山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

桜の道:南禅寺から銀閣寺へ 1(蹴上インクライン・金地院)

2024年04月15日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2024年4月5日(金曜日)
今年も桜の季節がやって来た。やや寒い日が続き、例年に比べ開花が送れていたようだが(例年通り?)、関西もやっと満開を迎えたようです。今年は京都を代表する桜の名所「哲学の道」を歩こうと予定していたので、チャンスを窺っていた。混雑する土日は避け、天気予報を判断した結果、5日の金曜日とした。
南禅寺・哲学の道界隈は何度か訪れているが、ブラ歩きするだけだった。今回は、周辺を含め少し詳しく見てみようと目論んでいます。地下鉄東西線の蹴上駅を出て、蹴上インクライン→金地院→南禅寺→哲学の道→銀閣寺へと、南から北へ向かうコース。哲学の道の脇には、熊野若王子神社,大豊神社,霊鑑寺,安楽寺,法然院といったユニークな社寺が存在するので寄ってみます。

上はGooglEarthの空中写真。哲学の道をピンク〇で示した。哲学の道を超拡大して見ると、通りは満開の桜で埋まっている。ところが写真取得日が「2022/3/10」と記載されている。写真は嘘をつかないので、日付が??。

 蹴上(けあげ)インクライン 1  



大阪からは、JR京都駅→地下鉄烏丸線「烏丸御池駅」乗換→地下鉄東西線「蹴上駅」下車。京都駅から約20分くらい。車道「三条通」下に蹴上駅があり、インクラインの土手下の出口から地上に出る(写真)。土手の桜は、ちょうど満開の見頃となっているようだ。

土手の真ん中あたりに、レトロな雰囲気を漂わせた赤レンガ造りのトンネルがあり、「ねじりまんぽ」というなんとも奇妙は名前が付けられている。高さ約3m、長さ約18mで、蹴上駅からインクラインの土手下を通って南禅寺へ行く近道となっています。

上のインクラインを行き交う船を乗せた台車の重さに耐えられるようにするため、レンガを斜めに螺旋状に積み上げ強度を高める工法が採られている。これが「ねじり」です。またトンネル自体も、土手と直角にならないよう斜め掘られているようです。古い鉄道のトンネル構築に主に使われた工法だが、技術革新により現在では見られなくなった。

Wikipediaには「ねじりまんぽの「まんぽ」は近畿地方でトンネルのことを指す方言で、マンボ、マンプウ、マンボウなどとも言われる」とある。

インクラインの最上部に上がってみます。石ころの坂道に4本のレールがはしり、その上を満開の桜が覆いっているという、華やかで、それでいで奇妙を風景が展開する。これを理解するには、明治の琵琶湖疎水事業を知らなければなりません。

明治維新で徳川幕府は倒れ、新政府は都を江戸(東京に改名)に移し、天皇と取り巻きの公卿たちは東京へ移って行った。平安京以来,首都として栄えてきた京都の人々は、これでは京都は寂れ衰退してしまうと危機感を抱いたのです。

第3代京都府知事となった北垣国道は京都を復興させ活力を呼び戻すため、水路を造り琵琶湖の水を京都に通すということを構想した。市の年間予算の十数倍という膨大な費用を投入して、疎水開削工事は明治18年(1885)に着工、5年後の明治23年(1890)に完成した。これによって灌漑用水によって田畑が潤い、市民生活のインフラとなる上水道や防火用水が整備され、また水力発電によって新しい産業を興し、電気鉄道も市内を走るようになった。明治45年(1912)には第2疎水も完成している。

写真中央に見えるのが第三トンネルで、疎水の京都への流入口。この辺りに第1疎水、第2疎水の合流点もある。赤レンガの建物は「旧御所水道ポンプ室」。これは京都御所に防火用水を送水する仕組み。ポンプで背後にある山上の貯水池に揚水し、御所で火災が発生した場合には,山上の貯水池から水を高圧で送水するのです。鴨川の水では頼りなかったようです。この建物を設計したのは京都国立博物館や赤坂離宮(現在の迎賓館)を設計した片山東熊で、国登録有形文化財に登録された(2020年4月)。

