山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

桜の道:南禅寺から銀閣寺へ 5(銀閣寺)

2024年05月29日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2024年4月5日(金曜日) 哲学の道を終え、銀閣寺へ入る

 銀閣寺 1(総門、銀閣寺垣、中門、宝処関)  



銀閣寺橋を東に渡る。銀閣寺橋から総門まで続く200mほどの銀閣寺参道は賑わっています。お土産屋、お食事処が並び、普段でも観光客が多いのに、桜シーズンはさらに混雑します。

参道の突き当りが総門(寛政12年:1800年の再建)です。総門前にはベンチが用意され、休憩所にもなっている。


★・・・ 銀閣寺の歴史 ・・・★
室町幕府八代将軍足利義政(1436-1490:在職1449-1473)の時、義政の後継者争い、さらに細川勝元と山名宗全の対立による勢力争いもからまり、「応仁の乱(1467-1477)」が起こる。将軍・義政は責任感も政治力も乏しく収拾困難となり、各地の守護大名も、宗全率いる西軍と勝元率いる東軍に二分され争い、大混乱に陥る。長い戦乱は京都の大半を焦土と化し、多くの寺院が焼失した。文明5年(1473)、勝元と宗全が相次いで死去、また義政は将軍職を子の義尚に譲り隠居する。東西両軍の戦いは膠着状態に陥いり、厭戦ムードも漂うなか、文明9年(1477)に勝敗のつかないまま終結を迎えた。
文明14年(1482)、義政は東山山麓にある応仁の乱で焼亡した浄土寺跡に、祖父・義満の鹿苑寺(金閣寺)にならいかねてからの願望であった隠居所として東山山荘(東山殿)の造営を始めた。そして翌年にここに移り住んで、「東山殿」と呼ばれた。「常御所」(つねのごしょ)を住まいとし、禅室として「西指庵」(せいしあん)が完成すると落髪し出家する。文明18年(1486)には仏像や位牌を安置する東求堂が建てられ、西芳寺の庭園に習って造られた上下二段構造の庭園もこの頃に造営されたと思われる。
「当時は応仁の乱が終了した直後であり、京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な隠栖生活を送っていた。」という(Wikipediaより)
「義政は幕府財政を幕府の権威回復や民衆の救済にではなく、趣味の建築や庭園に費やした。結果、応仁の乱後の京都の復興は大幅に遅れることとなった」(Wikipediaより)

長享3年(延徳元年、1489)、東山殿内で最後の建物として、金閣寺の舎利殿(金閣)と西芳寺の瑠璃殿を手本として観音殿(銀閣)の造営に着手。しかし翌年の延徳2年(1490)1月、義政は病に倒れ、観音殿(銀閣)の完成を見ることなく56年の生涯を閉じる。義政の菩提を弔うため、東山殿を禅寺に改め相国寺の末寺とし、義政の法号から「慈照院」と称した。翌年「慈照寺」に改められ、現在の正式名は「東山慈照禪寺(とうざんじしょうぜんじ)」。「銀閣寺」は正式名でなく、単なる呼び名にすぎない。
開山を夢窓疎石(1275-1351)とした。疎石は1世紀以上過去の人だが、崇拝する高僧として寺の創始者として位置づけた。金閣寺も同様で、これを「勧請開山(かんじょうかいさん)」という。

その後「室町幕府の末期、天文十九年(1550)三好長慶と十五代将軍義昭との戦いが慈照寺の周辺で展開され、堂宇は銀閣と東求堂とを残し悉く焼失しました。また織田信長が義昭のため二条城を築いた際、慈照寺庭園の名石九山八海石を引き抜くなど、室町幕府の衰退と共に慈照寺も荒廃していったのです。」(公式サイトより)

江戸時代に入ると徳川家康より35石の寺領を与えられ、宮城丹波守豊盛が普請奉行となり大改修がなされた。観音殿(銀閣)・東求堂の修理、庫裏・方丈の建設、荒廃していた庭園の修築が行われるなど復興が進み、現在目にするような寺観が整えられていった。「今の銀閣寺の現況はこの慶長の改修によるところが大きいのです。銀閣寺は将軍の山荘として造営されたのですが、改修に当たって、庭園や建築は、禅寺として、禅宗風の趣を取り入れ修復がなされたと思われます。」(公式サイトより)

1900年(明治33年)4月7日 観音殿(銀閣)が国の重要文化財に指定
1951年(昭和26年)6月9日 観音殿(銀閣)が国宝に指定
1952年(昭和27年)3月29日 庭園が国の特別史跡および特別名勝に指定
1994年(平成6年)12月17日 「古都京都の文化財」として銀閣寺が世界遺産登録

慈照寺(銀閣寺)は臨済宗相国寺派に属する禅寺で、相国寺の境外塔頭。金閣寺も同じ。

総門前の境内図。左側が北になる。

総門を潜り、角を曲がると壮大な垣根が両側にそそり立ち、これから始まる銀閣寺の世界を暗示させてくれます。約50m続く白砂利と大垣根の参道は「銀閣寺垣参道」と呼ばれ、銀閣寺のウリの一つです。左右の垣根の造りが異なっている。右側は石垣の上に椿をメインとした丈の高い常緑樹の生垣をのせている。左は、石垣の上に竹垣をのせ、その上に常緑樹の生垣を見せている。この石垣、竹垣、生垣のセットを「銀閣寺垣」と呼ぶそうです。

これだけ圧倒的な垣根は見たことがない。公式サイトは申します「銀閣寺垣と呼ばれる竹垣で囲まれた細長い空間は、これから始まる壮大なドラマの序章です。本来は防御をかねた外界との区切りとして設けられたと思われますが、その厳粛で人工的な空間は我々の雑念を消し去ってくれます。それは喧噪の現代に生きる我々と、東山殿に現出しようとした浄土世界をつなぐプロローグでもあります」。確かにこれから始まる異空間への誘いでもあります。

銀閣寺垣参道を過ぎると、寛永年間(1624年 - 1644年)再建の中門がある。この中門の手前が拝観受付で、拝観料500円払うと、拝観チケットとパンフレットを頂ける。拝観チケットは金閣寺同様に、「銀閣観音殿御守護」と書かれた御札となっています。またパンフレットは、国際的な観光寺院らしく日本語、英語、中国語、ハングルで説明されている。その分内容は乏しい。

・拝観時間(3月~11月):8時30分~17時00分(下山:17時20分)
・拝観料 - 大人・高校生500円、中学・小学生300円。
・春秋限定の特別公開(令和6年3月20日(水)~ 5月6日(月))・・・東求堂・方丈・弄清亭を公開。特別拝観料:2,000円(ご希望の方のみ本堂前にて要申込)



中門を潜ると、左に庫裏と大玄関が建つ。正面に花頭窓が見えます。そこは「宝処関(ほうしょかん)」と呼ばれる唐門で方丈の玄関にあたる。創建時に初代住持として迎えられた相国寺の宝処周財にちなむ名称です。

花頭窓を額縁にみたてて銀沙灘を撮る撮影ポイントとなっています。







 銀閣寺 2(観音殿(通称「銀閣」))  



(写真右端が宝処関)寺を象徴するのが錦鏡池に面して建つ「観音殿」(かんのんでん、通称「銀閣」)。この銀閣が寺の中心なので、寺全体を「銀閣寺」と呼びますが、正式には「慈照寺(じしょうじ)」です。金閣寺の舎利殿(金閣)や西芳寺の瑠璃殿を模して造られた木造二層構造。現存する室町期の楼閣庭園建築の代表的建造物で、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京都三名閣とされる。
長享3年(1489)の上棟であるが、正確にいつ完成したのかは不明。銀閣寺内の建物は16世紀中頃の戦火で大半が焼失したため、この観音堂(銀閣)と東求堂だけが創建当時から残る貴重な建造物です。1951年(昭和26年)6月9日に国宝に指定される。内部は常時非公開

屋根は宝形造(ほうぎょうづくり)の柿葺(こけらぶき)で、屋根上には東を向いた青銅の鳳凰が飾られています。ただし当初は宝珠だったようで、江戸時代中期の改修で鳳凰に換えられたようです。

北東から眺めた銀閣。一階部分は「心空殿(しんくうでん)」と呼ばれ書院造の様式が取り入れられている。東側だけ縁が設けられ、軒も二軒(ふたのき)となっているので、東側が正面であることを示している。北側の半分は白い土壁となっているほかは腰壁入りの障子窓で四周を囲い、住宅風の造りとなっています。

南西から眺めた銀閣。二階は「潮音閣(ちょうおんかく)」といい、禅宗様の仏殿です。黒漆を塗った板敷の一間のみで観音菩薩坐像を東向きに安置している。観音像の背後に自然木を組み合わせて洞窟風になっていることから「洞中観音」「岩屋観音」とも呼ばれているそうです。

二階の四周には縁と高欄がめぐらされている。東西面には出入口はなく花頭窓だけ。南北面は中央に桟唐戸が設けられ開閉できるが、北面は両脇が窓がなく板壁であるのに対して、南面は桟唐戸の両脇に花頭窓が設けられている。以上のことからWikipediaによると「上層では南面と北面のみに戸があり、正面にあたる東面には出入口がない。以上のような上層の状況をみれば、上層は桟唐戸のある南面が正面とみなされ、当初は銀閣の南側に池があり、池を挟んで南側から観音像を拝する形であったと推定されている。銀閣はこのような変則的な形式をもつことに加え、部材にみる改造の痕跡から、かつて別の場所に建てられていたものが移築改造されたものである、とする説もある。ただし、平成21年(2009年)に行われた発掘調査によって、現・銀閣の下で室町時代の整地層と石列が確認され、銀閣は創建時の位置から移動していない可能性があるとの調査結果が公表された」。
一階は東向きだが、二階は南向きという謎の残る銀閣だ。

南から眺めた銀閣。一階の縁の南半分は四畳大の吹き放しの広縁となっており、その奥(左側)は板敷の仏間で千体地蔵像を安置しているという。

黒ずんだ色なのに何故「銀閣」と呼ばれるのだろうか?。2007年の科学的調査によって創建当時から銀箔が貼られていなかったことが判明している。「銀閣」と呼ばれるようになったのは江戸時代に入ってから。義満の創った鹿苑寺と義政の慈照寺は、同じ禅宗の臨済宗相国寺派に属し相国寺の寺外塔頭寺院という全く同じ性格をもつ。そこから鹿苑寺の舎利殿が「金閣」と呼ばれるのに対応して、同じような楼閣造りの観音殿を「銀閣」と呼ぶようになったようです。

 銀閣寺 3(東求堂(とうぐどう))  



庭園北側に、方丈(左)と東求堂(右)が並んで建つ。本堂にあたる方丈は寛永元年(1624)の再建で、釈迦牟尼仏を祀り、足利義政・妻日野富子の位牌を安置している。正面に額「東山水上行(とうざんすいじょうこう)」が掲げられています。東に連なる山々が、川の水の上を流れていくという、という意味だそうです。室内には与謝蕪村や池大雅の襖絵がある。現在は精巧な複製品に入れ替えられ、現物は相国寺承天閣美術館で保存されている。


方丈と東求堂は短い廊下で結ばれているが、その廊下の前に僧侶の袈裟(けさ)の文様に似ていることからから「袈裟型手水鉢」と言われる手水鉢が置かれている。四方の側面に市松模様が彫られた独特の意匠をもち、傍に「銀閣寺形手水鉢」という名札が立つ。




東求堂(とうぐどう)は文明18年(1486)の建立で、東山殿造営当時の遺構として現在残っているのはこの東求堂と観音殿(銀閣)だけです。両方とも国宝指定。「東求堂」の名称は、法語の「東方の人、仏を念じて西方に生まれんことを求む」から由来する。相国寺住職が撰した候補の中から足利義政が選んだという。南面に掲げられている扁額「東求堂」は義政の筆による。
重入母屋造、檜皮葺の建物は正方形で、庭園に面した南が正面になる。内部は襖で仕切られた四室から成り、阿弥陀如来立像、足利義政像が安置されている。

四部屋あるうち「北面東側の四畳半は、義政公の書斎「同仁斎(どうじんさい)」とよばれ東山文化を生み出す舞台となった」(パンフより)。机である一間の付書院と物を収納する半間の違棚が設けられている。「この棚と書院はこの種の座敷飾りとしては現存最古のもので、床の間、違棚、付書院という座敷飾りが定型化する以前の、書院造の源流といえるものである」(Wikipediaより)。この様式がその後の日本の和室の原点となったといわれる。

また室内に炉が切られ、茶を点てていたとみられる。それまでの茶接待は、別室で点茶し座敷に運び込む方法だったが、室内に炉を切り茶を立て客にふるまう形式が見て取れ、後に茶室などで一般化する四畳半茶室の始まりともいわれる。またその後の日本の生活空間に広く浸透した四畳半間取りの源流でした。
なお、「同仁斎」は「聖人は一視して同仁(出身や身分や敵味方に関わらず、どんな人であっても平等に接すること。)」(出典:韓愈)からくる。

「四畳半」は、「ワビしい」「サビしい」わが青春の思い出・・・

室町時代初期の、足利義満の金閣寺に代表される優美で華やかなの文化を、その地の名から「北山文化」と呼ぶ。その後、11年もの長い戦乱が続き京都を焦土と化した応仁の乱(1467-1477)が終わると、信仰をよりどころとする人々が増え、質素で堅実な文化様式が受け入れられるようになった。隠居した八代将軍義政は、現実政治よりも美に関心を寄せ東山山荘(東山殿)を造り、東求堂で公家や武士、禅僧や文人たちと交流し、茶の湯、華道、絵画などに親しむ風雅で文化的な生活を満喫した。そうしたなかから中国文化や禅宗の影響を受け、簡素で洗練された様式をもつ茶の湯、生け花、枯山水の庭園、水墨画などが盛んになっていった。そこから「侘び・寂び」といった日本人の精神文化の根幹となる「東山文化」が生み出されていったのです。
金ピカの金閣よりは、東山文化を代表する黒ずんで地味な銀閣の方が日本人の精神性に合致するのではないでしょうか。

東側から眺めた方丈と東求堂。方丈・東求堂・弄清亭の内部は通常非公開だが、現在春の特別公開中です。国宝とはいえ、特別拝観料:2,000円とはチト高いのでは。近年流行りの富裕層向けプランなのか。内部には誰も人の姿が見受けられない。もちろん私もパス。

 銀閣寺 4(銀沙灘・向月台)  



方丈前に広がる銀沙灘と銀閣前の向月台。右端の花頭窓が宝処関です。

「銀沙灘(ぎんしゃだん)」は帯状に砂を盛り上げ波紋を描いたもの。月の光を反射させるためのものと言われていますが・・・。材料は京都・北白川の特産品「白川砂」が使用されている。

「向月台(こうげつだい)」は白砂を高さ約1.8メートルに円錐台形に盛り上げたもの。この上に坐って東山に昇る月を待ったもの、と云われるが、公式サイトは「俗説」だとおっしゃる。
銀沙灘と向月台が初めて記録に登場するのは、安永9年(1780)の都名所図絵で、今のような形になったのは江戸時代後期とされる。「これら二つの砂盛りも室町時代まではとうてい溯り得ず、近世以後の発想ではないかと思われます。」(公式サイト)。現代アートならいざ知ら、何のために造形したのでしょうか。「わび・さび」の東山文化に反するように思えるのだが。

 銀閣寺 5(錦鏡池(きんきょうち))  



義政は洛西の西芳寺を好み二十回以上訪れたという。慈照寺に庭園を造るにあたり、西芳寺の庭を模し自ら指図しながら造園した。そのため西芳寺と同じように上下二段構成をとり、下段は池泉回遊式庭園を、それより高まった所に枯山水式の庭園を造った(枯山水庭園は江戸時代の山崩れで埋没していたが、昭和になってから発掘された)。

写真左が「仙人洲(せんにんす)」と呼ばれる島で、向月台の横から架かる石橋が「迎仙橋(げいせんきょう)」

池泉回遊式庭園の中心は、銀閣から東求堂前に広がる錦鏡池(きんきょうち)で、橋で東西に分けられた瓢箪型をしている。錦鏡池には、7つの石橋と4つの名石があります。写真右端が仙人洲で、その島から南へ少し離れて「浮石(うきいし)」が見える。湖面に映る月を眺めていると、石がまるで浮いているかのように動いていったことから「浮石」と呼ばれた。
観音殿に向かって架かっている石橋は「分界橋(ぶんかいきょう)」で、その横に「北斗石(ほくとせき)」の名札が見えるが、この石の由来は?。

銀閣の対岸から撮る「逆さ銀閣」がビュースポットだそうだが、うまく撮れないナ。

これは東求堂前に広がる錦鏡池。左端が「龍背橋(りゅうはいきょう)」と呼ばれ、錦鏡池を東西に二分する橋で、庭園奥へ入って行くメインの観光通路になっている。

松、石、橋、苔と大変美しい庭園だが、江戸時代に大改修され創建当時の面影はかなり失われているという。慶長20年(1615)、宮城豊盛が銀閣寺の再建を任され、方丈を建て、東求堂や観音殿(銀閣)を修理し、また庭園の大改造を行ったのです。

東求堂正前に「白鶴島(はっかくとう)」があり、島の左右に石橋が架かる。左(西側)が「仙袖橋(せんしゅうきょう)」で、右(東側)が「仙桂橋(せんかきょう)」で、7つある石橋で室町時代から伝わる唯一の橋。左右の橋は白鶴が羽を広げたように見え、今にも飛び立とうとする白鳥を表しているという。

白鶴島の手前に「大内石」と名札の付いた石が見えます。これは銀閣寺の作庭に協力した守護大名・大内政弘が寄進したもの。細川石・畠山石・山名石などの記録があるが、現在は見あたらない。織田信長が永禄12年(1569)二条城建設に際し、ここから名石「九山八海石」「藤戸石」を持ち去り、二条城の庭に据えたという。

右が白鶴島。島の左に、浮いているように見える平らな石があり、「夢窓疎石座禅石」と呼ばれています。夢窓疎石は1世紀以上過去の人だが、慈照寺(銀閣寺)の「勧請開山」とされているので、この高僧の名を使わせていただいた、というくらいのことでしょう。

錦鏡池の南側は苔の庭が広がる。現在「苔寺」として名高い西芳寺を真似たのでしょうか?。西芳寺が苔寺と呼ばれるようになるのは江戸時代末になってからなのだが。

昭和26年(1951)、この池泉回遊式庭園は国の特別史跡・特別名勝に指定されました。

 銀閣寺 6(洗月泉、お茶の井、漱蘚亭跡、展望所)  



展望台へ向かう途中、錦鏡池南東端に小さな滝「洗月泉(せんげつせん)」がある。山肌から湧き出る水を錦鏡地に流し入れています。ただしこの滝は後世に作られたもので、本来の滝は右手にある石組で、山崩れによって埋もれてしまっていた。それが昭和4年(1929)に発見され、発掘されたのです。
名前の由来は、泉に映った月がさざ波で揺れ、まるで月が洗われているように見えることからくる。池の左端に投げ銭が見られます。

洗月泉から坂道を登って行くと、「お茶の井」と「漱蘚亭跡(そせんてい)」に出会う。義政は慈照寺に庭園を造るにあたり西芳寺の庭園を模し上下二段の庭園とした。ここはその上段にあたり、西芳寺の竜淵水石組を模倣し作庭された枯山水式の庭園だった。江戸時代の山崩れで埋没してしまっていたが、昭和6年(1931)に発掘・修復されたものです。現在は、山肌に今にも崩れそうな石組、「お茶の井」の泉、水流の跡が見学できる。

高台にある展望所までよく整備された石段を登る。距離は短いのだが、年寄りには堪えます。ここまで来る人は少ないので、多くの人は銀閣と池を堪能してお帰りになるのでしょうか?




展望所からは銀閣寺全体が俯瞰でき、その先には京都市街、吉田山(中央)が見えます。

展望所からの下り道。小川と苔、喧騒から解放された安らぎを覚えます。この苔の一番美しい時期はいつ頃なのだろうか?。
いきなり秋が訪れたかのような銀閣です。


    * 「桜の道:南禅寺から銀閣寺へ」・・・・・(完)


ホームページもどうぞ

桜の道:南禅寺から銀閣寺へ 4(哲学の道2)

2024年05月11日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2024年4月5日(金曜日) 冷泉天皇陵・霊鑑寺・安楽寺・法然院に立ち寄りながら哲学の道を歩く

 冷泉天皇陵櫻本陵(さくらもとのみささぎ) 



哲学の道の中ほどにある「桜橋」です。渡った正面に見えているのは「冷泉天皇陵櫻本陵(さくらもとのみささぎ)」。さすが天皇陵への参道だけあって、哲学の道にある多くの橋の中では一番幅が広く、しっかりしています。東山の麓の景勝地に眠っている冷泉天皇は幸せな天皇です。しかし哲学の道の騒々しさからすると、安静にはおられないと思うのだが、橋を渡って天皇陵にお参りする人などだれもいません。

空中写真を見れば陵墓全体は方形だが、宮内庁発表の陵形は円丘となっている。
古い記録によれば、冷泉天皇は桜本寺前野で火葬され、その山傍に遺骨を埋葬したとある。中世以降、陵墓の所在地は不明となっていたが、明治2年(1889)に桜本寺跡として現在地が陵に確定された。また哲学の道を挟んで西側の繁みの中に冷泉天皇火葬塚が設けられている。

68代後一条天皇皇后の藤原威子(1000-1036、いし/たけこ)は、長元9年(1036)に亡くなると、ここで火葬され宇治陵(京都府宇治市木幡)に埋葬された。摂政藤原道長は娘を次々と天皇に嫁がせ権勢を得ていった。威子もその一人。

第63代冷泉天皇(れいぜいてんのう、950年- 1011年、在位:967年- 969年)。諱は憲平(のりひら)。村上天皇の第二皇子で、母は藤原師輔の娘・中宮安子。円融天皇の同母兄。

時の権力者だった藤原実頼・師輔の兄弟は、村上天皇の第一皇子をさしおいて第二皇子・憲平親王を生後間もなく立太子させ、康保4年(967)に村上天皇が崩御すると即位させた。これが第63代冷泉天皇で、18歳の時だった。冷泉天皇は精神に病みがあったといわれ、補佐として藤原実頼が関白につく。しかし安和2年(969)、同母弟の円融天皇に譲位し太上天皇(上皇)となる。天皇としての在位は二年間にすぎず、62歳で崩御されるまで人生の半分以上の42年間上皇として余生を過ごされ、表舞台に立つことはなかった。弟の64代円融天皇、息子の65代花山天皇、甥の66代一条天皇のほうが先に亡くなっている。
冷泉天皇は、皇太子時代から精神の病から奇行が目立ったという話が残っている。異常行動の多くは、皇太子時代から天皇在位時に多く、上皇となってからは静かに余生を過ごされたという。権謀うずまく政治の世界から開放され、精神的に落ち着かれたのでしょう。

 霊鑑寺 (れいかんじ)  



冷泉天皇陵櫻本陵を南側に周り、南東角に出ると霊鑑寺の階段と山門が見えてくる。正式名を「円成山霊鑑寺(えんじょうさんれいかんじ)」といい、臨済宗南禅寺派の尼門跡寺院。
通常非公開の寺だが、春の椿と秋の紅葉シーズンに特別公開が行われる。今年(2024年)は3月20日(水・祝)~4月7日(日)。山門を入って左に受付があり、大人:800円  小学生:400円 幼児:無料

山門を潜ると、左に大玄関が見える。江戸時代初期に京都御所にあった後西天皇の御番所を移築したものという。上り口に椿の花が綺麗に飾り付けされています。この寺も「椿の寺」で、境内いたる所に椿の木が植えられています。

この場所は元々、後陽成天皇の典侍であった持明院基子の隠居所だったが、後水尾上皇が皇女・多利宮(たりのみや)を入寺させ寺院化をすすめた。承応3年(1654)、後水尾上皇は「円成山霊鑑寺」の寺名勅許し、多利宮は出家して「宗澄(そうちょう)尼」と名のった。これが霊鑑寺の創建です。それ以降明治維新まで5人の皇女皇孫が入寺し住職をつとめたので、そこから、「霊鑑寺尼門跡」、お寺の場所が鹿ケ谷(ししがたに)ということで「鹿ケ谷比丘尼(びくに)御所」または「谷の御所」などと呼ばれている。

大玄関先の中門を潜ると、椿の銘木が出迎え、奥に書院が建つ。右側の椿には「日光椿(じっこうつばき)」の名札が架かり、後水尾天皇遺愛の椿で、京都市指定天然記念物です。左側には「唐獅子」などの札が付く銘木が並ぶ。

貞享3年(1686)に後西天皇の皇女が二世住職として入られた際に、御所にあった後西天皇の御休息所を賜り移築したのがこの書院。狩野派による「四季花鳥図」などの華麗な障壁で飾られている。また、香炉、御所人形、貝あわせなど皇室ゆかりの貴重な寺宝が数多く収蔵されています。
右の写真は、表の立て看板に載っていた上段の間。これで休息所なのだ。

書院前に広がる池泉鑑賞式庭園。中央に石灯籠を置き、周りに立石を使った石組みを配置、周辺を椿の木で囲っている。石組に散る椿は、大豊神社とはまた違った味わいを見せてくれる。

小高い位置に本堂が建ち、書院と渡り廊下でつながっている。椿を鑑賞しながら階段を登る。本堂前も椿が盛んで、本堂前に黒椿があります、という寺側の説明でした。
この本堂は、寛政6年(1795)に11代将軍徳川家斉により寄進されたもので、本尊の如意輪観音像を祀っている。

本堂からさらに斜面を登り、書院の裏に降りてゆく小径が設けられ、その周辺には多くの椿が植えられています。寺を創建された後水尾天皇が椿を好まれたことから、回遊式庭園には約70種類150本以上の椿が植えられており、「椿の寺」の名にふさわしい景観を呈している。椿の花の盛期は過ぎたようだが、散椿の花びらが地面に広がる様子もまた美しい。

 安楽寺(あんらくじ)  



霊鑑寺を出て北に進み、ちょうど冷泉天皇陵の真裏に安楽寺(あんらくじ)がある。安楽寺の由緒は階段前の駒札に記されているが、より詳しく安楽寺公式サイトから紹介すると
「両上人(法然上人の弟子、住蓮<じゅうれん>と安楽<あんらく>)が称える礼讃は誠にすばらしく、両上人の前で出家を希望する人もありました。その中に、後鳥羽上皇の女官、松虫姫と鈴虫姫がおられました。両姫は、法然上人や開山両上人から念仏の教えを拝聴し感銘され、いつしか仏門に入りたいと願うようになりました。建永元年(1206)12月、両姫は後鳥羽上皇が紀州熊野に参拝の留守中、夜中秘かに京都小御所を忍び出て「鹿ヶ谷草庵」を訪ね剃髪、出家を乞います。最初、両上人は出家を認めませんでしたが、両姫のお詠に感銘されます。
「哀れ憂き この世の中にすたり身と 知りつつ捨つる 人ぞつれなき」
19歳の松虫姫は、住蓮上人から剃髪を受け「妙智法尼」と法名を授かります。また17歳の鈴虫姫は、安楽上人から剃髪を受け「妙貞法尼」と法名を授かります。
この事を知った上皇は激怒し、念仏の教えを説く僧侶に弾圧を企てます。翌建永2年(1207)2月9日、住蓮上人は近江国馬淵(まぶち)(現在の滋賀県近江八幡市)で、同日安楽上人は京都六条河原(東本願寺近く)で斬首されました。この迫害はこれに止まらず、法然上人を讃岐国(香川県高松市)に流罪、親鸞聖人を越後国(新潟県上越市)に流罪に処します。いわゆる建永(承元)の法難です。その後、両姫は瀬戸内海に浮かぶ生口島の光明防で念仏三昧の余生を送り、松虫姫は35歳、鈴虫姫は45歳で往生を遂げたと伝えられています。
また、両上人の亡き後、「鹿ヶ谷草庵」は荒廃しましたが、流罪地から帰京された法然上人が両上人の菩堤を弔うために草庵を復興するように命ぜられ「住蓮山安楽寺」と名付けられました。その後、天文年間(1532-55)に現在地に本堂が再建され、今日にいたっています。」

浄土宗の寺で、「松虫鈴虫寺(まつむしすずむしでら)」とも呼ばれている。階段下に「浄土礼讃根元地」と刻まれた石柱が建つ。公式サイトに「開山両上人は、唐の善導大師(ぜんどうだいし)の『往生礼讃』に大原魚山(天台宗)の礼讃声明(らいさんしょうみょう)を転用して浄土礼讃を完成されました」とある。浄土念仏のお経に独特の節回しを付け、唄うように唱えることです。

瓦葺の山門を見慣れたせいか、こうした茅葺きの山門には風情を感じます。山門は明治25年(1892)再建なので、まだ新しい。黒石を敷き詰めたなだらかな階段と茅葺きの山門のこの場所は、紅葉の名所だそうです。想像しただけで、その絶景ぶりがうかがえます。

安楽寺は、山門から内は通常非公開。ただし春の桜・つつじ・さつきの時期と、秋の紅葉の時期、7月25日のカボチャ供養日には一般公開が行われます。今年(2024年)の春の特別公開は3月29日(金)~4月7日(日)10:00~16:00、拝観料500円。

山門を潜ると庭園が広がる。庭いっぱいにサツキの刈込が演出され、中央にある一本のしだれ桜が春らしさを感じさせてくれます。

江戸時代後期に移築された本堂は、方形裳階造りの建物。内部は、本尊・阿弥陀如来像を中央に、左に法然上人張子の像を、右に住蓮上人像、安楽上人像、松虫姫像、鈴虫姫像が配置されている。
一般公開日には30分おきに約10分間、住職さんによって寺の由来や木像の説明が行われています。

毎年7月25日は中風除けを祈願するカボチャ供養の日で、参拝者には先着者限定でかぼちゃの煮付けがふるまわれます。浄土宗とカボチャ、どんなご縁があるんだろうか?。ことの起こりは、1790年頃の住職が修行中に「夏の土用の頃に、当地の鹿ヶ谷カボチャを振る舞えば中風(脳卒中の後遺症など)にならない」という霊告を受けたことに由来するそうです。瓢箪型の鹿ヶ谷カボチャは、江戸時代中頃に津軽より種子を持ち帰り栽培し、連作しているうち瓢箪型になったという。今では絶滅危惧の京野菜。
お堂の「くさの地蔵菩薩」は、古くから皮膚病や腫瘍平癒にご利益があると信仰されてきた。お堂前左右には、狛犬ならぬ「狛かぼちゃ」が愛らしく建つ。しかしこれは水掛不動らしく「右のカボチャ地蔵は中風まじない、左側のカボチャ地蔵は祈願成就としてお水をお架け下さい」と説明されています。

庭園の片隅に住蓮上人と安楽上人の墓がある。



山側へ少し階段を上がった先に松虫・鈴虫両姫の供養塔があります。

安楽寺を後にし、天皇陵の北側を回って哲学の道に戻る。この橋は「法然院橋」となっている。午後になってまた人出が増えたようです。

哲学の道の川沿いでは、夏前になるとゲンジボタルが沢山飛び交うという。あの小さなホタルがこんな貝をエサにしているとは驚きです。

残雪かと思わせるようなユキヤナギ(雪柳)が川端で垂れています。この時期、柳のように垂れさがる枝に、小さな白い花をびっしりと咲かせます。花言葉は「愛嬌(あいきょう)」とか。

少し行くと、西田幾多郎が詠んだ歌
  「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり  寸心」
と刻まれた石碑があります(昭和56年(1981)設置)。傍らに設置された石板には
「コノ歌ハ 西田幾太郎先生ノ晩年ノ作デ  書ハ 昭和十四年ノ自筆ニヨッタ  人生ノ指針ヲ 示シタ碩学ノ教エトシテ 哲学ノ道ヲ散策スル人々ニ  愛唱シテホシイチナミニ  寸心トハ  先生ノ居士号デアル  昭和五十六年 五月」  と記されている。

哲学者・西田幾多郎先生は、静寂な小径を「ゼンとは、ゼンとは・・・」と思索問答しながら歩いたのでしょう(禅でも、ゼニでもないよ、善です)。今日では観光名所となり、思索などできる道ではなくなった。

 法然院  



西田幾多郎の石碑のすぐ先に「法然院第3号橋」がある。この橋を渡り、山の方へ進むと法然院(ほうねんいん)の参道です。

法然院の由緒について法然院公式サイトから紹介すると
「鎌倉時代の初め、専修念佛の元祖法然房源空上人は、鹿ヶ谷の草庵で弟子の安楽・住蓮とともに、念佛三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えられた。1206年(建永元)12月、後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に、院の女房松虫・鈴虫が安楽・住蓮を慕って出家し上皇の逆鱗に触れるという事件が生じ、法然上人は讃岐国へ流罪、安楽・住蓮は死罪となり、その後草庵は久しく荒廃することとなった。江戸時代初期の1680年(延宝8)、知恩院第三十八世萬無(ばんぶ)和尚は、元祖法然上人ゆかりの地に念佛道場を建立することを発願し、弟子の忍澂(にんちょう)和尚によって、現在の伽藍の基礎が築かれた。
浄土宗内の独立した一本山であったが、1953年(昭和28)に浄土宗より独立し、単立宗教法人となり現在に至っている。」

参道に入ると、さっきまでの哲学の道とは違った空気感が漂う。鬱蒼とした樹木に覆われ、やや薄暗く静寂な雰囲気は、お寺だということを強く感じさせてくれます。

(境内図は公式サイトより)法然院の正式名は、「善気山 法然院 萬無教寺(ぜんきさん ほうねんいん ばんぶきょうじ)」。「善気山」は法然院の背後にある山で、東山三十六峰のひとつ。「萬無」は江戸時代初期に法然院を再興した和尚。

茅葺きの山門が現れる。樹木の陰影をうけ、階段上に佇む山門は絵になります。受付パンフに「古来の門は1887(明治20)年に焼失し、その後、旧来通り再建された。昭和時代初期、倒木のため倒壊、再建されて現在に至る」とあります。
石柱「不許葷辛酒肉入山門」が建つ。臭みが強い野菜や、お酒・肉を山門内に持ち込んではならない、という意味です。

山門の上に立つと、「白砂壇(びゃくさだん)」と呼ばれる白い盛り砂が現れる。真ん中は通路となっており、そのまま本堂へ通じています。「砂壇は水を表していて砂壇の間を通ることにより心身を清めて浄域に入ることを意味している」(パンフより)。砂壇の上には、水を表す砂紋と季節ごとの文様が描かれている。この季節は桜の花びらです。

左上の白壁の建物は経蔵で、中央に釈迦如来像、両脇に毘沙門天像と韋駄天像を安置し、また五百七十巻余りの経典の版木が所蔵されている。

中から見ると、山門の茅葺屋根はコケ蒸して、風情を感じさせる。

白砂壇と本堂の間は、中央の石畳の参道を挟んで左右に放生池(ほうじょういけ)があり、その周辺は椿などの樹木と刈込で庭園化されている。江戸初期の中興時は、池はなく3個の白砂壇があったそうです。椿花でお化粧された手水鉢が置かれている。境内に椿が多く、法然院もまた椿の寺だそうです。

庭園の右に講堂がある。元々は元禄7年(1694)建立の大浴室だったが、昭和52年(1977)に講堂として改装された。現在、講演会・個展・コンサートなどに利用されている。
放生池をまたいで大木が講堂へさし架けられている。何かの演出だろう、と思ったら、平成30年(2018)9月4日に関西を襲った台風21号による倒木でした。そのまま放置されているので、やっぱり演出?

