山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

鞍馬から貴船へ 4

2017年01月30日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月18日(金)叡山電車で鞍馬へ、義経ゆかりの場所を巡って紅葉の貴船神社へ。

 貴船神社の境内図と歴史  



鞍馬寺の西門を出ると、紅い「奥ノ院橋」が貴船川に架かっている。橋を渡ると、もうそこは貴船神社の門前町です。人通りが急に増えてくる。やはり貴船神社は「恋の神社」と云われるだけあって人気があるようです。
貴船神社は、手前から本宮、中宮、奥宮と三神域から成っている。それぞれ数百m離れているが、それをつなぐ道は貴船川の清流に沿い、紅葉や青葉に覆われ、またお茶屋や川床が並び退屈させない。

貴船神社の始まりについて、神社のサイトには諸説あると断りながらも
「第18代反正天皇の御代(約1600年前)、初代神武天皇の皇母・玉依姫命が御出現になり「吾は皇母玉依姫命なり。恒に雨風を司り以て国を潤し土を養う。また黎民の諸願には福運を蒙らしむ。よって吾が船の止まる処に祠を造るべし」と宣り給い、「雨風の国潤養土の徳を尊び、その源を求めて黄船に乗り、浪花の津(現在の大阪湾)から淀川、鴨川をさかのぼり、その源流である貴船川の上流のこの地(現在の奥宮の地)に至り、清水の湧き出づる霊境吹井を認め、一宇の祠を建てて水神を奉斎す」とあり、”黄船の宮”と崇められることになったと伝えられている。」とある。
神武天皇の母・玉依姫命が黄色い船に乗って淀川、鴨川を遡り、現在の奥宮の地に祠を建て水神を祀ったのが貴船神社の始まり、ということです。白鳳6年(666)、社殿の立替えの記録が残っていることから、かなり古くからあったようです。

平安時代には、水の供給を司る神を祀っていたことから、天皇の勅使が雨乞いや雨止みの祈願に訪れている。
永承元年(1046年)7月、洪水により社殿が流失したことから、天喜3年(1055)4月、現在の本宮の地に社殿を再建・遷座して、元の鎮座地は奥宮とした。「当社は長らく賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂社とされてきたが、これは天喜3年の社殿再建が契起となっているとする説がある。近世以降、それを不服として訴えが続けられ、明治以降になってようやく独立の神社となった。江戸時代までは賀茂別雷神社の祭神である賀茂別雷命も祭神としていた」(Wikipediaより)

社名の「貴船」の由来について、境内の由緒書きに「古くは「貴布禰」と記したが、「黄船」「木船」「木生嶺」「気生根」などの表記も見られる。明治4年(1871)官幣中社となり、以後「貴船」の表記で統一された」とある。また読み方については、公式サイトに「地名として「貴船」を「きぶね」と発音するのが一般的だが、神社名を公式に申し上げる際には、湧き出している御神水がいつまでも濁らないようにと祈りをこめて「きふねじんじゃ」と申し上げるのである」と書かれています。

 貴船神社:本宮  

本宮入口の鳥居が見えてきた。この鳥居は「二の鳥居」で、「一の鳥居」は叡山電鉄の貴船口駅近くにあり、かなり離れている。本宮に寄らず、中宮・奥宮へ向かうには、右の車道を進めばよい。

鳥居を潜ると、貴船神社の紹介には必ずでてくる参道の階段です。最も神社らしく感じる場所。
現在の本宮は、天喜3年(1055)に、現在の奥宮より移転されたもの。元々の貴船神社は、現在の奥宮にあったが、度々の洪水で流されたため移されたそうです。全国に約450社ある貴船神社の総本社。境内は年中、自由に参拝できる。6月1日は「貴船祭」

参道石段を登り門を潜ると境内。本宮の境内は広くありません。門のすぐ左手に樹齢400年、樹高約30mの御神木の桂の木がある。根元からいくつもの枝が天に向かって伸び、上の方で八方に広がる。貴船は「気生根」とも書かれるが、この桂の木は「御神気が龍の如く大地から勢いよく立ち昇っている姿に似て」いるので御神木とされたという。
御神木・桂の木の並びに、小さな「石庭」があります。作庭家・重森三玲が昭和40年に、古代人の神聖な祭場「天津磐境(あまついわさか)」をイメージして作庭したものだそうです。玉依姫命による「黄船」伝説から、庭全体が船の形に造られ、中は黄色い土が敷きつめられている。
貴船神社は縁結び・恋の神社として有名ですが、御神木や船が多いのも特色です。
写真中央が本殿で、右が権殿、左が拝殿。流れ造り・銅板葺きの本殿は平成17年に造営し一新された建物。
ご祭神は「高おかみの神(たかおかみのかみ)」で、古くから水を司る神様として崇められてきた。

本殿前に黒馬・白馬の銅像が建ち、傍に「絵馬発祥の社(えまのふるさと)」の説明板が立っている。それによると、平安時代、雨乞い・雨止みの御祈願のため歴代天皇が勅使を遣わされれる際、雨乞のときは「黒馬」を、長雨を止めてほしいときは「白馬」又は「赤馬」を献上して祈願していたとされています。それがいつからか、生馬に変えて板に馬の絵を描いた「板立馬」を奉納するようになった。この「板立馬」が現在の絵馬の原形だそうです。だから貴船神社は絵馬発祥の地になる。

貴船神社で有名な「水占(みずうら)みくじ」。貴船神社は、水の神様と縁結びの神様が同居している。水占いとはよく考えられたものです。いつ頃から始まったのでしょう?。水占みくじの場所は拝殿前にあり、「水占斎庭」と呼ばれている。狭い御神水なので混雑しています。