現在、琵琶湖の大津からここ蹴上まで観光船「びわ湖疎水船」が運行され、ここが乗下船場となっています。

それまで人馬に頼っていた京都と大津の間の荷物輸送が、疎水路を使った舟運により大変便利になった。ところが問題は、蹴上区間の高低差約36mという落差をどう克服すかです。そこで採用されたのがインクライン方式(傾斜鉄道)だった。傾斜部にレールを敷き、舟を台車に載せてロープで引っ張り坂道を上下させるというもの。

写真の場所は「蹴上船溜(けあげふなだまり)」といい、舟を台車に載せる、又は台車から降ろす場所。現在、当時利用された台車と舟が復原展示されています。
二本のレールが水中まで引き込まれている。これは台車を水中まで引き入れ舟の下に入れ、そのまま引き上げると、荷物の積み下ろしをすることなく舟を台車に載せることができる。ロープを引っ張るのに、水力発電による電力モーターが使われた。明治24年(1891)に営業開始され、下の「南禅寺船溜」までの約580mを10~15分くらいで移動させた。
蹴上船溜の傍に小さな祠があり、一体の石仏が祀られています。傍に「義経地蔵」と書かれた説明版が立てられれている。義経は鞍馬山から奥州へ向かう途中、東海道のこの辺りで馬に乗った平家の武士9人とすれ違った。その時、馬が泥水を蹴り上げ義経の服を汚してしまった。怒った義経は9人を斬り殺したという。切り殺された9人の菩提を弔うために村人が九体石仏を安置した。ここの祀られているのはその内の一体だという。「蹴上(けあげ)」の地名は、この義経伝説に由来しているそうです。

インクライン上部の東側は蹴上疎水公園で、ここも桜が見られる。しかし人は皆レールの方へ行ってしまい、公園は人が少なく静かだ。公園の中央に田辺朔郎の銅像が建てられている。
田辺朔郎(たなべ-さくろう、1861-1944)は、工部大学校土木科(東京大学工学部の前身)卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」が北垣京都府知事の目に留まり、弱冠21歳で疏水工事の土木技術者として採用された。琵琶湖疏水工事の設計・施工の総責任者となり、工事を完成させた。インクラインを造り、蹴上に日本最初の水力発電所を造ったのも彼です。
「蹴上疎水公園」を抜けて奥へ行き、鉄柵で防御された細い通路を渡る。左側には関西電力の巨大な水圧鉄管が蹴上発電所へ水を落としている。
さらに進むと平坦な小路が疎水分線に沿って続き、南禅寺の「水路閣」にでる。南禅寺への近道というか、抜け道となっている。水路閣からやってくる人ともすれ違う。

 蹴上(けあげ)インクライン 2  



インクラインに戻り、下方向へ歩いてみます。まだ早朝8時なのにかなりの人出だ。

インクラインのその後の歴史を見てみよう。インクラインの舟運は明治末頃に最盛期を迎える。しかし大正から昭和にかけて、鉄道輸送、国道の整備などの交通網が発達してくるとインクラインの利用は大きく減少してきた。そして戦後の昭和23年(1948)11月に休止されたのです。レールも撤去され、跡地は荒廃していった。こうした現状に、地元の人々は復元を願い、京都市に働きかけていった。その結果、昭和52年(1977)4月に復元工事が終わる。廃止された市電の敷石が敷かれ、以前と同じように四本のレールが敷設され、周辺環境も整備された。この時に桜も植えられたのです。
昭和58年(1983)、京都市の文化財に指定され、産業遺産として保存。平成8年(1996)、蹴上インクライン、水路閣など琵琶湖疏水に関する12カ所が、近代遺産として国の史跡に指定されたのです。現在では、桜並木の観光スポットになっている。

正装のカップル記念写真。京都ではよく見かける光景です。ほとんどが東南アジア系で、邦人は恥ずかしくてできません。いつもなら和服姿で写真撮る人を多く見かけるのだが、まだ早朝なのでレンタル着物店が開いていないようです。

約90本のソメイヨシノがレールに覆いかぶさるように花を開く。ピンクのトンネルを潜って蒸気機関車が出てきそうな雰囲気。夏に新緑、秋には紅葉も楽しめるようだが、やはり春の桜が一番の人気。最盛期は多くの人で溢れ、レールが見えなくなるそうです。違和感のあるようなレールだが、真っすぐ奥へ伸びて風景に筋を通し引き締めてくれています。

