山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

宣化天皇陵からキトラ古墳へ 2

2020年10月23日 | 古墳を訪ねて

★2020年10月3日(土曜日)
午後からは牽牛子塚古墳~真弓鑵子塚古墳~岩屋山古墳~マルコ山古墳~束明神古墳~岡宮天皇陵~キトラ古墳~檜隈寺跡の順に歩きます。
(追記)牽牛子塚古墳が誰でもが認める斉明天皇陵だが、宮内庁は車木ケンノウ古墳に固執している。そこで後日(11月12日)、車木ケンノウ古墳を訪れてみました。

 牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)  




次は牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)だ。沼山古墳のある公園から車道を南へ200mほど歩けば白橿中学校の校舎に突き当たる。中学校背後に見える丘陵の反対側に牽牛子塚古墳は位置している。校舎の西側に入り、プール横を通って丘陵に入って行く。雑草の中に、かすかに道跡が残っている。一本道なので困ることはない。

10分ほどで丘の頂に出ると、柵が現れ牽牛子塚古墳の領域には入れないようになっている。牽牛子塚古墳石室の閉室について明日香村教育委員会のページには「牽牛子塚古墳等整備工事の進捗に伴い、工事が完成するまでの間、史跡地内及び牽牛子塚古墳の見学ができなくなります。期間 平成33年3月31日(予定)まで」とありました。高松塚古墳やキトラ古墳のような歴史公園に復元整備するようです。平成33年って来年だっけ?。
上記のページに載っていた完成図です。飛鳥時代の『見える化』の取り組みとして、墳丘を屋根で覆い当時の石を模したタイルを積んで八角形の外観を再現し、石槨も見学可能にする構想、だそうです。

柵を少し乗り越え撮った写真で、古墳の北側になる。
2009年(平成21年)から2010年(平成22年)にかけて明日香村教育委員会による発掘調査が行われ、対角線約33メートル、高さ約4.5メートル、版築(はんちく、何層にも土をつき固める手法)による三段築成の八角墳であることが判明した。また、三角柱状に削った白色凝灰岩の切り石やその破片が多数出土しており、墳丘斜面を装飾していたと思われる。

山道は丘陵上を東に向って続いている。時々整備工事の現場が見えます。これは東側から眺めたもの。

埋葬施設は、凝灰岩の一個の巨石(横幅5m,奥行き3.5m,高さ2.5m)をくり抜いて造った横口式石槨。この巨石は約15km離れた二上山西麓より運搬されたもの。
厚さ45cmの壁によって仕切られた東西二つの石室が南を向いて開いている。左右両室は奥行き2.1m,幅1.2m,高さ1.3mでほぼ同形・同大。天井は丸みをおびており、壁の全面には漆喰が塗られていた。床面には長さ約2m、幅約80cm、高さ10cmの棺台(棺床)が削り出しによって造られていた。
「古墳全体に使用された石の総重量は550トン以上と考えられる。運搬には丸太(ころ)を用いても数百人、地面を引きずったとすれば1,400人もの人員が必要であり、これについては、巨石を大勢で長距離運ぶこと自体に律令国家の権力を誇示する意図があったという見方がある。」(Wikipediaより)

盗掘を受けていたが、大正時代に夾紵棺(きょうちょかん、麻布を漆で何重にも貼り重ねてつくった当時としては最高級の棺)の断片と棺を飾った金銅製の金具、ガラス玉、30代後半と推定される女性の一本の歯など出土し、大正12年(1923)に「牽牛子塚古墳」の名称で国の史跡に指定された。これらの出土品も昭和28年(1953)、国の重要文化財に指定され奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に保管されている。
築造年代は、遺物等から7世紀中葉から8世紀初頭までが推定されている。

これは南側から撮った写真。

ほぼ同形同大の二つの墓室をもつこの古墳の被葬者は誰か、ということが以前から注目されていた。
今まで、古墳の立地や歯牙等から斉明天皇と娘の間人皇女(孝徳天皇の皇后)の母娘の合葬墓とする説が有力だった。第37代・斉明天皇(女帝、594-661、第34代舒明天皇の皇后)は、百済救援のため九州におもむいたが、661年筑紫の朝倉宮で没した。遺骸は大和へ運ばれ、モガリの後の天智6年(667)に子・間人皇女(665年死去)と合葬されたという。日本書記には,斉明天皇と「間人皇女とを小市岡上陵に合せ葬せり。是の日に,皇孫大田皇女を,陵の前の墓に葬す」と記されている。牽牛子塚古墳のある場所は明日香村大字越で、「越」は古代の「小市」が転化したもので、場所も日本書記の記述に合致する。
八角墳と判明したこともこの説を裏付ける。中国の道教の影響から「八」が重視され、七世紀中葉以降の天皇陵は八角墳が多くなる。斉明天皇の夫・舒明天皇の陵墓(段ノ塚古墳)、子の天智天皇の陵墓(御廟野古墳)および天武天皇の陵墓(野口王墓、持統天皇との合葬墳)がいずれも八角墳です。
さらに2010年(平成22年)の調査で、牽牛子塚古墳に隣接して小さな古墳が見つかり、地元の小字名から「越塚御門古墳(こしつかごもんこふん)」と名付けられた。日本書記に記述されている大田皇女の墓である可能性が高い。大田皇女(おほたのひめみこ)は,中大兄皇子(天智天皇)の娘,即ち斉明天皇の孫にあたり,大海人皇子(天武天皇)の妃、持統天皇と姉妹。そうだとすると、母・娘・孫娘の女性三代が眠るという特異な墓域です。
平成26年(2014)、国の史跡「牽牛子塚古墳」に越塚御門古墳が追加指定された。

こうしたことから牽牛子塚古墳は斉明天皇と間人皇女との合葬墓であることがほぼ確定され、学界の常識となっている。しかし宮内庁は、ここから2.5キロメートル西に離れた、奈良県高市郡高取町大字車木に所在する車木ケンノウ古墳を斉明天皇陵として治定している。見直しの声が高まっても「墓誌など確実なものが発見されない限りは陵墓治定を見直す必要はない」との立場をとっている。車木ケンノウ古墳にも墓誌などあるはずがない。墓誌が残されている古墳など存在しないので、明治初期にあやふやな理由で決められた天皇陵は、誤っていても治定替えできないことになる。ましてや、公園化され石室も含め一般公開されると、ますます天皇陵へ治定替えはできなくなる。「陵墓は皇室祭祀の場であり、静安と尊厳を保持しなければならない」ので、何人も踏み込むことの出来ない聖域だ、というのが宮内庁の論理だからです。斉明天皇と娘、孫娘の静安と尊厳はどうなるんでしょうか?。

 真弓鑵子塚古墳 (まゆみかんすづか)  



牽牛子塚古墳の整備工事現場を避けながら丘陵上に山道が東へ続いている。かなり荒れた道だ。
しばらく歩くと「カンス塚→」の標識が現れ、その矢印の方へ歩くと「真弓鑵子塚古墳」の案内板が設置されていた。案内板がある小道へ這入っていくとすぐ小山です。

小山へ入っていくと、道は金網のフェンスで遮られこれ以上進めない。しかしよく見ると、フェンスの右端が広げられ、かろうじて通れるくらい開いている。好奇心の強い誰かがこじ開けたのでしょう。
私も少々好奇心があるので、ゴメンナサイと言いながら這入っていった。フェンスの先はすぐ10段ほどの階段になっている。階段上で左右に道が分かれる。案内などあるはずがなく、さてどちらに行くか?。左に行ったら正解でした。

20mほどで石室が見えてくる。石室の開口部は小さく、格子戸で閉鎖されている。格子の間からレンズを差し入れ撮ってみたが、暗すぎて写らない。フラッシュがないと無理なようです。