占い紙は横の社務所で、1枚200円で売っている。紙は積み重ねられているが、占いなので上から順に取るのではなく、好きな位置から紙を引く。透かして見たが、さすがに文字はみえません。紙をそっと水に浮かべ、文字の浮き出てくるのを待ちます。

おじさん一人で水占いとは・・・、少々照れるがここは社会体験と挑戦してみました。私は、何気なく一番上の紙を取ってしまったのですが。10秒位で文字が浮き出てきました。「吉」で、占いの内容はまずまず。色恋沙汰をしてみたいのですが・・・。
占い紙の中ほど左右にQRコードがあります。このQRコードをスマホで読み込み、言語(五カ国)を選択すると翻訳され音声まで聴こえるそうだ。デジタルの時代はここまで来たか。

本宮は狭い境内なので、水占みくじをしなければ、あっという間に見終わってしまう。時間があったので、祈雨の行事が行われていた「雨乞の滝」へ寄ってみようとしたが入口が分らない。社務所で訊ねると、現在、禁足地になっており行くことはできない、そうです。
本宮前の貴船川沿いも紅葉の綺麗な所。写真右上の建物は、本宮の休憩所なので、お茶を楽しみながら紅葉を鑑賞できます。

 貴船神社:奥宮へ  


本宮を出て、紅葉を愛でながら貴船川に添って上流へ歩く。おじさん一人でも、十分楽しい気分になります。道沿いには料理屋、お茶屋さんが並び、京の奥座敷の雰囲気を感じさせてくれます。

中宮(結社)入口の階段だ見えてきました。次は中宮(結社)に寄りたいのだが、貴船神社には参拝順のルールがある。「三社詣」と呼ばれ、「本宮」→「奥宮」→「中宮」の順で参拝するのが、縁結びのための古くからの習わしだそうです。私も従わないわけにはいかない(^^)。
ちょうど昼過ぎ、お食事処「ひろ文」さんがあるので、昼食にします。

貴船川は貴船山と鞍馬山の谷間を流れ、賀茂川へつながる。この川沿いは大変風光明媚で、京の奥座敷といわれるだけあります。夏は川床で涼を感じ、秋は紅葉で魅了される。ライトアップされるんでしょうか、川沿いには照明器具が見えます。

川沿いを進むと奥宮の紅い鳥居が見えてきました。奥宮は本宮から700mほど奥になる。この辺りは、本宮や中宮付近にあった旅館やお茶屋、川床などなく、神域の気配が強く感じられる。
この奥宮は貴船神社創建の地で、元々本宮があったところ。度々の洪水で損壊され、天喜3年(1055)に現在の本宮の地に社殿を再建・遷座し、ここは奥宮となった。水の神様も、時には自虐的に暴れるんだ。
写真左側に、注連縄の張られた大木がある。「相生(あいおい)の杉」と呼ばれ、説明板には「御神木。同じ根から生えた二本の杉。樹齢千年。相生は「相老」に通じ、夫婦共に長生きの意味」とあります。

紅い鳥居の先に、小さな紅い橋が架けられている。橋には「思い川」「おもいかは橋」と書かれている。川を覗いてみるが、ほとんど水は流れていない。
ここが本宮だった頃、この小川で手を洗い、口をすすぎ、身を清めてから参拝していた。だから「みそぎの川」、「御物忌川(おものいみがわ)」だった。ところがここを訪れた和泉式部の恋の話と重なり、いつの頃からか「おものいみ川」が「思ひ川」と呼ばれるようになったという。

薄暗い杉並木と白い砂利の参道が続く。奥宮までくると訪れる人も少ない。本宮のような華やいだ雰囲気はなく、「気」に満ちた厳粛な雰囲気が漂う。参道奥の朱塗りの神門をくぐると、奥宮の境内です。

神門を潜ると、すぐ左側に御神木の「連理(れんり)の杉」がそびえる。杉(左)と楓(右)が一つにくっついた珍しい木で、夫婦和合・男女の仲睦まじいことの象徴として、御神木にされている。

 貴船神社:奥宮(本殿・拝殿・船形石)  



中央の能舞台のように見えるのが拝殿。左の本殿に祀られている奥宮のご祭神は 「闇おかみの神(くらおかみのかみ)」。この神は、本宮の「高おかみの神」とは「呼び名が違っても同じ神なり。一説には、高おかみは「山上の龍神」、闇おかみは「谷底暗闇の龍神」といわれる同じ龍神」(公式サイトより)で、水を司る神様。

「本殿の真下には「龍穴」と呼ばれる大きな穴があいており、誰も見ることは許されていない。この龍穴は大和の室生龍穴、岡山備前の龍穴とともに日本三大龍穴のひとつとされている」(公式サイトより)。この龍穴に物を落とすと、にわかに曇り空になり龍穴から激しく風が吹き上がるという言い伝えがある。
本殿の前の建物は拝殿ですが、見ようによっては能舞台に見えます。
貴船神社・奥宮は「丑の刻参り」ゆかりの場所としても知られている。「丑の年、丑の月、丑の日、丑の刻に、貴船の神様が牛鬼を従者にして降臨した」という故事に基づくもので、本来の「丑の刻参り」は心願成就、つまりあらゆる願い事をかなえるためのものでした。ところがいつの頃からか、「丑の刻参り」は「呪いの藁人形のまじない」というように一般に広まっていった。

