山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

伏見城と明治天皇陵 3

2017年10月29日 | 名所巡り

2017年9月29日(金)今は明治天皇御陵となっている旧伏見城周辺を歩く

 伏見桃山城運動公園  



桓武天皇陵入口まで戻り、東への道を進む。100mほどで伏見桃山城運動公園の入口ゲートです。ゲート奥は広い駐車場ですが、今日は平日のためか車は見当たらない。
明治天皇陵背後のこの丘陵地に、昭和39年(1964)春、近鉄によって大規模遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が開園した。ところがバブルが崩壊し遊園地ブームが去り、2003年1月閉園する。その跡地が京都市によって「伏見桃山城運動公園」として整備されたものです。

このお城は、遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」のシンボルタワーとして建てられた。2003年に遊園地は閉園し、お城も取り壊すことになった。ところが地元から保存運動が起こり、結局京都市に無償贈与され、京都市の施設として存続し現在に至っている。伏見の町を造るきっかけになった伏見城は取り壊され今は無く、その領域に明治天皇陵が居座っている。伏見の住民にとっては、たとえ擬似とはいえ伏見のシンボルとしてお城を残してほしかったのでしょう。
五重6階の大天守と三重4階の小天守、櫓門などが鉄筋コンクリートで造られた。この場所は、伏見城御花畑山荘と推定されている場所で、かっての本丸の位置とは異なる。
「伏見桃山城」という名は遊園地用に近鉄が付けた名称で、歴史用語ではありません。豊臣秀吉・徳川家康の「伏見城」とは全く別のものです。別名「近鉄城」。

運動公園となっているだけに、野球場、多目的グランド、体育館などが設置されている。お城をバックにして野球するのもよいですね。城に向って打て~。
平日のせいか、どの施設も閑散としていたが、体育館裏のグランドでは、おじさん、おばさん達がゲートボールではしゃいでいました。

なお、現在は耐震性の問題から城の中へは立ち入り禁止になっている。外から見上げるしかありません。映画やドラマのロケ地撮影等に利用されているそうです。
この周辺は「桃山」と呼ばれるが、現在は桜の名所で、毎年春になるとその桜が満開になって、多くのお花見でお城周辺は大変賑わうそうです。今は閑散としていますが。

 伏見北堀公園  



野球場を北側に下っていくと体育館があり、体育館と道路を挟んだ斜め向かいに清涼院(せいりょういん)という小さなお寺があります。現在は浄土宗知恩院派の寺院(尼寺)ですが、秀吉の死後に伏見城に入った徳川家康が愛妾お亀のために建てた庵が起源とされている。お亀さんに子供が生まれ、「五郎太丸」と名付けられた。この五郎太丸こそ、後の尾張藩初代藩主・徳川義直。
本堂にはお亀さんの像と五郎太の青年時代の像が安置されているそうです。狭い境内を周ったが、歴史を示すものは見つけられなかった。入口の立派なサルスベリの木だけが印象に残りました。京都市指定保存樹だそうです。
現在の町名に、”亀”、”五郎太”が遺されているのは、さすが歴史の町・伏見だけある。

体育館脇が伏見北堀公園の入口です。伏見北堀公園は伏見丘陵の北側に、運動公園に接して造られた東西600mもある細長い公園。公園といっても娯楽施設があるわけではない。池と、遊歩道と、青々とした樹木が生い茂っているだけです。ファミリーで楽しめるというより、中高年の健康増進と憩いの場所となっている。
伏見北堀公園は、伏見城北側にあった外堀の遺構を利用したもの。窪んだ地形に細長い池、お城の堀だったということがよく分かる。今日、見て周ったなかで一番伏見城の面影を偲ばせる場所でした。

伏見北堀公園の東端から坂道を上り、右に折れると三叉路の突き当たりになる。この三叉路を左へ行けば古御香宮へ、右へ行けば仏国寺です。
その三叉路の突き当たりに「黒田長政下屋敷跡」の石柱と案内板が設置されている。秀吉は、伏見城の傍に全国の大名の屋敷を営ませた。大名とその妻子は帰国を許されず、常住を義務付けられたそうです。この辺りに、黒田官兵衛、長政親子の下屋敷があったという。参考地となっているが。

