山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

2016年初詣 熊野街道で住吉大社へ (その 2)

2016年01月25日 | 街道歩き

2016年1月3日(日)、2016年初詣・初歩きは熊野街道(大阪市内)を歩いて住吉大社へ

 郡戸王子(こうとおうじ)を探して上汐筋へ  



榎木大明神の石段を降り、長堀通りを東へ進み、広い谷町筋を越える。ここが谷六の交差点になる。この谷六の交差点の南東隅の東へ一筋目が熊野街道の続きとなっている。熊野街道は長堀通り周辺で大きく路線変更されている。実際の熊野街道はこんなことなかったでしょうが、秀吉の大阪城築城や、この前の戦争によって焼け野原になった影響でしょうか。

判りにくい場所だが、入口にはファミリーマートがあり、その脇に例の熊野街道道標が建っているので、それが目印になる。

谷町筋から一本東の筋で「上汐筋」と呼ばれている。一応この道が熊野街道の続きと推定されて、熊野街道道標がいくつも建っています。真っ直ぐ南へ歩いていると、T字路の突き当たりに。
このT字路の西が空堀商店街です。”空堀”というのは、豊臣秀吉が徳川方の攻撃を防御するため、深さ10m近くの空の外堀を掘ったことからくる。結局、家康の策略にはまり、空堀を埋めたため大阪城は攻め落とされるはめに。その名残りから、この界隈は起伏に富み小さな坂道や階段が多く、独特の雰囲気をみせている。アーケードのある空堀商店街もほとんどが坂道となっています。

突き当たりの左角に熊野街道道標「2.1km」が。ここを左に曲がり、すぐ右側に南下する緩やかな坂道があるので、その道に入る。

やがて上町中学校の校舎が見え、「2.2km」の道標がある。
緩やかな坂を上がると「楠通り」が横切っている。その角に「2.3km」の道標があります。
その楠通りの右方を見ると、道のど真ん中に楠の木が繁り、白い鳥居と小さな祠が置かれています。「楠大明神」というそうだ。やたら”大明神”が多いいですネ。交通の妨げになりそうだが、撤去できないのは何か訳がありそうです。この辺りにあったが、今は跡形もなくなった「郡戸王子(こうとおうじ)」跡では・・・?。

 近松門左衛門の墓・井原西鶴の墓  


この近辺に近松門左衛門のお墓があるという。楠大明神の向こう側は広い谷町筋です。谷町筋に出て50mほどの所のビルの谷間に挟まっていました。
細い路地の、さらに奥まった狭い場所にある。本当に窮屈そうです。直木三十五よりは、はるかに格が上だと思うんですが・・・。ただし墓所は国の指定史跡になり、面目は保っている。
もともとこの場所は法妙寺というお寺で、近松もこのお寺に葬られていた。ところが、法妙寺はこの前の戦争による大空襲で焼失してしまう。その後、法妙寺は別の場所(大東市)に再建されたが、近松の墓だけが元の場所に戻された、という事情があるようです。まるで”戦争孤児”のようですネ。
調べてみると、尼崎・広済寺にも近松門左衛門の墓があるという。どちらが本当か、争いもあったとか。そのため広済寺では墓を掘り返すことまでしたそうです。墓だけでなく、生誕地についても多くの説が入り乱れ確定していないようです。

私の持っている熊野街道図には井原西鶴(1642-1693)の墓所も載っている。熊野街道とはやや外れるが、こちらも訪れてみることに。谷町筋とは一つ東の大通り「上町筋」に面した誓願寺というお寺の墓地にありました。墓地の入口を入った突き当たり正面が井原西鶴の墓です。それほど大きくない墓石で、「仙皓西鶴」と刻まれている。戒名は「仙皓西鶴信士」。横の黒っぽい石碑には西鶴の句「鯛(たい)は花は見ぬ人もあり今日の月」が刻まれている。

