山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

一乗寺から赤山禅院へ 2(圓光寺・金福寺)

2022年12月24日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2022年11月16日(水曜日)
紅葉の美しい圓光寺と、その末寺・金福寺を訪ねます

 圓光寺(えんこうじ) 1  



圓光寺は詩仙堂から10分ほどの距離にあります。前日に圓光寺の公式サイトを見ると、なんと混雑を避けるためという理由で事前予約制になっているではないか。これはマズイな!と思ったが、最盛期に少し早く、平日でもあるので希望日時に予約できるのではと思い予約してみた。公式サイトで日と時刻を指定し、メールアドレスを記入して送信する。すぐに結果をメールで知らせてくれる。16日11時台で「予約確定のお知らせ」メールが届いていました。11時台というのは、11時から11時59分の間に入ればよいのです。当日入口で、この確定メールを見せればよい(プリントアウトでもよい)。
拝観料:1000円(特別拝観期間のため、通常は500円)
拝観時間:午前8時(特別拝観期間のため、通常は9時)~午後5時閉門
私が圓光寺に着いたのは10時15分。スマホの予約確定メールを見せ、「11時になっていないが、入れませんか?」と頼むと、入れてくれました。予約無しでも、その時間帯に人数に余裕あれば入れるようです。

「瑞巌山(ずいがんざん)圓光寺(えんこうじ)」の歴史は「慶長6年(1601年)に、徳川家康は国内教学の発展を図るため、下野足利学校第九代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校としました。圓光寺学校が開かれると、僧俗を問わず入学を許しました。その後、圓光寺は相国寺山内に移り、さらに寛文7年(1667年)現在の地に移転しました。」(受付で頂くパンフより)
臨済宗南禅寺派に属し、明治以降は日本で唯一の尼僧専門の修行道場となった。現在は南禅寺派研修道場として坐禅会などが実施されている。

山門から石畳の参道を進むみ階段を登ると目の前に庭園「奔龍庭(ほんりゅうてい)」が広がる。枯山水庭園だが、京都の古寺で多く見られる枯山水とは一味違った庭です。平成25年(2013)に完成した新しい庭園だからです。「渦を巻き、様々な流れを見せる白砂を雲海に見立て、天空を自在に奔る龍を石組で表わした平成の枯山水。荒く切り立った石柱は、龍の周囲に光る稲妻を表現し、庭園全体に躍動感を与えています。通常、庭園の境界を示すために配される留め石は置かず、この庭園はあえて未完のままになっています。眺める方がその余白を埋め、それぞれのお心のなかで完成させていただけたらと思います」(受付パンフより)

見つめれど なにも浮かばず 我悲し

奔龍庭の奥の中門を潜ると、本堂があり、本堂前に庭園「十牛之庭(じゅうぎゅうのにわ)」が広がる。

中門を潜るとすぐ見えるのが水琴窟(すいきんくつ)。縁が広い盃型の手水鉢を使ったのが珍しく「圓光寺型」と呼ばれている。竹筒に季節毎の草花が添えられるそうだが、この時期はもちろん鮮やかな紅葉が。肝心な音色を聞くのを忘れてた。



本堂内部。祀られているのは、運慶の作と伝えられている千手観世音菩薩坐像。襖絵は富岡鉄斎(1836-1924)の描いた「米點山水図」。明治18年(1885)秋、48歳の時に圓光寺を訪れた折に描いたという。

本堂前に広がる庭園は「「十牛之庭(じゅうぎゅうのにわ)」と呼ばれています。紅葉の美しさで知られた庭園ですが、最盛期には少し早いでしょうか、まだ完全に色づいていませんでした。軒先の柱を額縁に見立てた額縁庭園にもなるのですが、朝一番にでも来ないと撮れないですね。赤毛氈の敷かれた縁に座り鑑賞する、最近どこでもよく見かけられる風景です。

 圓光寺 2 (庭園「十牛之庭(じゅうぎゅうのにわ)」)  




池泉回遊式庭園なので、これから履物に履き替え庭園を散策します。

「十牛之庭(じゅうぎゅうのにわ)」について受付パンフに「牛を追う童子の様子が描かれた「十牛図」を題材にして、近世初期に造られた池泉回遊式庭園です。十牛図に描かれた牛は、人間が生まれながらに持っている仏心をあらわしています。牧童が悟りにいたるまでの道程であり、懸命に探し求めていた悟りは自らの中にあったという物語です」と書かれている。庭には十牛に因み、牛に見える十の石が配されているそうです。

庭園の真ん中に「栖龍池(せいりゅうち)」と呼ばれる池がある。洛北で最も古い池だそうです。この栖龍池周辺が一番の紅葉スポットです。また池に写る逆さ紅葉も鮮やかでした。