 古御香宮(ふるごこうぐう)と仏国寺  



三叉路を左に進み100mほど下ると,右手に古御香宮社の参道入り口が見えてきます。坂道の参道を登っていくと、鳥居が建ち,その奥に小さな本殿が見える。この神社は,秀吉の伏見城築城の折,北東の鬼門の方角にあたるこの地に鬼門除けの神として,御香宮神社(伏見九郷石井村、現在の伏見区御香宮門前町)の神を勧請し本殿を建てたのが始まり。しかし秀吉の没後の慶長十年(1605)、家康が城下町の人心安定のため、再び 元の地にに戻した。そこから「古御香宮(ふるごこう)」と呼ばれる。1868年、鳥羽・伏見の戦いの時には,御香宮神社の境内が薩摩藩の屯所になったので、神霊は一時的に古御香宮に遷されている。御香宮神社と同じ安産守護の神功皇后ほか九柱を祀る。

参道から本殿の右側の雑木林は,「大亀谷(おおかめだに)陵墓参考地」として宮内庁が占領管理し,柵で囲われ立ち入り禁止になっている。「ひょっとしたら桓武天皇の埋葬地かもしれない」という理由です。室町時代の古図に,それをにおわす記述があるからという。また大正時代にこの周辺から,花崗岩の板材を組み合わせた「石棺」が出土し,近くの仏国寺境内に置かれているそうです。古御香宮社本殿前には,その石棺の台石といわれる大きな石板が敷かれている。桓武天皇と関係あるのでしょうか?。

「石棺」が置かれているという仏国寺へ寄ってみる。「石棺」は大正時代に発掘され、花崗岩の切石造りで、長さ2.60メートル、幅1.28メートル、高さ1.13メートル。天井石は4枚、底石は5枚、側石は4枚からなっていたという。
入口の案内板には、江戸初期の代表的茶人、作庭家で伏見奉行でもあった小堀遠州の墓もあるという。境内のほとんどが墓地で、多くの墓石が群立している。その墓石の中を、「石棺」と小堀遠州の墓を探し回った。しかし、結局どちらも見つけることができませんでした。

あきらめて帰途につく。仏国寺からの下り坂で前方を見ると、眺望が開け伏見丘陵がよく見えています。これは写真に撮らなければならないと、道脇の低い崖をよじ登る。ところがなんと、目の前に小堀遠州の墓が飛び込んできた。こんな墓地の端の端に置かれているとは。ただし仏国寺の管理外のようです。

仏国寺への坂道から眺めた伏見丘陵です。今まで丘陵全体を見渡せることができなかったが、ここでは見渡せます。中央の一番高い辺りに伏見城天守閣があったと推定されている。その向こう側に、現在明治天皇陵があります。

 大岩山展望所  



仏国寺から坂道を200mほど進んだ所で右の道に入る。ここはやや判りにくいので、標識に注意すること。道を進んでいくと、住宅街を抜け竹林が見えてくる。200mほど竹林が続く。道はよくないが、両側の竹が爽やかだ。

竹林を抜けると道はやや急になってくるが、展望が開けてくる。ソーラーパネルが広がり、反対側は山を削る採掘場となっており雰囲気は良くない。その上、道も悪し。この道は京都一周トレイルになっているのだが・・・。

さらに数百m歩くと大岩山展望所に着く。一気に見晴らしがきき、その景観に感動します。想像していた以上の眺めだ。
大岩山展望所は京都一周トレイル「伏見・深草ルート」にあり、2010年3月に設けられた。最近、京都の新夜景スポットとして若者に人気だそうです。ただし駐車場も見当たらず、道も狭い。車では、不可ではないが難しいのでは。

京都方面を眺める
1:東寺、2:愛宕山(924m)、3:嵐山、4:名神高速道路、5:京セラ本社ビル、6:ポンポン山(679m)

大阪方面を眺める。
手前に伏見丘陵全体が見え、お城が乗っている。中央に、はるか遠く微かに大阪市内のビル群が見えます。アベノハルカスも肉眼で確認できました。右奥の丘陵は、岩清水八幡宮のある男山と思われます。

大阪市内の中心を、300mm望遠ズームで撮ってみました。中央辺りに大阪城があり、中央からやや左に薄っすらとそびえる一番高い建物がアベノハルカスです。右側には梅田、中の島辺りの高僧ビルが群立しているのが見える。
大気が澄みビルなどなかった秀吉の時代、伏見城と大阪城はお互いに見通せていたのです。どのような感慨をもって眺めあっていたのでしょうか。


