山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

一乗寺から赤山禅院へ 2(圓光寺・金福寺)

2022年12月24日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2022年11月16日(水曜日)
紅葉の美しい圓光寺と、その末寺・金福寺を訪ねます

 圓光寺(えんこうじ) 1  



圓光寺は詩仙堂から10分ほどの距離にあります。前日に圓光寺の公式サイトを見ると、なんと混雑を避けるためという理由で事前予約制になっているではないか。これはマズイな!と思ったが、最盛期に少し早く、平日でもあるので希望日時に予約できるのではと思い予約してみた。公式サイトで日と時刻を指定し、メールアドレスを記入して送信する。すぐに結果をメールで知らせてくれる。16日11時台で「予約確定のお知らせ」メールが届いていました。11時台というのは、11時から11時59分の間に入ればよいのです。当日入口で、この確定メールを見せればよい(プリントアウトでもよい)。
拝観料:1000円(特別拝観期間のため、通常は500円)
拝観時間:午前8時(特別拝観期間のため、通常は9時)~午後5時閉門
私が圓光寺に着いたのは10時15分。スマホの予約確定メールを見せ、「11時になっていないが、入れませんか?」と頼むと、入れてくれました。予約無しでも、その時間帯に人数に余裕あれば入れるようです。

「瑞巌山(ずいがんざん)圓光寺(えんこうじ)」の歴史は「慶長6年(1601年)に、徳川家康は国内教学の発展を図るため、下野足利学校第九代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校としました。圓光寺学校が開かれると、僧俗を問わず入学を許しました。その後、圓光寺は相国寺山内に移り、さらに寛文7年(1667年)現在の地に移転しました。」(受付で頂くパンフより)
臨済宗南禅寺派に属し、明治以降は日本で唯一の尼僧専門の修行道場となった。現在は南禅寺派研修道場として坐禅会などが実施されている。

山門から石畳の参道を進むみ階段を登ると目の前に庭園「奔龍庭(ほんりゅうてい)」が広がる。枯山水庭園だが、京都の古寺で多く見られる枯山水とは一味違った庭です。平成25年(2013)に完成した新しい庭園だからです。「渦を巻き、様々な流れを見せる白砂を雲海に見立て、天空を自在に奔る龍を石組で表わした平成の枯山水。荒く切り立った石柱は、龍の周囲に光る稲妻を表現し、庭園全体に躍動感を与えています。通常、庭園の境界を示すために配される留め石は置かず、この庭園はあえて未完のままになっています。眺める方がその余白を埋め、それぞれのお心のなかで完成させていただけたらと思います」(受付パンフより)

見つめれど なにも浮かばず 我悲し

奔龍庭の奥の中門を潜ると、本堂があり、本堂前に庭園「十牛之庭(じゅうぎゅうのにわ)」が広がる。

中門を潜るとすぐ見えるのが水琴窟(すいきんくつ)。縁が広い盃型の手水鉢を使ったのが珍しく「圓光寺型」と呼ばれている。竹筒に季節毎の草花が添えられるそうだが、この時期はもちろん鮮やかな紅葉が。肝心な音色を聞くのを忘れてた。



本堂内部。祀られているのは、運慶の作と伝えられている千手観世音菩薩坐像。襖絵は富岡鉄斎(1836-1924)の描いた「米點山水図」。明治18年(1885)秋、48歳の時に圓光寺を訪れた折に描いたという。

本堂前に広がる庭園は「「十牛之庭(じゅうぎゅうのにわ)」と呼ばれています。紅葉の美しさで知られた庭園ですが、最盛期には少し早いでしょうか、まだ完全に色づいていませんでした。軒先の柱を額縁に見立てた額縁庭園にもなるのですが、朝一番にでも来ないと撮れないですね。赤毛氈の敷かれた縁に座り鑑賞する、最近どこでもよく見かけられる風景です。

 圓光寺 2 (庭園「十牛之庭(じゅうぎゅうのにわ)」)  




池泉回遊式庭園なので、これから履物に履き替え庭園を散策します。

「十牛之庭(じゅうぎゅうのにわ)」について受付パンフに「牛を追う童子の様子が描かれた「十牛図」を題材にして、近世初期に造られた池泉回遊式庭園です。十牛図に描かれた牛は、人間が生まれながらに持っている仏心をあらわしています。牧童が悟りにいたるまでの道程であり、懸命に探し求めていた悟りは自らの中にあったという物語です」と書かれている。庭には十牛に因み、牛に見える十の石が配されているそうです。

庭園の真ん中に「栖龍池(せいりゅうち)」と呼ばれる池がある。洛北で最も古い池だそうです。この栖龍池周辺が一番の紅葉スポットです。また池に写る逆さ紅葉も鮮やかでした。

