山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

春の宇治平等院とその周辺 3

2017年06月04日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年4月5日(水)桜の季節、宇治平等院とその周辺を散策

 宇治神社と早蕨(さわらび)古蹟 


興聖寺を後にし、朝霧橋の袂まで戻る。宇治神社の一の鳥居を潜り石畳の参道を進む。参道右脇には桐原水の手洗所が置かれている。階段を上ると正面に、「桐原殿」の扁額がかる黒ずんだ建物が建つ。これは拝殿だそうです。
宇治神社の歴史・祭神については宇治上神社を参照。元々同じ神社だったので創建などは同じです。

拝殿の背後にある二の鳥居を潜り階段を上ればすぐ本殿です。本殿は赤色の廻廊に囲まれ、正面には拝殿風の門が控える。本殿は、桧皮葺きの三間社流れ造り。鎌倉時代初期の建造で、国の重要文化財にも指定されている。殿内中央には平安中期の彩色木像「菟道稚郎子命坐像」(重要文化財)が安置されている。

神社によれば、木々に囲まれた境内の奥は「パワースポット」の地で、自然と古の時代の力が感じられる場所だそうです。その一隅に白いウサギ像が置かれ、「みかえり兎」の案内板が立つ。見返りながら祭神の莵道稚郎子命をこの地まで導いたという。宇治神社(宇治上神社でも)では、兎は神様のお使いなのです。見返らないで寝そべっている「寝そべり兎」の横には「伊勢神宮遥拝所」の立て札が。







宇治神社の脇には「さわらびの道」と名付けられた遊歩道が設けられ、宇治上神社、源氏物語ミュージアムへと続いている。さわらびの道を少し歩くと、満開の桜越しに宇治上神社の赤い鳥居が見えてきます。










宇治上神社の鳥居までの中ほど右手に、「早蕨之古蹟」の石碑が置かれている。「さわらびの道」の名はこの古蹟があることからきている。
「早蕨(さわらび)」とは、芽を出したばかりのワラビのことですが、源氏物語の宇治十帖(第四帖)「早蕨」の中で
”この春はたれにか見せむ亡き人の かたみにつめる峰の早蕨”
と歌われた。この辺りにワラビが沢山芽を出していたのでしょうか、宇治十帖「早蕨」の地とされたようです。

 宇治上神社(世界遺産)  


宇治上神社の赤い鳥居から、真っ直ぐな参道が拝殿まで続く。世界遺産のせいか宇治神社と比べ、やや厳粛な雰囲気が漂う。広くない境内ですが、中は自由に歩けます。

創建について『日本書紀』は、以下のように記している。第15代応神天皇は莵道稚郎子(うじのわきらいつこ)を皇太子とし、皇位を継がせようとした。しかし博士王仁(わに)から儒教の思想を受けられ、長男相続説をとっておられた莵道稚郎子は、父・応神天皇が崩御すると異母兄・大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)に皇位に即かれるよう薦める。しかし兄も辞退し、互いに皇位の譲り合いが続き、三年間の皇位空白期間が生じた。菟道稚郎子は、父の離宮(桐原日桁宮:きりはらひけたのみや)でもあったこの宇治川沿いの地を宮居とし隠棲します。最後は「自分は兄の志を変えられないことを知った。長生きをして天下を煩わすのは忍びない」と入水して自害し、皇位を兄に継がせた(『古事記』では単に夭折となっている)。仁徳天皇の誕生です。皇位を継承した仁徳天皇は、父・応神天皇の離宮跡であり菟道稚郎子の宮居跡だったこの地に菟道稚郎子の霊を祀った。これが宇治上神社の始まりという。

その後、永承7年(1052)藤原頼通が「平等院」を創建するとその鎮守社となる。治暦3年(1067)には後冷泉天皇の平等院行幸に際し「離宮明神」の神位を授かる。だから明治維新前までは、宇治神社と宇治上神社は二社一体の「宇治離宮明神(八幡宮)」と呼ばれ、現在の宇治上神社は「離宮上社」、宇治神社は「離宮下社」と称されていた。ところが明治16年(1883)、上社は「宇治上神社」下社は「宇治神社」に分離され、それぞれ独立した。(その理由を探したが・・・??)