Wikipediaは「丑の刻参り」について「丑の刻(午前1時から午前3時ごろ)に神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を釘で打ち込むという、日本に古来伝わる呪術の一種。典型では、嫉妬心にさいなむ女性が、白衣に扮し、灯したロウソクを突き立てた鉄輪を頭にかぶった姿でおこなうものである。連夜この詣でをおこない、七日目で満願となって呪う相手が死ぬが、行為を他人に見られると効力が失せると信じられた。ゆかりの場所としては京都府の貴船神社が有名」と説明している。

貴船神社にとっては迷惑なことですね。謡曲「鉄輪(かなわ)」などの影響でしょうか?。ちなみに謡曲「鉄輪」は「室町時代の謡曲の題名。「かなわ」と訓む。あらすじは後妻を娶った男を先妻が恨み、貴船神社に詣でたところ「赤い布を裁ち切り身にまとい、 顔には朱を塗り、頭には鉄輪を乗せ、ろうそくを灯せば鬼となる」とお告げを受ける。男は悪夢に悩み安倍晴明の元を訪れ鬼となった先妻と対決して鬼は消え失せる、というもの。」(Wikipediaより)
本殿横に注連縄で囲われた小さな空き地があり、中央に「権地」(ごんち)と書かれた札が立っています。
本殿真下には「誰も見てはならぬとされる神聖な龍穴」があり、そのため本殿をその位置で解体修理できない。そこで横の「権地」まで移動し、解体修理後に元の位置まで戻すのです。一種の「遷宮」で、貴船神社では「附曳神事(ふびきしんじ)」と呼んでいる。

平成23年(2011)12月29日、奥宮の本殿修復のため150年ぶりに「附曳神事」が行われた。龍穴は、絶対に誰にも見られてはいけない。そのため本殿の西に手広い菰(こも)を結び付け、本殿を権地へ曳き移すにつれ菰も引っ張られ龍穴を覆い、誰ににも見えない。さらに絶対に守らなければならないこととして「境内にいるすべての人間は声を出してはいけない」ということがある。そのため神職をはじめ宮大工、氏子、一般参加者も神の葉(榊・さかき)を口にくわえ、無言で少しずつ静かに動かしていったそうです。修理完成した翌年5月31日、元の場所に同じような方法で曳き戻された。


本殿左横に、貴船神社創建伝説の玉依姫命が乗って来たという「船形石」(ふながたいし)がある。その黄色い船が人目に触れぬように小石に覆われ囲われたものと伝えられている。船舶関係者から「船玉神」として信仰されていて、小石を持ち帰ると航海安全の御利益があるそうです。



 貴船神社:中宮(結社(ゆいのやしろ))  



13時15分、奥宮を出て貴船神社の参拝順ルールに従い、一番最後に中宮に寄ります。本宮と奥宮の中間にあるため中宮 (なかみや)と呼ばれる。本宮から上流へ300m、奥宮から下流へ400m位。
中宮の社に祀られている御祭神は「磐長姫命 (いわながひめのみこと)」。
磐長姫命の御鎮座に関して、貴船神社のサイトには以下のような伝承があることを紹介している。

昔、瓊々杵尊(ににぎのみこと)が木花開耶姫(このはなさくやひめ)に一目ぼれし、姫の父・大山祇命(おおやまつみのみこと)に結婚したいことを申し上げる。大山祇命は姉の磐長姫も添えて、二人の娘を送り出した。容姿端麗な木花開耶姫に対して、姉の磐長姫はたいへん醜かったため、瓊々杵尊は木花開耶姫だけを娶り、磐長姫を送り返した。そのため磐長姫は大いに恥じて「我長くここにありて縁結びの神として世のため人のために良縁を得させん」といわれて、この地に鎮まったという。
中宮は「結社(ゆいのやしろ)」とも呼ばれ、貴船神社は「縁結びの神様」として知られるようになった。平安時代には既に「縁結び」の神社として、貴族から庶民に至るまで参拝されるようになったという。

平安時代の女流歌人・和泉式部も、夫・藤原保昌との不仲を憂い、貴船神社にお詣りした。その甲斐あって縁が戻ったそうです。その時の心情を詠った和泉式部の歌碑が建っている。
現在でも縁結びを願う人が多いいのでしょうか、結び処には沢山の「結び文(むすびぶみ)」が結ばれ、奉納されています。以前は、境内のススキを結んでいたようですが、植物保護のため止められた。私は、縁結びとは縁無くなった歳なので、結ばなかった。






本宮には船形をした石庭、奥宮には船形石があった。ここ中宮にも「天の磐船(あめのいわふね)」がある。貴船神社の創建伝説が、神武天皇の母・玉依姫命が黄色い船に乗ってやって来たというものなので、貴船神社と「船」との関わりは深い。
苔むした舟形の大石が置かれている。平成8年(1996)京都の造園家・久保篤三氏により、結社の御祭神・磐長姫命の御料船として奉納された。長さ約3m、重さ6トンの船の形をした自然石で、貴船の山奥で見つけられたものという。

狭い境内なので、あっという間に見終わってしまう。出口の階段を下りると、昼食にカレーうどんを食べた「ひろ文」さん。恋とか、縁とかよりもこの景観ですね。気分が和みます。

帰路に着くため叡山電鉄・貴船駅へ向かいます。鞍馬と貴船は一日で周れる範囲。男性的で武骨な鞍馬を先に訪れ汗をかき、それから女性的な貴船に下りて寛ぐというのがベストだと思う。逆に貴船で寛いだ後、鞍馬へ向かうのは大変です。あの急峻な山道を俺は登りたくない・・・。


