山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

「西の京」から大和郡山へ (その 3)

2014年05月27日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 薬師寺の金堂  


高田好胤管長さんらの努力で昭和51年(1976)4月に再建された金堂。二重の建物だが、「裳階(もこし)」が付いているため四重に見える。裳階の中央が一段浮き上がっているのが特徴的。東大寺金堂や平等院の鳳凰堂にも見られるという。その均整のとれた美しさは「竜宮造り」と呼ばれているそうです。

金堂内部には、中央に本尊の薬師如来座像、その右に日光菩薩像、左に月光菩薩像の薬師三尊像(白鳳時代、いずれも国宝)が祀られており、間近に見ることができます。高さ254.7cm、黒くつややかな薬師如来さんは、その両手の表情が印象的でした。どんな病気でも癒すことができるという仏さん。左手は、掌の上に薬壷を持っておられる様子。右手は、手首をかかげ、親指と人差し指で円を作り、”どんな病でもオッケーだよ!”とささやいていおられるようです。
薬師寺は、680年11月天武天皇が后・鵜野讃良皇后(うののさらら、後の持統天皇)の病気平癒を祈願するため「薬師如来」の仏さんを造り、それを安置する寺院として薬師寺の建立を発願されたことが起源とされる。その場所は飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿町)の地ですが、和銅3年(710年)の藤原京から平城京へ遷都とともに薬師寺も飛鳥から平城京の右京六条二坊(現在地)に移転された。薬師如来さんのご加護があってか、天武天皇の皇后さんは病から回復、後に持統天皇となってご活躍されることに。

 薬師寺の西塔  


薬師寺の伽藍はほとんど兵火・雷火や地震・台風等で消失、そして再建を繰り返してきた。現在、奈良時代からの建物は焼け残った東塔だけです。薬師寺の顔だったその東塔だが、平成21年(2009年)より解体修理中で、現在は覆屋に覆われており、平成31年(2018年)の春までその姿を拝むことは出来ない。
「東塔」がベールに包まれているので、対称位置に建つ西塔で想像するしかない。西塔は享禄元年(1528年)に戦災で焼失し、昭和56年(1981)に伝統様式・技法で再建されたもの。
六重の塔のように見えるが、実際は三重の塔。各階に裳階(もこし)と呼ばれる屋根が取り付けられているためです。塔のテッペンに細長い相輪(そうりん)た立つ。実はこれが卒塔婆で、その基部へ仏舎利を納めた。
”あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり”(万葉集の一節)
奈良の枕ことば「青丹良し」は、西塔の連子窓に使われている青色、扉や柱に使われている丹(に)色からきているそうです。東塔もそうか、といえば違うようだ。東塔の連子窓は、度重なる修復時に白壁に変えられてしまったという。その他、屋根の反り、基檀の高さなど東塔と異なる部分もあるようです。

 玄奘三蔵院の中央に建つ玄奘塔  


境内のの北側に、玄奘三蔵のご頂骨を真身舎利とし祀る玄奘三蔵院が平成3年(1991年)に建てられた。
玄奘三蔵とは、あの「西遊記」でお馴染みの三蔵法師。孫悟空、猪八戒などは架空の人物だが、三蔵法師さんは実在したお坊さん。何故、三蔵法師と薬師寺は関係あるんでしょう?。
以下は薬師寺公式サイトからの要約です。
玄奘三蔵は、27歳のとき国禁を犯して密出国し、草木一本もなく水もない灼熱のなか、砂嵐が吹きつけるタクラマカン砂漠を歩き、また、雪と氷にとざされた厳寒の天山山脈を越え、時に盗賊にも襲われる苛酷な道のりを天竺(インド)を目指して旅します。三年後に、ようやくインドにたどり着き、中インドのナーランダー寺院で戒賢論師に師事して唯識教学を学び、インド各地の仏跡を訪ね歩きました。17年間にわたりインドでの勉学を終え、帰国後は持ち帰られた経典の翻訳に専念、その数1335巻に及ぶという。玄奘三蔵の教えの流れを継承している宗派が法相宗です。現在、薬師寺と興福寺が法相宗の大本山で、玄奘三蔵は法相宗の始祖に当たる。