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伏見城と明治天皇陵 2

2017年10月22日 | 名所巡り

2017年9月29日(金)今は明治天皇御陵となっている旧伏見城周辺を歩く

 明治天皇陵(伏見桃山陵)2  


230階段を登りきると現れる壮大な明治天皇御陵。仰げば尊し、感激のあまりひれ伏すか、230段に疲れはてヘタリ込むか。
鳥居後方の山上に、伏見城の本丸や天守閣がそびえ立っていた。その壮大な姿が浮かんできます。秀吉はそこで亡くなった。明治天皇墓の後方上に秀吉の墳墓を造ってはどうでしょうか。

明治天皇陵の正面拝所。明治天皇(1852~1912)は京都・中山邸で生まれ、父・孝明天皇の崩御により慶応4年(1868)16歳で第122代天皇に即位されました。大政奉還、王政復古から鳥羽・伏見の戦いという激動の時期です。即位すると京都を離れ東京の皇居に住まわれた。そして明治45年(1912)7月30日、宮中で崩御された。61歳、在位46年間でした。

天皇は生前「朕が百年の後は必ず陵を伏見に営むべし」という御遺志を残されていた。生誕の地であり少年期を過ごした京都に愛着があったのでしょうか。何故、伏見になったのか?。陸軍大演習の時、明治天皇はこの丘陵で統監され、この地が大変気に入ったとされる。そのため、東京でなく京都の伏見に葬られることになった。用地は生前より取得され、造営も行われていたという。

大正元年(1912)9月13日、東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の明治神宮外苑)で大喪の儀が行われた。翌9月14日午前1時40分、天皇の遺骸は青山仮停車場の霊柩車両に移御され、午前2時に発車し京都に向う。翌9月15日午後5時10分、遺骸は伏見の桃山仮停車場に到着。八瀬童子(後醍醐天皇以降、天皇の輿丁を担ってきた集団)104人の輿丁(よちょう)に担われ、午後7時35分に御陵の祭場殿に到着。皇族が隣席するなか、霊柩は玄室に奉安され葬られた。午後9時55分に奉葬の式が終了する。

宮内庁の正式御陵名は「伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)」で、陵形は「上円下方」。

Wikipediaを引用すれば「墳丘は古式に範を採った上円下方墳で、下段の方形壇の一辺は約60メートル、上段の円丘部の高さは約6.3メートル、表面にはさざれ石が葺かれている。方形の墓坑を掘って内壁をコンクリートで固め、その中に棺を入れた木槨を納めた。槨内の隙間には石灰を、石蓋をしてコンクリートで固めた。上円下方墳の墳形は天智天皇陵がモデルにされたという。」という。
大化の改新を断行した天智天皇陵を模したものだが、その後天智天皇陵は八角形墳だったことご判明している。
円墳には堅牢さを保ち、雑草を生えさせないためにさざれ石が葺かれ、コンクリで固められている。この「さざれ石」こそ日本国歌の”さざれいし”なのです。

Google Earthで上空より俯瞰(右は昭憲皇太后陵(伏見桃山東陵))
天皇の葬制については、中世では天皇も仏式に火葬され寺に埋葬というのが一般的になる。南北朝時代中頃から泉涌寺(京都市東山区)で天皇の火葬が行われるようになった。しかし江戸時代初め頃から天皇家の葬礼が土葬に戻り、天皇の葬儀場だった泉涌寺で葬儀が行われ、そのまま埋葬された。それが泉涌寺の月輪陵で、15人の天皇が眠っている。陵墓は石造塔形式の簡単なものです。宮内庁は陵形「九重塔」と表現している。まさに武士の時代で、皇室の衰えを象徴している。

ところが、幕末にいたって尊皇思想が高揚してくると天皇のお墓についても変化が生じてくる。第121代孝明天皇(明治天皇の父)が崩御されると、月輪陵の裏山を切り開き整形し、大規模な墳丘を持つ円墳が築造された。古墳時代に逆戻りしたのです。
明治天皇の陵墓も父を踏襲し、伏見城跡の山を削り整形し、父をもしのぐ大規模な陵墓が造られ、土葬された。大正天皇(武蔵野陵)、昭和天皇(武蔵野陵)も規模こそ小さいが、同様に「陵形:上円下方」(宮内庁の呼び方)の墳丘が造られ土葬された。

平成25年(2013)11月14日、宮内庁から「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」が発表された(内容は宮内庁サイトを)。それによると、ご葬法について今上天皇(明仁)および皇后(美智子)さまから「御陵の簡素化という観点も含め,火葬によって行うことが望ましいというお気持ち,かねてよりいただいていた」という。それを受けて宮内庁で検討した結果、
・御陵は今までどおりの上円下方形とし、規模は昭和天皇陵の8割程度とする。
・今後の「御葬法として御火葬がふさわしいものと考えるに至った」
と発表された。これにより、江戸時代初期から350年以上続いてきた天皇・皇后の葬儀と埋葬方法は今上天皇の代では大きく変わることになる。