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鞍馬から貴船へ 3

2017年01月22日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月18日(金)叡山電車で鞍馬へ、義経ゆかりの場所を巡って紅葉の貴船神社へ。

 源義経息つぎの水~~義経堂  


山中へ入っていくと右手に「源義経公息つぎの水」がある。修行時代の牛若丸は、九十九折参道の由岐神社近くにあった東光坊という僧院に住まい、夜毎剣術修行のため奥の院の僧正ガ谷まで通ったという。その途中にあるこの湧き水で喉を潤したそうです。現在でも湧き続け、柄杓が置かれている。


少し距離があるが山道を登って行くと「義経公背比べ石(せくらべいし)」にたどり着く。ここは奥の院参道の最頂部で、この先は下り坂となります。下って行けば僧正ガ谷、奥の院魔王殿を経て貴船へ着きます。

牛若丸16歳の時、父義朝の仇を討つため鞍馬寺を出て、関東から奥州平泉に下ります。その際、名残を惜しんでこの石と背比べをしたと伝承されています。柵の中に置かれている石は1m半ほどでしょうか。背比べしたのですから、同じくらいの高さだったのでしょうね。

鞍馬山の写真には必ずでてくる有名な「木の根道」は「背比べ石」のすぐ真ん前です。道というから、かなり距離があるのかと思ったが、50m位でしょうか。

風雨の浸食によってむき出しになったのかと思ったが、そうではなかった。ここの地質が硬いため、根が地中まで這い込めないためのようです。杉の根が浮き出て、地表を這うようにして横に伸び、奇観を呈している。
ここで牛若丸が兵法修行をしたと伝えられ、五条大橋で弁慶と争ったあの身軽さは、その成果なのでしょう。こうした場所で子供を遊ばせたら、牛若丸とまでいかなくとも丈夫でたくましいく成長すると思うが。現代の親は絶対にそうはさせません。眼の色変えて飛んできます。案内板に「できるだけ踏まないよう」と書かれているが、踏んで歩くほうが大変です。

「下に這う鞍馬の山の木の根見よ 耐えたるものはかくのごときぞ」與謝野寛(鉄幹)


木の根道を過ぎ、緩やかな斜面を降りていけばすぐ大杉権現社です。柵で囲われ、惨めな姿の大杉(?)が見える。これが祀られているご神木なのでしょうか。後で調べると、昭和25年の台風で折れてしまったそうです。この辺りは護法魔王尊のエネルギーの高い場所だそうですが、自然のエネルギーのほうが強かった。

この大杉権現社から参道に出るのに一苦労。明確な方向案内が無く、斜面のどの方向に下りていけばよいのか迷った。カンで降りていったらアタリでしたが・・・。

やっと奥の院参道の階段に出た。かなりの急階段が続いているが、降りなので楽です。やがて白幔幕の張られたお堂が見えてきた。僧正ガ谷不動堂らしい。

僧正ガ谷不動堂は昭和15年(1940)の建立で、宝形造、本瓦葺、正面に向拝が付いている。堂内には、伝教大師・最澄が天台宗開宗の悲願のために刻んだと伝わる不動明王が安置されている。

不動堂の周辺は鬱蒼と茂る杉の大樹に囲まれ、昼なお薄暗い。この辺り一帯は「僧正ガ谷」と呼ばれ、牛若丸と鞍馬天狗の出会いを題材にした謡曲「鞍馬天狗」の舞台。九十九折の道にある僧院・東光坊に預けられ住んでいた牛若丸は、昼は学問、夜はここ僧正ガ谷まで通い武芸に励んでいたという。ここで天狗と出会い、剣術や妖術を習ったのでしょう。鞍馬天狗といえば、なぜか嵐寛寿郎を思い出してしまいますが・・・。

不動堂の真ん前に義経堂がある。
源義経は平家を滅亡させたのち、兄の頼朝に憎まれ、悲劇的な最後を遂げた。鞍馬山(鞍馬寺)では、義経の魂は幼少時代を過ごした懐かしのふるさと鞍馬山へ戻ってきたと信じ、護法魔王尊の脇侍「遮那王尊(しゃなおうそん)」として祀られている。義経は神になったのです。毎年九月十五日に「鞍馬山義経祭」が行われている。

 奥の院魔王殿~~貴船へ  


僧正ガ谷からさらに10分ほど降りていくと、鞍馬寺の最奥部の奥の院魔王殿(おくのいん まおうでん)にたどり着く。11時過ぎです。この魔王殿には、650万年前に人類救済の使命を持って、金星からやってきたとされる護法魔王尊が祀られている。

建物は、昭和20年(1945)に焼失し、昭和25年(1950)に再建されたもの。見えているのは拝殿で、奥に本殿があります。幔幕の円い紋は、屏風坂の地蔵堂、大杉権現社や僧正ガ谷不動堂で見られたのと同じ紋。これは「羽団扇」という鞍馬寺の寺紋で、義経に兵法を伝授したといわれる天狗をイメージしたものだそうです。
鞍馬寺はここまで。”お疲れさま!”ということで、魔王殿前には幾つかベンチが用意されている。皆さん、食事したり地図みたり、寛いでいらっしゃる。
ここから引き返すには大変です。叡山電鉄駅のある仁王門までは2キロあり、それも坂道を登らなければならない。それより、このまま坂道を600mほど降りれば鞍馬寺の西門でありまた貴船の入口に着く。バス停も近くなのでそのまま帰ってもよし、あるいは貴船神社へ寄ってみるのもよし。私は最初から貴船へ行く予定でした。

