸能も演じられています。

この警備員の多さは何だ!。外国の方には異様に思われるだろう。実は歌舞練場に接して馬券売場(WINS京都)があるのです。土日になると、新聞片手のおじさんたちが祇園花見小路通を徘徊し、花見小路通だけでなく裏通りにまで警備員が配置される。ここは京都でも有数の景観や風情を大切にしている地域なのに、このミスマッチは何だ!。上洛した文化庁のお役人さん、この現状をよく見ていただきた。
大阪ミナミの観光名所・道頓堀も同様。江戸時代からの道頓堀五座は消えさり、代わりに場外馬券売場が現れた。当時、私も反対署名したものですが、馬業界の馬(金)力に圧倒されてしまう。その後、近くにボート券売り場まで現れ、数年後には大阪に本格的なバクチ場ができようとしている・・・。

 建仁寺 : 本坊・方丈  



北門から入るとすぐ本坊があり、ここが堂内への拝観入口です。本坊といっているが、禅宗寺院に特有の庫裏(台所)で、切妻造りの妻側を正面にし屋根上に煙り出しをもつ。

拝観時間:午前10時~午後4時30分受付終了(午後5時閉門)
拝観料金:一般 600円 中高生 300円 小学生 200円 ※小学生未満のお子様は無料

履物を脱ぎ本坊に上がると、堂内の拝観案内図と注意書きがある。事前の調査では、建仁寺は堂内を含め全て写真撮影OKとなっていた。ところが注意書きには「写真撮影禁止」となっている。一瞬、動揺したが、但し書きに「営利、商業目的」での禁止とあります。受付で確認すると、「撮っていいですよ」と云われたので安心しました。

本坊に入ると、いきなり俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」が展示されている。誰でも教科書などで一度は写真で目にしたことのある風神雷神図。ただしこれは精巧に再現されたデジタル複製品です(だから撮影OK)。NPO法人京都文化協会と精密機器大手キヤノンが一双を168分割して高解像度カメラで撮影、専用の和紙にインクジェットプリンターで12色を使って印刷した後、京都の伝統工芸の職人が金箔をはり、表装を手がけ細部まできめ細かく再現していった。2011年に建仁寺に奉納されたが、近年カメラの性能が進歩したことから、より精細な複製品が2021年11月より展示されるようになった。国宝の原本は京都国立博物館内に寄託保管されている。

「風神雷神図屏風」は江戸時代前期1639年頃、建仁寺末寺・妙光寺(右京区鳴滝)が、寺の再興を記念して俵屋宗達(生没年不詳)に製作を依頼したもの。その後、文政12年(1829)、 妙光寺から建仁寺に寄贈された。琳派の開祖・俵屋宗達の晩年の最高傑作とされています。二曲一双(2枚で構成された屏風が2つでセットになったもの)、各縦154.5cm 横169.8cm。屏風全面に金箔を押し、右隻に風を吹き出す風袋をもった風神、左隻に太鼓を叩いて雷鳴と稲妻をおこす雷神が描かれている。私には芸術価値の評価はできないが、天空を飛び跳ねる躍動感がよく伝わってきます。

入口のある本坊は、すぐ西側の方丈と連結されている。
この方丈は、戦乱により堂宇を焼失し衰退していた建仁寺を再興さすため、慶長4年(1599)安国寺恵瓊が安芸国(広島)安国寺から移築したもの。元の建物は長享元年(1487)の建立。昭和9年(1934)の室戸台風で倒壊したが、昭和15年(1940)に再建されている。単層入母屋造り、こけら葺。周囲に縁をめぐらし、6部屋からなる。

正面中央の間には十一面観音菩薩坐像が祀られ、「十一面観音菩薩坐像は今から約四百年前、徳川二代将軍・徳川秀忠公の娘である東福門院(御水尾天皇の中宮で、明正天皇の生母)に御寄進を頂いた大切な寺宝であります。」と説明書きされている。平成21年(2009)盗難にあったが、1ケ月後に盗んだ男が逮捕され、仏像は無事に戻ってきた。
この部屋だけ天井は二重折上げ小組格天井、床は黒板張りとなっています。

各部屋には、桃山時代の画壇を代表する海北友松の水墨障壁画が見られる。ただしこれらは高精細の複製品。NPO法人京都文化協会と精密機器大手キヤノンなどが製作し寄贈したもの。実物(重要文化財)は京都国立博物館に寄託されています。
これは「礼の間」の「雲龍図襖」で、海北友松の代表作。天井に描かれる雲龍とは、また違った迫力を感じます。畳の間には少し違和感をおぼえます。お客を迎える間だそうですが、居心地悪そう・・・。

「書院の間」の「花鳥図襖」で、「二本の松を生やす盛り上がった地面から飛び立たんとするように体をよじる孔雀、梅に留まる叭々鳥(ははちょう)のつがいと池に浮遊する三羽の水鳥を連続した構図にて配している」と説明されている。