幅約22m、総延長約580m、勾配15分ノ1の路面が緩やかな傾斜を保ち下っている。ここは元々切り立った崖だったが、疏水工事の際のトンネル掘削で掘り出された土砂を積み上げて路盤を整備したものです。

インクライン中ほどを過ぎたあたりにも、舟と台車が展示され、積まれている樽には「伏見の清酒」とある。説明版に「明治27年(1894)には伏見区堀詰町までの延長約20kmの運河が完成し、この舟運により琵琶湖と淀川が疎水を通じて結ばれ、北陸や近江、あるいは大阪からの人々や物資往来で大層にぎわい、明治44年(1911)には渡航客13万人を記録しました」と書かれている。

そろそろインクラインも終わりに近づいてきた。見えてる橋は南禅寺参道へ続く「南禅寺橋」。ここでもやっています。幸せそうなお二人さん。

インクラインの下端が「南禅寺船溜」。ここで舟を台車からおろす、又は載せるという作業を行っていた。正面は岡崎動物園で、現在動物園の休憩室となっている白い建物の下に旧ドラム室があった。インクラインの台車を動かすためのワイヤーロープを巻き上げるウインチの運転台と機械室です。現在、見学できるようです。

船溜の中央の大きな噴水は、疎水の高低差を利用して水圧だけで噴き上がっているという。写真右側には、琵琶湖疎水に関する資料やアーカイブ映像などを展示している琵琶湖疎水記念館(入館無料、9:00~17:00、定休日は月曜日と年末年始)があります。



疎水はこの南禅寺船溜を経由してさらに西へ向かってのびており、ここから鴨川に合流するまでの流れを「鴨東運河(おうとううんが)」、または「岡崎疎水」と呼ぶ。全長約2kmの疎水沿いには公園、美術館、動物園、平安神宮があり、春には桜一色となり多くの人々で賑わいます。春限定の遊覧船「岡崎さくら回廊十石舟めぐり」で、桜と水を満喫できます。午後になると、乗船待ちの長い列ができ、すぐに乗船できません。






 金地院(こんちいん)  



南禅寺橋の上です。右側橋下にインクラインがとおり、左奥へ進んでゆけば南禅寺への参道。春よりは秋の紅葉時のほうが鮮やかかな。

南禅寺中門へさしかかる手前右側に「金地院」と書かれた門があります。また「東照宮下乗門」の札も掛かるので、参拝者はここで下馬しなければならなかった。門を潜った右手に南禅寺塔頭で以心崇伝(金地院崇伝)ゆかりの金地院がある。

門の奥に見える道は、蹴上インクラインにあったトンネル「ねじりまんぽ」とつながり、南禅寺への近道となっています。

金地院の入口になる「総門」。金地院は「応永年間(1394年 - 1428年)に、室町幕府第4代将軍足利義持が大業徳基(だいごうとっき、南禅寺68世)を開山として洛北・鷹ケ峯(現・京都市北区)に創建したと伝えるが、明らかではない。」(Wikipediaより)
江戸初期の慶長10年(1605年)、徳川家康の信任が篤かった以心崇伝により臨済宗南禅寺の塔頭として現在地に移建された。崇伝は南禅寺の第270世住職となり、自らの住坊として再興したのです。崇伝は元和5年(1619)に幕府より僧録(僧侶の人事を統括する役職)に任ぜられた。以後、僧録は金地院住持が兼務する慣例となって幕末まで続いた。そして金地院は、10万石の格式を与えられ、「寺大名」とも呼ばれる権勢を誇ったという。(以心崇伝については最後の開山堂を参照)

(境内図は受け付けに置かれていたもの)門を潜ると右手に拝観受付がある。【拝観時間】8:30~17:00 ※12月~2月は16:30【拝観料】500円(八窓席は別途700円)
正面は庫裏(台所)で、切妻造りの妻側を表にみせ、大きな三角形の白壁と黒茶色の木組が際立つ禅宗寺院に特有の建物。多くは拝観入口となるのですが、ここでは入れません。

