山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

紅葉の赤目四十八滝(三重県)巡り (その 2)

2015年01月27日 | 渓谷歩き

昨年(2014)の11月19日(水)、紅葉シーズンに訪れた時の記録です。

 行者滝・霊蛇滝・赤目牛  



10時20分、日本サンショウウオセンターを抜けると,渓谷の世界です。川沿いに大岩がゴロゴロし,その間を滝川がせせらぐ。樹木が覆いかぶさり昼間といえど薄暗い。長袖シャツに薄手のジャンパー姿できたが,やや寒さを感じる。







日本サンショウウオセンターから約100m,最初に現れるのが「行者滝(ぎょうじゃたき)」。高さ5m、滝壺の深さ10m。
名前からして役行者(えんのぎょうじゃ)と関係ありそう。役行者が滝で修業中に,不動明王が赤目の牛に乗って現れたという行者伝説がある。この滝で修業していたのでしょうか?、それにしては小さな滝ですが。関西の山や古跡を訪ねていると,あちこちで役行者伝説に出会う。役行者はどこにでも現れる神出鬼没の摩訶不思議な役者です。

この辺りはまだ平坦で歩きやすい道です。平日ですが紅葉シーズン最盛期のせいか,思った以上に人出が多い。ほとんど,おじさんおばさんですが。そういう私も・・・
11月中は日没から午後八時まで紅葉ライトアップイベントが行われるそうです。この辺りの路傍には、そのための竹筒が両側に並んでいる。数秒ごとに赤や緑など七色に変わり、幻想的な光景が浮かんでくるそうです。竹筒に小さな穴が曲線状に開けられている。ライトアップの仕掛けでしょうか。管理するNPO法人「赤目四十八滝渓谷保勝会」が三年前から始めたもの。最近何処でも行っているので、ライトアップ自体は珍しくないが、川と滝と紅葉の組み合わせは見てみたい気がする。でもそんな時間まで居てられない。

霊蛇滝(れいじゃたき)が現れる。落差6m、幅3mといわれる。霊蛇滝を正面から見るには,川の中に飛石伝いに渡っていく。橋ともマッチして,美しい姿を見せてくれる。
滝よりも、澄みきった滝壺の美しさに感銘する。
霊蛇滝近くの道傍に赤目牛の銅像が置かれている。傍の説明版に「古くから伝えられている赤目の由来は、役小角(えんのおづぬ)がこの地に来た折りに、滝に向かって行を修めると、不動明王が牛に乗って出現。その牛の目が赤かったので、この地を「赤目」と名付けた」と「赤目」の由来が書かれています。そして小堂を建て不動明王を祀ったのが、入山口にある滝寺「延壽院(えんじゅいん)」に安置されている赤目不動尊。目黒不動尊・目白不動尊と共に日本不動三体仏の一つとされている。これも役行者伝説の一つでしょうか。

 不動滝・乙女滝  


赤目牛の銅像を横目にチョッと急な階段を登ると、「不動橋」と銘打たれた頑丈な橋が掛けられている。この橋上から眺められる位置に、最初の「赤目五瀑(あかめ ごばく)」である不動滝(ふどうたき)が現れる。赤目四十八滝のうち比較的大きな五つの滝を、「赤目五瀑(あかめ ごばく)」と呼んでいる。不動滝は落差15m、滝幅7m、滝壺の深さ10m。布曳滝についで二番目の高さ。
赤目四十八滝全体でも、ここが一番賑わっている。高齢者にとってはこの辺りまでが限界でしょうか。まだ赤目四十八滝の十分の一の位置でが、これから先少しずつ起伏が激しくなってきます。明治の中頃までは、ここから奥は原生林で覆われ先に進むことができず、当時はこの不動滝までで引き返していたそうです。かって「滝参り」とは、不動明王の現れたこの滝にお参りすることだったようです。
この辺りまでライトアップ用の竹灯が並んでいる。不動滝もライトで照らされるでしょうから、夜になるとこの周辺は幻想的な世界に生まれ変わるんでしょうネ。でも一人だけだったら、チト怖い気もしますが。

不動滝から4~5分ほど歩くと、乙女滝の看板が見える。”乙女”とはこんなイメージでしょうか?。彩られた落葉が川面に浮かび、止まっているような流されているような楚々とした風情を漂わしている。”乙女”のようです。