これから玄関で履物を脱ぎ、建物の中へ入ります。ここで拝観料を支払う。
法然院の境内は、何時でも無料で自由に入れ見学できる。ただし伽藍内には入れない。伽藍内が特別公開されるのは春と秋だけ。今年(2024)の春は4/1~4/7、拝観料(入山料という):大人800円・大学生400円・高校生以下無料。
法然院公式サイト

堂内に入ったが、かなり複雑な構造をしている。図面が無く、案内もないので、現在自分がどこに居るのか、どこを撮っているのか分からなくなってくる。後で空中写真を見たが、かなりの建物が廊下で結ばれ入り組んでいる。中庭も多い。本堂の上が方丈でしょうネ?。方丈庭園は方丈の右か左か?、ワカリマセン。
堂内は撮影禁止なので、庭園のみの紹介になります。

これはどこでしょう?。とりあえずパチリ。

これは間違いなく方丈庭園だ。池は「心」の文字の形から「心字池」と呼ばれ、中央に中島があり石橋が架けられている。中島に阿弥陀三尊像に見立てた三尊石を配した浄土庭園です。
パンフに「心字池の奥には当山中興第二世忍澂和尚が錫杖で感知されたと伝わる善気水(錫杖水)が三百四十年余り絶えることなく湧き出している」とあるのだが、どこだろう?。京の名水として名高く、茶の湯に利用したり、飲むこともできるそうです。名前は法然院の裏山「善気山(ぜんきさん)」からくる。
庭園奥の石段の上には法然院の鎮守として弁才天が祀られている。

法然院も椿の名所で、多くの椿が見られます。写真は、パンフに「三銘椿(さんめいちん)の庭」と題され「本堂北側の中庭には三銘椿(花笠椿・貴<あて>椿・五色散り椿)が並ぶ」とあります。写真奥から手前に、花笠椿・貴椿・五色散り椿が、白砂の上に浮き立つように並ぶ。五色散り椿は「白色・桃色など数種類の色の花を咲かせ、花弁が一枚一枚散り落ちるのでこの名がある。花期は三月中旬から四月上旬である」そうです。

場所は分からないが、椿がメインの庭園です。手水鉢に椿の花が全面に浮かべられ、右側で獅子が眺めいっている。

堂内から表に出、本堂の東側に回る。本堂には恵心僧都源信作と伝わる本尊・阿弥陀如来坐像が祀られている。その他、観音・勢至両菩薩像、法然上人立像、萬無和尚坐像が安置されている。本堂内には入れなかったが、この場所で格子越しに拝観できます。

右側の石段上には、元禄3年(1690)忍澂和尚46歳の時に、自身の等身大の地蔵菩薩像を鋳造させ安置した「祠の地蔵」がある。

山門を出て南へ進み墓地へ向かいます。法然院の墓地は広いので谷崎潤一郎の墓などうまく探せるのか心配だったので、拝観受付で尋ねると、「谷崎潤一郎」の墓名は刻まれていないが、枝垂れ桜が目印です、と教えられた。また受付前に墓地見取り図が置かれていました。

山門から100mほどの所に墓地の入口がある。階段上の正面に見える大きな塔が「阿育王搭」です。アショーカ(阿育王は漢訳音写)は釈尊滅後およそ100年(または200年)に現れたという伝説王様で、古代インドにあって仏教を保護宣布したことで知られる。石塔寺(滋賀県東近江市)に伝わる阿育王塔を、江戸時代に模造したものとされています。石造層塔としては日本最古であり、石造三重塔としては日本最大で高さは7.6mあり、国の重要文化財に指定されている。

阿育王搭のすぐ横に河上肇の墓があります。墓には「河上肇 夫人秀 墓」と刻まれている。河上肇(1879~1946)は京大教授の経済学者。マルクス経済学の研究・啓蒙に専心し、「貧乏物語」などの著作がある。

写真左の阿育王搭の先に一本の枝垂れ桜が見えている。その桜の木をはさみ左右に簡素な墓石がかれています。右の石には「空」が、左の石には「寂」という文字が刻まれている。そしてよく見ると左下に「潤一郎書」とあります。左にだけ卒塔婆が立てられているので、こちらが谷崎潤一郎の墓でしょうか。桜、目立たない小さな墓石、これは生前の谷崎の遺志だったのでしょうか。

谷崎潤一郎の墓から一段下がった所に5基の墓が並びます。中央左奥に枝垂れ桜が薄っすらと見えるので、それを元に位置関係を把握してください。一番手前が内藤湖南(1866-1934、京大教授、東洋史学者)の墓で、墓石は「湖南内藤」となっている。手前から二番目が濱田青陵(1881-1938、考古学者・京都帝国大学総長・名誉教授)の墓か?。墓名は別名だが、脇の石板に「濱田家先祖代々之霊位」とあります。奥から二つ目が九鬼周造(1888-1941、京都帝国大学教授・哲学者)の墓。

 さらに哲学の道を  



法然院からまた哲学の道に戻る。これは「洗心橋」です。
疏水分線「哲学の道」の桜並木の保全管理は京都市水道局の疏水事務所が行っている。害虫の駆除,桜の木の根の養生,立ち枯れや倒木のおそれのあるものの植え替えなど行い景観保存に努めているそうです。

哲学の道は川の右岸(山側)にも散策路が設けられているが、左岸のようにつながっているわけではない。川向こうの右岸には、独創的な建物や、おしゃれで雰囲気の良いカフェ、食事処、お土産物屋などが点在し、気分転換にちょっと立ち寄ってみるのもよい。要所要所に小橋が架けられているので、簡単に川向こうに渡れます。

今日は平日のせいか、あまり日本語は耳に入ってこない。半分以上は海外からの人のようです。コロナ期にも歩いたが、当時と雰囲気が一変しています。外国人のいない京都は京都ではありません。

川向こうに紅い幟のはためく小さなお堂の「弥勒院」が見えてきました。幟には「幸せ地蔵尊」と染め抜かれている。子どもを抱いた木造のお地蔵さんで、「今では幸せ地蔵尊として近所の方から観光に来られた方まで多くの方にお参り頂き、「幸せになった」との嬉しいお便りをたくさん頂いております」(公式サイトより)そうです。
修験道山伏のお寺・聖護院の末寺で、戦後まもなく現地に引っ越してきたようです。

銀閣寺参道へ続く「銀閣寺橋」が見えてきました。大変な人混みのようです。

銀閣寺橋上から南側を撮る。実は、哲学の道はこの銀閣寺橋が北の終点と思っていました。ところがまだ続きがあるようです。
疏水の流れは、この橋の下で西方向へ大きくカーブし、それに沿って桜並木も続いている。

東西に走る今出川通り。疏水の水はこの通りに沿って西へ流れてゆく。

疏水の流れに沿って桜が植えられ散策路が設けられている。桜のトンネルを堪能できます。地図をみれば「白川疎水通り」となっており、この橋は「銀閣寺西橋」。

銀閣寺西橋を超えたこの辺りの、今出川通りを挟んだ反対側に「白沙村荘橋本関雪記念館」が建つ。哲学の道に桜の苗木を寄贈した日本画家で、ここに住居を構えていました。そのため哲学の道の桜は「関雪桜」と呼ばれています。

写真左側に柵が見える。ここには京都市水道局疏水事務所により、哲学の道で「関雪桜」として親しまれているソメイヨシノの小枝を採取し,まったく同じ遺伝子を持つ後継クローン苗木を増殖させ、その三本の苗木が柵の中に植樹されているのです。近年,樹木が弱っていることから、関雪桜を後世に残そうとした試みです。またその先に「関雪桜」の石碑が建つ。

散策路は左右両岸ともよく整備されている。廃止された市電の軌道敷石を転用し、整然とした石畳となっており歩きやすい。

西田橋の脇へやってきた。桜のスポットとして注目される場所です。川を見ると、上流から流れてきた花びらが堰き止められピンク色の帯となっています。現在はまだゴミが溜まっている程度にしか感じられませんが、満開期を過ぎ、散り桜が盛んな頃には、何十メートルにも連なり「花筏(はないかだ)」という現象を造り出すという。川面が桜の花びらで何十メートルにもわたり覆いつくされる圧巻の光景は人々の目をクギづけにするそうです。ここは儚くも散った花ビラを見下ろす桜の名所です。咲いてよし、散ってよし、桜はやはり日本人の心だ。

ここは今出川通りと白川通りが交差する「浄土寺橋」。ここに「哲学の道」の道しるべが置かれている。哲学の道はここから始まるのだろうか。疏水の流れはさらに北西に流れ、高野川、鴨川へと流れてゆく。


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桜の道:南禅寺から銀閣寺へ 3(哲学の道1)

2024年04月30日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2024年4月5日(金曜日) 南禅寺を出て、哲学の道へ向かいます。

 哲学の道 1(熊野若王子神社(にゃくおうじじんじゃ))  


南禅寺を出て、これから哲学の道へ向かいます。南禅寺境内を北側に抜けると、一車線の車道が通っている。「鹿ケ谷通(ししがだにどおり)」と呼ばれ、哲学の道に沿って銀閣寺まで続いています。珍しく車道に山門がかかっている。南禅寺境内図を見れば、この辺りも境内になっているので、南禅寺の門でしょうね。
奥に見える白い建物は、明治元年創立で浄土宗系の私立男子校「東山中学校・高等学校」。スポーツで有名で、岡島秀樹(プロ野球:巨人)、鎌田大地(サッカー)、髙橋藍(バレーボール)など著名スポーツ選手を輩出する。甲子園で雄姿を見たい。

しばらく行くと右手に「もみじの永観堂」と賞賛される堂宇が見えてくる。正式寺名は「禅林寺」だが、中興の祖とされる第七世永観律師(1033-1111)の時に大きく発展したので、現在でも「永観堂」と呼ばれています。ここの紅葉は文句なしに京都一だ(ココを参照)

永観堂から少し行くと、右へ入る道の角に一本の樹木と標識があり、哲学の道へはここを入って行く。目印や標識が無くても、人の流れに身を任せて行けばよい。ほとんどの人が哲学の道へ行く人、来る人なのだから。300mほどの緩やかな坂道で、両側には洒落たお店が並ぶ。


坂を登りきると、哲学の道の最初の橋「若王子橋(にゃくおうじばし)」があり、ここが哲学の道の南側のスタート地点になる。橋を渡った先が熊野若王子神社なので寄ってみます。



熊野若王子神社(にゃくおうじじんじゃ)は、熊野信仰に厚く、生涯34回も熊野詣をした後白河法皇が、永暦元年(1160)に熊野権現を勧請し禅林寺(永観堂)の鎮守社としたことに始まる。
京都には「京都三熊野」といわれる神社があり、それぞれ新熊野神社は熊野本宮大社、熊野神社は熊野速玉大社、熊野若王子神社は熊野那智大社というように熊野三山に対応している。上皇をはじめ修験者は熊野詣に出かける際、若王子神社に寄り背後にある滝(那智の滝を表している)で身を清めてから熊野へ出発したのです。
応仁の乱で荒廃したが、豊臣秀吉により再興され、江戸時代には修験道の本山で門跡寺院の聖護院に属した。明治時代になり神仏分離令より聖護院より離れ現在にいたる。



境内入口の階段脇に、樹齢400年で京都府で最も古い御神木の梛(ナギ)の木がある。倒木の恐れがあったため、平成29年(2017)に見てのとおりの姿にされてしまった。梛の木は、縦方向に多くの平行脈をもち、強靭で光沢がある。そのため、熊野詣などで苦難から守ってくれる縁起のよい植物とされた。神木として神社に植えられることがおく、熊野地方では神木とされていた。




右が、国常立神、伊佐那岐神、伊佐那美神、天照皇大神の四神を祀る本殿。社名「若王子神社」は、天照皇大神の別名「若一王子(にゃくいちおうじ)」にちなむものです。もともと本殿は、本宮、新宮、那智、若宮の四棟で構成されていたが、昭和54年(1979)に一社相殿の形にまとめられた。左は恵比須社。





社務所に八咫烏の絵馬が販売されている。八咫烏(やたがらす)が梛の葉をくわえるマークはこの神社のシンボルだそうです。



境内の横に階段が設けられ、10分ほどかけて裏山へ登ると広場「桜花苑(おうかえん)」に出る。赤色に近い濃いピンク色の桜が咲き、数十本の桜木が乱立する。地面には絨毯のように花弁が敷き詰められている。もう満開を過ぎてしまったのでしょうか。
「陽光桜(ヨウコウザクラ)」の説明版が立っています。「戦前、愛媛県下で青年学校の教員となり、教え子たちを出征させた高岡正明さん(1909-2001)が、戦病死した教え子らの鎮魂と平和を願って作出した桜です。落命の地となったアジアなどの寒暖差の多様な気候に適応し、海外でも人目につく濃いピンクの一重咲き桜が三十年がかりで誕生。陽光の花には「美しい桜を見れば、人類は争う気にならない」との期待・・・」と書かれています。

階段の横をさらに奥へ行くと、熊野御幸の際に身を浄めたとされる「千手の滝」があるのだが、時間と体力を考えパス。さらに同志社創立者の新島襄と八重のお墓もあるという。

 哲学の道 2(大豊神社)  



熊野若王子神社前の若王子橋を哲学の道の南側のスタート地点とし、ここから北へ伸び、銀閣寺のある銀閣寺橋までの約1.5kmの遊歩道を「哲学の道」と呼んでいます。遊歩道に沿って約450本の桜が植えられ、もはや死語となりつつあるお堅い「哲学」の語とは対照的に、華やいだ雰囲気を醸し出している。

明治23年(1890)に琵琶湖疎水工事が完成した。その時、疎水は蹴上から分流され、南禅寺水路閣を通って北へ向かって流された。高野川をくぐり、さらには賀茂川へ続いているのです。この道は、疎水分線のの流れに沿って続く管理用道路として設置されたもので、芝生が植えられている程度の小径だったという。

明治時代、この近辺に多くの文人が移り住んでいたため「文人の道」と呼ばれていた。また京都大学にも近く、西田幾太郎(きたろう、1870-1945)、田辺元、河上肇などの学者が、思索を巡らせながら散策していたことから、「散策の道」「思索の道」「哲学の小径」とも呼ばれるようになっていった。
戦後、地元の方たちによって保存運動が進められた。そうした中で京都市により散策路として整備され、昭和47年(1972)に「哲学の道」が正式名称とされたのです。

「大豊橋」です。名前のとおり大豊神社へ通じている。

大豊神社(おおとよじんじゃ)の創建は、仁和3年(887)、宇多天皇の病気平癒のために尚侍藤原淑子が東山三十六峰の第十五峰目にある椿ヶ峰に、医薬の神である少彦名命を祀ったのが始まりである。また、宇多天皇の信任の厚かった菅原道真公も合祀されました。寛仁年間(1017 - 1021)に椿ヶ峰から現在地の鹿ケ谷へと遷され、後一条天皇から大豊大明神の神号を賜わり、以来この地域一帯の産土神として祀られている。南北朝の戦いや応仁の乱で焼失するが、その都度再建されました。

大豊神社公式サイト「京都哲学の道の「狛ねずみの社」として全国より多くの参拝者を迎える今日となりました。」

写真に見えている範囲が、神社境内のほぼ全て。正面が拝殿で、その後ろに本殿がある。背後の山が「椿ヶ峰」で、その名の通り、古くから椿の木が多く自生していた。神社も椿の名所として知られ、境内各所に椿が咲き誇っています。
写真右の椿の大木は、「大豊八重神楽」と命名された樹齢400年の銘木。本殿に覆いかぶさるように咲く枝垂れ桜は、円山公園の桜の3代目だそうです。



少彦名命、応神天皇、菅原道真を祀る本殿。医薬の祖とされている少彦名命にちなみ、社殿前には治病健康長寿・若返り・金運の象徴である「狛巳」が鎮座しています。私はヘビが大嫌いだが、紅白の椿で着飾ったこの巳は愛くるしくていい。





本殿右には、五穀豊穣、商売繁盛の稲荷社があります。稲荷神の使いがきつねなので、社の両脇に「狛きつね」が建つ。このキツネさんは額に椿を載せているが、右のキツネは咥えている。








さらに右手に大国社。大国主命がネズミに助けられたという神話から、椿の髪飾りをした「狛ねずみ」が置かれている。右の狛ねずみは巻物を抱え、学問に御利益があり、左は水玉を抱え、子授け・安産に御利益があるという。「狛ねずみ」は全国でここしかなく、ねずみ年の正月にはメディアに取り上げられ、初詣客で長蛇の列になるそうです。


本殿左側には愛宕社と日吉社が一つ屋根の下に並ぶ。愛宕社は火伏せ(防火)の守護神を祀り「狛鳶(とび)」が、日吉社は本殿の北側鬼門除けで「狛猿」を置く。

大豊神社は動物に優しい神社です。

大豊神社から哲学の道に戻り、さらに北へ歩きます。

小径に、そして小川に覆いかぶさるように約400本の桜が並びます。ほとんどがソメイヨシノですが、八重桜、ヤマザクラも一部あるようです。右手には、雪柳も彩りをそえてくれている。

哲学の道の桜は「関雪桜(かんせつざくら)」と呼ばれています。これはこの道に桜が植えられるきっかけになったことからくる。
近くに居を構えていた神戸市生まれの日本画家・橋本関雪(1883-1945)は、長年活動の場を与えてくれた京都市に報いたいと妻・よねに相談した。よね夫人は桜を植えてはどうかと発案、その結果大正10年(1921)に京都市に300本の桜の苗木を寄贈したのです。それがこの小径沿いに植えられ、桜並木となった。当初の木が老い果てると順次植え替えられ、現在の景観となっていったのです。

哲学の道に沿って流れる川には、大小30ほどの橋が架けられています。幅が狭く、テスリもない簡素な橋が多く、川向うのお店、住居へのために設けられたもののようです。名前の付いたしっかりとした橋は3分の1くらいでしょうか。これら大小の橋は哲学の道の良いアクセントになっている。歩を止め橋で一服し、桜を見上げ、そして川面を見下ろすと、そこにもまた桜が咲いています。橋は、桜と小川を撮る格好の場所となっているのです。




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桜の道:南禅寺から銀閣寺へ 2(南禅寺)

2024年04月22日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2024年4月5日(金曜日)
金地院のすぐ傍が南禅寺。三門、法堂、水路閣、方丈を巡る。南禅院は修理中のため拝観停止でした。

 三門  



金地院から南禅寺の参道に戻ると、目の前に南禅寺の勅使門(重要文化財)と中門が見えている。
南禅寺公式サイトに「勅使門は、寛永18年(1641)明正天皇より、御所にあった「日の御門」を拝領したものです。古くは天皇や勅使の来山の折に限って開かれる門でした。現代では住持の晋山に限って開かれています。その勅使門の南にある中門は、慶長6年(1601)松井康之より、伏見城松井邸の門を勅使門として寄進されたものです。日の御門の拝領に伴い現地に移建され、幕末までは脇門と呼ばれていました。」とあります。

秋を思わせる情景ですね。南禅寺は春よりも秋の紅葉の方が映えます。

(境内図は公式サイトより)中門を潜り境内に入る。真っすぐのびる参道の突き当りが方丈で、その参道の右手に水路閣、左手に三門、法堂があります。

★★~ 南禅寺の歴史 ~★★
鎌倉時代、この地には亀山天皇が文永元年(1264)に造営した離宮の「禅林寺殿」があった。名前は近くにあった禅林寺(永観堂)に由来する。出家して亀山法皇となり禅林寺殿を、正応4年(1291)に開山を無関普門(大明国師)として寺に改め、「龍安山禅林禅寺」と名付けた。これが南禅寺の創建です。さらに正安年間(1299 - 1302)に「太平興国南禅禅寺」(たいへいこうこくなんぜんぜんじ))という寺号に改めた。これが現在まで南禅寺の正式名称です。南禅寺は、京都・鎌倉の禅刹「五山」の最上位に位置づけられ、別格として「五山之上」とされた。

その後、二度の火災(1393年、1447年)、さらに応仁元年(1467)に始まった応仁の乱により伽藍をことごとく焼失し、衰退していった。南禅寺の復興は、第270世住職となった以心崇伝(いしんすうでん、1569―1633)によって行われた。鷹ケ峯にあった金地院を南禅寺境内に移して居住し、応仁の乱によって荒廃した南禅寺の伽藍の復興に努め、三門、法堂や大方丈、小方丈、庭園などが造られていった。
明治時代になると、上知により境内は3分の1ほどに減らされ、塔頭も半分以下に減ってしまった。それでも主要伽藍は残され、現在では京都でも有数の観光名所となっている。平成17年(2005)、南禅寺境内全体が国の史跡に指定されました。

三門は永仁3年(1295)に西園寺実兼の寄進によって創建されたが、文安4年(1447)の南禅寺大火で焼失。現在の門は、以心崇伝による南禅寺復興時の寛永5年(1628)に、津藩主・藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るために寄進再建したもので、別名「天下竜門」と呼ばれる。
公式サイトに「三門とは、仏道修行で悟りに至る為に透過しなければならない三つの関門を表す、空、無相、無作の三解脱門を略した呼称です。山門とも書き表され、寺院を代表する正門であり、禅宗七堂伽藍(山門、仏殿、法堂、僧堂、庫裏、東司、浴室)の中の一つです」とあります。

構造は「五間三戸二階二重門」(?)、入母屋造、本瓦葺で高さ約22メートル。両側に山廊をもつ。知恩院・久遠寺(山梨県)とともに「日本三大門」、知恩院・仁和寺とともに「京都三大門」とされる。国の重要文化財。

太く、重量感のある円柱に圧倒される。何本あるんだろう。高くてデッカイ敷居は、おばあちゃんが跨ぐのは大変だ。腰掛けて美しい境内を眺めるのにはちょうど良いが。


三門の斜め前に大きな石灯籠が置かれています。寛永5年(1628)の三門落慶の際に佐久間勝之が供養のために奉納した石灯籠で、俗に佐久間玄藩の片灯籠と呼ばれている。高さは6メートルあり、三門があまりにデカイので目立たないが、東洋一の大きさです。

南側の山廊に階段が設けられており、二階に上がることができる。山廊内に受付(拝観料600円)があり、履物はビニール袋に入れ持って上がる。傾斜45度の急階段で、両側のロープを頼りに、這うようにして登ります。

「五鳳楼(ごほうろう)」と呼ばれる楼上は四周が廊下で囲まれ、東西南北全方向を眺めることができます。しかし楼上内陣は塞がれ見ることは出来ない。ただ正面に一過所だけぞき窓が開けられ内陣を見ることができる。撮影禁止なので、公式サイトから紹介すると「山門楼上内陣の正面には仏師左京等の手になる宝冠釈迦座像を本尊とし、その脇士に月蓋長者、善財童士、左右に十六羅漢を配置し、本光国師、徳川家康、藤堂高虎の像と一門の重臣の位牌が安置されています。また天井の鳳凰、天人の極彩色の図は狩野探幽、土佐徳悦の筆とされています。」とあり、内陣写真も掲載されています。

絶景かな、と叫びたいのだが、樹木に遮られ京都市内が少ししか見えないのが残念。大泥棒・石川五右衛門がこの三門上で見得を切り「絶景かな、絶景かな。春の眺めは値千金とは小せえ、小せえ」といったセリフが有名です。しかし五右衛門は三門が建てられる30年前の文禄3年(1594)に捕らえられ、京都三条河原で子とともに釜ゆでの極刑に処せられている。歌舞伎「楼門五三桐」の芝居上の演出にすぎません。

反対の山側に周ると、春と秋が同時に訪れたようで、絶景かな、絶景かな。正面に見えるのは法堂です。

 法堂(はっとう)  



三門を降り、法堂へ向かう。三門と法堂を真っすぐ結ぶこの道が、私にとって南禅寺で一番お気に入りの場所です。春の桜、夏の新緑、秋の紅葉と四季ごとに彩りを変え、派手さは無いが何か落ち着きを与えてくれる参道です。後ろに三門がそびえ、緩やかな坂道を歩きながら振り返るごとにその表情を変えてみせてくれる。

南禅寺の中心となる法堂(はっとう)は法式行事や公式の法要が行われる場所。創建当時のものは、応仁、文明の乱で焼失したが、慶長11年(1606)に豊臣秀頼によって再建された。しかしこれも明治28年(1895)にこたつの火の不始末で焼失した。現在の建物は、明治42年(1909)に再建されたもの。

堂内には入れず、また外から見ることもできない。ただ径10センチほどの丸穴が開けられ、そこから覗き見れるようになっている。カメラを突っ込み撮ってみました。床は一面の敷瓦で、正面須弥壇上には中央に本尊の釈迦如来坐像、右側に獅子に騎る文殊菩薩、左側に象に騎る普賢菩薩の三尊像を安置している。天井には明治から大正にかけて活躍した画家・今尾景年による幡龍が描かれている。


 水路閣(すいろかく)  



左が法堂、正面の白壁は方丈への入口になる庫裏、右の小橋を渡れば水路閣へ。
禅宗様式の伽藍配置は、勅使門、三門(山門)、法堂、方丈が一直線になっている。勅使門と三門の間に池が置かれることも多い。

初めて見た時、お寺にコレはなんだ!、と非常な違和感を覚えたものです。しかし何度か訪れて見ているうちに、古さび渋くなったレンガ構造物が周囲の環境にとけ込み違和感は感じなくなった。ピカピカのレンガでないのが良い、周りが庭園化されてないのが良い。木立越しに佇む水路閣のある一帯は、南禅寺境内だということを忘れさせてくれる異空間となっている。

「水路閣(すいろかく)」の名称で、今では有名な観光スポットとなっている。南禅寺を訪れて、三門を見上げこの水路閣で写真を撮っただけで帰る人が多い。特に古さびたレンガ造りのアーチ橋を背景に、着物姿で撮った写真が映えるそうです。
平成8年(1996)に日本を代表する近代化遺産として国の史跡に指定された。
琵琶湖疏水の分水を北へ流すため「当初は塔頭南禅院の南側にトンネルを掘って水路にする予定であったが、それでは南禅院にある亀山法皇廟所の裏を通ることになり、南禅寺が反対した。そのために現在の形を取ることになった。建設当時は古都の景観を破壊するとして反対の声も上がった一方で、南禅寺の三門には見物人が殺到したという。」(Wikipediaより)。
設計・デザインしたのは琵琶湖疎水工事の主任技師だった田邉朔郎で、明治23年(1890)に完成した。全長93.2メートル、高さ約9メートル。
当時景観論争がわき起こり、苦悩した田邉朔郎がだした結論が、古代ローマの水道橋を思わせるレンガ造りのアーチ橋だったのです。

この通し穴が絶好の撮影スポットだが、邪魔が入るのでなかなか難しい。橋を潜った先に階段が見え、登ると水路閣の上面が見られ、また蹴上インクラインへの近道ともなっている。

階段を登った正面が、南禅寺発祥の地・南禅院です。現在、改修工事のため塀で塞がれ拝観できない(令和7年(2025)3月まで)。

水路閣の上。この疎水の分流は北へ流れ、哲学の道に沿って流れる小川となり、爽やかな風景を演出してくれている。
「近代化遺産」とされたが、現在でも琵琶湖からの水を流し続ける現役なのです。





 方丈とその庭園  



水路閣のすぐ東側が方丈です。これから方丈とその庭園を見学するのだが、やや複雑な構造をしているので、自分の居場所が分からなくなってくる(数年前に経験)。そこで方丈の図面を入手したので掲載しておきます。この図面は南禅寺の庭園を手がけられた植彌加藤造園(株)の公式サイトからお借りしました。庭園も素晴らしいが、この図面も素晴らしい、ありがとうございます。

方丈の入口の横に唐破風の大玄関が見える。特別な行事の時にのみ使用され、通常は通れない。真っすぐ伸びた石畳の両側に、玉砂利を敷き詰め、樹木と植栽、景石を配置した美しい庭園で、植彌加藤造園さんによるもの。この石畳の敷石は京都市市電伏見線が廃止になった時に軌道敷の板石を払い下げられたものだそうです。

禅宗寺院特有の姿を見せる庫裏。ここが方丈への入口で、拝観受付があります(方丈庭園600円)。履き物を脱ぎ、置かれているビニール袋に入れて持ち歩く。使用済みの袋は(お土産に?、記念に?)「お持ち帰り下さい」とのこと。
南禅寺の正式名は「瑞龍山 太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)」。禅宗は、インドから中国へ渡った達磨大師を初祖とし、6代目の時に南宗(なんしゅう)禅と北宗禅に分裂した。「南宗禅の法を伝える寺の意から南禅寺の寺名になりました。南宗禅とは達磨大師より6代目の大鑑慧能禅師の法系をいいます」(公式サイトより)

玄関を上がったすぐ右手が「滝の間」で、抹茶(有料)を味わいながら滝を眺められる。滝水は琵琶湖疏水より取り込んでいる。板戸が開放されているので、抹茶を頂かなくても十分滝を鑑賞できるよ。
滝に覆いかぶさるように枝を広げるのはモミジ。滝に遠近感をつけるための仕掛けのようです。紅葉時期には、赤毛氈に座り抹茶を頂くべきです。



板張りの廊下が方丈へと続いている。右手の書院の部屋では、「南禅寺 歴史と美」と題した約10分の映像を流していました。








書院の北側に、「還源庭」(げんげんてい)と札の立つ小さく簡素な庭があります。左が大方丈で白壁は蔵。涵


書院の西側に、大方丈の建物とその庭園が見える。

大方丈は内陣と六部屋からなる。仏間を除く各部屋には桃山前期の狩野派絵師筆により障壁画計124面(重要文化財)が描かれていた。「描画により400年が経過して、彩色の剥落などの傷みがみられるため、平成23年(2011)12月に124 面中の84面を収蔵庫に保管しました。現在は、デジタル撮影した画像を元に、江戸初期から中期の色合いで描画復元した、84面のあらたな障壁画を補完して公開しております」(公式サイト)

大方丈の建物は、豊臣秀吉が天正年間(1573年 - 1593年)に建てた女院御所の対面御殿を慶長16年(1611)に下賜されたもの。昭和28年(1953)国宝に指定されました。

大方丈庭園は、江戸時代初期の以心崇伝による南禅寺復興の際に、小堀遠州によって作庭されたと伝わる。東西に細長く、全体を最高格式の五筋塀で囲い白砂を敷き詰め、左奥に石を並べサツキの刈り込みを中心に松とモミジを配置している。通常、石組みを立てて須弥山・蓬莱山などを表現し仏教観を示すのだが、ここではそれがなく、大小の石を寝かして並べているだけです。観念的意味を持たせず、ただ調和美だけを意識した庭園のように思えます。私はこうした庭園の方が好きです。
ところが明治以降、「虎の子渡しの庭」と意味づけされるようになる。左の大きな石が母虎で、小さな石の子虎を従え川(白砂)を渡っているそうです。私には、そんな風には見えないのですが・・・。

江戸時代初期の代表的な枯山水庭園として、昭和26年(1951)に国の名勝に指定された。

大方丈の廊下を進み角を曲がると、さらに廊下が続いている。この廊下の一番奥が、大方丈に接続して伏見城の小書院が移設され、「小方丈」と呼ばれている。

(庫裏前に掲載されていた写真より)小方丈の部屋は「虎の間」と呼ばれ、狩野探幽筆の「群虎図」40面がある。中でも「水呑の虎」の図(上の写真)は、猛々しい虎が生き生きと描かれていて有名です。Wikipediaは「小方丈の障壁画は狩野探幽の作と伝えられるが、作風上からは数名の絵師による作と推測されている」といっています。

小方丈前の庭園は「如心庭」と呼ばれている。「小方丈庭園は別名「如心庭(にょしんてい)」と呼ばれます。昭和41年(1966)に当時の管長柴山全慶老師が「心を表現せよ」と自ら熱心に指示指導されて植彌加藤造園に作庭されました。その名のごとく、「心」字形に庭石を配した枯山水の石庭で、解脱した心の如く、落ち着いた雰囲気の禅庭園となっています」(公式サイトより)

小方丈の北へ周ると「六道庭(ろくどうてい)」です。天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの世界をさまようという六道輪廻の観念を表したという。バラバラに置かれた石は、煩悩に迷い彷徨う姿を表したものでしょうか。
白壁の左脇に少しだけ見えるのが「大筒垣(おおづつがき)」と呼ばれ、南禅院の竹藪から孟宗竹を切ってきて太めの鉄砲垣を創作したもの。

大方丈の北、小方丈の東、中庭のような小さな庭がある。大方丈の「鳴滝の間」に接しているので「鳴滝庭」と呼ばれる。北西隅に、岐阜県で採取された大変貴重な紅縞(めのう)で作られたという大硯石が置かれている。

渡り廊下を挟んで六道庭の東側に、昭和59年(1984)に作庭された「華厳庭(けごんてい)」がある。白砂で見立てた大海に浮かんでいるのは、島か舟か?。囲いは「南禅寺垣」というそうです。南禅寺垣の奥に見えるのが、昭和43年(1968)に寄進された茶室「窮心亭(きゅうしんてい)」。修学院離宮にある後水尾天皇命名の「窮邃軒(きゅうすいけん)」の趣を慕って名付けられたという。

渡り廊下の北の端は、昭和59年(1984)に造られた「龍吟庭(りゅうぎんてい)」。中央に「涵龍池(かんりゅういけ)」を置き、周辺に白砂、巨石を配する。この辺り、春よりは秋が見頃か。池の奥に見えるのが昭和29年(1954)の寄進された茶室「不識庵(ふしきあん)」。

中央が三門、左は法堂。こちらの通りは人が少ない。皆、水路閣のほうへ引き寄せられて行きます。
国の史跡に指定されている境内は24時間無料開放されている。拝観料が必要なのは、(大人個人)方丈庭園600円、三門600円、南禅院400円。拝観時間は午前8時40分~午後5時(年末12月28日~31日は休みだが、年始は休まない)
南禅寺公式サイト



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桜の道:南禅寺から銀閣寺へ 1(蹴上インクライン・金地院)

2024年04月15日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2024年4月5日(金曜日)
今年も桜の季節がやって来た。やや寒い日が続き、例年に比べ開花が送れていたようだが(例年通り?)、関西もやっと満開を迎えたようです。今年は京都を代表する桜の名所「哲学の道」を歩こうと予定していたので、チャンスを窺っていた。混雑する土日は避け、天気予報を判断した結果、5日の金曜日とした。
南禅寺・哲学の道界隈は何度か訪れているが、ブラ歩きするだけだった。今回は、周辺を含め少し詳しく見てみようと目論んでいます。地下鉄東西線の蹴上駅を出て、蹴上インクライン→金地院→南禅寺→哲学の道→銀閣寺へと、南から北へ向かうコース。哲学の道の脇には、熊野若王子神社,大豊神社,霊鑑寺,安楽寺,法然院といったユニークな社寺が存在するので寄ってみます。

上はGooglEarthの空中写真。哲学の道をピンク〇で示した。哲学の道を超拡大して見ると、通りは満開の桜で埋まっている。ところが写真取得日が「2022/3/10」と記載されている。写真は嘘をつかないので、日付が??。

 蹴上(けあげ)インクライン 1  



大阪からは、JR京都駅→地下鉄烏丸線「烏丸御池駅」乗換→地下鉄東西線「蹴上駅」下車。京都駅から約20分くらい。車道「三条通」下に蹴上駅があり、インクラインの土手下の出口から地上に出る(写真)。土手の桜は、ちょうど満開の見頃となっているようだ。

土手の真ん中あたりに、レトロな雰囲気を漂わせた赤レンガ造りのトンネルがあり、「ねじりまんぽ」というなんとも奇妙は名前が付けられている。高さ約3m、長さ約18mで、蹴上駅からインクラインの土手下を通って南禅寺へ行く近道となっています。

上のインクラインを行き交う船を乗せた台車の重さに耐えられるようにするため、レンガを斜めに螺旋状に積み上げ強度を高める工法が採られている。これが「ねじり」です。またトンネル自体も、土手と直角にならないよう斜め掘られているようです。古い鉄道のトンネル構築に主に使われた工法だが、技術革新により現在では見られなくなった。

Wikipediaには「ねじりまんぽの「まんぽ」は近畿地方でトンネルのことを指す方言で、マンボ、マンプウ、マンボウなどとも言われる」とある。

インクラインの最上部に上がってみます。石ころの坂道に4本のレールがはしり、その上を満開の桜が覆いっているという、華やかで、それでいで奇妙を風景が展開する。これを理解するには、明治の琵琶湖疎水事業を知らなければなりません。

明治維新で徳川幕府は倒れ、新政府は都を江戸(東京に改名)に移し、天皇と取り巻きの公卿たちは東京へ移って行った。平安京以来,首都として栄えてきた京都の人々は、これでは京都は寂れ衰退してしまうと危機感を抱いたのです。

第3代京都府知事となった北垣国道は京都を復興させ活力を呼び戻すため、水路を造り琵琶湖の水を京都に通すということを構想した。市の年間予算の十数倍という膨大な費用を投入して、疎水開削工事は明治18年(1885)に着工、5年後の明治23年(1890)に完成した。これによって灌漑用水によって田畑が潤い、市民生活のインフラとなる上水道や防火用水が整備され、また水力発電によって新しい産業を興し、電気鉄道も市内を走るようになった。明治45年(1912)には第2疎水も完成している。

写真中央に見えるのが第三トンネルで、疎水の京都への流入口。この辺りに第1疎水、第2疎水の合流点もある。赤レンガの建物は「旧御所水道ポンプ室」。これは京都御所に防火用水を送水する仕組み。ポンプで背後にある山上の貯水池に揚水し、御所で火災が発生した場合には,山上の貯水池から水を高圧で送水するのです。鴨川の水では頼りなかったようです。この建物を設計したのは京都国立博物館や赤坂離宮(現在の迎賓館)を設計した片山東熊で、国登録有形文化財に登録された(2020年4月)。

現在、琵琶湖の大津からここ蹴上まで観光船「びわ湖疎水船」が運行され、ここが乗下船場となっています。

それまで人馬に頼っていた京都と大津の間の荷物輸送が、疎水路を使った舟運により大変便利になった。ところが問題は、蹴上区間の高低差約36mという落差をどう克服すかです。そこで採用されたのがインクライン方式(傾斜鉄道)だった。傾斜部にレールを敷き、舟を台車に載せてロープで引っ張り坂道を上下させるというもの。

