山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

いざ天王山へ 2(古戦場碑・光秀本陣跡・勝龍寺城)

2023年07月24日 | 山登り

★2023年7月2日(日曜日)
天王山から下山後、山崎の戦いに関連した東黒門跡、古戦場石碑、明智光秀の本陣跡、勝龍寺城へ向かいます。

 東黒門跡と古戦場石碑 



天王山から下山し、これから光秀の本陣跡と勝龍寺城へ向かいます。
大山崎町歴史資料館で食事と休息した後、西国街道を東へ20分くらい歩くと、左側の道端に石碑が置かれている。この場所が「大山崎の東黒門」が建っていた所ろです。西国街道(現在、府道67号線)に沿って細長く続く大山崎の集落は、集落の東西の端に東黒門、西黒門を設け、治安の維持をはかっていたという。
歴史資料館のガイドさんの話では、秀吉方の高山右近がこの東黒門を突破し突撃したことから「山崎の戦い」の戦端が開かれたそうです。

現在、東黒門の痕跡は残されていないが、石柱と石碑が建っている。
手前の石柱には「石敢当」(いしがんとう、せっかんとう)と刻まれている。これは集落や境内の出入口などに置かれた魔除けの石板のこと。石碑には「高瀬川清兵衛」と刻まれている。この人は江戸時代後期に活躍した大山崎出身の相撲力士で、引退後は相撲の興行主として地元におおい貢献したことから、明治前期に建立されたと説明されています。

さらに歩くこと10数分、高架が見えてきた。東名高速道路が天王山トンネルを出て大山崎JCTに入る手前です。地図で見ると、この周辺は高速道路の高架が縦横に走り、とても気持ちよく歩ける環境ではない。昼過ぎの一番暑い時間帯、熱中症を心配しながらこまめに水分補給する。
右の立派な建物は大山崎町役場。どこへ行っても役所が地域で一番大きく豪華だ(大阪府庁は例外)。

高架をくぐり、100mほど先で右折し進むと橋が見えてくる。小泉川(かっての円明寺川)が流れ、川に沿って京都縦貫道が通っている。右側の大山崎中学校のグランドと川に挟まれた高架の下が「天王山夢ほたる公園」です。南北に細長い公園で、古戦場碑は一番北端に建っています。

13日午後4時頃、円明寺川(現小泉川)を挟んで西側に羽柴軍3万6千、東側に光秀軍1万5千の軍勢が対峙した。そして午後4時30分頃合戦の火蓋が切って落とされる。しかし秀吉軍はわずか3時間余り(ここの説明版では1時間)で勝利を収めたという。

公園の北側に建てられた「山崎合戦古戦場」の石碑。ここが山崎合戦の一番の撮影スポットとか。戦場に撮影スポットがあるとは・・・。確かに天王山を借景に、戦場の碑が浮き立つ。ここ以外に戦場の跡を表すものがないのです。
しかし横に目をやると、巨大な橋げたに碑などかすんでしまう。

コンクリート額縁に収まった天王山。この眺めは光秀側から見た視点です。山崎駅から眺めた天王山は横に水平だったが、こうして東側から眺めても水平でなだらかな山です。

(現地説明版の戦場図。4枚目の陶板絵図と同じ)
光秀の敗因は幾つかあげられているが、その一つに戦場に選んだ場所の問題があります。天王山と桂川に挟まれた一番狭い場所、即ち大山崎の町ではなく、その外れの小泉川(円明寺川)の周辺の広い湿地帯を戦場に選んだ。光秀の軍勢は1万人から1万5千人、対する羽柴軍は3万6千人といわれている。狭い場所なら大軍を動かしにくく、逆に少ない軍勢でも十分に対抗できる。ところが光秀は大山崎の町での戦闘、つまり「町合戦」を避けたのです。
光秀は本能寺の変後すぐ5通の禁制を出している。「禁制」とは、寺社や民衆に対しての約束事です。本能寺の変の翌日、光秀は経済力に富む大山崎油座と、献金と引き換えに町を戦火にさらさぬという禁制を結んでいた。実直な光秀は約束を守り、そして負けたのです。

 光秀の本陣跡  



次に目指すのは明智光秀の本陣跡。古戦場碑の場所から北東へ500m程の所に、古墳時代前期後半の境野(さかいの)一号墳という古墳があります。サントリー京都ビール工場のすぐ東側になる。ここが「太閤記」などにでてくる「御坊塚」と呼ばれる光秀の本陣跡だとするのが今までの定説になっていた。その場所には大山崎町が設置した「明智光秀本陣跡」という石柱と案内板が建てられている。説明版に「当地周辺の地形を考慮すると、当古墳上が本陣に利用されたものと考えられます。古墳のある場所は標高二五・二mを測り、周辺と比べるとひと際高く、天王山や西国街道方向に視界がひらけます。羽柴秀吉の軍勢と対峙し、味方の軍勢を把握して指揮するのにうってるけの場所が本古墳であったと言えるでしょう」と推定しています。
ところが最近になって御坊塚は長岡京市の恵解山古墳ではないか、という説が浮上してきた。次にその恵解山古墳へ行ってみます。

