山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

紅葉の高雄・三尾めぐり 5

2016年12月25日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月16日(水)、神護寺(高尾、たかお)→西明寺(槙尾、まきのお)→高山寺(栂尾、とがのお)の「三尾」紅葉めぐり

 高山寺の境内図と歴史  


指月橋から20分くらいで、高山寺入口が見えてきます。周山街道の左脇から坂道を登って行く。落ち葉の散乱するなか、ゆるやかな山道を登る。参道の雰囲気はありませんが、この道が高山寺への表参道なのです。現在では、バス停に近い裏参道が”表”になっていますが。「世界文化遺産」の碑もある。平成6年(1994)、高山寺だけが「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されたのです。

表参道を進んで行くと入山受付小屋がある。ここで入山料:500円支払う。8時半~17時、無休。
通常は無料で境内に入れるそうですが、紅葉の季節になると表参道、裏参道共に参道の途中に小屋が設けら、入山料を徴収される。

高山寺境内略図(受付でのパンフより)

寺伝によれば、宝亀5年(774)光仁天皇の勅願によって華厳宗寺院「神願寺都賀尾坊(しんがんじとがのおぼう)」と称し開創されたのが始まりとされる。弘仁5年(814)には「栂尾十無尽院」に改称。深い山中の山寺で、隠棲修行の場所であったらしい。
荒廃していたが、神護寺の文覚の弟子であった明恵(1173-1232)が入り、建永元年(1206)後鳥羽上皇から「日出先照高山之寺」の額を下賜された。これにより寺名を「高山寺」と改称した。これが実質上の高山寺の開基とされる。
その後、藤原氏から厚い保護を受け栄えたが、室町時代の戦乱で石水院以外の伽藍を焼失する。江戸時代に入って復興が進められ、現在のような姿に再建されたのは寛永13年(1636)になってから。

平成6年(1994)年世界文化遺産(古都京都の文化財)に登録された。

 石水院(国宝、鎌倉時代)  



受付所から真っ直ぐ進む参道は「金堂道」と呼ばれ金堂へ達する。右に折れる道は国宝・石水院へ行く。まず石水院から訪れることに。

「石水院」は明恵上人が後鳥羽上皇から学問所としてら賜った建物で、「五所堂」とも呼ばれた。13世紀前半鎌倉前期の建築で、明恵上人時代の唯一の遺構といわれている。明恵の住房だったとも、経蔵だったとも伝わる。
創建以来、何度も移築と改造を繰り返されてきた。現在の石水院は、明治22年(1889)に金堂横から移築されたもの。
こうして変遷多い石水院だが、国宝に指定され続けているのは、明恵上人の時代唯一の遺構であることと、鎌倉時代の初期における寝殿造の特徴を残していることによる。
先ほど受付で入山料500円徴収されたが、石水院に入るには、さらに800円の拝観料が必要である。ネットで数年前のデータでは600円だったのだが・・・。入山料は紅葉時期だけだが、石水院の拝観料は通年です。


履物を脱ぎ客殿に上がる。左に畳に間を見ながら、渡り廊下をでつながっている石水院へ。廊下の先では、一人の女性が座り込み、しばらく動かないまま室内を見入っていました。
渡り廊下の先が石水院の西面で正面にあたる「廂(ひさし)の間」です。この「廂の間」は立ち入ることが出来ず、外側の廊下を通ることに。板敷きの間で、壁のようなものは無く、菱格子戸と吊り上げられている蔀戸(しとみど)によって開放的になっている。

「廂の間」の中央に「善財童子(ぜんざいどうじ)」の小さな木像がぽつんと置かれている。陰影を落とす薄暗い板敷きと、愛くるしい小像のポーズとが何ともいえない絵を作り出しています。開け放たれた蔀戸からみえる遠景の紅葉も良い。何時までも見とれていたいシーンです。

善財童子は「華厳経」という経典に出てくる求法の旅をした童子で、菩薩行の理想者として描かれている。 インドの裕福な家に生まれたが、仏教に目覚め文殊菩薩の導きによって旅に出る。53人のさまざまな人々(善知識)を訪ね歩き、知恵や経験を学びました。そして修行を積み、最後に普賢菩薩の元で悟りを開いた、と伝えられています。
こうした善財童子を明恵上人は敬愛し、住房に善財五十五善知識の絵を掛け、善財童子の木像を置いていたという。あの徳川家康も、善財童子の話に感銘し、江戸から京都までの宿駅を五十三と定めたという(東海道五十三次)。ホンマかいな?

ここに置かれている善財童子像は、西村虚空氏(1915~2002)が 石水院に過ごしながら彫った一木造りの像。西村虚空氏は、熊本県出身の彫刻家、画家ですが、尺八の世界でも有名な方です。


高山寺で紅葉の楽しめるのは、開山堂とこの石水院周辺だけです。ここ以外は杉林に囲まれ、鬱蒼とした山中という風景。石水院拝観料:800円は、仏像の拝観と錯覚しそうですが、仏像はありません。紅葉の拝観料です(紅葉がなくても拝観料とられますが・・・)。ですから800円分紅葉を鑑賞することになる。他の人に迷惑かからない程度に、足を投げ出し寝転んで鑑賞します。ただ神護寺、西明寺の素晴らしい紅葉を見てきた後だけに、それほど・・・。
右のガラスケースには鳥獣人物戯画の二~四巻の縮小版を展示している。