南向きの片袖式横穴式石室は全長17.8mあり、羨道、棺を置く玄室、奥室からなる。大きな石を積み上げた石室の壁面は、三段目以降が内側に迫り出させる持ち送り(穹窿式)により、ドーム状の天井となっている。これほど大規模なドーム状石室は国内では珍しいそうです。「鑵子(カンス)」とは湯釜・茶釜のことで、このドーム形状からきている。この周辺には「鑵子塚」との名を持つ古墳がいくつか存在しています。
玄室の広さはあの石舞台古墳をしのぎ国内最大級とされる。追葬により複数の棺を納める意図があったと思われます。石室の西側と奥室の床から家型石棺の破片が出土しており、石棺が二棺あったと思われる。さらに見つかった鉄釘から木棺が1棺以上があった可能性があるという。
玄室から続く北側に通路状の奥室を持つのが珍しい。割石を小口積みにした閉塞石が見つかっていることから、これは北側からの入口で、内から石壁で塞いだものと想定される。

丘陵の一部を削り出し盛土した直径約40m、高さ約8mの二段築成の円墳。
ここに眠っている被葬者は?。朝鮮半島に多く見られるドーム状の石室や、渡来人の古墳からよく見つかる遺物が出土していることから渡来系氏族だと考えられる。特に明日香村南西部から高取町にかけての地域は檜隈と呼ばれ、檜隈寺を中心に東漢氏(やまとのあやうじ)が多数居住していた。蘇我氏に近づいて勢力を伸ばした渡来系氏族・東漢氏が有力視されている。

 岩屋山古墳(いわややまこふん)  



牽牛子塚古墳や真弓鑵子塚古墳のある場所から東の近鉄吉野線・飛鳥駅を目指して歩く。飛鳥駅の東側駅前は、高松塚古墳に近いこともあってよく整備され開けている。ところが西側の駅裏は昔からの越の集落で、細い路地が入り組み曲がりくねっています。岩屋山古墳はすぐ駅裏なのだが、見つけるのに苦労しました。
路地から横を見ると、少し入った正面に古墳の盛り土だけがポッコリと佇んでいる。丘陵の一部のような形状を想定していたが、周りに森や丘のようなものはありません。墳丘の一部は削平されて民家となっているようです。

石段をのぼると南向きに石室が大きく開口している。版築による二段築成で、下段は方形だが、上段は封土が削り取られているため形状は明確でない。方形か、円形か、八角墳との見方もある。
全長約17mの両袖式横穴式石室は、巨大な花崗岩の切石を組みあげて造られている。表面の滑らかさといい、これほど精巧に切石加工が施されている古墳も珍しいという。手前の長さ12mの羨道は、手前が二段積み、奥が巨石を3枚並べた一段だけ。5枚の天井石がのっかる。

奥の玄室は二段積みで、各壁とも上段は内側へ少し傾いた構造をしている。天井石は大きな一枚岩が被さる。石と石との隙間には、丁寧に漆喰が塗り込められています。築造年代は7世紀前半頃と推定されている。なお石室内は既に乱掘されており、埋葬当時の遺物は発見されなかったらしい。

ここと同じような規格をもつ切石積石室の構造を「岩屋山式石室」は呼び、石室編年の指標の1つとなっている。古墳時代終末期の横穴式石室の代表的な形式だそうです。このような「岩屋山式」の横穴式石室は、飛鳥地方から桜井地方にかけて多く分布しており、今日見てきた小谷古墳もその一つ。
被葬者については、八角墳だとするなら当時としては最大クラスの古墳となり斉明天皇の可能性もあるという。その他、吉備姫王、巨勢雄柄宿禰らの名があげられるが詳細は不明。

石室にも、墳上にも自由に出入りでき、これほど開放的な古墳も珍しい。古墳勉強のモデルケースにできそうだ。横穴式石室が開口していたので、古くからその存在が広く知られていた。明治時代に英人・ウイリアム・ゴーランドが石室に入り「舌を巻くほど見事な仕上げと石を完璧に組み合わせてある点で日本中のどれ一つとして及ばない」と書いている。桜井市の文殊院西古墳と並んで「日本一美しい古墳」と云われています。昭和43年(1968)に国の史跡に指定された。

墳丘上からの眺めもよい。こちらは東側で、中央に見える森は欽明天皇陵で、その後方には明日香村が広がる。どこにでも見られるありふれた風景だが、その歴史を知ればまた違った感慨が湧いてくる眺めです。

 マルコ山古墳  



岩屋山古墳の次はマルコ山古墳です。少し距離があります。込み入った越の集落を南に抜け、マルコ山古墳へ続く道にでる。さらに西方の丘陵目指して20分位歩くと、古墳のある地ノ窪集落が見えてきました。集落に入るとすぐ右手に、緑美しく復元された古墳の墳丘が現れる。案内標識も置かれていた。名前のとおり「マルッコイ」古墳だ。

高松塚古墳で日本中が沸き立っていた頃、高松塚とよく似ているということでマルコ山古墳も注目され調査されました。しかし残念ながら”美人”は見つからなかった。期待をもたせてくれてアリガトウ、ということからか高松塚古墳と同じように復元整備されたのです。国の指定史跡になっている。

真弓丘陵の東西にのびる尾根の南斜面を利用して作られている。この時期、お墓に彼岸花が供されています。

以前の調査で円墳とされていたが、平成16年(2004)、西側の民家が立ち退いたのを機に再調査した結果、1辺約12mの六角形古墳(下段の最長対角線約24m、高さ5.3m)だということが判った。八角墳は多いが、六角墳というのは非常に珍しい。墳丘は版築(土を層状につき固めて壁などを作る方法)による盛土を行って、二段築成で築かれていた。築造時期は7世紀末~8世紀初めの古墳時代終末期と想定される。

発掘後、埋め戻されてしまったので石室は見ることができません。南向きに開口していた横穴式石室は、高松塚古墳やキトラ古墳と同じように凝灰岩の切石を組み合わせて築いたもの。天井石の内側は屋根型に刳り込まれ、床を含む内壁には漆喰がぬられていた。
盗掘にあい副葬品などは持ち去られ少ないが、漆塗木棺(乾漆棺)の破片、鉄釘や銅釘、金銅六花形飾金具、金銅製大刀金具、尾錠などが出土している。

墳丘の裾に右へ回りこむ道がついている。その先に屋根付の施設があるので休憩所かと思ったらトイレでした。これは背後の北側。UFOか、土饅頭か?、子供達の遊び場にも良い。特に道は設けられていませんが、墳丘上まで登ることもできます。

被葬者は?。当時、天皇や皇太子は八角墳に葬られており、六角墳は円墳の高松塚、キトラ両古墳より格上で、天皇につぐ身分の高い皇族関係の人が想定される。30歳代と思われる男性の人骨が出土していることから壮年の男性と推定され、天智天皇の川島皇子が有力視されている。

 束明神古墳(つかみょうじん)  



次は束明神古墳(つかみょうじん)です。マルコ山古墳からは直線距離にすると近いのだが、間に田畑が遮り、近くて遠い。いったん近鉄線傍まで戻り、そこから奈良県立高取国際高等学校に沿った北側の道を西へ歩く。田畑を越えた先に、さっきのマルコ山古墳が見えている。この田畑を横断しようと二度挑戦したがダメだった。イノシシ(熊?)用の柵が張り巡らされているのです。無理やり越えるとケガをするし、イノシシに間違えられる・・・。

春日神社のある山裾の佐田集落を目指します。。黄金の稲穂と、畦道に咲く真っ赤な彼岸花が秋を感じさせてくれる。

民家が入り組み込み入った佐田の集落の中を歩く。やっと春日神社の階段を見つけました。100段あるこの階段を登ると春日神社です。鳥居の右上に古墳と思われる土饅頭が見えていた。

現在、小さな土盛りにしか見えないが、これは神社によって削られてしまったためです。調査によれば、丘陵の尾根の南側を直径約60mにわたり造成し、その中央部に対角長36mの八角形墳が造成されていたことが判明した。7世紀後半から末頃の終末期古墳に属する。
南側に開口する横口式石槨は、長さ約3m、幅約2m、高さ約2.5mで、二上山の凝灰岩を縦横50cm、厚さ30cmの切石にし積み上げて造られていた。床には漆喰が塗られていた。現在は埋め戻されているが、復元された石槨が橿原考古学研究所付属博物館の前庭にあるそうです。

