山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

春の宇治平等院とその周辺 2

2017年05月29日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年4月5日(水)桜の季節、宇治平等院とその周辺を散策

 宇治公園(橘橋・橘島)  



11時、平等院を出てすぐ横の宇治川堤に。これから宇治川を中心とした宇治公園巡りに入ります。宇治公園は桜の名所として知られている。5年ほど前に来た時は、ちょうど「桜祭り」開催中だったのか、満開の桜の下に大勢の人と露天で大混雑していました。その時の強烈なイメージが残っていたので、今日は少し寂しく感じました。満開までには少し早すぎたようです。
橘橋を渡り、宇治川の中洲へ入る。

橘橋から宇治川上流を眺める。宇治川の中洲には「橘島」と「塔の島」という二つの島が連なっている。二つの島を総称して「中の島」と呼んでいます。手前に見えているのが橘島。
この周辺は山、川と美しい自然に囲まれた風光明媚な地。平安の昔より皇族・貴族に愛され別荘などが置かれた。川の両岸には、平等院を初めとした名勝・史跡が多く残されている。現在でも公園として整備され、多くの観光客や市民の憩いの場として親しまれています。ここは、京都府内で唯一つ「重要文化的景観」に指定されている土地なのです。

喜撰橋をこえた辺りから幅も広くなり、左側には桜の木も残されている。島の真ん中に、竹垣で囲われた「宇治川しだれ桜」が綺麗に咲いていた。公園内ではこれが一番目立つ桜でした。

 宇治公園(塔の島)  



橘島から、短い中の島橋を渡り塔の島へ入る。中の島橋の袂に鵜飼小屋がある。小屋の中には7~8頭の鵜が休息していました。関西では嵐山での鵜飼が知られているが、ここ宇治川の鵜飼も有名です。二名の女性の鵜匠さんがおり、女性の鵜匠は珍しいということで、時々テレビに出演されている。

平安時代から行われていたようですが、平安時代後期になると仏教の影響から殺生が戒められるようになり、太政官符によって宇治川の鵜飼も全面的に禁止された。この島に建つ十三重石塔も、その時に魚霊を供養したものだそうです。現在の鵜飼は大正15年に再興された。6月中旬から9月下旬にかけて行われ夏の風物詩となっている。5、6年前の春に来た時は「桜祭り」だったせいか、特別に鵜飼をやっており、川岸からすぐ近くでで見れました。風折烏帽子(かざおれえぼし、かがり火の火の粉を防ぐ)にワラの腰みの姿(水しぶきを防ぐ)の伝統的な装束を身にまとった女鵜匠さんが巧みに鵜を操り、小魚をくわえて浮き上がる鵜に、両岸の見物客から大きな拍手がおこっていたものです。

鵜飼小屋から南へ進むと、赤い喜撰橋近くに十三重石塔が建っている。
「塔の島にそびえる、高さ15メートルの石塔。これは、石塔としてはわが国最大で、重要文化財に指定されています。1286年に西大寺の僧・叡尊によって建立されましたが、そのいきさつが現代に伝わっています。叡尊は、まず朝廷の命により宇治橋の修復をおこないました。同時に、そのころ宇治川一帯でおこなわれていた網代漁を禁止するとともに、上流の中州に網代の木具や漁具を埋め、その上にこの石塔を建立して、魚霊の供養と宇治橋の安全を祈ります。その後、石塔は、洪水や地震でたびたび倒壊。現在のものは明治時代末期に発掘され、修造されたものです。」(京都府<宇治公園>のページより)
鎌倉時代後期の弘安9年(1286)に西大寺の僧・叡尊律師が宇治橋新規架け替えの際、「宇治橋が水害に弱いのは、乱獲された魚類の祟りから」と考え、魚供養の為に建立されたと伝えられている。