南縁の奥の間には、幾つか展示物が置かれている。欄間には「日出先照高山之寺(ひいいでて まずてらす こうざんのてら)」の扁額が掛っています。これは後鳥羽上皇(1180-1239)自筆と伝えられ、寺名の起源となったものです。「華厳経」に由来し、「日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山だ」という意味で、そのように光り輝く寺院であれとの意が込められているそうです。

この南縁の室内に入った所にガラスケース入りで、高山寺を代表する宝物・鳥獣人物戯画が展示されている。もちろん模写品です。国宝で教科書にも載り、誰でも名前だけは知っている。オリジナルは、甲・丙巻が東京国立博物館に、乙・丁巻が京都国立博物館に寄託保管されている。現在(10/4~11/20)は九州国立博物館で、”九州初上陸”と銘うって特別展が開かれている。
「鳥獣人物戯画」は甲乙丙丁の4巻からなる墨絵で彩色はない。甲巻、乙巻は平安時代後期(12世紀後半)、丙丁巻は鎌倉時代(13世紀)の制作と推定されている。昔、学校で鳥羽僧正作と習ったが、現在では4巻それぞれ作者は異なり、作者未詳のようです。

 高山寺(茶園、開山堂、金堂)  


石水院とは参道を挟んで反対側に、日本最古の茶園といわれる茶畑があります。竹柵で囲われ、入口に「日本最古之茶園」の石柱が建つ。
ここが我が国のお茶の発祥地。鎌倉時代初期、臨済宗の開祖として知られる栄西(1141-1215)は、留学していた中国の南宋より茶の種と茶を抹茶にして飲む喫茶手法を日本へ持ち帰った。明恵上人はその栄西より茶の種を分けてもらい、それを高山寺の境内に植えて茶園を開いた。山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたという。当初は薬、覚醒用に利用されたが、その後、宇治へ伝わり、そして日本各地へと広まっていった。
現在この茶園は宇治の篤志家により管理され、5月中旬に茶摘みが行われ、毎年11月8日には新茶が明恵上人廟前に献上されるそうです。

参道を少し登ると、右手に紅葉に覆われた開山堂が見える。前はちょったした広場になっており、ここも紅葉が美しい。
開山堂は、明恵上人が晩年を過ごし、入寂した禅堂院(禅河庵)の跡地に立つ。建物は室町時代に兵火をうけて焼失し、江戸時代の享保年間(1716-1736)に再建されたもの。明恵上人坐像(重要文化財、鎌倉時代、木造彩色)が安置されている。開山堂裏の、石段を登った小高い所に明恵上人御廟があります。
 
明恵(みょうえ、1173-1232)上人は、高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされる。紀州有田郡吉原(現在の和歌山県有田川町)の生まれ。8歳で両親を亡くした孤児となり、1181年9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚のもとで仏門に入った。東大寺や建仁寺で学んだ後、建永元年(1206)34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の額を下賜された。これにより寺名を「高山寺」と改称した。これが実質上の高山寺の開基とされている。

境内で最も奥の、鬱蒼とした杉木立の中に金堂が建てられている。一重入母屋造、銅板葺で、本尊「釈迦如来像」が安置されている。元々はここには本堂があったが、室町時代に焼失してしまう。現在の金堂は、寛永11年(1634年)に御室仁和寺から古御堂を移築したたものである。

金堂右手100m位の所に、以前の石水院の跡が残されています。

 サァ、帰ろう  


金堂からそのまま真っ直ぐ下れば表参道ですが、帰りは裏参道へ降りてみます。石水院のすぐ横に細道があり、栂ノ尾バス停へ降りる近道になっている。かなりの急坂で、下りるとすぐ目の前が栂ノ尾バス停です。バスでやって来て、この坂を登ってお参りされる人もおられるので、途中に入山料徴収小屋も建てられ、「裏参道」と呼ばれています。最近ではバスやマイカーで来られる人のほうが多く、表裏が逆転しているようだ。紅葉の見ごたえは裏が断然です。

栂ノ尾バス停。バスから降りると、すぐ目の前が高山寺の裏参道。表参道の方は距離も長く、紅葉もありません。裏参道を利用する人のほうが断然多い。裏表が逆転しています。ただ裏参道は急坂ですよ。

高山寺前の栂ノ尾バス停から帰りのバスに乗ってもよかったのだが、高雄バス停の坂道の紅葉を見たかったので神護寺まで引き返すことにした。30分くらいで神護寺前の高雄橋に着く。高雄バス停へ登る階段がある。七曲の坂道を登って行きます。この坂道を降りてくる人も多い。バス停や駐車場があるからです。

見下ろしても、見上げても紅葉一色。普通に歩いて5分程度の坂道ですが、この景観ですので3倍ほどかかりました。バス停には多くの人が並んで待っている。紅葉シーズンですが、30分に1本位しかありません。ですからかなり混みます。14時20分発のJRバスで四条大宮へ。四条大宮まで40分ほど。阪急電車で大阪へ。16時日本橋着。紅葉を満喫できた一日でした。