1994年(平成6年)12月、宇治上神社は平等院とともに「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録された。宇治上神社だけとなったのは、本殿が現存する日本最古の神社建築だからということらしい。

境内に入ると、まず正面に拝殿に対する。切妻造りの屋根に、正面に向拝をもつ。中央に扉をもち、その左右に蔀戸を用い、高欄をもった縁をめぐらした寝殿造風の造り。鎌倉時代前期の建物で、国宝に指定されています。

拝殿前の正面左右に円錐型の「清め砂」が盛られている。説明板によれば、八朔祭(9月1日)に氏子さんによって奉納され、境内のお清め用の砂として1年間盛られ続けられる。お正月、祭礼など大切な日に、境内に撒き散らしお清めするという。自宅のお清め用に欲しい方は、授与所で分けていただける。
拝殿裏手の階段上に本殿(国宝)がある。見たところ、普通の神社本殿の外形とはやや異なっている。本殿は、一間社流造りの三殿が並ぶ。その三棟の内殿を一つの覆い屋で覆っている。そのため本殿自体を目にすることができない。本殿は平安時代後期の1060年頃の建立で、現存する日本最古の神社建築。覆い屋の正面には「正一位離宮大神」の扁額が掲げられている。
祭神は、応神天皇とその皇子・菟道稚郎子、兄の仁徳天皇の三神(宇治神社も同じ)。

境内には、宇治七名水の中で現在でもただ一つ湧き続けているという「桐原水」の井戸がある。注連縄が張られた覆い屋で覆われ、一段下がった所に湧き水がでている。ただし「飲用しないで下さい」の注意書きが貼られています。なお「桐原」というのは、このあたりの地名だそうです。
傍にケヤキの大樹が。高さ27m、推定樹齢300年、宇治市名木百選に選ばれているが、かなり痛々しい。

 総角古蹟と大吉山(仏徳山)展望台  



宇治上神社を出て、さわらびの道に戻る。この辺り、神社の古い板塀、緑に囲まれた静かな環境、何となく「源氏物語」の空気をちょっぴり味わわせてくれる(といっても、源氏物語をよく知らないのだが・・・)。
宇治上神社から100mほど歩くと与謝野晶子の歌碑が置かれている。歌碑の横には椿の木が植樹されている。その名も「ヒカルゲンジ(光源氏)」。
与謝野晶子歌碑の背後に、大吉山(仏徳山)展望台へ登る坂道がある。その登り口に「総角之古蹟」の石碑が置かれています。
「総角(あげまき)」は、源氏物語宇治十帖の第三帖にあたる。その中で、光源氏の子・薫君が八宮の一周忌法要に事寄せて大君への想いを詠んだ「総角に 長き契りを結びこめ おなじ所に よりもあはなむ」の和歌からきている。
「総角(あげまき)結び」とは古代の髪型の一種で、伸びた髪を左右二つに分け耳の上で結ぶやり方。なので歌の意味は「あなたが縒り結んでいる総角結びのように、あなたと私が長く寄り添えるようになりたいものだ」そうです。
源氏物語に登場する八宮の山荘は平等院の向い岸ということなので、この辺りが想定され昭和45年に石碑が建てられた。

これから大吉山(仏徳山)展望台へ登り、宇治市内を展望してみます。さわらびの道の与謝野晶子歌碑の後ろに登り口がある。標識が立っているので間違うことはない。

ゆるやかな坂道が続く。山道といえ道幅は広く、車一台は通れるほどあります。展望台は仏徳山(1318m)の中腹にあるのでそれ程高くないのだが、やたら折れ曲がっている。数えたら九曲がりありました。そのため道は傾斜が緩く、山登りというほどではない。その分、距離は長くなる。約20分ほどで展望台に到着。

展望台に着くと、数人の女子高生が楽器演奏で歓迎(?)してくれました。宇治市内を見下ろしながら思い切り音を出せるので、練習には良い場所ですね。楽器を抱えて登ってくるのは大変でしょうが。
ここは展望台となっているが、仏徳山(1318m)へ登る途中の休憩所として設置されたものです。