 高津宮(こうづぐう、高津神社)  



熊野街道九十九王子の三番目の王子「郡戸王子(こうとおうじ)」はどこだろう?。一説には楠大明神や近松門左衛門のお墓があった近辺だというが、ハッキリしない。
Wikipediaには「現在消滅。高津宮神社(大阪市中央区高津1-1-29)が跡地とされているが確証はない。「摂津志」には高津宮の地に鎮座していた比売許曽神社が郡戸王子とされていたとの記述がある」と書かれています。
高津神社は、谷町筋をさらに西に越え、上町台地から西に台地を降りきった辺りに高津宮はあります。主祭神は仁徳天皇。
本殿西奥に比売古曽(ひめこそ)神社の社があり、その前に「郡戸王子推定地」の碑が建てられている。それ以上の説明はありません。ひときわ目立つのが「五代目桂文枝乃碑」と、植えられている梛(なぎ)の苗木。五代目桂文枝が、紀州熊野三社の神木「梛(なぎ)の葉」に熊野権現のお告げが現れる、という創作落語を演じた。またここ高津宮は文枝師匠の最後の高座となった所でもあるという。

 上野王子(うえのおうじ)はどこだ!  


次は熊野街道九十九王子の四番目の王子「上野王子(うえのおうじ)」です。上汐筋へ戻り、南へ歩く。
広い大通りが見え、遠くにアベノハルカスがはっきり見えてきました。アベノハルカスの手前に四天王寺さんがあります。かってこの熊野街道を歩く人は、四天王寺の五重塔を目印に歩を進めたことと思われます。
大通りは「千日前通り」で、東を見れば、近鉄上本町駅・近鉄百貨店・都ホテルと初代の”近鉄村”が展開する。足元には熊野街道道標「2.9km」が。西方向は、坂を下っていけば「ナンバ」の繁華街です。
上汐公園を東へ入り、上之宮台ハイツ(大阪市天王寺区上之宮町4-40)にたどり着く。この場所が、かって上野王子があった所だとされています。一段下がったマンションの入口脇に「上宮之址」と刻まれた石碑が置かれている。ただそれだけで、説明もありません。
以前ここに、四天王寺を守る「四天王寺七宮」の一つ「上之宮神社」(聖徳太子の祖父にあたる欽明天皇社)が鎮座していた。そして現在は、大江神社(大阪市天王寺区夕陽丘町5-40)に合祀されているという。
九十九王子の四番目の「上野王子」はここが跡地とされているが、確かなことは判っていない。熊野街道からやや東にズレているような気がするが・・・。大江神社へ行ってみよう。

 大江神社  


大江神社は、谷町筋を西に越え、星光学院高校と「アイゼンさん」で親しまれている愛染堂の間の細路を入ればすぐ。四天王寺の鎮守である四天王寺七宮のひとつで、聖徳太子により四天王寺創建の際に建立された。かってこの坂の下まで海で、大きな入り江があったので大江神社となったそうです。
上之宮神社はこの大江神社に合祀されたという。広くない境内をいくら探してもその痕跡は見つかりません。ただ境内に掲げられた御由緒書きに、以下のようなことが書かれている。「明治40年神仏分離により本社へ合祀せられた・・・・元村社 上之宮の祭神 欽明天皇 大己貴命 少彦名命の何れをも祭神とする」
上之宮神社の御神体がここに合祀されたのは間違いないようだが、上野王子はどうなったのでしょう・・・?。不明のままです。