現在、公園周辺の宇治川では多くの重機が投入され、改修工事の真っ最中。
京都府<宇治公園>のページには「「国土交通省においては、塔の島付近の宇治川は、琵琶湖から淀川につながる治水上重要な区間であり、当地区の流下能力を増大することは緊急かつ重要な課題です。
塔の島地区は優れた景観が形成されていることを踏まえ、安全に洪水を流下させるとともに、景観、自然環境の保全などにも配慮した河川改修が進められています」とある。増水対策のために川底の掘り下げを行っているようです。この地域の特殊性から、高い堤防を築くということはできない。二つの世界遺産があり、景観が損なわれてしまうのです。ならば河底を深くするしかないか・・・。

 宇治公園(喜撰橋と「あじろぎの道」)  



十三重石塔の傍に、塔の島から平等院のある宇治川西岸へ渡る喜撰橋(きせんばし)がある。中の島(橘島と塔の島)と宇治川西岸とは橘橋と喜撰橋の二つの橋で回遊することができる。
喜撰橋上から下流を眺める。島と宇治川西岸との間の川は「塔の川」と呼ばれているようです。本流と比べて流れも弱く穏やかで、乗合の屋形舟が行き来しています。夏の鵜飼もこの辺りで行われるのでしょうか。
喜撰橋畔からでている乗合屋形舟は(600円、20分位)の遊覧だそうです。

この喜撰橋を渡って宇治川西岸へ。川岸に沿って桜と松の並ぶ散策路が設けられている。平等院傍まで続き「あじろぎの道」と名付けられている。お茶屋、料理屋さんが並んでいます。
「あじろぎの道」の中ほどに宇治市観光センターがあります。やや厳めしい建物で、周辺と違和感を感じさせている。和風造りなら周囲の景観とマッチしただろうにと思います。内部は広くゆったりとしている。周辺や宇治市の観光案内パンフも豊富に置かれている。宇治茶の無料サービスもあるので休憩するのに丁度良い。もちろんトイレもあります。

市営茶室「対鳳庵(たいほうあん)」が併設されている。「対鳳庵」の名称は、平等院の鳳凰堂に相対していることからきている。500円で、鳳凰堂を眺めながら本格的な宇治抹茶と季節のお菓子をいただけるそうです。開席時間は10時~16時まで。

観光センター前から橘島を眺める、桜は8分咲きか

観光センター前から上流側を眺める。赤い橋は、左が中の島橋で右が喜撰橋

 朝霧橋から恵心院へ  



塔の島、橘島へと戻り朝霧橋で、宇治上神社のある宇治川東岸へ渡ります。こちらは宇治川の本流で、流れが速く波打っている。
宇治川の源流は琵琶湖で、滋賀県では瀬田川と呼ばれ、京都府に入る辺りから宇治川と名を変えます。そして宇治川は木津川や桂川とも合流し淀川の大河となって大阪湾へと注ぐ。緑の山々と川の織り成す美しい風景ですが、時には川の氾濫で度々被害をもたらしてきた。現在、それを防ぐための宇治川改修工事が行われています。またここから上流側すぐの所に洪水調整のための天ヶ瀬ダム(高さ73m、長さ254m)が造られている。そのダム湖は鳥が羽を広げたような形をしていることから「鳳凰湖(ほうおうこ)」と呼ばれているとか(こじつけ?)。美しいドーム型アーチ式の天ヶ瀬ダム、鳳凰湖、天ヶ瀬吊り橋まで足を伸ばしたかったが、時間の関係で今回は断念。



朝霧橋を降り、上流側へ向かう右の道を進むと恵心院・興聖寺へ行ける。左の道は橋寺放生院から宇治駅へ。橋を降り正面の赤鳥居を潜って上って行けばすぐ宇治神社・宇治上神社です。