受付からすぐのところに、唐門の明智門(あけちもん)と方丈の屋根が見える。

京都国立博物館の北にある豊国神社に総欅(けやき)作りの豪華絢爛な唐門が建ち、現在桃山文化を代表する建築の一つとして国宝に指定されています。その唐門は、秀吉の造った伏見城の城門だったが,二条城へ移され、さらに崇伝が幕府から賜り、この位置に建っていたのです。ところが、明治維新を経て秀吉は復権、豊国神社が造営され、豊国大明神として祀られた。そして唐門を豊国神社に譲ずらざるをえなくなった。そこで金地院は明治19年(1887)、大徳寺から門を買得し、現在地に移築したのが現在の門。この門は、明智光秀が母の菩提のため黄金千枚を寄進し大徳寺方丈に建立したもので「明智門」と呼ばれている。
家康を祀る神社に秀吉の門があり、秀吉の門の後に光秀の門がくる。不思議な巡り合わせですね。(豊国神社の唐門はココを参照。両者を比べるとスケールが違う)

明智門を潜るとすぐ右手が方丈(本堂、重要文化財)。一重、入母屋造、書院造、柿葺(こけらぶき)。
Wikipediaに「この大方丈(本堂)は寺伝では慶長16年(1611年)に、崇伝が伏見城の一部を江戸幕府3代将軍徳川家光から賜り、移築したものといわれるが、話の時代が合っていないうえ、建物に移築の痕跡は確認できない。実際は寛永4年(1627年)に崇伝によって建立されたものとみられる」とあります。
細長い縁先があり、障子の奥が広い板敷の廊下となっている。廊下の奥には六間あり、中央の仏間に本尊の地蔵菩薩像が安置されています。各部屋の襖や障子腰板には狩野派(狩野探幽、尚信)により金地に松、梅、菊、鶴などの障壁画が描かれている。
廊下正面に掲げられている額「布金道場(ふきんどうじょう)」は山岡鉄舟(1836-1888)の筆によるもの。明治初めの廃仏毀釈の嵐を防ぐため、仏教寺院ではなく道場だと主張しています。

開山堂前から見た方丈
方丈の裏には、大徳寺孤篷庵、曼殊院の八窓軒と共に京都三名席の1つに数えられている茶室「八窓席」(はっそうせき、重要文化財)があります。現在、春の特別拝観で公開されているのだが、別途拝観料700円かかるのでパス。掲げられている写真を写真し紹介します。

「創建当時は名称通り8つの窓があったが,明治時代の修築で6つとなったという。なお、建物修理の際の調査で、この茶室は遠州が創建したものではなく、既存の前身建物を遠州が改造したものであることが判明している」そうです(Wikipediaより)。八窓席に付随した小書院の襖絵は長谷川等伯筆「猿猴捉月図」

方丈の前に大きな庭園が広がる。崇伝の依頼により小堀遠州が寛永9年(1632)に作庭したもの。遠州作庭とされる庭園は多いいがその根拠があるものは少ない。この庭園は、当時の設計図や日記、書状などが残されているので、確実に小堀遠州が作庭したことがわかる貴重な庭園です。
大海を表す白砂の奥中央に蓬莱連山を表わす石組を置き、その両側に鶴島、亀島を配する蓬莱式枯山水庭園で、「鶴亀の庭」と呼ばれています。国の特別名勝に指定されている。奥に見える屋根は東照宮。

左側が海に浮かぶ亀島です。右端が「亀頭石」、左端が「亀尾石」、中央の盛り上がりが「亀甲石」で、樹齢700年の老木・柏槇(ビャクシン、イブキ)を背負う。
「鶴亀の庭」には多くの石が組まれているが、これは家康から厚遇されていた崇伝のために、全国各地の大名がきそって名石を寄進したことによる。

方丈内から撮った庭園中央。左側の茶色ぽく見える平べったい巨石は「遥拝石」と呼ばれ、背後にある家康の廟・東照宮を拝むために置かれたもの。遥拝石の後ろが蓬莱連山を表わす三尊石組。さらにその後ろの大刈り込みと常緑樹が、不老不死の仙人が住むという蓬莱山の深山幽谷をイメージさせてくれます。

右側の石組みは鶴島です。亀島の亀と向かい合う形で鶴が表現されている。遥拝石のすぐ右に突き出た平らな巨石は「鶴首石」。安芸城主・浅野家より贈られた石で、淀川を遡り伏見港より陸路で牛45頭により牽かれてきたという。土盛りの胴の部分には立石が重ねられ羽を表し、枝を広げた樹木が羽ばたいているようで、躍動感を与えています。