これから降ります。西門まで何もありません。紅葉も無く遠望もきかず、ただひたすら急な坂道を下るだけ。参道のように整備もされていない。山の登山道と同じ。
この坂道を登ってくる人もかなりいる。先に貴船を訪れ、それから鞍馬寺へ向かうのでしょう。すれ違う人は皆さんキツそうです。下りで良かった。
所々、こうした木の根の芸術に出会う。これも硬い地盤のせいでしょうか?。浸食によるもののように見えますが。



ようやく見えてきました紅い橋が。貴船に着いたようです。奥の院魔王殿から20分位でしょうか。










ここは貴船側から鞍馬山への参拝口にあたる鞍馬寺・西門です。西門といっても、鳥居のような簡単な木組だけの門です。傍に登山費(愛山費?)を徴収する受付所がある。
受付の方の話によると、クマが今年は6回でたそうです。イノシシはどうですか?、と訊ねたら、普通に歩いていますよ、という返事だった。猪熊山にならんことを・・・。



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鞍馬から貴船へ 2

2017年01月15日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月18日(金)叡山電車で鞍馬へ、義経ゆかりの場所を巡って紅葉の貴船神社へ

 鞍馬寺・本殿金堂  



最後の石段を登りきると、本殿金堂前の広場に出ます。本殿金堂は、昭和20年(1945)に焼失し昭和46年(1971)に再建され、一重、入母屋造、銅板葺の建物です。内々陣には、中央に毘沙門天像、右手に千手観音菩薩像、左手に護法魔王尊像の尊天(三本尊)が祀られています。これは秘仏で、厨子の前に立つのは「お前立」。本尊の御開帳は60年毎の丙寅の年です(次は2046年?)。

鞍馬寺公式サイトに鞍馬寺の起源について「『鞍馬蓋寺縁起』によれば、奈良時代末期の宝亀元年(770) 奈良・唐招提寺の鑑真和上(688~763)の高弟・鑑禎上人は、正月4日寅の夜の夢告と白馬の導きで鞍馬山に登山、鬼女に襲われたところを毘沙門天に助けられ、毘沙門天を祀る草庵を結びました。
桓武天皇が長岡京から平安京に遷都してから2年後の延暦15年 (796) 造東寺長官、藤原伊勢人が観世音を奉安する一宇の建立を念願し、夢告と白馬の援けを得て登った鞍馬山には、鑑禎上人の草庵があって毘沙門天が安置されていました。そこで、「毘沙門天も観世音も根本は一体のものである」という夢告が再びあったので、伽藍をととのえ、毘沙門天を奉安、 後に千手観音を造像して併せ祀りました。」とあります。
宝亀元年(770)寅の月、寅の日、寅の刻に、鑑禎(がんてい)上人が毘沙門天に助けられた。鑑禎上人は草庵に毘沙門天の像を祀ったのが寺の起源とされる。また寅は神使として大切にされています。

平安中期以降、京都の北方守護の寺として信仰を集め参詣が相次ぎます。『枕草子』の清少納言や『更級日記』の菅原孝標の女、紫式部などの女流文学者も来山し、鞍馬寺の様子を描写している。そして平安末期には源義経(幼名牛若丸)が少年期を過ごす。戦国時代になると、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康などの武将がしきりに戦勝祈願を行い、豊臣秀頼が由岐神社拝殿を再建しています。
鞍馬寺の伽藍は、文化9年(1812)の大火災や、昭和20年(1945)の本殿焼失などで失った。現在見られる堂宇は近年に建立されたものです。しかし、仏像などの文化財の多くは無事で、現存しているそうです。

本殿金堂前の広場。紅葉の紅色は別にして、紅色が目立ち、神社のように錯覚する。よく考えたら”本殿金堂”というのも不思議なものだ。本殿は神社の、金堂はお寺の建物を指すのが一般的。それをあえて”本殿金堂”と呼ぶのは、神と仏を統一しようとする鞍馬弘教の野心なのでしょうか。

現在の鞍馬寺で特異なのはその信仰形態です。
鞍馬山は、古くから古神道、陰陽道、修験道などの山岳宗教の山だった。8世紀末に鞍馬寺が創建され真言宗寺院として信仰を集めていたが、12世紀からは天台宗に改宗する。ところが戦後の昭和22年(1947)、住職・信楽香雲はヨーロッパの神智学の影響を受け、多様な信仰を統一して「鞍馬弘教」と称して独立する。現在、鞍馬寺は鞍馬弘教の総本山となっている。

以下は鞍馬寺公式サイトによるものです。
鞍馬山の信仰は「尊天信仰」だという。尊天とは、すべての生命を生かし存在させる宇宙エネルギーで、真理そのもの。その働きは愛と光と力になって表れる。千手観音菩薩は「愛」の象徴「月輪の精霊」、毘沙門天は「光」の象徴「太陽の精霊」、護法魔王尊は「力」の象徴「大地(地球)の霊王」だそうです。この三身を一体として「尊天」と称するという。こうして鞍馬寺は、毘沙門天、千手観音、護法魔王尊を三位一体の「尊天」と呼び、本尊として祀っている。

神智学とは何か?。興味ある人はWikipediaの詳しい解説をどうぞ。私は、チンプンカンプンでさっぱり理解できない。ただ注目したのは、幸福の科学、オウム真理教、阿含宗などの日本の新宗教にも隠然たる影響を与えたという。「オウム真理教の世界観・身体観は、用語だけでなくその構えや骨格において、〈神智学〉の強い影響がある」と書かれています。