広い庭園には池を一周するように遊歩道が設けられ、散策しながら紅葉を楽しむことができる。頭上を覆う紅葉、足元の散り紅葉、池に映える逆さ紅葉、と堪能させてくれます。

散りもみじ・敷きもみじと呼ばれる紅葉の絨毯があちこちで見られます。今でこれですから、最盛期を過ぎた頃にはどんな景色を見せてくれるのでしょうか。

眠っている場合じゃないですヨ。

庭園の奥に行くと苔庭と竹林が現れる。紅と緑のコントラストがいいね。

この竹林は「応挙竹林」と呼ばれている。江戸時代の絵師・円山応挙がよく訪れており、瑞雲閣の展示室にある「雨竹風竹図屏風」はこの竹林を描いたもの。

竹林の奥に階段が見えます。そこから徳川家康の墓などがある裏山へ登れます。

 圓光寺 3 (裏山)  





階段を登ると小さな広場と墓地にでる。ここに案内略図が掲示されているので判りやすい。
家康の歯が納められている東照宮は、さらに登った山中になります。








サイド・オマールの墓。

マレーシア人のサイド・オマールは、南方特別留学生として第二次世界大戦中の昭和18年6月来日し、広島大学に在学した。昭和20年8月の原子爆弾で被爆し、京大病院に運ばれたが9月3日18歳の生涯を閉じた。当時の市営墓地だった南禅寺大日山に埋葬されたが、遺族の許可を得て昭和36年にここにイスラム教式の墓碑が建立された。マレーシア王族の出身だったから・・・?。





舟橋聖一の歴史小説「花の生涯」に登場する村山たか(たか女)の墓があります。墓地の一番奥の方で、やや分かりにくい。村山たか女については金福寺で触れます。

墓地のある広場からさらに坂道を登ります。後ろを振り返ると杉木立の間から京都市街が見えてくる。


やがて、圓光寺の開基である徳川家康を祀った東照宮と、その右側に柵で囲われた徳川家康の墓が現れる。墓には家康の歯が埋葬されているとか。

お墓の前は一種の展望台のようになっています。眼下に圓光寺の伽藍とそれを彩る紅葉が、その先には京都市街が一望でき、遠くには北山や嵐山なども望むことができます。


最後に、奔龍庭の横にある建物「瑞雲閣(ずいうんかく)」に入ってみます。ここは寺宝の展示室と、庭園を鑑賞できる畳の大広間からなっている。





これは円山応挙筆「雨竹風竹図屏風」。紙本墨画の六曲屏風一双で、国の重要文化財です。十牛之庭にある竹林を描いたもの。










伏見版木活字(圓光寺)(重文)。
徳川家康は文治政策の一つとして京都伏見に圓光寺学校を開設した(圓光寺の始まり)。そこで孔子家語・貞観政要・三略など多くの儒学・兵法関連の書籍を印刷刊行した。その時に使った木製の活字5万個が現存している。これら「伏見版木活字(圓光寺)」は、日本最古の木製活版文字として国の重要文化財に指定されています。


瑞雲閣の縁側から紅葉鑑賞。全面真っ赤に燃え上がる様は感動ものだが、緑葉、黄葉の混ざる紅葉風景も風情なものです。

 金福寺(こんぷくじ) 1  


(金福寺へは、朝一番の午前9時に訪れたのだが、”今日は法事が行われるため拝観できません。午後2時頃からなら可能かと思います”とのこと。予定が狂ったが、赤山禅院を訪れた後に引き返し、一番最後に訪れることにした)午後2時半、再訪する。緑の植え込みに囲まれ、真っ赤な紅葉に覆われた小さな山門と石段。俳句の聖地と呼ばれるのに相応しい門前です。

金福寺(こんぷくじ)の由緒は「864年(貞観6年)慈覚大師円仁の遺志により、安恵僧都(あんねそうず)が創建し、円仁自作の聖観音菩薩像を安置した。 当初天台宗であったが、後に荒廃したために元禄年間(1688年?1704年)に円光寺の鉄舟によって再興され、その際に円光寺の末寺となり、天台宗より臨済宗南禅寺派に改宗した。その後鉄舟と親しかった松尾芭蕉が、京都に旅行した際に庭園の裏側にある草庵を訪れ、風流を語り合ったとされ後に芭蕉庵と名付けられたが、荒廃していた為、彼を敬慕する与謝蕪村とその一門が1776年(安永5年)に再興した。幕末に入り舟橋聖一著の『花の生涯』のヒロインとして知られる村山たか(村山たか女)が尼として入寺し、その生涯を閉じた。」(Wikipediaより)