朝霧橋のたもとに、橋を背にして置かれているのが「宇治十帖モニュメント」。源氏物語「宇治十帖」の中で、ヒロインの浮舟(うきふね)と匂宮(におうのみや)が寄り添い小舟で宇治川に漕ぎ出す有名な情景をモチーフとしているそうです(といっても、私は源氏物語をよく知らないのですが・・・)。
ここはちょっとして休憩場所にもなっています。

朝霧橋のたもとから50mほど歩けば恵心院(えしんいん)の案内がある。緩やかな坂道を登って行けばすぐ山門が見えてきます。

由緒について寺伝は次のように伝えている。弘仁12年(821)、弘法大師(空海)により開創され、唐の青龍寺に似ているところから龍泉寺と称したという。その後平安時代中期の寛弘年間に、比叡山の横川(よかわ)にある恵心院という道場で学んでいた源信によって説法道場として再興された。そこから「朝日山恵心院」と改名された。また源信も「横川僧都」とも「恵心僧都」とも呼ばれたそうです。源氏物語「宇治十帖」の中で、宇治川に入水した浮舟を助けた「横川の僧都」は源信がモデルとか。

その後、藤原氏さらには豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受け、伽藍の整備が行われた。近世後期、境内には本堂、客殿、庫裏、薬師堂、鐘楼、中門、表門などがあったというが、度々の戦火などで現在は、表門、本堂、庫裏が残るのみ。
境内拝観無料、広くない境内ですがあちこちに多様な花が植えられている。住職の手植えだそうで、その素人っぽさが親しみを抱かせます。今は桜が目立ちますが、四季折々のお花が楽しめる「花の寺」だそうです。まだ知名度が低いのか、私以外に誰もいてないのでゆっくり鑑賞できるが、ちょっと心細い・・・。

 興聖寺(こうしょうじ)  



恵心院から元の宇治側沿いの道に戻る。上流側へ150mほど歩くと、また赤い橋が現れる。「観流橋」です。観流橋の左奥には宇治発電所がある。琵琶湖の水を、瀬田川を経ずに導水路で直接水を引き、発電所へ引いている。観流橋は、発電所の水を宇治川へ流し込む水路に架かる橋です。
観流橋下を見れば、現在水量も少なく穏やかだが、発電所からの放水時には増水し、大変危険なようです。警告の立て札が立てられていました。

観流橋を渡るとすぐ興聖寺の総門が現れる。総門脇には「曹洞宗高祖道元禅師初開之道場」と刻んだ石柱が建てられている。
曹洞宗の宗祖・道元が宋から帰国し建仁寺に身を寄せていたが、その後天福元年(1233年)京都深草に興聖寺を開創する。しかし深草の興聖寺は、比叡山延暦寺の弾圧を受け、道元は越前に下向し永平寺を創建する。その後興聖寺は数代続くが、結局応仁の乱など兵火を受け廃絶してしまう。
慶安元年(1648)、道元開創の興聖寺の廃絶を惜しみ、淀城主であった永井尚政が宇治七名園の一つの朝日茶園であった現在の場所に再興したのが今ある興聖寺です。伏見桃山城の遺構を移築して諸堂を整備し、また尚政は茶人でもあったので閑寂な境内をつくり三つの茶亭をつくったと伝えられています。

総門を潜ると、緩やかな坂道が続く。この坂道の参道が「琴坂」と呼ばれ、興聖寺を代表する観光スポットになっている。坂の両側にある小さな水路の水音が琴の音に似ていることから「琴坂(ことざか)」と呼ばれるようになった。琴坂はもみじの名所としても知られ、宇治十二景の一つにも数えられています。
琴坂を登りきると、お寺には珍しい門に達する。龍宮造りの門にお堂が乗っかっている様で、興聖寺境内図には「山門(竜宮門)」となっています。

竜宮門の奥から琴坂を眺めます。秋の紅葉時には、約200mの参道が鮮やかな紅葉のトンネルになるそうです。想像するだけですが、真っ赤に染まったトンネルは、まさに絶景といえそうですね。

曹洞宗永平寺派のお寺で、日本曹洞五箇禅林の一つ。本尊は釈迦三尊像。
伏見桃山城の遺構を移築した法堂(はっとう:本堂)には、鴬張りの廊下と、天井には伏見城が落城した際の血染めの板を使った天井が張られているという。
本堂拝観には300円の志納金が必要でが、境内の見学は自由になっている。本堂前の庭園には、宇治川中州の塔の島に建つ十三重石塔再建時に、破損のため使用されなかった旧相輪と九重目の笠石が置かれているそうです(どれかナ?)