被葬者については、天武天皇と持統天皇の息子の草壁皇子(くさかべのみこ)が有力視されている。歯牙6本が出土し、年齢は青年期から壮年期の男性のものと推定され、689年に28歳の若さで病死した草壁皇子に合致する。古墳の周辺から出土した須恵器の破片などからも7世紀後半から末頃の築造であること、高貴な人の墓とされる八角墳であること、また文献(万葉集・延喜式)に佐田の近くの「真弓の岡」に葬られた、と記述されている。こうしたことから総合的に判断して草壁皇子の陵墓だとするのが大方の見方になっている。

佐田の村でも岡宮天皇(草壁皇子)の御陵だという認識が以前からあったようです。幕末に、陵墓指定の調査が入るとの話が伝わると、村人達は陵墓指定されると強制移住させられるのではないか、と恐れた。そこで古墳にめぐらせていた玉垣をはずし、石室を壊した。役人がやってきて鉄の棒を墳頂から突いたが石室にあたらず断念した、という伝承が伝わっている。結局、300m南の現在の陵墓地が「岡宮天皇陵」となった。

 岡宮天皇陵(おかみや)  



草壁皇子の墓「岡宮天皇陵」は、束明神古墳から300mほど南です。南へ下る道の途中で右へ入る。標識は立っているが、見逃しやすい。

右の道へ入り、ゆるい坂を上ってゆく。すると階段が二つ現れる。正面の簡素な門のある階段は素戔鳴命神社へ、左の階段が陵墓へのもの。

どの天皇陵でも見られる同じような構えの陵墓です。ただ柵で閉められ中に入れず、正面に回ることはできない。「岡宮天皇真弓丘陵」(まゆみのおかのみささぎ)となっている。「岡宮天皇」とは歴代天皇の系譜に入っていないが、天武天皇と持統天皇の息子の草壁皇子に後になって追号されたものです。

天武天皇の崩御後、皇太子だった草壁皇子が父を継いで天皇になるはずだったが、持統3年(689)4月に28歳という若さで病死し、天皇として即位することなく佐田の近くの「真弓の岡」に葬られた。草壁皇子の妃は天智天皇の皇女で持統天皇の異母妹にあたる阿陪皇女で、後に元明天皇として即位する。さらに娘は元正天皇、息子は文武天皇として即位し、孫には聖武天皇がいる。身内のほとんどが皇位についているのです。こうしたことから淳仁天皇(草壁皇子の異母弟に当たる舎人皇子の皇子)即位後の天平宝宇2年(758)に、「岡宮御宇天皇」(おかのみやぎょうてんのう)という尊号が贈られた。

草壁皇子墓は佐田の近くの丘陵とされていたが、はっきりとした場所は江戸時代まで不明だった。幕末の文久2年(1862)から始まった「文久の修陵」で、歴代天皇陵の探索とその修陵が行われた。岡宮天皇陵もその時に現在地に治定され、遥拝所が設けられたのです。もともと現在地には素戔鳴命神社の本殿が鎮座していたが、神社は東側に移動させられてしまった。草壁皇子墓を現在地とする根拠はなく、束明神古墳こそ草壁皇子の墓だ、というのが現在の大方の見立てです。

離れて眺めた岡宮天皇陵。環境はすこぶる良さそうです。右側の森の中に隠されてしまった素戔鳴命神社が思いやられます。

 キトラ古墳  



今日の目的地・キトラ古墳へ向います。近鉄吉野線・壷坂山駅に出て、そこかキトラ古墳目指して東の方向に歩く。さすが人気のキトラ古墳だけあって、駅前からはよく整備された遊歩道が設けられている。案内標識によると、壷坂山駅から1キロのようだ。
キトラ古墳の墳丘は小高い阿部山の南斜面に築かれている。2013年に石室の考古学的調査は終了し、石室は埋め戻されて墳丘の復元整備が行われた。現在、整備は完了し「国営飛鳥歴史公園 キトラ古墳周辺地区」となっている。特別史跡キトラ古墳を周辺の自然環境や田園環境とあわせて一体的に守るとともに、多くの人が飛鳥の歴史や文化、風土を味わい過ごせるよう整備された国営飛鳥歴史公園の1地区です。2000年11月に国の特別史跡に指定されている。

丘陵の南斜面を平らに削り、そこに版築によって築かれた二段築成の円墳です。上段が直径9.4m、高さ2.4m、テラス状の下段が直径13.8m、高さ0.9m。版築(はんちく)とは、板枠で囲んだ中に土を入れたたき棒などで突き硬く固め、最後に板枠を外す。これを繰り返し高くしていく。

現在の墳丘は、発掘調査の成果をもとに、上段・下段とも保護盛土を施して築造時の大きさに復元したもの。地形も古代の姿に近いものにしている。

墳丘の南側は広場となっている。名付けて「古墳鑑賞広場」。こうした公園化された古墳ってどうでしょうか?。草や藪をかき分け石室に達する、という古墳巡りの興奮がありません。しかし子供達を含め多くの人が古代の有様を気楽に鑑賞できます。これが明日香村のすすめる飛鳥時代の『見える化』の取り組みなのでしょう。

古墳鑑賞広場から復元墳丘を見上げる。丸太の椅子の場所が、一番美しく古墳を眺められるそうです。現在復元整備中の牽牛子塚古墳もこんな風になるんでしょうか?。

「キトラ」の名前由来について国営飛鳥歴史公園サイト
「名前の由来は、中を覗くと亀と虎の壁画が見えたため「亀虎古墳」と呼ばれたという説、古墳の南側の地名「小字北浦」がなまって「キトラ」になったという説、またキトラ古墳が明日香村阿部山集落の北西方向にあるため四神のうち北をつかさどる亀(玄武)と西をつかさどる虎(白虎) から「亀虎」と呼ばれていたという説など、いろいろな説があります。」とありました。

■★● 壁画の発見までの経緯、●★■
●昭和47年(1972)、高松塚古墳で極彩色壁画「飛鳥美人」が見つかり、日本中が沸きあがった。その後「飛鳥美人の夢を再び」と、周辺で美人探しが始まる。マルコ山古墳も期待され、昭和52年(1977)から報道陣の注目するなか発掘調査が行われたが美人は現れなかった。
その後、「阿部山の人から、あのような古墳が、私の集落にもある」という話が伝わる。その場所は地元では「キトラ」と呼ばれていた。これがキトラ古墳の発掘調査の糸口となった。
●昭和58年(1983))11月7日、高松塚古墳の時の経験を踏まえ、慎重を期して墓室内部をファイバースコープによる探査が始められた。発掘せずに古墳内部を調査するという考古学上初めての試みです。たまたま南壁の左上に盗掘のための穴が開いていた。

「盗掘坑を通じ石室内に斜めにガイドパイプを差し込み、そこから髪の毛の1/10の太さのファイバー3万本を束ねて作った3万画素のファイバースコープを挿入して撮影しました。開始からまもなく、北壁のやや高い位置に玄武の壁画を発見。高松塚古墳に次ぐ第二の壁画古墳であることが判明しました。このファイバースコープによる調査は飛鳥古京顕彰会がNHKに要請しておこなわれました。」(キトラ古墳壁画体験館「四神の館」の説明より)
こうして石室の奥壁に玄武と思われる壁画が発見された。高松塚古墳に次いで二例目となる大陸風壁画古墳として世間や学会から注目を集めました。

●15年後の平成10年(1998)の第二次調査で、上下左右に向きを変える40万画素小型CCDカメラで探査し、青龍、白虎、天文図を発見。

そして平成13年(2001)の第三次調査では、上下左右のほかに後方にまでレンズを向けられる334画素デジタルカメラを用いて、南壁の朱雀を確認し、獣頭人身十二支像の存在も確認された。

●発掘後、湿気のため石室内にカビが発生し、壁画の変質が進行していることが判明。すでに壁から浮き上がり、剥落が懸念される部分が多数あることも確認された。そのため壁画全体を取り外して石室外で保存修復処置を行うことが決定された。平成16年(2004)8月より損傷の激しいものから順次取り外し作業が開始され、平成22年(2010)11月までにはぎ取り作業を完了した。現在、取り外した壁画は細心の注意をはらって修理、強化処理をおこないこの施設で保存管理されています。