境野一号墳から北へ500mほど行けば恵解山古墳が現れる。墳丘全体が前方後円墳らしく公園として整備され、周りに埴輪列が並べられているのですぐわかる。

恵解山古墳(いげのやまこふん)は古墳時代中期、5世紀前半頃の前方後円墳。全長:128m、後円部の直径:78.6m、後円部の高さ:10.4m、前方部の幅:78.6m、前方部の先端の高さ:7.6mの規模をもち、乙訓地域最大の前方後円墳で、5世紀前半頃に桂川以西を支配した首長の墓と考えられています。

三段形状の墳丘は、小泉川から採集した河原石を葺石として全体が覆われていた。「葺石に覆われた古墳は、白く輝く石の山として、強烈な印象を与えたことでしょう」(説明版)。また墳丘の周囲には幅30mの広く浅い周濠が巡っていた。副葬品埋納施設からは、木箱の中に収められた約700点もの鉄製武器類(刀、剣、槍、短刀、矢)が見つかっている。

昭和56年(1981)に国史跡に指定され、現在は史跡公園として整備され市民に公開されています。広い周濠は芝生が植えられ、市民の憩いの場となっている。墳丘上にも自由に登れ、埴輪列が並べられ復原された前方後円墳の姿を見学することができる。写真右は、後円墳部分。

平成23年(2011)長岡京市埋蔵文化財センターが、恵解山古墳周辺から大規模な堀跡、火繩銃の玉や、兵が駐屯するために古墳を平らに整形した曲輪の跡が見つかり、これは光秀の本陣跡とされる「御坊塚」ではないかと発表した。

どこを探しても光秀の本陣跡という碑も案内も見つからない。ただ一ケ所、古墳を囲う鉄柵に写真のような横断幕が掲げられていました。長岡京市はまだ確信がもてないのでしょうか?。
「現在、光秀の本陣跡とされる御坊塚について、大山崎町と長岡京市とが競い合っている。しかし最近はウチの方が分が悪くなっています」と語るのは大山崎町歴史資料館のボランティアガイドさん。

 勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)  



山崎の戦いで負けた明智光秀は勝龍寺城に逃げ込み、ここで最後の夜を過ごした。

勝龍寺城は、光秀の本陣跡とされる恵解山古墳からさらに北へ500mほどの所。現在公園として整備され、長岡京市の観光スポットとなっている。光秀よりは、その娘・玉(ガラシャ)が新婚生活を過ごした場所として有名です。公園東側の府道211号線は「ガラシャ通り」と呼ばれています。右の写真は公園の東側です。北東隅に、外を監視・攻撃するための隅櫓が建つが、これは公園化するときに再建されたもの。

(案内板の「勝龍寺城縄張推定復元図」)
勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)は、京都盆地の南西部に位置し、京都から西宮を経て中国、九州へと続く「西国街道」と、桂川右岸の低地を直進する「久我畷」の結節点を抑え、淀川水系にもほど近い交通の要衝に立地する。「文明2年(1470)西軍畠山義就が勝龍寺城を陣城としたように、応仁・文明の乱中には寺院としての「勝龍寺」が、たびたび臨時的な砦として利用されるようになり、次第に恒常的な城郭として整備されたようです」(案内板より)。戦国時代末期には三好三人衆が陣地にしていたが、永禄11年(1568)に織田信長が攻撃し勝龍寺城を手に入れる。信長は勝龍寺城を細川藤孝(1534-1610)に与え、大改修を命じ、ここを山城支配の拠点とした。
「勝龍寺城は、元亀2(1571)年に、織田信長の命を受けた細川藤孝が、それまであった臨時的な砦を、当時最先端の城郭に大きく造り替えたものです。土を切り盛りして造った、それまでの中世城郭とは一線を画し、「瓦葺き」「石垣」「天主」といった、その後の城郭の標準となる諸要素が取り入れられています。信長の安土城築城よりも5年早く、近世城郭の先駆けとも言えるものです」(パンフより)

本丸は、東西120メートル×南北80メートルで、周囲は高さ4~5mの土塁で囲まれ、外側には幅10~15m、深さ約3mの堀を巡らせていた。本丸の南西側には沼田丸という台形の曲輪があり、本丸の南側には勝龍寺や築山屋敷、西側には沼田屋敷、東側には中村屋敷、北側には米田屋敷や松井屋敷、神足屋敷があった。城名は南側の古刹・勝龍寺に由来する。
細川藤孝・忠興親子が、天正9年(1581)に丹後宮津城に移るまで10年間居城し、後の肥後熊本藩細川家の礎を築いた。

城跡は本丸と沼田丸の部分だけ残され、平成4年(1992)に「勝竜寺城公園」として整備され市民に開放されました(9時~17時(4月~10月は~18時))。公園整備に先立つ昭和63年(1988)の発掘調査によって、数々の遺構・遺物が発見されている。また北方の神足屋敷の土塁跡も保存されています。入口に「明智光秀公三女玉お輿入れの城」の石柱が建つ。