写真の場所は「蹴上船溜(けあげふなだまり)」といい、舟を台車に載せる、又は台車から降ろす場所。現在、当時利用された台車と舟が復原展示されています。
二本のレールが水中まで引き込まれている。これは台車を水中まで引き入れ舟の下に入れ、そのまま引き上げると、荷物の積み下ろしをすることなく舟を台車に載せることができる。ロープを引っ張るのに、水力発電による電力モーターが使われた。明治24年(1891)に営業開始され、下の「南禅寺船溜」までの約580mを10~15分くらいで移動させた。
蹴上船溜の傍に小さな祠があり、一体の石仏が祀られています。傍に「義経地蔵」と書かれた説明版が立てられれている。義経は鞍馬山から奥州へ向かう途中、東海道のこの辺りで馬に乗った平家の武士9人とすれ違った。その時、馬が泥水を蹴り上げ義経の服を汚してしまった。怒った義経は9人を斬り殺したという。切り殺された9人の菩提を弔うために村人が九体石仏を安置した。ここの祀られているのはその内の一体だという。「蹴上(けあげ)」の地名は、この義経伝説に由来しているそうです。

インクライン上部の東側は蹴上疎水公園で、ここも桜が見られる。しかし人は皆レールの方へ行ってしまい、公園は人が少なく静かだ。公園の中央に田辺朔郎の銅像が建てられている。
田辺朔郎(たなべ-さくろう、1861-1944)は、工部大学校土木科(東京大学工学部の前身)卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」が北垣京都府知事の目に留まり、弱冠21歳で疏水工事の土木技術者として採用された。琵琶湖疏水工事の設計・施工の総責任者となり、工事を完成させた。インクラインを造り、蹴上に日本最初の水力発電所を造ったのも彼です。
「蹴上疎水公園」を抜けて奥へ行き、鉄柵で防御された細い通路を渡る。左側には関西電力の巨大な水圧鉄管が蹴上発電所へ水を落としている。
さらに進むと平坦な小路が疎水分線に沿って続き、南禅寺の「水路閣」にでる。南禅寺への近道というか、抜け道となっている。水路閣からやってくる人ともすれ違う。

 蹴上(けあげ)インクライン 2  



インクラインに戻り、下方向へ歩いてみます。まだ早朝8時なのにかなりの人出だ。

インクラインのその後の歴史を見てみよう。インクラインの舟運は明治末頃に最盛期を迎える。しかし大正から昭和にかけて、鉄道輸送、国道の整備などの交通網が発達してくるとインクラインの利用は大きく減少してきた。そして戦後の昭和23年(1948)11月に休止されたのです。レールも撤去され、跡地は荒廃していった。こうした現状に、地元の人々は復元を願い、京都市に働きかけていった。その結果、昭和52年(1977)4月に復元工事が終わる。廃止された市電の敷石が敷かれ、以前と同じように四本のレールが敷設され、周辺環境も整備された。この時に桜も植えられたのです。
昭和58年(1983)、京都市の文化財に指定され、産業遺産として保存。平成8年(1996)、蹴上インクライン、水路閣など琵琶湖疏水に関する12カ所が、近代遺産として国の史跡に指定されたのです。現在では、桜並木の観光スポットになっている。

正装のカップル記念写真。京都ではよく見かける光景です。ほとんどが東南アジア系で、邦人は恥ずかしくてできません。いつもなら和服姿で写真撮る人を多く見かけるのだが、まだ早朝なのでレンタル着物店が開いていないようです。

約90本のソメイヨシノがレールに覆いかぶさるように花を開く。ピンクのトンネルを潜って蒸気機関車が出てきそうな雰囲気。夏に新緑、秋には紅葉も楽しめるようだが、やはり春の桜が一番の人気。最盛期は多くの人で溢れ、レールが見えなくなるそうです。違和感のあるようなレールだが、真っすぐ奥へ伸びて風景に筋を通し引き締めてくれています。

幅約22m、総延長約580m、勾配15分ノ1の路面が緩やかな傾斜を保ち下っている。ここは元々切り立った崖だったが、疏水工事の際のトンネル掘削で掘り出された土砂を積み上げて路盤を整備したものです。

インクライン中ほどを過ぎたあたりにも、舟と台車が展示され、積まれている樽には「伏見の清酒」とある。説明版に「明治27年(1894)には伏見区堀詰町までの延長約20kmの運河が完成し、この舟運により琵琶湖と淀川が疎水を通じて結ばれ、北陸や近江、あるいは大阪からの人々や物資往来で大層にぎわい、明治44年(1911)には渡航客13万人を記録しました」と書かれている。

そろそろインクラインも終わりに近づいてきた。見えてる橋は南禅寺参道へ続く「南禅寺橋」。ここでもやっています。幸せそうなお二人さん。

インクラインの下端が「南禅寺船溜」。ここで舟を台車からおろす、又は載せるという作業を行っていた。正面は岡崎動物園で、現在動物園の休憩室となっている白い建物の下に旧ドラム室があった。インクラインの台車を動かすためのワイヤーロープを巻き上げるウインチの運転台と機械室です。現在、見学できるようです。

船溜の中央の大きな噴水は、疎水の高低差を利用して水圧だけで噴き上がっているという。写真右側には、琵琶湖疎水に関する資料やアーカイブ映像などを展示している琵琶湖疎水記念館(入館無料、9:00~17:00、定休日は月曜日と年末年始)があります。



疎水はこの南禅寺船溜を経由してさらに西へ向かってのびており、ここから鴨川に合流するまでの流れを「鴨東運河(おうとううんが)」、または「岡崎疎水」と呼ぶ。全長約2kmの疎水沿いには公園、美術館、動物園、平安神宮があり、春には桜一色となり多くの人々で賑わいます。春限定の遊覧船「岡崎さくら回廊十石舟めぐり」で、桜と水を満喫できます。午後になると、乗船待ちの長い列ができ、すぐに乗船できません。






 金地院(こんちいん)  



南禅寺橋の上です。右側橋下にインクラインがとおり、左奥へ進んでゆけば南禅寺への参道。春よりは秋の紅葉時のほうが鮮やかかな。

南禅寺中門へさしかかる手前右側に「金地院」と書かれた門があります。また「東照宮下乗門」の札も掛かるので、参拝者はここで下馬しなければならなかった。門を潜った右手に南禅寺塔頭で以心崇伝(金地院崇伝)ゆかりの金地院がある。

門の奥に見える道は、蹴上インクラインにあったトンネル「ねじりまんぽ」とつながり、南禅寺への近道となっています。

金地院の入口になる「総門」。金地院は「応永年間(1394年 - 1428年)に、室町幕府第4代将軍足利義持が大業徳基(だいごうとっき、南禅寺68世)を開山として洛北・鷹ケ峯(現・京都市北区)に創建したと伝えるが、明らかではない。」(Wikipediaより)
江戸初期の慶長10年(1605年)、徳川家康の信任が篤かった以心崇伝により臨済宗南禅寺の塔頭として現在地に移建された。崇伝は南禅寺の第270世住職となり、自らの住坊として再興したのです。崇伝は元和5年(1619)に幕府より僧録(僧侶の人事を統括する役職)に任ぜられた。以後、僧録は金地院住持が兼務する慣例となって幕末まで続いた。そして金地院は、10万石の格式を与えられ、「寺大名」とも呼ばれる権勢を誇ったという。(以心崇伝については最後の開山堂を参照)

(境内図は受け付けに置かれていたもの)門を潜ると右手に拝観受付がある。【拝観時間】8:30~17:00 ※12月~2月は16:30【拝観料】500円(八窓席は別途700円)
正面は庫裏(台所)で、切妻造りの妻側を表にみせ、大きな三角形の白壁と黒茶色の木組が際立つ禅宗寺院に特有の建物。多くは拝観入口となるのですが、ここでは入れません。

受付からすぐのところに、唐門の明智門(あけちもん)と方丈の屋根が見える。

京都国立博物館の北にある豊国神社に総欅(けやき)作りの豪華絢爛な唐門が建ち、現在桃山文化を代表する建築の一つとして国宝に指定されています。その唐門は、秀吉の造った伏見城の城門だったが,二条城へ移され、さらに崇伝が幕府から賜り、この位置に建っていたのです。ところが、明治維新を経て秀吉は復権、豊国神社が造営され、豊国大明神として祀られた。そして唐門を豊国神社に譲ずらざるをえなくなった。そこで金地院は明治19年(1887)、大徳寺から門を買得し、現在地に移築したのが現在の門。この門は、明智光秀が母の菩提のため黄金千枚を寄進し大徳寺方丈に建立したもので「明智門」と呼ばれている。
家康を祀る神社に秀吉の門があり、秀吉の門の後に光秀の門がくる。不思議な巡り合わせですね。(豊国神社の唐門はココを参照。両者を比べるとスケールが違う)

明智門を潜るとすぐ右手が方丈(本堂、重要文化財)。一重、入母屋造、書院造、柿葺(こけらぶき)。
Wikipediaに「この大方丈(本堂)は寺伝では慶長16年(1611年)に、崇伝が伏見城の一部を江戸幕府3代将軍徳川家光から賜り、移築したものといわれるが、話の時代が合っていないうえ、建物に移築の痕跡は確認できない。実際は寛永4年(1627年)に崇伝によって建立されたものとみられる」とあります。
細長い縁先があり、障子の奥が広い板敷の廊下となっている。廊下の奥には六間あり、中央の仏間に本尊の地蔵菩薩像が安置されています。各部屋の襖や障子腰板には狩野派(狩野探幽、尚信)により金地に松、梅、菊、鶴などの障壁画が描かれている。
廊下正面に掲げられている額「布金道場(ふきんどうじょう)」は山岡鉄舟(1836-1888)の筆によるもの。明治初めの廃仏毀釈の嵐を防ぐため、仏教寺院ではなく道場だと主張しています。

開山堂前から見た方丈
方丈の裏には、大徳寺孤篷庵、曼殊院の八窓軒と共に京都三名席の1つに数えられている茶室「八窓席」(はっそうせき、重要文化財)があります。現在、春の特別拝観で公開されているのだが、別途拝観料700円かかるのでパス。掲げられている写真を写真し紹介します。

「創建当時は名称通り8つの窓があったが,明治時代の修築で6つとなったという。なお、建物修理の際の調査で、この茶室は遠州が創建したものではなく、既存の前身建物を遠州が改造したものであることが判明している」そうです(Wikipediaより)。八窓席に付随した小書院の襖絵は長谷川等伯筆「猿猴捉月図」

方丈の前に大きな庭園が広がる。崇伝の依頼により小堀遠州が寛永9年(1632)に作庭したもの。遠州作庭とされる庭園は多いいがその根拠があるものは少ない。この庭園は、当時の設計図や日記、書状などが残されているので、確実に小堀遠州が作庭したことがわかる貴重な庭園です。
大海を表す白砂の奥中央に蓬莱連山を表わす石組を置き、その両側に鶴島、亀島を配する蓬莱式枯山水庭園で、「鶴亀の庭」と呼ばれています。国の特別名勝に指定されている。奥に見える屋根は東照宮。

左側が海に浮かぶ亀島です。右端が「亀頭石」、左端が「亀尾石」、中央の盛り上がりが「亀甲石」で、樹齢700年の老木・柏槇(ビャクシン、イブキ)を背負う。
「鶴亀の庭」には多くの石が組まれているが、これは家康から厚遇されていた崇伝のために、全国各地の大名がきそって名石を寄進したことによる。

方丈内から撮った庭園中央。左側の茶色ぽく見える平べったい巨石は「遥拝石」と呼ばれ、背後にある家康の廟・東照宮を拝むために置かれたもの。遥拝石の後ろが蓬莱連山を表わす三尊石組。さらにその後ろの大刈り込みと常緑樹が、不老不死の仙人が住むという蓬莱山の深山幽谷をイメージさせてくれます。

右側の石組みは鶴島です。亀島の亀と向かい合う形で鶴が表現されている。遥拝石のすぐ右に突き出た平らな巨石は「鶴首石」。安芸城主・浅野家より贈られた石で、淀川を遡り伏見港より陸路で牛45頭により牽かれてきたという。土盛りの胴の部分には立石が重ねられ羽を表し、枝を広げた樹木が羽ばたいているようで、躍動感を与えています。

開山堂前から見た「鶴亀の庭」。こちらから眺めると、白砂の大海に浮かぶ島の様子が伝わってきます。開山堂前から白砂の飛び石に出るための、池をまたぐ二枚の大きな石板は阿波・蜂須賀家より贈られたもの。

「鶴亀の庭」の東側、明智門の前に弁天池を囲むように庭園がある。こちらは池泉回遊式庭園です。弁財天を祀る中島に石橋(写真右端)が架かるが、その二枚の橋石は岡山藩主・池田忠雄の寄進によるもの。

弁天池の脇の小路を通り「鶴亀の庭」の背後に周ると、東照宮の建物が見えてくる。まず「御透門」と呼ばれる門があります。名前のとおり、両脇は菱格子の透かし塀となっており、中を見通せます。

御透門を潜ると、すぐ東照宮の社殿(重要文化財)で、正面に見えているのは拝殿です。
家康は「日光と久能山と京都に東照宮を設置するように」との遺言を残した。東照宮とは、東照大権現である徳川家康を祀る神社のこと。崇伝は小堀遠州に設計させ、寛永5年(1628)に創建された。家康の遺髪と念持仏を祀っています。日光東照宮の方向を向いて東面し、創建当初は日光東照宮と比するほどの規模があったという。

拝殿は近づいて内部を覗いて見ることができる。天井には狩野探幽の筆による「鳴龍(なきりゅう)」が描かれており、さらにその欄間には土佐光起画・青蓮院宮尊純法親王の書になる「三十六歌仙」額が掲げられています。

建物を横から見ると社殿の構造がよくわかる。写真左が拝殿、右奥が本殿で徳川家康を祀る。拝殿と本殿の間を「石の間」と呼ばれる建物が結んでいる。この様式を「権現造り」と呼び、受け付けのパンフには「京都に遺る唯一の権現造り様式である」と記されている。菅原道真を祀る北野天満宮も権現造りのはずだが・・・?

東照宮から方丈へ戻る途中に、以心崇伝の塔所である開山堂が建つ。内部を覗けば、正面に以心崇伝像が、左右両側には十六羅漢像が安置されている。掛かっている勅額は後水尾天皇の筆によるものだそうです。

以心崇伝(いしんすうでん、1569―1633)は臨済宗の僧で、「以心」は字(あざな、別称)、法名が「崇伝」、南禅寺金地院に住んでいたので「金地院崇伝」とも呼ばれた。
室町幕府幕臣の一色家に生まれたが、天正1年(1573)足利氏滅亡のとき父と死別,南禅寺に入って出家した。慶長10年(1605)、南禅寺第270世住職となり、鷹ケ峯にあった金地院を塔頭として南禅寺境内に移し再建する。金地院に住み、応仁の乱によって荒廃した南禅寺の伽藍の復興に努めた。
慶長13年(1608)、徳川家康に招かれ駿府に赴き幕政に参加するようになった。駿府城内に建てた金地院に住み、外交文書の起草や朱印状の事務取扱を行った。さらに諸法度の起草に参画し、キリスト教の禁止(宣教師追放令)や、寺院諸法度、幕府の基本方針を示した武家諸法度、朝廷や公家の活動を制限する禁中並公家諸法度の制定に関わった。
元和2年(1616)家康が死ぬと、江戸に移り江戸城北の丸に金地院を建てた。元和5年(1619)には禅宗寺院の住職の任命を管轄する僧録に任じられた。以後、僧録は金地院住持が兼務する慣例となって金地僧録と称されるようになる。崇伝は京都と江戸の金地院を往還しながら宗教、政治の面で大いに活躍し、僧侶でありながら幕政を左右したことから「黒衣の宰相(こくいのさいしょう)」、また10万石の格式を与えられ「寺大名」といった異名で呼ばれた。また南禅寺や建長寺の再建復興にも尽力し、古書の収集や刊行などの文芸事業も行う。
寛永3年(1626)には後水尾天皇から「本光国師」号を賜る。しかし寛永4年(1627)に崇伝もからんだ「紫衣(しえ)事件」がおこり、後水尾天皇は退位に追い込まれ幕府の権威をより高めることになった。法整備をし徳川幕府の繁栄の礎を築いた人物といえる。寛永10年1月20日(1633年)江戸城内の金地院で死去。享年65歳。墓はここ開山堂にあります。


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六波羅から建仁寺へ 3(建仁寺:庭園)

2023年06月26日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2023年5月27日(土曜日)
建仁寺(けんにんじ)の庭園(大雄苑、〇△□乃庭、潮音庭)を鑑賞し、最後に京都ゑびす神社へ。

 建仁寺 4: 庭園(大雄苑)  



方丈南側の前庭「大雄苑(だいおうえん)」 。方丈の広い縁側に座りじっくり鑑賞できる(寝そべり禁止)。「方丈前の枯山水庭園。創建当時は不明であるが、現在の作庭は加藤熊吉により昭和初期頃、作庭されたもの。建仁寺は中国百丈山の禅刹を模したといわれ、庭園も百丈山の景色を模して作庭された」(公式サイトより)。方丈は昭和9年(1934)の室戸台風で倒壊し、数年後に再建されているので、その時に作庭されたものと考えられる。庭名は百丈山の別名の大雄山に由来します。

庭中央には、両側に五筋塀を構えた唐門が建ち、その背後に法堂が、さらにその後ろに三門、放生池、勅使門と一直線に並んでいる。これが中国百丈山に由来する禅院の伽藍配置。

西端からの眺め。左奥は法堂への渡り廊下。川に、あるいは大海の波に見立てたのでしょうか、くねった砂紋がひかれている。後ろに松、植栽、巨石が配されています。


庭の西端奥に、緑に囲まれて見える七層の石塔は織田信長の供養塔です。弟である織田有楽斎が兄の追善のため建立したもの。徳川時代には、開山堂南の溝の中に隠されていたが、明治になってから現在の場所に戻されたのだそうです。








大雄苑の庭は降りて歩けず、縁側から鑑賞するだけ。ところが方丈の西北にまわると、庭に降りる階段が設けられ、履物まで置かれている。ここを降り、方丈裏の小径を歩けます。








小径を歩くと、最初に出会うのが「田村月樵遺愛の大硯」。
田村月樵(げっしょう、1846 - 1918、宗立ともいう)は明治期の日本画家、洋画家、画僧。幼き頃から南画や仏画を学ぶ。初め写生画に傾倒し、明治初年には、京都洋画壇の先駆者として活躍した。晩年は、油絵から遠ざかり、ただ仏画のみに没頭する。67~69歳の折に建仁寺方丈の襖絵「唐子遊戯図」や、塔頭・霊洞院の「雲龍図」などを描いた。
「この碑は、月樵が生前愛用した長さが三尺の大硯で、大海原に臨んで一疋の蛙がはらばって前進していくようすを彼自身が刻みつけたというものである」と説明版にあります。

次に「安国寺恵瓊首塚」が現れる。少し長いが説明版です。「安国寺恵は天文七(1538)年、安芸国守護武田氏の一族として生まれた。天文十(1541)年、大内氏との戦いで武田家が滅亡し、当時四歳だった恵瓊は安国寺に身を寄せることになる。以後十二年間、当寺で仏道修行に精進し、十六歳のときに生涯の師と仰ぐこととなる笠雲恵心に巡り会う。この直後、恵瓊は京都東福寺に入り、五山禅林の人として修行を重ねた。そして、恵瓊三十五歳の時、正式に安芸安国寺の住持となり、この頃から毛利家の政治にかかわる外交僧として活躍をはじめる。羽柴秀吉が率いる織田軍が中国地方に侵攻してきた際には、毛利氏の使者として秀吉との交渉にあたり、この交渉を通じて秀吉との繋がりが深まったといえる。やがて、天下人となった秀吉は恵瓊を直臣の大名に取り立て、伊予国二万三千石を与えた。また恵瓊は、建仁寺方丈移築をはじめ東福寺の庫裏の再建など、旧来の建築物の修復に関与し多くの功績を残している」。安国寺恵瓊(あんこくじえけい)は応仁の乱などの戦乱で衰退していた建仁寺を再興した恩人です。

慶長五年(1600)関ヶ原で西軍が敗れると、京都で捕らえられて六条河原で斬首され晒し首にされた。その首を建仁寺の僧が持ち帰り、方丈の裏に手厚く葬った。建仁寺の功労者にしては、やや貧弱なお墓です。これは、徳川幕府のもと、目立った墓は造れず、墓標を刻むこともなく方丈の裏にひっそりと建てられたという。

安国寺恵瓊首塚の背後に見えるのが茶室「東陽坊(とうようぼう)」。天正15年(1587)に豊臣秀吉が催した北野大茶会で、千利休の高弟だった真如堂の僧・東陽坊長盛が北野の紙屋川の土手に副席として建てたものと伝えられ、北野大茶会の貴重な遺構です。
明治中頃、建仁寺開山堂の裏手に移され、大正10年(1921)に現在地に移築された。中に入ることはできませんが、内部を覗き見ることはできます。

茶室の西続きに、幅1mほどの竹垣が接している。建仁寺の僧が竹で創案したという独特の垣で、「建仁寺垣」と呼ばれています。太い4つ割り竹を重ねるように並べ隙間をつくらない。反対側も同じように並べ、これに押縁(おしぶち)といわれる横の竹でおさえ、縄で結んだもの。

 建仁寺 5: 庭園(〇△□乃庭、潮音庭)  



方丈裏の小径から堂内に戻る。本坊と小書院(左側の建物)に挟まれて、白砂の敷かれた小さな枯山水庭園があります。「〇△□乃庭」という珍しい庭名が付けられている。そのまんま「まるさんかくしかくのにわ」と読む。平成18年(2006)に北山安夫による作庭で、「単純な三つの図形は宇宙の根源的形態を示し、禅宗の四大思想(地水火風)を、地(□)水(○)火(△)で象徴したものとも言われる」(公式サイトより)



◯□はわかりやすい。○は中央の苔の円地に椿の木が立っている所。□は手前の井戸です。それでは△はどこでしょうか?。


写真の左上をみれば三角形に見える。砂を盛り上げ線状にし、庭園を囲うように枠が造られています。これが△で、西南の廊下で見れば分かりやすく、それ以外の場所では分かりにくい。

小書院の内部です。右に「〇△□乃庭」、左に「潮音庭」を眺められる。江戸時代の臨済宗古月派の禅僧、画家・仙厓義梵(せんがい-ぎぼん、1750-1837)が「この世の全ては○△□で表せる」といい、「○△ロ」の掛軸を残した。これを元に作庭されたという。小書院の奥に「○△ロ」の掛軸が掛かっている(これは複製?)



本坊-小書院-大書院と廊下でつながっている。写真右下隅に「〇△□乃庭」があり、その北側が小書院で、潮音庭を間に挟み突き当りが大書院となっている。



小書院(手前)と大書院に挟まれた中庭「潮音庭(ちょうおんてい)」。「建仁寺本坊中庭にある潮音庭は、中央に三尊石その東には坐禅石、廻りに紅葉を配した枯淡な四方正面の禅庭であります」(公式サイト)。左右を渡り廊下で囲み、四方正面としてどの角度からでも鑑賞できる。
小堀泰巌の作庭、監修は現代の作庭家・北山安夫という。

西側廊下から見る。

大書院の縁側から鑑賞。秋には紅葉、冬にはヤブツバキが美しく、この時期は緑がさえます。

東側廊下から見る。



堂内から外に出ると、大勢の修学旅行生がいる。また騒々しい以前の京都が復活したようです。

法堂西側の西門から出て、京都ゑびす神社へ向かいます。






 京都ゑびす神社  



建仁寺の西門を出て、南に100mほどで京都ゑびす神社の石鳥居が見えてくる。
建仁2年(1202)、栄西が建仁寺を建立するにあたり、鎮守社として恵美須神を主祭神として建仁寺境内に創建された。栄西が南宋から帰国する際に海上で暴風雨に遭い遭難しそうになったが、恵美須神が現れその加護によって難を逃れたということによる。
応仁の乱(1467-1477)で建仁寺が焼失したさいに、現在地に移転再建された。明治の神仏分離によって建仁寺から分離独立する。

石鳥居をくぐった境内すぐの右手にあるのが「財布塚」と「名刺塚」。両脇に松下幸之助と吉村孫三郎揮毫の石柱が建っている。先代宮司が、古い財布とか名刺とかをそのまま捨ててしまうのは忍びないと、松下幸之助さんと吉村孫三郎(戦前に吉村紡績を設立、現在「ヨシボー(株)」)さんにお願いし賛同を得て寄進されたものです。毎年9月の第四日曜日に名刺感謝祭が行われ、古くなった名刺が焚かれる。

次に、ゑびす神がにこやかにお出迎えしてくれます。右手に竿を持ち、左脇には釣った鯛を抱えています。釣った魚を物々交換でコメに変えるということから、漁業の神様であり、商売繁盛の神様です。

ゑびす(恵比寿)神は「都七福神」の一つで、新年に七福神の社寺をめぐる「都七福神巡り」が行われる。それ以上に有名なのが、親しみを込めて「えべっさん」とも呼ばれる「十日えびす」。西宮神社(西宮市)、今宮戎神社(大阪市)と並んで日本三大えびすで、1月10日がゑびすさんのお誕生日だったことに由来する。9日を宵戎、10日を本戎、11日を残り福といい、この三日間は宝物をかたどった縁起物を枝先に付けた笹をもった人々で周辺は溢れかえります。






次に、二の鳥居が現れる。通常、扁額が掛かる所に笑みを浮かべたゑびすさんの顔が掛けられている。顎の下に「福箕(ふくみ)」と呼ばれる網が取り付けられ、これにお賽銭を投げ入れると願い事が叶うそうです。その下には、キャッチミスないように熊手まで用意されている。さすが商売繁盛の神様だ。一万円札を投げてみたが、届かなかった(ウソです)。






これは拝殿で、奥に本殿があるが見えない。「八重事代主大神(やえことしろぬしのおおかみ)」が祀られている。これはゑびす神の正式な名前。商売繁盛のご縁があったのか、拝殿左右に高島屋と大丸の提灯が奉納されている。
正面でお参りの後、もう一度側面へとあります。

左側面に周ると、「優しくトントンと叩いて」お参りくださいとある。ちょうど本堂の真横で神様とも近い。ゑびすさんは高齢になられ、耳が遠くなられたこともあり、正面の鈴の音では気づかない。真横に回り、優しく肩をトントンとたたいてお参りするのです。ちょっと頼りない神様です。


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六波羅から建仁寺へ 2(建仁寺:境内・堂内)

2023年06月18日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2023年5月27日(土曜日)
建仁寺(けんにんじ)の境内を歩いた後、本坊・方丈・大書院・法堂とお堂の中を見学します。

 建仁寺(けんにんじ):境内 



(境内図は公式サイトよりDL)
★★~建仁寺の歴史~★★
建仁寺の開祖・栄西(えいさい、公式サイトでは「ようさい」となっている)は、備中(岡山県)吉備津宮の社家・賀陽(かや)氏の子として誕生(永治元年(1141))。13歳で比叡山延暦寺に登り、翌年得度(出家)し天台・密教を修学します。 28歳(1168年)で南宋に渡るが半年で帰国。47歳(1187年)に二度目の渡宋を果たします。天台山に登り、万年寺の住持虚庵懐敞(きあんえじょう)のもとで臨済宗黄龍派(おうりょうは)の禅を五年に亘り修行、その法を受け継いで建久2年(1191)に帰国しました。
栄西は建仁2年(1202)、鎌倉幕府第2代将軍・源頼家の援助を得て、六波羅探題に近接する幕府直轄領に建仁寺を創建した。寺名は、朝廷から元号を賜ったもの。当時の京都では真言(密)、天台(止観)の既存宗派の勢力が強大だったため、建仁寺内に真言院・止観院を構え真言・天台・禅の三宗並立の寺とした。栄西は建保3年(1215、75歳)建仁寺で没する。
その後、焼失し荒廃するが、正嘉元年(1258)に東福寺開山の円爾(聖一国師)が当山に第十世住職として入寺し仏殿などを復興する。翌、正元元年(1259)には宋の禅僧・蘭渓道隆が第十一世として入寺し、禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となった。室町幕府は京都五山を制定し、建仁寺をその第三位として厚く保護した。最盛期に塔頭60余りあり、黄竜派、諸派の僧が集まり「学問づら」と呼ばれた。ところが応仁・文明の乱(1467-1477)などの戦乱により殆どの堂宇を焼失し、衰退する。
現在の大部分の建物は江戸時代以降の再建による。天正年間(1573 - 1592)には、毛利氏の外交僧として活躍し、豊臣秀吉により直臣の大名に取り立てられた安国寺恵瓊によって方丈や仏殿が移築され復興が始まった。豊臣秀吉が寺領820石を寄進し(1586年)、徳川家康により寺領が安堵されている(1614年)。徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備されていった。

明治に入り、新政府の神仏分離令や廃仏毀釈によって塔頭34院が14院へ統廃合され、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小され現在にいたります。明治9年(1876)、臨済宗の諸派から建仁寺派が独立し、建仁寺は総本山になった。京都最古の禅寺で、正式名は「東山(とうざん)建仁禅寺」

八坂通に面し、南側の正面にあたる勅使門(重要文化財)。「銅板葺切妻造の四脚門で鎌倉時代後期の遺構を今に伝えています。柱や扉に戦乱の矢の痕があることから「矢の根門」または「矢立門」と呼ばれています。元来、平重盛の六波羅邸の門、あるいは平教盛の館門を移建したものといわれています」(公式サイト)
勅使門は通れないのだが、脇に小門があり、そこから入る。

勅使門から放生池を挟んで三門へとつづく。この三門は大正12年(1923)、静岡県浜松市の安寧寺から譲り受け移築したもの。「三門」とは空門・無相門・無作門の三解脱門のこと。扁額にあるように「望闕楼(ぼうけつろう)」とも呼ばれる。「望闕楼高くして帝城に対す」という詩に由来し、「御所を望む楼閣」という意味だそうです。

三門 の奥が建仁寺の本堂にあたる法堂(はっとう)。明和2年(1765)の再建。
勅使門、池、三門、法堂、方丈が一直線に並び、この伽藍配置は東福寺、嵐山の天龍寺と同じ。この様式は臨済宗(禅宗)の規格なのでしょうか。公式サイトに「栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました」とあるので、中国の禅宗寺院にならったもののようです。なお、天龍寺の三門は焼失して無く、東福寺の三門は国宝となっている。

浴室(京都府指定有形文化財)については、解説版を参照。
祠は楽神廟(らくじんびょう、楽大明神)。傍らの説明版を要約します。栄西禅師の母親が岡山吉備津神社の末社である楽の社にお参りされ、夢に明星を見て禅師を胎内に授けられたという因縁により、楽の社の神を楽大明神としてここに祀った。福徳・知恵・記憶力増進のご利益あるとされ、受験合格の祈願に多くの方がお参りされるそうです。

「宝陀閣」と呼ばれる楼門が建ち、その奥に開山堂がある。開山堂は「旧護国院とも呼ばれる建仁寺開山栄西禅師の塔所。堂内中央には入定塔と呼ばれる石塔があり、その下には栄西禅師がお眠りになっていると伝わる。また、庭園には栄西禅師が宋より持ち帰ったとされる菩提樹が植えられている」(公式サイト)。開山堂は非公開。楼門、開山堂とも明治18年(1885)、京都宇多野鳴滝にある建仁寺派妙光寺から移築されたもの。

開山堂前の洗鉢池の北側に茶碑と平成の茶園がある。茶碑は昭和58年祇園辻利により寄進建立され、茶碑の裏側の「平成の茶苑」は茶の将来八百年を記念し平成3年に植樹されたもので、毎年5月には茶摘みが行われる。
栄西禅師は「日本の茶祖」といわれる。留学していた中国の南宋より茶種を持ち帰って栽培を奨励し、茶を抹茶にして飲む喫茶手法を普及させた。今までごく一部の上流社会だけに限られていた茶を、広く一般社会にまで拡大普及させたのです。茶と桑の効用を説く『喫茶養生記(きっさようじょうき)』(茶桑経)上下巻を著して日本の茶文化の基礎を築いた。その巻頭語には「茶は養生の仙薬・延齢の妙術である」と書かれている。
6年ほど前に高尾の高山寺を訪れた時、境内に「日本最古の茶園」という茶畑がありました。高山寺の開祖・明恵上人は栄西より茶種を分けてもらい、それを高山寺の境内に植えて茶園を開いた。山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたという。当初は薬、覚醒用に利用されたが、その後、宇治へ伝わり、そして日本各地へと広まっていったという。

生垣で作業されている方がおられたので、もしかしたら”お茶かな?”とおもい尋ねると、そうでした。境内でお堂などを囲む緑色の低い垣根は全てお茶の木でした。そうと知ったら、記念に一葉、という気持ちになりますが・・・。

白壁の東の鐘楼(大鐘楼、元和8年(1622)再建)は北門を入ってすぐのところにある。西の鐘楼(小鐘楼、寛文12年(1672)建立)は法堂への渡り廊下の脇にある。上の写真では右端に見える。
東の鐘楼は京都で三番目に大きく、「陀羅尼尼(だらに)の鐘」とも呼ばれています。陀羅尼経を読誦しながら鐘を撞いことからくるそうです。次のような記事もあります。「平安時代、源融(822-895)の河原院のものだったという。河原院の荒廃後、鴨川七条の南の渕(釜ヶ淵)に沈んでいた。土中にあったともいう。栄西は官に乞い、鐘を引き上げたともいう。この際に、鐘が容易に引き上げられなかった。栄西は自らの名と弟子・長音座(ちょうしゅざ)の名を掛け声として呼べと命じた。「エイサイ」「チヨーサ」と掛け声があがると、鐘を引き上げることができた。掛け声は、後に「エッサ、エッサ」のもとになったともいう。」

建仁寺の北門。祇園の花見小路通に続いているので、ここから入るのが普通。左の写真は外から撮ったもの。観光客で混雑する花見小路通の突き当りは、静寂な禅の寺・建仁寺です。

北門を出ると、両側に情緒ある花街風の建物が並び、石畳の風情ある祇園花見小路通が四条通まで続いています。京都でも有数の賑やかな通りで、半分以上は外国の方です。運よけば舞妓さんにも出会える。時々ニセ舞妓さんや、花魁姿に変身した黒人さんも見かけます。花見小路通の南の端、即ち北門を出たすぐ傍には祇園甲部歌舞練場がある。総ヒノキ造2階建て、二階席、桟敷席、花道まで備え、京都の登録有形文化財となっている由緒ある劇場。祇園の芸妓・舞妓さんの踊りが見られ、また京舞や狂言、文楽など古典芸能も演じられています。

この警備員の多さは何だ!。外国の方には異様に思われるだろう。実は歌舞練場に接して馬券売場(WINS京都)があるのです。土日になると、新聞片手のおじさんたちが祇園花見小路通を徘徊し、花見小路通だけでなく裏通りにまで警備員が配置される。ここは京都でも有数の景観や風情を大切にしている地域なのに、このミスマッチは何だ!。上洛した文化庁のお役人さん、この現状をよく見ていただきた。
大阪ミナミの観光名所・道頓堀も同様。江戸時代からの道頓堀五座は消えさり、代わりに場外馬券売場が現れた。当時、私も反対署名したものですが、馬業界の馬(金)力に圧倒されてしまう。その後、近くにボート券売り場まで現れ、数年後には大阪に本格的なバクチ場ができようとしている・・・。

 建仁寺 : 本坊・方丈  



北門から入るとすぐ本坊があり、ここが堂内への拝観入口です。本坊といっているが、禅宗寺院に特有の庫裏(台所)で、切妻造りの妻側を正面にし屋根上に煙り出しをもつ。

拝観時間:午前10時~午後4時30分受付終了(午後5時閉門)
拝観料金:一般 600円 中高生 300円 小学生 200円 ※小学生未満のお子様は無料

履物を脱ぎ本坊に上がると、堂内の拝観案内図と注意書きがある。事前の調査では、建仁寺は堂内を含め全て写真撮影OKとなっていた。ところが注意書きには「写真撮影禁止」となっている。一瞬、動揺したが、但し書きに「営利、商業目的」での禁止とあります。受付で確認すると、「撮っていいですよ」と云われたので安心しました。

本坊に入ると、いきなり俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」が展示されている。誰でも教科書などで一度は写真で目にしたことのある風神雷神図。ただしこれは精巧に再現されたデジタル複製品です(だから撮影OK)。NPO法人京都文化協会と精密機器大手キヤノンが一双を168分割して高解像度カメラで撮影、専用の和紙にインクジェットプリンターで12色を使って印刷した後、京都の伝統工芸の職人が金箔をはり、表装を手がけ細部まできめ細かく再現していった。2011年に建仁寺に奉納されたが、近年カメラの性能が進歩したことから、より精細な複製品が2021年11月より展示されるようになった。国宝の原本は京都国立博物館内に寄託保管されている。