「檀那の間」の「山水図襖」。「雲龍図」を描いた絵師の作とは思えないほどやわらかい。幅の広さを感じます。
豊臣秀吉により直臣の大名に取り立てられた安国寺恵瓊が、慶長4年(1599年)安芸国安国寺から方丈を建仁寺へ移築する際に、障壁画を頼まれたのが絵師・海北友松だった。

「衣鉢の間」の「琴棋書画図襖」。
海北友松(かいほう-ゆうしょう、1533-1615)は、浅井長政家臣・海北家の5男(一説に3男)として近江国坂田郡(米原市)で生まれる。父の死をきっかけに3歳で東福寺に喝食(有髪の小童)として預けられ、修行した。修禅のかたわら絵を狩野元信(狩野永徳とも)に学び,また中国・宋の画家梁楷に倣った画をもよくした
天正元年(1573)友松41歳の時、浅井氏の小谷城が織田信長に滅ぼされ、兄達も討ち死にし海北家も絶えた。そこで41歳の時、還俗し海北家を継ぎ家の再興を志した。画事のかたわら武芸にも励んだという。その後豊臣秀吉に絵の才能を認められたことから、武士をやめ絵師として後半生を生き、海北派の始祖となる。

本坊、方丈の裏側には廊下でつながった小書院と大書院がある。ここは大書院南側の広い廊下で、潮音庭をゆっくり鑑賞できます。大書院は、方丈が室戸台風で倒壊した後、昭和15年(1940)再建時に同時に新築された。

現在、大書院には細川護熙筆による水墨画「瀟湘八景図(しょうしょうはっけいず)」が奉納され展示されています。
細川護熙(ほそかわ-もりひろ、1938-)さんは戦国大名・細川忠興の子孫で旧熊本藩主・細川家第18代当主、また第79代内閣総理大臣でもありました。政界を引退され、あまり動静が報じられてこなかったが、こうして活躍されていたのですね。政界引退後は、自邸「不東庵」(神奈川県湯河原)で、陶芸、茶、書、水墨などに励み、悠々自適の生活をなされているようです。

中国湖南省に瀟水、湘水という二つの川があり、これが合流して洞庭湖という大きな湖にそそぐ。その湖周辺は中国有数の風光明媚な景勝地で、中国や日本の多くの画家が画題にし、それぞれ様々な情景を描いてきた。細川さんもそれに倣ったものです。

法堂(はっとう)は方丈と渡り廊下で繋がっており、備えられたスリッパを履き渡ります。
「この法堂は仏殿を兼用し「拈華堂(ねんげどう)」という。拈華というのは「無門関」第六則、「世尊拈華」にもとづく」(説明版より)
明和2年(1765)建立で、本尊を安置する本堂にあたる。入母屋造、本瓦葺、外観は二階建に見えるが、下の屋根は裳階(もこし)という庇(ひさし)のようなもので実際は一階建になる。禅宗仏殿は裳階を付けるのが正式だそうです。

中央に建仁寺本尊の釈迦如来坐像が祀られている。(公式サイトより)「法堂須弥壇上に安置される釈迦如来坐像である。右手上に定印を結び、結跏趺坐(けっかふざ)する。江戸時代の慈本参頭の『東山雑話』に建仁寺仏殿の本尊はもと越前国(福井県)弘祥寺の像で、永源庵主で細川元常三男の玉蜂永宋(1542~82)が求め安置したとあり、これを信ずれば、この三尊像は十六世紀後半に越前からもたらされたことになる。両脇に安置されるのは、阿難・迦葉像である。共に釈迦十大弟子のひとりで釈迦滅後の教団統率者となった。」

天井いっぱいに描かれた小泉淳作(1924 - 2012)画伯の筆による「双龍図」。大きすぎて全体がカメラに収まりません。東福寺、天龍寺の雲龍図に比べ、大きくハッキリ見えるので迫力が伝わってくる。その分、神秘性は感じられないが。
(説明版より)「大きさは縦11.4m、横15.7m()畳108枚分)あり、麻紙とよばれる丈夫な和紙に、中国明代で最上の墨房といわれる「程君房(ていくんぼう)」の墨を使用して描かれている。製作は北海道河西郡中札内村の廃校になった小学校の体育館を使って行われ、構想から約二年の歳月をかけて平成十三年十月に完成。龍は仏法を守護する存在として禅宗寺院の法堂の天井にしばしば描かれてきた。また「水を司る神」ともいわれ、僧に仏法の雨を降らせると共に、建物を火災から護るという意味がこめられている。しかし、建仁寺の八百年にわたる歴史の中で法堂の天井に龍が描かれた記録はなく、この双龍図は創建以来、初めての天井画となる。」通常は、一匹だけ描かれることが多いが、この双龍図は阿吽の二匹の龍が天井一杯に絡み合う躍動的な構図となっている。


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