詳しくはホームページ

春の宇治平等院とその周辺 1

2017年05月21日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年4月5日(水)
京都と奈良の間に位置する宇治の地は、風光明媚な地として知られ、平安時代から皇族・貴族の別荘地だった。宇治といえばお茶と平等院を思い浮かべるが、平等院のある宇治川周辺は桜の名所として知られている。5年ほど前に一度訪れたことがある。宇治川の中に浮かぶ宇治公園中の島を中心に、沢山の露店が並び大勢の見物客で賑わっていました。それを期待して訪れたのでしたが・・・。
源氏物語で有名な地域ですが、何といっても観光の中心は宇治平等院。中に入るのは今回が初めて。平等院をじっくり見学し、時間があるだけ周辺の観光スポットを廻るつもりです。中の島、平等院を含む周辺は、抹茶を味わい茶味ソフトクリームを舐めながら、一日ゆっくりと散策するのに丁度良い範囲。特に春の桜、秋の紅葉シーズンが最適。
今回はタイミングを少し外し、桜の満開には少し早すぎたようです。宇治の桜は京都より少し遅めだとか。

 宇治橋と紫式部像  


京阪電車の中書島駅で京阪宇治線に乗り換え、約15分程で終点の宇治駅に着く。8時半です。駅舎を出るとすぐ横が宇治川で、目の前に宇治橋が飛び込んでくる。まず宇治川を渡り、平等院を目指します。

この宇治川に架かる宇治橋の始まりについて、橋の東詰にある橋寺放生院の「宇治橋断碑」に刻まれている。それによると、千三百年以上昔の大化2年(646)、奈良元興寺の僧道登(どうと)によって初めて架けられたと記されている。わが国最古級の橋で、「瀬田の唐橋」と「山崎橋」と共に日本三古橋の一つに数えられる。
古今和歌集や源氏物語などの文学作品に、絵画や工芸品といった美術作品に描かれ、古くから景勝の地・宇治の象徴として親しまれてきた。その長い歴史のなかで洪水や地震などの被害、さらに戦乱に巻き込まれてきたが、そのつど架け直されてきた。現在の橋は1996年3月に架け替えられたもので、長さは155.4m、幅25m。

橋の中ほどを過ぎた辺りに、上流側に出っ張った場所が設けられている。まるで宇治川、中の島、平等院などを見渡す観望所のようだ。実際は、橋の守り神である橋姫を祀る「三の間」と呼ばれる所だそうです。豊臣秀吉が茶の湯に使う水をここで汲ませたとい逸話があり、現在でも「宇治の茶まつり」で「名水汲み上げの儀」が行われる場所です。
宇治橋を渡りきった西詰に小さな広場が設けられ、巻物を手にする紫式部像と幾つかの石碑が置かれている。「夢の浮橋広場」と呼ばれ、平成16年2月に整備されたもの。
紫式部が書き上げた「源氏物語」は全五十四帖(巻)から成るが、最後の十帖がここ宇治を舞台にしている。「橋姫」ではじまり「夢浮橋」で終わり、「宇治十帖(うじじゅうじょう)」とも呼ばれている。十帖には「橋姫、椎本、総角、早蕨、宿木、東屋、浮舟、蜻蛉、手習、夢浮橋」の名が付けられ、宇治川周辺のそれぞれの舞台だと推定される箇所に石碑が建てられている。ここは最終章「夢浮橋」の推定地で、「夢浮橋之古蹟」の石柱が建つ。宇治川と宇治橋を背にしたこの場所こそ「宇治十帖」を象徴する場所に相応しいのかもしれない。