天正6(1578)年、信長のすすめにより明智光秀の三女・玉(1563~1600)は細川藤孝の嫡男・忠興(ただおき)にここ勝龍寺城で輿入れした。忠興・玉ともに16歳で、ここで2年間の新婚生活を過ごし、二人の子供をもうけている。天正9年(1581)に丹後宮津城に移るが、翌年(1582年)に「本能寺の変」「山崎の戦い」となり、玉の人生は暗転する。
本能寺の変の後、光秀は盟友でもあり縁戚でもある細川藤孝・忠興親子に加勢を呼びかけた。しかし親子は信長への弔意を表し応じなかった。藤孝は「喪に服す」といって剃髪し、雅号を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)とし丹後田辺城に隠居、忠興に家督を譲った。謀反人の娘となった玉は離縁され、味土野(京丹後市)に幽閉されます。2年後、秀吉の取り成しで復縁し、忠興は玉を大坂玉造の細川家屋敷に呼び戻す。キリシタン大名高山右近の影響で洗礼を受け、玉はガラシャという洗礼名を授かりました。
関ヶ原の戦いに先立つ慶長5年(1600)7月、石田三成の軍勢は徳川方についた忠興の妻・玉を人質にするため細川屋敷を包囲します。ガラシャは人質になるのを拒んで死を決意、キリスト教は自殺が認められていないので、家臣の介錯により最後を遂げた。辞世の句「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」。38歳でした。
細川忠興は関ヶ原の戦いで軍功をあげ、丹後国宮津城主から豊前国小倉藩39万石初代藩主、息子の忠利は中津城主となります。忠利は、寛永9年(1632)に肥後熊本城に54万石の大名として入城します。元総理大臣の細川護熙(もりひろ)氏は、熊本城主細川家18代当主です。

毎年11月第2日曜日に「長岡京ガラシャ祭」が開催される。細川忠興に輿入れする様子を再現した「お輿入れ行列」や古墳時代から江戸時代までの有名な歴史の人物が登場する「歴史文化行列」、「町衆祝いの行列」など様々な人が勝竜寺城公園に向けて約3kmの街中を練り歩く。公園内で多くの来場者が見守るなか、玉と忠興の婚礼の儀が執り行われるという。

公園北側にある北門。山崎の戦いに敗れた光秀は勝龍寺城へ逃げ込み最期の夜を過ごした。しかしこの城では追撃する秀吉軍を防ぐことはできないため、その夜中に20人ほどの兵を連れてこの北門から脱出し、本拠の坂本城を目指した。しかしその途中の小栗栖の藪(現明智藪)で落ち武者狩りに遭い殺される。享年55歳だった。光秀の首は翌日には羽柴軍に届き、京都の本能寺、次いで粟田口で晒されたという。
「三日天下」と言われるが、本能寺の変が6月2日、山崎の戦いが13日なので「十二日天下」だった。

戦いの翌日14日には秀吉が勝竜寺城に入城している。秀吉は勝竜寺城をあまり重視せず、城は荒廃してゆく。寛永10年(1633)、旗本の永井直清が入府し、荒廃していた勝龍寺城の修築を行う。しかし慶安2年(1649)に直清が摂津高槻藩に転封されると、勝龍寺城は完全に廃城となった。

北門の近くに石垣跡が残されている。その傍に小屋があり、石垣の一部として用いられた石仏、五輪塔、宝篋印塔など集められている。こうした転用石はどの城でもよく見られ、古墳の石棺などを転用した例もあります。お城は沢山の石を必要とするので、石材を集めるのに苦労したのでしょう。

管理棟の建物の西側に、「光秀出陣テラス」よばれる段丘がある。7mほど高くなっており、天王山、男山、淀川などを一望できるという。城に攻め込む敵兵を側面から射撃する「横矢掛かり」としての機能をもっていた。「ここに天主が建てられ、周囲の街道などににらみをきかせていた可能性がある」(パンフより)

お城の形をした公園内の唯一の建物は管理棟です。1階は休憩室(右写真)、2階が展示室(撮影禁止)になっている。展示室では、勝龍寺城跡の発掘の様子や瓦や一石五輪塔などの出土品が展示され、また勝龍寺城の各種資料を見ることが出来ます。私以外誰もいないはずの室内で声が聞こえてきます。ビデオ映像が流れていました。勝龍寺城にゆかりの明智光秀・玉(ガラシャ)・細川藤孝(幽斎)・忠興(三斎)4人の人物に焦点を当てた映像と、「お城博士」として知られ城郭考古学の第一人者の千田先生が丁寧に解説される勝龍寺城についての二本の映像が繰り返し流れていました。
トイレもあり、涼しい冷気のの中で一服できる管理棟です。

勝龍寺城から北へ200mほど行くと神足(こうたり)神社があります。入口から入ってすぐ右側に、勝竜寺城の土塁・空堀跡が復元され、周囲を一周して見学できるようになっています。堀の底から土塁の頂部までの高さが6mを超えるという。細川藤孝の修復時に築かれたと考えられている。

神足神社から北へ数分歩けばJR長岡京駅です。さらば天王山。



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