 古文書「阿不幾乃山陵記」(あふきのさんりょうき、重要文化財)について  


高山寺に残されていた「阿不幾乃山陵記」についてチョットばかり興味があった。

古文書「阿不幾乃山陵記」を知るには、まず天武・持統天皇御夫婦のお墓について説明しなければならない。天武天皇は土葬で、持統天皇は天皇として初めて火葬され、御夫婦そろって同じ「大内陵(おおうちのみささぎ)」(日本書紀、「延喜式」では「檜隈(ひのくま)大内陵」)に合葬されたと伝わる。問題はその「大内陵」がどこかです。有力地が二つあり、江戸時代から論争されてきた。一つが明日香村にある野口王墓古墳、もう一つが近鉄吉野線の岡寺駅前にある見瀬丸山古墳。両者のどちらが、天武・持統合葬陵であるかは、以降明治時代まで混乱が続いた。
見瀬丸山古墳は、奈良県では最も大きく全国でも六番目の大きさを誇る全長318mの前方後円墳。内部の横穴式石室に巨大な家形石棺が二つ納められていた。また幕末の著名な山陵家である蒲生君平や北浦定政などが主張したことから、幕末から明治の初めにかけて、見瀬丸山古墳が天武・持統天皇の合葬墓で、野口王墓古墳は文武天皇陵とされてきた。

この天武・持統天皇陵は、鎌倉時代の文暦2年(1235)に大規模な盗掘にあい、多数の副葬品が奪われたことが知られていた。当時、京の都でも大騒ぎになったという。「新古今和歌集」の選者・藤原定家も日記「明月記」の中に、人づてに聞いた話として「持統天皇の遺骨を納めていた骨蔵器が銀製であったため、盗賊がこれを墓の外へ持ち出し、持統天皇の遺骨を路上に捨てて銀製骨蔵器だけを持ち去った」と記している。その後、盗掘者は逮捕され京の街を市中引き回しにされたという。

明治13年(1880)、ここ高山寺で「阿不幾乃山陵記」(あふきのさんりょうき)という古文書が見つかった。これは上記の盗掘事件後、勅使(鎌倉幕府の役人か、あるいは天皇の勅使が)が派遣され実地検分した時の記録です。「阿不幾」は「青木」と同音で、野口王墓古墳が昔から「青木御陵」と伝承されていたことからくる。この古文書は、高山寺の僧・定真(じょうしん)が書き残したもの。明恵上人亡き後、直弟子たちがそれぞれ塔頭を持って高山寺を守ってきた。その中の一人が方便智院の定真です。この方便智院に保存されていたそうです。
陵墓内の石室・棺の大きさ・形状・配置などが寸法入りで詳しく記されている。金銅製の棺台の上に置かれた漆塗り木棺と、金銅製の外容器に銀製の骨臓器があったと記される。このことから前者が天武天皇で、後者が火葬された持統天皇のものだと断定された。

明治政府は翌明治14年2月、天皇陵の変更を行い、野口王墓古墳を天武・持統合葬陵である「檜隈大内陵」として正式に治定し、塚穴古墳(高松塚古墳のすぐ南)を文武天皇陵に治定し直した。なお、治定からはずされた見瀬丸山古墳は、今なお後円部の一部を陵墓参考地として宮内庁の管理下においている。

現在、天皇陵古墳は宮内庁の「静安と尊厳を維持」の方針によって、研究者の調査どころか立ち入りさえ認められていない。ほとんどの古代天皇陵は謎のままで、被葬者さえ確定されていない。そうしたなか野口王墓古墳は、「阿不幾乃山陵記」によって天皇陵内部の詳細な様子が判明している唯一の天皇陵で、唯一被葬者が確定できる古墳だそうです。

このような貴重な歴史資料だが、高山寺を訪れ、何も得られなかった。案内にもパンフレットにも載っていない。ところが九州で開催されている「特別展 鳥獣人物戯画」のパンフレットが置かれていた。現在(10/4~11/20)九州国立博物館で、”九州初上陸”と銘うって「鳥獣人物戯画」の特別展が開かれているのです。その出品目録の中に
●「阿不幾乃山陵記 (作者)定真筆  1巻 鎌倉時代 13世紀 (所蔵)千葉・国立歴史民俗博物館」
とあった。そこで「千葉県の文化遺産」をネットで調べると
●「9221 阿不幾乃山陵記(方便智院本) 古文書 鎌倉 国立歴史民俗博物館」とあります。
国の文化財データのサイトにも載っており
●「所在地:国立歴史民俗博物館 千葉県佐倉市城内町117、所有者名:大学共同利用機関法人人間文化研究機構」となっている。
何らかの事情で高山寺を離れ、関東に流れてしまっています。昭和39年(1964)、国の重要文化財指定を受ける。


詳しくはホームページ

紅葉の高雄・三尾めぐり 4

2016年12月18日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月16日(水)、神護寺(高尾、たかお)→西明寺(槙尾、まきのお)→高山寺(栂尾、とがのお)の「三尾」紅葉めぐり

 槙尾山・西明寺へ向かう  



神護寺参道の長い階段を降り、高雄橋に戻る。高雄橋を渡り、清滝川に沿って上流に歩き、西明寺を目指します。高雄はどこを見ても紅葉だらけですが、この周辺は清滝川の清流と谷間、紅い橋があり、ひときわ絵になる場所です。

清滝川に添って散策路が続いている。車はほとんど見かけない。高雄橋から西明寺の入口にあたる指月橋(しげつきょう)まで15分位でしょうか。清流とカエデの紅葉を堪能しているうちに着いてしまいます。

高雄はどれも紅い橋だが、途中に場違いな橋が現れる。これが潅頂橋(かんじょうばし)で、西明寺への近道で「裏参道」と呼ばれている。少し歩いてみたが、参道の雰囲気が感じられないので引き返す。