回廊に囲まれた玄奘三蔵院の中央に八角堂の塔があります。これが玄奘三蔵の舎利(分骨)と坐像を安置している「玄奘塔」です。内部には入れず、外から見て回るようになっている。
薬師寺・公式サイトに「昭和17年(1942)に南京に駐屯していた日本軍が土中から玄奘三蔵のご頂骨を発見しました。その一部が昭和19年(1944)に全日本仏教会にも分骨されましたが、戦時中でもあり、埼玉県岩槻市の慈恩寺に奉安され、その後ご頂骨を祀る石塔が建てられました。薬師寺も玄奘三蔵と深いご縁のある事から、遺徳を顕彰するため全日本仏教会より昭和56年(1981)にご分骨を拝受し、平成3年(1991)玄奘三蔵院伽藍を建立しました。」とあります。”日本軍が土中から骨を発見した”とあるが、どうして玄奘三蔵の骨を発見できたんでしょう?。これは明らかに盗掘、略奪の類ではないでしょうか。
玄奘塔は回廊で囲まれ、回廊の北側で「大唐西域壁画殿」という建物で繋がっている。このに壁画殿には、日本画家平山郁夫が30年をかけて制作したといわれる「大唐西域壁画」が描かれている。玄奘三蔵の17年間にわたる求道の旅を13枚の絵に描いたものです(私は何にも感じなかったのですが・・・)。

 休ケ岡(やすみがおか)八幡宮  


南門を出、小橋を渡り孫太郎稲荷神社の横を抜けるとすぐ休ケ岡八幡宮に出会う。薬師寺の守り神を祀るとされているから、ここも薬師寺の境内か参道になるのだろうか?。

平安時代前期の寛平年間(889~898)に薬師寺別当栄紹によって、大分県宇佐八幡神社からこの地に、薬師寺の鎮守神として三柱の神像が勧請祭祀されたのが始まりとされる。僧形八幡神像、神功皇后像、仲津姫像の三神像です。日本最古の木彫神像なので、現在は国宝として東京国立博物館に預けられているそうです。現在の社殿は慶長8年(1603)の建物で、豊臣秀頼の寄進によるもの。他に瑞垣門・楼門・中門なども有ったようだが、地震で崩壊し無くなったようです。

仏さんも神さんの守護に頼らなければならなかったのでしょうか?。
入口に掲げられた「薬師寺休丘八幡宮縁起」の末尾には、次のように記されている。
「明治以後は神仏が分離され、一寺院が神社を管理している例は少ない。将来はさらに神域を整備し、楼門などの復興を含め、本地垂迹・神仏習合の日本古来の信仰の姿にかえすよき信仰の道場として復興したいと念願している」
本末転倒されないよう。明治の初めのように、神社によって寺が管理される、あるいは寺が破壊される時代が来ないことを願います。

 撮影スポットの大池  


薬師寺で拝観料を払うとパンフレットをくれます。このパンフレットの表紙の写真は、池を前にして金堂、東西の塔が佇み、その背後に若草山が連なる。あまりにも有名な奈良の観光ショットで、よく見かけます。この撮影場所が近くにあるというので、たち寄ってみることに。

薬師寺から近鉄の踏み切りを西に渡る。住宅街の中を10分ほど、南へさらに西の丘陵へ少し登れば大きな池に出会う。これが「大池」で、万葉集では「勝間田池」と詠われている。医療センターの前あたりが絶好の撮影スポットらしく、季節や時刻によっては多くの写真マニアが集まるそうです。でも誰もいませんでした。

この場所から見る大池越しの遠景は、さすがに絵になり、奈良を代表する風景の一つとなっている。若草山の山焼きの写真の多くがこの場所から撮影されているそうです。
しかし残念なことに、現在は邪魔者が全てを台無しにしている。東大寺大仏殿の屋根、興福寺五重塔も見えません。東塔の完成する2018年の春まで待つしかないようです。

