山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

2015年秋、皇室の菩提所・泉涌寺へ (その 3)

2016年04月27日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2015/11/24(火)「御寺(みてら)」と呼ばれる天皇家の菩提所・泉涌寺を訪れた時の記録です。

 月輪陵(つきのわのみささぎ)、後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)  


霊明殿の真後ろに、天皇を初め皇室の方々のお墓が並ぶ月輪陵、後月輪陵が位置している。正面拝所には霊明殿右横から入れます。入口の横には、どこの天皇陵にも見られる画一化された宮内庁の制札が掲げられている。しかし、ここの制札は横に長~~く、たくさんの天皇以下皇族の名前が並んでいます(みな知らない方々ばかりで、著名な天皇さんは見当たらないのだが・・・)。影の薄い御名に比べ、「みだりに・・・・宮内庁」のデカイ文字がひときは目立つ。

1234年、第86代後堀河天皇が亡くなり、泉涌寺内の観音寺に埋葬される(観音寺陵)。仁治3年(1242)1月、次の第87代四条天皇が12才で崩御されると、父である後堀河天皇の近くに葬られたいとの遺言から、泉涌寺で葬儀が行われ、月輪大師の御廟(開山堂)近くに埋葬された。これが月輪陵の最初です。

南北朝時代中頃から泉涌寺で天皇の火葬が行われるようになり、遺骨は別の場所に埋葬された。制札の後半に、第103代後土御門天皇(1442-1500)~第107代後陽成天皇(1571-1617)の5人の天皇には[灰塚]と表記されている。これは火葬後に残った「灰」を埋葬し石碑をたてたもので、供養塔の一種。「骨」を埋めた正式な御陵は「深草北陵」(伏見区深草坊町)にある。ところが、後陽成天皇の葬儀の時に「髪、灰、骨」の形見分けで一悶着あったらしく、その次の第108代後水尾天皇(1596~1680)からは「土葬」されるようになった。そして以後の天皇は葬儀場だった泉涌寺にそのまま埋葬されることになったとのこと。
制札に列挙されているように、以後幕府最後の天皇・121代孝明天皇の前まで続きます。13人の天皇が月輪陵に、2人の天皇が後月輪陵にお眠りになっている。皇族の方々を含め、全部で25陵・5灰塚・9墓が鎮まっています。まさに皇室の香華所(菩提所)に相応しい。

門内に入ると、白砂が敷き詰められた広い前庭となっている。中には入れず、かなり離れて遥拝することになる。陵地は一段高くなっており、中央に構える石段上の唐門が、天皇陵に相応しい威厳を表している。

天皇家唯一の菩提寺として幕府の保護を受けてきた。ところが明治維新政府の神仏分離方針のもと、明治11年(1978) これまで泉涌寺の境内の一部だった月輪陵・後月輪陵は宮内省の管轄になった。それでも歴代の天皇の位牌や尊像は泉涌寺に祀られているというところから、宮内省から若干の補助は受けてきたようです。しかし終戦後の新憲法では、国が直接神社仏閣に資金を供することが禁止された。泉涌寺は皇室の御寺として、通常の寺院のように壇信徒を持っていない。そのためお寺の懐事情も苦しいようですが・・・。

内部を覗けないので、Google Earthで空中から覗きます。天皇陵といえば仁徳天皇陵などの巨大な前方後円墳を思い浮かべるが,7世紀以降になると方墳、円墳へと変化し、さらに八角墳が採用されるようになった。また仏教思想の影響により、火葬の導入(持統天皇)が見られるようになる。
中世にはいると天皇も仏式に火葬され寺に埋葬というのが一般的になる。月輪陵の最初の第87代四条天皇も、ここ泉涌寺で火葬され納骨された。ところが江戸初期の第108代後水尾天皇(1596~1680)から天皇家の葬礼が土葬にかわる。泉涌寺で葬儀が行われ月輪陵内に埋葬され、石造塔形式の陵墓が建立されただけです。こうした方式は、以後孝明天皇の前(第120代仁孝天皇)まで続けられ、かってのように墳丘が造営されるのではない。すべて土葬され仏式の御石塔でお祀りされている。天皇は九重の石塔(宮内庁は「陵形:九重塔」と表現している)、皇妃は無縫石塔(むほうせきとう)、親王墓は宝篋印石塔(ほうきょういんせきとう)だそうです。まさに武士の時代で、皇室の衰えを象徴している。