乙女滝から奥へ進んで行くと、滝川は”乙女”の川から荒々しいゴロ石の積み重なった渓流に変貌します。荒々しくなったり、優しくなったり、こうした変化も赤目四十八滝の楽しみの一つかもしれない。
途中に大日滝の案内があるが、山の斜面に水が流れ落ちたような形跡があるだけ。雨が降ると落差30m、幅7mの2段の素晴らしい大日滝が姿を見せるそうですが・・・。最近、雨量が少ないせいかこうした形跡だけの滝が幾つかありました。
写真は八畳岩の休憩所。トイレもあります。ここまでちょうど1時間位、ちょっと休憩するのに丁度良い場所です。傘堂のような休憩所は、紅葉とマッチし風雅です。雨避けにもなりそう。

 千手滝(せんじゅたき)  



休憩所から直ぐの所に赤目五瀑の二つ目「千手滝」があります。”五瀑”といっても、落差はたかが十数mでしれている。赤目四十八滝は滝を含め、川、景観、散策路など全体で体感する景勝地です。滝だけを目当てにくると失望します。
落差15m、滝幅4m、滝壺の深さ約20m。小さいながら滝の雰囲気といい、深緑に澄みきった滝壺など、赤目四十八滝のなかでは一番のお気に入りかな。
名前の由来は、複雑な形の岩を伝って千手のように分散して水が落ちる姿からつけられたという説と、千手観音に因むとする二つの説があるそうです。傍の案内板によると「滝の名前には、仏名に因んだものがたくさんみられます。これは赤目の自然景観を一大曼荼羅図に見立て、大日如来を中心として千手観音、不動明王、吉祥天、役の行者などが並び、妙法山の阿弥陀如来を配していることから名付けられたもので、四十八滝を全周することで諸願が達成されることに通じると考えられているためです」と記されている。
滝壺の手前、千手滝を真正面から鑑賞できる位置に千手茶屋がある。おでん、おにぎり、うどん、お酒などおいてます。ここが最初の食事処、というより滝のある渓谷に入ってここしかお店は無かった。ここまで、パンフでは「800m、片道20分」となっているが、脇目も振らずに歩くだけで「20分」でしょうネ。私は1時間少々かかりました。ちょうど昼時で、美しい千手滝を眺めながら、おでんで一杯やるのは最高!

かなり急な坂を登ると千手滝の上にでる。千手茶屋が小さく見えます。そして静止したように澄み切った滝壺の美しさは赤目で一番。おじいちゃん、おばあちゃん、ここまで頑張ってほしいナァ。
通常、滝は下から見上げるのがほとんどですが、赤目滝の滝は下から、横から、上からと別の角度から眺め楽しむことができます。滝の高さが低いせいもありますが、登ったり降りたりかなりのアップダウンが必要になります。この辺りからアップダウンが多くなってくる。

詳しくはホームページ

紅葉の赤目四十八滝(三重県)巡り(その1)

2015年01月20日 | 渓谷歩き

昨年(2014)の11月19日(水)、紅葉シーズンに訪れた時の記録です。

 赤目滝のバス停まで  


近鉄沿線の紅葉景勝地の一つに「赤目四十八滝(あかめしじゅうはちたき)」がある。11月中旬、天気予報が良かったので出かけることにした。
上本町駅発7:46分の名張行き急行に乗る。赤目口駅は急行も停車するので,乗り換え無しで行ける。8:57分近鉄大阪線・赤目口駅着。赤目口駅から赤目滝バス停まで三重交通バスで10~15分(360円)で行けるが、始発バスまで1時間ある。歩いても行けるが、帰りの最終バスが3時過ぎなので時間的な余裕がない。タクシーを利用することにした。赤目滝まで乗ると2000円位。中間の「長坂」まで乗り,残りの山間部はのんびり歩くことにした。ところが運ちゃんにノセられ,長坂越えて介護老人施設「名張もみじ山荘」前まで乗ることに。1240円でした。9:10分着。

老人施設から滝川沿いの車道を谷に向かって歩く。紅葉シーズンだが、平日の早朝なのでマイカーも少ない。5分位歩くと「赤目キャンプ場」です。紅葉と川のせせらぎを楽しみながら、車道脇に設けられた歩道をさらに5分くらい歩くと赤目四十八滝入り口へ。「ようこそ忍者修行の森 赤目四十八滝」の看板が迎えてくれる。平日で,まだ朝早いのか広い駐車場はガランとしていた。