宇治市内が一望でき、平等院、宇治公園も見下ろせる。

 宇治市源氏物語ミュージアム  



大吉山(仏徳山)展望台を降り、さわらびの道へ。与謝野晶子歌碑とは反対側へ100mほどで宇治市源氏物語ミュージアムの建物が見えてきます。
  開館時間:9時~17時(入館は16時30分まで)
  入館料:大人500円 / 小・中学生250円
  休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
源氏物語に関する多くの文献、史料、小説などのが収集・保管・展示されている。宇治特産のお茶を味わえる喫茶コーナーなども。また館外の源氏の小径や中庭には、源氏物語にちなむ四季折々の草花が植えられている。
館内は、企画展示室と映像室以外は写真撮影できます。館内に入ると、まずパネルで宇治市の歴史・環境などを紹介し、源氏物語や宇治十帖の解説がなされている。丁寧に読んでいたらいくら時間があっても足りない。源氏物語や王朝文化に特に興味があれば別なのだが・・・。

「~千年の時空を超えて~源氏物語の世界を実体験 」をモチーフに、平成10年(1998)「源氏物語 宇治十帖」ゆかりの地である宇治に開館。常設展示室には、源氏物語の世界を実体験できるように、光源氏の住まいで寝殿造の「六条院」原寸大模型が設置されている。牛車なども展示され、王朝文化の一端に触れることができます。

最後は映像室で、「浮舟」を題材にした20分ほどの映画を見て帰りました。映画は、正直退屈でした(スミマセン)。途中退場できず、終わるのが待ち遠しかった(スミマセン)。ある程度「源氏物語 宇治十帖」のストーリーを知っていれば理解できたでしょうが、少しも無いので・・・。源氏物語と宇治十帖についての、素人向け超易しい解説を期待していたのですが。なにやら宇治川を連想さす薄暗い幻想的な世界の中で、王朝貴族の男女の織り成す愛憎を主としたイメージ映像でした。映像を見る前に、館内でじっくり源氏物語の世界を勉強すればよかったのですが、なにぶん先を急いでいたもので・・・。ただ、製作監督は私でも知っていた有名な方でした。そして原作は瀬戸内寂聴と。

 橋寺放生院(はしでらほうじょういん)  


源氏物語ミュージアムを出て、来た道とは逆方向の坂道を下る。広い大通りに出ると、前方に宇治橋と京阪宇治駅が見えてくる。宇治橋の袂を左に入ると、左側に「橋寺放生院」の石柱が建ち山門が現れる。山門は通れないが、脇の戸口から入れます。境内の見学は自由にできる。
橋寺放生院(ほうじょういん)は、聖徳太子の発願で推古12年(604)に秦河勝(はたのかわかつ)が創建したと伝えられている。宇治橋の守り寺で、宇治橋を管理してきたことから「橋寺」と呼ばれてきた。弘安9年(1286)、西大寺の僧・叡尊によって宇治橋が再建された時、中州に十三重石塔を建てるとともにこの寺で大放生会を営んだ。そこから「放生院」とも呼ばれるようになる。
真言律宗の寺で、本尊は鎌倉中期の木造地蔵菩薩立像(本堂内、重要文化財)。本堂拝観は300円。

この寺が有名なのは「宇治橋断碑」(うじばしだんぴ、重要文化財)という石碑が残されていること。これは宇治橋架橋の由来を記した石碑で、宇治橋は元興寺の僧道登によって大化2年(646年)に架けられたと刻まれている。
寛政3年(1791)に橋寺放生院の境内で発見されたのは石碑の上部三分の一だけ。残りの碑身は見つからなかったが、『帝王編年記』(14世紀後半)に碑の全文が収録されており、それに基づいて補刻し欠損部を復元し寛政5年(1793年)に完成したもの。
「宇治橋断碑」は、階段を登った直ぐ左に、鍵のかけられたお堂の中に納められている。本堂前でベルを押し、見学を申し込む。”写真撮れますか?”と聞いたら”国の重要文化財なのでダメです”の返事。それならお堂を開けてもらうまでもないので断った。お堂正面の僅かな隙間から見えたので、覗き撮り。

 菟道稚郎子命墓と浮舟宮跡  


宇治上神社と宇治神社の祭神:菟道稚郎子命の墓が近くにある。京阪宇治駅の後方、むしろ一つ手前の三室戸駅に近い宇治川沿いです。歩いても行けるので、宇治駅の横を通り三室戸駅の方へ進むと、古墳風のこんもりした森が現れる。近くまで一戸建て住宅が迫っています。