鞍馬寺の鞍馬弘教を、そうしたオカルト宗教と同列と思いたくないが、それにしても何か違和感を覚えます。九十九折参道にあった「愛と光と力の像「いのち」」も、鞍馬弘教の思想を表現したものだったようです。鞍馬山(鞍馬寺)は、普遍的な真理を追求する哲学の場であるより、天狗が住み、牛若丸が修行した山岳霊場のままであってほしいナァ。

本殿金堂のすぐ前に、石畳の模様が描かれ、「金剛床(こんごうしょう)」と呼ばれている。中央の六角形は「六芒星」と呼ばれ、宇宙エネルギーが降臨する場所だそうです。ここに立つと宇宙エネルギーを受け取ることができ、尊天と一体化できるとか。まさにパワースポットです。難しいことはヌキにして、中心に立ってみました。

本殿金堂前の広場からの眺めで、向かいには比叡山が見えます。本殿金堂のまん前にある、朱色の欄干の出っぱりは「翔雲台」。観光客用のものかと思ったら、ご本尊がはるか南の京の都を見守る台だそうです。

本殿金堂の右側に、閼伽井(あかい)護法善神社があります。寛平年間 (889年~898年)、鞍馬寺中興の祖・峯延上人を大蛇が襲うが、逆に法力によって捕まってしまう。大蛇は魔王尊に供える水を永遠に絶やさないことを誓って命を助けられ、閼伽井護法善神(あかいごほうぜんじん)としてここに祀られたと伝わります。
本殿前には井戸があり、その脇の棚には沢山のカラフルなバケツが置かれている。信者さんが水汲み用に置かれているのでしょうか。
毎年6月20日に行われる「鞍馬山竹伐り会式(たけきりえしき)」は、この故事からきている。
長さ4メートル、太さ15センチ近くもある青竹を大蛇に見立て、僧兵姿の鞍馬法師が近江、丹波の両座に分かれ伐る早さを競い、その年の農作物の吉凶を占うそうです。

 奥の院参道へ  


閼伽井護法善神社とは反対側の本殿金堂の左手には本坊(金剛寿命院)、いわゆる鞍馬寺寺務所がある。その前に門がある。この門が奥の院参道入口です。
門の手前左に低い柵で囲われた小さな庭「瑞風庭」があり、盛り砂が置かれている。これは650万年前に人類救済のため、魔王尊が金星より降臨する様子を表現したものだそうです。「愛と光と力の像」の続編みたいなもの。

10時20分、瑞風庭の脇を通って奥の院参道へ入る。門を潜ると階段から始まる。本殿金堂までの広い階段と違い、狭く険しい山の階段です。参道となっているが、これからは山道です。階段上り口に手洗い場がある。鞍馬山へも心身を清めて入れ、ということでしょう。
ここからがいよいよ牛若丸の世界に入る。鞍馬寺の”宇宙エネルギー”とか”愛と光と力”などとは全く異質の魔境に入って行く。鞍馬山を感じるのはここからでしょう。
しばらく行くと、紅葉と白壁の霊宝殿(鞍馬山博物館)が見えてくる。その手前に与謝野晶子・寛歌碑があります。小さく、薄暗いので見逃しやすい。鞍馬寺の先代管長・信樂香雲が、歌での与謝野晶子の弟子だった縁で建てられたものでしょう。
紅葉に覆われた三階建ての建物が、鞍馬寺「霊宝殿(鞍馬山博物館)」です。
1階は鞍馬山自然科学博物苑展示室で、鞍馬山の動植物、鉱物などを展示する。2階は寺宝展示室と与謝野鉄幹・与謝野晶子の遺品等を展示した、与謝野記念室がある。3階は仏像奉安室で、国宝の木造毘沙門天立像、木造吉祥天立像、木造善膩師童子(ぜんにしどうじ)立像の三尊像をはじめとする仏像奉安室。現在「清盛と義経をめぐる謎」展が開かれていました。

営業日:火曜日~日曜日 9:00-16:00
休業日:月曜日(月曜日が祝日・祭典日のときは翌日休館、12月12日~2月末日休館)
料金:200円

霊宝殿のすぐ前に「冬柏亭」(とうはくてい)という小さな書斎が置かれている。与謝野晶子の書斎ですが、彼女がこの鞍馬山で使ったという訳ではない。経緯は傍の説明板に書かれていました。
与謝野家は、昭和2年に現在の杉並区荻窪に居を移した。昭和4年12月に晶子の50歳の賀のお祝いに、弟子達から書斎「冬柏亭」が贈られ翌年に完成。晶子没後の昭和18年、冬柏亭は門下生の岩野喜久代氏の大磯の住居へ移された。書斎の所有者・岩野氏と鞍馬寺管長の信楽香雲とは同門の縁(晶子の短歌の弟子)であったことから、昭和51年(1976)に岩野氏の好意により、ここに移築されたということです。
「冬柏」の名は、与謝野鉄幹が主宰となり創刊した文芸機関誌「明星」が終刊後、昭和5年(1930)に「冬柏」の名で復刊したのに因む。
冬柏亭横の階段を登り、山門を潜ると本格的な山道が始まる。その山門脇に、鞍馬山自然科学博物苑としての注意書きと”WARNING”が貼り出されていました。
クマ、ヘビ、ハチなどと出合った時、「自然のままで観察」すべきでしょうか?。