平成25年(2013)3月までに石室の考古学的調査は終了した。「石室内調査を終了し、石室と墓道部を再び埋め戻しました。石室南側の盗掘坑は、石室石材と同じ凝灰岩でふさぎ、すき間は漆喰でていねいに埋めました。墓道部は、石灰を混ぜた土をつき棒や木槌で叩き締める方法、つまり「版築」の手法で埋め戻しました。こうしてキトラ古墳は眠りについたのです」(「四神の館」の説明より)。穴を封印した石材には「キトラ古墳石室の盗掘口を閉塞する」という文字を刻んだ銅板が取り付けられているそうです。

 キトラ古墳壁画体験館「四神の館」  


墳丘の北側にあるのが平成28年(2016)に開館したキトラ古墳壁画体験館「四神の館」。
1階は文化庁の「キトラ古墳壁画保存管理施設」となっており、壁画の本物が保管されている。壁画や出土品の保管室は、天井・壁・床を二重構造にし、保管室内と二重壁内とにそれぞれ独立した空調システムを採用することで外気の影響を受けにくい構造になっている。文化庁が設置し、奈良文化財研究所が施設の管理・運営と壁画公開事業などに協力している。
一階の展示室では、期間限定で壁画実物を公開してます。令和2年10/17~11/5日には「第17回公開国宝・キトラ古墳壁画」として西壁・白虎と天文図が公開される。無料、事前登録制(往復ハガキか公式サイトで)。

地下は常設館で、レプリカ、映像、写真などを駆使してキトラ古墳やその壁画、天文図などを解説している。写真撮影もできます。この時期、マスク着用は必須となっている。込み合うと入場制限されるかも。土曜日の午後だったが、この日は十数人だけでした。
開館時間:9:30分~17:00分(12月から2月は16:30まで)、入館無料。

(写真右は石室の実物大レプリカ)墳丘の中央に横口式石室があり、大きさは奥行き2.4m、幅1.0m、高さ1.2mとやや小さい。二上山から運ばれた18個の凝灰岩の切石を「相欠き」という工法で組み上げて造られていた。「相欠き」とは「つなぎ合わせる2つの部材をカギの手形に組み合わせる工法のこと。現在でも使われている。この工法で石をがっちり組み合わせて石室が造られています」(「四神の館」の説明より)

石室の天井は屋根形に加工され、南の天井石も外形が屋根形に加工されています。石と石とのすき間は漆喰で埋められ、奥壁・側壁・天井の全面にも漆喰が塗られ、その白い漆喰面に四神や十二支、天文図などの極彩色壁画が描かれていた。
石室の南側には棺や閉塞石を搬入するための幅2m位の通路が設けられていた。この墓道の床面に南北方向に並行する4列のコロレールの痕跡が確認されている。溝幅は20cm程で断面半円形をしているので丸太を埋めて、その上を搬入用のコロを動かしたと思われる。石室を閉塞すると、墓道も版築によって丁寧に再び埋め戻している。

(写真は実物大の閉塞石レプリカ)墓道から石室への入口だった南側は、棺を搬入後に閉塞石(へいそくせき)で塞がれた。石の周囲には丁寧に漆喰を詰めてあった。この南壁になる閉塞石の左上隅に高さ65cm、上幅40cm、下幅25cmの穴が空けられていた。これは盗掘のためのもので、周辺から見つかった瓦器片などから盗掘は鎌倉時代とされる。偶然にも、盗掘穴は内側に描かれた朱雀を避けて開けられていた。

昭和58年(1983))、この開いていた盗掘穴からファイバースコープを差し入れ、北壁に描かれていた玄武の壁画を発見したのです。こうしてキトラ古墳は長い眠りから覚めることになった。

床面を除いて、石室内の各壁面に四つの方位を守る神とされる四神や十二支が描かれ、石室の天井には天文図、日月像が描かれていた。それぞれ漆喰を塗った上に繊細な筆づかいで描かれたものです。
高松塚古墳に続き日本で2番目に発見された大陸風の壁画古墳で、これらの壁画は令和元年(2019)7月、国宝に指定されました。



<西壁の白虎>白い漆喰の上に、口内と腹に僅かに赤色が見られるだけで、黒線の太さと濃淡を変えることだけで描かれている。これだけ鮮やかな壁画が千三百年間地中に埋もれていたとは驚きです。



<南壁の朱雀>高松塚古墳では、盗掘により南壁の朱雀が失われていたため、我が国で四神の図像全てが揃う古墳壁画はキトラ古墳壁画のみ。左足は曲げ、右足を伸ばし、今にも飛び立とうとする瞬間に見えます。

<東壁の青龍>残念ながら、天井石の隙間から流れ込んだ泥土によって頭部以外はハッキリしない。大きく開いた口が印象的です。

<北壁の玄武>玄武とは亀に蛇が絡まった像のこと。写真が撮れなかったので明日香村のWebサイトから紹介します。
「玄武は北壁中央上よりに描かれている。 亀の甲羅には亀甲紋が施されており、腹から頸の部分にかけて縞模様がみられる。 頭は大きく後ろへ振り返り、蛇と相対面する。 口はしっかりと閉じており、目は蛇の顔を睨みつけている。 頭から腹にかけては黄土色に着色している。 蛇は亀に一回絡まって、頸をみずからの尾にも絡ます。 腹の部分は縞模様を呈し、背中には鱗を模した縞模様を施す。 全体にやや緑色が施されているようである。」

<十二支像>北壁の真ん中を「子」として時計回りに、各壁面の四神の下に3体ずつ十二支の獣面(獣頭)人身像が描かれていた想定されている。現在画像が確認できているのは、北壁の「亥(い)」「子(ね)」「丑(うし)」、東壁の「寅(とら)」、南壁の「午(うま)」、西壁の「戌(いぬ)」の6体だけです。

館内の説明に「キトラ古墳の特徴のひとつは、動物の頭と人間の体で十二支をあらわした獣頭人身十二支像(じゅうとうじんしんじゅうにしぞう)が描かれていること。身につけている中国風の衣服が陰陽五行説にのっとった各方位の色で描かれている。手に武器をもっている点は中国の意匠では見られない特徴ですが、仏教の影響とも朝鮮半島の影響とも言われています。
キトラ古墳に十二支像が描かれた理由。古代中国では、天文図、四神図、そして十二支の人形(俑(よう))を置いて、棺が模擬世界の中心に置かれていることを表現しました。キトラ古墳の場合、人形(俑)としてではなく壁画として描き、葬られた人の魂を邪悪なものから避ける守護神としたと考えられます。確認できる6体の十二支像。午は壁にかぶさっていた泥に図像が転写された状態で確認されました」とあります。

(「確実に存在するが、位置の推定が難しい金箔も図に示している。星座名については、複数の候補の中からひとつに絞り込んだものもある」と注釈されている)
<天文図>天井の平坦面には、円形の中国式の天文図が描かれている。三重の円同心(内規・天の赤道・外規)と太陽の通り道である黄道が石槨に彫まれた線に朱線を入れて描かれている。外規の内側には総数277個の金箔の星と、これを朱線で結んだ北斗七星などの星座が配置されている。「円を描くためのコンパスを使ったあとも確認されており、正確とは言えないまでも、実用的な天文図をもとにして描いたと考えられています」(館内の説明)
さらに屋根形の天井の東の傾斜部には金箔で太陽が、、西側の傾斜部には銀箔で月が描かれている。この天文図は、本格的な中国式星図としては、現存する世界最古の科学的な天文図だそうです。令和2年(2020)2月、日本天文学会は「日本天文遺産」に認定した。

これは「四神の広場」と名付けられた芝生広場。
キトラ古墳は7世紀末~8世紀初め頃に造られたと推測され、終末期古墳です。被葬者は誰か?。石室内から被葬者の人骨と歯牙も発見され、分析により「いろいろな歯の形からはガッチリした体格の男性であることが、歯の状態や骨の状態からは熟年から初老であることが、また虫歯や欠けた歯からは病気をもっていたことが読み解けます」(館内の説明)。
「誰が埋葬されているかは未だ判然としていない。年代などから、天武天皇の皇子、もしくは側近の高官の可能性が高いと見られている。また、金象眼が出土したことから、銀装の金具が出土した高松塚古墳の埋葬者よりも身分や地位の低い人物が埋葬されていると推測される。」(Wikipediaより)
古墳周辺の一帯が「阿部山」という名前の地名であることから右大臣の阿倍御主人、その他、弓削皇子、高市皇子などがあげられている。