松並木の整然とした参道が設けられ、れっきとした宮内庁管理の墓です。参道突き当たりの柵の先に見える石碑が源氏物語の「浮舟宮跡」。その先はすぐ宇治川です。

「応神天皇皇子 菟道稚郎子尊宇治墓」の石柱が立つ。

これだけ立派な莵道稚郎子墓は何時造られたのでしょうか?。明治時代の中頃なのです。
菟道稚郎子は、父・応神天皇から次の天皇にと約束されていたが、異母兄・大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)に後を継がすため自害する(宇治上神社の項を参照)。仁徳天皇の誕生です。『日本書紀』は、莵道稚郎子は「莵道の山の上」に葬られた、と記す。この記述だけが唯一の拠り所。
そこで江戸時代の享保18年(1733)儒学者・並河五一郎が、宇治川東岸の興聖寺の背後にある朝日山の山頂(標高124m)に「莵道稚郎皇子之墓」の墓碑を建てたのです。高さ1mほどの墓碑が今でも残されているそうです。

ところが明治22年(1889)、当時の宮内省はここ宇治川河畔にあった小さな円丘を菟道稚郎子の墓に治定する。「莵道の山の上」という日本書紀の記述とは相反した川岸だが、どうしてこの場所に治定したのか根拠不明のまま。周辺一帯を買収し土を盛り樹木を植え、長さ80mの前方後円墳に整形し現在の形にしたのです。以後現在まで宮内庁の管理下となっている。
菟道稚郎子の生きていた時代は、前方後円墳の全盛期。兄・仁徳天皇陵(堺市の大仙陵古墳、墳丘全長:486m)は、我が国の前方後円墳で最大規模。父・応神天皇陵(大阪府羽曳野市の誉田御廟山古墳、墳丘長425m)は二番目の大きさです。父や兄とは比べようのない大きさの前方後円墳だが、鳥居、垣根、植込みなどからなる正面拝所は天皇陵にも勝るとも劣らない立派な構えをしている。しかしこれは「陵墓」でなく、単なる「墓」です。「陵」は天皇だけに使われる。莵道稚郎子は天皇にならなかった(成れなかった?)。
菟道稚郎子の墓は、明治になって新しく造成された前方後円墳です。菟道稚郎子墓に限らず、全国にある多くの
天皇陵は、天皇制国家を目指す明治政府によって大修復され、何人も立ち入れぬ聖域となってしまった。世界遺産登録を目指す仁徳天皇陵とて例外ではない。(ココを参照)


「源氏物語・宇治十帖」にちなみ、古来より「宇治十帖の古跡」が設けられてきた。その中の一つ「浮舟古跡」は現在、宇治川とはかなり離れた山腹の三室戸寺境内とされている。そこに至る経緯は複雑なようだ。

莵道稚郎子墓の横に陪塚がある。その辺りにかって「浮舟宮」と呼ばれた古社があった。榎の大木が茂り「浮舟の森」とも呼ばれ、「宇治十帖」の悲劇のヒロイン浮舟を祀った社として、里人に親しまれていたという。しかし江戸時代中頃、「浮舟宮」は廃絶する。寛永年間 (1741-1744)に、その跡地に三室戸寺によって「浮舟之古蹟之碑」が建てられた。そして浮舟宮のご本尊「浮舟観音」は三室戸寺に移され、現在も浮舟念持仏として伝えられているという。明治になり、「浮舟宮」の跡地は莵道稚郎子墓造成のため宮内省により買収され、石碑も近年の開発で居り場が無くなり三室戸寺に移設され、現在にいたっている。

宇治十帖「浮舟」の由来は、浮舟が匂宮に連れだされ、小舟に乗って宇治川の対岸に渡るときに詠んだ歌、
「橘の小島の色はかはらじをこのうき舟ぞゆくへ知られぬ」
に因む。宇治川河畔こそ「浮舟」に相応しい場所です。
平成27年(2015)有志によって、莵道稚郎子墓正面拝所脇に高さ約3.5mの「浮舟宮跡」の石碑が建立された。横には記念の枝垂れ桜も植えられた。これはあくまで浮舟宮のあった跡ということで、「浮舟古跡」ではありません。しかし何時の日か、この場所が実質「浮舟古跡」として人々に親しまれることになる思います。


詳しくはホームページ