 昭憲皇太后陵(伏見桃山東陵)  



明治天皇陵拝所前広場の東側に、下っていく参道がある。200mほど下っていくと、明治天皇の夫人・昭憲皇太后陵の拝所が見えてくる。ここは伏見城の名護屋丸跡に位置するようです。

昭憲皇后(一条美子、1849-1914)は藤原道長を遠祖とする藤原家の分家である一条家出身。大正3年(1914)4月11日崩御。中国の古式に則って、夫の天皇陵の東に造営されることになった。宮内庁の正式名称は「伏見桃山東陵(ふしみももやまのひがしのみささぎ)」。明治天皇と同様に大きな上円下方墳。規模はやや小さいが、ほぼ同じ作りである。三本鳥居をもち、並みの天皇陵より大きな構えだ。

ところで陵名は「昭憲皇太后」となっている。なぜ「昭憲皇后」でないのか。天皇の夫人は「皇后」、前天皇の皇后、つまり天皇の母親が「皇太后」です。だから明治天皇の夫人を「皇太后」とするのは間違い。何かの手違いで「昭憲皇太后」と天皇に上奏され、その裁可を得て決定されてしまった。天皇の決定は覆すことができないという。アア、不条理・・・
この周辺は、おじさん、おばさんのよい散歩道となっている。

 伏見桃山御陵参道  



昭憲皇太后陵から明治天皇陵前の広場に戻る。写真の左が230階段、前方奥にも参道がある。この参道は、伏見の大手門商店街、京阪電車・伏見桃山駅や近鉄・桃山御陵前駅から真っ直ぐ伸びるなだらかな道です。天皇陵の脇に出てくるので「脇参道」のようですが、ひょっとしたらこちらの方が表参道かもしれない。この参道を歩き、桓武天皇陵(柏原陵)へ向います。この参道の入り口には、桃山陵墓監区事務所とトイレがあります。

参道の中ほどの脇に、20個ほどの大きな石が置かれている、というか展示されているようでもある。御陵の工事中に出て来たものを集めたのでしょう。旧伏見城の石垣に用いられた残石だそうです。
残石には、文様や傷跡など、当時の生々しい痕跡を残しているものもあります。数少ない伏見城の残滓の一つです。

鬱蒼とした杉や檜に囲まれ、厳かな雰囲気を感じさす広く綺麗な参道を歩く。ただ、砂利がばら撒かれているだけなので、ズルズルして歩きにくい。どこの天皇陵も、その陵域は高さ1m以上もある頑丈な柵で囲まれ護られている。ところがここは柵とはいえないほどの低く簡単なもので、入ろうと思えば簡単に入れてしまう。そしてどの天皇陵にも張られている「犬の散歩は・・・」「犬のフンは・・・」の注意書きが見られない。
下っていくと左右の道と交わる。左は乃木神社方向へ。右の道が桓武天皇陵(柏原陵)へ続く参道となっている。
真っ直ぐ伸びた参道の遠くには、電車が通過し、その先に伏見の町並み見える。

右へ折れ桓武天皇陵の参道に入る。やがて、柵越しに小さな池が見えてきます。内堀の跡と推定され、数少ない伏見城を偲ばせる遺構です。この辺りには、かって石田三成の屋敷があり、三成の官名「治部少輔」から「治部少丸」と呼ばれていた。この池も「治部池(じぶいけ)」と名付けられている。ここの町名も「桃山町治部少丸」です。
柵の向こうの雑木林の中にチョコッと見えるだけです。案内板など何も無いので、予備知識がなければ見のがすかもしれない。

 桓武天皇陵(柏原陵)  




治部池のある所から100mほどで、交差路になる。真っ直ぐ行けば桓武天皇陵へ、右に曲がれば伏見桃山城運動公園です。この辺りの道は「京都一周トレイル」の中の「深草トレイル」コースで、よく整備されています。

入口の交差路から2~3分も歩けば桓武天皇陵(柏原陵)の拝所に着く。宮内庁はここを第50代桓武天皇の御陵「柏原陵(かしわばらのみささぎ)」と治定している。陵形は円丘。
ここの地名が「伏見区桃山町永井久太郎」。伏見城時代に,永井直勝と堀久太郎(秀政)のお屋敷があった場所らしい。