広い庭園には池を一周するように遊歩道が設けられ、散策しながら紅葉を楽しむことができる。頭上を覆う紅葉、足元の散り紅葉、池に映える逆さ紅葉、と堪能させてくれます。

散りもみじ・敷きもみじと呼ばれる紅葉の絨毯があちこちで見られます。今でこれですから、最盛期を過ぎた頃にはどんな景色を見せてくれるのでしょうか。

眠っている場合じゃないですヨ。

庭園の奥に行くと苔庭と竹林が現れる。紅と緑のコントラストがいいね。

この竹林は「応挙竹林」と呼ばれている。江戸時代の絵師・円山応挙がよく訪れており、瑞雲閣の展示室にある「雨竹風竹図屏風」はこの竹林を描いたもの。

竹林の奥に階段が見えます。そこから徳川家康の墓などがある裏山へ登れます。

 圓光寺 3 (裏山)  





階段を登ると小さな広場と墓地にでる。ここに案内略図が掲示されているので判りやすい。
家康の歯が納められている東照宮は、さらに登った山中になります。








サイド・オマールの墓。

マレーシア人のサイド・オマールは、南方特別留学生として第二次世界大戦中の昭和18年6月来日し、広島大学に在学した。昭和20年8月の原子爆弾で被爆し、京大病院に運ばれたが9月3日18歳の生涯を閉じた。当時の市営墓地だった南禅寺大日山に埋葬されたが、遺族の許可を得て昭和36年にここにイスラム教式の墓碑が建立された。マレーシア王族の出身だったから・・・?。





舟橋聖一の歴史小説「花の生涯」に登場する村山たか(たか女)の墓があります。墓地の一番奥の方で、やや分かりにくい。村山たか女については金福寺で触れます。

墓地のある広場からさらに坂道を登ります。後ろを振り返ると杉木立の間から京都市街が見えてくる。


やがて、圓光寺の開基である徳川家康を祀った東照宮と、その右側に柵で囲われた徳川家康の墓が現れる。墓には家康の歯が埋葬されているとか。

お墓の前は一種の展望台のようになっています。眼下に圓光寺の伽藍とそれを彩る紅葉が、その先には京都市街が一望でき、遠くには北山や嵐山なども望むことができます。


最後に、奔龍庭の横にある建物「瑞雲閣(ずいうんかく)」に入ってみます。ここは寺宝の展示室と、庭園を鑑賞できる畳の大広間からなっている。





これは円山応挙筆「雨竹風竹図屏風」。紙本墨画の六曲屏風一双で、国の重要文化財です。十牛之庭にある竹林を描いたもの。










伏見版木活字(圓光寺)(重文)。
徳川家康は文治政策の一つとして京都伏見に圓光寺学校を開設した(圓光寺の始まり)。そこで孔子家語・貞観政要・三略など多くの儒学・兵法関連の書籍を印刷刊行した。その時に使った木製の活字5万個が現存している。これら「伏見版木活字(圓光寺)」は、日本最古の木製活版文字として国の重要文化財に指定されています。


瑞雲閣の縁側から紅葉鑑賞。全面真っ赤に燃え上がる様は感動ものだが、緑葉、黄葉の混ざる紅葉風景も風情なものです。

 金福寺(こんぷくじ) 1  


(金福寺へは、朝一番の午前9時に訪れたのだが、”今日は法事が行われるため拝観できません。午後2時頃からなら可能かと思います”とのこと。予定が狂ったが、赤山禅院を訪れた後に引き返し、一番最後に訪れることにした)午後2時半、再訪する。緑の植え込みに囲まれ、真っ赤な紅葉に覆われた小さな山門と石段。俳句の聖地と呼ばれるのに相応しい門前です。

金福寺(こんぷくじ)の由緒は「864年(貞観6年)慈覚大師円仁の遺志により、安恵僧都(あんねそうず)が創建し、円仁自作の聖観音菩薩像を安置した。 当初天台宗であったが、後に荒廃したために元禄年間(1688年?1704年)に円光寺の鉄舟によって再興され、その際に円光寺の末寺となり、天台宗より臨済宗南禅寺派に改宗した。その後鉄舟と親しかった松尾芭蕉が、京都に旅行した際に庭園の裏側にある草庵を訪れ、風流を語り合ったとされ後に芭蕉庵と名付けられたが、荒廃していた為、彼を敬慕する与謝蕪村とその一門が1776年(安永5年)に再興した。幕末に入り舟橋聖一著の『花の生涯』のヒロインとして知られる村山たか(村山たか女)が尼として入寺し、その生涯を閉じた。」(Wikipediaより)

山門の先に受付がある。営業時間 9:00~17:00(受付16:30迄)、大人500円 中高校生300円 小学生以下無料

受付前に真っ赤な敷きもみじが。その鮮やかさに、まるで造形されたかのようにも思ってしまう。金福寺の紅葉は、門前の覆いかぶさるような紅葉と、この敷きもみじに尽きます。