これは犬でも猫でもありません。虎です。本殿前は狛犬ですが、本殿西横には一対の狛虎(こまとら)が置かれている。左に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、右に阿形(あぎょう、口を開いた像)を安置する。虎は毘沙門天を護るとされ、この奥に毘沙門天を祀る堂があったようですが、現在はなくなっている(ここに縦ジマの入った虎堂が建つとか・・・初夢)。
ここは隠れた猛虎タイガースのメッカ。メガホンなど応援グッズが献上され、虎の足元には猛虎雑誌が差し込まれ、熱き思いを記した多くの願文や木札が貼り付けられている。一部虎党から「タイガース神社」とも呼ばれているらしい。
神社には狛虎のお守りも用意されているそうです。勝運、財運さらに虎威運(=恋)もあるという。
2003年、星野タイガースを優勝に導いた狛虎伝承については、現地の説明をどうぞ。


詳しくはホームページ

2016年初詣  熊野街道で住吉大社へ (その 1)

2016年01月14日 | 街道歩き

2016年1月3日(日)、2016年初詣・初歩きは熊野街道(大阪市内)を歩いて住吉大社へ

 熊野街道(大阪市内)と九十九王子(つくも?、くじゅうく?)  


2016年初詣は二日の日に近くの大江神社で済ませた。大阪市内には初詣で有名な住吉大社がある。一度も行ったことがなかったので、今年のお出かけ第一号として翌三日(日曜日)に住吉大社へ行ってみることに。ただ行くだけではゲイがないので、いろいろ思案した結果、熊野街道を歩いて住吉大社詣でをしてみることに。その熊野街道の出発点が大阪・天満橋なのです。そこから住吉大社まで10kmほど。一日歩くのに丁度良い距離です。半曇の日曜日、年が明けてまだ三日目なので街はまだ眠っています。車が少なく歩きやすかった。

大阪・天満橋から熊野本宮大社までの「中辺路」と呼ばれる長い熊野街道の要所には、「王子」と呼ばれる遙拝所が設けられた。王子とは、熊野権現の化身として巡礼者を守護する御子神を祀った社のこと。人々は王子に立ち寄り、熊野権現の御子神に祈り、旅の無事を祈念しながら旅を続けたのです。同時に、参詣道中の道しるべ、休憩所としての役割も担っていた。

熊野街道の始まりとなる大阪市内の街道沿いには6ケ所の王子があったようです。
かっての熊野街道と思われる道は、現在ではビルが建ち並ぶ大阪市内の中心地です。かっての街道の形跡やその面影はほとんど残っていない。豊臣秀吉の大阪城築城とその町造りのため大きく改変され、さらに先般の大阪大空襲によって焼け野原になった大阪市内。再現はほぼ不可能と思われます。
大阪府は、古書や古絵図、町名、僅かに残る痕跡などを頼りに再現に努力されたようです。大阪府都市整備部のホームページ「歴史街道ウォーキングマップ」の中の熊野街道(天満橋駅から住吉東駅まで [PDFファイル/2.62MB])にその成果が表れています。各所に設置された熊野街道道標はこの部署が設置したものと思われる。

さらにお勧めが、京阪電車発行の「京阪沿線ウォーキングまっぷ 大阪市内編熊野街道コース」が大変役立った。八軒家船着場から住吉大社までの熊野街道の道順や、その周辺の見所が詳しく載っている。全ての熊野街道道標の位置と距離が書き込まれている優れものです。熊野街道の大阪市内の道筋は、大阪府都市整備部のものと全く同じ。府が調査した道筋をそのまま利用したものと思われます。詳細さでは京阪のマップがはるかに優れます。

京阪のマップを片手に歩くことにしました。上町台地と呼ばれるこの丘陵は、かっては何もない野原だったと思われる。その先に四天王寺の五重塔が見え、それを目印に歩いたにちがいありません。現在、熊野街道とされる御祓筋・上汐筋を歩いていると、その道筋の正面にはビルの谷間からアベノハルカスが道しるべのように覗いています。迷ったらアベノハルカスに向かって歩けばよい。

 八軒家船着場(八軒家浜、はちけんやはま)  