土産店、あ食事処が並び、観光地の雰囲気が漂う。店先には赤装束と赤覆面の忍者がお出迎えしてくれる。お店の中も忍者装束や道具が並び、販売されている。俺は忍者の修行に来たんじゃない,滝を見に来たんです。紅葉が鮮やかで、浮き浮きしてきます。

数軒お土産店をやり過ごすと赤目滝のバス停です。事前の下調べでは、平日の最終バスは15時台となっていた。ところが臨時バスの張り紙がある。ライトアップの期間中(11/1~11/30)は,最終が18時30分となっている。これを知っていたら,朝早く出かけなくても,またタクシーなど利用しないで歩いてきたのですが。ネットでも近鉄の案内所でも知りえなかった。
しかし最終が18時30分とは,チト早すぎるんじゃないでしょうか。臨時時刻表で不思議なのは,最終バスで18時15分に着き,帰りの最終バスが18時30分発とは。15分間でライトアップを楽しむんでしょうか?,それとも一泊するとか。

 忍者修行の渓谷  


バス停から少し進むと、「忍者修行体験エコツアー」の受付所があります。何故”エコ”なんでしょうネ?。色とりどりの忍者衣装が掛けられている。忍者衣装に着替え,この先の「にんじゃの森」で忍者修行を体験できます。指導が必要な手裏剣と水ぐも以外の施設を自由に使って忍者の気分になれるそうです。
1時間30分の体験料が二千円とは安いようですが,今日は忍者修行に来たのじゃないので・・・パスします。中学生以下1700円,小学生未満1550円。詳しくはエコツアーデスク(0595-64-2695,名張市赤目町長坂)まで。
この地一帯は約1300年前、役行者(役小角)などが修験道の修行した渓谷だったようですが、その後戦国時代になると、伊賀流忍者の修行の地になった。
左の坂道を登れば「忍者の森」で、忍術を学び伊賀流忍者の気分を味わえる。忍者衣装に着替え、案内人の指導の下、多彩な忍術を修行できるという。高い壁を乗り越える「登り術」、ロープを使った「侵入術」、縄を使って飛び移る「飛び猿の術」、木に登る「狸隠れの術」など。最後の難関は、滝川を渡る「水ぐもの術」、無事終了すると、忍者文字で書かれた「免許皆伝の書」がもらえるそうです。
今の世の中でもそうした術を必要とする人がいるかもしれませんが、今の私は必要としないのでパスします。

 日本サンショウウオセンター  


入山手続きをする日本サンショウウオセンターへ向かいます。センター前のお店で、鯛焼きのようですが・・・噂の「へこきまんじゅう」を売っていた。赤目名物と聞いていたので,一個味わってみることに。食べてイモ味がしたので,やっと”へこき”の意味が理解できました。つぶ餡をさつま芋の生地で包み,鯛焼きのような焼き器で焼き上げる。1個230円でした。芋の味と餡の甘味が入り混ざった奇妙な味わいです。後で知ったのですが、リンゴやチーズなど全7種の味を楽しめ、忍者の形に焼かれているという。そうは見えなかったが・・・。今日は最後までコケなかった、一個だけでは足りなかったのでしょうか・・・。

ようやく日本サンショウウオセンターへ。ここで入館料400円(小人 150円)支払い入館する。特にサンショウオなど見たくないのだが,この館内を通らなければ赤目四十八滝のある渓谷に入れないようになっている。まさに関所です。右は川筋なので「水ぐもの術」、左は深い山中なので「登り術」、この関所を破るには、忍者の修行が必要なようです。入館料となっているが実際は入山料or入滝料。赤目四十八滝の全体マップもくれます。
営業時間
  4月1日~11月30日 午前8時30分~午後5時
  12月1日~3月31日 午前9時~午後4時30分(12月28日~12月31日 休館)
  
滝からの帰りが午後5時を過ぎたらどうなるか?。センターは閉まっているが,川側の通路が開放され通れるようになっているそうです。

ここ赤目はオオサンショウウオの生息地です。オオサンショウウオは「生きている化石」と呼ばれる稀少動物で、特別天然記念物に指定されています。水中でも、陸でも生活できる両生類の動物。明るい昼間は岩陰などに身を潜め,夜になると活動し始める。まさに忍者のような生態をもつ。戦国時代に活躍した伊賀流忍者たちは、サンショウウオを見習って水潜りの術を身につけたとか。