 檜隈寺跡(ひのくまでら)・於美阿志神社(おみあし)  



四神の広場を通って、キトラ古墳から北へ500mほど離れた檜隈寺跡へ寄ってみる。7年前に明日香村を訪ねたおりに檜隈寺跡にも寄ったので、これで二度目になる。その時は、高松塚古墳から檜前の集落の中を通って南の檜隈寺跡へ向った。檜前の集落は、旧い民家が並び、その間を細い生活道路が曲がりくねっていた。それなりに歴史を感じさせてくれました。
今回は南側のキトラ古墳から北へ歩きます。写真正面の森が檜隈寺跡のある於美阿志神社だが、周辺の環境が一変してしまっている。広い散策路に案内所、休憩所、トイレ、案内板が完備され、歴史公園なのに古代の歴史は感じられません。

於美阿志神社(おみあし)に着きました。ここだけは7年前と同じです。
於美阿志神社は、もともと社前の檜垣坂を隔てた西方に鎮座していたが、檜隈寺跡の方が高台の乾燥地であるという理由で、明治40年7月に現在の地に遷されてきた。於美阿志神社は東漢直氏の祖・阿智使主(あちのおみ)を祭神として祀っている。社名の由来ははっきりしない。一説には、「阿智使主」の呼称が逆転して「使主阿智」となり、それがさらに転訛して「於美阿志」となったとされているが、はたしてどうだろうか。

この辺りは、古代に「檜隈(ひのくま)」と呼ばれた地域で、5世紀の前半頃から大陸の文化や技術を伝えた渡来人が居住していた地とされる。朝鮮半島由来の大型構造の建物の遺構が多く確認されているという。
祖先は中国の漢人で、祖国の戦乱を避け朝鮮半島の百済に移り、そこから渡来してきた東漢直(やまとのあやのあたい)一族の本拠地。日本書紀応神20年9月に「東漢直の先祖、阿智使主(あちのおみ)がその都加使主(つかのおみ)、並びに十七県のともがらを率いて渡来し、檜隈郷の地が与えられたと」記されている。東漢氏は、新興豪族・蘇我氏と結びつくことで、大和政権の外交・財政・軍事などに深く関わって成長してきたとされています。

この場所には、かって東漢一族の氏寺として檜隈寺が建っていた。創建年代は出土した瓦などから7世紀後半~8世紀初頭にかけてと考えられている。中世にかけしだいに廃れ、本居宣長が明和9年(1772)に訪れた当時の檜隈寺は、仮の庵が残るのみで境内には古瓦が散乱していた、と記録している。かっての檜隈寺の遺構は現在の於美阿志神社の地下に眠っています。 檜隈寺跡は国の史跡に指定されている。

於美阿志神社の境内となっている檜隈寺跡は1969年以降、4次にわたる発掘調査が実施された。その結果、檜隈寺の伽藍配置は、西を正面とし中門を置き、その対面の東に塔を、北に講堂を、南に金堂を配し、全体を回廊で囲むという特異な伽藍配置となっている。これは丘陵地に位置する地形上の制約によるものと考えられている。


神社社殿の左側(北側)に、土盛りで一段と高くなった広い空き地が残されている(右の写真)。ここはかっての講堂跡で、瓦が大量に出土しており、講堂の規模は飛鳥寺や法隆寺西院の講堂に匹敵するといわれる。

神社社殿の右側(南側)に、柵で囲まれた十三重石塔(重要文化財)が建つ。ここは檜隈寺の塔が建っていた場所で、檜隈寺が廃れた後の平安時代後期に、塔心礎の上に十三重石塔が建てられた。元々は十三重であったが、現在は十一重で、上の二重と相輪は無くなっている。凝灰岩製で現高約4.3m。
この柵の右側に塔の礎石らしきものが残されている。説明板には「塔心礎のレプリカ」とありました。



境内には第28代「宣化天皇檜隈廛入野宮跡(ひのくまいおりのみや)」(在位は536年から539年までの3年余り)の石柱も立っている。宣化天皇(536-539)の宮があったとの伝説により、1915年(大正4年11月)奈良県教育委員会が建立したもの。

於美阿志神社の西側も広い「明日香村近隣公園」となっていて、土曜日の午後なので子供たちの奇声が響いていた。キトラ古墳からここまで公園が連続しているのです。丘あり、谷あり、芝生広場あり、農業体験できる田んぼまである。さすが国営の公園だ。

於美阿志神社から北へ20分ほど歩けば近鉄吉野線・飛鳥駅です。ここが明日香観光の拠点になっている。駅前広場には、広い駐車場、総合案内所、24時間トイレ、多目的トイレ、レンタルサイクル、二人乗り電気自動車などの観光に必要なものは何でもそろっている。車道を挟んだ向かいには農産物直売所「あすか夢販売所」があり、人気となっています。
5時前、歩き疲れたので阿部野橋へ急ぎます。

 斉明天皇陵(車木ケンノウ古墳)  


牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)こそ斉明天皇陵だ、という大方の考えに対して、宮内庁は頑として「車木ケンノウ古墳」説を押し通す。そこで実際に車木ケンノウ古墳(くるまきけんのうこふん)を見てみようと、後日(11月12日)に訪れました。真弓丘陵の東側に牽午子塚古墳が,そから2.5キロほど離れた西側に車木ケンノウ古墳が位置します。JR和歌山線掖上駅を降り丘陵を目指す。
小さな橋を渡ると車木の集落。集落内の道も判りづらい。案内標識など全くありません。出会えばだが、地元の人に尋ねるのが一番です。

教えてもらい、掖上駅から20分位でやっと入口にたどり着く。ここから長い階段が始まります。宮内庁の心やさしい注意書きが目にとまり、やっとここが宮内庁管理の聖域だ、ということがわかった。”***するな”という命令調は見られませんでした。ここには女性達が眠っているからでしょうか?。
..
階段を少し登った左脇にお堂らしき建物がある。これが華厳寺なのだろうか?。どこを探しても寺名など表記されていません。数段上ると、今度は右側に階段が見える。これを登ると八幡神社だ。
階段は九十九折れて登っていく。階段数を数えたら、最上部の陵墓まで全235段ありました。勾配はきつくないが,かなり疲れます。

140段目辺りで,左に登る階段があり,その上に拝所が見える。「天智天皇妃大田皇女 越智崗上墓」(おちのおかのえのはか)とある。”皇妃”でなく”妃”,また”陵”でなく”墓”です。宮内庁のマニュアルでは,”陵”は天皇と皇后にしか使えないのです。
大田皇女(おおたのひめみこ)は中大兄皇子(後の天智天皇)の娘,即ち斉明天皇の孫にあたる。叔父である大海人皇子に嫁ぐが,夫が天武天皇として即位するのを見ることなく,7歳の大伯皇女、5歳の大津皇子を残したまま若くして亡くなっってしまう。皇妃になれず妃のままです。大田皇女の死後,大海人皇子の妃となったのは妹の讃良皇女だった。妹は天武天皇の皇后となり草壁皇子を生み、天武天皇亡き後に自ら持統天皇として君臨する。残された大津皇子は、皇位継承をめぐって草壁皇子と対立し、686年に謀反の罪で処刑されてしまう。後援者たる母親に雲泥の差があることからくる悲劇だった。
斉明天皇は生前,孫の大田皇女を可愛がり,私が死んだ時はこの子と一緒に葬っておくれと,と伝言していたという。
ここを墓だとしたのに何か根拠でもあるのでしょうか?。ただの山肌にしか見えないのだが。


美しく整然と敷き詰められた石段が印象的です。土木工事を好んだという斉明天皇にお似合いの階段となっている。瑞垣に囲まれた拝所が見えてきた。

拝所の前に鉄の門扉があり、それ以上近寄ることはできない。
「斉明天皇 孝徳天皇皇后間人皇女 越智崗上陵」(おちのおかのえのみささぎ)
「天智天皇皇子 建王墓」(たけるのみこのはか)
が並列されている。