この場所が桓武天皇の真の埋葬地かどうかは、大いに疑問視されている。Wikipediaを引用すれば
「在世中に宇多野(うたの)への埋葬を希望したとされるが、不審な事件が相次ぎ卜占によって賀茂神社の祟りであるとする結果が出され、改めて伏見の地が選ばれ、柏原陵が営まれた。『延喜式』に記された永世不除の近陵として、古代から中世前期にかけて朝廷の厚い崇敬を集めた。柏原陵の在所は中世の動乱期において不明となり、さらに豊臣秀吉の築いた伏見城の敷地内に入ってしまったため、深草・伏見の間とのみ知られていた。」

要するに、伏見城築城の影響を受け、判らなくなったしまったのです。明治天皇陵の西北にあった伏見城二ノ丸跡説というのもある。幕末に谷森善臣という学者が、現在の地にあった高まりを桓武天皇陵だと主張した。これを受け、当時の宮内省が明治13年(1880)に「桓武天皇柏原陵」と決め、現在まで引き継がれている。考古学的な考証など行われておらず、全く根拠がない。今の宮内庁も信じていないのか、伏見丘陵の東北にある古御香宮社周辺を”ひょとしたらここかも”と「大亀谷陵墓参考地」として押えています。

桓武天皇は、都を奈良から長岡京に遷し、さらに10年後に京都の平安京へ遷都した。同じ伏見の丘陵に、京都に都を移した天皇と、1200年後に京都から東京に都を移した明治天皇が、枕を並べるように眠っておられるのは単なる偶然でしょうか。


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伏見城と明治天皇陵 1

2017年10月15日 | 名所巡り

2017年9月29日(金)
夏も終わり、涼しくなってきました。そろそろ出かけることにした。今回は京都市伏見区にある伏見城跡と明治天皇陵を中心に歩いてみます。
豊臣秀吉が築き、徳川家康に引き継がれ数々の歴史を刻んだ伏見城です。しかし現在その姿を見ることも、城地さえうかがうこともできなくなっている。その城地の大部分が明治天皇夫妻の陵墓として宮内庁管理下に置かれ、一般人はおろか研究者さえ立ち入り禁止になっているからです。Google Earthを利用して空から偲ぶしかない。
姿の見えない伏見城ですが、明治天皇陵周辺から伏見丘陵(桃山丘陵)にかけて歩いてみます。そして最後は大岩山展望所へ登り、全体を俯瞰します。

 伏見城  



姿の見えない伏見城をGoogle Earthの空中写真で(数字は、私の歩いたコース順です)
1:大光明寺陵、2:乃木神社、3:230段の階段、4:明治天皇陵(伏見桃山陵)、5:昭憲皇太后陵(伏見桃山東陵)、6:旧伏見城の残石、7:桓武天皇への入口、8:治部池、9:桓武天皇陵と伏見桃山城運動公園へ分岐路、10:桓武天皇陵(柏原陵)、11:遊園地用伏見桃山城、12:伏見桃山城運動公園、13:清涼院、14:伏見北堀公園、15:黒田長政下屋敷跡、16:古御香宮社、17:仏国寺

秀吉の死、関が原の戦い、家康・秀忠・家光の将軍就任、大坂城攻撃の拠点など重要な歴史を刻んできた伏見城。しかし現在その姿を見ることができないどころか、詳細も判明していないという。廃城が決定すると、一部の建物、石垣は解体され他へ持ち去られ、残ったものは徹底的に破壊されて跡形も無くなっている。「幻の城」なのです。
その上伏見城の跡地は、明治天皇存命中から宮内省が占拠し、明治天皇死後「伏見桃山陵」として占領統治している。御陵内部へは、宮内庁職員以外、研究者を含め誰も立ち入りことができない。皇室聖地の「静安と尊厳」を守るためだそうです。伏見城の調査・究明などできるはずがない。空から見ても、青々とした樹木が繁るのみで、お城の痕跡さえ覗えない。

なお伏見城の遺構で、持ち出された代表的なものは以下。
本丸天守--→二条城
伏見櫓--→江戸城、福山城
大手門--→御香宮神社(伏見区)
唐門--→豊国神社、醍醐寺の三宝院、西本願寺
茶室--→高台寺