早朝7時50分八軒家船着場に着く。ここから住吉神社を目指して歩き始めます。写真は、現在の八軒家船着場の様子。2008年(平成20年)京阪・天満橋駅の淀川河岸に、水都大阪の再生の目玉として大阪市によって八軒家浜船着場が開設された。船着場の傍には、観光船案内所、情報発信スペース、レストランからなる「『川の駅』はちけんや」も開業し、川沿いには遊歩道も設けられている。

現在は観光船・水上バスが発着し、大阪城、中乃島、淀屋橋など大阪市内の中心部を水上から観光できるのでお勧め。特に桜の季節は、造幣局や桜之宮公園の花見も水上から満喫でき最高です。

熊野詣のため京から船で川下りし、上陸した場所が「八軒家浜(はちけんやはま)」です。江戸時代、船宿などが八軒並んでいたことから「八軒家浜」と呼ばれ、京(伏見)と大坂を結ぶ「三十石船」と呼ばれる過書船の船着場で、淀川舟運の要衝として栄えた場所です。江戸時代前は「渡辺津(わたなべのつ)」「窪津(くぼつ)」などと呼ばれていた。
現在、その場所に「八軒家船着場跡」の跡碑が置かれている。京阪電車天満橋の駅ビルから土佐堀通を挟んだ向かいにある永田屋昆布店の軒先です。往時はこの辺までが浜だったのでしょう。このころの八軒家浜の様子は多くの文芸・美術作品に描かれています。

 熊野街道入口と窪津王子(くぼつおうじ)  



「八軒家船着場跡」の跡碑から100mほど西へ行くと、南へ伸びる真っ直ぐな筋が見える。これが「御祓筋(おはらいすじ)」と呼ばれ、熊野街道の出発点です。土佐堀通との角に碑が建てられ「熊野かいどう」というプレートがはめ込まれている。

熊野街道入口から一筋西側の筋を入ったビルの谷間に小さな社が建ち、熊野九十九王子の一番目の王子「窪津王子(くぼつおうじ)」(「渡辺王子」とも呼ばれた)があった場所だとされている。「御祓筋」とは熊野詣の人々が窪津王子でお祓いを受け出発したことから付けられた名称のようです。その位置には現在は「坐摩(いかすり)神社行宮」が建っている。この地にあった坐摩神社は、豊臣秀吉による大阪城築城の際、別の場所(大阪市中央区久太郎町四丁目)に移転したので、現在は小さな「行宮(あんぐう、仮の宮)」だけが建っている。
それでは窪津王子の御神体はどこへ行ってしまったのでしょうか?。そこ行き先は、四天王寺近くの堀越神社だそうです。この後、立ち寄ってみます。

 釣鐘屋敷跡  



御祓筋に戻り、少し行くと北大江公園。公園から南へ一筋目を右に入ると、道路脇に大きな鐘が吊り下げられているのが目に入る。これが釣鐘屋敷の名残り。「ご自由にお取りください」と傍に置かれていたパンフを要約します。

1634年(寛永11年)7月、3代将軍徳川家光が大坂城へ入った。この時、三郷惣年寄などが厚くおもてなしを行うと、家光は深く感激し”税を永代赦免しよう”と伝えた。惣年寄、郷民らは「一同歓喜し、鬨を作って感涙したといふ」。そして惣年寄達は協議し、後世子孫まで永くこの御恩を忘れないため釣鐘をつくり町中に時刻を知らせることとしたという。
高さ:1.9m、直径:1.1m、重さ:3トン。この釣鐘屋敷の鐘は2時間おき1日12回撞かれ、市中に隅々まで響き渡ったという。近松門左衛門『曽根崎心中』最後のお初・徳兵衛の道行きの場面でも響く。”あれ数ふれば暁の七つの時が六つなりて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなり”。「哀れを誘う鐘の音」として一番盛り上がる場面です。
現在はコンピュータ制御により、朝8時、12時、日没時の日3回自動的に時を知らせているそうです。ここの町名も「釣鐘町」です。