紅葉に見とれて歩いているうちに、赤い欄干の橋が見えてきた。西明寺の入口にあたる「指月橋」(しげつきょう)です。この指月橋周辺は、高雄でも1,2を争う紅葉の景勝地。橋上で、東南アジア系のカップルが派手な結婚衣装で抱き合い、カメラ(ビデオ)におさまっていました。

 西明寺:指月橋から表門へ  



鮮やかに色づいたカエデに迎えらて、指月橋を渡る。入山拝観券に「見下げても 見上げてもよし 槙尾山」と書かれていますが、この指月橋周辺も「見下げても 見上げても」絵になる絶景地。橋の手前には「槙尾山聖天堂」の石柱が建つ。

指月橋を渡ると拝観受付があり、拝観料500円支払う。但し、紅葉の時期以外は境内拝観自由で、本堂拝観のみ400円だそうです。拝観時間:9時~17時、無休。
西明寺も山岳寺院なので参道の石階段を登って行くことになる。神護寺ほど距離はありません。この階段が苦になる人は、緩やかなスロープだけの裏参道を利用されると良い。階段を登りきると表門です。表門は、本堂と同じ元禄13年(1700)の桂昌院の寄進により造営されたもの。

 槇尾山・西明寺(まきのおさん・さいみょうじ)  


表門を潜ると、すぐ正面が本堂です。現在の本堂は、元禄13年(1700)に五代将軍 徳川綱吉の生母 母桂昌院(けいしょういん)の寄進により再建されたものと言われるが、東福門院(後水尾天皇中宮)の寄進によるとする説もある。

本堂正面の須弥壇上の図厨子内には、本尊の木造釈迦如来立像(重要文化財)が安置されている。高さ51cmほどの小さな仏像で、鎌倉時代に仏師運慶によって彫られたものという。



本堂脇の縁越しに庭園が見える。小さい庭だが、緑の植栽や苔と、それに覆いかぶさる紅葉が美しい。









本堂の前に槙(まき、高野槙)の大木が立っています。傍の案内板には、樹齢700年で「日本最古の槙の木の一本」とある。この木が「槇尾(まきのお)」の名前の由来となったそうです。

西明寺は真言宗大覚寺派の寺院。山号は「槇尾山(まきのおさん)」、本尊は釈迦如来。受付所で頂いたパンフに、西明寺の由来について
「天長年間(824~34)に弘法大師の高弟智泉大徳が神護寺の別院として創建したのに始まると伝える。その後荒廃したが、建治年間(1275~78)に和泉国槇尾山寺の我宝自性上人が中興し、本堂、経蔵、宝塔、鎮守等が建てられた。また正応三年(1290)に平等心王院の号を後宇多法皇より命名賜り、神護寺より独立した。さらに、永禄年間(1558~70)に兵火にあって焼亡したが、慶長七年(1602)に明忍律師により再興された。現在の本堂は、元禄一三年(1700)に桂昌院の寄進により再建されたものである」
と記されている。


西明寺の境内は広くはありませんが、どこを眺めても紅葉一色。紅葉シーズンだけ、境内有料となるのもわかります。

 高山寺へ向かいます  


ちょうど正午、指月橋を後にし高山寺に向かいます。静かな道を歩き進むと、5分位で周山街道(国道162号線)に突き当たる。ここからは車の往来の激しい周山街道を歩かなければならない。これといった景色もなく、車に神経使わされるだけ。

高山寺までの中ほどに紅い欄干の白雲橋がある。国道といえ、場所柄紅い橋になっている。この周辺だけが紅葉を楽しめます。しかし車は多いですが。


詳しくはホームページ

紅葉の高雄・三尾めぐり 3

2016年12月11日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月16日(水)、神護寺(高尾、たかお)→西明寺(槙尾、まきのお)→高山寺(栂尾、とがのお)の「三尾」紅葉めぐり

 神護寺境内図  



境内は広い。山岳寺院ですが、境内に達してしまえばそれほど高低差はありません。紅葉の最盛期なので、境内全域が紅く色づいている。
楼門を入った右手に、手前から順に書院、宝蔵、和気公霊廟、鐘楼、明王堂が建ち、その先には五大堂と毘沙門堂が南向きに建つ。毘沙門堂の後方には大師堂がある。五大堂北側の石段を上った正面に金堂、その裏手の一段高いところに多宝塔が建つ。「かわらけ投げ」の地蔵院は境内西端です。

 和気清麻呂公霊廟と鐘楼  


朱塗りの板塀で囲まれているのが和気清麻呂公霊廟。もとは和気清麻呂公を祀った護王社があったが、明治19年(1886)に京都御所の西に移転し護王神社となった。この霊廟は昭和9年(1934)、山口玄洞寄進により建立されたもの。
左階段上が鐘楼です。入母屋造、こけら葺、袴腰の鐘楼は、江戸時代の元和年間(1615-1623)に建立されたもの。その鐘楼の中には国宝の梵鐘が吊るされている。「姿の平等院」、「声の三井寺」とともに「銘の神護寺」といわれ「日本三名鐘」の一つに数えられている。平安時代の貞観17年(875)の鋳造で、序の詩は学者・橘広相、銘は文人・菅原是善、書は歌人・藤原敏行によるのもで、当時の一流文人の合作で「三絶の鐘」とも呼ばれた。総高149cm、口径80.3cm。

 五大堂・毘沙門堂・大師堂  



右の五大堂は元和9年(1623)の建築で、入母屋造・銅板葺きの三間堂。不動・降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉の五大明王像を祀っている。