山門の先に受付がある。営業時間 9:00~17:00(受付16:30迄)、大人500円 中高校生300円 小学生以下無料

受付前に真っ赤な敷きもみじが。その鮮やかさに、まるで造形されたかのようにも思ってしまう。金福寺の紅葉は、門前の覆いかぶさるような紅葉と、この敷きもみじに尽きます。

金福寺は本堂があるだけの小さなお寺です。手前で履物を脱ぎ本堂に上がってみる。畳敷の本堂には本尊の聖観音菩薩が祀られ、周囲には寺にゆかりの遺品が展示されています。奥に見える屋根は芭蕉庵。

松尾芭蕉を敬慕していた与謝蕪村は、芭蕉ゆかりの当寺をたびたび訪れ一門たちと芭蕉庵で句会を開いていた。その時に愛用していた文台と重硯箱。
床の間の掛け軸には蕪村筆による「芭蕉翁像」が描かれている。「蕪村が64才安永8年(1780)特に当寺のために描いたもの。彼は芭蕉を俳諧の先師として最も尊敬していた。芭蕉の肖像画として最も勝れたものとの定評がある」と説明書きがある。

(上写真)蕪村筆「江山清遊の図」
(下写真)蕪村筆「奥の細道画巻」(重文)。画家でもあった蕪村は、芭蕉の紀行文「奥の細道」の全文を書き、それぞれ14の場面に俳画を描き入れた。(複製品、池田市逸翁美術館蔵)

「文久秘録」に描かれた「たか女晒し者の図」

村上たか女(1809-1876)について受付のパンフに「作家舟橋聖一の歴史小説『花の生涯』・諸田玲子『奸婦にあらず』のヒロイン村山たか女は、井伊直弼が彦根城の埋木舎で不遇の部屋住み生活をしていた頃の愛人であった。直弼は32歳のとき江戸に下り、44歳で大老職に就任した。その頃アメリカの強硬な要求で開国政策を推進せざるを得なかった。一方たか女は京都に於いて幕府の隠密(スパイ)となり、攘夷論者達(薩摩・長州・水戸藩の浪人・公家)の動向を探索し、その情報を永野主膳を通じて幕府(大老)に密報する事で「安政の大獄」に加担した。その為に、たか女は勤皇方から大変恨まれ、大老が万延元年「江戸城桜田門外の変」で暗殺されると、彼女は勤皇の志士に捕らえられ、京都三条河原で生き晒しにされたが、三日後に助けられ文久2年(1862)尼僧となって金福寺に入り、名を「妙寿(みょうじゅ)」と改め、14年間の余生を送り、明治9年(1876)当寺に於いて67歳の波瀾の生涯を閉じた。本墓は当寺に程近い圓光寺にあり、金福寺には彼女の御位牌、筆跡。遺品などが伝わっているとともに詣墓(まいりばか)がある」と書かれています。




59歳の時に作った牡丹の刺繍をした壇引(仏壇の前に垂らすもの)。若い頃、芸妓になっていたので芸事を心得ていたという。

山門脇にさりげない建物がある。よく見ると「村上たか女創建の弁天堂」の札が掛かっています。
村上たか女は巳年生まれだった。九死に一生を得て生き永らえたのは、巳をお使いとする弁財天のご加護と信じ、お堂を建て弁財天と巳を祀ったのです。蛇の像が入った「福巳塔」が祀られている。弁天堂の鬼瓦にも蛇が刻まれています。

 金福寺 2  



本堂前の庭園。元の庭を昭和の初めに、七代目小川治兵衛が改修した枯山水庭園。白砂に置き石・灯篭が配され、それをサツキの築山が囲む、小さいながらよくまとまった庭園です。

庭園の左側に石敷きの小径が奥へ伸びて、芭蕉庵や与謝蕪村の墓がある丘の上へ続いている。

茅葺き屋根の芭蕉庵。
「元禄の昔、芭蕉は山城(京都)の東西を吟行したころ、当寺の草庵で閑居していた住職鉄舟和尚を訪れ、風雅の道について語り合い親交を深めた。その後、和尚はそれまで無名であった庵を「芭蕉庵」と名づけ、蕉翁の高風をいつまでも偲んでおられた。その後、85年ほどして与謝蕪村が当寺を訪ねて来た。その頃すでに庵は荒廃していたが、近くの村人たちは、ここを「芭蕉庵」と呼びならわしていた。芭蕉を敬慕していた蕪村は、その荒廃を大変惜しみ、安永5年(1776)庵を再興した」(受付パンフより)。蕪村は一門たちとこの庵で句会をしばしば催しましたという。