 伏見城の歴史  


★指月の城 <文禄元年(1592)~文禄5年(1596)>
文禄元年(1592)8月、豊臣秀吉(1536/1537-1598)は、関白の位と京都での居城であった聚楽第を甥の豊臣秀次に譲り、自らの隠居所として宇治川沿いの低地丘陵である指月(しづき)の岡(現在の伏見区桃山町泰長老辺り)に邸宅の造営を始める。これが後の伏見城の原形とされる。
この指月の地は、平安時代より観月の名所と知られていた。(指月の場所については「指月の地」参照)
文禄2年(1593)8月、嫡子秀頼が誕生すると、位を譲った秀次との関係が悪化したことから、翌文禄3年(1594)には隠居屋敷は本格的な築城に改められ,天守閣などの城郭施設をもつ平山城に造り替えられていった。これが指月城です。淀古城の天守や櫓を移築し、延べ25万人を動員し,わずか5ヶ月で完成、8月1日に秀吉が入城している。同時に城下町の整備も行われ、武家屋敷,寺社,町家などの町割が行われ、現在の町の原型が形づくらた。
ところが築城後間もない文禄5年(1596)7月、後に「慶長伏見地震」と名付けられた直下型の大地震が発生した。建物は倒壊し多数の犠牲者をだしたが、秀吉は無事で翌朝に北東へ1キロ離れたに木幡山(こばたやま、標高100m)に逃れ、そこで避難生活を送った。

★豊臣秀吉の築いた木幡山城(伏見城)<慶長元年(1596)~(慶長5年(1600)>
地震後すぐ、避難先の木幡山で築城が始まった。指月城の再利用できる資材を運び、昼夜を徹した築城工事が行われた。翌慶長2年(1597)5月までには本丸、天守閣が完成し、秀吉は秀頼とともに大坂城から移ってきた。
本丸を中心に、西北に天守閣があり、西方に淀殿の住した二の丸、北東部に松の丸、南東部に名護屋丸、曲輪下には三の丸、山里丸等の曲輪を配し、出丸部分を加えると12の曲輪が存在したという。それらの周囲は堀(最大幅100m)、空堀、高石垣で囲まれていた。
全国各地から有力大名が集められ、大名・武家屋敷が連なり、さらに商工業者も住むようになり城下町も広がっていった。
慶長3年(1598)8月18日、秀吉はここ木幡山伏見城で没する。秀吉の遺言により、秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって五大老筆頭だった徳川家康が伏見城に入り政務を執る。

(「京都歴史散策マップ」を利用)
★伏見城の戦い(◆木幡山城の戦い)
慶長5年(1600)6月、家康は伏見城の留守居役に家臣・鳥居元忠を任じ、会津征伐に動き出す。この間隙をぬって、西軍の石田三成、小早川秀秋、島津義弘連合軍は伏見城を4万の兵で攻めた。鳥居元忠は、籠城し10日間持ちこたえたが、本丸で討死する。伏見城は炎上し、落城する。秀吉の築いた伏見城はこうして焼け落ちてしまった。この時の戦いで、立てこもっていた徳川家の家臣らの割腹の際の血染めの廊下板が、「血天井」として京都市の養源院、正伝寺などに遺されている。ただしその真偽は不明。この木幡山城の戦いが、この後の関ヶ原の戦い(1600年)の前哨戦とたった。

★徳川家康による木幡山城(伏見城)再築  <慶長5年(1600)~元和5年(1619)>
慶長5年(1600)9月の関ヶ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康は,翌年には藤堂高虎を普請奉行に命じ伏見城の再建を始めた。慶長7年(1602)には再建され、家康が入り大阪城の豊臣氏に対する西の拠点とした。翌年慶長8年(1603)2月,家康は伏見城で征夷大将軍に就任しました。その以後三代徳川家光まで伏見城で将軍宣下式を行っている。

その後、駿府城が改築されると家康もそちらに移り、宝物や什器、備品など駿府城へ移された。慶長12年(1607)に松平定勝が城代となり、また大番等による在番や定番が行われた。元和元年(1615)の大坂冬の陣・夏の陣では大坂城攻撃の拠点となる。

★廃城とその後 <元和5年(1619)~>
大坂の陣後、豊臣氏が滅亡し伏見城は城郭としての役割を終える。京都には二条城があるので、一国一城令の主旨からも伏見城の必要性はなくなり、元和5年(1619)に廃城が決まる。元和9年(1623)7月16日の三代将軍徳川家光の将軍宣下の式を最後に、廃城となる。五層の天守は二条城、また、福山城、淀城などに移された。建物、石垣などは京都の社寺や大名屋敷に移築されたともいう。城跡は徹底的に破壊されたとみられている。