五大堂の南に建つ毘沙門堂(写真では左)は江戸時代の元和9年(1623)の建築で、入母屋造、銅板葺の五間堂。昭和9年に新しく金堂が建つ前は、この堂が金堂で本尊の薬師如来像を祀っていた。現在は、厨子内に毘沙門天立像(平安時代、重文)を安置している。

毘沙門堂の西側に建つ大師堂(重要文化財)は入母屋造、こけら葺きの仏堂。神護寺の前身だった高雄山寺時代に空海が住まいとしていた「納涼房」を安土・桃山時代に復興したもの。内部の厨子に正安4年(1302)作の板彫弘法大師像(重要文化財、秘仏)を安置する。

 金堂と多宝塔  



金堂が、五大堂・毘沙門堂を見下ろすように、広い石段上に南面して建つ。この時期、艶やかなカエデ紅葉に彩られ、絵になる階段です。

金堂は昭和9年(1934)に実業家・山口玄洞の寄進で建てられたもの。入母屋造、本瓦葺きの本格的な密教仏堂で、昭和仏堂建築の傑作とされる。須弥壇中央の厨子に本尊の薬師如来立像(国宝)を安置し、左右に日光・月光菩薩立像(重要文化財)と十二神将立像、左右端に四天王立像を安置する。
金堂の背後の小高い位置に建っているのが多宝塔。ここも紅葉の美しい場所です。
金堂と同じく昭和9年(1934)に、実業家・山口玄洞の寄進で建てられたもの。内部に国宝の五大虚空蔵菩薩像を安置する(毎年5月と10月に各3日間ほど公開)。

 和気清麻呂公の墓所  



金堂の右奥に、山中に入る二筋の小道がある。入口に道しるべの石標が建てられ、「右 和気清麻呂公御墓参道」、「左」には性仁法親王・文覚上人の墓への道を示している。なお高雄山(標高428m)山頂へも、この左の道を登るそうです。




石標に従い右の小道を入っていく。平坦な山道で、10分位で垣根に囲まれた和気清麻呂公の墓所が現れる。
神護寺を創建した和気清麻呂公は、延暦18年(799)67歳で亡くなると、高雄山中にその墳墓が祀られた。この墓碑は、明治31年(1898)に建てられたもの。


 かわらけ投げ  



地蔵菩薩像を祀る地蔵院前の広場、境内で一番紅葉が美しい場所です。


ここが、いわゆる「かわらけ投げ広場」で、「かわらけ投げ」の発祥地。売店で2枚100円で、直径5cmくらいの素焼きの皿「かわらけ」を売っている。「記念に持って帰る」と言ったら、売店のあばさんに怒られた。”厄を家に持って帰ってどうするの!”って。それもそうだ、厄払いのために投げるんだから。
投げる人、覗き込む人、写真撮る人、さまざまです。なかなかうまく飛ばない。紙ヒコーキのようにふんわり飛ぶより、スッーと消えたほうがよいのかも。厄だから。ここはちょうど清滝橋の真上辺りでしょうか。清滝川まで飛ばすのは、まず無理でしょう。

 伝・源頼朝像  


何かでよく見たことのある肖像画です。これは神護寺に伝わっていた国宝「伝・源頼朝像」。日本の肖像画史上の傑作として名高い。寺の史料である『神護寺略記』によって源頼朝とされてきたが、近年では異説も多く確定できない。そのため、国宝の指定名称にも「伝」の字が付されている。
絹本著色、大きさは縦143cm、横112.8cmで、ほぼ等身大に描かれている。筆者は藤原隆信というのが通説だったが、これも最近否定されてきているようです。
神護寺の所蔵だが京都国立博物館に寄託されている。毎年5月1日~5日に開かれる「曝涼(虫干し)展」では、神護寺に里帰りし一般公開されるそうです。
(写真は小冊子「高雄山 神護寺」より)


詳しくはホームページ

紅葉の高雄・三尾めぐり 2

2016年12月06日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月16日(水)、神護寺(高尾、たかお)→西明寺(槙尾、まきのお)→高山寺(栂尾、とがのお)の「三尾」紅葉めぐり

 清滝橋から高雄橋へ  


清滝橋上で上流を見ればダムのようなものが見える。これが”危い”と注意書きにあったダムなのうだろうか。
清滝橋を渡り、神護寺の正面に行く途中。神護寺の手前でこの絶景です。11月中旬だがもう満開、いや見頃となっている。神護寺の紅葉は京都で最も早く見頃を向かえ、京都の紅葉シーズンの始まりを示すという。
川向の「もみじ屋」別館へ渡るつり橋。「もみじばし」とあり、「ゆすったりしないで下さい」と書かれている。歩くだけで微かに揺れ、少々気持ち悪い。「もみじ屋」だけあって、絵になるもみじ風景です。この別館は「川の庵」と呼ばれ、本館は裏山の上にある。即ち高雄バス停の横。山上の本館からの眺めも素晴らしいようです。
この辺は神護寺の正面からは反対側になるので、訪れる人は少ない。皆さん、こんなに素晴らしい景観があるのをご存知ないのでしょう。高雄観光ホテル先に紅い「高雄橋」が見えてきた。ホテル横の川沿いには川床小屋が並んでいる。
高雄観光ホテルのすぐ先に、紅い欄干の高雄橋が現れる。右山上に高雄バス停や駐車場があり、坂道を下りてくればすぐ高雄橋です。だからこの高雄橋が実質上、神護寺の入口になり、この辺りから人が多くなってきます。