「宇治十帖」は「源氏物語」の中でもやや異質なので紫式部とは別の作者によるもの、という見解もあるようですが・・・。

 橋姫神社(はしひめじんじゃ)と県(あがた)神社  


夢の浮橋広場から二本の道が分岐している。一本は平等院へ続く参道で、石鳥居のあるもう一本が「あがた通り」と呼ばれる県神社への参道です。
「あがた通り」を150mほど歩けば左側にひっそりと佇む小さな神社が見える。幟がなびいていなければ通り過ぎるところだった。民家の庭のような所に、鳥居と小さな祠が置かれているだけです。
Wikipediaには「646年(大化2年)宇治橋を架けられた際に、上流の櫻谷(桜谷)と呼ばれた地に祀られていた瀬織津媛を祀ったのが始まりとある。当初は橋の守護と管理を任されていた放生院常光寺(通称「橋寺」)敷地内で橋の中ほどに張り出して造営された「三の間」に祀られたが、その後宇治橋の西詰に祀られていた。1870年(明治3年)の洪水による流出後、1906年(明治39年)10月現在の場所に移された」と記されている。
宇治橋の守り神として瀬織津比咩(せおりつひめ)を祀ったのに始まり、いつの頃か橋姫とされたようです。

「あがた通り」の参道を300mほど進むと三叉路に突き当たる。その左角が県(あがた)神社です。
創建の詳しいことは不明のようですが、説明板によれば、古く大和政権の時代に統治領域として「県(あがた)」が置かれ、その鎮守の神社として始まったという。平安時代後期に藤原頼道が平等院を建立する時、その鎮守神としたとされる。江戸時代末までは神仏混交により三井寺(園城寺、大津市)の支配を受けたが、明治維新の神仏分離によって独立した。
1936年に建てられた拝殿。その奥に江戸時代に再建された本殿が鎮座する。
本殿に祀られている祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。縁結び、安産の神としてよく知られている。拝殿脇に華麗な枝垂れ桜が垂れている。名称は「木の花桜」だそうです。そして神社の社紋は”桜”とか。

県神社で有名なのは、宇治を代表する祭りで「暗夜の奇祭」といわれる「県祭り」。私は見たことないのでWikipediaの文を引用すると「宇治の平等院の南門から100mくらいのところにある県(あがた)神社の祭礼で、6月5日の深夜、明かりのない暗闇の中で、梵天(ぼんてん)渡御と呼ばれる儀式があり、町内の男集が、梵天と呼ばれる神輿を担ぐ。この神輿の通過する間は、家々も明かりを落として、それを迎えるため「暗闇の奇祭」と呼ばれている。かつては旧暦5月15日におこなわれ、沿道の家では男女雑魚寝してお渡りを待つので性的行事の祭りとして名高く「種貰い祭」ともいった。」
梵天渡御は本来、宇治神社御旅所→県神社(神移し)→宇治神社へ渡御→県神社(還幸祭)のルートで行われていたが、近年は宇治神社と県神社で別々に分裂開催されているそうだ。宇治神社と県神社の対立があるとWikipediaは記している。

 平等院表参道  



県神社を後にし、元の夢浮橋広場へ引き返す。今度は平等院表参道へ入る。早朝なのか、まだ人通りは少なく静かな参道です。参道の両側には室町期より続く「宇治茶」の老舗が軒を並べている。体験工房やお茶を使ったスイーツのお店も並ぶ。
中ほどには、創業天正年間・将軍家御用御茶師という歴史と伝統を持つ老舗の「三星園上林三入本店」がある。なぜかスターバックスの店までも、場違いな感がします。
平等院表参道を150mほど歩くと、分岐道になる。左へ進むと桜並木の宇治川沿いの土手に出る。右の道を進むと平等院正門へ。