蕪村らによって建立された芭蕉の碑。建立時、蕪村はこの近くに眠りたい、と詠んでいたので、すぐ上の山中に埋葬された。

坂道を少し登って行くと、村山たか女の参り墓がある。金福寺の本寺である圓光寺に埋葬されたが、尼僧として余生を送り波瀾の生涯を終えた当寺にも、本墓の土を埋め参り墓がつくられた。墓石には「祖省塔」と刻まれている。

さらに登って行くと与謝蕪村の墓があります。傍には江森月居など弟子たちの墓もある。

墓の前からは京都市内が一望できます。まさに「京を一目の墓どころ」です。

本堂と庭を見下ろす。


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一乗寺から赤山禅院へ 1(下り松・詩仙堂)

2022年12月15日 | 寺院・旧跡を訪ねて


★2022年11月16日(水曜日)
今年も紅葉シーズンがやってきた。京都の紅葉スポットは多いのだが、かねてより宮本武蔵の決闘場所・一乗寺下り松へ行ってみたいと思っていたので、今年はその周辺へと決めました。紅葉の最盛期には少し早いかな、と思ったがその後の気象条件との関係で16日に出かけた。一条寺下り松~金福寺~八大神社~詩仙堂~圓光寺~曼殊院~鷺森神社~赤山禅院へと北へ向かって歩くコースです(金福寺は事情があって一番最後になりました)。修学院離宮もぜひ訪れたい場所だが、宮内庁への事前申し込みが必要で、煩わしいので避けました。

 一乗寺下り松(いちじょうじ さがりまつ)  



大阪から京阪電車の終点・出町柳駅へ。朝8時過ぎ、叡山電鉄叡山線に乗り換え、一乗寺駅下車し、東へ300mほど行くと白川道りに出ます。向こうに見える山並みが比叡山。今日のコースは、この山裾に点在している。白川道りを横切り、山へ向かって歩きます。道路標識には「曼殊院道」とあります。道を越えた右角にコンビニがあるので、ここで食べ物、飲み物など必要なものを手に入れておく。

白川道りから山へ向かって200mほど入ると、お庭に植樹されていそうな形の良い松が見えてくる。これが宮本武蔵(1584-1645)と吉岡一門との決闘の地として有名な「一乗寺下り松(いちじょうじ さがりまつ)」。
決闘当時の初代下り松は、昭和20年頃に枯死してしまう。その一部が御神木として八大神社境内に移され祀られています。2代目が修学院離宮から移植されたが、松くい虫の被害などにより枯死し、3代目、4代目と植え替えられ、現在の松は平成26年(2014)に植樹された5代目です。

道が分岐するこの辻は、平安時代の昔から交通の要衝で、旅人の目印として松が植えられてた。現在でも、東へ行けば詩仙堂へ至る道、右に行けば曼殊院、修学院へ至る道となっている。見えているのは八大神社の鳥居です。かってここが参詣道の入口だったのでしょうか、鳥居だけがポツンと残されています。
この辺りには、現在は廃絶しているが平安中期から南北朝にかけて、「一乗寺」という天台宗の大きなお寺があった。そのため現在でも「一乗寺」が地名に使われている。例えば、詩仙堂は「一乗寺門口町」、圓光寺は「一乗寺小谷町」、曼殊院は「一乗寺寺之内町」のように。

松の傍に石碑「宮本吉岡決闘之地」(大正10年建立)が建つ。史料が少なく真実は藪の中だが、吉川英治の小説「宮本武蔵(風の巻)」から決闘のストーリーを追ってみます。


吉岡一門は室町将軍家の兵法指南役として名をはせ、今出川に吉岡道場を開いていた。「関ヶ原の戦」を終えた21歳の宮本武蔵は、おのれの剣名を天下に鳴りとどろかせるため、慶長9年(1604)京の都に上り吉岡道場に挑戦状を突きつける。
道場主・吉岡清十郎と蓮台野(れんだいの、東は船岡山、西は金閣寺、南は北野天満宮の間に挟まれた葬送の地)で対決し倒す。さらにその冬、弟・吉岡伝七郎と東山の三十三間堂裏地で戦い切り倒す。これが「雪の蓮華王院(三十三間堂)の決闘」です。
面目をつぶされた吉岡一門は総力をかけた最終決戦として、「一乗寺下り松」で武蔵と決戦することを決意。武蔵は吉岡一門の使いから果し合い状を受けとる。
 明後日卯刻(午前6時)
 洛北一乗寺村藪之郷下り松にて立ち会いのこと。
 吉岡道場名目人 壬生源次郎
  後見人 壬生源佐衛門(源次郎の父で清十郎・伝七郎の叔父にあたる)