ところが、幕末にいたって尊皇思想が高揚してくると天皇のお墓についても変化が生じてくる。第121代孝明天皇が崩御されると、月輪陵の裏山に大規模な墳丘を持つ円墳が築造された。明治天皇(伏見桃山陵)、大正天皇(武蔵野陵)、昭和天皇(武蔵野陵)も、土葬され「陵形:上円下方」(宮内庁の呼び方)の墳丘となっている。

★平成25年(2013)11月14日、宮内庁から「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」が発表された(内容は宮内庁サイトを)
それによると、ご葬法について今上天皇(明仁)および皇后(美智子)さまから「御陵の簡素化という観点も含め,火葬によって行うことが望ましいというお気持ち,かねてよりいただいていた」という。それを受けて宮内庁で検討した結果、
・御陵は今までどおりの上円下方形とし、規模は昭和天皇陵の8割程度とする。
・今後の「御葬法として御火葬がふさわしいものと考えるに至った」
と発表された。これにより、江戸時代初期から350年以上続いてきた天皇・皇后の葬儀と埋葬方法は今上天皇の代では大きく変わることになる。

いつの日か、”美しく強いニッポン”の象徴として巨大な天皇陵がそびえることのないよう・・・お願いします

 第86代後堀河天皇・觀音寺陵(かんおんじのみささぎ)  


泉涌寺の東の山中に第121代孝明天皇の後月輪東山陵がある。直ぐ裏手で近いので訪れてみることに。泉涌寺境内の北側、仏殿の横に守衛所があり、ここから出入りできる。拝観券を見せると再入場もできます。
後月輪東山陵へは、ここを出て右側の緩やかな坂道を山中の方向に登って行くとすぐです。

5分位進むと、左手に階段が見え、宮内庁の例の制札が建っている。「後堀河天皇 観音寺陵」とある。
階段から坂道を登った行くと、左下には泉涌寺の建物が見えます。天福2年(1234)崩御された第86代後堀河天皇は、泉涌寺内の東山観音寺に埋葬されたという。これがその「観音寺陵(かんおんじのみささぎ)」です。宮内庁は「陵形:円丘」としている。

承久3年(1221)「承久の乱」がおこり、後鳥羽上皇を中心とした天皇側と鎌倉幕府との天下分け目の決戦が起こる。結局天皇側は負け、後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇の三上皇は配流され、仲恭天皇は退位させられた。幕府は次の天皇として後鳥羽上皇の直系子孫でない後堀河天皇(第86代、ごほりかわてんのう、1212-1234)を即位させた。まだ10歳で、幕府の言うがままで何もできない。10年後(1232年)、息子でまだ2歳の四条天皇に譲位し院政を行うが、2年後に23歳の若さで崩御した。



 第121代孝明天皇後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)  


後堀河天皇觀音寺陵からさらに進むと、左側にコンクリートの柵が見えてくる。入いるナ!、という宮内庁の意思表示で、この中に孝明天皇の女御・英照皇太后の御陵「後月輪東北陵」が築かれている。柵に沿って少し進むと広場に出る。
ちなみに明治天皇は英照皇太后の子ではない。孝明天皇と英照皇太后との間には2人の皇女がいたが、2人とも幼児期に夭折してしまう。そこで天皇と典侍の中山慶子との間に生まれた祐宮睦仁親王(当時9歳)を養子にもらい、「実子」と称した。この睦仁親王がのちの明治天皇なのです。

広場に宮内庁の制札「孝明天皇後月輪東山陵、英照皇太后後月輪東北陵」が掲げられている。その横には塀と扉しかなく、陵墓でよく見られる石の鳥居や柵などからなる正面拝所ではなし。どうやら孝明天皇、皇太后の陵墓はこの奥で、一般人は入れないようになっている。遥拝したければこの扉に向かってどうぞ、ということでしょうか。
第121代孝明天皇は幕末最後の天皇で明治天皇の父。慶応2年(1866)12月25日36歳で突然崩御する。公式には天然痘で亡くなったとされていますが、毒殺説、刺殺説などが残る。