廃城後の跡地は「古城山」と呼ばれ、桃の木が植えられた。そこから「桃山」と呼ばれるようになる。歴史用語に「安土桃山時代」「桃山文化」というのがありますが違和感を感じます。織田信長と豊臣秀吉の時代なので、安土城と伏見城から「安土伏見時代」とするのが正解じゃないでしょうか。丸暗記したものは、なかなか消えないでしょうが・・・。また「伏見桃山城」という名は、近鉄が遊園地内に建てた城の名称にすぎず、歴史用語ではありません。
桃山(伏見)丘陵は、現在は桜の名所ですが。

 指月(しげつ)の地  



伏見城は伏見桃山丘陵(木幡山)の上のほうにあったが、伏見城の元になった秀吉の隠居邸や指月城は「指月の岡」に造られたとされる。指月は「四月」とも書かれ、宇治川の中州に浮かぶ川の月、池の月、空の月、杯の月を一度に眺めることのでき、平安時代から月見の名所として知られた景勝の地であったという。
ところがその「指月の岡」が何処なのか長い間不明のままでしたが、最近の調査で少しずつ明らかになってきた。宇治川北岸で、現在の桃山町泰長老一帯を指すと推定されている。京阪電車宇治線・観月橋駅とJR奈良線・桃山駅に挟まれた地域です。現在は住宅地となっており、団地や近畿財務局桃山東合同宿舎が建っています。この周辺を歩いてみました。
京阪電車宇治線・観月橋駅を降り、200mほど歩くと月橋院(げつきょういん)というお寺に出会う。ここには応仁の乱後に創建された後土御門天皇勅願の般舟三昧院という寺があったが、秀吉の築城のおり上京・西陣へ移転する。その跡地に真言宗の円覚寺が開創されたのが始まり。この寺で、秀吉が月見の宴を催したことから「月橋院」となったという。現在は、「指月山」を山号とする曹洞宗のお寺。
境内に石柱「指月山月橋禅院」が立つ。この辺りが「指月」の地であったことをうかがわせます。

住宅路を丘陵方向へ向って真っ直ぐ進むと、JR奈良線に突き当たる。その手前を左折し150mほど行くと天皇陵・大光明寺陵(だいこうみょうじりょう)の入口が現れる。150mほどの参道を進めば拝所です。
この場所には、夢窓疎石(むそうそせき)が建立した臨済宗の大光明寺という寺があった。伏見城築城時に相国寺に移転する。この寺が北朝方の御願寺だったので、後に北朝方だった光明、崇光天皇の陵墓としたのでしょう。治仁(はるひと)親王の墓もある。この人は崇光天皇のお孫さんです。

ここは光明天皇(こうみょうてんのう、在位:1336-1348)と崇光天皇(すこうてんのう、在位:1349-1351)の御陵です。ところが宮内庁の陵墓一覧には載っていない。南北朝時代の北朝の天皇さんだからです。
南朝、北朝に分裂した争いは、1392年(元中9年/明徳3年)南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合体した。そして北朝方の天皇の系統が現在まで続いている。だからどちらが正統かといえば、北朝となる。事実、江戸時代まで北朝正統論が主流だった。
ところが明治維新後は南朝正統論が台頭してきます。南朝の後醍醐天皇が、幕府を否定し天皇親政を実現しようとした倒幕運動が、明治維新を成しとげた尊皇イデオロギーと結びついたのでしょう。学会で論争になり、帝国議会までもが紛糾する。事態を憂慮した明治天皇はついに明治44年(1911)、「南朝を正統とする」旨を決定しました。北朝系の明治天皇も誰かに言わされたのでしょう。歴史教科書でそれまで使われていた「南北朝時代」という歴史用語も、”北朝”を含むと問題視され、「吉野朝時代」に変えられてしまったという。

この明治天皇の裁定は現在でも有効で、北朝の6代6人の天皇のうち後小松天皇を除く5人は、歴代天皇に含まれないことになった。そのため宮内庁の陵墓一覧に載っていないのです。ただし、歴代には数えないが、正式な天皇として認め、祭祀なども天皇としておこなわれているそうです。系統的には明治天皇以降平成天皇までも北朝系です。しかし正式に正統とされているのは南朝のほうです。おかしな話ですネ。こうした天皇制の微妙なところは誰も手をつけようとしない。天皇制は妖怪です。
公式陵形は円丘。現在の天皇の直系の先祖にしては、ちょっとお粗末な陵墓に見えます。

 乃木神社  



JR奈良線のガードを潜り、突き当りを右折し坂道を上るとすぐ正面に乃木神社が見えてくる。すぐ傍に桃山小学校があり、生徒達の明るい声が飛び交っている。地名は「桃山町板倉周防」で、伏見城時代には武家屋敷があった。