夜明け前の、まだ薄暗い一条寺下りの松。「ここは俗称藪之郷下り松、一乗寺址の田舎道と山道の追分で、辻は三つ股にわかれている。朝の月を貫いてひょろ長い一本松が傘枝をひろげていた。一乗寺山の裾野地ともいえる山の真下なので、道はすべて傾斜している上に石ころが多く、雨降りの時は流れになる水のない河の跡が幾すじも露出している」。吉岡方の名目人はまだ12歳という幼い源次朗で、その傍に父親の源左衛門が立つ。少年は白鉢巻をして、高く股立をかかげていた。老人は「そちはこの下り松のところに立っておればよい。松の根元から動くでないぞ」といいきかす。源次朗少年は松の根元へ行き、五月人形のように凛々しく立った。下り松の周辺には、吉岡一門の門弟数十人が十重・二十重と月夜蟹のように潜む。「蘆間の雁のように、黒い影法師は駆け別れ、藪に沈み、樹蔭に隠れ、田の畔に腹這いになった。鉄砲をもった男は下り松の梢によじ登り、月明りを気にしながら、自分の影を隠すのに苦心をしていた。」

武蔵は、洛中の方からでなく一乗寺下り松とは真後ろの方向にあたる比叡の山の方へ入った。山の上から望むと、松の根元を中心に人影がかすかに動くのが見える。岩の間を這い上がると八大神社という社があった。そこで身を清め、決意を固め、神社の境内から細い急坂を駆け下りて行った。坂を降りきった山裾の傾斜に下り松の辻はあった。草陰に転がり下り松の梢を見ると、鉄砲をもった者が潜んでいる。武蔵に有利だったのは、吉岡方がみな三方の道をにらみ、背後の山を忘れ武蔵に背を向けていたことだ。武蔵は小走りに近づき、石を投げつけ銃をもった男を落とし、松の幹に一足跳びに躍っていった。武蔵の刀が斬り下げられ、前髪の幼い首を血しおの下に斬り落としていた。武蔵はなにものも措いて真っ先に、源次郎少年を斬ってしまったのだ。

比叡のかなたから明け六つの鐘が遠くひびいてきた。「武蔵だ!」「武蔵だ!」松のまわりをかためていた吉岡の門弟たちは慌てふためきどよめき、血相を変えて槍をかまえ、白刃を抜きはなち、武蔵に向かっていった。武蔵は身を低く沈めて、剛剣をうならせ一瞬のうちに数人を斬り倒し泥濘の中に沈めた。一乗寺下り松の周囲は凄惨な修羅場と化した。怒号と悲鳴が響き渡るなか、武蔵は敵を斬りはらいながら三本道のうち、いちばん道幅の狭い修学院道へ向かって駈け込んで行った。

「保元、平治の昔から、平家の落人たちが近江越えにさまようた昔から、また親鸞や、叡山の大衆が都へ往来した昔から・・・何百年という間をこの辻に根を張って来た下り松は今、思いがけない人間の生血を土中に吸って喚呼して歓ぶのか、啾々と憂いて樹心が哭くのか、その巨幹を梢の先まで戦慄させ、煙のような霧風を呼ぶたびに、傘下の剣と人影へ、冷たい雫をばらばらと降らせた」


一乗寺から脱した武蔵は、その仕返しを避けるために、吉岡一門が手を出せない東寺の塔頭である観智院(かんちいん)に約3年間隠れ住んだ。観智院客殿(国宝)の上段の間の床に描かれている「鷲の図」「竹林の図」は、その時に武蔵が描いたものと伝えられています。墨で一気に描いた鋭い筆裁きに、死闘をくぐり抜けた剣豪の生々しい殺気と気迫が感じられます。(私も2017年に訪れた。ココ参照)
一方、吉岡家は兵法でなく、「吉岡染」「憲法小紋」などが評判となった染め物屋として続いたそうです。

松の後ろに建つのは石碑「大楠公戦陣蹟」。建武3年(1336)、楠木正成が足利軍と対峙して、この地に陣を構えた。この碑は戦前の昭和20年5月に建てられたもの。戦前まで、足利尊氏は賊、後醍醐天皇は正義という尊皇のイデオロギーが国民教化された。最後まで後醍醐天皇に忠義を尽くし討ち死にした楠木正成は英雄視されたのです。学校で楠木正成が教えられ、各地にこうした賞賛碑が建てられのです。

後方には綺麗な公衆トイレが見えます。特別な観光地でもないのにこうした公衆トイレが設置されているのは珍しい。


 八大神社(はちだいじんじゃ)  