「風神雷神図屏風」は江戸時代前期1639年頃、建仁寺末寺・妙光寺(右京区鳴滝)が、寺の再興を記念して俵屋宗達(生没年不詳)に製作を依頼したもの。その後、文政12年(1829)、 妙光寺から建仁寺に寄贈された。琳派の開祖・俵屋宗達の晩年の最高傑作とされています。二曲一双(2枚で構成された屏風が2つでセットになったもの)、各縦154.5cm 横169.8cm。屏風全面に金箔を押し、右隻に風を吹き出す風袋をもった風神、左隻に太鼓を叩いて雷鳴と稲妻をおこす雷神が描かれている。私には芸術価値の評価はできないが、天空を飛び跳ねる躍動感がよく伝わってきます。

入口のある本坊は、すぐ西側の方丈と連結されている。
この方丈は、戦乱により堂宇を焼失し衰退していた建仁寺を再興さすため、慶長4年(1599)安国寺恵瓊が安芸国(広島)安国寺から移築したもの。元の建物は長享元年(1487)の建立。昭和9年(1934)の室戸台風で倒壊したが、昭和15年(1940)に再建されている。単層入母屋造り、こけら葺。周囲に縁をめぐらし、6部屋からなる。

正面中央の間には十一面観音菩薩坐像が祀られ、「十一面観音菩薩坐像は今から約四百年前、徳川二代将軍・徳川秀忠公の娘である東福門院(御水尾天皇の中宮で、明正天皇の生母)に御寄進を頂いた大切な寺宝であります。」と説明書きされている。平成21年(2009)盗難にあったが、1ケ月後に盗んだ男が逮捕され、仏像は無事に戻ってきた。
この部屋だけ天井は二重折上げ小組格天井、床は黒板張りとなっています。

各部屋には、桃山時代の画壇を代表する海北友松の水墨障壁画が見られる。ただしこれらは高精細の複製品。NPO法人京都文化協会と精密機器大手キヤノンなどが製作し寄贈したもの。実物(重要文化財)は京都国立博物館に寄託されています。
これは「礼の間」の「雲龍図襖」で、海北友松の代表作。天井に描かれる雲龍とは、また違った迫力を感じます。畳の間には少し違和感をおぼえます。お客を迎える間だそうですが、居心地悪そう・・・。

「書院の間」の「花鳥図襖」で、「二本の松を生やす盛り上がった地面から飛び立たんとするように体をよじる孔雀、梅に留まる叭々鳥(ははちょう)のつがいと池に浮遊する三羽の水鳥を連続した構図にて配している」と説明されている。

「檀那の間」の「山水図襖」。「雲龍図」を描いた絵師の作とは思えないほどやわらかい。幅の広さを感じます。
豊臣秀吉により直臣の大名に取り立てられた安国寺恵瓊が、慶長4年(1599年)安芸国安国寺から方丈を建仁寺へ移築する際に、障壁画を頼まれたのが絵師・海北友松だった。

「衣鉢の間」の「琴棋書画図襖」。
海北友松(かいほう-ゆうしょう、1533-1615)は、浅井長政家臣・海北家の5男(一説に3男)として近江国坂田郡(米原市)で生まれる。父の死をきっかけに3歳で東福寺に喝食(有髪の小童)として預けられ、修行した。修禅のかたわら絵を狩野元信(狩野永徳とも)に学び,また中国・宋の画家梁楷に倣った画をもよくした
天正元年(1573)友松41歳の時、浅井氏の小谷城が織田信長に滅ぼされ、兄達も討ち死にし海北家も絶えた。そこで41歳の時、還俗し海北家を継ぎ家の再興を志した。画事のかたわら武芸にも励んだという。その後豊臣秀吉に絵の才能を認められたことから、武士をやめ絵師として後半生を生き、海北派の始祖となる。

本坊、方丈の裏側には廊下でつながった小書院と大書院がある。ここは大書院南側の広い廊下で、潮音庭をゆっくり鑑賞できます。大書院は、方丈が室戸台風で倒壊した後、昭和15年(1940)再建時に同時に新築された。

現在、大書院には細川護熙筆による水墨画「瀟湘八景図(しょうしょうはっけいず)」が奉納され展示されています。
細川護熙(ほそかわ-もりひろ、1938-)さんは戦国大名・細川忠興の子孫で旧熊本藩主・細川家第18代当主、また第79代内閣総理大臣でもありました。政界を引退され、あまり動静が報じられてこなかったが、こうして活躍されていたのですね。政界引退後は、自邸「不東庵」(神奈川県湯河原)で、陶芸、茶、書、水墨などに励み、悠々自適の生活をなされているようです。

中国湖南省に瀟水、湘水という二つの川があり、これが合流して洞庭湖という大きな湖にそそぐ。その湖周辺は中国有数の風光明媚な景勝地で、中国や日本の多くの画家が画題にし、それぞれ様々な情景を描いてきた。細川さんもそれに倣ったものです。

法堂(はっとう)は方丈と渡り廊下で繋がっており、備えられたスリッパを履き渡ります。
「この法堂は仏殿を兼用し「拈華堂(ねんげどう)」という。拈華というのは「無門関」第六則、「世尊拈華」にもとづく」(説明版より)
明和2年(1765)建立で、本尊を安置する本堂にあたる。入母屋造、本瓦葺、外観は二階建に見えるが、下の屋根は裳階(もこし)という庇(ひさし)のようなもので実際は一階建になる。禅宗仏殿は裳階を付けるのが正式だそうです。

中央に建仁寺本尊の釈迦如来坐像が祀られている。(公式サイトより)「法堂須弥壇上に安置される釈迦如来坐像である。右手上に定印を結び、結跏趺坐(けっかふざ)する。江戸時代の慈本参頭の『東山雑話』に建仁寺仏殿の本尊はもと越前国(福井県)弘祥寺の像で、永源庵主で細川元常三男の玉蜂永宋(1542~82)が求め安置したとあり、これを信ずれば、この三尊像は十六世紀後半に越前からもたらされたことになる。両脇に安置されるのは、阿難・迦葉像である。共に釈迦十大弟子のひとりで釈迦滅後の教団統率者となった。」

天井いっぱいに描かれた小泉淳作(1924 - 2012)画伯の筆による「双龍図」。大きすぎて全体がカメラに収まりません。東福寺、天龍寺の雲龍図に比べ、大きくハッキリ見えるので迫力が伝わってくる。その分、神秘性は感じられないが。
(説明版より)「大きさは縦11.4m、横15.7m()畳108枚分)あり、麻紙とよばれる丈夫な和紙に、中国明代で最上の墨房といわれる「程君房(ていくんぼう)」の墨を使用して描かれている。製作は北海道河西郡中札内村の廃校になった小学校の体育館を使って行われ、構想から約二年の歳月をかけて平成十三年十月に完成。龍は仏法を守護する存在として禅宗寺院の法堂の天井にしばしば描かれてきた。また「水を司る神」ともいわれ、僧に仏法の雨を降らせると共に、建物を火災から護るという意味がこめられている。しかし、建仁寺の八百年にわたる歴史の中で法堂の天井に龍が描かれた記録はなく、この双龍図は創建以来、初めての天井画となる。」通常は、一匹だけ描かれることが多いが、この双龍図は阿吽の二匹の龍が天井一杯に絡み合う躍動的な構図となっている。


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六波羅から建仁寺へ 1(六波羅蜜寺・六道珍皇寺)

2023年06月05日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2023年5月27日(土曜日)
5月のゴールデンウィークはどこへも出かけず、巣ごもりしていた。といっても私は年中ゴールデンウィークなのだが・・・。そろそろどこかに行ってみたくなりました。そうだ半年ぶりに京都へ行こう。どこへ?。
中世の歴史に触れると、”六波羅”という語句によくでくわす。調べると、鴨川と清水寺に挟まれた辺り。すぐ傍には禅寺で名高く、俵屋宗達の風神雷神図で知られる建仁寺があります。境内は素通りでよく歩いたが、お堂の中へは入ったことがない。そうだ出かけよう、六波羅から建仁寺へ。

 六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)  



京阪電車清水五条駅を下車、五条通りの一つ北側の筋「柿町通り」を東へ400mほど歩けば左側に六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)が見えてくる。東面する正面は鉄柵で塞がれ、二つの門があります。

★六波羅蜜寺の歴史
応和3年(963)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人の創建による。
平安時代中期「当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。」(受付パンフより)
なおWikipediaは、空也上人が造立した十一面観音を本尊とする道場を造立した(当初「西光寺」と称した)天暦5年(951)を創建年としている。

空也没後の貞元2年(977)、比叡山延暦寺の僧・中信が、これまで西光寺と称していたのを「六波羅蜜寺」と改称し、天台宗に属する天台別院として中興した。寺名となった「六波羅蜜」とは仏教の教義に由来し、「この世に生かされたまま、仏様の境涯に到ための六つの修行(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)をおこないなす。波羅蜜とは彼岸(悟りの世界)に到ること」(公式サイトより)。この辺り、古くから「六原」と呼ばれていたこととも関係あるかも・・・。

平安後半、六波羅蜜寺は、北は四条通、南は七条通、西は鴨川、東は東大路通に囲まれた広大な寺域を誇っていた。ところが平安時代末期、伊勢国を本拠にした伊勢平氏が、東国や伊勢から京都への入口にあたるこの近辺に住みつく。まず平正盛が、現在の六道珍皇寺あたりに邸宅を構え、一族のために供養堂を建立した(天仁3年(1110))。その子の平忠盛が六波羅蜜寺の敷地内に「六波羅館」を設置、ここを拠点として当寺の境内に軍勢を駐屯させた。次の平清盛の代にかけ、六波羅蜜寺の敷地やその近辺には平家一門の人々の屋敷、邸館が立ち並び、最盛期には5200軒余にものぼったという。清盛は「六波羅殿」と呼ばれ権勢を誇った。六波羅蜜寺は平家の屋敷群に取り込まれてしまったのです。しかし1181年に清盛が亡くなると平氏の勢力は急激に衰え、源氏との争いに敗けます。寿永2年(1183)、平氏の都落ちの際に六波羅館は平氏自らの手で火が放たれ、六波羅蜜寺の諸堂は本堂だけを残して焼失してしまった。
その後、鎌倉幕府によって六波羅探題が置かれる。六波羅蜜寺は源頼朝や足利義詮により再興修復が行われたが、度々火災にもあっている。豊臣秀吉、徳川家の加護をうけ寺を維持してきた。
明治維新の廃仏毀釈を受けて大幅に寺域が縮小し、今では本堂、弁財天堂(弁天堂)、宝物収蔵庫のみとなっています。


北側の門は、本堂の正面に位置するので正門でしょうか。お寺といえば木造の山門をイメージするが、それとはほど遠い「鉄柵門」です。この門は通常、閉められておりここから入れない。





南側の門は開いており、ここから境内に入るようです。【開門】8:00 【閉門】17:00 、、定休日無し、とあります。
境内や、本堂内は無料で自由に参拝できます。ただし、空也上人立像がある令和館(宝物館)は有料で、門を入った左側の建物で拝観券を売っている。
令和館 拝観時間【開館】8:30 【閉館】16:45 (受付終了 16:30)
令和館 拝観料《大人》600円《大学生・高校生・中学生》500円《小学生》400円



入口を入って正面の建物が「福寿弁財天堂」。
七福神の中で唯一の女神とされる弁財天が祀られ、都七福神の一つとなっている。金運・財運・芸能・縁結びのご利益があるそうです。

本堂、右奥に銭洗い弁財天堂が見える。
黒っぽい銅像は、本尊の十一面観音菩薩像(国宝、秘仏)を模して作られたもの。銅像の右隣が「一願石」の石柱。石柱上部の円盤を、三回手前に回してお願いすると一つだけ願いが叶うという。

平清盛塚(左)と阿古屋塚(右)。どちらも鎌倉時代に造られた供養塔。「阿古屋(あこや)」は平家とかかわりの深い遊女。歌舞伎、浄瑠璃の演目「壇浦兜軍記:阿古屋の琴責め」が人気となる。屋根、囲い、説明石板など新しいが、「奉納 五代目・坂東玉三郎 平成二十三年」となっている。阿古屋を演じたのでしょう。清盛より阿古屋のほうが羽振りがよさそう。

右方の鉄柵近くに石碑「此附近 平氏六波羅第・六波羅探題府」がある。
平家没落後、六波羅の地は源頼朝に与えられて京都守護が置かれた。承久の乱(1221)後に京都守護を廃し、朝廷の監視のほかに、裁判、京都周辺の治安維持などのため、鎌倉幕府の出先機関として六波羅蜜寺の南北に六波羅探題を設置し、北条氏の一族の中から有望な人材が任命された。周辺には関係する武士の住居が建ち並んだという。
元弘3年(1333)、元弘の乱が起こると後醍醐天皇の命に応じ反幕の挙兵をした足利尊氏らによって六波羅探題府は攻め滅ぼされた。室町幕府は洛中に根拠を置いたために、六波羅は武士の居住は減少し、再び寺院などが建てられて信仰と遊興の地として賑わっていった。東福寺の六波羅門は、六波羅探題府にあったものが移築されたと伝えられています。

本堂(重要文化財)は、無料で自由に入れます。内部は、板敷の外陣と一段低い四半敷き土間の内陣からなっている。内陣中央の厨子には本尊の国宝・十一面観音立像が安置されているのだが、秘仏のため拝観できない。12年に一度辰年にのみ開帳される(次回公開は2024年11月)。
本堂はたびたび焼失し、南北朝時代の貞治2年(1363)に再建された。前に突き出た向拝は、文禄年間(1593 - 1596)に豊臣秀吉によって附設されたもの。重要文化財の本堂だが、見た目、新しく感じられるのは昭和44年(1969)に開創1000年を記念して解体修理が行われたためです。色鮮やかな朱色の柱や扉、虹梁や蟇股などに絢爛豪華な彫刻(絵画?)が見られ、創建当初の極彩色の色合いが復元された。
山号 補陀洛山
院号 普門院
正式名 補陀洛山普門院六波羅蜜寺
別称 六はらさん
宗派 真言宗智山派
本尊 十一面観音(秘仏、国宝)
開山 空也上人
西国三十三所第17番札所
ご詠歌:重くとも五つの罪はよもあらじ 六波羅堂へ参る身なれば
公式サイト<https://rokuhara.or.jp/
所在地 京都府京都市東山区松原通大和大路東入二丁目轆轤町81番地の1

本堂北側に見えるのは、銭洗い弁財天、水掛不動尊が祀られているお堂。右側、松の下に寝そべるのは「なで牛」。「ご自身の痛いところ、辛いところ、撫でて下さい」とあり、各所でよく見かける撫で物です。

蓮の上に座り、琵琶を弾いている銭洗い弁財天。周囲には池をイメージさすように水が貯められている。置かれているザルにお金を入れ、「柄杓一杯の水を三回に分けて掛け、清めたお金は使わず貯めて下さい」。洗ったお金を六波羅蜜寺の金運御守に入れておくとご利益にあやかれるようです。
銭洗い弁財天の向かいには、お金を包むためのテーブルがあり、お金を乾かすためのドライヤーまで用意されている。

銭洗い弁財天のお堂前から左へ、即ち本堂の背後へ周ると令和館(宝物館)です。昨年、二階建ての新しい建物に作り変えられたようです。
ここには重要文化財となっている多くの貴重な彫像・仏像が展示されています。六波羅蜜寺は令和館(宝物館)に尽き、令和館に入らなかったら六波羅蜜寺を訪れた意味はない。

(写真は受付パンフより)令和館(宝物館)の二階に上がってまず目にするのが、並んで展示されている木造・空也上人立像と平清盛坐像。共に重要文化財です。

六波羅蜜寺を創建した空也上人(903-972)は「第60代醍醐天皇の皇子で、若くして五畿七道を巡り苦修練行、尾張国分寺で出家し、空也と称す。再び諸国を遍歴し、名山を訪ね、錬行を重ねると共に一切経をひもとき、教義の奥義を極める。天暦2年(948)叡山座主延勝より大乗戒を授かり光勝の称号を受けた。森羅万象に生命を感じ、ただ南無阿弥陀仏を称え、今日ある事を喜び、歓喜躍踊しつつ念仏を唱えた。上人は常に市民の中にあって伝道に励んだので、人々は親しみを込めて「市の聖(いちのひじり)」と呼び慣わした。」(受付パンフより)
この空也上人立像は、上人没後250年経ったころの鎌倉時代前期に仏師運慶の四男康勝が彫ったものです。病が蔓延していた京の街中を、鉦を打ち鳴らし、念仏を唱えながら、わらじ履きで歩く姿が生々しく表現されています。首から鉦を下げ、右手に鉦を叩くための撞木を、左手に鹿の角のついた杖をもっている。上人が鞍馬山で修行中、可愛がっていた鹿が猟師に射殺されたことを悲しまれ、その皮と角をもらい受け、皮を衣に、角を杖頭につけ生涯身から離さなかったという。口からは、針金でつながった六体の小像が吐き出されている。「空也上人が念仏をとなえると、口から六体の阿弥陀仏が現れた」という伝説を表現したもので、この六体は「南無阿弥陀仏」を表しているそうです。

木造・平清盛坐像も鎌倉時代の作。座して経巻を手にするその姿は、武者のイメージはなく出家した僧のようです。

(写真は受付パンフより)奥の部屋には、日本を代表する仏像彫刻師、運慶・湛慶父子の坐像が並んでいる。鎌倉時代の作で、共に重要文化財。この親子像に一番感銘した。令和館で見る実物は、写真では伝わってこない迫力を感じました。奥深く見つめる眼差し、黒ずんだ全身から執念のようなものが伝わってくる。
令和館にはその他、平安時代・鎌倉時代に造られた薬師如来坐像、地蔵菩薩立像、持国天立像、閻魔大王像など多くの重要文化財が展示されています。

 六道の辻と西福寺(さいふくじ) 



六波羅蜜寺前の道を北へ100mほど行けば三叉路になる。左の白壁が西福寺で、その角に「六道の辻」の碑がたっている。正面突き当りが、現在でも商売されている伝説の飴屋さん。

人口10万人以上いた平安時代の京都では、戦乱も多く遺体の処理が大きな問題だった。お墓を造れるのは高位の人だけで、一般庶民は野山に放置されたのです。風雨に晒さし朽ちるに任せ白骨化さす。「風葬」と呼ばれ古くから行われていた。京には三つの大きな風葬地(葬送地)があった。西の「化野」(あだしの、嵯峨野)、北の「蓮台野」(れんだいの、金閣寺東方の船岡山周辺)、そして東の「鳥辺野(とりべの)」で、清水寺一帯です。(三大葬送地の近くが、現在京都を代表する観光名所(嵐山、金閣寺、清水寺)となっているのは何か因果応報があるのかな?)

西福寺前の松原通り(かっては五条通りだったが、秀吉によって改変されてしまう)は清水寺へ通じています。鴨川を渡り、この松原通りを通って六道珍皇寺あたりで野辺の送りをし、鳥辺野へ死人を運んだ。「冥土への通路」で、この辺りが「鳥辺野」への入口にあたる。即ち、この世とあの世(冥界)との境目なのです。仏教では死後、人は生前の因果応報により六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を生死を繰返しながら流転する(輪廻転生)とされる。そこから、「この世とあの世」の分岐点となるこの辺りを「六道の辻」と呼んだ。

六波羅蜜寺を含め、現在この辺りの町名は「轆轤町」となっている。かっては「髑髏(どくろ)町」だったが、あまりに縁起が悪いと江戸時代寛永年間に京都所司代によって「轆轤(ろくろ)」に改名された。鳥辺野に近いことから、この辺りは人骨がいたるところに転がっていたため「髑髏原(どくろはら)」と呼ばれていたそうです。それが「六原」にも転訛し、「六波羅」にも関係あるかも。

この西福寺(さいふくじ)は、平安時代の貞観年間(859 - 876)に、弘法大師空海が土仏の地蔵尊を自作し、鳥辺野の入口にあたるこの地に地蔵堂を建て祀ったのが始まりとされる。関ヶ原の戦後、毛利家家臣によって地蔵堂の周りに新たに堂宇が建てられ寺院化された。享保12年(1727)に桂光山西福寺に改められた。

山門を入ってすぐ左に地蔵堂があり、空海が自作したという地蔵尊が祀られている。第52代嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(檀林皇后)が、病気がちの正良親王(後の仁明天皇)の病気平癒の祈願をしたことから、「子育地蔵」として信仰されるようになった。子安地蔵、子授地蔵ともいわれています。

本堂は山門を入って右側。浄土宗に属し、本尊の阿弥陀如来坐像が祀られている。西福寺で有名なのは寺宝の「壇林皇后九想図」。美貌で名高かった壇林皇后は「風葬となし、その骸の変相を絵にせよ」という遺言を残された。出来上がったのが「壇林皇后九想図」。人が死に腐敗し、骨が露出し、蠅や蛆が湧き、鳥獣が腐肉をむさぼり、完全に白骨化し最後に土に還る様子がリアルに描かれているそうです。
本堂も「壇林皇后九想図」も通常は非公開だが、盂蘭盆会(八月七~十日)だけ公開され、絵解きされるとか(こんなの見たくないです・・・)。

西福寺の向かいに名物の幽霊子育飴を販売するお店「みなとや」があり、お土産として今でも販売されています。この幽霊子育飴には次のような伝説があります。
一人の女が毎夜飴を買いに来て、鳥辺野の墓場で姿が消える。ある日、赤ん坊の声が聞こえるので掘り起こすと,若い女の死骸の上で水飴をなめながら泣いている赤ん坊がいた。死んでしまって乳の出ない母親は幽霊になって飴を買い、わが子に乳の代わりに与えていたのです。この子は8歳で仏門に入り、立派な僧侶となったとか。(気味が悪いので飴を買う気になれません)

 六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)  



西福寺から松原通りを東へ200mほど行けば左手に六道珍皇寺が見える。

六道珍皇寺の創建は「当寺の開基は、奈良の大安寺の住持で弘法大師の師にあたる慶俊僧都(きょうしゅんそうず)で、平安前期の延暦年間(782年?805年)の開創である。」(公式サイト)。しかし諸説あり、ハッキリしたことは判らないという。鎌倉時代までは真言宗・東寺の末寺として多くの寺領と伽藍を有していたが、中世の兵乱にまきこまれ荒廃する。南北朝期の貞治3年(1364)に建仁寺の住持であった聞溪良聰(もんけいりょうそう)が入寺して再興し臨済宗に改められた。建仁寺の末寺だったが明治43年(1910)に独立する(建仁寺の境外塔頭)。

ここにも「六道の辻」の碑が建っています。「辻」とあるので道の交差路のように考えがちだが、この世とあの世の境目ぐらいの意味だろう。だからこの辺りも鳥辺野への道筋で、冥界への入口にあたる。だから「六道まいり」のお盆の行事や、小野篁が井戸を使って冥土へ通ったというような伝説も生まれる。

山門から境内を見る。境内は見えている範囲がほぼ全て。正面が本堂。参道右側の白壁のお堂は収蔵庫(薬師堂)で、本尊の薬師如来坐像(平安時代、重要文化財)が安置されています。参道左側には「日新電機創業の地」の碑が建っている。

境内は、開門中なら自由に歩けるが、お堂の中には入れなません。

収蔵庫(薬師堂)の先にあるのが閻魔堂(篁堂、たかむらどう)。名前のとおり閻魔大王像、小野篁像が置かれています。
格子戸が閉められ入れません。よく見ると「この格子窓よりおまいり下さい」とある。ほとんどの格子は板で塞がれているのだが、中央辺りに二、三か所透明なシートになっており、内部を覗けます。カメラを近づけ撮ってみました。

等身大の小野篁立像(江戸時代)。小野篁(802-852、おののたかむら)は参議小野岑守の子。遣隋使で知られる小野妹子の子孫であり、孫に小野小町、書家の小野道風がいる。平安初期、嵯峨天皇につかえたの官僚で、武芸にも秀で、また学者・詩人・歌人としても知られる。承和5 (838) 年遣唐副使となったが、大使の藤原常嗣の理不尽な要求に憤り渡唐を拒否、詩で風刺したため嵯峨上皇の勘気にに触れ隠岐に配流された。許され帰京後(840)、陸奥守、東宮学士、蔵人頭などを経て参議(847)、従三位まで昇進。文武両道に優れた人物であったが、その奔放な性格は「野狂(やきょう)」ともいわれ奇行が多く、多くの逸話を生んだ。当寺に伝わる伝説「冥土通いの井戸」もその一つ。

衣冠束帯姿で鬼を従え、右手に笏(しゃく)を持っっている。人智を越えた神通力をもつともいわ、ふわりと持ち上がった両袖は、その神通力を表しているそうです。

格子戸の左端にも同じように「おまいり下さい」とあり、透明シートの格子がある。こちらは閻魔大王坐像(平安時代、伝・小野篁作)です。

閻魔堂の先に白壁、紅柱の鐘楼がある。鐘楼は四方を白壁で囲まれ、鐘は外から見えません。正面中央、花頭窓下の小さな穴から出ている綱を手前に引いて撞くようになっている。

この鐘は、お盆の「迎え鐘」として有名です。毎年8月15日には、先祖を供養するお墓詣りを行います。ここ六道珍皇寺ではその少し前の8月7日から10日まで、「迎え鐘」をうって精霊(御霊)を迎える「六道まいり(「お精霊(しょらい)さん」とも呼ばれる)の行事が行われ、京の盆の始まりを知らせる夏の風物詩となっている。「迎え鐘」は、遠く十万億土の冥界へも響き渡るといわれ、亡き人の霊がこの響きに応じてこの世に戻ってくるのだと信じられた。参拝者は、迎え鐘を鳴らしあの世からの精霊を迎え、そして線香でお清めした水塔婆をあげて供養する。長い行列ができ大混雑するそうです。逆に五山の送り火(8月16日)は、お迎えしたお精霊さんをあの世へ送る行事です。灯篭流しも同じ。

境内正面が本堂。薬師三尊像(京仏師中西祥雲作)が安置されています。閻魔堂と同じように、障子戸の中央が透明シートになっており、内部の薬師三尊像を拝観できるようになっている。
本堂前には、無色界、色界、欲界という三界すべての精霊に対して供養する「三界萬霊十方至聖供養塔」の碑が建つ。

小野篁が冥土に通ったという伝説の井戸が本堂裏手の庭園の中にあります。近寄れないのだが、本堂右端の格子窓から覗けるようになっているので、履物を脱いで小階段の上へ。
伝説によれば、篁は亡き母の霊に会うためこの井戸から冥土へ初めて足を踏み入れた。母は餓鬼道に堕ちて苦しんでいたので、閻魔大王に直談判して母親を救いだした。これをきっかけに閻魔王宮の役人となる。以来、現世と冥界を行き来して、昼は朝廷に出仕、夜はこの井戸から地獄に向かい、閻魔庁で閻魔大王の補佐として一晩中裁判の助手をつとめ、無実の罪で地獄へ落ちた人を救ったと伝わります。

これが「篁冥土通いの井戸」です。窓から30m位離れている。
朝になると化野の福生寺の井戸、もしくは蓮台野の千本閻魔堂の井戸から地上に戻ってきたとされてきました。ところが平成23年(2011)、六道珍皇寺に隣接する民有地(旧境内)から一つの井戸が発見された。深さ100mもあり、これが冥土よりの帰路に使った「黄泉(よみ)がえりの井戸」だ、とされるのですが・・・?。

 安井金毘羅宮(やすいこんぴらぐう)  



東大路通に面し安井金毘羅宮の石鳥居が建ち、看板「悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所」が吊るされています。
安井金毘羅宮(やすいこんぴらぐう)の歴史について公式サイトに「第38代天智天皇(てんちてんのう)の御代(668~671年)に藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が一堂を創建し、紫色の藤を植え藤寺と号して、家門の隆昌と子孫の長久を祈ったことに始まります。
第75代崇徳天皇(すとくてんのう) (在位1123~1141年)は特にこの藤を好まれ、久安2年(1146年)に堂塔を修造して、寵妃である阿波内侍(あわのないし)を住まわされました。崇徳上皇が保元の乱(1156年)に敗れて讃岐(現、香川県)で崩御された時に、阿波内侍は上皇より賜った自筆の御尊影を寺中の観音堂にお祀りされました。治承元年(1177年)、大円法師(だいえんほうし)が御堂にお籠りされた時に、崇徳上皇がお姿を現わされ往時の盛況をお示しになられました。このことは直ちに後白河法皇(ごしらかわほうおう)に奏上され、法皇のご命令により建立された光明院観勝寺が当宮の起こりといわれています。光明院観勝寺は応仁の乱(1467~1477年)の兵火により荒廃しましたが、元禄8年(1695年)に太秦安井(京都市右京区)にあった蓮華光院が当地に移建され、その鎮守として崇徳天皇に加えて、讃岐の金刀比羅宮より勧請した大物主神と、源頼政公を祀ったことから「安井の金比羅さん」の名で知られるようになりました。明治維新の後、蓮華光院を廃して「安井神社」と改称し、更に「安井金比羅宮」と改め現在に至っています。」とあります。

鳥居から200mほどの参道が続き、「絵馬の道」となっているが絵馬は一つも見かけない。ただし立札が立ち、幾つか絵馬が貼り付けられている。「米朝さんのきも入りでこんなタレントさんの絵馬が集まりました」とあり、桂枝雀、桂朝丸、笑福亭松鶴(「禁酒」とある)、横山やすし、、若井ぼん・はやと、夢路いとし・喜味こいし、キダタロー、イーデスハンソン、越路吹雪、小松左京・・・関西の懐かしい名前が並びます。かなり以前から桂米朝一門がこの神社で勉強会を定期的に開催している縁からのようです。

境内に入るといきなり「縁切り縁結び碑」が置かれている。
「この縁切り縁結び碑は、中央の亀裂をつたって神様のお力が下の穴に注がれています。穴をくぐる抜けてそのお力をお受けいただく事によって、悪縁が切れ良縁が結ばれます。まず、お願いを「形代(かたしろ)」(身代わりのおふだ)にお書きになり、次に願い事を心に思いながら碑の中央の円形の穴から表からくぐり抜け悪縁を切り、続いて裏からくぐり抜けて良縁を結び、最後に形代を碑にお貼り下さい。形代一枚につき百円以上お志を下のお賽銭箱へお納め下さい」と説明されています。
高さ1.5メートル、幅3メートルの絵馬の形をした巨石だが、形代のお札が貼りめぐらされて原型がわからない。

多くの人が順番待ちをしている。一度に一人だけで、窮屈な穴を出入りするので時間かかります。


本殿には祭神の崇徳天皇、大物主神、源頼政が祀られている。











本殿右側にある久志塚(櫛塚(くしづか))。傍らの「由来記」を要約すると、使い古したり傷んだ櫛に感謝を捧げ供養するための塚。昭和36年(1961)、風俗研究家の故吉川観方先生の賛意を得て「櫛まつり」が始められ、翌年に塚が造られた。現在も9月第4月曜日、古墳時代から現代の舞妓さんまでの各時代の装束姿で、かつらを使わず地毛で結い上げた髪型をした女人風俗行列が当宮を出発し祇園界隈を練り歩き、多くの見物人で賑わうという。左は吉川観方の像。

北門を出て真っすぐ100mほど行くと崇徳天皇御廟がある。
「崇徳上皇(第75代)は、平安時代の末、保元の乱(西暦1156年)により讃岐の国へ御配流の悲運に遭われた。上皇は血書をもって京都への御還幸を願われたが、意の如くならず憤怒の御姿のまま長寛2年(1164年)夏、46歳にて崩御。五色台白峰山の御陵に奉葬された。上皇の寵愛篤かった阿波内侍は、御遺髪を請い受けてこの場所に一塚を築き、亡き上皇の霊をお慰めしたと伝承されている。
その頃の京都では、上皇の怨念による祟りの異変が相次いで発生したため、御影堂や粟田宮を建てて慰霊に努めたが、永い年月の間に廃絶して、此の所のみが哀史を偲ぶよすがとなっている。なお孝明・明治両天皇の聖慮により、白峯神宮が創建され、元官幣大社として尊崇され今日に至っている。」(傍の解説板より)。
崇徳天皇(1119-1164)の本陵は、香川県坂出市青海町の「白峯陵(しらみねのみささぎ)」だが、阿波内侍が遺髪を譲り受け、この場所に塚を築き霊を慰めたという。管理は、宮内庁でなく白峯神宮(京都市上京区飛鳥井町)が行っています。毎月21日には崇徳天皇の月命日として、白峯神宮から神職が来て、祇園の女将さんらも一緒に月次祭が行われているそうです。

祇園歌舞練場(そして馬券売り場が)のすぐ裏にあたり、表は賑やかで騒がしいが、この裏通りはひっそりして静かです。





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一乗寺から赤山禅院へ 3(曼殊院・赤山禅院)

2023年02月06日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2022年11月16日(水曜日)
門跡寺院の曼殊院、神社のようなお寺・赤山禅院を訪ねる。

 曼殊院(まんしゅいん)  



圓光寺を出て、曼殊院へ向かう。一本道ではないが、要所には道案内が置かれ迷うことはない。30分ほどかかります。
樹木に覆われた参道を進むと、正面に勅使門が現れます。階段上に西向に建ち、これが曼殊院の本来の表入口となるのでしょうか。

勅使門の両側には、寺院の格式の高さを表す五筋塀がのびる。勅使門前のこの辺りが曼殊院で一番の紅葉スポットになる。弁天池周辺を除いて、他に紅葉の見所はありません。

■曼殊院の歴史
「曼殊院は、もと伝教大師最澄の草創に始まり(八世紀)、比叡山西塔北谷にあって東尾坊(とうびぼう)と称した。天暦元年(947)、当時の住持・是算(ぜさん)国師は菅原氏の出であったので、北野神社が造営されるや、勅命により別当職に補せられ、以後歴代、明治の初めまで、これを兼務した「(受付パンフより)。
天仁年間(1108~9、平安後期)忠尋座主が当院の住持だったとき、北野天満宮管理のため近くの北山に別院を設け「曼殊院」と称した。この別院が次第に本院となっていきます。応永4年(1397)、足利義満は荒廃していた西園寺家の北山の土地を譲り受け、ここを改修し自らの住居として「北山殿」(金閣寺)を創建。その影響で曼殊院も移転を余儀なくされ、京都御所の北側に移る。文明年間(1469~87)、後土御門天皇の猶子であった慈運法親王が26代として入寺して以後、曼殊院は門跡寺院となります。青蓮院、三千院、妙法院、毘沙門堂門跡と並び、天台宗五門跡の一つとなっている。
明暦2年(1656)、29代門主を継いだ良尚法親王は御所の北から修学院離宮に近い現在地の一乗寺に移し大書院(本堂)、小書院、庫裡などの堂宇を建立した。これが現在の曼殊院です。良尚法親王の父は桂離宮造営を始め、兄が完成させた。そのため曼殊院造営にも桂離宮の影響が色濃く反映されている。江戸時代初期の代表的書院建築で、その様式は桂離宮との関連が深く「小さな桂離宮」ともいわれています。

勅使門の前を左に(北側に)進むと、北通用門があり、拝観受付となっている。
 拝観時間 9:00~17:00(16:30受付終了)
 拝観料 一般600円 高校500円 中小学生 400円

庫裏(重要文化財)から履物を脱ぎ、建物内に入って行く。入口の大妻屋根に「媚竈(びそう)」と書かれた扁額が掲げられている。曼殊院をこの地に造営した良尚法親王の筆によるもので、論語の「その奥に媚びんよりは、むしろ竈(かまど)に媚びよ」(奥にいる権力者に媚びるのではなく、生きていくのに大切な竈(かまど)やそこで働く人々に媚びよ)を引用したもの。

庫裏とは食事を作る台所のことで、屋根の上に煙だしだ見える。。玄関となっている庫裏は「下之台所」として使われ、一般僧侶の食事を作る所だった。庫裏の東隣にさらに大きな台所があります。「上之台所」と呼ばれ、高貴な人や住職などの食事を作っていた。竈が並び、棚にいろいろな食器が並べられている。一見の価値ある台所で、曼殊院で一番印象に残った所です。写真に撮れないのが残念。


大書院(重要文化財)・小書院(重要文化財)や、狩野永徳や狩野探幽の襖絵のある部屋などあるが、写真に撮れないので紹介できません。室外だけ撮ることにしました。


国の名勝指定されている庭園は小書院、大書院の南側に広がる。白砂に松や刈込みを配した島を置いた枯山水式庭園。白砂で表された水は、小書院前から流れ出て川となり、大書院の前で海となり、やがて宸殿前の大海原へと流れてゆく。「この枯山水は、禅的なものと王朝風のものとが結合して、日本的に展開した庭園として定評がある」(受付パンツより)

左の建物は小書院。縁の欄干は屋形船のように見せているという。室内の天井の一部も屋形船の様に造られているとか。此岸から彼岸へ向かう舟の意味でしょうか。
屋根が二重になっている。「新たに葺き替えた小書院の屋根は、桂離宮と同様雁が重なって飛んでいく姿を表わしているといわれます」(公式サイトより)