1階はオオサンショウウオの水槽が並び、否が応でもその側を通らなければならない。皆さん、覗き込んで「何処にいるの?」と探していらっしゃる。黒く、丸っぽく、動かない。「隠遁の術」で水槽内に置かれている石と同化してるんでしょう。
2階はサンショウウオの展示パネルと、ビデオを流すサンショウウオ教室がある。望むらくはサンショウウオより、新緑・紅葉・雪に映る滝の景観を写真展示して欲しいものです。

詳しくはホームページ

2015年初詣 男山岩清水八幡宮(京都府八幡市)

2015年01月06日 | 寺院・旧跡を訪ねて

明けましておめでとうございます。本年もこの拙いブログを時々覗いてください。
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今年の初詣は京都府八幡市の「男山石清水八幡宮」と決めていた。この春に、わゆる「近つ飛鳥」と呼ばれる大阪府太子町を訪れた時、源氏発祥の地に壺井八幡宮があったからです。この宮は、京の都を守護する武の神を祀っている男山石清水八幡宮の御神霊を分祀され、源氏の氏神としたとされる。それだけの理由ですが・・・。

関西でも有名な初詣神社なので、混雑が予想される元旦、二日は避け、三日に訪れました。元旦、二日は京都地方は数年来の大雪で、ニュースにもなっていた。幸い三日は快晴で、絶好の初詣日和。しかし残雪があり、土道はぬかるみドロンコ状でした。

 一の鳥居~表参道~山上へ  



京阪電車・八幡駅前には八幡市の観光案内所が二か所あり、市の観光パンフが置かれています。これが大変良くできたパンフで、男山と神社を中心に、市の観光名所がイラスト風に描かれたマップです。これを見ていると、もう一度八幡市へ来たくなるよう気持ちにさせられる。紙質も丈夫で、持ち歩くのに良い。今まで数多くの観光パンフを見てきたが、これが一番ですネ。
駅からの人の流れは、横の男山ケーブル駅へ向かっている。初詣くらいは、正々堂々と正面から歩いて参拝したいものです。一の鳥居は駅からすぐ近く。ケーブルのせいか、こちらの人混みは混雑するほどではない。元旦・二日と家に閉じこもっていたので、晴れ着、出店ありで、やっと正月気分を味わえました。ただ一の鳥居から頓宮周辺は土道で、水溜り状で大変歩きにくかった。

一の鳥居の手前から右の道へ入ると神應寺(じんのうじ)へ行ける。ただこちらへ向かう人は誰もいない。寄り道してみる。
神應寺(じんのうじ)に登る長い石段の入り口脇に、日本最大級といわれる石造りの五輪塔がある。頓宮の西側にあたり、鎌倉時代のもので、高さ6m、下部の方形の一辺2.4mの石塔。国の重要文化財に指定されているそうです。この五輪塔には刻銘がないため、様々な伝説が残りはっきりしたことは分からない。八幡市の観光パンフには「航海記念塔」とある。高倉天皇の御代に「摂津尼崎の商人が中国宋との貿易の帰途、石清水八幡宮に祈って海難を逃れ、その恩に報いるため建立されたと伝えられる。航海の安全を祈って参詣され、航海記念塔とも称されている」との伝承からとか。
前日の京都地方は数年来の大雪だった。溶けてなかったら巨大な雪ダルマだったでしょうね。右上に男山ケーブルの鉄橋が見えます。京阪電車・八幡駅の傍にケーブル駅があったが大変な混雑で、行列ができていました。たかが百メートルほどの山、坂道といえ初詣くらいは参道を歩いてお参りしてほしいものです。
頓宮を出ると、二の鳥居まで200m位だが両側に露店がズラリと並ぶ。ここの参道脇に「タブの木」とか「頼朝ゆかりの松」とかあるのだが、出店が邪魔し見つからない。辛うじて松だけは見つけました。
鳥居をくぐりまっすぐ進めば、七曲りの階段を経て三の鳥居に続く表参道。鳥居手前に右へ登ってゆく坂道がある。これが裏参道と呼ばれ、近道だがかなり急な階段のようです。堂々と表からお参りすることに。

神社参道の脇にある広場には、神社境内とは思われないような風景だ展開します。巨大なピカピカの塔がそびえ、その近くにも真鍮光する大きな記念碑が横たわっている。あの発明王・エジソンの碑とあります。八幡大神様をお祀りする由緒ある日本の神社とエジソンとは不思議な組み合わせですが、初めて知りました。