詳しくはホームページ
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鞍馬から貴船へ 1

2017年01月07日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月18日(金)
一昨日(16/11/16)高雄の紅葉を見てきたが、京都でもう一ヶ所訪れたい所があった。鞍馬から貴船です。以降の天気予報がハッキリしないので、この日に出かけることにしました。鞍馬・貴船の紅葉は、チョッと早い気がするのですが・・・。ネットの紅葉情報では”見頃”となっているが、当てにはならない。
鞍馬へは、数十年前の若かりし頃、営業をサボって友人と時間潰しに行った記憶があるが、木の根道の印象しか残っていない。貴船は初めてです。貴船はおっさん一人で行くような所ではないのだが、好学(?)のため足を向けます。

 叡山電鉄・鞍馬駅へ  


京阪電車・出町柳駅を降り、そのまま地上に出ると叡山電鉄・出町柳駅です。ローカル風の小さな駅ですが、比叡山、大原、鞍馬、貴船など京都を代表する観光地への路線なので、リュックを背負った人が多く、いつも混んでいます。
紅葉シーズン限定(11/5~11/27)の秋のもみじ展望列車「きらら」号が運行されていた。一部分ですが、窓ガラスが天井付近まで大きく、座席が窓側向きになっており、座ったまま窓外の紅葉を満喫できる。ホームへ入ると運よく止まっていた。運転席越しに写真を撮るため、最前席に座る。7時55分発「きらら」号です。

市原駅と二ノ瀬駅間の約250m区間は「もみじのトンネル」と呼ばれ、夜(16時半以降)にはライトアップされ幻想的な風景が広がるそうです。線路の両側をモミジが覆い、赤く染まる紅葉を列車の車窓から眺めることができる。車内の灯りは消され、速度を落として運転してくれます。昼間も速度を落として、楽しませてくれました。

叡山電鉄・鞍馬線の終着駅・鞍馬駅。早朝のせいか人は少ないが、ここでも中国人が目立つ。駅横に、電車の先頭部と動輪が保存・展示されている。案内板によれば、昭和3年鞍馬線開通時の車両で、平成6年に引退するまで65年間走り続けてきたという。「この車両の一部を保存展示し、当社の歴史にその名を留めたいと思います」と結ばれている。

駅前に巨大な天狗のお面が睨んでる。鞍馬寺がある鞍馬山は天狗が住む山として、古くから都の人々に畏怖されてきた。鞍馬山の天狗は「僧正坊(そうじょうぼう)」と呼ばれ、日本各地に出没する天狗の総元締めだそうです。「鞍馬天狗」、東映映画の時代劇しか思い浮かばないが・・・。

 鞍馬寺・仁王門  


8時半、まだ静かな鞍馬寺の門前町を通り、仁王門前に着く。鞍馬駅から5分程の距離。紅葉が紅い天狗の顔とダブってくる。仁王門の両側には湛慶(たんけい、運慶の長男)作と云われる仁王尊像が睨みを利かせている。柱に掲げられた仁王門の説明書きに「寿永年間(1182-1184)に建立されたが、明治24年に炎上したので、明治44年に再建され、更に昭和35年に移築修理が加えられた。向かって左側の扉一枚は寿永の頃のものである。仁王像は湛慶作と伝えられ、明治の再建時に丹波よりお移しされたという」とある。門前の左右にあるのは、狛犬ではなく阿吽(あうん)の寅。唐招提寺の開祖、鑑真和上の高弟鑑禎が夢のお告げで鞍馬山に登ると鬼女に襲われたが、毘沙門天によって助けられた。その日が寅の月、寅の日、寅の刻だったので、鞍馬寺では寅を大切にしている。

仁王門奥に受付があり、登山費名目で300円徴収されます(公式サイトでは「愛山費」となっている)。通路中央に「浄域」の立て札が。これから俗界を離れ浄域の世界に入るのです。正面石垣下に、観音様の漣華から流れ落ちる浄水があります。汚れを落とし清浄な気持ちで山へ入りましょう。
受付所には、熊出没への注意書きが貼り出されている。これは清浄な気持ではいられないゾ・・・。

鞍馬山の模型。晋明殿内にあったものです。

 晋明殿と鬼一法眼社  



仁王門からすぐの所に晋明殿がある。1992年に建てられ、一階の正面に智慧の光を象徴する毘沙門天像を祀っている。

晋明殿の二階は、鞍馬山鋼索鉄道ケーブル山門駅となっている。昭和32年鞍馬山ケーブルが敷設され、鞍馬寺という宗教法人が運営する珍しい鉄道会社。多宝塔駅まで、距離は200m、約2分で着くという日本一短い鉄道。料金は、運賃でなく”寄進料”で片道200円。「鞍馬山ケーブルは、足の弱い方や年配の方が少しでも楽に参拝できるように敷設されたもので営利事業ではありません。 そこで運賃を戴くのではなく、鞍馬山内の堂舎維持にご協力いただいた方に、そのお礼としてケーブルを利用していただくということになっています」とおっしゃっておられます。
ケーブルを使うと坂道を登らなくてもよいが、九十九折参道には、鬼一法眼社や「鞍馬の火祭り」で有名な由岐神社など見所もある。ケーブルに乗ってしまうとそれらに寄ることができない(帰りに寄る、という方法はあるが)。お寺も「清少納言や牛若丸も歩いた道です。健康のためにも、できるだけお歩き下さい」と、ケーブルカーを利用しないことを薦めている。良心的ですネ。