 平等院:阿弥陀堂(鳳凰堂)の内部拝観  


表門があり、横に拝観受付所があります。ここで拝観料を支払い、中に入る。
拝観料金:庭園 +鳳翔館 (平等院ミュージアム) 大人 600円 / 中高生 400円 / 小学生 300円
年中無休,開門 午前8:30 閉門 午後5:30 ※受付終了 午後5:15

阿弥陀堂(鳳凰堂)の内部拝観をしたい場合、この拝観受付所でその方法を教えてくれます。
平等院についてWikipediaに、次のように書かれている。
「京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白・藤原頼通は永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。開山(初代執印)は小野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていた。翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。」

平等院創建時の平安時代後期は、末法思想が広がり始める。疫病や天災が続き人々の不安は深まり「末法の世」として悲観された。この不安から逃れるための厭世的な考え方から現世での救済から来世での救済を求めていった。そして極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行する。皇族・貴族とて例外でなく、藤原頼通も阿弥陀如来を本尊とし西方極楽浄土を想定した仏堂を創った。
創建期には、阿弥陀堂の他に金堂、講堂、法華堂、宝蔵などの多く堂塔が建ち並んでいたという。ただ、その後の戦乱・度重なる災害により堂塔は廃絶した。特に南北朝期の戦いで楠正成が平等院に火を放ち、多くの堂宇が喪失してしまう。そうしたなか、阿弥陀堂と阿弥陀如来像のみが奇跡的に災害をまぬがれて存続しているという。
現在、平等院は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院で、平等院塔頭として浄土宗の浄土院と天台宗系の最勝院があり、両寺が共同で管理するという珍しい方式をとっている。これは江戸時代に寺社奉行が取り決めたものだそうです。現在、「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録されいます。

表門を入ると目の前に阿弥陀堂(鳳凰堂)の建物が飛び込んでくる。ただし東向きの阿弥陀堂に対して北側の位置なので北翼廊が見えるだけ。
写真右脇にある建物が内部拝観の受付で、ここで別途料金300円を支払えば、○時○分と書かれた内部拝観券をくれる。即ち予約券です。阿弥陀堂内部は狭いので人数制限が必要です。そのため20分間隔で50名ほどを入れているようです。私の券は「10時10分」とある。現在9時半前なので、50分待ち。境内を一通り見学してくるのに丁度よい時間です。
内部拝観の受付は、通年 受付:9:10~16:10(9:30より拝観開始、以後20分毎に1回50名様)
時期や時間帯によっては数時間待ちもあるようです。一度平等院の外へ出ても、この内部拝観券を持っていれば指定時間までは再入場できるそうだ。


予約時間になると、係員に先導されて反橋を渡り、北翼廊の下で履物を脱ぎ堂内へ入ります。阿弥陀堂内部を自由に動き回ることはできません。内部は一室だけで狭く、阿弥陀如来像の前に整列して係員の説明を聴きます。

入口上部の格子壁に丸窓が開いている。これは、池越しに阿弥陀堂を見たとき、丸窓から阿弥陀如来像の顔が拝めるようにとのこと。以前は、池の対岸(東岸)に鳳凰堂の阿弥陀如来像を礼拝するための「小御所」という建物が存在していたという。
(内部は撮影禁止なので、拝観受付所で頂いたパンフの写真を使いました)
女性の係員が、マイクを使わず大きな声でわかり易く説明されているのが印象的でした。
堂内中央の須弥壇上には、金色の丈六阿弥陀如来坐像が端坐している。平等院の本尊で、国宝です。平安時代最高の仏師・定朝の造仏の多くは戦乱などで失われたが、この阿弥陀如来坐像は定朝のものとして確証できる唯一の遺作と云われる。像高約2.5m、寄木造りで漆箔。両手で定印(じょういん)を結び伏目がちなのは、人々が救われるのを念じているのか、「世は末なり」と嘆かれているのか・・・。