1879年に炭素白熱電球を発明したエジソンは、さらに長時間輝き続ける材料を世界中から探し続けたという。「紙や糸、植物の繊維など数々の材料からフィラメントを作り電球の試作を繰り返し、その数は植物の種類だけでも6,000種類以上といわれます。試行錯誤の研究を進める中、ある日エジソンは日本からのお土産として研究所にあった扇子を見つけ、その骨を使って電球を試作してみました。するとその結果、電球の寿命は飛躍的に延びました。そしてその扇子の骨こそが竹であったのです。竹は繊維が太く丈夫で、長持ちするフィラメントを作るのに最適であったのです。さっそくエジソンは「究極の竹」を求め世界中に研究員を派遣し、その中の一人であった探検家ウィリアム・H・ムーアは中国を経て日本へとやってきます。ムーアは様々な地域・種類・成長度の竹を集める中、京都を訪れた際、当時の槇村正直京都府知事から竹の名産地であった八幡の「八幡竹」を紹介され、他所の竹と共にエジソンのもとへと送りました。ムーアからの日本各地の竹を受け取ったエジソンはそれらを使いさらに実験を繰り返し、そしてついに、最も長持ちのする、最高の竹を発見します。そしてその竹こそが京都・男山周辺の真竹だったのです。この竹を使用した電球は何と平均1,000時間以上も輝き続けたといいます。」(八幡宮公式HPより)

電球内の電気を流すあの細い線が竹を材料にしていたとは、驚きです。その縁で、昭和9年(1934年)この境内の隣に「エジソン記念碑」が建立された。そして八幡市は、エジソン生誕の地であるアメリカ・マイラン村と姉妹都市協定を結んでいるそうです。

 三の鳥居~社殿で初詣  


七曲りのかなり長い坂道の続く表参道を登りきると、道はほぼ直角に右へ折れ、その場所に三の鳥居が立っている。木立と石燈籠の並ぶ平坦な参道の奥には紅い社殿が見えている。もうそこです。
この写真では分かりづらいが、鳥居をくぐり4~5m進んだ先の参道の中央に、石畳とは異なる自然石の一部が露出し盛り上がっている。これが「一ッ石」「勝負石」などと呼ばれ、かって競走馬の出発点となっていたそうです。写真奥に見える南総門下に「五ッ石」があり、そこがゴール。この直線で、応神天皇賞レースをしてたんでしょうね。鳥居の手前、登りきった直角の門には「神馬舎(じんめしゃ)」という馬小屋が残っている。
参道の正面奥には、大きくはないが風格のある朱塗りの南総門が建つ。現存する門は寛永11年(1634年)に三代将軍徳川家光によって建造されたもので、重要文化財に指定されている。門の東側横にはカヤ(榧)の巨木が立つ。樹齢700年以上、根周り7m、樹高約20m、樹冠30m 。

南総門を入るとすぐ社殿で、初詣の人で込み合っている。並んで順番待つのも時間の無駄、遠くから手を合わすだけにした。危険なので賽銭は投げない・・・(-。-)y-゜゜゜

この神社の創建は、石清水八幡宮のホームページに次のように記されている。
「平安時代始め、清和天皇の貞観元(859)年、南都大安寺の僧・行教和尚は豊前国(現・大分県)宇佐八幡宮にこもり日夜熱祷を捧げ、八幡大神様の”吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん”との御託宣を蒙り、同年男山の峯に御神霊を御奉安申し上げたのが当宮の起源です。そして朝廷は翌貞観2(860)年、同所に八幡造(はちまんづくり)の社殿(六宇の宝殿[ろくうのほうでん])を造営し、4月3日に御遷座されました」

御祭神は本殿中央に応神天皇、西に比大神(ひめおおかみ)、東に神功皇后が祀られている。九州の宇佐神宮、関東の鶴岡八幡宮とともに日本三大八幡社の一つです。宇佐八幡宮の御神霊が八幡の男山に分祀され、さらに男山八幡宮の御神霊が源氏の氏神として河内の壺井八幡宮へ分祀された。さらにそこから鎌倉の鶴岡八幡宮へと・・・。神様はどこまでも広がっていく。