金福寺は本堂があるだけの小さなお寺です。手前で履物を脱ぎ本堂に上がってみる。畳敷の本堂には本尊の聖観音菩薩が祀られ、周囲には寺にゆかりの遺品が展示されています。奥に見える屋根は芭蕉庵。

松尾芭蕉を敬慕していた与謝蕪村は、芭蕉ゆかりの当寺をたびたび訪れ一門たちと芭蕉庵で句会を開いていた。その時に愛用していた文台と重硯箱。
床の間の掛け軸には蕪村筆による「芭蕉翁像」が描かれている。「蕪村が64才安永8年(1780)特に当寺のために描いたもの。彼は芭蕉を俳諧の先師として最も尊敬していた。芭蕉の肖像画として最も勝れたものとの定評がある」と説明書きがある。

(上写真)蕪村筆「江山清遊の図」
(下写真)蕪村筆「奥の細道画巻」(重文)。画家でもあった蕪村は、芭蕉の紀行文「奥の細道」の全文を書き、それぞれ14の場面に俳画を描き入れた。(複製品、池田市逸翁美術館蔵)

「文久秘録」に描かれた「たか女晒し者の図」

村上たか女(1809-1876)について受付のパンフに「作家舟橋聖一の歴史小説『花の生涯』・諸田玲子『奸婦にあらず』のヒロイン村山たか女は、井伊直弼が彦根城の埋木舎で不遇の部屋住み生活をしていた頃の愛人であった。直弼は32歳のとき江戸に下り、44歳で大老職に就任した。その頃アメリカの強硬な要求で開国政策を推進せざるを得なかった。一方たか女は京都に於いて幕府の隠密(スパイ)となり、攘夷論者達(薩摩・長州・水戸藩の浪人・公家)の動向を探索し、その情報を永野主膳を通じて幕府(大老)に密報する事で「安政の大獄」に加担した。その為に、たか女は勤皇方から大変恨まれ、大老が万延元年「江戸城桜田門外の変」で暗殺されると、彼女は勤皇の志士に捕らえられ、京都三条河原で生き晒しにされたが、三日後に助けられ文久2年(1862)尼僧となって金福寺に入り、名を「妙寿(みょうじゅ)」と改め、14年間の余生を送り、明治9年(1876)当寺に於いて67歳の波瀾の生涯を閉じた。本墓は当寺に程近い圓光寺にあり、金福寺には彼女の御位牌、筆跡。遺品などが伝わっているとともに詣墓(まいりばか)がある」と書かれています。




59歳の時に作った牡丹の刺繍をした壇引(仏壇の前に垂らすもの)。若い頃、芸妓になっていたので芸事を心得ていたという。

山門脇にさりげない建物がある。よく見ると「村上たか女創建の弁天堂」の札が掛かっています。
村上たか女は巳年生まれだった。九死に一生を得て生き永らえたのは、巳をお使いとする弁財天のご加護と信じ、お堂を建て弁財天と巳を祀ったのです。蛇の像が入った「福巳塔」が祀られている。弁天堂の鬼瓦にも蛇が刻まれています。

 金福寺 2  



本堂前の庭園。元の庭を昭和の初めに、七代目小川治兵衛が改修した枯山水庭園。白砂に置き石・灯篭が配され、それをサツキの築山が囲む、小さいながらよくまとまった庭園です。

庭園の左側に石敷きの小径が奥へ伸びて、芭蕉庵や与謝蕪村の墓がある丘の上へ続いている。

茅葺き屋根の芭蕉庵。
「元禄の昔、芭蕉は山城(京都)の東西を吟行したころ、当寺の草庵で閑居していた住職鉄舟和尚を訪れ、風雅の道について語り合い親交を深めた。その後、和尚はそれまで無名であった庵を「芭蕉庵」と名づけ、蕉翁の高風をいつまでも偲んでおられた。その後、85年ほどして与謝蕪村が当寺を訪ねて来た。その頃すでに庵は荒廃していたが、近くの村人たちは、ここを「芭蕉庵」と呼びならわしていた。芭蕉を敬慕していた蕪村は、その荒廃を大変惜しみ、安永5年(1776)庵を再興した」(受付パンフより)。蕪村は一門たちとこの庵で句会をしばしば催しましたという。


蕪村らによって建立された芭蕉の碑。建立時、蕪村はこの近くに眠りたい、と詠んでいたので、すぐ上の山中に埋葬された。

坂道を少し登って行くと、村山たか女の参り墓がある。金福寺の本寺である圓光寺に埋葬されたが、尼僧として余生を送り波瀾の生涯を終えた当寺にも、本墓の土を埋め参り墓がつくられた。墓石には「祖省塔」と刻まれている。

さらに登って行くと与謝蕪村の墓があります。傍には江森月居など弟子たちの墓もある。

墓の前からは京都市内が一望できます。まさに「京を一目の墓どころ」です。

本堂と庭を見下ろす。


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