御祓筋を南へ歩く。年が明けて三日目、日曜日、街も人もまだお休み中。朝9時前、車の姿どころか人影さえ見られない。気持ちよく車道をスイスイと歩ける。デコボコした歩道に比べ、アスファルトの車道の歩き易さは格別です。

やがて中大江公園が見えてきました。公園入口には「熊野街道 大坂天満八軒家から0.5km」と刻まれた石の道標が建つ。大阪市内の熊野街道沿いには、各所にこれと同じ石の道標が建てられているので、歩く目印になります。できることなら現在地周辺の熊野街道の地図も・・・欲張りでしょうか?。

 坂口王子(さかぐちおうじ)と榎木大明神  


御祓筋ををさらに南へ行くと、右手に南大江公園が見えてくる。公園の南西奥に小さな紅い鳥居が見えます。小さな祠が置かれ、鳥居には「狸坂大明神」と書かれている。
その横に「朝日神明社跡(坂口王子伝承地)」の説明版が建てられている。ここには明治40年まで朝日神明宮という神社があっったが、現在は此花区春日出中に移っているという。

この辺りが「坂口王子の伝承地』とされています。坂口王子(さかぐちおうじ)は、熊野街道九十九王子の二番目の王子。現在は消滅し、跡地だけが印されている。御神体はどこへいったのでしょう?
公園脇には「大坂天満八軒家から1.3km」の熊野街道道標がある。「熊野かいどう」のプレートは、熊野街道入口にあったものと同じ内容でした。
南大江公園から100mほど行けば、道幅が細くなり階段の坂道になる。車はここで行き止まりになっています。御祓筋はここで終りなのでしょうか?。
石段坂道の脇には大樹が繁り、下に「榎木大明神」の紅い祠が建っている。ご神体は白蛇(通称辰巳さん)という。ここが坂口王子跡だという説もあるが。
樹木は大明神の名前にも使われているように榎木だと思われてきた。ところが昭和63年(1988)の検診で、中国から伝わった樹齢約650年の槐木(えんじゅ)だということが判った。それでも地元では「エノキさん」として親しまれているそうです。パワースポットとして人気を呼び、映画「プリンセストヨトミ」やNHK連続テレビ小説「てっぱん」のロケ地にもなったそうです。

石段を下れば長堀通りです。熊野街道は長堀通りを左に曲がるのですが、長堀通り越えた一筋目を左に入った所に直木三十五記念館があります。ちょっと寄り道してみます。


公園(桃園公園)の横に、白壁のしゃれた建物が建ち、黒地に白で「直木三十五記念館」と書き込まれた看板が見える。入口には案内も何もないので、入っていいのか戸惑う。階段を二階へ上がるが、狭くすぐ行き止まり。どこが記念館なのか戸惑っていると、若人が顔をだし教えてくれた。直ぐ横の、喫茶店か居酒屋風の小さなドアでした。なお200円請求されます。
内部は薄暗い10畳位の一室で、数多くの写真や書籍、直筆の手紙などの資料が展示されている。それほど直木三十五に興味がある訳ではないので、そこそこで退散しました。出口上部に掲げられていた”・・・ 貧乏は長し”だけが印象に残った記念館でした。

直木三十五(1891-1934)は大阪市南区内安堂寺町に生まれ、この記念館の隣にあった桃園小学校(中央小学校に統合され、現在は桃園公園に)通っていた。本名は「植村宗一」。直木は「植」を分割したもの。「三十五」は、まさか”さんじゅうご”とは読まないだろう、と思っていたらまさかでした。かなりの奇人・変人だったらしく、病気や借金を抱え、無頼で破天荒な人生を走り続け、そして四三歳という若さでその生涯を閉じている。翌年、友人の菊池寛が「直木三十五賞」を設け、現在までその名が伝わっている。この直木賞がなかったら、とっくに忘れられた小説家で終わっていたのかも。

詳しくはホームページ