日本書紀に「斉明天皇と間人皇女を小市岡上陵に合せ葬せり、是の日に,太田皇女を陵の前の墓に葬す」と記されている。中大兄皇子は667年、母と妹を合葬し、そして娘をその墓の前に埋葬したのです。間人皇女(はしひとのみこ)は斉明天皇の娘で,中大兄皇子の妹。孝徳天皇の皇后になる。

この墓域には建王墓もあるようです。建皇子(たけるのみこ)は中大兄皇子の息子で太田皇女の弟。中大兄皇子にとって嫡男となる息子だったが,不幸なことに生まれつき口がきけないという障害をもっていた。斉明4年(658)8歳という幼さで夭逝する。斉明天皇はこの孫の死を悲しみ,同じ墓に葬るよう命じていたという。

墳丘の周りを一周できるように瑞垣に沿って小道が設けられている。2分ほどで一周できてしまう小さな墳丘です。宮内庁は陵形:円丘としているが,どう見ても陵墓のようには見えません。ものものしい正面拝所の構えがなければただの山中でしかない。
発掘調査もされていないので(させる気もない)ので,埋葬施設も出土品もない。なぜここが斉明天皇陵とされたかというと,地名が「越智」であること,そして地元ではこの地を「天皇山」と呼んでいたので幕末の文久の修陵で治定された。宮内庁はそれを現在まで踏襲しているのです。
牽牛子塚古墳で新しい事実が次々と明らかになり,今や牽牛子塚古墳を斉明天皇だとするのが常識になっている。

車木の集落から眺めた葛城山と金剛山。この辺りは,まだ古代の歴史を感じさせてくれます。

民主党政権下の平成22年には国会でも取り上げられ,「宮内庁としては、治定を覆すに足る陵誌銘等の確実な資料が発見されていないことから、斉明天皇陵の治定を見直さなければならないとは考えていない」と答弁しています。天皇陵を含め「陵誌銘等の確実な資料」を有する古墳など存在しないのだが。

「車木」(くるまき)という地名は,斉明天皇を葬送する霊車が来て、ここに止まったことからくる,と言い伝えられているという。「ケンノウ」は「天皇山」から・・・?


詳しくはホームページ
>

宣化天皇陵からキトラ古墳へ 1

2020年10月10日 | 古墳を訪ねて

★2020年10月3日(土曜日)
酷暑の夏もようやく終り、肌にやさしい季節になってきた。コロナは相変わらずだが、どっかへ出かけたくなった。さて、どこを歩き回るか?。

そうだ、お墓参りに行こう!。毎年お盆には帰郷し、先祖のお墓参りをしていた。今年も早くから切符を手に入れ準備をしていたのだが、直前に実家に電話を入れると、「今年だけは帰ってくれるな、隣近所から後ろ指さされる」と諭されました。数年前に合い前後して亡くなった両親の墓前に手を合わせることもできません。
その代わりといってはナンですが、近場のお墓へ行こう。大和盆地はお墓だらけで、沢山のお墓、「古墳」とも言いますが、散在している。千五百年ほど前のお墓で、日本の礎を築いた人々が眠っています。私の親戚筋ではないのですが・・・ひょっとしたらどっかで繋がっているかも?。
近鉄・橿原神宮前駅から宣化天皇陵へ行き、そこから近鉄吉野線の西側を南へ歩きます。最終地はキトラ古墳で、かなりの距離がある。田畑の多い地域なのでコロナの心配はなさそう。総歩数<44086歩>、<33.0km>、<1752cal>

 史跡益田池堤(ますだいけ)  



朝7時半の近鉄南大阪線橿原神宮前駅の西口。駅西口を出て車道に沿って西へ歩きます。20分ほど歩いた所に宣化天皇陵があるので、そこをめざす。
途中で高取川にかかる益田大橋が現れる。この橋を渡った先にこんもりとした森が見えます。ここに県指定史跡「益田池堤跡」があるので立ち寄ってみることに。

車道脇なので入口はすぐ分かる。「益田池児童公園」となっています。
「益田池」とは、平安時代に堤を築き高取川を堰き止めて造られた巨大な灌漑用の溜池です。ダムの貯水池のようなもの。平安時代初期、弘仁13年(822)に工事を始め、天長2年(825)に完成した。堤の規模は幅約30m、高さ8m、長さは200m。池の範囲は畝傍山の南、久米寺の西南一帯の高取川流域。現在その跡地は橿原ニュータウンとなっている。

広々とし、緑に覆われ気持ちよさそうな公園です。休憩所も設けられている。堤跡は50mほど残され、堤の上に登る階段も用意されています。堤の上はは30mほどで行き止まりになっている。造られた当時からこういう形状をしていたのだろうか?。

なお、「田を益すの功ありし」灌漑用の池なので「益田池」の名前となったようです。益田池の完成にともない弘法大師空海が碑文「大和州益田池碑銘」を残している。空海は、弘仁12年(821年)に讃岐国(香川県)の満濃池を改修したことで土木技術の面でも有名でだが、益田池の工事には直接関わっておらず、弟子の真円らが携わったという。「大和州益田池碑銘」の一部に
「ここに一坎(いっかん)有り。其の名は益田。之を掘るは人力にして、成るは也(また)天に自(よ)りす。
車馬 霧のごとくに聚(あつ)まり、男女(なんにょ) 雲のごとくに連なる。」
(ここに一つの池がある。その名を益田という。それを掘ったのは人の力であるが、出来上がったのはやはり天のお陰である。車や馬は霧のように集まり、人びとは雲のように連なった。)

 新沢千塚古墳群(にいざわせんづか)  



益田池堤から県道戸毛久米線をさらに西へ歩く。やがて左手に宣化天皇陵が見え、案内標識も建っている。標識はこの県道をさらに西へ行けば新沢千塚古墳群があることを示しています。そこで先に新沢千塚古墳群の方へ行き、その後でここに戻ってくることにしました。



宣化天皇陵から10分ほど歩けば古墳群の丘が見え、「新沢千塚古墳群公園」(橿原市)となっている。



新沢千塚古墳群公園の現地案内図です(上が南で、下が北になる)。
戦争直後から1960年代にかけて発掘調査が行われた。その結果、総数約600基ほどの墳墓が見つかった。そのうち約400基ほどが、この公園内にあるそうです。そのほとんどは直径10~15mほどの円墳で、日本を代表する群集墳です。昭和51年(1976)に国の史跡指定を受け、平成24年(2012)から「新沢千塚古墳群公園整備事業」が行われており、現在も進行中。

中央を横切る県道戸毛久米線を挟んで北群公園(図では下)と南群公園(図では上)に分けられる。まず南群に入ってみます。

南群公園の中央にあるのが「新沢千塚ふれあいの里」。地元で採れた野菜、果物、植物のほか、奈良の特産品・工芸品などを販売しており、休憩所にもなっている。建物の奥が「龍の広場」と「四季の広場」

公園内は縦横に散策路、階段が設けられ、気持ちよく散歩できるようになっている。でもよく考えたら墓場なのだが・・・。





手前が225号墳、墓穴が復元され露出しているのが221号墳。





225号墳の南側にあるのが224号墳。展望用なのか、階段が付けられている。



「ふれあいの里」の建物の裏側に周ると、県道をまたいで北群公園へ渡る歩道橋が架けられている。正面に見える建物が「シルクの杜」。有料だがプール、風呂、トレーニングルームなどを備える。屋上には無料で利用できる足湯があるが、コロナのため現在は閉めているとか。
左端に見えるのが橿原市の原始から近世までを紹介する「歴史に憩う橿原市博物館」。ここの古墳群からの出土品も展示している。入館料:大人300円、9時~17時(月曜日が休館)
両施設とも開館前なので入っていない。

これから北群を周ります。シルクの杜を西側に回り、散策路を進むと階段が見える。登った上が173号墳。直径約14.0m、高さ約3.5m、5世紀後半の円墳で、土師器、須恵器、埴輪、武具、鏡などが出土している。

丘陵上を東へ歩く。よく整備された快適な散策路だが、次々に現れる土饅頭が異様だ。写真左の土饅頭が115号墳です。

道を挟んで115号墳の向かいが一番有名な126号墳。外見は平べったく地味な古墳だが、内部から貴重な副葬品が多数出土し注目された。中国大陸、朝鮮半島からの副葬品だけでなく、はるか遠く古代ペルシャからシルクロードを経てもたらされたと考えられるガラス製品が見つかったのです。5世紀後半築造の古墳なので、正倉院遺物よりも三百年古い時代にヨーロッパから伝わっていたことになる。貴重な副葬品は国重要文化財に指定され、東京国立博物館に保存され、復元品をこの公園内の「歴史に憩う橿原市博物館」に展示している。