詳しくはホームページ

「西の京」から大和郡山へ(その2)

2014年05月20日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 喜光寺(きこうじ)  

菅原天満宮を南に5分ほど歩けば、車が多く騒々しい国道308号線沿いに出る。国道沿いを西に少し歩けば、喜光寺の新しい赤っぽい南大門と黒っぽい大きな屋根が見えてきます。
この本堂は養老5年(721)の創建だが、現在のものは室町時代の天文13年(1544)に再建されたもの。二階建てのように見えるが、実際は「裳腰(もこし)」付の単層の建物です。東大寺大仏殿のモデルにされたそうで、よく見れば似ているようでもあります。
本堂前には沢山の鉢が並べられている。喜光寺は「蓮のお寺」として有名で、境内には約100種、200鉢のさまざまな品種の花蓮の鉢があるそうです。極楽浄土の蓮の花の後ろに浮かび上がる本堂は、西の京の撮影スポットの一つでもあるそうだ(シーズンは人が多すぎスポットにならないとか・・・)。蓮の花は、6月下旬から8月上旬までが見頃。

 垂仁天皇陵(宝来山古墳)  



喜光寺から国道308号線と阪奈道路を渡り南へ歩いていると、満々と水をたたえた池に囲まれた森が現れる。宮内庁が垂仁天皇の「菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)」に治定している「宝来山古墳」です。田園の広がる中に、水鳥の戯れる広い周濠とその中に浮かび上がる厳かな佇まいの古墳。その姿から神仙境にある”宝来山”の名がつけられた。
第10代祟神天皇の第三子といわれる11代垂仁天皇はベールに包まれた謎の4世紀の天皇で、『日本書紀』、『古事記』に記される事績には史実性に乏しい内容が多い。年齢も140歳(『日本書紀』)、153歳(『古事記』)、139歳(『大日本史』)と記され、その実在性を疑問視されるが・・・。

御陵の東側の広い周濠の中に浮かぶ小いさな島がある。これは田道間守(多遅麻毛理)の墳墓とされている。田道間守って?、初めて聞く名前です。
日本書紀によると、垂仁天皇から「常世の国から不老不死の霊菓、非時香菓を探してくるように」の命を受け、苦難10年やっと日本に持ち帰ってきたが、天皇はすでに1年前に亡くなっていた。持ち帰った枝を天皇の御陵に捧げ、その前で悲しみのあまり泣き叫びながら死んだという。垂仁天皇は殉死を禁止したはずなのですが・・・。
非時香菓は「ときじくのかぐのこのみ」といわれ、橘(みかん)の実のこと。その葉が寒暖の別なく常に生い茂り栄えるので、古くから長寿瑞祥の樹として珍重されていた。またその果実は菓子のルーツとされ、今では田道間守は「菓祖神」として菓子業界の信仰を集めているそうです。

垂仁天皇陵(宝来山古墳)の周辺は田園が開け、散歩道「歴史の道」になっており散策に最適な場所。この時期、黄色い菜種の花が綺麗です。とおくに霞んで見えるのは若草山や春日山。夜になると東大寺二月堂の常夜灯が見えるそうです。春うらら、散歩道を気持ちよく歩いていくと唐招提寺や薬師寺さんです。

走っている近鉄電車も写真に入れようとしたが、俺の腕では難しいナァ・・・

 唐招提寺  


井上靖の小説『天平の甍』で有名な唐僧・鑑真和上によって建立された私寺。聖武天皇の招きに応じ苦難の連続の末、唐から日本にたどり着いた鑑真は、東大寺で5年を過ごした後、朝廷からここの土地(新田部親王の旧宅地)を譲り受け、戒律を学ぶ僧侶たちの修業の場としての道場を開いた。これが唐招提寺の起源です。
他の寺院の多くが火災、兵火などで焼失、そして再建などを繰り返したのに対して、この唐招提寺は若干の改修・補修はあるものの、当時のままの様子を現存さす貴重な存在となっている。その黒錆びた色は歴史の重みをしみじみと感じさせてくれます。この後訪れる薬師寺とは対照的です。

南大門を入ると、広く真っ直ぐな参道が伸び、その正面にたたずむのが国宝の金堂です。これぞ『天平の甍』!。井上靖さんも、ここで立ちすくみ作品名が浮かんだんでしょうか?