小書院前に置かれた手水鉢(直径80cm)。下の台石は亀で、手前の丸い部分が頭です。横の組石は鶴を表す。鉢の周りには梟(ふくろう)が刻まれていることから「梟の手水鉢」と飛ばれている。手水鉢は建物側へわずかに傾けられており、部屋内から水に写した月見の趣向があったという。

これは大書院前の庭園。鶴島、亀島、樹齢400年の五葉松、キリシタン灯篭・・・どれだろう??。


ネットの境内図を見ると、大書院の西側には梅林と護摩堂がのっている。護摩堂(左のお堂)はそのままだが、梅林の場所には新しいお堂が造られている。これは最近完成した宸殿です。宸殿は門跡寺院の中心となる建物だが、元あった宸殿は明治政府から供出要請があり献納した。政府はこれを元手に病院を建てたという(現在の京都府立医科大学の前身)。宸殿復活は曼殊院の長年の念願だった。ようやく150年ぶりに再建されたのです。阿弥陀如来座像(重文、平安時代)と慈恵大師良源元三大師像(重文)が祀られている、と案内されていました。


宸殿前庭には、一面に白砂が広がり、大海を表している。「盲亀浮木之庭」と張り紙され、庭の名前の由来が書かれている(写真)。左上の黒い岩が流木だろうか。亀はどこだ?。
右近の橘と左近の桜がみえる。これは現在の上皇(平成天皇)と上皇后が行幸された折に植えられたもの。右に半分見えるのが唐門で、その奥に勅使門があるはずです。



曼殊院に接して西隣に、弁天池があり、弁天島が浮かぶ。ここには弁才天を祀る弁天堂(左)と菅原道真公を祀る天満宮(右)が置かれています。神仏習合の名残で、お寺の中に神社があるのです。この天満宮は室町時代の建物で、曼殊院で一番古い建物。北野天満宮と深い結びつきがあったことから、近くの山中にあったものをここへ移したという。

弁天池周辺も紅葉の綺麗な所。曼殊院内では紅葉らしきものは見られなかったので、弁天島にきて慰められました。



 鷺森神社(さぎのもりじんじゃ)  




曼殊院を下り、修学院道を北へ歩き赤山禅院を目指す。その途中に鷺森神社があります。ネットに、”紅葉の隠れスポット”とか”紅葉のトンネル”などとあったので寄ってみることにした。
鳥居の扁額「鬚咫天王」(しゅだてんのう)とは主祭神・素盞嗚尊(スサノオノミコト)のことです。

300mほどの参道が続きカエデが色づいていました。”紅葉のトンネル”というには未完の部分が多く、スポットになるにはまだほど遠いようです。

■歴史
鷺森神社の歴史について、境内に由緒板が掲げられている。「当神社創建は貞観年間(859年 - 877年)にして今より壱千百年余り前に比叡山麓の赤山明神の辺に祀られてあったが応仁の乱の兵火に罹り社殿焼失し今の修学院離宮の山中に移し祀られてあった。後水尾上皇この地に離宮を造営されるにあたり此の鷺森に社地を賜わり元禄二年(西暦一六八九年)遷座相成り修学院山端地区の氏神神社として現在に至っている。」

境内中央に拝殿があり、その奥に本殿がひかえる。拝殿では舞楽の奉納が行われるようです。
手前の橋が「御幸橋」で、説明書きに「その昔、修学院離宮正面入口の音羽川に架設され後水尾上皇、霊元法皇も行幸のみぎりに通られた名橋です。昭和42年当社本殿改築の際、請願により下賜され、社宝として宮川に架設しております」とあります。

一間社流造りの本殿で、素盞嗚尊(スサノオノミコト)を祀る。かっては牛頭天王(ごずてんのう)、または鬚咫天王とも呼ばれていた。本殿、拝殿とも安永4年(1775)の造営になる。
幕には「鷺」の絵が、また絵馬でなく絵鷺に願がかけられている。社名にもなった「鷺(さぎ)」は、かってこの辺りに鷺の群れが住みついていたことから神の使いとされたようです。


境内の右隅に、しめ縄のはられた石が置かれている。「縁結びの石 八重垣」と書かれている。この石に触れて祈ると悪縁を絶ち、思う人との良縁が得られ、夫婦和合・円満や家内安全が授かるそうです。「八重垣」とは、稲田姫命と結ばれた素盞嗚尊が詠った和歌よりくるようです。素盞嗚尊が和歌を詠むとは・・・。

鷺森神社をでて北へ少し歩くと音羽川に出会う。音羽川に沿って山へ向かっていくと、比叡山の代表的な登山ルートの一つ「雲母坂(きららざか)」がある。かって法然、親鸞らの名僧や弁慶が延暦寺と洛中を行き来した道、私も10年前に(ココ参照)

 赤山禅院(せきざんぜんいん)  




音羽川を渡り修学院道を進むと、写真の三叉路に出会う。真っすぐ進めばすぐ修学院離宮の入口です。左に曲がれば赤山禅院へ向かう。右に入れば「鷺森神社御旅所」と案内されていました。

鳥居が見えてきました。天台宗のお寺のはずだが・・・。「赤山大明神」の額は、江戸時代の初め後水尾上皇の修学院離宮御幸の時に賜ったもの。

鳥居を抜けると山門が現れる。山門に「天台宗修験道総本山菅領所」の表札が掛かっていました。現在、赤山禅院は天台宗延暦寺別院(塔頭)になっているようです。修験道というのは千日回峰行のことだろうか?。比叡山延暦寺には7年かけて比叡山の峰々を巡る「千日回峰行」と呼ばれる荒修行があります。その最後に、ここ赤山大明神に下って花を添え、再び雲母坂を登って帰る「赤山苦行」と呼ばれる荒行があります。
この辺りから紅葉を楽しむことができます。


参道脇に「我邦尚歯発祥之地」の碑が置かれています。「歯」は年齢を、「尚」は尊ぶの意味で、敬老を意味している。唐の白楽天(772-846)が老人を招き「七叟尚歯会」を催したのに倣い、平安時代の初め(877年)この地で、日本で初めて「尚歯会」が開かれたのを記念したものです。貴族、公家、学者などの年寄りが集まり詩歌管弦を楽しむ敬老会だ。

紅葉の美しい参道が続くが、トンネルとなるにはまだ少し早いようです。

階段を登ると拝観受付のような建物がある。「いくらですか?」と聞くと、「いりません」と。通常、お寺は拝観料をとり、神社は無料となっている。赤山禅院はお寺のはずだが、拝観料に関しては神社格だ。維持費はどうしているんだろうか・・・と余計な心配までしてしまう。

赤山禅院の歴史は「開創は、仁和4年(888年)。「赤山」の名は、入唐僧円仁に由来する。円仁は、登州で滞在した赤山法華院に因んだ禅院の建立を発願したが、果たせないままに没した。その遺言により天台座主の安慧(あんね)が、唐の赤山にあった道教の神・泰山府君(赤山大明神)を勧請して建立したのが赤山社(後に赤山禅院に改称)である。しかし、安慧は貞観10年(868年)に没しており、仁和4年(888年)の創建には疑問が残る。
比叡山延暦寺の千日回峰行においては、そのうち100日の間、比叡山から雲母坂を登降する「赤山苦行」と称する荒行がある。これは、赤山大明神に対して花を供するために、毎日、比叡山中の行者道に倍する山道を高下するものである。当寺は明治時代の神仏分離令の後も神仏習合の形を残したまま現在に至っている。」(Wikipediaより)

階段を登ると拝殿があり、その奥に本殿がある。ここは神社か?、と錯覚してしまう。神仏習合の名残りですね。
拝殿の瓦葺屋根上に猿がいる。平安時代には鬼門信仰があり、赤山禅院の位置は御所の北東にあたり、鬼門の方角とされてきた。そのため皇城の表鬼門の鎮守として、左手に邪気を祓う神楽鈴を、右手に神の依り代になる御幣を持った陶製の猿を置き、御所をを向いて見守っていのです。
何故、猿なのでしょうか?。平安京の北東に位置する比叡山延暦寺を守るのが日吉大社です。その日吉大社では、大山咋神が猿の姿で天から降りてきたとされ、猿が神のお使いとして祀られている。それと関係あるのでしょう。かって猿が夜な夜な抜け出し、悪さをしたので金網に閉じ込めているそうだ。

拝殿奥の本殿です。「皇城表鬼門」の看板が架けられている。
祭神(本尊)は赤山大明神。中国の五霊山のひとつ東岳泰山の神である「泰山府君(たいざんふくん)」のことで、陰陽道の祖神、道教の神、閻魔大王の側近で閻魔帳をもつ、本地仏が地蔵菩薩だとか云われ、なんかよくわからない。まアいいか、お参りに来たのじゃなく、紅葉を見に来たんだから。


本殿左側にある地蔵堂。赤山大明神の本地仏である地蔵菩薩を祀る。本地堂とも呼ばれる。


福禄寿堂。赤山大明神は七福神の一つ福禄寿(ふくろくじゅ)ともされる。幸福・高禄・長寿の三徳をもつ福禄寿神仙が祀られ、「都七福神めぐり」の一つになっている。

境内右側にある雲母(きらら)不動堂。明治18年(1885)、雲母坂にあった雲母寺(うんもじ)が廃寺になり、そこにあったの本堂と本尊・不動明王が移されたもの。

堂内奥の左右に、大きな数珠の輪が吊り下げられている。これが「正念珠(しょうねんじゅ)」「還念珠(かんねんじゅ)」です。元来、拝観順路の入口に正念珠が、出口に還念珠が設置され、願いごとを唱えながら輪を潜ると願いが叶うとされた。お寺の方に聞くと、珠が傷んだので取り外し、不動堂に飾っているそうです。

絵馬にはお猿と赤山明神(?)が描かれている。

「五十払い(ごとばらい)」「五十日(ごとび)」という言葉があります。毎月5日、10日、15日、20日、25日、月末はいわゆる決済・集金の日とする商慣習がある。給料日は25日とされることが多い。
この慣習の起こりが赤山禅院にあるといわれる。赤山禅院では一年のうちに巡ってくる「申(猿)の日」の五日に五日講が行われており、この日にお詣りし、掛け取りに回ると集金がよくできると評判になり、江戸時代から「五十払い」の風習ができたと伝えられています。私にとって待ち遠しい年金支給日は隔月15日・・・。



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一乗寺から赤山禅院へ 2(圓光寺・金福寺)

2022年12月24日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2022年11月16日(水曜日)
紅葉の美しい圓光寺と、その末寺・金福寺を訪ねます

 圓光寺(えんこうじ) 1  



圓光寺は詩仙堂から10分ほどの距離にあります。前日に圓光寺の公式サイトを見ると、なんと混雑を避けるためという理由で事前予約制になっているではないか。これはマズイな!と思ったが、最盛期に少し早く、平日でもあるので希望日時に予約できるのではと思い予約してみた。公式サイトで日と時刻を指定し、メールアドレスを記入して送信する。すぐに結果をメールで知らせてくれる。16日11時台で「予約確定のお知らせ」メールが届いていました。11時台というのは、11時から11時59分の間に入ればよいのです。当日入口で、この確定メールを見せればよい(プリントアウトでもよい)。
拝観料:1000円(特別拝観期間のため、通常は500円)
拝観時間:午前8時(特別拝観期間のため、通常は9時)~午後5時閉門
私が圓光寺に着いたのは10時15分。スマホの予約確定メールを見せ、「11時になっていないが、入れませんか?」と頼むと、入れてくれました。予約無しでも、その時間帯に人数に余裕あれば入れるようです。

「瑞巌山(ずいがんざん)圓光寺(えんこうじ)」の歴史は「慶長6年(1601年)に、徳川家康は国内教学の発展を図るため、下野足利学校第九代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校としました。圓光寺学校が開かれると、僧俗を問わず入学を許しました。その後、圓光寺は相国寺山内に移り、さらに寛文7年(1667年)現在の地に移転しました。」(受付で頂くパンフより)
臨済宗南禅寺派に属し、明治以降は日本で唯一の尼僧専門の修行道場となった。現在は南禅寺派研修道場として坐禅会などが実施されている。

山門から石畳の参道を進むみ階段を登ると目の前に庭園「奔龍庭(ほんりゅうてい)」が広がる。枯山水庭園だが、京都の古寺で多く見られる枯山水とは一味違った庭です。平成25年(2013)に完成した新しい庭園だからです。「渦を巻き、様々な流れを見せる白砂を雲海に見立て、天空を自在に奔る龍を石組で表わした平成の枯山水。荒く切り立った石柱は、龍の周囲に光る稲妻を表現し、庭園全体に躍動感を与えています。通常、庭園の境界を示すために配される留め石は置かず、この庭園はあえて未完のままになっています。眺める方がその余白を埋め、それぞれのお心のなかで完成させていただけたらと思います」(受付パンフより)

見つめれど なにも浮かばず 我悲し

奔龍庭の奥の中門を潜ると、本堂があり、本堂前に庭園「十牛之庭(じゅうぎゅうのにわ)」が広がる。

中門を潜るとすぐ見えるのが水琴窟(すいきんくつ)。縁が広い盃型の手水鉢を使ったのが珍しく「圓光寺型」と呼ばれている。竹筒に季節毎の草花が添えられるそうだが、この時期はもちろん鮮やかな紅葉が。肝心な音色を聞くのを忘れてた。



本堂内部。祀られているのは、運慶の作と伝えられている千手観世音菩薩坐像。襖絵は富岡鉄斎(1836-1924)の描いた「米點山水図」。明治18年(1885)秋、48歳の時に圓光寺を訪れた折に描いたという。

本堂前に広がる庭園は「「十牛之庭(じゅうぎゅうのにわ)」と呼ばれています。紅葉の美しさで知られた庭園ですが、最盛期には少し早いでしょうか、まだ完全に色づいていませんでした。軒先の柱を額縁に見立てた額縁庭園にもなるのですが、朝一番にでも来ないと撮れないですね。赤毛氈の敷かれた縁に座り鑑賞する、最近どこでもよく見かけられる風景です。

 圓光寺 2 (庭園「十牛之庭(じゅうぎゅうのにわ)」)  




池泉回遊式庭園なので、これから履物に履き替え庭園を散策します。

「十牛之庭(じゅうぎゅうのにわ)」について受付パンフに「牛を追う童子の様子が描かれた「十牛図」を題材にして、近世初期に造られた池泉回遊式庭園です。十牛図に描かれた牛は、人間が生まれながらに持っている仏心をあらわしています。牧童が悟りにいたるまでの道程であり、懸命に探し求めていた悟りは自らの中にあったという物語です」と書かれている。庭には十牛に因み、牛に見える十の石が配されているそうです。

庭園の真ん中に「栖龍池(せいりゅうち)」と呼ばれる池がある。洛北で最も古い池だそうです。この栖龍池周辺が一番の紅葉スポットです。また池に写る逆さ紅葉も鮮やかでした。

広い庭園には池を一周するように遊歩道が設けられ、散策しながら紅葉を楽しむことができる。頭上を覆う紅葉、足元の散り紅葉、池に映える逆さ紅葉、と堪能させてくれます。

散りもみじ・敷きもみじと呼ばれる紅葉の絨毯があちこちで見られます。今でこれですから、最盛期を過ぎた頃にはどんな景色を見せてくれるのでしょうか。

眠っている場合じゃないですヨ。

庭園の奥に行くと苔庭と竹林が現れる。紅と緑のコントラストがいいね。

この竹林は「応挙竹林」と呼ばれている。江戸時代の絵師・円山応挙がよく訪れており、瑞雲閣の展示室にある「雨竹風竹図屏風」はこの竹林を描いたもの。

竹林の奥に階段が見えます。そこから徳川家康の墓などがある裏山へ登れます。

 圓光寺 3 (裏山)  





階段を登ると小さな広場と墓地にでる。ここに案内略図が掲示されているので判りやすい。
家康の歯が納められている東照宮は、さらに登った山中になります。








サイド・オマールの墓。

マレーシア人のサイド・オマールは、南方特別留学生として第二次世界大戦中の昭和18年6月来日し、広島大学に在学した。昭和20年8月の原子爆弾で被爆し、京大病院に運ばれたが9月3日18歳の生涯を閉じた。当時の市営墓地だった南禅寺大日山に埋葬されたが、遺族の許可を得て昭和36年にここにイスラム教式の墓碑が建立された。マレーシア王族の出身だったから・・・?。





舟橋聖一の歴史小説「花の生涯」に登場する村山たか(たか女)の墓があります。墓地の一番奥の方で、やや分かりにくい。村山たか女については金福寺で触れます。

墓地のある広場からさらに坂道を登ります。後ろを振り返ると杉木立の間から京都市街が見えてくる。


やがて、圓光寺の開基である徳川家康を祀った東照宮と、その右側に柵で囲われた徳川家康の墓が現れる。墓には家康の歯が埋葬されているとか。

お墓の前は一種の展望台のようになっています。眼下に圓光寺の伽藍とそれを彩る紅葉が、その先には京都市街が一望でき、遠くには北山や嵐山なども望むことができます。


最後に、奔龍庭の横にある建物「瑞雲閣(ずいうんかく)」に入ってみます。ここは寺宝の展示室と、庭園を鑑賞できる畳の大広間からなっている。





これは円山応挙筆「雨竹風竹図屏風」。紙本墨画の六曲屏風一双で、国の重要文化財です。十牛之庭にある竹林を描いたもの。










伏見版木活字(圓光寺)(重文)。
徳川家康は文治政策の一つとして京都伏見に圓光寺学校を開設した(圓光寺の始まり)。そこで孔子家語・貞観政要・三略など多くの儒学・兵法関連の書籍を印刷刊行した。その時に使った木製の活字5万個が現存している。これら「伏見版木活字(圓光寺)」は、日本最古の木製活版文字として国の重要文化財に指定されています。


瑞雲閣の縁側から紅葉鑑賞。全面真っ赤に燃え上がる様は感動ものだが、緑葉、黄葉の混ざる紅葉風景も風情なものです。

 金福寺(こんぷくじ) 1  


(金福寺へは、朝一番の午前9時に訪れたのだが、”今日は法事が行われるため拝観できません。午後2時頃からなら可能かと思います”とのこと。予定が狂ったが、赤山禅院を訪れた後に引き返し、一番最後に訪れることにした)午後2時半、再訪する。緑の植え込みに囲まれ、真っ赤な紅葉に覆われた小さな山門と石段。俳句の聖地と呼ばれるのに相応しい門前です。

金福寺(こんぷくじ)の由緒は「864年(貞観6年)慈覚大師円仁の遺志により、安恵僧都(あんねそうず)が創建し、円仁自作の聖観音菩薩像を安置した。 当初天台宗であったが、後に荒廃したために元禄年間(1688年?1704年)に円光寺の鉄舟によって再興され、その際に円光寺の末寺となり、天台宗より臨済宗南禅寺派に改宗した。その後鉄舟と親しかった松尾芭蕉が、京都に旅行した際に庭園の裏側にある草庵を訪れ、風流を語り合ったとされ後に芭蕉庵と名付けられたが、荒廃していた為、彼を敬慕する与謝蕪村とその一門が1776年(安永5年)に再興した。幕末に入り舟橋聖一著の『花の生涯』のヒロインとして知られる村山たか(村山たか女)が尼として入寺し、その生涯を閉じた。」(Wikipediaより)

山門の先に受付がある。営業時間 9:00~17:00(受付16:30迄)、大人500円 中高校生300円 小学生以下無料

受付前に真っ赤な敷きもみじが。その鮮やかさに、まるで造形されたかのようにも思ってしまう。金福寺の紅葉は、門前の覆いかぶさるような紅葉と、この敷きもみじに尽きます。

金福寺は本堂があるだけの小さなお寺です。手前で履物を脱ぎ本堂に上がってみる。畳敷の本堂には本尊の聖観音菩薩が祀られ、周囲には寺にゆかりの遺品が展示されています。奥に見える屋根は芭蕉庵。

松尾芭蕉を敬慕していた与謝蕪村は、芭蕉ゆかりの当寺をたびたび訪れ一門たちと芭蕉庵で句会を開いていた。その時に愛用していた文台と重硯箱。
床の間の掛け軸には蕪村筆による「芭蕉翁像」が描かれている。「蕪村が64才安永8年(1780)特に当寺のために描いたもの。彼は芭蕉を俳諧の先師として最も尊敬していた。芭蕉の肖像画として最も勝れたものとの定評がある」と説明書きがある。

(上写真)蕪村筆「江山清遊の図」
(下写真)蕪村筆「奥の細道画巻」(重文)。画家でもあった蕪村は、芭蕉の紀行文「奥の細道」の全文を書き、それぞれ14の場面に俳画を描き入れた。(複製品、池田市逸翁美術館蔵)

「文久秘録」に描かれた「たか女晒し者の図」

村上たか女(1809-1876)について受付のパンフに「作家舟橋聖一の歴史小説『花の生涯』・諸田玲子『奸婦にあらず』のヒロイン村山たか女は、井伊直弼が彦根城の埋木舎で不遇の部屋住み生活をしていた頃の愛人であった。直弼は32歳のとき江戸に下り、44歳で大老職に就任した。その頃アメリカの強硬な要求で開国政策を推進せざるを得なかった。一方たか女は京都に於いて幕府の隠密(スパイ)となり、攘夷論者達(薩摩・長州・水戸藩の浪人・公家)の動向を探索し、その情報を永野主膳を通じて幕府(大老)に密報する事で「安政の大獄」に加担した。その為に、たか女は勤皇方から大変恨まれ、大老が万延元年「江戸城桜田門外の変」で暗殺されると、彼女は勤皇の志士に捕らえられ、京都三条河原で生き晒しにされたが、三日後に助けられ文久2年(1862)尼僧となって金福寺に入り、名を「妙寿(みょうじゅ)」と改め、14年間の余生を送り、明治9年(1876)当寺に於いて67歳の波瀾の生涯を閉じた。本墓は当寺に程近い圓光寺にあり、金福寺には彼女の御位牌、筆跡。遺品などが伝わっているとともに詣墓(まいりばか)がある」と書かれています。




59歳の時に作った牡丹の刺繍をした壇引(仏壇の前に垂らすもの)。若い頃、芸妓になっていたので芸事を心得ていたという。

山門脇にさりげない建物がある。よく見ると「村上たか女創建の弁天堂」の札が掛かっています。
村上たか女は巳年生まれだった。九死に一生を得て生き永らえたのは、巳をお使いとする弁財天のご加護と信じ、お堂を建て弁財天と巳を祀ったのです。蛇の像が入った「福巳塔」が祀られている。弁天堂の鬼瓦にも蛇が刻まれています。

 金福寺 2  



本堂前の庭園。元の庭を昭和の初めに、七代目小川治兵衛が改修した枯山水庭園。白砂に置き石・灯篭が配され、それをサツキの築山が囲む、小さいながらよくまとまった庭園です。

庭園の左側に石敷きの小径が奥へ伸びて、芭蕉庵や与謝蕪村の墓がある丘の上へ続いている。

茅葺き屋根の芭蕉庵。
「元禄の昔、芭蕉は山城(京都)の東西を吟行したころ、当寺の草庵で閑居していた住職鉄舟和尚を訪れ、風雅の道について語り合い親交を深めた。その後、和尚はそれまで無名であった庵を「芭蕉庵」と名づけ、蕉翁の高風をいつまでも偲んでおられた。その後、85年ほどして与謝蕪村が当寺を訪ねて来た。その頃すでに庵は荒廃していたが、近くの村人たちは、ここを「芭蕉庵」と呼びならわしていた。芭蕉を敬慕していた蕪村は、その荒廃を大変惜しみ、安永5年(1776)庵を再興した」(受付パンフより)。蕪村は一門たちとこの庵で句会をしばしば催しましたという。


蕪村らによって建立された芭蕉の碑。建立時、蕪村はこの近くに眠りたい、と詠んでいたので、すぐ上の山中に埋葬された。

坂道を少し登って行くと、村山たか女の参り墓がある。金福寺の本寺である圓光寺に埋葬されたが、尼僧として余生を送り波瀾の生涯を終えた当寺にも、本墓の土を埋め参り墓がつくられた。墓石には「祖省塔」と刻まれている。

さらに登って行くと与謝蕪村の墓があります。傍には江森月居など弟子たちの墓もある。

墓の前からは京都市内が一望できます。まさに「京を一目の墓どころ」です。

本堂と庭を見下ろす。


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一乗寺から赤山禅院へ 1(下り松・詩仙堂)

2022年12月15日 | 寺院・旧跡を訪ねて


★2022年11月16日(水曜日)
今年も紅葉シーズンがやってきた。京都の紅葉スポットは多いのだが、かねてより宮本武蔵の決闘場所・一乗寺下り松へ行ってみたいと思っていたので、今年はその周辺へと決めました。紅葉の最盛期には少し早いかな、と思ったがその後の気象条件との関係で16日に出かけた。一条寺下り松~金福寺~八大神社~詩仙堂~圓光寺~曼殊院~鷺森神社~赤山禅院へと北へ向かって歩くコースです(金福寺は事情があって一番最後になりました)。修学院離宮もぜひ訪れたい場所だが、宮内庁への事前申し込みが必要で、煩わしいので避けました。

 一乗寺下り松(いちじょうじ さがりまつ)  



大阪から京阪電車の終点・出町柳駅へ。朝8時過ぎ、叡山電鉄叡山線に乗り換え、一乗寺駅下車し、東へ300mほど行くと白川道りに出ます。向こうに見える山並みが比叡山。今日のコースは、この山裾に点在している。白川道りを横切り、山へ向かって歩きます。道路標識には「曼殊院道」とあります。道を越えた右角にコンビニがあるので、ここで食べ物、飲み物など必要なものを手に入れておく。

白川道りから山へ向かって200mほど入ると、お庭に植樹されていそうな形の良い松が見えてくる。これが宮本武蔵(1584-1645)と吉岡一門との決闘の地として有名な「一乗寺下り松(いちじょうじ さがりまつ)」。
決闘当時の初代下り松は、昭和20年頃に枯死してしまう。その一部が御神木として八大神社境内に移され祀られています。2代目が修学院離宮から移植されたが、松くい虫の被害などにより枯死し、3代目、4代目と植え替えられ、現在の松は平成26年(2014)に植樹された5代目です。

道が分岐するこの辻は、平安時代の昔から交通の要衝で、旅人の目印として松が植えられてた。現在でも、東へ行けば詩仙堂へ至る道、右に行けば曼殊院、修学院へ至る道となっている。見えているのは八大神社の鳥居です。かってここが参詣道の入口だったのでしょうか、鳥居だけがポツンと残されています。
この辺りには、現在は廃絶しているが平安中期から南北朝にかけて、「一乗寺」という天台宗の大きなお寺があった。そのため現在でも「一乗寺」が地名に使われている。例えば、詩仙堂は「一乗寺門口町」、圓光寺は「一乗寺小谷町」、曼殊院は「一乗寺寺之内町」のように。

松の傍に石碑「宮本吉岡決闘之地」(大正10年建立)が建つ。史料が少なく真実は藪の中だが、吉川英治の小説「宮本武蔵(風の巻)」から決闘のストーリーを追ってみます。


吉岡一門は室町将軍家の兵法指南役として名をはせ、今出川に吉岡道場を開いていた。「関ヶ原の戦」を終えた21歳の宮本武蔵は、おのれの剣名を天下に鳴りとどろかせるため、慶長9年(1604)京の都に上り吉岡道場に挑戦状を突きつける。
道場主・吉岡清十郎と蓮台野(れんだいの、東は船岡山、西は金閣寺、南は北野天満宮の間に挟まれた葬送の地)で対決し倒す。さらにその冬、弟・吉岡伝七郎と東山の三十三間堂裏地で戦い切り倒す。これが「雪の蓮華王院(三十三間堂)の決闘」です。
面目をつぶされた吉岡一門は総力をかけた最終決戦として、「一乗寺下り松」で武蔵と決戦することを決意。武蔵は吉岡一門の使いから果し合い状を受けとる。
 明後日卯刻(午前6時)
 洛北一乗寺村藪之郷下り松にて立ち会いのこと。
 吉岡道場名目人 壬生源次郎
  後見人 壬生源佐衛門(源次郎の父で清十郎・伝七郎の叔父にあたる)

夜明け前の、まだ薄暗い一条寺下りの松。「ここは俗称藪之郷下り松、一乗寺址の田舎道と山道の追分で、辻は三つ股にわかれている。朝の月を貫いてひょろ長い一本松が傘枝をひろげていた。一乗寺山の裾野地ともいえる山の真下なので、道はすべて傾斜している上に石ころが多く、雨降りの時は流れになる水のない河の跡が幾すじも露出している」。吉岡方の名目人はまだ12歳という幼い源次朗で、その傍に父親の源左衛門が立つ。少年は白鉢巻をして、高く股立をかかげていた。老人は「そちはこの下り松のところに立っておればよい。松の根元から動くでないぞ」といいきかす。源次朗少年は松の根元へ行き、五月人形のように凛々しく立った。下り松の周辺には、吉岡一門の門弟数十人が十重・二十重と月夜蟹のように潜む。「蘆間の雁のように、黒い影法師は駆け別れ、藪に沈み、樹蔭に隠れ、田の畔に腹這いになった。鉄砲をもった男は下り松の梢によじ登り、月明りを気にしながら、自分の影を隠すのに苦心をしていた。」

武蔵は、洛中の方からでなく一乗寺下り松とは真後ろの方向にあたる比叡の山の方へ入った。山の上から望むと、松の根元を中心に人影がかすかに動くのが見える。岩の間を這い上がると八大神社という社があった。そこで身を清め、決意を固め、神社の境内から細い急坂を駆け下りて行った。坂を降りきった山裾の傾斜に下り松の辻はあった。草陰に転がり下り松の梢を見ると、鉄砲をもった者が潜んでいる。武蔵に有利だったのは、吉岡方がみな三方の道をにらみ、背後の山を忘れ武蔵に背を向けていたことだ。武蔵は小走りに近づき、石を投げつけ銃をもった男を落とし、松の幹に一足跳びに躍っていった。武蔵の刀が斬り下げられ、前髪の幼い首を血しおの下に斬り落としていた。武蔵はなにものも措いて真っ先に、源次郎少年を斬ってしまったのだ。

比叡のかなたから明け六つの鐘が遠くひびいてきた。「武蔵だ!」「武蔵だ!」松のまわりをかためていた吉岡の門弟たちは慌てふためきどよめき、血相を変えて槍をかまえ、白刃を抜きはなち、武蔵に向かっていった。武蔵は身を低く沈めて、剛剣をうならせ一瞬のうちに数人を斬り倒し泥濘の中に沈めた。一乗寺下り松の周囲は凄惨な修羅場と化した。怒号と悲鳴が響き渡るなか、武蔵は敵を斬りはらいながら三本道のうち、いちばん道幅の狭い修学院道へ向かって駈け込んで行った。

「保元、平治の昔から、平家の落人たちが近江越えにさまようた昔から、また親鸞や、叡山の大衆が都へ往来した昔から・・・何百年という間をこの辻に根を張って来た下り松は今、思いがけない人間の生血を土中に吸って喚呼して歓ぶのか、啾々と憂いて樹心が哭くのか、その巨幹を梢の先まで戦慄させ、煙のような霧風を呼ぶたびに、傘下の剣と人影へ、冷たい雫をばらばらと降らせた」


一乗寺から脱した武蔵は、その仕返しを避けるために、吉岡一門が手を出せない東寺の塔頭である観智院(かんちいん)に約3年間隠れ住んだ。観智院客殿(国宝)の上段の間の床に描かれている「鷲の図」「竹林の図」は、その時に武蔵が描いたものと伝えられています。墨で一気に描いた鋭い筆裁きに、死闘をくぐり抜けた剣豪の生々しい殺気と気迫が感じられます。(私も2017年に訪れた。ココ参照)
一方、吉岡家は兵法でなく、「吉岡染」「憲法小紋」などが評判となった染め物屋として続いたそうです。

松の後ろに建つのは石碑「大楠公戦陣蹟」。建武3年(1336)、楠木正成が足利軍と対峙して、この地に陣を構えた。この碑は戦前の昭和20年5月に建てられたもの。戦前まで、足利尊氏は賊、後醍醐天皇は正義という尊皇のイデオロギーが国民教化された。最後まで後醍醐天皇に忠義を尽くし討ち死にした楠木正成は英雄視されたのです。学校で楠木正成が教えられ、各地にこうした賞賛碑が建てられのです。

後方には綺麗な公衆トイレが見えます。特別な観光地でもないのにこうした公衆トイレが設置されているのは珍しい。


 八大神社(はちだいじんじゃ)  



下り松から200mほど坂道を上ると、左に折れる道があり、標識には円光寺、曼殊院へとあります。真っすぐ上ればすぐ詩仙堂と八大神社の入口が並んでいる。

八大神社(はちだいじんじゃ)の由緒は公式サイトに「創祀は不詳ですが、永仁2年3月15日(1294年)に八大天王(はちだいてんのう)が勧請されました。京都の洛北一乗寺地区の産土神様、氏神様。祇園八坂神社と御同神をお祀りし、北天王(北の祇園社)とも称され京の表鬼門に位置し、方除、厄除、縁むすび、学業の神様として古くから多くの人々の崇敬を集めます。後水尾(ごみずのお)天皇、霊元天皇、光格天皇、修学院離宮行幸の際にお立寄り白銀等の御奉納がありました。」

階段を上ると拝殿、その奥に本殿が構える。御祭神は素盞嗚命(すさのおのみこと)とその后、そして8人の子供。元の祭神は、祇園精舎の守護神である牛頭天王(ごずてんのう)だったので北天王(北の祇園社)とも称された。ところが明治元年の仏教の神々を排除する神仏分離令により、牛頭天王は神仏習合された素盞嗚命と同一だとされ、変更されたのです。あの八坂神社も同様です。

八大神社が有名なのは素盞嗚命ではありません、剣豪・宮本武蔵なのです。境内入口には「宮本武蔵開悟(さとり)の地」と書き出されている。

吉川英治の小説「宮本武蔵(風の巻)」から再現すると。
決闘の場・一乗寺下り松へ行く途中、たまたま八大神社にたどり着く。彼は、神という大きな味方をもったような気がした。「彼は、御手洗の水で口漱いだ。さらにもう一杓子含んで、刀の柄糸へきりを吹き、わらじの緒にもきりを吹いた」。そして拝殿の鈴のついた綱に、これにすがれといわんばかりに手をかけた。いや待て、自分は何を願おうとしたのか。はっと、手を竦めた。常々、朝に生きて夕べに死ぬる身と、死に習い死に習いしていた身ではないか。さむらいの味方は他力ではない。死こそ常々味方である。それが今、生きたいと神の力を恃もうとしている。過った!、と慙愧の首を垂れて、口惜し涙が頬を下ってくる。「さむらいの道」には、たのむ神などというものはない。そしてすぐ、八大神社の境内から、細い急坂を下り松の辻へと駆け下りていった。
武蔵が晩年に書き残した「独行道(どっこうどう)」という書物には、「我、神仏を尊んで、神仏に恃(たの)まず」と書かれている。

祠の中に注連縄をまかれ祀られている古木が、決闘当時の初代「下り松」の一部です。現在目にする松は5代目。古木の前には二刀流の宮本武蔵ブロンズ像がある。平成14年(2003)、決闘から400年を迎える記念事業として建てられた。

武蔵はこの坂を下り松目指して駆け下りていったのです。


八大神社境内に張り出されていたポスター。昭和39年東映映画。わが青春時代の花形スター・中村錦之助、知っている人は少なくなったでしょう。

 詩仙堂(しせんどう) 1  



次は、八大神社手前の詩仙堂(しせんどう)に入ります。ここも紅葉の美しい庭園で知られている。
入口は小さな萱葺屋根の山門で、石川丈山筆「小有洞(しょうゆうどう)」の扁額が掛かる。お寺というよりは、山荘、寓居を訪ねるといった感じ。曹洞宗大本山永平寺の末寺で、正式名は「六六山(ろくろくざん)丈山寺(じょうざんじ)」ですが、俗称の「詩仙堂(しせんどう)」で知られている。

山門から、竹垣に囲まれた階段、竹林の小径と続く。

★~ 歴史 ~★
詩仙堂は、江戸初期の漢詩人・石川丈山(いしかわ-じょうざん、1583~1672が)が隠居のために建てた山荘です。石川丈山は三河国(愛知県安城市)生まれで、代々徳川家(松平家)に仕える譜代武士の家柄でした。武芸に優れ、16歳で徳川家康の近習になる。18歳の時、関ヶ原の戦い(慶長5年、1600年)に出陣し、家康の信望を得た。33歳の時、旗本として参戦した大坂夏の陣(慶長20年、1615年)で、功をあせり抜け駆けの軍律違反をしたため家康の怒りにふれる。そのため丈山は武士をやめ、浪人となり京都の妙心寺に隠棲します。知人の儒学者・林羅山の勧めにより、儒学者・藤原惺窩に師事し朱子学を修めた。
41歳より、病身の母養生のために紀州の浅野家に仕官、浅野家転封によって安芸(広島県)に赴き、そこで10数年ほど過ごすことになります。母没後に辞する。54歳の時、京都に戻り相国寺近くに庵「睡竹(すいちく)堂」をつくり隠棲した。5年後の寛永18年(1641)59歳の時、洛北の一乗寺村に凹凸?(おうとつか)を建てて終の棲家と定めます。これが詩仙堂の始まりです。寛文12年(1672年)に90歳で没するまでの約30年間、悠々自適の生活を送り、漢詩や書、作庭に励んだと伝えられている。後に寺院化されると、丈山にちなんで寺名は「丈山寺」とされた。
丈山没後、一時荒廃するが、1700年代中頃から建物、庭園の修復が行われる。
1928年、建物と庭園は国の史跡に指定された。
1963年、詩仙の間が復元される。
1966年、曹洞宗に改め、詩仙堂と改称された。寺号は詩仙の間に由来する。
1967年、建物、庭園が大改修された。