回廊で囲まれた社殿は、正面に「楼門」があり、奥に向かって「舞殿」「弊殿」と続き、その奥に祭神が祀られている二棟の「本殿」がある。私たちが両手を合わせ礼拝しているのは楼門で、通常は拝殿と呼んでいるもの。奥の舞殿・弊殿・本殿には拝観料をお支払しなければ入れない。
南総門を含めこれらの建物は何度も造営・修理が繰り返され、現在のものは寛永11(1634)年、徳川三代将軍家光の建立によるもの。家光らしい朱塗りの豪華絢爛なものです。これら全て重要文化財に指定されている。

この築地塀は「信長塀」とも呼ばれ、織田信長が好んだ様式だそうです。
説明版には「織田信長が天正八年(1580)に寄進した土塀。瓦と土を幾重にも重ねているため耐火性、耐久性に優れており、御本殿を囲むように築かれています」

社殿を囲む回廊と信長塀との間を通って社殿裏へ回る。ここにも境内社が鎮座している。左から住吉社、若宮社、若宮殿社。

特に応神天皇の皇女が祀られている一番右の若宮殿社が人気があるようです。神徳は祈願成就、心身健康で女性の守護神だからでしょうか。でも、女の神様なのに何故”殿”ののでしょうか?。
若宮社には応神天皇の皇子である仁徳天皇が祀られ、男性の守護神だそうです。住吉社は?。

 展望台~裏参道からお帰り  



裏参道から展望台に立ち寄ってみる。ちょうど男山ケーブル駅の上に位置し、京都方面への見晴がすこぶる良い。
展望台からは桂川、宇治川、木津川の三川が眺望でき、その奥には京都を挟み西の愛宕山から、東の比叡山まで一望できます。
比叡山延暦寺が京の都を守護する鬼門なら、ここ男山は裏鬼門にあたる重要な位置だった。羽柴秀吉と明智光秀が勇を決した天王山も目の前です。

ドロンコの土には閉口しましたが・・・。
展望台からの帰り道は、途中で石清水社、松花堂跡に寄ってみたいので裏参道を降りることにした。ところが石清水社、松花堂跡への分かれ道にはロープが張られ立ち入り禁止になっている。前日の大雪で危険箇所があるのか、あるいは正月の初詣で混雑するのを防ぐためか。誰も入ろうとしないが、でも私はロープを跨ぎ入りました。危険なら引き返せばよいだけです。傾斜のきつい急な階段が続いている。しかも雪後のぬかるみです。確かに大勢の人が降りれば危険が予想されますネ。誰もいない階段を、足元に気をつけながら数分降りれば石清水社です。

「石清水八幡宮」の社名となったこの石清水社は、元は石清水寺というお寺だったようです。男山中腹に位置し、水が湧き出る井戸があり、これが厳冬にも凍らず旱魃でも枯れない霊泉「石清水」として尊ばれてきた。
鳥居をくぐった正面に井戸がある。柄杓が置かれているので、今でも使えるようです。現在でも八幡宮の行事には、この井戸から早朝に汲み上げられた「石清水」が必ず御神前に献供さるそうです。井戸の真上に「石清水様の井戸の中におさい銭や物を入れないで下さい」という張り紙がありました。

石清水社のすぐ下に松花堂跡が見える。
本当に”跡”で、何にも遺物はありません。跡地と説明版があるだけ。”松花堂昭乗”?、全く知りませんでした。説明板から要約します。
松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう、1582-1639)は、江戸時代初期の真言宗の僧侶で文化人。男山には、かって「男山四十八坊」と呼ばれるほど多くの宿坊が建ち並んでいた。昭乗は男山に登り出家、初め鐘楼坊、のち瀧本坊に住み修業に励む。、やがて阿闍梨に昇り、44歳で瀧本坊住職に。同時に書や画を能くし、茶人としても有名で、小堀遠州や近衛信尋、沢庵宗彭などと交友があった。特に能書家として高名で近衛信尹、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」の一人に数えられ、松花堂流(滝本流)の開祖となる。晩年になると、泉坊境内に一宇の庵「松花堂」を自ら建て隠棲する。ここに小堀遠州、木下長嘯子、江月、沢庵など、多くの文人墨客が訪れ、さながら文化サロンの風だったそうです。
これらの宿坊のほとんどは、明治の廃仏毀釈で撤去されてしまった。かろうじて泉坊書院の一部や松花堂(茶室)は八幡市女郎花へ移築され、松花堂庭園として残されている。この跡地は昭和37年国の史跡に指定されている。

”松花堂弁当?吉兆?”・・・おれには縁無いナァ!

━━━━━ 今年は私にとって良い年でありますように! ━━━━━━━━━━━━━