目立たない小さな墳墓にも関わらず、金銀の装飾品を身にまとい、枕元にシルクロードを経て伝わった透明なガラス碗や青いガラス皿が置かれた被葬者は一体誰だろう?。

丘陵上から畝傍山を望む。

土饅頭に囲まれた道を東へ歩く。子供達が喜んで山登りして遊べるようです。これら全ての古墳は内部を掘り下げ調査したのでしょうね。その埋葬施設のほとんどは、墳丘上から墓壙を掘り、副葬品と木棺を納めて埋める木棺直葬(もっかんちょくそう)という方式だそうです。

この古墳群の墳墓の築造は、5世紀前半に始まり、6世紀後半までの200年間。近くの宣化天皇陵(鳥屋ミサンザイ古墳)と重なるので、何か関連があるのでしょうか?。被葬者として推測されているのが、大伴氏あるいは渡来系の蘇我氏や東漢氏だが、確定されていない。

北群公園の一番東端に139号墳があります。多くの副葬品から、この古墳群の盟主に当たる人物の墓ではないかとみられている。
脇は畝傍山への眺望が楽しめるビューポイントとなっています。









 宣化天皇陵(鳥屋ミサンザイ古墳)(せんかてんのうりょう)  




新沢千塚古墳群から県道戸毛久米線を引き返し、宣化天皇陵の入口まで戻ります。古墳名は「鳥屋ミサンザイ古墳」(とりやみさんざいこふん)で、全長138m、径83m、高さ18m、二段築成の前方後円墳。「ミサンザイ」は陵(みささぎ)の訛ったものなので、この古墳が古くから陵墓としての伝承されていたことを示している。
前方部は北東を向いているので、県道から入ると丁度正面に宮内庁の遥拝所が設けられている。

遥拝所はどの天皇陵にも見られる同じみの風景です。
「日本書紀」によれば、宣化天皇は539年に崩御され「身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのうえのみささぎ)」に葬ったとあり、さらに先に崩じていた皇后・橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ、第24代仁賢天皇の皇女)とその孺子(わくご・幼児)が合葬されたと記されている。ただし「古事記」には記載されていない。
第28代宣化天皇(せんかてんのう、467年頃~539年、在位:536年~539年)は、第26代継体天皇と尾張の目子媛(めのこひめ、尾張連草香女)との第二皇子として生まれた。諱を「檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)」という。兄の第27代安閑天皇が崩御すると、跡継ぎの子供がいなかったので同母弟の宣化天皇が満69歳という高齢ながら即位することになった(536年)。宮を檜隈の廬入野に移し、「檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりののみや)」と呼ばれる(キトラ古墳の近くなので、今日の最後に立ち寄ってみます)。539年に73歳で崩御される。在位わずか3年余りと短いため、あまり主立った事績は残されていない。ただ即位すると蘇我稲目を大臣に任命したことから、その子の蘇我馬子・蝦夷・入鹿と続く蘇我氏の全盛の礎が築かれることになった。
幕末から明治にかけ、当時の宮内省は鳥屋ミサンザイ古墳を宣化天皇の陵墓と治定し、あわせて皇后との合葬陵とした。

石柱には、判読しがたいのだが写真を拡大して見ると「宣化天皇 宣化天皇皇后橘皇女 身狭桃花鳥坂上陵」と刻まれている。

日本書紀では安閑・宣化朝の後、539年に異母弟で継体天皇の第四皇子の欽明天皇が第29代として即位したことになっている。しかし他の史料によれば、531年の継体天皇の死後、すぐに欽明天皇が即位したとなっている。このことから安閑・宣化天皇は即位していなかった、あるいは531年~539年の間は安閑・宣化朝と欽明朝が並立し内乱に発展していたという説がある。万世一系の天皇系統を確定しようとした明治政府は安閑・宣化天皇は即位したと断を下し、現在の歴代系統となった。

正面拝所の左手から土手堤に出ることができる。陵墓の周囲は約10~25m幅の盾形周濠が巡っているが、西側部分は大きな池となっています。これは明治の修陵工事時に、元々あった灌漑用の溜池「鳥屋池」と周濠とをつなげたもの。

堤に建つ石柱には「皇紀二千六百年記念」と刻まれ、背面には「昭和十三年三月一日」の日付がある。すぐ北にある橿原神宮と神武天皇陵が、全国から建国奉仕隊が動員され聖域の大拡張が行われた時期。おおいに皇威高揚され、天皇を中心とした大東亜共栄圏を目指し戦争へ突入する。そして無惨な敗戦です。戦没者の墓碑も建っており、当時の雰囲気を感じさせる。

今度は前方後円墳の西方に回ります。西側も幅15m位の濠が廻り水を貯えている。ただ後円部の先端では途切れ雑草が生い茂っていた。
この古墳の築造時期については、墳丘裾付近から出土した円筒埴輪、朝顔形埴輪や須恵器から六世紀前半が推定されている。

 桝山古墳(ますやまこふん、倭彦命墓)  



次は宣化天皇陵(鳥屋ミサンザイ古墳)の南側にある桝山古墳(ますやまこふん、倭彦命墓)に行きます。天皇陵の後円部から集落の中に這入っていく。集落を抜けると、稲穂の先に桝山古墳の森が見えてきます。一辺約90m・高さ約15m、三段築成の方墳で、方墳としては全国で最大規模の古墳です。

この古墳は、宮内庁によって第10代崇神天皇皇子の倭彦命(やまとひこのみこと)の墓に治定され、天皇陵と同じような正面遥拝所が設けられている。日本書記に「倭彦命を身狭の桃鳥花坂に葬った」とあり、身狭(むさ)の桃花鳥坂(つきさか、築坂邑)が現在の橿原市鳥屋町付近にあたるからです。

Wikipediaには「倭彦命墓の所在に関する所伝は失われ、江戸時代には『大和志』・『大和名所図会』等において鬼の俎・鬼の雪隠東方の石室を倭彦命墓に比定する説もあった。1877年(明治10年)4月に内務省によって現在の墓に定められ、1886年(明治19年)に宮内省(現・宮内庁)によって用地買収とともに同地にあった神社が移転され、1890年(明治23年)から修営された。ただしその治定には否定的な見解が強い。」とあります。

古墳の築造時期は表面で採取された埴輪から5世紀前半とされる。4世紀前半か中頃に亡くなった倭彦命とは合わないのだが。

宮内庁の正式名は「崇神天皇皇子倭彦命 身狭桃花鳥坂墓(むさのつきさかのはか)」。「陵」でなく「墓」です。「陵」は天皇・皇后・上皇・皇太后の墓所に使い、皇子以下の皇族の墓所は「墓」なのだ。石柱に彫られている墓名の文字は雑で品格がない。天皇にこんな文字を刻んだら切腹ものだろう。鳥居はコンクリート製です。

この倭彦命墓には「殉死の禁止と埴輪の起源」伝承がある。殉死する近習の者たちを墓の周りに生き埋めにした。ところが土中から数日間泣き叫ぶ声が聞こえて、ついには死んで腐っていき、犬や鳥が集まって食べた。垂仁天皇はおおいに心を痛め、それ以後は殉死を止めさせ、代わりに埴輪で囲うようにした。

東側の畑の中から撮った桝山古墳。空中写真で見れば前方後円墳に見え、遥拝所はその前方部に設けられている。実は後円部(上の写真では左側の部分)だけが本来の古墳(方墳)で、名前のように”桝”形の山だった。ところが明治時代の陵墓整備で前方部が付け加えられ、そこに拝所を設けた。空中写真から想像するに、かなりの民家が強制退去させられたことと思う。当時の役人は、皇室の墓所は前方後円墳でなければならない、という大いなる忖度がはたらいたのでしょう。

北方を眺めれば宣化天皇陵(鳥屋ミサンザイ古墳)が、その先に畝傍山が見えます。畝傍山の奥に初代天皇の神武天皇陵があります。

 小谷古墳(こたにこふん)  