竹林の小径の突き当りで左に折れると拝観受付所がある。
拝観料:大人500円 高校生400円 小中学生200円
開門時間:午前9時~午後5時 (受付終了午後4時45分)
拝観休止日:5月23日(石川丈山の命日)

拝観受付の向かいに中門「老梅関(ろうばいかん)」がある。かつて老梅の木が数本あったことから名付けられたという。扁額「梅関」は文字が擦れて読めない。

中門を潜ると、詩仙堂の建物の背後が見える。三層の嘯月楼が突き立ち、窓を通して庭園も覗いています。この建物はお寺のお堂でなく、誰かの住まいにしか見えません。

建物の左側に玄関がある。ここで履物を脱ぎ、建物内部(写真右側)へ入る。建物内部を見学した後、再び履物を履き奥の庭園入口から庭園「百花塢(ひゃっかのう)」を巡回する。庭園から竹林の小径へ出る順路になっているが・・・(こっそり建物内部へ戻ることもできそう)

(部屋割り図はこのサイトから引用させてもらいました)
石川丈山が建てた庵は、当初「凹凸?」(おうとつか)と呼ばれていたようです。でこぼこした土地に建てた住居という意味のようだ。現在多くの部屋があるが、嘯月楼と詩仙の間の部分のみが丈山の建築当初からのもので、他は後世の改築、増築によるものという。現在の詩仙の間は,昭和三十八年に復元されたものです。昭和3年(1928)、境内一円が国の史跡に指定された。

特に「撮影禁止」という注意書きはなかったので、部屋内を撮らせていただきました。

建物の中心にあるのが寺名の由来となった「詩仙の間」です。4畳半ほどの小さな部屋だが、上方の四方の壁に中国の漢晋唐宋時代の詩人三十六人の肖像画が掲げられ、それぞれに石川丈山が隷書体で墨書した漢詩が添えられている。肖像画は絵師・狩野探幽(1602年~1674年)によって描かれたもの。
「我が国の三十六歌仙にならったものであり、その選定には丈山と林羅山がいろいろと意見を戦わせながら、詩人として大変高潔な人物を三十六人選定しました。それぞれ経歴、性格などが似ている者を相対するように壁にかけ、それぞれの組み合わせに意味を持たせたと言われています。蘇武と陶潜、韓愈と柳宗元など七対は、林羅山の改定したところです。しかし、林羅山が蘇武に対して王安石を挙げようとしたのに対し、丈山は王安石の人物を好まず、「人物でなく、詩を重んぜよ」と両者の間に意見を戦わすこと数回、ついに王安石は省かれるなど、選定にはかなりの苦心がなされたと伝えられています。」(公式サイトより)

北東側の側面。床の間、違い棚が見える。
大きな扇形の彫り物が壁に掲げられている。これは伏見城にあった左甚五郎作の欄間だそうです。

詩仙の間の西側に、一段掘り下げた瓦敷きの「仏間」がある。ここだけがお寺らしくみえ、本堂にあたる。祀られているのは詩仙堂の御本尊:「馬郎婦観音(めろうふかんのん)」。聞いたことのない観音さんです。三十三観音の一つで、「馬氏の妻に化身して現れた観音」だそうです。
以下、公式サイトの説明。「 所願成就・学業成就に御利益があると言われています。 馬郎婦観音の言い伝えは、唐の時代、憲宗元和4年(809年)。今から1200年以上前の中国、唐の時代にまで遡ります。中国・長安の西、鳳翔地方では若者たちの間で、伝統的な教養として六芸の「馬術」と「弓術」の修練に余念がありませんでした。その頃、外来思想の仏教が浸透していましたが、若者たちは仏教が説く三宝(仏・法・僧)に耳を傾けようとせず、蔑視さえしていました。ある日、彼らの町に妙麗な一人の婦人が現れ、若者たちが「わが妻に」とこぞって求婚しました。すると婦人は、求婚を引き受ける代わりに『観音経』や『金剛般若経』の暗唱など全28項目の課題を与えました。そして見事、馬(ば)という1人の若者が課題を成したのです。しかし、婚礼の席に花嫁は現れず、にわかに息絶えてしまいました。それから数日後、紫の衣に身を包んだ老僧が現れ、馬に花嫁を埋葬させた場所を案内させました。その場につくと、棺の中から一連の金の鎖状の骨が出てきたのです。「これは観世音菩薩の化身である。仏教を信じようとしない、きみたちの閉じた心の扉をひらくために、方便として婦人の姿をかり、ここから天空へ飛び去ったのである」この観音は、宋代に至につれ盛んに信仰され、宋末頃に絹本著色図として描かれた一枚が、わが国の京都大徳寺に伝えられたところから、鎌倉時代にはこの観音の信仰が行われたものと考えられています。」

別の部屋に掲げられている写真。昭和61年(1986)5月9日、英国王室チャールズ皇太子と故ダイアナ妃が京都を訪れた際に詩仙堂にも立ち寄られたそうです。何故、詩仙堂が選ばれたのだろうか?。庭のサツキを鑑賞に?。







 詩仙堂 2(庭園)  



建物の南側(庭園側)は開放され、縁が周っている。畳の間に座ってよし(寝転びは禁止)、縁に腰かけてよし、作庭家でもあった石川丈山自身が作庭した枯山水の唐様庭園を鑑賞できます。ただし気持ちよく鑑賞できるのは早朝に限る(現在9時半)、お昼前からは人が増え、気持ちよくないハズ。

白砂にサツキの刈込みが配され、その周囲を楓の紅が彩っている。春になると、サツキの赤い花を楓の緑が取り囲む風景に変わる。枯山水といえば石組みが配されることが多いが、ここには石組みはありません。ここでは丸く大刈込みされたサツキが主役で、紅葉よりサツキの緑がひときわ印象的です。これが丈山の趣向なのでしょうか。

靴を履き庭園に出ます。外から見た建物外観。中心部の屋根は草葺だが、周りは瓦葺となっている。草葺の部分が元からあった建物で、瓦葺の部分は後世の増築と思われます。目を引くのは、煙だしのように屋根から突き出た部分。これは「嘯月楼(しょうげつろう)」と呼ばれる観月用の楼閣。詩仙の間と仏間の間に、中二階を挟んで三層建ての造りになっている。かつては洛中を、さらには大坂城まで眺望できたそうです。

庭への出口脇に小さな滝が造られている。「蒙昧(物事の道理に疎いこと)を洗い去る」という意から「洗蒙瀑(せんもうばく)」と名付けられています。滝の水は西へ流れ、建物の縁前に小さな池「流葉?(りゅうようはく)」をつくり、さらに庭園の下方へ流れてゆく。

普通、庭園は山肌に沿って上方に向かって造られていることが多い。詩仙堂の庭園は逆で、下方に向かって三段構成に作庭され、短い階段で繋がり、散策できるようになっている。建物の縁側から見えたのは最上段の庭だけで、下の庭園は見えません。これから下の庭園に降りてゆきます。

中段庭園の東半分。ここからは枯山水とは異なり散策できる回遊式庭園となっている。当初からあったのでなく、後世の拡張と思われます。中央に池があり、ここでもサツキが引き立つ。

東隅に「鹿(しし)おどし」の仕掛けがあります。「添水(僧都、そうず)」ともいわれ、竹筒に流れ込む水の重みで反転し、石を叩いて音をだす。田畑を荒らす鹿や猪の進入を防ぐためのものだったが、一定間隔の音色を楽しむのにも使われた。この鹿おどしを最初に庭に取り入れたのが丈山だったという。


中段の西半分。池の周辺には四季折々の草花が植えられ、「百花塢(ひゃっかのう)」と呼ばれている。季節をとわず楽しめるという。
池に映る逆さモミジが美しい。詩仙堂の紅葉で、これが一番でした。

昭和期に建てられた茶室残月軒。これを取り巻く紅葉が鮮やかでした。

下段の庭へ降りてゆくと、100mほどの散策路が設けられている。苔や草木の緑と楓の紅が冴える中、静かに散策できます。枯山水でも、中段の回遊式でもない、また違った雰囲気の庭園散歩を楽しめます。



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高取城址・壷坂寺へ 2

2022年11月09日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2021年12月2日(木曜日)
高取城址を後にして、山道を石仏群・五百羅漢を経由して壷坂寺へ。

 壺阪寺への道  



12時半、高取城を後にして壺阪寺へ向う。御城門(大手門)の高い城壁に沿って下り、かなりの傾斜の急階段を降りると壺阪口門跡が見える。
壺阪口門跡から少し下ってゆくと、車道が現れ、道脇に車が止まっている。壺阪寺を経由して、ここまで車道が設けられているようだ。ただし駐車場らしきものは見られれないので、せっかく車で来ても引き返さなければならないハメになるかも。ここには仮説トイレが設置されています。高取城内にはトイレはありませんよ。

車道脇の尾根道に入って進む。するとまた車道にでる。高取城へ続く山道(登城道)と並行して車道が設けられているようです。だから車道を歩けば迷うことなく壺阪寺へたどり着ける。ただし地図を見れば、曲がりくねった車道の方がかなり距離が長いようだ。また過去の経験から車道を歩くのはかなり辛いものです。

車道から、道案内に従いすぐ杉林の山道に入る。細い山道は、所々荒れた箇所もあるが歩きやすい。多少のアップダウンはあるが、ほぼ下りだ。
やがて山道は二手に分かれる。標識には、左の下る道は「五百羅漢を経て壺阪寺」とあり、右の登って行く道は「五百羅漢遊歩道を経て壺阪寺」となっている。どちらも五百羅漢から壺阪寺へ行けるようだが、右の道の方が五百羅漢をよく鑑賞できるのかもしれない。しかし登るのはもう嫌なので左の下り道を選びました。

 石仏群・五百羅漢  



さらに山腹の山道を下って行くと、山肌の崖に沢山の小さな石仏が刻まれているのが見えてきました。「阿羅漢」と表示されている。

下る道とは反対側に登って行く道があり、「五百羅漢遊歩道を経て高取城跡へ」とある。途中で見た遊歩道の出口がここなのです。五百羅漢と呼ばれる石仏群を鑑賞するなら、遊歩道を歩いたほうが良かったかもしれない。

「五百羅漢」とあるので、羅漢と呼ばれる石仏が五百体あるのかと思ったが、そうではないらしい。サンスクリット語の「アルハン(敵(煩悩)を倒す者)」の音訳が「阿羅漢(あらかん)」で、それを略称して「羅漢(らかん)」と呼ぶ。羅漢とは、釈迦の弟子の中でも修行を重ね、煩悩を断ちえた高位の弟子達に与えられた称号だそうです。中でも最高位の16人の弟子を「十六羅漢」と呼び、釈迦入滅後に教典編纂に集まった500名の弟子を「五百羅漢」と呼び、尊崇・敬愛されるようになったという。

五百羅漢遊歩道を少し登ってみました。次々と石仏群、磨崖仏がでてきます。写真右手前より「千像如来」、「来迎如来」、「三尊弥陀」とある。
このあたりは、高取山の一部で香高山と呼ばれ、かって壺阪寺の奥の院があったそうです。ここにある石仏群は、16世紀末頃、高取城を本格整備した本多氏が石工に命じて刻ませたと伝わっている。

次に見えるのが「十一面尊」と「護法大黒」。山肌の斜面にむき出た岩肌を利用して彫られている。石工たちにとって、城壁を築くより難しかったのではないでしょうか。数百年経ち、風雨にさらされ肌をそがれ、当初の原型とは大きく変わってしまっているのでしょう。しかし苔むした風化の色に染まり、角がとれ、煩悩に打ち勝とうとする羅漢さんの意思が伝わってきます。

遊歩道をもっと進めば、さらに石仏群が見られそうですが、ここで引き返す。

山道と遊歩道の合流した出口には、たくさんの可愛い小さな羅漢さんが合掌して見送ってくださいます。これは新しいので、近年造られたものらしい。

五百羅漢から少し下っていくと車道へ出ます。ここが山道の終点となっている。壷坂寺経由で高取城跡を目指すなら、右の車道か、左の山道かを選択できる。絶対に左の山道をお勧めします。案内標識には高取城跡まで、車道、ハイキング道のどちらも「約2.8KM」となっているが、七曲りの車道より、山腹を進む山道の方がはるかに距離は短いはずです。

ススキがなびき、色づいた秋の草木に見とれながら車道を下っていきます。平日だったので車には全く出会わない。眼下に大和盆地が見渡せる。遠くにかすんで見えるのは、葛城山、金剛山でしょうか。

右手に壷坂寺の伽藍が見えてきました。高取城跡を出て30分ほどでしょうか。
車道脇に壷坂寺へ降りていく「新参道」の案内がみえる。案内に従い坂道を降りてゆきます。

 壷坂寺(つぼさかでら、南法華寺)1:三重塔まで  



公式サイトに載っていた境内図。
1)大観音石像、2)大涅槃石像、3)大講堂、4)養護盲老人ホーム「慈母園」、5)大釈迦如来石像(壺阪大仏)、6)仁王門、7)多宝塔、8)灌頂堂、9)慈眼堂、10)礼堂、11)八角円堂、12)お里・沢市の像、13)三重塔、14)佛伝図レリーフ「釈迦一代記」、15)大石堂(納骨永代供養堂)、16)つぼさか茶屋、17)石段、18)お里観音・沢市霊魂碑

★★・・・壷坂寺(南法華寺)の歴史・・・★★
壷阪寺の創建について公式サイトは「大宝3年(703)年に元興寺の僧、弁基上人がこの山で修行していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した観音像を刻んでまつったのが始まりといわれる。境内からは当時の藤原宮の時期の瓦が多数出土している。その後、元正天皇に奏じて御祈願寺となった。」と記されています。「壺阪」の名もこれに由来しているそうです。
「平安時代、京都の清水寺が北法華寺と呼ばれるのに対し当寺は南法華寺と呼ばれ、長谷寺とともに古くから観音霊場として栄えた。承和14年(847年)には長谷寺とともに定額寺に列せられている。貴族達の参拝も盛んであり、清少納言の『枕草子』には「寺は壺坂、笠置、法輪・・・」と霊験の寺の筆頭に挙げられている。また、寛弘4年(1007年)左大臣藤原道長が吉野参詣の途次に当寺に宿泊している。往時は36堂60余坊もの堂舎があったが、嘉保3年(1096年)に火災にあい伽藍のほとんどが灰燼に帰した。その後、子島寺の真興上人が当寺の復興にあたり、これにより当寺は真言宗子島法流(壷坂法流)の一大道場となった。」(Wikipediaより)

その後も数度の火災や南北朝、戦国時代の戦乱に巻き込まれ衰退していった。慶長年間(1596年 - 1615年)、豊臣秀長の家臣で高取城主本多俊政が壷阪寺の伽藍再建に尽くし、江戸時代になると高取藩主となった植村氏の庇護を受け復興していった。本尊の十一面千手観世音菩薩は眼病に霊験がある観音様として庶民に親しまれてきた。明治の初めに、盲目の夫と妻の夫婦愛をテーマにした人形浄瑠璃『壺坂霊験記』が公演され人気となり、歌舞伎、講談、浪曲などにも取り上げられ、その舞台となった壷阪寺の名は世に大きく知られるようになる。

戦後になると社会福祉活動に力を入れ、昭和36年には日本最初の養護盲老人ホーム「慈母園」を設立。また昭和39年より、インドでハンセン病患者救済活動を行う。その返礼としてインド政府から古石を提供され、それを利用して造られた巨大な石像、石堂、レリーフが境内に居並ぶ。

バス停のある広場の奥が壷坂寺の入口。右側のお堂が弘法大師像を祀る大講堂。大講堂の手前で入山料を支払う。大人(18歳以上)が600円、小人(高校生以下)100円、幼児(5歳以下)は無料。開門時間 は8時30分から17時まで、年中無休。
壷阪山の中腹に位置し、標高は300m。正式な寺名は「壷坂山南法華寺(みなみほっけじ)」、通称「壷坂寺(つぼさかでら)」で親しまれている。真言宗系単立の寺院。本尊は十一面千手観世音菩薩。西国三十三所第6番札所で、ご詠歌は「岩をたて水をたたえて壺阪の 庭のいさごも浄土なるらん」

左側の三層の建物が日本で最初の養護盲老人ホーム「慈母園」。「壷阪寺は昔から眼の不自由な人々にとっての聖地として厚い信仰と、深い願いがこめられ、全国各地から訪れる人が絶えません。そして、この地に住みたいという老人たちの願いに応えるのが真の老人福祉であるという、故常盤勝憲長老の情熱と信念、多くの人々の善意が結実して、昭和36年(1961)日本で最初の「養護盲老人ホーム慈母園」が誕生しました。さらに「思いやりの心を広く深く」の呼びかけの下に、昭和45年より法人名を「壷阪寺聚徳会」と改名し、現在もさまざまな福祉事業を行っています。」(公式サイトより)

左右に阿形、吽形の金剛力士像を配置する、よく見かける仁王門。建暦2年(1212)建立の仁王門は別の場所にあったが、平成10年(1998)の台風で半壊する。平成15年(2003)壷阪寺開創1300年を記念して現在地に再建された。金剛力士像は像高3.3mの木造。黒々とした身体は、幾度も火災にあった歴史を感じさせてくれます。

仁王門からさらに階段を登ると左に多宝塔が、その奥に灌頂堂が建つ。多宝塔、灌頂堂は平成15年(2003)壷阪寺開創1300年時に建立されたもの。
写真の灌頂堂について、公式サイトには「「壷阪寺は子島流(小島)または壷坂流と称される真言宗の一流派の道場であった。その教を伝えるための灌頂堂は平安時代に建立されていたと推察される。その後、二度の大火に遭いながら、その度ごとに再建されていたと伝えられている。15世紀にまた大火の難に遭うが、その後再建の記録は見受けることはできない。平成15年に迎えた壷阪寺開創1300年を期に当山の重要な御堂の一つであった灌頂堂再建を発願した。御堂再建に際し、慶長年間、当山伽藍再興に尽力された高取城主本多因幡守が寄進した因幡堂(いなばどう)の部材の大部分を用い、老朽化した部材を新調すると共に、旧因幡堂の幅と奥行を拡げ、現在の正面五間、奥行四間の御堂として再建した」とあります。中央に十一面千手観音菩薩、むかって左に高取藩初代藩主で壷阪寺再興に尽力した本多俊政公像、右に本多俊政が仕えた大和大納言豊臣秀長像が祀られている。

階段を登った右側には、身丈10m、台座5mの大きな大釈迦如来石像(壺阪大仏)が立つ。インドでの奉仕活動の縁から始まった国際交流・石彫事業の一環として平成19年(2007)に製作された。その前には御前立として、十一面千手観音石像、文殊菩薩石像、普賢菩薩石像などが配されている。

さらに石段が続きます。数えたら56段ありました。山腹を利用してお寺が建つので、階段はやむを得ない。多くのお寺には階段が多く、年配の参拝者には一苦労をかける。そのため階段を避けるため、回り道になるが緩やかな坂道が設けられていることが多い。ここ壷阪寺にはそうしたスロープは見当たらないが、この石段には昇降機リフトが設けられていました。そのうちお寺にもエレベーター、エスカレーターが付けられる時代がくるかも・・・。

階段を登ると、右側に三重塔が基壇上に建つ。明応6年(1497)再建されたもので、本瓦葺、塔高23m、国の重要文化財に指定されている。平城遷都1300年記念(2010年春)で、初めて初層の扉が開かれ内部が公開されたという。「戦国大名越智氏によって建立されたと思われる。越智氏はその後、壷阪寺に立て籠もるが、武運なく吉野に落ちのびた。その時、寺は火に包まれ、殆どの御堂は焼失したが、この塔だけは兵火を免れた。以来、火難除けの搭、塔内にある大日如来も火難除けの仏として、信仰されている」(傍らの説明版より)

三重塔前に、違和感を抱かせる大メガネが置かれ、「合掌してめがねの中をくぐってください」と書かれています。壷阪寺は眼病封じのお寺でもあるのです。このメガネは、後方に見える巨大な大観音石像の顔の大きさを想定して造られているそうです。それにしても違和感が・・・。

 礼堂・八角円堂  



階段を登った左側が礼堂と八角円堂。礼堂(らいどう、国重要文化財)とその奥の八角円堂は棟続きになっており、八角円堂(本堂)に祀られている本尊・十一面千手観世音菩薩を礼堂をとおして礼拝するようになっている。礼堂は、創建当初から建てられていたが、何度も焼失、再建をを繰り返し、室町時代に現在の形で再建された。ただし江戸時代に、模様替えなど大改築がされ、規模も縮小されていた。昭和の解体修理時に行われた地下発掘調査並びに残存していた部材から、室町時代の礼堂の姿が判明し、御堂の大きさ等を室町の礼堂に復元して、建てられた。
本堂となる八角円堂もお寺の創建当初から本尊を祀るお堂として建てられていたが、現在のものは江戸時代の再建と言われる。

礼堂から見た八角円堂の本尊・十一面千手観世音菩薩坐像。以前からあった菩薩像に代わって、室町時代に樫材の寄せ木造りで造られた。蓮華座に座り、像高2.4m。福々しく派手やかな菩薩像で、目力が感じられる。それもそのはず、古くから眼病に霊験あらたかな「眼の仏さん」として、上は天皇から庶民にいたるまで広く信仰を集めてきた。左手に丸い玉をかかげた手が見えます。これが目摩尼手で、眼を救う手だそうです。
この仏さんは常時開帳されているので、眼にお悩みのある方は壷阪寺へ・・・。

堂内へは履物を脱いで上がる。礼堂正面で御本尊様を礼拝した後、礼堂から八角円堂へと堂内を一周する。そこには壷阪寺にまつわる数々の遺品が展示されています。中でも目を引いたのが、盲目の沢市が使っていたという杖。芝居のはずだが実物があるとは・・・。「さわると、夫婦仲が円満になる」とあります。触る人が多いのか、艶やかな木肌だった。

 壷阪寺 3:お里沢市「壺坂観音霊験記」 



お堂を出ると広場となり、その左奥が深々とした森となっている。その間が、お里、沢市が身を投げた「投身の谷」といわれ、お里・沢市の像が置かれている。谷を覗いてみたが、芝居からイメージする深い谷底とはかなりかけ離れていました。

お里沢市の物語、即ち「壺坂観音霊験記(つぼさかかんのんれいげんき)」は明治時代初期に創作された人形浄瑠璃の演目です。おおまかなあら筋を壺坂寺の公式サイトより紹介すると
「今より三百年以上昔、座頭の沢市は三つ違いの女房お里と貧しいながらも仲睦まじく暮らしていた。沢市は盲目ゆえ琴三味線を教え、お里は内職というなんともつつましい暮らしであった。そんな沢市の胸中に一つ不安が生まれていた。というのも明けの七つ(午前四時)になると、お里が毎晩床を抜け出していたからだ。「もしや好きな男が…」と問いただすと、お里は沢市の目の病が治るよう、この三年もの間欠かさず壷阪寺の観音様に朝詣でをしていると訴える。疑った自分を恥じる沢市はともに観音様にお参りすることにしたが、心の中は盲目がゆえに不遇な暮らしをしているのだと自分を責める。そして、一度お里を家に帰して、お里を自由な身にしてやろうと自分の身を投げてしまうのであった。不吉な予感であわてて戻るお里は、非常な現実に遭遇し、自らも身を投げてしまう。」
岩陰に一条の光がさし、観音様が現れしばらくして消えてゆく。やがて夜が明け、谷底で倒れていた沢市とお里は起き上がり、見つめあう。なんと沢市の目が開いているではないか。
「ムゝ、そしてアノ、お前はマアどなたぢやへ」「どなたとはなんぞいの。コレ私はお前の女房ぢやはいな」
「エゝ、アノお前がわしの女房かへ。コレハシタリ初めてお目にかかります。」と、客席を笑わせて幕は閉まる。

千手観音菩薩の霊験により奇跡が起こり、ハッピーエンドとなったこのお芝居は大変な人気となり、その後、歌舞伎や講談、浪曲などでも上演された。昭和初期には、浪花節の名調子”妻は夫を労わりつ、夫は妻を慕いつつ……”は一世を風靡した。演歌の中村美津子さんは「濡らすこの世のしぐれ道 涙ふきあう お里・沢市 夫婦づれ」(1996年「壷坂情話」)と歌います。現在でも、人形浄瑠璃文楽や歌舞伎で上演が続いている。

広場からさらに奥へ行くと、お里観音堂と沢市霊魂碑が建てられています。

明治時代初期に創作されたという「壺坂観音霊験記」ですが、麓の土佐町にある信楽寺にはお里・沢市の墓があります。信楽寺の説明版によると、9世紀初めの弘仁年中、盲目の沙弥が壺阪観音の信仰で開眼治癒したという説話(「日本感霊録」)があり、古くから壺阪寺の十一面千手観音は民間の信仰を集めていたことがわかる。
1875年ごろ、大和国高取郷土佐町に住む沢市という盲人と妻里の夫婦愛をテーマにた原作者未詳の浄瑠璃『観音霊場記』が書かれた。それを二世豊沢団平・加古千賀夫妻が加筆・作曲し、1879年に大阪大江橋席にて初演され、大人気をはくしたようです。結局のところ、お里・沢市の実在性はイマイチよく分からない。

手前の石仏は「めがね供養観音」。インドで制作され、日本で組み立てられた高さ3mの石像。台座に古いめがねやコンタクトレンズが奉納供養されます。右手に持った蓮が、紅葉にあわせて色付いていました。

 壷阪寺 4:天竺渡来石造物 



三重塔の奥に、白壁のように見えるのが天竺渡来佛伝図レリーフ「釈迦一代記」。
公式サイトに「このレリーフは、南インド、カルナタカ州カルカラにおいて、延べ5万7,000人の石彫師の手によって、インドの石に彫刻され製作されたものである。原図は、奈良教育大学教授小川清彦氏がインドを旅し、釈尊の道を訪ねて構図をまとめたもので、数百に及ぶ佛伝図の中から、比較的誰でも知っている釈尊の道が描かれている。」とある。
このレリーフは、高さ3m、全長50m、重さ300tで、向かって左から右へ釈迦の誕生から入滅までが10面に分けて彫刻されている。輸送の都合上、インドで各場面を数個に分断し彫刻し、日本に運んで組み立て、昭和62年(1987)に設置された。

これはラストの10面で、釈迦の涅槃の図。傍の説明版を要約します。布教の旅の途中、体調を崩した仏陀はクシナガラの郊外の森に入った。沙羅の木の間に枕を北にして床をひき、右脇を下にして横たわった。その夜、仏陀は涅槃に入り、80歳の生涯を閉じた。周囲には仏弟子や町の人々が嘆き悲しんでいる。牛や猿や鳥たちも仏陀の死を惜しんでいるように見える。



境内東がわに、日本のお寺とは想像もできない石造り建物があります。インドの有名なエローラ・アジャンタ石窟寺院をモデルとし、7年の歳月を費やし、三千個の花崗岩を使ってインドで彫刻し、日本に運んで組み立てられたという。平成4年(1992)に落慶した大石堂(納骨永代供養堂)です。



大石堂の内部も全て石造り。写真右が高さ6mの「大仏舎利塔」。「仏舎利」とは釈迦の遺骨のことだが、この搭には仏舎利の代わりに、佛跡涅槃の地クシナガラの砂が納められているそうです。
左が高さ5mの十一面千手観音石像。インドの石を使い、インドの石彫技師によって彫られたという。また最奥部に納骨室が設けられているそうです。

車道の下に設けられたトンネルを潜り、丘の上に出る。丘の上の階段の上に巨大な石像が突っ立っています。インドで分割製作され、日本で組み立てられた高さ20mの大観音石像です。石像の前には大観音さまの御手も置かれている。「日本の方々にも観音さまの温かい御手に触れて頂こうというインドの方々の浄心から、ここに奉納されかした」と説明されている。


大観音石像の立つ高台からの眺め。橿原、葛城の家々の向こうに二上山、葛城山の山並みが見えます。

大観音さまが見下ろす広場の端には、横たわる釈迦の姿があります。すべての教えを説き終えて入滅せんとする釈迦の姿を顕した大涅槃石像です。全長8m。大観音石像同様に、インドで制作され日本で組み立てられ、平成11年(1999)に安置された。

午后三時過ぎのバスで近鉄吉野線の壺阪山駅へ。大阪へ帰ります。
壺阪寺で印象的だったのは、お里・沢市の物語と巨大な石造物。全く相容れないイメージの両者だが、難病救済という点ではつながっている。境内の各所で見られる石造物は、壺阪寺がインドにおけるハンセン病の人々の救済活動を行った縁から造られたものです。境内を徘徊し、仏像を拝観、庭園を鑑賞する通常のお寺見学とは一味違った印象をもった壺阪寺でした。



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高取城址・壷坂寺へ 1

2022年03月23日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2021年12月2日(木曜日)
紅葉シーズンの終わりごろ、奈良盆地南方に位置する高取城址と壷坂寺を訪ねることにした。壷坂寺は、以前文楽でお里・沢市で知られる「壺坂観音霊験記」を観劇し印象に残っていたので、一度訪れてみたいとかねがね思っていた。近くには、紅葉の美しい高取城址があり、地元は「日本一の山城」と謳っている。
高取城址・壷坂寺へは二つの道があります。一つは、土佐街道と呼ばれる町並みを通り高取山へ登り、山頂にある高取城址から壷坂寺へ下るコース。高倉山は標高580mほどだといえ、かなり距離があり山登りに違いない。もう一つの方法は、近鉄吉野線の壺阪山駅から定期バスを使い壷坂寺へ行く。そこから少し登って高取城址へ。あとは山を下るだけ。後者の方が体力的に楽で、時間も節約できます。しかし乗り物を使うのは本意でないし、せっかく高取城址へ行くのならその登城道を歩いてみたいという思いから、前者の山登りをすることに決めました。

 高取町土佐街道  



桜の名所・吉野山へ至る近鉄吉野線の壺阪山駅に8時前に到着、この駅が高取城址・壷坂寺、そしてキトラ古墳への起点となる。この駅から壺阪寺へは、本数は少ないが定期バスが往復しています。しかしバスを使わず、歩いて高取城址へ登り、そこから壷坂寺へまわります。
駅前に高取町観光協会(0744-52-1150)による観光案内図が設置されている。夢創館:0.8km、壺阪寺:3.9km、高取城跡:5.1kmとあります。

駅前から真っすぐ50mほど進むと石畳の美しい土佐街道に出る。高取城跡へは右に折れるのだが、左の道に入り、子嶋寺(こじまでら)へ寄ってみます。この寺の創建は奈良時代の752年で、壺阪寺に次ぐ古刹。室町時代に衰退したが、江戸時代に入り高取藩主の庇護を受け今日に至る。子嶋曼荼羅で有名な「紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図」2幅があり、日本三大曼荼羅の一つ。平安初期のもので国宝に指定されています。堂内にはレプリカが置かれ、要予約で見ることができるという。実物は奈良国立博物館に展示されている。頑丈そうな山門は高取城の旧二の門を移設したもので、現存する数少ない高取城の遺構建造物のひとつです。

石畳の道が、南の高取山の方向へ向かって約2キロ近く一直線にのびている。両側には古い町家が並び、江戸時代の雰囲気を残しています。
江戸初期の寛永17年(1640)、徳川家譜代の家臣であった植村家政が高取藩藩主として高取城に入った。しかし高低差四百m以上もある山上の高取城で生活するのは不便なので、江戸時代後半には藩主をはじめ家臣達は平時には麓に屋敷を構え住んだ。油屋、鋳物屋、呉服屋などの商家もでき、次第に城下町が形成されていったのです。
この石畳の通りは「土佐街道」と呼ばれている。なぜ”土佐”なのでしょうか?。飛鳥時代に都造営のために動員された土佐(現在の高知県)の人々が、そのままこの地に住み着いたことからきているようです。現在も「上土佐」「下土佐」の地名が残っている(高取町観光案内所「夢創舘」の住所は「高取町上土佐20-2」)。なおこの石畳は、阪神大震災の復旧工事で出てきた阪神国道の路面電車の石畳を利用したものだそうです。

古い町家には連子格子(出格子)や二階部分の虫籠窓(むしこまど)が見られる。江戸時代の民家は二階部分に住むことを禁じられていたので、二階のようにに見えるが、「つし2階」と呼ばれた屋根裏程度の低い造りになっており物置などに使われていた。虫籠窓は採光と風通しのためのものです。
町家と町家の間の隙間には間者等が潜めないよう板張りがみられ、「駒止め」と呼ばれる金具も残っており、城下町の様子が見られます。



かっての高取城藩主下屋敷の表門を移築したもの。「石川醫院」の表札がかかり、現在も医院の入口として使われています。

右手に紅色に塗られた町家が見えてくる。これが大正時代の呉服屋であった旧山崎家を改修した高取町観光案内所「夢創舘」です。高取町の特産品の展示販売をしており、高取城址郭図やパンフ、ハイキングマップなども手に入る。

開館時間:9:30-16:30、tel:<0744-52-1150>、毎週月曜は休館
早朝だったのでまだ開いておらず、中には入れませんでした。

夢創館から少し進むと四つ辻となる。石柱には「「右つぼさか・・・」と書かれているという(判読できないが・・・)。土佐街道から壺阪道への分岐点で、右へ進むと壺阪寺へ通じている。江戸時代には高札が建てられ道行く人々に「お触書」等を掲示した所であったので「札之辻」と呼ばれています。

左角は児童公園で、その入り口の黒ずんだ門は、高取城の「松の門」の遺構です。屋根は無く、桁と柱だけが据えられている。明治4年の廃藩置県で高取城は廃城となり取り壊された。明治25年(1892)、松の門は土佐小学校の校門として移築されたが、昭和19年(1944)の学校火災で一部損傷し保存されていた。それを平成16年(2004)に街並み環境整備事業の一環で児童公園の表門として復原したものです。

札之辻を右に折れ、200mほど行くと「信楽寺」という小さなお寺があります。人形浄瑠璃文楽、歌舞伎や講談、浪曲でよく知られた「壺坂観音霊験記」。その主人公のお里・沢市の墓がここ信楽寺にあるという。「壺坂観音霊験記」は明治時代初期に創作された演目とされるが、墓があるということはモデルとなった人物が実在していたということでしょうね。
お墓の傍に建つ説明版には「「日本感霊録」に9世紀初めの弘仁年中、盲目の沙弥が壺阪観音の信仰で開眼治癒したという話があり(『壺坂寺古老伝』に記されている。)すでにこの頃から本尊の十一面千手観音は民間の信仰を集めていたことがわかる。これは後世のいわゆる盲人開眼『壺坂霊験記』の原形になったものである。 この『お里沢市』の物語は今より300年以上も昔(寛文年間)壷阪寺のふもと、大和国高取郷土佐町に住む沢市という盲人と妻里の夫婦愛をテーマにした『観音霊場記』に二世豊沢団平と妻の千賀女が加筆したものであり、浄瑠璃・歌舞伎に浪曲にとこの夫婦愛物語は日本国中さらに海外にまで知れ渡っている。」と書かれている。

札之辻に戻り南に行くと左手に武家屋敷「田塩家長屋門」が見えます。格子が横向きの「与力窓」を2つ付けた「長屋門」がそのまま残されている。
現在も住居として使われているそうです。

田塩家長屋門から少し登れば、石垣と白壁になまこ壁が印象的な武家屋敷風の建物がある。これは当時の筆頭家老の屋敷だったが、現在では旧藩主だった植村家が実際にお住まいになられており、「植村家長屋門」(県重要文化財指定)と呼ばれています。文政9年(1826)建立で、門の東西には各四室の部屋があり、藩に仕える中間たちが住んでいた。


植村家長屋門を過ぎたあたりから家屋も減り、山へ入っていく雰囲気になる。散策マップには、この辺りから高取城址まで歩いて約1時間30分となっています。

道を進むと左下に「砂防公園」が見えてくる。高取山へのハイキングコースの休憩所。四季折々の草花を楽しめ、トイレもあります。「八幡口」とは高取城内の一角。

砂防公園から30分ほど登ると、車の通れる舗装路は右に曲がり宗泉寺で終わる。高取城址まで約1.6kmとあり、正面の細い山道へ入ってゆく。ここからが本格的な山登りとなるようだ。
車道を右に曲がって100mほど行くと宗泉寺がある。高取藩主・植村家の菩提寺で、植村家政の邸宅跡に元禄11年(1698)に創建された天台宗延暦寺の末寺。寺の入り口には「宗泉寺」の石柱と並んで「植村家」の石柱が建っている。ここまでの車道は、この寺のために造られたようなもの。さすが14代にわたり高取藩主を務めた家柄だけあります。