長押(なげし)上の白壁には、雲に乗った小さな菩薩像が掛けられている。ヒノキの一木彫で40~80cmほどの大きさ。それらはいろいろな楽器(琴、琵琶、鼓、笛)を演奏したり舞を舞ったり、あるいは持物(蓮台、宝珠、天蓋)をとったり、合掌したり、印を結んだり、多種多様な姿をしている。極楽浄土の華やかな雰囲気をだすためでしょうか?。全部で52体あり、「雲中供養菩薩像」として全て国宝に指定されています。ここに掛けられている半分は実物だが、残り半数の26体はレプリカで、実物はミュージアム鳳翔館のほうに陳列されている。

阿弥陀如来像の頭上に吊られた天蓋(てんがい)も像とは別個に国宝に指定されている。四角形の天蓋と、その内部の円蓋の二つの天蓋を持つのは非常に珍しいそうです。木造で、精巧な透かし彫りと螺鈿で豪華に装飾されている。
内部の板壁や扉には九品来迎図が描かれ、これも国宝。ただし剥落や変色が著しく、よく分からない。

 平等院:阿弥陀堂(鳳凰堂)の外観  


阿弥陀堂は、阿字池(あじいけ)の中島に東を正面として建ち、中堂、北翼廊、南翼廊、尾廊(中堂背後の渡り廊)の4棟からなる。建物全体が鳥が羽を広げた形に似ていることから、さらに中堂屋根に一対の鳳凰が取り付けられていることから、江戸時代の初め頃から「鳳凰堂」とも呼ばれるようになった。
中堂は二層のように見えるが、裳階(もこし)を付けた単層の建物。正面14.2m、側面11.8mで、本瓦葺きの入母屋造り。屋根の出が非常に大きい。その重みを軽減するため、創建時は本瓦でなく木の瓦だったという。

均整のとれた美しい姿を水面にも映し、人々に極楽浄土の世界を想像さすのに十分です。平成24年(2012年)からの屋根の葺き替え・柱などの塗り直し修理も終え、より鮮やかに美しく蘇っています。

中堂の屋根両端に一対の金銅製の鳳凰像が取り付けられている。時期は阿弥陀堂の創建と同時期であると考えられている。「頭部・胴部・翼・脚部の各部は別々に鋳造され、銅板製の風切羽と共に鋲で留められ組み立てられている。一部に鍍金が残されているが、現在は全体が銅錆で覆われている。円盤状の台座に立つ鳳凰像で、頭部には鶏冠・冠毛・肉垂が表現され、太い眉と鋭い嘴をもつ。首から胴体には魚鱗紋が表現され、頚部には宝珠の付いた首輪がはめられている。風切羽は多くが後補であるが、鋤彫により波並が表現されている」(Wikipediaより)。現在目にするのはレプリカで、実物(国宝)は平等院ミュージアム鳳翔館に展示されています。

美しい鳳凰堂の建物は、昭和26年(1951)より十円硬貨表面のデザインに使用され、よく知られている。そして
左側の鳳凰像は、平成16年(2004)11月1日より発行された壱万円札の裏面に使われている。壱万円札の鳳凰像は、今回調べて初めて知りました。このお札にあまり縁が無いのかナ!(-_-;)
北側より眺める。中堂の左右から回廊が伸び、北翼廊(右)、南翼廊(左)へつながっている。この両翼廊は二階建てだが、実用的な意味は無く全体的なバランスをとる単なる飾りだそうです。内部は何も無いそうです。
南側より眺める。鳳凰堂の前は阿字池(あじいけ)を中心とした庭園となっている。浄土式庭園と呼ばれ、大正11年(1922年)に史跡・名勝に指定されています。平成2年(1990年)からの発掘調査にもとづき、小石が敷き詰められた洲浜(すはま)が復原され、北翼廊へ渡る平橋や反橋や小島も整備された。
庭園といえ華美になりすぎず、あくまでメインの鳳凰堂を引き立たせるよう慎ましやかな構成となっています。
北翼廊の背後から眺める