内部には入れないが、外から覗いて拝観するようになっている。堂内中央に本尊・廬舎那仏坐像が、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の三体が安置されている(いずれも国宝)。やや薄暗い中で、3メートルを超える仏さんに見下ろされると威圧感を感じる。しかしその眼差しをしみじみ見ていると、何か安らぎを受けるのです。どのお寺でもそうだが、写真を撮れないのが残念です。写真集やネットの写真を見れば済む話ですが、どの角度で、どの部分に感銘するのかは個人々によって違います。フラッシュ禁止で撮らせて欲しい!、仏さまのお慈悲で、「どうぞ、お写真を!」とはならないものでしょうか。

大屋根の左右には鴟尾(しび)が飾られている。奈良時代のものは沓(くつ)の形に似ていることから「沓形(くつがた)」とも呼ばれる。その後鴟尾は、建物を火災から守るためとして魚形に変化し鯱になっていく。戦国時代に鯱はとくに城郭建築に使われるようになり、名古屋城の金の鯱は特に有名。

御影堂の前を右手に進んで行くと、樹木に囲まれやや薄暗くなった小道の脇に、古びた今にも崩れそうな土塀が続く。さっきまでの境内の雰囲気とちゃっと違った空気が漂う。「鑑真和上御廟」と書かれた、瓦屋根の古びた小さな門をくぐると、さらに雰囲気が一変する。直立する杉木立としっとりと艶やかな青苔の広がる静寂な世界。否が応でも気が引き締まります。
青苔の敷き詰められた中の小道を直進すると、そこが鑑真和上の墓所です。小高くなった墳丘の上に塔が建てられている。周りを一周でき、墳丘の斜面にもみずみずしい青苔が覆っている。この下に鑑真さんは眠られているんでしょうか?。

「西の京」から大和郡山へ (その1)

2014年05月10日 | 寺院・旧跡を訪ねて

四月に入り桜の季節。近鉄奈良線・西大寺駅から出発し、いわゆる「西ノ京」を巡り、「桜百選」にも入っている郡山城のある大和郡山市までを歩くことに。

 西大寺  



「西ノ京」とは、平城京を朱雀大路で東西に分けられた西の部分を指します。駅を出てすぐのところに駅名にもなっている「西大寺」さんがあります。

平城宮の東には聖武天皇が建立した東大寺がある。それに対して、聖武の娘・孝謙上皇が天平宝字8年(764年)に平城宮の西に建立したのが西大寺です。創建当初は、百十数宇の堂舎が甍を並べた広大・壮麗な官寺だったようです。しかし父娘による東西の大寺建立は国家財政を逼迫させ、平城京の幕引きの原因のひとつとなったといわれる。
南門をくぐると、正面に本堂が構え、その前に高さ1m位の基壇が残され、立ち入り禁止になっている。奈良時代に高さ十五丈(約46メートル)の五重塔が東西に建立されたが、その後兵火により全て焼失、この基壇跡は東塔の跡です。
西大寺は平安時代に入って衰退し、絢爛を極めた伽藍も再三の落雷、火災などで多くの堂塔が失われた。そうした西大寺を再興したのが鎌倉時代の名僧・叡尊(1201~1290)。
叡尊は醍醐寺、高野山などで修行し、文暦2年(1235年)35歳の時に初めて西大寺に入り、その後90歳で没するまで50年以上、荒廃していた西大寺の復興に尽くした。諸堂の再建に力を尽くし、西大寺を真言律の根本道場として生まれ変わらせ、「西大寺中興の祖」と称えられている。現在の伽藍配置は叡尊によってその元が作られたという。しかしその後も兵火などで焼失し、現在の建物はすべて江戸時代に再建されたものです。