 参道の階段  


山岳寺院である神護寺の境内もかなり高い所にあり、階段はつきもの。階段は長いが、それほど傾斜がきつくないので苦無く登れます。なによりズッーと紅葉に覆われているので、”綺麗ネ!、ワァー絶景!”と楽しみながら登っていける。途中にお茶屋さんもあるので、休憩もできる。
お茶屋さんはお茶だけでなく、うどん、そば、おでん等のお食事もできます。名物「もみじまんじゅう」も。
参道の丁度中ほどに「硯石」(すずりいし)がある。案内板には次のように書かれている。
「空海弘法大師が神護寺に在山の時、勅願の依頼を受けられたが、急な五月雨で橋が流されたため、この石を硯として対岸に立てかけた額に向けて筆を投げられたところ、見事に「金剛定寺」の四文字を書かれたという。但しこの寺は現存していない」
弘法大師のこういう話は、どこにいっても尽きないネ。それだけ弘法大師が崇拝されていたということでしょうが。
「硯石」の傍には茶屋「硯石亭」があります。ここの名物は「もみじ餅」。他にもぜんざいや湯豆腐セットなども。しかし何と言っても一番は紅葉の美しさ。庭に入って眺めるのは自由ですが、座ってはいけません。座りたかったらぜんざいを。

 神護寺の楼門が見えてきた
  



楼門が目の前に見えてきた。階段は辛い、という人のために滑らかな坂道も用意されている。階段中央のテスリも高齢者には優しいですネ。両側の緑と紅色のグラデーションが冴えます。長い階段の参道でしたが、しんどくありませんでした。
階段途中で、硯石亭のお庭を見下ろす
登りつめると拝観受付所のある正門にあたる楼門です。鬼瓦に寛永6年(1629)の刻銘があるので、その頃の建立とされる。両脇には持国天、増長天が睨んでいます。
ここで拝観料 500円払って門を潜る。拝観時間 朝9時~夕4時,無休(ただし、紅葉の時期は朝8時から拝観できるようです)


楼門から階段を見下ろします。この時期紅葉に彩られ美しい。春の新緑も冴えそうです。

ここまで400段余りの階段があるという。しかし単調な階段でなく、折れ曲がったり、紅葉を楽しんだり、またお茶屋で一服しながら登ってきたので、あっという間でした。



 神護寺の歴史  


★ 始まり ★
奈良時代末期、桓武天皇から新都建設の最高責任者(造宮大夫)を命じられ、平安京造営に力を尽くした和気清麻呂(わけのきよまろ、733~799)は、天応元年(781)国家安泰を祈願し河内国(現在の大阪府)に神願寺(しんがんじ)を建立した。またほぼ同じ時期に、山城に愛宕五坊(白雲寺・月輪寺・日輪寺・伝法寺・高雄山寺)の一つ「高雄山寺」を建立した。
高雄山寺(現在の神護寺)は和気氏の氏寺としての性格が強く、延暦18年(799)清麻呂没後、高雄山寺にその墓所が造られ、和気氏の菩提寺としての性格を強める。

★ 最澄、空海の時代 ★
清麻呂の子息(弘世、真綱、仲世)は亡父の遺志を継ぎ、最澄(767~822、伝教大師)、空海(くうかい、774-835、弘法大師)を相次いで高雄山寺に招き仏教界に新風を吹き込む。

延暦21年(802)、和気氏の当主であった和気弘世(清麻呂の長男)の要請により、比叡山中にこもって修行を続けていた天台宗開祖・最澄が、高雄山寺で法華経の講説を行う。
延暦23年(804)最澄と空海は遣唐使として唐へ。
延暦24年(805)唐より帰朝した最澄は、桓武天皇の要請で高雄山寺にてわが国最初の灌頂壇を開く。
大同元年(806)空海、唐より帰朝。最澄は、帰国後1か月にもならない空海のもとに弟子・経珍をやり、空海が唐から持ち帰った経籍12部を借覧し、その後も借り続けた。
大同4年(809)空海は高雄山寺の初代の住持に迎えられ入寺する。以来14年間住み活動の拠点とし、高雄道場と呼んで真言宗を開くための基礎を築いた。
弘仁元年(810)、空海は高雄山寺において鎮護国家の修法を行う。
弘仁3年(812)最澄は弟子と共に高雄山寺に赴き、空海から灌頂(密教の重要な儀式)を受ける。この時、灌頂を受けた僧俗名を列記した空海自筆の「灌頂歴名」が現存し、国宝になっている。
この間数年間にわたり、高雄山寺を中心に最澄、空海の親交が続けられてきた。

ところがWikipediaには以下の記述がある。
「813年1月、最澄は泰範、円澄、光定を高雄山寺の空海のもとに派遣して、空海から密教を学ばせることを申し入れ、3月まで弟子たちは高雄山寺に留まった。しかし、このうち泰範は空海に師事したままで、最澄の再三再四にわたる帰山勧告にも応ぜず、ついに比叡山に帰ることはなかった。
813年11月、最澄が「理趣釈経」の借用を申し出たが、空海は「文章修行ではなく実践修行によって得られる」との見解を示して拒絶、以後交流は相容れなかった。」
その後、最澄は空海と決別したという。

弘仁七年(816)、空海は高野山を修禅観法の道場としてその開創に着手。
弘仁13年(823)、最澄、比叡山の中道院で没、享年56歳。
弘仁14年(823)、空海は東寺を賜って住み、鎮護国家の道場としてその造営を任されている。