健康のため歩きます。すぐ右手に小橋と紅い社が見えてくる。牛若丸に兵法を授けたと云われる武芸の達人・鬼一法眼(きいちほうげん)を祀っている「鬼一法眼社」です。
鬼一法眼は伝記「義経記」に登場する人物。京の一条堀川に住んでいた陰陽師で、文武両道にもすぐれ、中国から伝わった天下の兵法書「六韜三略」(りくとうさんりゃく)を秘蔵していた。17歳の義経は噂を聞き、見せて欲しいと頼んだが断られてしまう。そこで一計をめぐらし、法眼の娘と親しくなり、鬼一の館に出入りする。そして密かに盗み読みし暗記してしまう。こうして義経の武芸者としての基が築かれていった。
鬼一法眼は創作か?、実在したか?。その後、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目「鬼一法眼三略巻」の題材となって庶民を楽しませてくれている。

右手崖上の祠には、鞍馬寺の本尊の一尊である護法魔王尊が祀られている。その前が「魔王の滝」と呼ばれ、修行の場だったようです。

 由岐神社(ゆきじんじゃ)  



「鞍馬の火祭り」で有名な由岐神社が見えてきた。入口の門と思いきや、そうではなかった。これは本殿前の拝殿です。案内板に「重要文化財の拝殿は、慶長12年(1607)、豊臣秀頼によって再建されたもので、中央に通路(石階段)をとって二室に分けた割拝殿という珍しい桃山建築で、前方は鞍馬山の斜面に沿って建てられた舞台造(懸造)となっている」と書かれている。割拝殿(わりはいでん)は幾つか見てきたが、舞台造(懸造)で通路が階段というのは初見です。

割拝殿を潜り、御神木の大杉の横の階段を登ると由岐神社の本殿です。
祭神は、大己貴命と少彦名命。由緒書きに「天変地異が続く都を鎮めるため、天慶3年(940)、御所内に祀られていた祭神をこの地に勧請したのが当社の始めとされ」とある。京都の北方を鎮護する神社として創建された。世の平穏を祈願して、矢を入れて背に負う「靫(ゆき)」を祀っていたことが、現在の神社名の由来となったという。
その祭神勧請の際に、村人がかがり火を焚き、鴨川の葦で作った松明をもって迎えたという。それにちなんで毎年10月22日に行われるのが例祭「鞍馬の火祭」です。松明が燃えさかる火の祭典として知られ、京都三大奇祭の一つとなっている。

 九十九折(つづらおり)参道  


仁王門から緩やかな坂が続いている。標高は、仁王門が250m、本殿金堂が410m。高低差160m、約1キロの坂道を登ってゆきます。折れ曲がっているところから「九十九折参道」と呼ばれている。由岐神社辺りから、本格的な九十九折の坂道となる。

由岐神社を出てすぐの左手の階段上に義経公供養塔がある。この辺りには、かつて多くの僧院が建っていたようだ。その一つに東光坊阿闍梨(とうこうぼうあじゃり)の僧坊跡があります。遮那王と名乗った幼少の牛若丸(源義経)は、7歳から約10年間ここに預けられ住み、昼は学問、夜は奥の院まで通い武芸に励んでいたという。牛若丸伝説はこの僧坊で暮らしていた時のお話です。その後義経は、16歳の時鞍馬寺を出て、関東から奥州平泉に下ります。
僧坊跡に、義経公を偲んで昭和15年(1940)に義経公供養塔が建立されました。

右側の赤い社は「川上地蔵堂(かわかみじぞうどう)」。ここの地蔵尊は義経公の守り本尊であったと伝えられ、牛若丸が日々修行に行くとき、この地蔵堂に参拝していたと伝わる。

小さな広場があり、新興宗教らしきモニュメントに出会う。「愛と光と力の像「いのち」」の説明書きがあり、読んでみると「この像は、鞍馬山の本尊である尊天(宇宙生命・宇宙エネルギー・宇宙の真理)を具象化したものです。像の下部に広がる大海原は一切を平等に潤す慈愛の心であり、光輝く金属の環は曇りなき真智の光明、そして中央に屹立する山は、全てを摂取する大地の力強い活力を表現しています。この愛と光と力こそは、宇宙生命・尊天のお働きそのものであり、先端の三角形はその象徴です」とある。なんと鞍馬寺が創作したモニュメントでした。白砂利が敷かれているのは枯山水庭園を意識しているのでしょうか?。「浄域」鞍馬山には不似合いに感じるのだが・・・。

「いのちの像」から双福苑をすぎ、しばらく緩やかな坂道を登って行きます。九十九折参道の中ほどに中門が構えている。中門は、もともと仁王門の脇にあったもので、勅使門または四脚門と呼ばれ、朝廷の使いである勅使の通る門でしたが、この場所に移築されました。

門をくぐり、更につづら折りの坂を登って行く。この中門からは敷石の道になり、本殿金堂まで石造りの階段が多くなる。
この九十九折(つづらおり)の道は清少納言が『枕草子』で「近うて遠きもの、鞍馬のつづらおりといふ道」と書き残しています。変化にとみ、日陰で心地よく、緩やかな坂道なので「近うて遠きもの」という感じはしませんでした。清少納言の時代は、これほど整備されていなかったのでしょう。
次の折れ曲がり位置に、奥に直進する道がある。この道は「新参道」と呼ばれ、鞍馬寺ケーブルの終点・多宝塔駅からの平坦な道です。ここが合流点です。

最後の急階段が待っている。これを登ると本殿金堂前にでる。階段中ほどに転法輪堂(洗心亭)がある。転法輪堂は昭和44年(1969)の建立で、内陣に丈六の阿弥陀如来像が安置されている。併設されている洗心亭は、参拝者のための無料休憩所とギャラリー。簡単な軽食も用意されているそうです。





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