西大寺の北門から西北へ10分位歩いた所に、叡尊が眠る墓があります。「奥の院」と称されるが、正式な名称は「西大寺法界体性院」。
叡尊は正安3年(1290)、西大寺西室の自坊で90年の生涯を閉じた。あらかじめ定めてあった西大寺北西のこの場所で荼毘(だび)にふされ葬られた。そして弟子たちによって五輪塔が建てられた。高さは約3.7メートルの巨大な塔で、五輪塔としては日本一大きいとか。


 菅原天満宮  


西大寺を出て、南へ20分ほど歩くと菅原天満宮です。鳥居と表門をくぐって中に入ると、小さな境内ですが正面に拝殿がひかえ、周りには臥牛が寝そべったり沢山の梅樹が植えられている。菅原道真公ゆかりの地という雰囲気に満ち々ている。平成114年(2002年)、それまでの菅原神社から菅原天満宮に改称された。

この神社には三つの神さんが祀られている。天照大神の第二御子「天穂日命(あめのほひのみこと)」、「相撲の祖」といわれる出雲出身の腕力者「野見宿禰命(のみのすくねのみこと)」。野見宿禰は第11代垂仁天皇に抱えられ、ここ菅原の地を与えられ土師器や埴輪造りに従事し、菅原氏の祖とされる。三つ目の祭神は、野見宿禰から数えて第十七世の子孫にあたる菅原道真。菅原道真は神さんになったのです。
伝承によれば、「道真公の母が菅原氏の本拠のこの地に戻って生んだ」と伝えられ、神社の東100mほどの住宅街の真ん中に「産湯に使った」という小さな「天神堀」という池まで残っている。ただし正確な生誕地は不明のようです。

当時の菅原家は、曽祖父の代から文筆をもって朝廷に仕え、祖父、父ともに学者の最高位である文章博士(もんじょうはかせ)に任命されていた学者一族だった。その影響か、道真も5歳で和歌を詠み、10歳過ぎで漢詩を創作したという。23歳で文章得業生、33歳の若さで式部少輔、文章博士となり、学者としては最高の栄進を続けた。醍醐天皇の昌泰2年(899年)には右大臣にまで登りつめる(55歳)。
ところが二年後の延喜元年(901) 正月25日、突如として右大臣の地位を解任され、九州の太宰府へ左遷される。時の醍醐天皇、藤原時平によって追放されたのです。 道真は太宰府で半ば軟禁状態のまま失意の日々を送り、延喜3年(903)2月25日に非業の死を遂げた(59歳)。

道真の死後、京の都では疫病がはやり、醍醐天皇の皇子が相次いで病死、道真追放を画策したとされる藤原時平以下の関係者が次々変死し、時平の縁者も若死にするという変事が続く。世間では、道真の祟りであるという噂が広がっていく。祟りを恐れた朝廷は、延長元年(923)左遷証書を焼却し道真を右大臣に戻したり、正二位を追贈したりするが怪異は収まらない。
延長8年(930)の6月26日、清涼殿に落雷があり多くの官人が雷に撃たれて死亡した。そこで朝廷は道真の祟りを鎮めるため、京都に北野天満宮を建立し、道真を雷神(天神)としてて祀るようになった。それ以後、道真は天満大自在天神(天神様)として神格化され、全国各地に道真を祀る神社が建立されていく。
菅原天満宮は有名な梅の名所でもある。また境内のあちらこちらに牛が寝そべっている。菅原道真と梅や牛とはどういう関連があるんだろう?。