天長元年(824)清麻呂の子・真綱は、河内の神願寺が低湿の砂地にあり、汚れた地で密教壇場にふさわしくないという理由で高雄山寺と合併し、高雄山寺を定額寺として「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」(略して神護寺)と改称した。「神護国祚真言寺」とは、「八幡神の加護により国家鎮護を祈念する真言の寺」という意味。合併の際に多くの霊宝が移された。現在、神護寺の本尊として金堂に安置される薬師如来立像(国宝)もその一つ。
承和2年(835)空海の死(62歳)。

★ 文覚上人による神護寺の再興 ★
神護寺は空海の後、弟子の実慧や真済が別当(住職)となって護持されたが、正暦5年(994)と久安5年(1149)年の二度の焼失で堂塔のほとんどを失なう。その後、神護寺は衰退、荒廃していく。
平安末期の仁安3年(1168)、文覚上人(もんがく、1139-1205)が神護寺に参詣すると、八幡大菩薩の神意によって創建され、弘法大師空海ゆかりの地でもあるこの寺が荒廃していることを嘆き、再興を始めた。早速草庵をつくり、薬師堂を建てて本尊を安置した。しかし復興が思うにまかせぬため、承安3年(1173)意を決した文覚は後白河法皇を訪ね、千石の収入のある荘園の寄進を強要した。そのため、法皇の逆鱗にふれ、伊豆に配流されてしまう。その伊豆で、同じ運命の源頼朝と親しくなり、平家打倒の挙兵を促したと伝えられている。
治承2年(1178)文覚は配流を許され寺に戻る。
寿永3年(1184)年、文覚上人が後白河法皇の勅許を得、源頼朝の援助もあ って寺の再興は進んだ。文覚自身は罪を得て対馬に流され、1205年配流先で生涯を終えた。遺骨は弟子・上覚により持ち帰られ、当寺に埋葬されたという。神護寺の再興は弟子の上覚と明恵によって続けられた。

★ 室町時代~江戸時代 ★
室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で再び兵火をうけ大師堂をのこして焼失しまう。
元和9年(1623)年、京都所司代・板倉勝重が奉行になり、細川忠興の帰依も得て、金堂(毘沙門堂)、五大堂(講堂)、明王堂、楼門などの伽藍の建て直しが行われた。江戸時代中期には堂宇七、支院九、僧坊十五を数えるまでに再興された。

★ 近代 ★
神護寺も例に漏れず、明治の神仏分離令(1868)による廃仏毀釈の弾圧を受ける。公式サイトには「ところが、明治維新後の廃仏毀釈によって愛宕山白雲寺は消滅、当寺も開創以来維持されてきた寺域はことごとく分割のうえ解体され、支院九と十五坊はたちまち焼失、別院二ヶ寺と末寺のすべては他寺に移された。」とあります。
少しでも残されただけでも幸いです。奈良県「山の辺の道」石上神宮近くの大寺院・内山永久寺は、全域果樹園に成り果てている。ただ一つ境内池が残され、松尾芭蕉がこの寺を訪れた時に読んだ句碑だけが寂しそうに立っています。

昭和10年(1935)、京都の豪商・山口玄洞の寄進により、金堂、多宝塔、清麻呂廟、唐門などの伽藍の再建、修復が行われた。
戦後の昭和27年(1952)、寺領の一部を境内地として政府より返還され今日に至っている。



詳しくはホームページ

紅葉の高雄 ・ 三尾めぐり 1

2016年12月01日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2016年11月16日(水)
紅葉のシーズンがやってきました。今年は京都の高雄と決めていた。この地域は、神護寺の高雄(高尾、たかお)、西明寺の槙尾(まきのお)、高山寺の栂尾(とがのお)を合わせて「三尾(さんび)」と呼ばれ、京都を代表する紅葉の名所であります。高雄へは、通常1時間ほどかけてバスで行くのですが、ハイキング(ウォーキング)を兼ねて歩いてゆくことにしました。京都の奥座敷・清滝を出発点に、錦雲渓(きんうんけい)の東海自然歩道を1時間半ほどかけて歩き高雄に入る散策コースです。そして神護寺→西明寺→高山寺と紅葉めぐりし、高雄バス停からJRバスで帰りました。

 京都の奥座敷:清滝(きよたき)  


地下鉄・日本橋~阪急・淡路~桂~嵐山と乗り継いで、6時50分嵐山駅に着く。ここから清滝行きのバスが出ています。早朝のため車が空いていたせいか、バスで15分位で清滝に着きました(7時半)。清滝は愛宕山東南麓の清滝川に沿った静かな里で、桜・紅葉の名所、夏は避暑地として「京都の奥座敷」といわれる景勝地です。
この清滝には四年前(2012/11/19日)、愛宕山登山で来たことがある。その時は阪急・嵐山駅から歩きました。途中、化野念仏寺に寄り、無縁仏と化した幾千もの石仏・石塔に覆いかぶさる紅葉の凄まじさに感動した。そして300mもの恐怖のトンネルを・・・。思い出します。