下り松から200mほど坂道を上ると、左に折れる道があり、標識には円光寺、曼殊院へとあります。真っすぐ上ればすぐ詩仙堂と八大神社の入口が並んでいる。

八大神社(はちだいじんじゃ)の由緒は公式サイトに「創祀は不詳ですが、永仁2年3月15日(1294年)に八大天王(はちだいてんのう)が勧請されました。京都の洛北一乗寺地区の産土神様、氏神様。祇園八坂神社と御同神をお祀りし、北天王(北の祇園社)とも称され京の表鬼門に位置し、方除、厄除、縁むすび、学業の神様として古くから多くの人々の崇敬を集めます。後水尾(ごみずのお)天皇、霊元天皇、光格天皇、修学院離宮行幸の際にお立寄り白銀等の御奉納がありました。」

階段を上ると拝殿、その奥に本殿が構える。御祭神は素盞嗚命(すさのおのみこと)とその后、そして8人の子供。元の祭神は、祇園精舎の守護神である牛頭天王(ごずてんのう)だったので北天王(北の祇園社)とも称された。ところが明治元年の仏教の神々を排除する神仏分離令により、牛頭天王は神仏習合された素盞嗚命と同一だとされ、変更されたのです。あの八坂神社も同様です。

八大神社が有名なのは素盞嗚命ではありません、剣豪・宮本武蔵なのです。境内入口には「宮本武蔵開悟(さとり)の地」と書き出されている。

吉川英治の小説「宮本武蔵(風の巻)」から再現すると。
決闘の場・一乗寺下り松へ行く途中、たまたま八大神社にたどり着く。彼は、神という大きな味方をもったような気がした。「彼は、御手洗の水で口漱いだ。さらにもう一杓子含んで、刀の柄糸へきりを吹き、わらじの緒にもきりを吹いた」。そして拝殿の鈴のついた綱に、これにすがれといわんばかりに手をかけた。いや待て、自分は何を願おうとしたのか。はっと、手を竦めた。常々、朝に生きて夕べに死ぬる身と、死に習い死に習いしていた身ではないか。さむらいの味方は他力ではない。死こそ常々味方である。それが今、生きたいと神の力を恃もうとしている。過った!、と慙愧の首を垂れて、口惜し涙が頬を下ってくる。「さむらいの道」には、たのむ神などというものはない。そしてすぐ、八大神社の境内から、細い急坂を下り松の辻へと駆け下りていった。
武蔵が晩年に書き残した「独行道(どっこうどう)」という書物には、「我、神仏を尊んで、神仏に恃(たの)まず」と書かれている。

祠の中に注連縄をまかれ祀られている古木が、決闘当時の初代「下り松」の一部です。現在目にする松は5代目。古木の前には二刀流の宮本武蔵ブロンズ像がある。平成14年(2003)、決闘から400年を迎える記念事業として建てられた。

武蔵はこの坂を下り松目指して駆け下りていったのです。


八大神社境内に張り出されていたポスター。昭和39年東映映画。わが青春時代の花形スター・中村錦之助、知っている人は少なくなったでしょう。

 詩仙堂(しせんどう) 1  



次は、八大神社手前の詩仙堂(しせんどう)に入ります。ここも紅葉の美しい庭園で知られている。
入口は小さな萱葺屋根の山門で、石川丈山筆「小有洞(しょうゆうどう)」の扁額が掛かる。お寺というよりは、山荘、寓居を訪ねるといった感じ。曹洞宗大本山永平寺の末寺で、正式名は「六六山(ろくろくざん)丈山寺(じょうざんじ)」ですが、俗称の「詩仙堂(しせんどう)」で知られている。