太宰府天満宮の公式ページには、次のように書かれている。
「無実ながら政略により京都から大宰府に流され、延喜3年(903)2月25日、道真公はお住まいであった大宰府政庁の南館(現在の榎社)において、ご生涯を終えられました。門弟であった味酒安行(うまさけ やすゆき)が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることとなりました。延喜5年(905)、御墓所の上に祀廟しびょうが創建され、延喜19年(919)には勅命により立派なご社殿が建立されました」と太宰府天満宮の由来が記されている。また、道真が牛に乗って大宰府に流されたという故事もあるようで、こうしたことから菅原道真と牛は縁があるようです。
梅はどうか?。「飛び梅」伝承があるようです。大宰府で道真は都を懐かしみ「東風ふかば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と詠った。すると道真が愛した都の梅が、彼を慕って飛んでいった、というものです。聖徳太子の愛馬は、空を飛び富士山まで登ったという。神様になるといろいろなことがあるようです・・・。俺は「北風ふかば 幸をおこせよ 札の束 主なしとて 俺な忘れそ」と詠ったってみたい・・・・
狭い境内には、「島原古梅」、「しだれ菅香梅」、「常な里梅(じょうなりうめ)」、「梅花薫萬春」、「菅原八宝梅」など珍しい梅を含め、約100本の白梅・紅梅・枝垂れ梅が入り乱れて植えられておるそうです。

 菅原はにわ窯跡公園・・・菅原東遺跡・埴輪窯跡群(はにわようせき)  


菅原天満宮より東へ400メートルほど進むと近鉄・橿原線に突き当たる。その手前から平成2年(1990年)の発掘調査で、埴輪を焼いた窯跡が発見された。平成12年3月奈良市指定文化財「菅原はにわ窯跡公園」として整備・保存されている。小さな公園ですが、数箇所に窯跡が残され、円筒や馬の埴輪のレプリカが配置され、遺跡らしい雰囲気をだしている。

菅原家の先祖は「土師氏」と称し、この地域で埴輪造りに励んだという伝承が残っている。この埴輪窯跡はそれを裏付ける遺跡のようです。

「王陵の谷」 河内飛鳥を往く (その5)

2014年05月05日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 竹内街道 (たけのうちかいどう)  


磯長谷(太子町)の古跡を一通り巡ったので帰ることに。竹内街道へ回り、そこを歩いて近鉄・上ノ太子駅へ出ることにしました。
竹内街道は、『日本書紀』の推古天皇21年(613年)11月の条に「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記され、我が国最古の官道とされる。その一部がここ太子町内を通り、街道沿いに「王陵の谷」と呼ばれる古跡を残している。「竹内街道」という呼称は明治以降のもので、それまでは「丹比道(たじひみち)」と呼ばれていたようです。