桝山古墳の次は小谷古墳です。小谷古墳へは、北側へ迂回し住宅街の中を進めば無難だが、かなりの距離がある。桝山古墳の東側に丘陵が見え、その山向こうに小谷古墳がある。この山を越えることができれば、かなりの近道になるのだが、道があるかどうか?。

農作業されていた方に尋ねると、道はあると親切に教えて下さいました。田畑の中を森に近づくとT字路にな。ここがポイントで、右の道をとること、と地元の方は強調されていた。すぐにイノシシ避けの金網の柵扉があるので、通ったら必ず閉めておくこと。後は山中の一本道なので迷うことはない。10分ほど歩けば視界が開け、畑の中を100mほど下れば左手に古墳が見えてくる。

畑の横の土盛りの上に屋根が覗いている。そこは小さな広場に整備され、屋根付の休憩所が設けられベンチも置かれている。地元の人のためのものとは思えず、明らかに小谷古墳の見学者用のものだ。山肌をよく見ると、雑木の間から石室の巨岩が露出していました。

ここは貝吹山から北東に延びる尾根の先端部で、石室は市街地を見下すように南向きに築かれている。墳丘は山崩れなどで封土の大部分が流失しているので墳形は明らかでないが、長さ約30m・高さ約8m位の円墳あるいは方墳と推測されている。
柵で囲われ近寄れず、石室内部は見ることができない。墳丘を覆う封土が流失し横穴式石室が剥き出しになっている。あの有名な明日香村の石舞台古墳と同じようですが、一枚岩の天井石は石舞台古墳より大きいという。
石室の全長は約11.6m、そのうち羨道部分が長さ約6.45mで、その奥に一段高い床面の玄室が長さ約5mある。
玄室は奥壁・側壁とも二段積みされ、下段は垂直に、上段は斜めに積まれ、隙間は漆喰で埋められていた。玄室には刳り抜き式の家形石棺が置かれていた。盗掘により蓋が開いた状態だったので副葬品は見つかっていない。石棺の奥や右側に広い空間があるため、他に二棺置かれていた可能性があるという。築造時期は古墳時代終末期の7世紀代の築造と推定されてる。

古墳の前は、公園風の広場になっている。休憩所といい、この公園といい、石舞台古墳のように売り出そうとしたのでしょうか?。
向こうに見える小山に益田岩船がある。そこへ向います。

現地説明板の全文を以下に。
「この古墳は、貝吹山から北東に延びる尾根の先端に築かれた、前方後円墳を含む八基の古墳群のなかにあり、その東端部に位置します。古墳は、尾根の南斜面に築かれており、墳丘の背面は幅20m・直径50mにわたって半円状に切り取られています。古墳の形状は、封土の大半を失っており不明ですが、円墳あるいは方墳であったと考えられています。墳丘の規模は、30m前後で高さは約8mです。埋葬施設は、巨大な花崗岩の切石を2段に積み上げた両袖式の横穴式石室です。玄室の天井石は1枚からなり、石舞台古墳の天井石よりも巨大なものです。また、石積みの間には漆喰が使用されています。規模は全長約11.6m・玄室長約5m・幅約2.8m・高さ約2.8m、羨道部は長さ約6.45m・幅約1.9m、高さ約1.8mを測ります。玄室の床面は羨道より一段高くなっていますが、これは明日香村の岩屋山古墳と共通する特徴です。玄室には凝灰岩の刳抜式家形石棺が盗掘により蓋が開いた状態で安置されています。棺身は長さ2.4m・幅1.16m・高さ0.82mで、棺蓋は縄掛突起がなく緩やかな傾斜の蒲鉾型を呈するもので、家形石棺の中でも珍しい型式のものです。副葬品は未調査のため不明ですが、石室や石棺の型式・規模から終末期の古墳と考えられています。この古墳の被葬者は、天皇家を含めた有力氏族であったとの見方が有力で、江戸時代には斉明天皇陵に比定されていたこともあります。橿原市教育委員会」

 益田岩船(ますだのいわふね)  



小谷古墳から少し東へ出て、橿原ニュータウンに沿った車道を南へ歩く。小山に近づくと右手に入る道があり、剥がれそうな案内標識が置かれています。道はすぐ「白樺西集会所」に突き当たり、左右に分岐する。左の道を30mほど行けば右側に階段が現れ、益田岩船の案内板が建てられている。

この山は貝吹山東峰の岩船山(海抜130m)で、その頂上付近に益田岩船があります。階段は48段あり、そこから緩やかな上り坂の山道となる。平易な山道で誰でも登れるが、一部雨が降れば足場の悪い箇所があります。10分ほどで竹薮の中から巨石が現れる。


深い竹薮に囲まれ、巨石だけがポツンと置かれている。だれが、何の目的でこんな巨石を置いたのか、今だに明らかになっていない。こうした謎の石造物は、隣接する明日香村にも亀石や酒船石など数多く存在するが、この
岩船が最大のもの。昭和51年(1976)に、指定名称「岩船」で奈良県指定史跡に指定されている。

西側から上面を見たもの。上部から側面にかけて幅1.6mの溝が東西に掘られ、この溝に1辺1.6m、深さ1.3mの方形の穴が二つくり抜かれている。
何のために造られたのか?。古くからある説は、益田池を讃える空海揮毫の石碑を載せるための台だったというもの。益田池は現在の橿原ニュータウン辺りまで広がっており、ここから益田池を見下ろせます。「益田岩船」の名称もここからきている。

現在有力なのが横口式石槨説。上面の二つの穴は墓室で、北壁面を下に横転させれば横口式石槨となる。南東500mほどの場所にある牽牛子塚古墳とソックリです。しかし完成させずに放棄されている。

左の写真は北面、右は西面。西面を見れば水漏れし濡れています。これは西室にヒビ割れが生じていることを示している。このため、建造途中で破損が判明し放棄されたのだ、と考えるのです。
また、滑らかに仕上げられた上部に対し、下部には荒削りな格子状の溝が彫られている。これは滑らかにする加工の途中で中断され、そのまま放棄されたと横口式石槨説は説く。

その他、占星術の天文観測台説、物見台説があり、松本清張は小説「火の路」でゾロアスター教の拝火台説を唱えている。いまだに謎です。

こちらは東面と南面。東,西,北面はほぼ垂直に切り立っているが,南面だけはなだらかに傾斜している。
建造時期は、岩の加工法や穴の尺などに古墳時代最末期の特徴が見られるため、7世紀頃と推定されている。

周辺を見渡してもここにこんな巨石が元から存在していたとは考えられない。どこからどのようにして運び込んだのでしょうか?。


 沼山古墳(ぬまやまこふん)  



次は沼山古墳(ぬまやまこふん)だ。益田岩船のある岩船山とは車道を挟んで反対側にある白橿近隣公園の中にあります。写真は公園の北側、ここからでも行けそうだが、念のため南側の正面に周る。

公園の正面で、左に白樺南コミュニティーセンターが、右がグランドになっている。
突き当たりに、小さく目立たない案内「沼山古墳→」があったので、右へ折れる。すぐ左手に階段があり、ここを登ってゆく。階段は登りきるのではなく、78段目で左に入れとの矢印があります。

矢印の方へ入って行くとすぐ休憩所が設置され、その少し先に横穴式石室が開口しているのがわかります。

石室開口部は鉄の扉で封鎖されている。昭和57年(1982)に公園整備に伴って奈良県立橿原考古学研究所による発掘調査が実施された。出土品は橿原考古学研究所(橿原市畝傍町)に保管されている。県指定史跡。


石室は花崗岩の自然石を積み上げている。手前に羨道(長さ4.5m・幅1.8m・高さ1.8m)があり、その奥に玄室(長さ4.95m・幅2.95m・高さ4.25m)がある。







玄室内は高さ2mまで垂直に積み、それから上は四壁を内側に積上げているので、ドーム状の天井となっている。正方形に近い平面形・ドーム状天井を特徴とする形態の石室は真弓鑵子塚古墳(明日香村)・与楽鑵子塚古墳・乾城古墳(高取町)でも知られており、渡来系集団の古墳の特徴だそうだ。





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