 高取城址 1(七曲り~国見櫓)  



宗泉寺からは車道ではなく、普通の山道となる。ここからが高取城への登城道で、古くは「大手道」と呼ばれていた。緩やかな坂道が続き、現在では高取山へのハイキングコースとなっている。

やがて少し勾配が強まり、石ころが散らかる荒れた道になってくる。歩きやすいように階段状に丸太が設けられています。左右に何度も曲がりくねって登って行くので、この辺りは「七曲り」と呼ばれている。往時は今より道幅は広く、馬や籠が行き交っていたそうです。

次に「一升坂」と呼ばれる急坂となる。築城の時に、資材を運びあげる人夫に米一升を割り増ししたという坂です。城まで800mとある。
お殿様もここを登ったのだ。といっても平時は山裾の下屋敷に住み、緊急時や正月などの行事があるときだけ山上の城まで登った。もちろん籠に乗って。籠担ぎ人には五升・・・。

一升坂を越えると、左道への分岐点に「猿石」(高取町指定文化財)が置かれている。明日香村でよく見かける謎の石造物の一種だ。傍の説明版には「飛鳥の猿石と同様に現在の明日香村平田から掘り出され高取城築城の際に石垣材として運ぶ途中にこの場所に置かれたようである。飛鳥時代の製作と考えられている。猿石がのせられている台石は古墳の石材の可能性がある」と書かれている。石垣に利用しようと運びあげたが、あまりに可愛くしのびないのでこの分かれ道に目印?護り地蔵?として置かれたのでしょう。
「←明日香村栢森2.0km」の標識が建ち、栢森(かやのもり)を経て石舞台古墳近辺へ出れるようです。

猿石辺りから崩れかけそうな石垣の一部が散見され、お城の雰囲気が感じられるようになってきた。この石垣は「二の門跡」とあり、三つある城内への入口の一つ。二の門から内が「城内」となり、三の丸、二の丸、本丸へとつづく。ここから本丸まで872m、高低差110m。
左脇には山城では珍しい石垣造りの水堀が、今でも水を湛えて現存している。山上だけに飲料水の確保は重要で、雨水を貯えたもの。この水堀は大阪湾に注ぐ大和川の支流・高取川の源流だそうです。現在10時過ぎ、壺阪山駅から2時間かかったことになる。



やがて右へ入る道が見え、「国見櫓→」の標識が立つ。120mほど入ると展望台があるようです。





細道を進むと杉林の奥から明かりがさし、前方が開けてきた。今は展望台となっているが、かっては城郭の一つ国見櫓が建っていた。ハイカーが数人いるようです。


まさに大和の国が一望に「国見」できる場所です。大和三山、金剛山・葛城山・二上山はもちろん気象条件が良ければ大阪市内、六甲山、比叡山まで望むことができるという。高取城址で一番の絶景スポットです。

 高取城址 2(矢場門跡~大手門)  



高取城の城郭図。高取山(標高583.6m)の山上に築かれた山城。麓の城下町(土佐街道の札の辻)からの比高は446mあり、近世城郭では日本一の高低差を誇る。城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲約30キロメートルに及び、日本国内では最大規模の山城。山上の城内には、三層の天守、小天守が建ち、27の櫓(内、多門櫓5)、33の門、土塀2,900m、石垣3,600m、橋梁9、堀切5ヶ所が存在していた。別称:「芙蓉城」
敵にとっては攻めるのに非常に厳しい城で、高取城は戦いで一度も敗れたことがなく、まさに「難攻不落」の山城でした。

奈良産業大学(現奈良学園大学)によるありし日の高取城を再現したCG。標高が高い場所に築城されているわりには、天守、櫓、門など、平山城と同じような構えをもっている。白漆喰塗りの建物が建ち並び、城下町より望む姿は「巽高取雪かと見れば、雪でござらぬ土佐の城」と詠れたという。
現在は写真に見られるような建造物は一つも残っていないが、巨大な石垣や石塁が残っており、感動を与えてくれます。

高取城は日本三大山城の一つ。他の一つは「美濃岩村城」。岐阜県恵那市岩村町にあり、標高721mの最も高い所に建つ山城です。もう一つは「備中松山城」。岡山県高梁市内山下にあり、別名は「高梁城」。臥牛山(標高478m)上に天守、二重櫓、土塀の一部が現存しており、現存する城の中では最も高い所に城郭が残る山城です。

ここは矢場門跡。

■~高取城の歴史(1):築城(越智氏の時代)~■
南北朝時代、高取の地は京や大和から吉野へ通じる交通の要衝として重要な位置にあった。元弘2年(1332)、南朝方に属した地元の豪族、越智邦澄が高取山に城を築いた。本拠地は貝吹山城だったので詰の城(支城)として築城したのです。城というより、砦といったほうが相応しい。「当時の構造は、高石垣や天守はなく、山の地形をならして曲輪(城内の一区画)を築き、それを幾段にも連ねて逆茂木や、にわか造りの板塀で防御する、いわゆるカキアゲ城(堀を掘った土で土塁を固めた城)でした」(観光パンフより)
越智氏の支配が長く続き、自然的要害の条件を備えているところから16世紀前半頃には城としての整備が少しづつ行われていった。天文元年(1532)には一向一揆勢(証如軍)に包囲され激戦となったが撃退している。

天正8年(1580)織田信長は、大和国内には郡山城だけ残し他の城は全て破却するよう命じ、高取城は一旦は廃城となった。
天正11年(1583)、筒井順慶の配下となっていた越智頼秀が殺害され越智氏は滅ぶ。郡山城を本拠とする筒井順慶は、万が一の場合に籠城する詰の城として高取城の復興に着手するが、天正13年(1585)伊賀国上野に転封になってしまう。

松の門跡。土佐街道の児童公園入口に、屋根の無い状態で移されています。

■~高取城の歴史(2):本多氏の時代~■
天正13年(1585)、大和・和泉・紀伊3ヶ国の太守となった豊臣秀吉の弟・豊臣秀長が筒井氏に代わって大和郡山城に入城した。秀長は郡山城とともに山城の高取城を重視し、家臣の本多利久に命じ大規模な改修を行わせた。本丸には多聞櫓で連結された三重の大小天守が、二の丸には大名屋敷が造営され、城内には多くの門や櫓が建ち並んだ。こうして本多氏の時に平城(ひらじろ、平地に築いた城)の築城技術を取り入れ整備し、近世的城郭としての山城に生まれ変わった。利久の子俊政は豊臣秀吉の直臣となり1万5千石が与えられ高取城主となる。
秀吉没後の混乱期にはいると、俊政は徳川家康についた。慶長5年(1600)、徳川家康の会津上杉景勝討伐に俊政が従軍して不在中、高取城は石田三成の兵に攻められるが要害堅固な山城のため守りきり敗退させている。関ヶ原の戦い(1600年)で東軍に加わった俊政は、その功が認められ1万石の加増を受け高取藩2万5千石の初代藩主となった。元和元年(1615)には一国一城令がだされたが、高取城は重要な山城として破却を免れている。しかし俊政の子の政武が嫡子が無いまま寛永14年(1637)に没し、ここに本多氏は三代で断絶することになった。

宇陀門跡。

■~高取城の歴史(3):江戸時代(植村氏の時代)~■
本多氏が絶えた後、徳川家譜代の家臣だった植村家政が寛永17年(1640)に2万5千石の大名に取り立てられ高取藩主として入城する。植村氏は三河時代から松平家(徳川家)に仕えた古参譜代で、家康より「家」の一字を与えられ、以後子孫代々「家」を名乗っている。植村家政は、家光の時、三河(愛知県)からやって来たのだ。「当然、家来などもすくなかったため、大和へ入部する途中、志願してきた牢人者などをも、顔を見ただけで召しかかえ、また東海道新居の船のなかで乗りあわせたという牢人者を、ひとかどの兵法者だと思って召しかかえたりしている。2万5千石の身代相当の人数を掻きあつめるのは、よほどあわただしいものだったらしい。土佐の町というちっぱけな城下村は、そのようなひとびとによって作られた。」(司馬遼太郎「街道をゆく<大和・壺阪みち>」より)

以後、明治維新時の最後の城主植村家壷まで14代にわたって高取藩植村氏の城として続いた。その間200年以上、大きな焼失や災害にあうことなく城郭が維持されてきた。避雷針の無い時代、多くの寺などが落雷で焼失しているが、山上にありながらそれを避けれたというのは奇跡に近いのではないだろうか。しかし時の経過や風雨による傷みや崩れなどはあったであろうが、そのつど修繕されてきた。江戸時代は城普請、即ち城に手を加えるには幕府に報告し許可が必要であった。しかし高取城の場合、三代将軍家光より「一々言上に及ばず」という「常普請」の許しをもらっており、届け出をしなくても勝手に行ってよいとされた。植村氏は松平時代からの古参譜代であり、また山上にあることから年々破損も多いと思われることからの特別な待遇だと思われる。また司馬遼太郎は「街道をゆく<大和・壺阪みち>」のなかで、次のように推測している。徳川幕府の仮想敵は、家康の代から薩摩の島津氏と防長の毛利氏だった。島津氏が京都に入って近畿をおさえ、天皇を擁して幕府と対決したとき、「大和の幕軍は平城の郡山城をすててこの高取城にこもり、他の方面の幕軍の巻きかえしを待つという戦略があったのではないか」と。
山上の城郭は維持されてきたが、そこに住んでいたのではない。当初は山上で生活していたようですが「江戸期も安泰期に入ると、山上の不便さに堪えられなくなり、藩主もふもとに降りてきて下屋敷に住むようになった。重臣たちも同様ふもとへ降りたが、中級以下の家臣の多くはなお山上の城に残って、城廓をまもった」(司馬遼太郎「街道をゆく<大和・壺阪みち>」より)

千早門跡。千早門の先は「三の丸」で、多くの侍屋敷が建っていたという。

■~高取城の歴史(4):近代~■
幕末の文久3年(1863)に尊皇攘夷派の天誅組約千人の襲撃を受けたが、二百名たらずの守備隊で守り切りきっている。
明治元年(1868)植村家壺が十四代藩主になるが、明治2年(1869)版籍奉還により高取城は明治政府兵部省の所管となり、家壺は高取藩知事となる。そして明治4年(1871)廃藩置県で高取藩は廃止され高取県となった。
城の必要性は無くなったので全国の多くの城郭が廃されることになった。高取城も廃城とされ、明治6年(1873)に入札が行われ一部の建造物は近隣の寺院などに払い下げが行われた。二の門は子嶋寺の山門に、新御殿(藩主下屋敷)の表門は石川医院の表門に、松ノ門は児童公園の表門に、確認されている高取城の現存構造物はこれだけです。売却されなかった天守以下の建造物の全ては明治中頃までに取り壊され解体された。現在、高取城内には建造物はなく、壮大な石垣が残っているだけです。
・昭和28年(1953)国史跡に指定される。
・平成18年(2006)「日本100名城」に認定

城郭は明治20年頃まで残っており、取り壊し直前に撮影された数枚の写真が現存している。往時の高取城の建物の姿を伝えるもので、これはその内の一枚。「明治20年頃の御城門(大手門)から太鼓御櫓を仰ぐアングル。この写真の最も奥に太鼓御櫓が写っており、重箱造で天守と同じ白漆喰総塗籠、方形の格子窓2つ、上部の入母屋破風が確認できる。この写真には一部「十五間多門」も写りこんでいる。」(Wikipediaの説明)

千早門跡をすぎると大きな城壁が現れる。ここに御城門(大手門)が建っていた。外部から高取城へ入るには二の門口、壺阪口門、吉野口門の三コースがあるが、必ずこの大手門に合流する。大手門こそ二の丸、本丸のある城の中核場所へ通じる唯一の入口です。頑丈な門だったと想像されます。

高い石垣の手前の道を右へ入ると壺阪寺への道です。

御城門(大手門)を入っていく。二の丸、本丸への唯一の入口なので、敵の侵入を阻むため曲がりくねり要害の構えをしている。内側には平櫓の「竹櫓」が置かれていた。「竹櫓」には防御用の竹が保管されていたという。城へ登る山道の要所要所にびっしり竹の皮を敷き詰め、攻めてきた敵の足を滑らせるという作戦だったようです。なんか祇園祭を想起してしまった。

御城門(大手門)から入るとすぐ次の門、十三間多門の跡があります。ここが二の丸の入口となるので厳重になっている。

 高取城址 3(二の丸~本丸)  



二の丸跡の広場が見えてきた。東西に約65メートル×南北は約60メートルあり、高取城址で一番広い場所です。二の丸には御書院、大広間、湯殿などからなる「二の丸御殿」があった。
広場の中央に休憩所も設置されている。一時小雨が降ってきたので雨除けに役立ちました。建物がまったく無いので雨になったら大変です。考えもしなかったが雨具は必須です。

広場の片側には台形の巨大な石垣が突き立っている。この上に、左端に「太鼓櫓」、右端に「新櫓」が建っていた。ともに二重二階の建物で、その間を土塀でつないでいた。この奥にある本丸を防御する最後の砦なのか、高くて堅牢そうです。この石垣は昭和49年(1974)に修復を受けている。


太鼓櫓が建っていた石垣の角を曲がると入口が見え、「十五間多門跡」とあります。
高取城の特徴として、櫓の数棟が多く、独特の名称が付けられている。三重櫓は天守・小天守を含めると6棟、二重櫓が7棟、また、鐙櫓、具足櫓、十方矢倉、火之見櫓、客人櫓、小姓櫓など独特の櫓名がある。

十五間多門跡を通ると太鼓櫓・新櫓の背後が見える。中央に石の階段があるので、石垣の上に櫓が建っていたのでしょう。まるで砦のように見えます。

太鼓櫓・新櫓の反対側に高い石垣がそびえる。この上に白亜の天守閣が建っていた。

苔で覆われ青さびた石垣は高さ約12mあり、高取城で最も高い石垣。よく見かける城の石垣は、少し反りが見られます。ところが高取城の石垣には反りがなく、ピラミッドのように直線をしている。算木積みで反りのない工法を用いた古いタイプの山城の特徴とか。
この石垣の上、左端に天守台が、右端に小天守台が築かれていた。

すぐ横は深い谷です。本丸の周辺も、山の急斜面を利用して垂直に近い石の壁が築かれています。今まで攻められ落城したということが一度もない難攻不落の城、というのもうなずける。

横へ廻ると本丸への入口が見える。緩やかな坂となっており、曲がりくねっている。案内は無いが、ここにも門があったのでしょうか。本丸への最後の関門です。
パンフには「本丸虎口」とある。「虎口(こぐち)」とは城の出入口を呼ぶが、ここ本丸の虎口は「桝形虎口(ますがたこぐち)」という最も堅固な形式だそうです。山頂のここまで敵が侵入することなどないと思うのだが・・・。

本丸に入る。ここも広場になっており、この時期、紅葉の落ち葉に覆われ美しい。
写真で、入口のある右側が北で、上が西側になる。西側右隅に三重三階の天守閣が、左隅に少し小さい三重三階の小天守が建っていた。山城で小天守まであるのは珍しいという。

天守閣へ入る通路。高取城には古墳石室の石材や仏石などの転用石が多く使われているという。写真の左側の石垣の、最上段と下から二番目の横長石は石棺からの転用石らしい。
大和郡山城の石垣にも寺院から集めた礎石,墓石や石仏(地蔵),仏塔などが使われていた。当時大和は石材に乏しかったために、石垣に利用できる石類は何でも利用したらしい。平地と違い、こんな山上まで石材を運びあげるのは大変だったことと思う。


天守閣の建っていた場所。天守の大きさは東西に約16メートル、南北に約14メートルの規模。


天守閣のある西側からの東方向を眺める。血染めのような紅葉の絨毯となっています。
本丸は、西側に大小二棟の天主台、反対の東側に煙硝櫓が、中央南側には鉛櫓が建ち、それぞれ多聞櫓(塁上に設けられた細長い単層の櫓)と塀によって連結された連立式天守の形態をといっていたという。

本丸から周辺を眺める。

どの方面でしょうか?。司馬遼太郎の表現を借りれば「見わたすかぎりの山々は、杉葉の濃い緑が鬱然としていて、いかにも自然が贅沢にあるという感じである」。この眺めは、今も昔も変わらないはず。

本丸の石垣、一段と高くなった石垣の上に三層の天守台が建っていた。
私の青春時代のはやり歌「古城」を口ずさむ。

松風さわぐ  丘の上
古城よ独り 何偲(しの)ぶ
栄華の夢を 胸に追い
ああ 仰げば侘(わ)びし 天守閣

次は壷坂寺をめざします。



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聖護院から真如堂へ 3(真如堂)

2022年01月08日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2021年11月24日(水曜日)
紅葉の美しい真如堂へ、時間があるので近くの天皇陵、吉田神社へも足を向けました。

 真如堂 1(総門から三重塔へ)  



■★~ 真如堂(しんにょどう)の歴史 ~★■
永観2年(984)、比叡山延暦寺の僧・戒算(かいさん)が夢告によって、延暦寺の常行堂に安置されていた慈覚大師・円仁作の阿弥陀如来像を、現在地近くにあった東三条院藤原詮子(円融天皇の女御で一条天皇の生母、藤原道長の姉)の離宮に遷座し安置したのが始まりとされる。
正暦3年(992年)一条天皇の勅許を得て離宮は寺に改めら、本堂(真如堂)が創建された。

「その後、一条天皇の勅願寺となり、また不断念仏の道場として浄土宗の開祖法然上人や浄土真宗の開祖親鸞聖人をはじめとする多くの念仏行者や民衆の篤い信仰を集め、特に女人の深い帰依を受けてきました。全国の浄土系のお寺で行われる「お十夜」法要の発祥の地であり、また慈覚大師が唐より招来した「引声念仏」を伝承する、四季折々に美しい念仏の寺です。
しかしながら、応仁の乱(1467 - 1477)の戦禍に遭い、ご本尊は比叡山の黒谷、滋賀県穴太に遷座。その後、足利義政公の妻、日野富子の帰依を受けて旧地に複座するも、足利義輝公の菩提を弔うために室町勘解由小路に移転。さらに一条西洞院に移転した後、豊臣秀吉公聚楽第建設に伴って寺町今出川に移転(1578年)。元禄6年(1693)の東山天皇の勅により、ようやく現在の地に戻って再建されました。」(拝観受付で頂いたパンフより)
焼失、再建を繰り返した本堂だが、享保2年(1717年)に現在の本堂が完成する。

真如堂境内は西向きに配置されているので、入口にあたる総門は一番西側に位置している。紅葉時期なのでそれほど目立たないが、丹色に塗られ「赤門」とも呼ばれています。元禄8年(1695)建立で、京都府指定文化財。

正式名は「鈴聲山真正極楽寺(れいしょうざんしんしょうごくらくじ)」。この場所が、古くから神楽岡と呼ばれ、「仏法有縁真正極楽の霊地」とされていたことから由来するようです。「真如堂」とは元々は本堂の呼び名だったが、寺全体の呼び名として親しまれてきた。所在地は「京都市左京区浄土寺真如町82」だが、比叡山延暦寺を本山とする天台宗の寺院です。
この総門は「真如堂西側の神楽岡(吉田神社)の神々が夜にお参りに来る際につまずかないように敷居がないとされています」(公式サイトより)

総門(赤門)から本堂へ真っすぐのびる広い石畳の参道は、その先に紅葉に覆われた緩やかな石段へと続く。この鮮やかな石段は紅葉の名所・真如堂の最初の紅葉スポットです。参道の左右には多くの塔頭寺院が並んでいます。

石段を登り切って振り返った参道。聖護院、金戒光明寺と比べ、紅葉で名高い真如堂だけあって人出は多い。

石段をあがった右側に三重塔がそびえる。宝暦年間(1751~1764)に建立された後、現在の三重塔は江戸時代後期文化14年(1817)に再建されたもの。本瓦葺で高さ約30メートル。第一層に多宝塔が祀られている。

この三重塔周りも紅葉スポットで、多くの人がカメラを向けている。
「春は新緑に包まれ、夏には青空が映える。秋、紅く染まったもみじ葉の間から見る姿も美しい。冬のうっすら雪を被った姿は枯淡の味わいがあるなど、四季それぞれ飽きることはない」(真如堂発行の小冊子より)

三重塔前、石段参道脇に小さなお堂がある。「殺生石」でできている鎌倉地蔵を祀る地蔵堂で、能の演目「殺生石」の物語に由来する。家内安全、福寿、延命などの他、冤罪を晴らし心の病を治すご利益があるとされています。
悪狐の魂が石と化して生き物を殺すので「殺生石」と呼ばれ恐れられていた。室町時代、玄翁禅師が殺生石をたたき割り、割れた石の一つで地蔵菩薩を刻み鎌倉のお堂に祀った。後の江戸時代に、ここ真如堂に移されたという。

参道を挟んで三重塔の反対側に建つのが元三大師堂(京都府指定有形文化財)。元禄9年(1696)建立で、元三大師の画像が祀られている。比叡山延暦寺第18代座主慈恵大師良源(912-985)は正月三日に亡くなったことから「元三大師(がんざんだいし)」と呼ばれた。また「降魔大師」とも呼ばれ、礼拝すれば降魔厄除けの御利益があるという。
堂前に建つ石灯籠は「琵琶湖疎水の工事の総責任者である田辺朔郎氏の感謝の意を込めて、明治38年(1905)、疎水によって恩恵にあずかった北白川の人たちが贈ったものである」(真如堂発行の小冊子より)

 真如堂 2(本堂・庭園)  



参道の正面に本堂が建つ。「真如堂」とは、元々この本堂の名前だったが、いつのまにか寺全体の名称になった。正暦3年(992)一条天皇の勅許を得て本堂が創建されたが、その後の戦乱で焼失、再建を繰り返し、享保2年(1717)に再建されたのが現在の本堂です。
本瓦葺の入母屋造り、正面七間、側面七間の欅造り。使われている建材には「○○家先祖代々菩提の為」と浄財を寄進した人の名前が記されているそうです。
本堂正面に掲げられた「真如堂」の大額は、享保11年(1726)に宝鏡寺宮から奉納されたもの。これ「真如堂」と読めますか?

むかって本堂左前に、2008年「京都・映画誕生のの碑」が建てられた。明治41年(1908)、日本映画の父・牧野省三(1878-1929)によって日本で最初の時代劇映画「本能寺合戦」がここ真如堂境内で撮影された。その百年目を記念した碑です。

本堂前の大樹は「菩提樹」。お釈迦様がこの木の下で悟りを開かれたとされ、「菩提(ぼだい)」とは「正しい悟りの智」を意味する「ボ-ディ」を音写したもの、と説明書きがある。

本堂正面で履物を脱ぎそこに置き、階段から本堂に上がります。本堂内へは無料で入れます。

縁から本堂内部を覗きました。「本堂内部は自由に拝観いただける外陣(げじん)と、金箔の天蓋や瓔珞(ようらく)で厳かに飾られた祈祷や修行の場である内陣(ないじん)、さらには御本尊の阿弥陀如来がまつられた須弥壇(しゅみだん)がある内々陣(ないないじん)に分かれています。外陣と内陣との結界には、大涅槃図(3月)、観経曼荼羅(11月)が飾られます。また、内陣左脇の仏間には、中央に文殊菩薩像、両脇に天台大師像と伝教大師像がまつられています。なお、11月1日~11月25日には本堂で観経曼陀羅の特別公開も行います。」(公式サイトより)

(写真は拝観受付時に頂いたパンフより)
本尊阿弥陀如来立像(国重要文化財)は「像高108cm、様式検討から10世紀末、本堂創建当初から伝わる仏像だと考えられ、平安中期まで坐像が多い阿弥陀如来像の立像としては現存最古例である」(Wikipediaより)
「ご本尊は、慈覚大師円仁が滋賀県の苗鹿明神から賜ったという栢の霊木で彫られたもので、その完成間際、大師が「比叡山の修行僧のための本尊になってください」と眉間に白毫を入れようとすると、如来は首を振って拒否されたという。「それでは都に下って、すべての人々をお救いください。特に女の人をお救いください」と言われると、如来は三度うなづかれたところから、「うなづきの弥陀」と呼ばれている。その後如来は比叡山常行堂にまつられていたが、真如堂開祖戒算上人と願主東三条女院の端夢に「早く京に下すべし」というお告げがあり、女人禁制の比叡山から東三条女院の離宮に遷座された」(真如堂発行の小冊子より)

本尊の脇士には、平安時代の陰陽師・安倍晴明の念持仏といわれる不動明王、伝教大師最澄作と伝わる千手観音が祀られています。これらの仏像は秘仏として通常は非公開だが、年に一日だけ、お十夜結願法要の11月15日にご開帳される(有料)。

本堂内の外陣の端に特別拝観(11/1~12/8)の受付があり、本堂北側にある書院、涅槃の庭、随縁の庭が見学できます。
拝観時間:9:00~16:00(受付は15:45まで)
拝観料:大人1,000円、中学生900円

受付を済ませ、本堂西側から回廊に出ると、書院へ続く渡り廊下が伸びている。

渡り廊下は書院へ続いている。書院の部屋内には自由に出入りでき、写真も撮れる。ということはそれほど価値はない・・・。

書院東側には、「涅槃」の図を表現したとされる「涅槃の庭」(ねはんのにわ)がある。
「天龍寺や東福寺などの名刹や宮内庁の庭園管理を手がけてきた名造園家・曽根三郎氏が1988年に作庭した枯山水です。入滅(お釈迦様の最期)をモチーフに、北を枕にして横たわるお釈迦様とそれを取り囲む仏弟子や生類を石組みで表し、ガンジス川の流れを白砂で描き出しています。稜線をなぞるような有機的な生け垣の向こうには、比叡山や大文字山を含む東山三十六峰を望めます。心静かに穏やかに、いつまでも眺めていたい情景です。」(公式サイトより)

書院の北側に周ると、重森三玲の孫・重森千靑により2010年に作庭された“随縁の庭”がある。小さいながら洒落た庭です。説明書きには「「随縁」とは「随縁真如(ずいえんしんにょ)」の略で、「真理が縁に従って種々の相を生じること」、つまり「真理は絶対不変でも、それが条件によって様々な姿を見せること」をいう仏教の言葉です。この庭は背後にある仏殿の蟇股に付けられた四つ目の家紋をモチーフに、葛石で仕切られた中の「四つ目」の四角や菱形が、白川砂、さび砂利、黒砂利、たたき、苔などとの縁によって、様々な様相を見せています。また、石や砂利、苔などが、天候や日差しの当たり方によっても姿を変え、その様子はまさに「随縁」です。」。またもや難解な意味付けだ。庭は、無意味でシンプルなのがいい。
真如堂は財閥・三井家の菩提寺、後方の仏殿の蟇股に付けられた「四つ目結」は三井家の家紋です。

 真如堂 3(紅葉)  



庭園を見た後、本堂に戻る。本堂は紅葉に取り囲まれているので、本堂の縁を周って紅葉を鑑賞する。
写真は本堂の背後(東側)です。

本堂の南側に周ると、三重塔が見えます。

本堂の正面(西側)から眺める。

こちらは本堂の北側。

本堂を降り、今度は本堂周りの境内を一周してみます。写真は本堂の南側。この南側から本堂背後にかけても紅葉スポットで、燃え上がる火炎が本堂を包んでいるかのようです。またこの辺りは紅い落ち葉の絨毯も楽しめる。

本堂の裏側(東側)で紅葉の絨毯が美しい。渡り廊下、書院が見える。

本堂の北側。

 陽成天皇陵  



真如堂を見学し終えたのが3時過ぎ。時間があるので近場を徘徊することにした。真如堂の総門(赤門)を出て、西へ真っすぐ進むとすぐ吉田山です。この吉田山の東側に陽成天皇陵と後一条天皇陵があります。さらに吉田山の西側へ周ると吉田神社がある。そう遠くないので寄ってみます。数分で右手に陽成天皇陵が見えてくる。

第57代陽成天皇(ようぜいてんのう、868-949、在位:876-884)は第56代清和天皇の第一皇子。母は当時最大の実力者藤原基経の妹・皇太后藤原高子。諱は貞明(さだあきら)。生後3ヶ月足らずで立太子し、貞観18年(876)に9歳で父・清和天皇から譲位され即位。幼少であるため、伯父の藤原基経が摂政として政治を行った。
元慶4年(880)12月清和上皇が崩御すると、摂政・基経と母・高子の兄妹間の不仲と権力争いもあり、天皇と基経との関係も悪化していった。
元慶6年(882)、陽成天皇元服を境に基経は豹変し、摂政返上を願い出て宮中への出仕を拒否するようになった。そのような時、宮中で殺人事件が起こる。

「基経の出仕拒否からしばらく後の元慶7年(883)11月、陽成の乳兄弟であった源益が殿上で天皇に近侍していたところ、突然何者かに殴殺されるという事件が起きる。事件の経緯や犯人は不明とされ、記録に残されていないが、陽成が事件に関与していたとの風聞があったといい、故意であれ事故であれ、陽成自身が起こしたか少なくとも何らかの関与はあったというのが、現在までの大方の歴史家の見方である。宮中の殺人事件という未曾有の異常事に、基経から迫られ、翌年2月に退位し、太上天皇となる(ただし、公には病気による自発的譲位である)。幼少の陽成にはそれまでも奇矯な振る舞いが見られたとされるが、退位時の年齢が17歳(満15歳)であり、殴殺事件については疑問点も多く、高子・陽成母子を排除して自身の意向に沿う光孝天皇を擁立した基経の罪を抹消するための作為だともいわれる。」(Wikipediaより)
真相は定かでないがこの事件を機に基経に譲位を迫られ、2ヶ月後の元慶8年(884)2月に皇統の違う大叔父の時康親王(第54代仁明天皇の第3皇子)に譲位した(第58代光孝天皇)。陽成天皇17歳の時で、在位は8年間だった。その後長生きし、82歳で没するまで65年間も上皇の地位にあった。これは歴代上皇の中で最長です。上皇となってからは、歌会等を開きながら政治にかかわることなく長い余生を過ごしたという。

天暦3年(949)9月、冷然院で崩御。その夜、棺は円覚寺に移され、10月3日に神楽岡東地に葬られた、という記録が残る(『日本紀略』巻4)。しかし中世(鎌倉時代-室町時代)以降は所在不明になり、江戸時代にはいっても様々な説が入り乱れ、その場所は明らかではなかった。安政2年(1855)、京都町奉行が現在地の吉田山(神楽岡)の東にあたる真如堂の門前の小丘を陵所とした。これが現在の陵です。なぜここなのか、全く根拠はありません。
幕末の文久2(1862)年から始まった「文久の修陵」で、「陽成天皇神楽岡東陵(かぐらがおかのひがしのみささぎ)」と命名し、八角形に整形され植樹し、周囲に堀、外堤、拝所、参道が新設され、現在目にするような外観となったのです。


空中写真で見ると、植樹された円丘があり、それを取り囲むように八角形に整地されている。山も無ければ、大きな森もない。住宅地の中の児童公園のようです。


宮内庁の公式陵形は「八角丘」。八角墳といえば天智天皇陵、天武・持統天皇陵など平安時代以前に見られただけだが、他の天皇陵は円墳にしているのだが。何故幕末になって突然八角墳を採用したのか判然としない。天智・天武の時代を理想としたのでしょうか?。







 後一条天皇陵  



陽成天皇陵から100mほど西へ行き、右側の道に入ると、小高くなった所に天皇陵の見慣れた構えが現れる。こここが後一条天皇陵です。吉田山の東側に位置し、東面して設けられている。

第68代後一条天皇(ごいちじょうてんのう、1008-1036、在位:1016-1036)は第66代一条天皇の第二皇子。母は藤原道長の娘・彰子(しょうし/あきこ)。諱は敦成(あつひら)。その誕生は道長にとって待望の外孫皇子の出生で、藤原氏の栄華のきっかけとなり、「紫式部日記」にも記されている。
道長は第67代三条天皇に退位の圧力をかける。三条天皇は息子・敦明親王を次の皇太子にすることを条件に退位し、ここにわずか8歳の後一条天皇が即位する。幼帝のため道長が摂政となり権勢を振るった。後一条天皇11歳の時、道長の三女・威子(いし)を中宮(皇后)とする。母の妹で、叔母にあたる。これで道長の長女・彰子が一条天皇中宮、次女・妍子が三条天皇中宮と、道長の三人の娘が全て同時に中宮になるという(天下三后)、全く前例のないことだった。道長が自らの栄華を詠った有名な歌「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」はこの頃のものです。
後一条天皇はこの時代には珍しく他の妃を持たず、皇后威子との間に二皇女を設けたが世継ぎの皇子にはめぐまれなかった。当初は三条天皇の皇子・敦明親王を皇太子としたが、道長の圧力で辞退させ、代わりに後一条天皇の同母弟の敦良親王(後朱雀天皇)を立太子させた。

後一条天皇はたいした事績のないまま長元9年(1036)4月に在位20年、29歳で亡くなった。「栄花物語」に飲水と痩身の症状の記載があるので、今でいえば糖尿病だったのではないかとされている。天皇の遺詔によって、自らの喪を秘して弟の敦良親王(後朱雀天皇)への譲位の儀を行なったとされる。そしてその半年後、後を追うように妃・威子も疱瘡で亡くなっている。

記録によると、神楽岡東辺で火葬され遺骨は近くの浄土寺に安置された。火葬所の跡に母・彰子は伽藍を建て、天皇の供養を行いこれを菩提樹院と号した。その後、菩提樹院へ遺骨を移し山陵とした。しかし戦乱などの影響をうけ、中世、江戸時代を通じて所在不明となる。
幕末になって現在地が火葬所とされ、明治22年(1889)年に火葬所が陵に治定され「後一条天皇陵」と名付けられた。同時に西に接する小墳を娘の二条院の墓と定めた。明治39年(1906)、二条院の墓とともに「菩提樹院陵(ぼだいじゅいんのみささぎ)」と改称された。

ここには後一条天皇と娘・章子(しょうし/あきこ)の二人の墓があるという。合葬ではないだろうし、二つの墳墓がはっきりしない。
後冷泉天皇皇后章子内親王(1026-1105)は後一条天皇の第一皇女、母は藤原道長の娘・威子(いし)。9歳の時に父帝と母を相次いで亡くした。12歳で従兄弟にあたる皇太子親仁親王(後の第70代後冷泉天皇)に入内、親王の即位に伴い中宮になる。後冷泉天皇の崩御後、延久元年(1069)に出家し「二条院」の院号を授けられる。80歳で亡くなり、父後一条天皇と同じ菩提寿院陵に葬られたという。

宮内庁の公式陵形は「円丘」。吉田山を背にし南東を向いた円墳で、高さ約3m、径約35mの規模。
他の大半の天皇陵と同じく、この場所が埋葬地だという根拠は全く無い。幕末から明治の初めにかけ、万世一系の天皇制国家を打ち立てる必要から、早急に全ての天皇の陵墓を確定する必要に迫られていたのです。

 吉田神社 1  



吉田山の西側へ周る。その辺りは京都大学の広大な敷地が広がり、吉田神社の表参道は大学の構内を通って入っていく雰囲気だ。紅い第一鳥居から真っすぐな参道が吉田山へ向かって続いている。

■★~ 吉田神社の歴史 ~★■
貞観元年(859)、中納言藤原山蔭が藤原氏の氏神である大和・春日大社四座の神を吉田山に勧請したのに始まる。後に、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。藤原山蔭の孫娘が藤原兼家に嫁ぎ詮子を生み、詮子は円融天皇の后となって一条天皇をもうけた。それ以来皇室の崇敬を受けるようになる。永延元年(987)に一条天皇が即位して詔を下し、吉田祭は朝廷の官祭(公祭)としての祭礼になる。正暦2年(991年)には朝廷より特別の奉幣を受け、二十二社の前身である十九社奉幣に加列された。
平安中期の卜部兼延が吉田社の祠官となって以来、社務職は卜部氏の世襲となる。卜部(うらべ)氏は元々、宮廷の祭祀に関わり鹿卜や亀卜の占いにをつかさどってきた氏族。兼延は、一条天皇から「兼」の字を与えられ、子孫は代々名前に兼の字を付けるようになる。鎌倉時代の兼煕のとき吉田氏に改称した。。南北朝時代の1360年、二十二社の正一位を授けられた。