前代の第120代仁孝天皇までは埋葬し、九重の石塔を建てるだけの簡素なものだった。次の孝明天皇から再び大きな墳丘が造営されるようになったのです。王政復古の象徴です。現代まで続いている。

 第85代仲恭天皇九条陵(ちゅうきょうてんのうくじょうのみささぎ)  



東福寺、泉涌寺周辺にはもう一つ天皇陵が在ります。第85代仲恭天皇・九条陵(ちゅうきょうてんのうくじょうのみささぎ)です。地図では東福寺塔頭の光明院のすぐ裏手になっている。そこで光明院を訪れた後、地図を頼りに住宅地を抜け裏山へ入っていった。雑木林の中へ入り込むと、広場とその正面に陵墓の遥拝所が現れた。どこにもある制札は見かけなかったが、「仲恭天皇九条陵」の石柱が建てられている。宮内庁は「陵形:円丘」としている。

第85代仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう、1218-1234)は在位78日間で、歴代天皇の中でも最も短命の天皇として知られる。承久3年(1221)「承久の乱」が起こる。祖父後鳥羽上皇が鎌倉幕府の討幕計画を画策し、父順徳天皇もこれに加わった。そのためわずか3歳で天皇になった。しかし2ケ月後、後鳥羽上皇軍は幕府執権北条泰時に敗れ、後鳥羽上皇は隠岐、父順徳上皇は佐渡に配流される。そして仲恭天皇は廃位となり、後堀河天皇が即位したのです。
仲恭天皇は明治時代になるまで正式な天皇として認められず、「半帝」「九条廃帝」と揶揄されてきた。正式な即位式も無く短命で、反乱を起こした反幕府側だったためです。廃位後は、母の実家九条道家の邸(九条殿)に母と共に暮らし、天福二年(1234)に17歳で崩御する。
明治時代になって、幕末以来の尊王思想の影響を受け、歴代天皇の系統の見直しが行われた。明治3年(1870)「仲恭天皇」と追号され、第85代天皇として初めて歴代天皇に加えられたのです。
仲恭天皇の埋葬地はどこか?。わずか78日間在位期間で、かつ長い間天皇として認められてこなかった。そうした仲恭天皇については歴史資料も乏しく、ましてや埋葬地など分っていない。晩年は叔父で、東福寺を創建した九条道家の九条殿で過ごしたということから、明治22年(1889)その近辺に円丘墳が築かれた。これが現在の「九条陵」です。
ところがもう一つ候補地がある。東福寺の項で紹介した法性寺の横に位置する「東山本町陵墓参考地」(東山区本町十六丁目)です。そこには柵で囲まれた空き地が在り、宮内庁の制札「東山本町陵墓参考地」が立っている。
東山本町のこの地に円丘状の土塚があり、塚上に廃帝社と呼ばれる祠があったということがわかってきた。そこで宮内庁は大正13年(1924)、「ここかもしれない・・・」として陵墓参考地に指定し、現在にいたっている。

私は裏から入ったのだが、表側には小石を敷き詰めた立派な参道が築かれていた。そしてこの参道からの眺めがすこぶる良い。京都市内が見渡せます。歴代天皇中で最も影が薄い天皇で、真陵かどうかも不明なので御陵は別にして、東福寺訪問後の気分転換に裏山に登ってみるのもよいかも。人の散歩は許されているようですので・・・

この参道の途中に「崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵(すとくてんのうちゅうぐうこうかもんいんつきのわみなみりょう)」があります。
藤原聖子(ふじわらのきよこ)は、摂政・藤原忠通の娘で、後に崇徳天皇の中宮となりました。ところが崇徳上皇は保元の乱で敗れて讃岐に配流されてしまう。聖子は京都に留まって出家し「皇嘉門院」となり、縁戚の九条家で余生を過ごしたという。この辺りが九条家の領地なので、ここにお墓が造られたのでしょう。
見晴らしの良いこの場所が選ばれたのも、崇徳上皇の怨霊を鎮めるためでしょうか?

詳しくはホームページ


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