錦雲渓には右の広い道を下りて行く。真ん中の狭い急坂を下り、清滝川にかかる朱色の橋「渡猿橋」から清滝の里を抜けても行けますが、若干遠回りになる。


坂道を5分ほど下れば金鈴橋が見えてくる。この周辺も紅葉が絶景です。橋を渡たりきると「愛宕山登山口」の標識が立つ。愛宕山(標高924m)の山頂には火伏せの神として信仰が厚い愛宕神社がある。古くから神社への愛宕詣が盛んで、登山道は参拝道でもあるのです。清滝は愛宕参りの休憩地・宿場でもあった。

 錦雲渓(きんうんけい)1  


これから橋を渡り、清滝川の左岸を上流へ向かって歩きます。清滝から上流の高雄までは「錦雲渓」(きんうんけい、又は「錦雲峡」)と呼ばれる。清滝川は下って落合いで保津川と合流している。清滝川に添った下流方向は「金鈴峡」(きんれいきょう)と呼ばれ、東海自然歩道のハイキングコースに含まれています。
錦雲渓は、清滝から高雄までの清滝川渓谷で、約4kmのハイキングコース。東海自然歩道になっており、よく整備されているという。普通に歩いて1時間半ほどで高雄・神護寺に着くという。写真撮りながらのんびり歩いて渓谷美を楽しもうと思っているので、2時間ほどを予定している。現在7時半過ぎなので、10時までに高雄・神護寺に着けばよい。
この辺りは舗装された林道で、右下を流れる清滝川のせせらぎの音を聞きながら気持ちよく歩けます。
高雄までの道のりに、分岐道が二箇所ある。それ以外は一本道で迷うことはない。まず最初の分かれ道がここです。金鈴橋から15分くらいでしょうか。高雄へ続く錦雲渓は、真ん中の坂道を下りて行く。右への小道はすぐ行き止まり、左への舗装道は月輪寺を経て愛宕山山頂への登山道です。4年前の愛宕山登山では、この道を下山してきた。途中の月輪寺は、その年七月の豪雨で大きな被害に遭い無惨な姿をさらしていた。山岳寺院の宿命です。復興されたのでしょうか?。
真ん中の坂道を下りて行くとすぐ二番目の分かれ道に出会う。真っ直ぐ進む道と、V字形にバックする道の二道に分岐する。立てられている案内標識はV字形にバックする道を示している。何故バックするんだろう?と疑問に思うが案内標識に従う。
川沿いを清滝の方向へバックします。歩き続けるが変化がない。このままでは清滝まで戻ってしまうのではないかと心配になってきた。オイオイどうなっているんだよ!と、不安な気持ちになってくる。
やがて右岸へ渡る橋が現れホッとした。しかし何故これだけ引き返さなければならないのだろうか?。錦雲渓ハイキングコースの最大の難所です。
橋を渡り、清滝川の右岸を今度は上流に向かって歩く。すぐ横が清滝川の清流で、飲みたくなるほどの澄みきった透明な川水。川魚も心地よく泳げるだろうナ、と探したが見かけなかった。清滝川はゲンジボタルの生息地だそうです。
「危い」案内標識がある。”危い”って、じゃどうするんだヨ。引き返すか、先へ走るか、それとも斜面を這い上がるか、観念するか。
こういった山中には、必ず熊、イノシシの注意書きが見られるものだが、この錦雲渓では見かけなかった。熊、イノシシの方が心配ですが、大丈夫なのでしょうか?。

 錦雲渓 2  





この風景を見ていると、二年前の赤目四十八滝(三重県名張市)の景勝地を思い出します。なんとなくよく似ている。赤目四十八滝ほど危険な箇所もアップダウンも少なく、平坦で歩きやすい。


ここまで緑だけで紅葉は見られなかった。錦雲渓の中ほどから少しづつ紅葉が散見されるようになる。寺院を華やかにする紅葉も良いが、こうした自然の中に色づく紅葉はなお良い。こうした景観は人の手によるのでなく、自然の自然になせるもの。京都の寺院の紅葉は綺麗だが、あまりにも作為的すぎる。

やがてベンチが置かれ休憩所になっている小さな広場にでる。木組みが剥き出しになり廃墟となった建物跡も残っている。以前の茶屋跡らしい。お茶屋さんがあったということは、それなりに人出があったということですね。清滝からここまで誰一人出会わなかった。ここのベンチ座っているおじさんが初めての人です。嵐山-高雄パークウェイが整備され、マイカーやバスで高雄に入るようになり錦雲渓を歩く人がいなくなったのでしょうか。険しい道もなく渓谷美を味わいながら川沿いを歩く1時間半ほどのハイキングコース。もっと沢山のハイカーに出合ってよいものですが。それとも朝8時という早過ぎる時間のせいでしょうか?。


案内図を見れば、ベンチのある広場はちょうど清滝~高雄の中間地点あたり。広場の横に、右岸へ渡る橋が見えます。”潜没橋”とか。増水したら潜没するんでしょうか。それともダムの放流で?。この辺りも自然の織り成す景勝地。川遊びしたくなります。
橋を渡ると杉木立が道の両側に、塀のように直立して並んでいる。これも「北山杉」っていうのでしょうか。北山杉は、真直ぐで一定の太さをもった、しかもフシのない美しい木だという。ここの杉もそれにピッタリです。

所々、紅葉を堪能できる箇所がある。心が和み、俗世間から逃避できます。平坦な歩きやすい道が続き、新鮮な空気と爽やかな風景を楽しみながら歩き続ける(「危い」の警告板は何度か出会うが・・・)。やがて清滝橋が見えてきた。ようやく神護寺にたどり着いたようです。8時50分なので、1時間半弱で錦雲渓を歩いたことになる。



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