 平等院(鳳翔館・観音堂・最勝院・浄土院など)  


阿字池南側の高台に梵鐘が吊るされている。平安時代を代表する梵鐘の1つで、全面に天人、獅子、唐草文様などの繊細な浮き彫りを施した他に例を見ない鐘。「姿、形の平等院」と謳われ、「音の三井寺」、「銘の神護寺」と共に「天下の三銘鐘」に数えられている。吊るされているのは複製で、実物(国宝)はミュージアム鳳翔館に展示されています。

梵鐘の吊るされた建物の奥に、一階建ての近代的な建物が見える。これが平等院ミュージアム鳳翔館。平成13年(2001年)にそれまでの「宝物館」に代わり新しく建てられた。梵鐘、鳳凰一対、雲中供養菩薩像(半分26体)の実物が展示されている。いずれも国宝です。平等院を訪れたら、鳳凰堂(中堂)内部とこの鳳翔館だけは外すことはできません。
入口は、浄土院前の階段を登っていく。そこは鳳翔館の地下1階で、主要なものは地下1階に展示されている。二階(実際は地上1階部分)に上がれば出口で、梵鐘堂に出る。
開館 9:00~閉館 17:00(16:45受付終了)。拝観料に含まれているので、別途入館料は必要ありません。

表門を入ったすぐ左にある建物が観音堂(重要文化財)。それまで本堂のあった跡に、本尊十一面観音立像を祀る観音堂が鎌倉時代の初めに建てられた。現在、十一面観音立像(重要文化財)は鳳翔館に移されている。
手前は、長く垂れ下がっていることから「砂ずり藤」と呼ばれる藤棚です。
平等院には塔頭寺院が二つあり、共同で平等院を管理している。その一つが天台宗のこの最勝院。本尊は不動明王。承応3年(1654)京都東洞院六角勝仙院(住心院)の僧が平等院に移り、その住庵を最勝院と呼んだことに始まるという。

最勝院境内の奥まった所に源頼政の墓があります。
源頼政は保元・平治の乱で武勲をあげ、平清盛から信頼され従三位の公卿にまで登りつめた。しかし平清盛と対立していた後白河法皇の第三皇子の以仁王(もちひとおう)が、奢る平家打倒の令旨を発すると源頼政も参画する。治承4年(1180)5月頼政は自邸を焼くと一族を率いて近江の園城寺(三井寺)に入り、以仁王と合流し挙兵する。園城寺から南都興福寺へ向かう途中、宇治平等院で休息していたところに平知盛軍の追撃を受ける。宇治橋の橋板を落として抵抗するが、平氏軍に宇治川を強行渡河されてしまう。頼政は平等院境内に籠って抵抗するが、最後は軍扇をひろげて辞世の句を詠み、西に向かい「南無阿弥陀仏」と唱え、そして腹を切って自害した。齢76歳。
観音堂の北側に、源頼政が軍扇をひろげ辞世の句を詠み自害したという場所がある。「扇の芝」と名付けられ、辞世の句 「埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ 悲しかりける」の碑が建っている。毎年5月26日には「頼政忌」の法要が営まれるそうです。

もう一つの塔頭・浄土院は最勝院の南隣です。平等院修復のために明応年間(1492年 - 1501年)に開創された浄土宗の寺。
本堂に小さな観音さんが置かれている。案内板に寄れば、「江戸時代以来、現在の鳳翔館南西角あたりに旅の安全と無事を祈願し、浄土院子院として観音堂が建立されていました。本尊は、波型の台座に船に乗る俗に言う「救世船乗観音」」。旅、航海だけでなく、人生の長い旅路にも大変効験あらたかだそうです。


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