開山堂前から見た「鶴亀の庭」。こちらから眺めると、白砂の大海に浮かぶ島の様子が伝わってきます。開山堂前から白砂の飛び石に出るための、池をまたぐ二枚の大きな石板は阿波・蜂須賀家より贈られたもの。

「鶴亀の庭」の東側、明智門の前に弁天池を囲むように庭園がある。こちらは池泉回遊式庭園です。弁財天を祀る中島に石橋(写真右端)が架かるが、その二枚の橋石は岡山藩主・池田忠雄の寄進によるもの。

弁天池の脇の小路を通り「鶴亀の庭」の背後に周ると、東照宮の建物が見えてくる。まず「御透門」と呼ばれる門があります。名前のとおり、両脇は菱格子の透かし塀となっており、中を見通せます。

御透門を潜ると、すぐ東照宮の社殿(重要文化財)で、正面に見えているのは拝殿です。
家康は「日光と久能山と京都に東照宮を設置するように」との遺言を残した。東照宮とは、東照大権現である徳川家康を祀る神社のこと。崇伝は小堀遠州に設計させ、寛永5年(1628)に創建された。家康の遺髪と念持仏を祀っています。日光東照宮の方向を向いて東面し、創建当初は日光東照宮と比するほどの規模があったという。

拝殿は近づいて内部を覗いて見ることができる。天井には狩野探幽の筆による「鳴龍(なきりゅう)」が描かれており、さらにその欄間には土佐光起画・青蓮院宮尊純法親王の書になる「三十六歌仙」額が掲げられています。

建物を横から見ると社殿の構造がよくわかる。写真左が拝殿、右奥が本殿で徳川家康を祀る。拝殿と本殿の間を「石の間」と呼ばれる建物が結んでいる。この様式を「権現造り」と呼び、受け付けのパンフには「京都に遺る唯一の権現造り様式である」と記されている。菅原道真を祀る北野天満宮も権現造りのはずだが・・・?

東照宮から方丈へ戻る途中に、以心崇伝の塔所である開山堂が建つ。内部を覗けば、正面に以心崇伝像が、左右両側には十六羅漢像が安置されている。掛かっている勅額は後水尾天皇の筆によるものだそうです。

以心崇伝(いしんすうでん、1569―1633)は臨済宗の僧で、「以心」は字(あざな、別称)、法名が「崇伝」、南禅寺金地院に住んでいたので「金地院崇伝」とも呼ばれた。
室町幕府幕臣の一色家に生まれたが、天正1年(1573)足利氏滅亡のとき父と死別,南禅寺に入って出家した。慶長10年(1605)、南禅寺第270世住職となり、鷹ケ峯にあった金地院を塔頭として南禅寺境内に移し再建する。金地院に住み、応仁の乱によって荒廃した南禅寺の伽藍の復興に努めた。
慶長13年(1608)、徳川家康に招かれ駿府に赴き幕政に参加するようになった。駿府城内に建てた金地院に住み、外交文書の起草や朱印状の事務取扱を行った。さらに諸法度の起草に参画し、キリスト教の禁止(宣教師追放令)や、寺院諸法度、幕府の基本方針を示した武家諸法度、朝廷や公家の活動を制限する禁中並公家諸法度の制定に関わった。
元和2年(1616)家康が死ぬと、江戸に移り江戸城北の丸に金地院を建てた。元和5年(1619)には禅宗寺院の住職の任命を管轄する僧録に任じられた。以後、僧録は金地院住持が兼務する慣例となって金地僧録と称されるようになる。崇伝は京都と江戸の金地院を往還しながら宗教、政治の面で大いに活躍し、僧侶でありながら幕政を左右したことから「黒衣の宰相(こくいのさいしょう)」、また10万石の格式を与えられ「寺大名」といった異名で呼ばれた。また南禅寺や建長寺の再建復興にも尽力し、古書の収集や刊行などの文芸事業も行う。
寛永3年(1626)には後水尾天皇から「本光国師」号を賜る。しかし寛永4年(1627)に崇伝もからんだ「紫衣(しえ)事件」がおこり、後水尾天皇は退位に追い込まれ幕府の権威をより高めることになった。法整備をし徳川幕府の繁栄の礎を築いた人物といえる。寛永10年1月20日(1633年)江戸城内の金地院で死去。享年65歳。墓はここ開山堂にあります。


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