山門から、竹垣に囲まれた階段、竹林の小径と続く。

★~ 歴史 ~★
詩仙堂は、江戸初期の漢詩人・石川丈山(いしかわ-じょうざん、1583~1672が)が隠居のために建てた山荘です。石川丈山は三河国(愛知県安城市)生まれで、代々徳川家(松平家)に仕える譜代武士の家柄でした。武芸に優れ、16歳で徳川家康の近習になる。18歳の時、関ヶ原の戦い(慶長5年、1600年)に出陣し、家康の信望を得た。33歳の時、旗本として参戦した大坂夏の陣(慶長20年、1615年)で、功をあせり抜け駆けの軍律違反をしたため家康の怒りにふれる。そのため丈山は武士をやめ、浪人となり京都の妙心寺に隠棲します。知人の儒学者・林羅山の勧めにより、儒学者・藤原惺窩に師事し朱子学を修めた。
41歳より、病身の母養生のために紀州の浅野家に仕官、浅野家転封によって安芸(広島県)に赴き、そこで10数年ほど過ごすことになります。母没後に辞する。54歳の時、京都に戻り相国寺近くに庵「睡竹(すいちく)堂」をつくり隠棲した。5年後の寛永18年(1641)59歳の時、洛北の一乗寺村に凹凸?(おうとつか)を建てて終の棲家と定めます。これが詩仙堂の始まりです。寛文12年(1672年)に90歳で没するまでの約30年間、悠々自適の生活を送り、漢詩や書、作庭に励んだと伝えられている。後に寺院化されると、丈山にちなんで寺名は「丈山寺」とされた。
丈山没後、一時荒廃するが、1700年代中頃から建物、庭園の修復が行われる。
1928年、建物と庭園は国の史跡に指定された。
1963年、詩仙の間が復元される。
1966年、曹洞宗に改め、詩仙堂と改称された。寺号は詩仙の間に由来する。
1967年、建物、庭園が大改修された。

竹林の小径の突き当りで左に折れると拝観受付所がある。
拝観料:大人500円 高校生400円 小中学生200円
開門時間:午前9時~午後5時 (受付終了午後4時45分)
拝観休止日:5月23日(石川丈山の命日)

拝観受付の向かいに中門「老梅関(ろうばいかん)」がある。かつて老梅の木が数本あったことから名付けられたという。扁額「梅関」は文字が擦れて読めない。

中門を潜ると、詩仙堂の建物の背後が見える。三層の嘯月楼が突き立ち、窓を通して庭園も覗いています。この建物はお寺のお堂でなく、誰かの住まいにしか見えません。

建物の左側に玄関がある。ここで履物を脱ぎ、建物内部(写真右側)へ入る。建物内部を見学した後、再び履物を履き奥の庭園入口から庭園「百花塢(ひゃっかのう)」を巡回する。庭園から竹林の小径へ出る順路になっているが・・・(こっそり建物内部へ戻ることもできそう)

(部屋割り図はこのサイトから引用させてもらいました)
石川丈山が建てた庵は、当初「凹凸?」(おうとつか)と呼ばれていたようです。でこぼこした土地に建てた住居という意味のようだ。現在多くの部屋があるが、嘯月楼と詩仙の間の部分のみが丈山の建築当初からのもので、他は後世の改築、増築によるものという。現在の詩仙の間は,昭和三十八年に復元されたものです。昭和3年(1928)、境内一円が国の史跡に指定された。

特に「撮影禁止」という注意書きはなかったので、部屋内を撮らせていただきました。

建物の中心にあるのが寺名の由来となった「詩仙の間」です。4畳半ほどの小さな部屋だが、上方の四方の壁に中国の漢晋唐宋時代の詩人三十六人の肖像画が掲げられ、それぞれに石川丈山が隷書体で墨書した漢詩が添えられている。肖像画は絵師・狩野探幽(1602年~1674年)によって描かれたもの。
「我が国の三十六歌仙にならったものであり、その選定には丈山と林羅山がいろいろと意見を戦わせながら、詩人として大変高潔な人物を三十六人選定しました。それぞれ経歴、性格などが似ている者を相対するように壁にかけ、それぞれの組み合わせに意味を持たせたと言われています。蘇武と陶潜、韓愈と柳宗元など七対は、林羅山の改定したところです。しかし、林羅山が蘇武に対して王安石を挙げようとしたのに対し、丈山は王安石の人物を好まず、「人物でなく、詩を重んぜよ」と両者の間に意見を戦わすこと数回、ついに王安石は省かれるなど、選定にはかなりの苦心がなされたと伝えられています。」(公式サイトより)