乃木希典(のぎ まれすけ、1849-1912) は長府藩士で、西南の役、日清戦争、日露戦争と明治期の戦争に従軍した軍人。後に陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵となり、「乃木大将」「乃木将軍」などと呼ばれた。
明治天皇が崩御すると、大葬の列を見送って帰宅した後、赤坂の屋敷にて皇居に向い静子夫人とともに自害する。
この乃木夫妻の死は、天皇への忠心「殉死」として美化される。時の権力によって宣伝流布され、天皇へ身をささげる犠牲の精神の高揚へと利用されていった。乃木希典の本望だったか、否か・・・。「殉死」として美化されるにつれ、全国各地に乃木神社が建立されていったのです。

楠木正成を祀る湊川神社を模して造られたという本殿には、乃木夫妻が神として祀られている。北にある明治天皇陵に向いて建てられています。
本殿前左右には二頭の馬が跳ねている。左が日露戦争後にロシアのステッセル将軍から贈られたアラビア産の牡馬。「壽号(すごう)」といい、乃木の愛馬であった。右は、壽号の子馬で「璞号(あらたまごう)」と呼ぶ。


本殿脇に村野山人像が建つ。村野山人(むらのさんじん)とは乃木神社を創建した方です。案内板を要約すると。
村野山人は薩摩の人で、九州、関西などの各電鉄会社の取締役を歴任し、また衆議院議員も二期務めている。明治天皇の大葬の際は京阪電車の会社代表として参列。翌日、乃木夫妻の殉死を聞いて強い衝撃と感銘を受けた。乃木夫妻の1周忌にあたる1年後、会社を辞め全ての身代を投じて、明治天皇の奥津城たる伏見桃山陵の傍らに乃木夫妻を祀る神社創建に尽力する。ここの土地はもともと皇室の御料地だったが、村野山人をはじめ政財界人や軍人の努力や、時の政府の力添えによって建設が許可され、大正5年(1916)9月に創建された。

境内には、長府(山口県)生家を復元した建物、日露戦争時の旅順・第三軍司令部だった建物、軍艦吾妻の主錨など、乃木将軍に関係するものが置かれておる。その中に「さざれ石」というのがありました。国歌の”さざれいし”が石のことだと初めて知った。直接、乃木将軍とは関係ないのですが、さすが国威発揚の地です。

 明治天皇陵(伏見桃山陵)1  


乃木神社を出て鳥居をくぐり北へ少し進むと三叉路になる。右に折れ、青々とした樹木に囲まれた車道を歩く。天皇陵へ通じる道らしく森厳な雰囲気に満ちている。涼しく気持ちいい。左の森は宮内庁統治の占領地となっており、頑丈そうな柵で囲われ何人も入れない。
車道は二手に分かれる。天皇陵へは左の道に入る。右の道は下って宇治方面への向かっている。

すぐ左手に噂の230段の石段が現れる。この辺り、静かさの中に厳粛さが演出されています。
伏見城の本丸や天守閣は、ちょうど階段の上方にあったと想定されている。この階段辺りには何があったのでしょうか。大手門?櫓?。この広場は、内堀だったかもしれない。いろいろ想像してしまう。

石段前の広場には、さらに奥へ続く参道がある。この参道は昭憲皇太后陵への緩やかな坂道となっている。そして昭憲皇太后陵から明治天皇陵へつながっているので、この回り道を利用すれば230段の石段は回避できます。

階段はかなり急で、登り応えがあります。23段ごとに幅広段となり、全部で10区切りされている。

室生寺の鎧坂、神護寺の金堂前の階段を思い出し、紅葉や桜で覆われた階段をイメージしてしまった。230段もあるので、その色鮮やかな風景に、シーズンには見物客が押し寄せることでしょう。しかしここは皇室の聖地、静安と尊厳を乱してはなりません。階段横の樹木を見るが、色鮮やかさを演出するような樹木は見当たりません。
この階段は粛々と登るためだけのものです。それと若人、中年をとわず健康増進の鍛錬場となっている。さすがに後期高齢者には無理かも。それより、明治・大正生まれの人って、まずここまで来れないでしょう。

230段の石段をようやく登りきると、目の前に厳かな明治天皇墓が次第しだいに姿を現します。天皇崇拝者にとっては感動的な瞬間と思われます。私は、天皇墓より階段上からの景観のほうに感動したという、不敬者です。伏見南部から宇治市、遠くに生駒山から連なる山々が見渡せる。後ろの山上に建っていた伏見城天守閣からは、大阪城も見えたかもしれない。


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