竹内街道は、奈良県葛城市當麻町の長尾神社から出発し二上山の南にある竹内峠を越えて、大阪府の太子町・羽曳野市・松原市を経て、堺市の大小路(おおしょうじ)に至る約26kmの街道です。
古来、大和盆地には「横大路」と呼ばれる官道が東西に走っていた。大和盆地の西側には生駒山、二上山、葛城山の山々が連なり、西方への出口を塞ぐ。横大路からさらに西の河内、難波(大阪)へ出るには場所が限られていた。一つは二上山の北側の穴虫(あなむし)峠を越えて行く長尾街道(古名で「大津道(おおつみち)」)で、もう一つが二上山の南側の竹内峠を越えてでる竹内街道。
峠を越えて、中国や朝鮮半島のすぐれた大陸文化が大和へもたらされ、また渡来人をはじめ、遣隋使や遣唐使たちも行き来した。そして聖徳太子、推古天皇を始めとする王族達の葬列が竹内街道を通って磯長谷に入ってゆく様子が想像される。
近世になると、聖徳太子ゆかりの地への「太子信仰の道」として、伊勢、長谷参詣のためのの道として、さらに商人の町・堺と大和を結ぶ経済の道として利用された。街道沿いには茶屋や旅籠が軒を連ね賑わったという。
写真は、竹内街道沿いの「大道旧山本家住宅(国登録有形文化財)」。江戸末期の数少ない「かやぶきの古民家」という歴史的景観を残すものとして太子町によって保存・公開されている。
現在の太子町の竹内街道には、古風な家並みや白壁の塀など、所々に懐かしさを感じさせてくれるものも見られるが、”最古の官道”とまではいかなくても古の街道といったイメージを沸き立たせてくれるようなものは全く見られない。よく整備・改修され、道幅も広く舗装され、明るく・清く・美しい街道として生まれ変わっている。
間隔をおいて立てられた”竹内街道”と書かれた真新しい幟、家々の道脇に置かれた美しい花壇、官(町)民あげての”町おこし”の気概がひしひしと伝わってきます。歩いても歩いても、ゴミ一つ落っこちていない、感動!、or 異常さを・・・
案内板があり「平成二十五年(2013年)は、竹内街道が施設されて1400年にあたります。これを契機に、街道沿線自治体で取組む「竹内街道・横大路(大道)1400年活性化プロジェクト」の一環として太子町春日に「緑の一里塚」を整備しました」とあります。太子町の竹内街道を歩いていると、街道沿線自治体と住民の方々の”街おこし”へかける気概が痛いほど伝わってきます。古道にしては”美し”すぎるような気がしますが・・・。
竹内街道が国道166号線と合流する「春日西」交差点。竹内街道はさらに西に伸び堺まで続いている。しかし歴史街道として整備された竹内街道は「春日西」交差点で終わっている。平成7年(1995)、ここ「春日西」から葛城市當麻町の長尾神社までの約7.4kmの区間が、国によって歴史国道に選定された。そういうう意味では,ここ「春日西」交差点が竹内街道の出発地点といえる。案内板が建てられ「竹内街道」と書いた石柱が立っています。

 飛鳥戸神社(あすかべ)と観音塚古墳  


近鉄・上ノ太子駅裏に飛鳥戸神社と観音塚古墳があるという。少し時間があったので寄ってみることに。駅裏を5分ほど丘陵側に登っていくと,民家の並ぶ住宅路に、飛鳥戸神社の扁額を掲げた石の鳥居が建っている。さらに200mほど登っていくと飛鳥戸神社だ。民家とブドウ畑の広がる段丘状の台地なかに、ポッコリとした森が見えるのですぐ分かる。
小さな神社で狭い境内だが、覆っている大きな樹木などの雰囲気は何か伝承のありそうな臭いを漂わせる。

この付近は五世紀末雄略天皇の時代、昆支王(こんきおう)という百済の王族が渡来し、大和朝廷からは後に「飛鳥戸郡」と呼ばれるようになる土地を与えられ土着した。その子孫が飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)であり、昆伎王を一族の祭神として祭祀していた。現在は、素盞嗚命(すさのおのみこと)が祭神となっている。
神社入口の石垣は、ぶどう畑の開発のため取り壊された周辺の古墳の石を利用したものという。
飛鳥戸神社からさらに背後の山側に上って行く。この丘陵周辺は見渡す限りブドウ畑一色。しかし千五百年ほど前は墓場だったのです。この丘陵地帯には、古墳時代の後期に小型の円墳が群集して築かれ、その数が多いことから「飛鳥千塚」と呼ばれた。しかし戦後のブドウ畑の開発に伴い、その大半は破壊されてしまったという。観音塚古墳は飛鳥千塚の中の、残された代表的な古墳のひとつです。
丘陵を上っていくと飛鳥新池という大きなため池に突き当たる。左上方を見上げると丸い小高い丘があり、上のほうに水色のフェンスが設けられている。そのフェンスの中に観音塚古墳があります。かなり急勾配で狭い階段を登りきると、案内板とポッカリ口を開けた石室が見え、中に入ることもできます。

古墳時代終末期、7世紀中ごろの貴重な円墳、「横口式石槨(よこぐちしきせっかく)」の代表的なもので国指定史跡となっている。この周辺に渡来し定着した飛鳥戸造一族の墓だと思われます。

詳しくはホームページ