(大灯篭の背後に「皇太子殿下御誕生記念 昭和十年 春日会」とある)
南北朝の戦乱、応仁・文明の乱(1467-1477)で被害を受け廃れる。乱後、吉田兼倶(よしだかねとも、1435-1511)という神主が復興に尽くす。吉田兼倶は吉田神道(唯一神道)を唱え、将軍足利義政夫人・日野富子に接近し、その援助により文明16年(1484)、境内に末社・「斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)」を建立し拠点とした。大元源神を天照大神以下の八百万神の根源として祀り、周囲に全国の式内社3132座の神々を、奥の左右に伊勢神宮の内宮・外宮もここに降臨したとして祀られた。朝廷、幕府に取入り神祇官復興の勅許を得て、自ら神祇管領長上を名乗のり、神位・神職の位階、神号、神殿、祭礼に対する許可する権限を得て全国の神社を支配した。その子孫は明治維新まで神祇管領長上として吉田神道の頂点にあり、明治期には子爵となっている。
吉田神社の信仰の中心は大元宮に移り、こに参ると全国の神社に参ったのと同じ効験があるとされ、庶民の信仰を集めた。
天正18年(1590)、第107代後陽成天皇の勅命により、宮中にあった神祇官八神殿を大元宮の背後に移した。そのため宮中で行われていた神祇官作法は斎場所で行なわれることになる。
1601年、現在の大元宮社殿が再建されている。
1648年、現在の本殿、若宮社が建てられた。
1685年、舞殿、直会殿、着到殿などが建立される。

(第二鳥居)しかし明治時代になると、国家神道は伊勢神宮が中心となる。吉田神社に与えられていた神祇裁許状は奪われ、神祇官八神殿は皇居(東京)に再遷座された。こうして吉田神道は崩壊、大元宮は吉田神社の単なる末社とされ、吉田神社の中心は春日四座を祀る元の社殿に戻ることになった。吉田神社は官幣中社に列せられたとはいえ、ごく普通の神社にその姿を変えていったのです。

第二鳥居の先の左手にあるのが末社の今宮社。鎮座の年代は不詳だが、文化13年(1816)に現在地に造営され、木瓜大明神(こうりだいみょうじん)と称して吉田町の産土神とされた。拝殿があり、その奥に祭神の大己貴神・大雷神・健速須佐之男命を祀る本殿がある。
本殿をとり囲む玉垣の四隅に方位を守る霊石である四神石が置かれている。東北隅には無いので不思議に思ったが、本殿内陣に置かれているそうだ。

緩やかな石段を登れば、そう広くない広場だ。広場に掲げられた大雑把な境内図で、現在の吉田神社の姿がうかがわれます。

広場の中央に、しめ縄で囲まれた丸い火炉が見えます。境内の案内板に「毎年節分の日を中心に三日間行われる節分祭は、疫神祭、追儺祭、火炉祭の三部にわかれ、追儺祭は「鬼やらい」としてとくに有名で、毎年多数の参拝者でにぎわう。」とある。吉田神社の節分祭は有名で、二日目に行われる火炉祭で、参拝者が持参した古いお札を焼き納め、厄をはらいをする。その時に使用する火炉です。

広場左側に紅い第三鳥居が建ち、「吉田社本宮」の額がかかる。拝殿があり、その奥に御廊をもった中門が控え、さらにその奥に本殿が建つ。中門から奥へは入れないので、本殿の姿は見れません。
第一殿~第四殿からなる4棟の本殿は慶安年間(1648-52)に再建され、奈良の春日大社を模して建てられた朱塗りの春日造りで、4棟とも同じ造りだそうです。御廊、中門、4棟の本殿は京都府指定有形文化財です。祭神は勧請元の奈良の春日大社と同じで、第一殿から建御賀豆知命(たけみかづちのみこと)、伊波比主命(いはいぬしのみこと)、天之子八根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)を祀る。

 吉田神社 2  



広場の山側に巻物をくわえた鹿の像が鎮座している。奈良の春日大社の由縁と同じで神鹿です。その脇に、しめ縄の巻かれた大岩が置かれている。傍の説明版には「国歌君が代に詠まれているさざれ石」とあります。国歌発祥の地といわれる岐阜県春日村から運ばれたものだそうです。その由来は、平安時代にあるお偉い方が、春日村の谷間の渓流に山積するさざれ石を見て「わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」と詠み、古今集にも採録されているという。

広場の南側に小さな池が見える。「竜沢池(たつざわのいけ)」と呼ばれ、奈良の猿沢池を模してつくられたという。どこまでも奈良の春日大社を意識しているのだ。

広場奥の階段上に摂社・神楽岡社がある(写真左)。この地の地主神また雷除の神を祀る。
さざれ石の横の階段上にあるのが摂社・若宮社(写真右)。本殿第三殿の天之子八根命の御子の「天忍雲根命(あめのおしくもねのみこと)」を祀っています。これも奈良の春日大社の若宮神社を模したもののようです。

広場から南側へ向かって境内参道がのびている。この参道を入ったすぐ左脇に菓祖神社(かそじんじゃ)がある。昭和32年(1957)に京都菓子業界によって創建された比較的新しい社。祀られているのはお菓子の神様とされる次の二神。第11代垂仁天皇の命を受け、果物の祖とも言われる橘を日本に持ち帰ったとされる田道間守命(たぢまもりのみこと)、室町時代に来日し初めて餡入りの饅頭を作り広めたという林浄因命(はやしじょういんのみこと)。
周辺には、菓子業者から奉納された玉垣がずらりと並んでいます。何故、菓子業界は吉田神社を選んだのでしょうか?。

境内参道中ほど右に、吉田神社の開祖・藤原山蔭を祀った末社・山蔭神社(やまかげじんじゃ)がある。石柱には「料理飲食祖神」となっており、説明版に「わが国においてあらゆる食物を調理調味づけられた始祖であり、古来包丁の祖、料理飲食の祖神にして崇敬厚き神である」と書かれている。四条流庖丁道の創始者だそうです。包丁さばきにも流派があるのですね。昭和32年(1957)、全国料理関係者により創建された新しい社です。

200mほどの境内参道は斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)に達して終わる。ここ大元宮は、明治時代に入るまで吉田神社の中心として人々の信仰を集めてきた。さらに数々の特権を得た吉田神道の大本として全国の神社を支配してきた。その始まりは、室町時代の文明16年(1484年)、神主・吉田兼倶(よしだかねとも、1435-1511)が吉田神道(唯一神道))を唱え、千界万法の根源を太元尊神とし、大元宮を造り祀ったことにある。

「吉田兼倶は文明年間に森羅万象の起源であり、また宇宙の根元神である虚無太元尊神(そらなきおおもとみことかみ)を祀る吉田神道(唯一神道)を考え、大成すると、室町にあった自邸に虚無太元尊神を祀る社・大元宮を建て、その祭祀を行い始めた。そして、兼倶はいよいよ吉田神道を目に見える形にして一般に広めようとし、また本格的に伊勢神宮を含む全国の神社を吉田神社の統制下に置こうと考え始めた。そこに、日野富子などからの寄付もあって、文明16年(1484年)に吉田神社の現在地に新たな社・斎場所大元宮を創建すると、11月24日に自邸から虚無太元尊神を遷座した。主祭神虚無太元尊神の周りには、その虚無太元尊神の作用によって生じた天神地祇八百万大神の他、全国の神々を祀っている。この大元宮を拝むことは日本中の全ての神社を拝んだことに等しいとし、神社自体の格も伊勢神宮よりも上であるとした。」(Wikipediaより)

神祇斎場所として全国の神を勧請し祀り、さらに伊勢内宮・外宮の神職間の紛争に乗じて伊勢神宮の神器が神楽岡に降臨したとして伊勢内宮・外宮の神々まで斎場所内に祀るにいたった。こうして天照大神以下の八百万神は大元尊神に帰することとなった。また朝廷、幕府に取入り神祇官復興の勅許を得て、自ら神祇管領長上を名乗のり、神位・神職の位階、神号、神殿、祭礼に対する許可する権限を得て全国の神社を支配した。
天正18年(1590年)には後陽成天皇の勅命により、宮中で祀られていた天皇の守護神である神祇官御巫祭神八座(神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神・大宮売神・御食津神・事代主神)を祀る八神殿を大元宮の背後に遷座して祀った。そのため宮中で行われていた神祇官作法は斎場所で行なわれることになる。
こうして大元宮は全国の神社の頂点に立つだけでなく、伊勢神宮をも上回る地位を得ることになった。

赤鳥居を潜った先に中門があり、神域は廻廊で囲まれている。中門から奥へは入れないので、中門から覗き込むようにして大元宮の本殿の写真を撮った。通常の神社には見られない特異な形が異様だ。全国の神社の頂点に立つ神社として、一般的な神社形式と異なるこうした特異な形態にしたものと思われます。屋根の中央にはめ込まれた額は「日本最上日高日官 大元宮」と読むのでしょうか?。どういう意味でしょう?。大元宮は「日本最上神祇斎場所日輪太神宮」とも呼ばれるそうなので、それと関連するのでしょうか。。

説明版に「本殿(重要文化財)は慶長6年(1601)の建築で、平面上八角形に、六角形の後房を付した珍しい形をしている。屋根は入母屋造で茅葺、棟には千木をあげ、中央には露盤宝珠、前後には勝男木を置く特殊な構造である。この形式は密教・仏教・陰陽道・道教などの諸宗教、諸思想を統合しようとした「吉田神道」の理想を形に表したものといわれる」とあります。

内部は覗うことができないので、GoogleEarthで空から眺めました。本殿が八角殿というのはよく分かるが、六角形の後房というのはよく分からない。後方の空き地に、天照皇大神を祀る東神明社、豊宇氣比売神を祀る西神明社が見える。それぞれ伊勢内宮・外宮の神様です。その周辺には全国の式内社全3132座の神々が祀られ、宮中から移された八神殿もあったようですが、現状は取り壊されたのかその跡地だけが見えます。

中世末から近世にかけて一時代を築いた大元宮だが、明治維新によって吉田神道は崩壊する。神道裁許状の特権は剥奪され、神祇官八神殿は皇居(東京)へ再遷座された。国家神道は、天皇家の祖先である天照皇大神を直接祀る伊勢神宮を中心に再構築されたのです。そして大元宮は吉田神社の一末社となり下がり、吉田神社も春日四座を祀る普通の神社にその姿を変えていったのです。

なお、斎場所大元宮の内部は、「正月三が日・節分祭・毎月1日」には無料で公開されるようです。



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聖護院から真如堂へ 2(金戒光明寺)

2021年12月22日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2021年11月24日(水曜日)
聖護院の次は法然ゆかりの寺・金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)です。

 金戒光明寺(歴史、山門)  



聖護院の前の道を東へ10分ほど歩けば、道を塞ぐように正面に頑丈な門が見えてくる。これが金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)の入口にあたる高麗門(こうらいもん)だ。江戸時代末の1860年の建立だが、2015年に修復再建された。お寺の山門とは思えない頑丈そうな構えの門です。市中の治安維持、警護のために京都守護職の本陣が置かれたからでしょうか。
地元では「黒谷(くろだに)さん」の愛称で親しまれている浄土宗の七大本山の一つです。正式名称は「紫雲山金戒光明寺」、承安5年(1175)「円光大師」こと法然による創建。

■★~~ 歴史 ~~★■
美作国(岡山県)に生まれた法然(幼名・勢至丸、1133-1212)は9歳の時、夜討ちで父を亡くし、15歳で比叡山に登り天台宗を学ぶ。18歳(1150年)で遁世し、西塔黒谷別所の慈眼坊叡空の庵室に入り、「法然房源空」と名乗った。
承安5年(1175)43歳の時、唐の浄土宗の祖・善導の「観無量寿経疏」の称名念仏を知り回心する。称名念仏とは、ひたすら念仏を唱えれば、善人悪人を問わず、阿弥陀仏の力により必ず阿弥陀仏の浄土である極楽に生まれ変わることができる、と教える。法然はこの念仏の教えを広めるため比叡山を下りた。「承安5年(1175年)春、浄土宗の開宗を決めた法然が比叡山の黒谷を下った。岡を歩くと、大きな石があり、法然はそこに腰掛けた。すると、その石から紫の雲が立ち上り、大空を覆い、西の空には、金色の光が放たれた。そこで法然はうたたねをすると夢の中で紫雲がたなびき、下半身がまるで仏のように金色に輝く善導が表れ、対面を果たした(二祖対面)。これにより、法然はますます浄土宗開宗の意思を強固にした。こうして法然はこの地に草庵を結んだ。これがこの寺の始まりであるとされる。」(Wikipediaより)
法然が初めて開いた浄土宗の寺で、阿弥陀仏を崇拝し、ひたすら南無阿弥陀仏を口で唱える専修念仏の道場となった。ここは法然が、師匠の叡空から譲り受けた「白河禅房」の地で、「新黒谷」と呼び、比叡山の黒谷を「元黒谷」と呼んだ。

その後、仏殿、御影堂などの堂宇が整えられ、法然が山上で見た紫雲光明の縁起にちなみ「紫雲山光明寺」と称したが、単に「黒谷(くろだに)」とも呼ばれるようになる。南北朝時代、北朝第4代・後光厳天皇がここで戒(金剛宝戒、仏教の誓いの儀式)を授かった。この時、天皇より「金戒」の二字を賜り、「金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)」と呼ぶようになる。また法然が最初に浄土宗の布教を行った地であることから、後小松天皇により「浄土真宗最初門」の勅願を賜った(1428年)。

応仁・文明の乱(1467-1477)の兵火により、ほとんどの堂舎を焼失し衰微していく。天正13年(1585)、豊臣秀吉による寺領130万石の朱印状を得て寺運を開き、文禄2年(1593)淀君により御影堂が、慶長10年(1612)には豊臣秀頼によって阿弥陀堂が再建されるなど再興されていく。
江戸時代初期、江戸幕府によって知恩院と共に城郭風構造に改修され、浄土宗四箇本山(他に知恩院、百万遍知恩寺、清浄華院)の一つとして知恩院に次いで栄える。江戸時代末期の文久2年(1862)には、京都守護職となった会津藩の本陣となっている。
明治4年(1871)、上知令により寺領2994坪が没収された。昭和に入り御影堂、勅使門、大方丈などを焼失するが、その後再建されている。

高麗門を入ると、左手に山門が見えてくる。城壁の上に建つお城のように見えます。幕府が京の都を守る拠点にしたのもうなずける。
「徳川家康は幕府を盤石なものにする為に特に京都には力を注いだ、直轄地として二条城を作り所司代を置き、何かある時には軍隊が配置できるように黒谷と知恩院をそれとわからないように城構えとしているのである。黒谷に大軍が一度に入ってこられないように南には小門しかなく、西側には立派な高麗門が城門のように建てられた。小高い岡になっている黒谷は自然の要塞になっており、特に西からやってくる敵に対しては大山崎(天王山)、淀川のあたりまで見渡せる」(公式サイトより)。

”山門”といえば、もう少し華奢で簡素なイメージがあるのだが、これは堂々たる楼門です。15世紀初頭に建立されたが、応仁の乱の兵火により焼失。幕末の万延元年(1860)に再建され、幕府が京都ににらみをきかせるため城郭構造にした、というのがみてとれる。
間口は約15m、高さは約23m、重層の豪華な門です。禅宗寺院にみられる三門(三解脱門)の様式であり、禅宗以外で用いられているのは、浄土宗の当寺と知恩院にしかないという。京都府指定有形文化財

楼上正面に後小松天皇宸筆の扁額「浄土真宗最初門」が掛けられている。

山門内部は通常非公開だが、秋の特別期間だけ公開される(春も?)。今年は(2021年)11月12日(金)~12月5日(日)、拝観時間 10:00~16:30(最終入場 16:00)、山門の拝観料は1000円(御影堂などとのセット券1600円もあり)
山門の両サイドには階上に登る階段が付属している。正面から見て、右階段から登って左階段を降りる。履物は脱がなければならないので、手で持つか袋に入れて持ち歩く。この階段が急勾で、45度以上ありそう。高齢者や気の弱い人は登れないのでは。階段両側には、安全用にロープが備えられていた。

すこぶる絶景というわけではないが、京都市内を一望できるので写真をパチリ、パチリしていると、女性係員がやってきて「写真は撮らないでください」とおっしゃる。「風景なのに何故ですか?」と聞くと、「プライバシーの・・・・」なんとかかんとか、とおっしゃる。風景撮ってプライバシー侵害なら、カメラは全て御法度になってしまう。こんな経験は初めてだ。撮った写真を超厳密に精査した結果、プライバシーを侵害していないと判定したので、ここに公開しました。
天気の良い日は大阪の『あべのハルカス』まで見渡せるそうだが、今日はやや曇りか・・・

今度は反対側に回り、御影堂や三重塔など境内を撮っていると、また係員が制止しにやってきた。境内写真もダメだそうだ。理由を尋ねると、「そのように指導されていますので・・・」と。若い女性係員を問い詰めても始まらないので、階段を降りました。
山門上での風景写真撮影禁止について、事前の説明も、ポスターや公式サイトにも載っていなかった。これで1000円の拝観料です。なにか、サギにあったような後味悪さが残る。納得できないので、ここに公開しました。

廊下から楼内をパチリ。正面中央に釈迦三尊像が、その両側に十六羅漢像が並んでいる。
これは心痛むが(((+_+))!!)・・・公開します。

山門を入って、すぐ左に「勢至丸像」がある。傍の説明版をそのまま紹介すると
「勢至丸(せいしまる)さま
勢至丸は、法然上人の幼名です。法然上人は、父は押領使(武士)の漆間時国、母は秦氏(はたうじ)で美作国(岡山県)久米南条稲岡の庄で長承2年(1133)4月7日に生まれました。幼名は、阿弥陀仏の右脇侍で、仏の智門をつかさどり衆生に菩提心を起こさせ、智慧の光を持って一切を照らし衆生が地獄・餓鬼界へ落ちないように救う勢至菩薩にあやかって名付けられました。勢至丸は幼い頃から、よく西の壁に向かって端座合掌していたといわれています」


 金戒光明寺(納骨堂、阿弥陀堂、御影堂、大方丈)  



吉田山の丘陵地帯なので起伏があるため階段がある。といってもそれほどきつい起伏ではないので階段も緩やか。お寺の階段はどこも格式を感じさせてくれるが、ここもその例にもれない。山門、広い階段、御影堂へと真っすぐ連なり、ここが金戒光明寺のメインストリート。よくあるパターンは階段の両側をカエデの樹で囲い、紅葉のトンネルに演出するのだが、ここはそんな細工をしていない。それがシンプルで良い。
階段を登りきると、左に鐘楼が建つ。大晦日の除夜の鐘も有名だそうです。高台に位置するので、京都中に鐘の音が鳴り響くことでしょう。

階段上から振り返ると、山門の威容が際立って見える。

階段を挟み鐘楼の反対側に建つのが宝形造りの納骨堂(旧経蔵)。元は黄檗版一切経を納めた経蔵として元禄2年(1689)に建立されたお堂だが、平成23年(2011)法然上人八百年遠忌の記念事業で大修理され納骨堂となった。
「堂内には法然上人二十五霊場のお砂を集めた霊場めぐり「お砂踏み」を安置し、堂内を右回りに一巡すると二十五霊場を巡拝したのと同じ功徳を得ることができる」(説明版より)

広場の東側に阿弥陀堂(京都府指定有形文化財)が建つ。豊臣秀頼が、父・秀吉が手がけた方広寺大仏殿が焼失しその再建時の余材をもって建てたという。「慶長十年(一六〇五年)豊臣秀頼により再建。当山諸堂宇中最も古い建物である。 恵心僧都最終の作、本尊阿弥陀如来が納められている。如来の腹中に恵心僧都が彫刻でお使いになられたノミが納められていることから「お止めの如来」「ノミおさめ如来」と称されている。」(公式サイトより)
この阿弥陀如来像が金戒光明寺のご本尊です。平安時代の恵心僧都源信(942-1017)の最後の作で、像内にはゆかりとされる道具が納められている。

本堂にあたる御影堂です。お寺は「大殿(だいでん)」とも呼んでいる。御影堂の前にテントが張られ、特別拝観<2021年11月12日(金)~12月5日(日)>の拝観受付所が設けられている。
  拝観時間 10:00~16:30(最終入場 16:00)
  拝観料:大人1000円(御影堂・大方丈・庭園)、大人1000円(山門)、両方のセット券1600円
公式サイトに「靴袋もご持参ください(当日販売もあり)」とあったので、ビニール袋を持ってきた。ちなみに値段を聞いたら「寸志です」と、これが一番困るんです。
御影堂右前が「直実鎧掛けの松」。寿永3年(1184)源平合戦・一の谷の戦いで、源氏の武将・熊谷次郎直実は我が子と同じような年端(16歳)の敵将平敦盛(平清盛の甥)の首を討ち取った。このことで世の無常を感じ黒谷の法然上人を尋ね、仏門に入ることを決心した。鎧を脱ぎ捨てこの地の松に打ち掛け、出家し法名を「蓮生(れんしょう)」とした、と伝わる。先代は枯れたので、現在の松は平成26年(2014)に植えられた三代目。法然上人御廟所 の前には、直実と敦盛の供養塔が向かい合っている。

(仏像写真は受付で頂いたパンフより)
以前の御影堂は昭和9年(1934)に全焼、昭和19年(1944)に現在の本堂が再建された。室町時代の様式で設計されているが、鉄筋コンクリート壁、鉄製ボルト、鉄製扉などの防火対策が採られている。入母屋造り・本瓦葺き、正面に三間向拝が張り出している。
内部は、横長の外陣と縦長の内陣及び両脇陣からなり、内陣中央に須弥壇がある。須弥壇中央に宗祖法然上人75歳の御影(座像)を安置し、左脇壇には運慶作と伝わる渡海形式の文珠菩薩像が祀られています。公式サイトには「往古、当山北西の中山宝幢寺の本尊でしたが、応仁の乱の兵火により廃寺となり近くに小堂を造って祀られていました。その後、当山の方丈に遷座され寛永十年(一六三三)豊永堅齋が二代将軍徳川秀忠公菩提のために三重塔を建立した時に本尊として奉遷されました。貞享三年(一六八六)刊の『雍州府誌』には「本朝三文殊の一つなり」とあり、古来より奈良の「安倍の文殊」天橋立の「切戸の文殊」と共に信仰を集めていました」とある。平成20年(2008)、法然上人八百年遠忌を記念して御影堂に遷座された。中山宝幢寺由来から「中山文殊」とも呼ばれる。

右脇壇には、奈良時代の学者吉備真備(695-775)ゆかりの千手観音(重要文化財)が祀られている。公式サイトに「当寺の千手観音は、奈良時代の学者吉備真備が遣唐使として帰国の際、船が遭難しそうになり「南無観世音菩薩」と唱えたところ、たちまちその難を免れることができました。真備はその時、唐より持ち帰った栴檀香木で行基菩薩に頼み観音さまを刻んでもらいました。この縁起によりこの観音さまを吉備真備に因み『吉備観音』と呼んでいます。元は吉田中山の吉田寺に奉安されましたが、江戸時代の寛文八年(一六六八)に吉田寺が廃寺となったため徳川幕府の命により、金戒光明寺へ移されました」とあります。
洛陽三十三所観音霊場の第六番札所で、道中守護・交通安全・諸願成就の御利益があると信仰を集めている。

御影堂の東側から短い廊下で大方丈(おおほうじょう、国登録有形文化財)につながる。大方丈は昭和9年(1934)の火災で焼失したが、昭和19年(1944)に御影堂とともに再建された。4つの部屋に区切られ、赤じゅうたんの廊下から内部を見学できます。部屋内に入ったり、撮影は禁止です。
一番手前の部屋が「謁見の間」で、奥が一段高くなって金屏風が置かれていた。近藤勇や芹沢鴨など多くの歴史的人物がこの部屋で松平容保に謁見したという。部屋に置かれた説明文は「歴史的にいえば、この部屋が新選組発祥の部屋と言っても過言ではない」と結んでいました。次が「中の間」で、今回特別展示の伊藤若冲筆「群鶏図押絵貼屏風」が見られます。右端の部屋は二つに区切られ、前が「虎の間」、奥が今尾景祥(1903-1993)筆の襖絵「松の図」がある「松の間」。「虎の間」の久保田金僊(1875-1954)筆の「虎の襖絵」が有名で、襖の開け閉めで4匹が2匹に早変わりする仕掛けがあるそうだが、実演してもらはなければよく分からない。

枯山水の方丈前庭(南庭)です。昭和19年の大方丈再建時に、「昭和の小堀遠州」と称えられた作庭家・中根金作によるもの。中央に唐門(国登録有形文化財)を配置し、5筋入りの築地塀で囲っている。

 金戒光明寺(紫雲の庭、ご縁の庭)  




大方丈の廊下を奥へ進み、東側へ周ると「紫雲の庭(しうんのにわ)」が広がる。こちらも枯山水式だが、緑と紅葉が美しい。平成18年(2006)法然上人800年大御遠忌記念として作庭された。法然上人の生涯が、白砂を敷き詰めた上に杉苔と大小の庭石で表現されているという。右側が美作(岡山県)での幼少時代、左側が比叡山延暦寺での修業時代を、真ん中が浄土宗開宗・金戒光明寺の興隆を表している。作庭には何か意味付けが必要なんですね。

散策路が設けられた回遊式庭園になっている。持ってきた履物を履き庭に降ります。後で気づいたが、左側の階段の下にスリッパが置かれていました。見えている大方丈の部屋は「松の間」です。

紫雲の庭から池に架かる石橋を渡って奥へ行けば「ご縁の庭」へつながる。

紫雲の庭からご縁の庭へと、南北に細長い池は「鎧池」と呼ばれる。出家を決意した熊谷次郎直実は、鎧を脱ぎこの池で洗い清め、御影堂前の松に打ち掛けたという。池はその後「鎧池」と呼ばれるようになった。

御詠歌「池の水ひとの心に似たりけり 濁り澄むこと定めなければ」。鯉が気持ちよさそうに泳いでいました。今日は澄んでいるのだ。

奥から見た鎧池で、建物は大方丈。ここ鎧池周辺が金戒光明寺で一番の紅葉スポットです。血染めの鎧ではないが、池にかぶさる紅葉がなんともいえない情景をつくりだす。

散策路は池の北端で二手に分かれ、奥の休憩所の前で一つにつながっている。これが、二つの道がご縁の出会いによって一つに結びついていくという深い意味をもった「ご縁の道」なのか?。と思ったらら間違いでした。

休憩所の前から、小石を敷き詰めた道が鎧池に向かって設けられている。説明版を読むと、これが「ご縁の道」のようです。
右の道が「青の道」、左の道が「赤の道」、二つの道が丸い「出会いの石」で結ばれ一本の道「紫雲 共に歩む道」となり、法然上人のいる御影堂へ向かって歩む、というストーリーのようです。「出会いの石」の左右に小岩が置かれている。それぞれの道、石、岩には深~い意味付けがなされている。詳しく知りたい人は、現地へ来て説明版を読んでください。NHKも作庭に関わっているようです。だから意味が深~い・・・(^^♪
ご縁よりは休憩所が有難い。ここに座って、紅葉で飾られた池を眺めるのがなによりだ。


出会いもご縁も、エンが無いので紅葉を楽しもう。鎧池を一周するように散策路が設けられ、この辺りは「ご縁の庭」(平成24年(2012)作庭)と呼ばれています。
突然一匹の鳩が目の前に現れた。あったぞご縁が・・・。

大方丈に戻り、「玄関」(国登録有形文化財)の唐破風造り銅板葺の車寄から出る。
円く剪定されている樹木は「区民の誇りの木 シマモクセイ」とあり、左端の石柱には「山崎闇斎先生菩提所」と刻まれています。

 金戒光明寺(極楽橋から三重搭、会津墓地へ)  



玄関から、右手に阿弥陀堂を見ながら真っすぐ坂道を下る。こちらは階段ではなく普通のスロープです。

坂道を下ると、左手に池に架かる極楽橋(太鼓橋)がある。この池は蓮の名所だったことから「蓮池」と名付けられたが、別名「兜之池」とも呼ばれる。その由来は「平安末期の源平の戦いで有名な武将熊谷直実が、この地に庵を結んでいた法然上人を尋ね、出家を決意し兜を置き、弓の弦を切り弓を池に架けた形が起源といわれる」(現地説明版より)。そして熊谷直実はすぐ傍に庵(塔頭・蓮池院)を結んで住んだという。

寛永5年(1628)、三代将軍家光の乳母・春日局は二代秀忠正妻で家光の母だった崇源院(お江与)の墓を建立し、参詣するために蓮池に木造の橋を寄進した。その後、秀忠供養のため山上に三重塔を建立する際、寛永18年(1641)により参詣しやすくするため石橋に造り替えられた。平成16年(2004)に改修され、擬宝珠、欄干が付けられた。

極楽橋の近くに「堀川」「四条橋」と刻まれた石柱が置かれている。これは四条堀川に架けられていた橋の親柱。
明治35年に開通したチンチン電車が、その後市電に統合され、昭和36年に廃止された。その時、軌道敷石と橋の親柱が寺に払い下げられという。さっき降りてきた坂道の石畳はその敷石のようです。

階段登り口の左手に、本尊の阿弥陀如来より有名になったアフロヘア姿の石仏「アフロ仏像」が鎮座されています。正しくは「五劫思唯阿弥陀仏(ごこうしゆいあみだぶつ)」。ここは公式サイトに説明してもらおう。
「五劫思惟の阿弥陀仏は、通常の阿弥陀仏と違い頭髪(螺髪らほつ)がかぶさるような非常に大きな髪型が特徴です。「無量寿経」によりますと、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時、もろもろの衆生を救わんと五劫の間ただひたすら思惟をこらし四十八願をたて、修行をされ阿弥陀仏となられたとあり、五劫思惟された時のお姿をあらわしたものです。五劫とは時の長さで一劫が五つということです。一劫とは「四十里立方(約160km)の大岩に天女が三年(百年という説もある)に一度舞い降りて羽衣で撫で、その岩が無くなるまでの長い時間」のことで、五劫はさらにその5倍ということになります。そのような気の遠くなるような長い時間、思惟をこらし修行をされた結果、髪の毛が伸びて渦高く螺髪を積み重ねた頭となられた様子を表したのが五劫思惟阿弥陀仏で、全国でも16体ほどしかみられないという珍しいお姿です。落語の「寿限無寿限無、五劫のすり切れ」はここからきています。金戒光明寺の五劫思惟阿弥陀仏は、特にめずらしく石で彫刻された石仏で、江戸時代中頃の制作と思われます」

アフロ仏像のさらに左手の小高くなった場所に小さな墓地がある。この墓地の中に、徳川秀忠夫人崇源院(お江)と春日局の供養塔があります。
数奇な運命を重ねた二代将軍徳川秀忠正妻で三代将軍家光の母・お江は寛永3年(1626)、54歳で没し法名「崇源院(すうげんいん)」となる。江戸城で亡くなり、墓は芝増上寺にあります。寛永5年(1628)、三代将軍家光の乳母・春日局は崇源院の遺髪を納め追善菩提の供養塔をここに建てたのです。


崇源院供養塔の左前方に、その供養塔を見つめるように春日局の供養塔が建つ。生前は将軍跡取りをめぐって争った仲だが、こうして仲良く供養塔が並んでいます。

階段の右側にあるお堂が法然の分骨が祀られている「法然上人御廟所」。
説明版(?は判読不明)
「この廟には法然上人(円光大師)の遺骨が祀られています。法然上人(1133-1212)は、建暦2年(1212)正月25日、東山大谷禅房にて遷化され大谷の地に埋葬されました。御年80歳でした。しかし15年後の嘉禄3年(1227)6月に山徒により大谷廟堂破却の迫害が起き、難を免れた法然上人の遺骸は翌年に西山の粟生野で当山二世信空上人等によって荼毘に付されました。信空上人は法然上人の遺骨(分骨)を生涯身につけて離されなかったが、信空上人の没後に弟子たちによってこの地に葬られました。応仁の乱で廟は荒廃しましたが、天正元年(1573)に当山二十一世法山上人と??法師により五輪の塔が建立されその後、延宝4年(1676)に金屋??等によって堂宇が再建されました。内部は中央厨子の下層が五輪塔を包み、上層には勢至菩薩を安置しています」

御廟前には、熊谷直実の供養塔(中央)と平敦盛の供養塔(左手前)が対面して建てられている。説明版は無く、搭前に置かれた小さな札を見なければ確認できない。高野山の奥の院でも二人の墓が並んでいるそうです。

これから三重塔へ登り、会津藩士の墓所へ向かいます。かなりの階段が待ち構えている。時々一服し、後ろを振り返るとまた元気が出てきます。周りはお墓だらけですが、明るいので不気味さはない。お墓はみな西(西方浄土)を向いているそうです。

上は階段中ほどからの眺め。下は階段を登り切った三重塔前からの眺め。この写真もプライバシーに引っかかるのかな?・・・。千円だして山門に登る必要はありません。

階段を登りきると三重塔(国の重要文化財)が迎えてくれる。三重塔のために設けられた階段のようです。

2代将軍徳川秀忠の菩提を弔うため元家臣・伊丹重好(豊永宗如堅斉)が寛永10年(1633)に建てたもの。高さ22メートル。
現在御影堂に安置されている文殊菩薩(中山文殊)を祀っていたが、平成20年(2008)、法然上人八百年遠忌を記念して御影堂に遷座された。「現在は本尊として文殊菩薩のご分身(浄鏡)をお祀りし左右の脇壇には、重好公とその両親、当山二十八世潮呑上人の木像が安置されている」(説明版)

三重塔の右側から裏に回ると清和天皇火葬塚が現れる。第56代清和天皇(850-880)は崩御後はここで火葬され、遺言により洛西の嵯峨野の奥にある水尾の山中に埋葬されました。金戒光明寺の創建より300年ほど前の出来事です。

火葬塚からさらに奥へ行くと八橋検校(やつはしけんぎょう、1614-1685)の墓がある。江戸時代初期、琴の名曲を多く残した近世筝曲の祖。彼の死後の元禄年間、墓参に来る弟子のために、沿道にあった茶店が琴を形どった堅焼きせんべいを売り出したところ大流行したという。これが京の名菓「八ツ橋」の語源とか。
傍に大日本筝曲会連盟による顕彰碑があるが文字が擦れて読めない。




三重塔からお墓に囲まれた細路を北へ歩くと塔頭:西雲院、会津藩士墓所があり、さらに行くと紅葉のの名所・真如堂です。



道の正面に塔頭:西雲院が見えてくる。江戸時代初期の創建で、法然が座って紫色の雲を見たという紫雲石(しうんせき)が祀られているそうです。幕末の戦乱で亡くなった会津藩士の菩提寺です。



門を潜ると、庭の片隅に侠客・会津小鉄の墓が。会津小鉄(1844?-1885)は幕末・維新期の侠客で、本名は上坂仙吉。京都守護職として会津藩主の松平容保がやって来た時、その中間部屋に出入りし口入れ稼業を行い会津藩と関係をもつ。また幼名が鉄五郎で小柄な体形だった。そこから「会津小鉄」と呼ばれ、維新後も子分数千人を抱き活動した。侠客といえば聞こえがよいが、要はヤクザの親分。現在まで会津小鉄会という組織は京都に残っている。
ところで墓石をよく見ると「二代目会津小鉄 上坂卯之松」となっている。上坂卯之松は仙吉の実子で、二代目を継いだ。すると初代の墓は・・・?。

西雲院の東隣が「会津藩殉難者墓地」。ここに会津藩士352名が静かに眠っています。
会津小鉄は、鳥羽・伏見の戦いで負け賊軍の汚名を着せられ路上に放置されていた会津藩士の遺体を、子分二百余名を動員しこの墓地に手厚く葬り、供養したという。そんな縁で西雲院と関係するのでしょう。

「会津墓地の由来」という顕彰碑があるが、長いので要約します。
幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し治安が乱れていた。治安維持のため幕府は京都守護職を設け、会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)を任命。松平容保は文久2年(1862)、家臣一千名を率いて京都に到着し、黒谷の金戒光明寺に入陣した。金戒光明寺は自然の要塞になっており、御所や粟田口にも近く軍事的要衝の地です。また大きな寺域により一千名の軍隊が駐屯することができた。
会津藩士の活躍で治安は回復されてきたが、犠牲も大きく、藩士や仲間小者などで戦死、戦病死する者が続出した。そこで金戒光明寺の山上に三百坪の墓地が整備され葬られた。その数は文化2年から慶応3年までの6ヵ年に237霊を、後に鳥羽伏見の戦いの115霊を合祀した。

金戒光明寺が新選組発祥の地、といわれている。文久2年将軍上洛警備のため江戸で浪士組が結成され京都に来る。近藤勇や芹沢鴨らはそのまま京都に残り、松平容保に拝謁し「新選組」を結成し、京都の治安維持の一翼を担ったのです。

墓地の片隅に令和元年(2019)、松平容保公の石像が建てられ、静かに眠る殉死者たちを見守っている。
鳥羽・伏見の戦い(1868年)で新政府軍に敗けると、会津藩は朝敵の汚名を着せられることになる。同年京都守護職は廃止となり、松平容保は会津に帰国し、明治新政府によって蟄居を命じられた。後に許され、日光東照宮や上野東照宮の宮司となって明治26年(1893)東京小石川の自宅で亡くなった。

西雲院から200mほど行けば錦秋の真如堂だ。



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