北東側の側面。床の間、違い棚が見える。
大きな扇形の彫り物が壁に掲げられている。これは伏見城にあった左甚五郎作の欄間だそうです。

詩仙の間の西側に、一段掘り下げた瓦敷きの「仏間」がある。ここだけがお寺らしくみえ、本堂にあたる。祀られているのは詩仙堂の御本尊:「馬郎婦観音(めろうふかんのん)」。聞いたことのない観音さんです。三十三観音の一つで、「馬氏の妻に化身して現れた観音」だそうです。
以下、公式サイトの説明。「 所願成就・学業成就に御利益があると言われています。 馬郎婦観音の言い伝えは、唐の時代、憲宗元和4年(809年)。今から1200年以上前の中国、唐の時代にまで遡ります。中国・長安の西、鳳翔地方では若者たちの間で、伝統的な教養として六芸の「馬術」と「弓術」の修練に余念がありませんでした。その頃、外来思想の仏教が浸透していましたが、若者たちは仏教が説く三宝(仏・法・僧)に耳を傾けようとせず、蔑視さえしていました。ある日、彼らの町に妙麗な一人の婦人が現れ、若者たちが「わが妻に」とこぞって求婚しました。すると婦人は、求婚を引き受ける代わりに『観音経』や『金剛般若経』の暗唱など全28項目の課題を与えました。そして見事、馬(ば)という1人の若者が課題を成したのです。しかし、婚礼の席に花嫁は現れず、にわかに息絶えてしまいました。それから数日後、紫の衣に身を包んだ老僧が現れ、馬に花嫁を埋葬させた場所を案内させました。その場につくと、棺の中から一連の金の鎖状の骨が出てきたのです。「これは観世音菩薩の化身である。仏教を信じようとしない、きみたちの閉じた心の扉をひらくために、方便として婦人の姿をかり、ここから天空へ飛び去ったのである」この観音は、宋代に至につれ盛んに信仰され、宋末頃に絹本著色図として描かれた一枚が、わが国の京都大徳寺に伝えられたところから、鎌倉時代にはこの観音の信仰が行われたものと考えられています。」

別の部屋に掲げられている写真。昭和61年(1986)5月9日、英国王室チャールズ皇太子と故ダイアナ妃が京都を訪れた際に詩仙堂にも立ち寄られたそうです。何故、詩仙堂が選ばれたのだろうか?。庭のサツキを鑑賞に?。







 詩仙堂 2(庭園)  



建物の南側(庭園側)は開放され、縁が周っている。畳の間に座ってよし(寝転びは禁止)、縁に腰かけてよし、作庭家でもあった石川丈山自身が作庭した枯山水の唐様庭園を鑑賞できます。ただし気持ちよく鑑賞できるのは早朝に限る(現在9時半)、お昼前からは人が増え、気持ちよくないハズ。

白砂にサツキの刈込みが配され、その周囲を楓の紅が彩っている。春になると、サツキの赤い花を楓の緑が取り囲む風景に変わる。枯山水といえば石組みが配されることが多いが、ここには石組みはありません。ここでは丸く大刈込みされたサツキが主役で、紅葉よりサツキの緑がひときわ印象的です。これが丈山の趣向なのでしょうか。

靴を履き庭園に出ます。外から見た建物外観。中心部の屋根は草葺だが、周りは瓦葺となっている。草葺の部分が元からあった建物で、瓦葺の部分は後世の増築と思われます。目を引くのは、煙だしのように屋根から突き出た部分。これは「嘯月楼(しょうげつろう)」と呼ばれる観月用の楼閣。詩仙の間と仏間の間に、中二階を挟んで三層建ての造りになっている。かつては洛中を、さらには大坂城まで眺望できたそうです。

庭への出口脇に小さな滝が造られている。「蒙昧(物事の道理に疎いこと)を洗い去る」という意から「洗蒙瀑(せんもうばく)」と名付けられています。滝の水は西へ流れ、建物の縁前に小さな池「流葉?(りゅうようはく)」をつくり、さらに庭園の下方へ流れてゆく。

普通、庭園は山肌に沿って上方に向かって造られていることが多い。詩仙堂の庭園は逆で、下方に向かって三段構成に作庭され、短い階段で繋がり、散策できるようになっている。建物の縁側から見えたのは最上段の庭だけで、下の庭園は見えません。これから下の庭園に降りてゆきます。

中段庭園の東半分。ここからは枯山水とは異なり散策できる回遊式庭園となっている。当初からあったのでなく、後世の拡張と思われます。中央に池があり、ここでもサツキが引き立つ。

東隅に「鹿(しし)おどし」の仕掛けがあります。「添水(僧都、そうず)」ともいわれ、竹筒に流れ込む水の重みで反転し、石を叩いて音をだす。田畑を荒らす鹿や猪の進入を防ぐためのものだったが、一定間隔の音色を楽しむのにも使われた。この鹿おどしを最初に庭に取り入れたのが丈山だったという。


中段の西半分。池の周辺には四季折々の草花が植えられ、「百花塢(ひゃっかのう)」と呼ばれている。季節をとわず楽しめるという。
池に映る逆さモミジが美しい。詩仙堂の紅葉で、これが一番でした。

昭和期に建てられた茶室残月軒。これを取り巻く紅葉が鮮やかでした。

下段の庭へ降りてゆくと、100mほどの散策路が設けられている。苔や草木の緑と楓の紅が冴える中、静かに散策できます。枯山水でも、中段の回遊式でもない、また違った雰囲気の庭園散歩を楽しめます。



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