山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

六波羅から建仁寺へ 3(建仁寺:庭園)

2023年06月26日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2023年5月27日(土曜日)
建仁寺(けんにんじ)の庭園(大雄苑、〇△□乃庭、潮音庭)を鑑賞し、最後に京都ゑびす神社へ。

 建仁寺 4: 庭園(大雄苑)  



方丈南側の前庭「大雄苑(だいおうえん)」 。方丈の広い縁側に座りじっくり鑑賞できる(寝そべり禁止)。「方丈前の枯山水庭園。創建当時は不明であるが、現在の作庭は加藤熊吉により昭和初期頃、作庭されたもの。建仁寺は中国百丈山の禅刹を模したといわれ、庭園も百丈山の景色を模して作庭された」(公式サイトより)。方丈は昭和9年(1934)の室戸台風で倒壊し、数年後に再建されているので、その時に作庭されたものと考えられる。庭名は百丈山の別名の大雄山に由来します。

庭中央には、両側に五筋塀を構えた唐門が建ち、その背後に法堂が、さらにその後ろに三門、放生池、勅使門と一直線に並んでいる。これが中国百丈山に由来する禅院の伽藍配置。

西端からの眺め。左奥は法堂への渡り廊下。川に、あるいは大海の波に見立てたのでしょうか、くねった砂紋がひかれている。後ろに松、植栽、巨石が配されています。


庭の西端奥に、緑に囲まれて見える七層の石塔は織田信長の供養塔です。弟である織田有楽斎が兄の追善のため建立したもの。徳川時代には、開山堂南の溝の中に隠されていたが、明治になってから現在の場所に戻されたのだそうです。








大雄苑の庭は降りて歩けず、縁側から鑑賞するだけ。ところが方丈の西北にまわると、庭に降りる階段が設けられ、履物まで置かれている。ここを降り、方丈裏の小径を歩けます。








小径を歩くと、最初に出会うのが「田村月樵遺愛の大硯」。
田村月樵(げっしょう、1846 - 1918、宗立ともいう)は明治期の日本画家、洋画家、画僧。幼き頃から南画や仏画を学ぶ。初め写生画に傾倒し、明治初年には、京都洋画壇の先駆者として活躍した。晩年は、油絵から遠ざかり、ただ仏画のみに没頭する。67~69歳の折に建仁寺方丈の襖絵「唐子遊戯図」や、塔頭・霊洞院の「雲龍図」などを描いた。
「この碑は、月樵が生前愛用した長さが三尺の大硯で、大海原に臨んで一疋の蛙がはらばって前進していくようすを彼自身が刻みつけたというものである」と説明版にあります。

次に「安国寺恵瓊首塚」が現れる。少し長いが説明版です。「安国寺恵は天文七(1538)年、安芸国守護武田氏の一族として生まれた。天文十(1541)年、大内氏との戦いで武田家が滅亡し、当時四歳だった恵瓊は安国寺に身を寄せることになる。以後十二年間、当寺で仏道修行に精進し、十六歳のときに生涯の師と仰ぐこととなる笠雲恵心に巡り会う。この直後、恵瓊は京都東福寺に入り、五山禅林の人として修行を重ねた。そして、恵瓊三十五歳の時、正式に安芸安国寺の住持となり、この頃から毛利家の政治にかかわる外交僧として活躍をはじめる。羽柴秀吉が率いる織田軍が中国地方に侵攻してきた際には、毛利氏の使者として秀吉との交渉にあたり、この交渉を通じて秀吉との繋がりが深まったといえる。やがて、天下人となった秀吉は恵瓊を直臣の大名に取り立て、伊予国二万三千石を与えた。また恵瓊は、建仁寺方丈移築をはじめ東福寺の庫裏の再建など、旧来の建築物の修復に関与し多くの功績を残している」。安国寺恵瓊(あんこくじえけい)は応仁の乱などの戦乱で衰退していた建仁寺を再興した恩人です。

慶長五年(1600)関ヶ原で西軍が敗れると、京都で捕らえられて六条河原で斬首され晒し首にされた。その首を建仁寺の僧が持ち帰り、方丈の裏に手厚く葬った。建仁寺の功労者にしては、やや貧弱なお墓です。これは、徳川幕府のもと、目立った墓は造れず、墓標を刻むこともなく方丈の裏にひっそりと建てられたという。

安国寺恵瓊首塚の背後に見えるのが茶室「東陽坊(とうようぼう)」。天正15年(1587)に豊臣秀吉が催した北野大茶会で、千利休の高弟だった真如堂の僧・東陽坊長盛が北野の紙屋川の土手に副席として建てたものと伝えられ、北野大茶会の貴重な遺構です。
明治中頃、建仁寺開山堂の裏手に移され、大正10年(1921)に現在地に移築された。中に入ることはできませんが、内部を覗き見ることはできます。

茶室の西続きに、幅1mほどの竹垣が接している。建仁寺の僧が竹で創案したという独特の垣で、「建仁寺垣」と呼ばれています。太い4つ割り竹を重ねるように並べ隙間をつくらない。反対側も同じように並べ、これに押縁(おしぶち)といわれる横の竹でおさえ、縄で結んだもの。

 建仁寺 5: 庭園(〇△□乃庭、潮音庭)  



方丈裏の小径から堂内に戻る。本坊と小書院(左側の建物)に挟まれて、白砂の敷かれた小さな枯山水庭園があります。「〇△□乃庭」という珍しい庭名が付けられている。そのまんま「まるさんかくしかくのにわ」と読む。平成18年(2006)に北山安夫による作庭で、「単純な三つの図形は宇宙の根源的形態を示し、禅宗の四大思想(地水火風)を、地(□)水(○)火(△)で象徴したものとも言われる」(公式サイトより)



◯□はわかりやすい。○は中央の苔の円地に椿の木が立っている所。□は手前の井戸です。それでは△はどこでしょうか?。


写真の左上をみれば三角形に見える。砂を盛り上げ線状にし、庭園を囲うように枠が造られています。これが△で、西南の廊下で見れば分かりやすく、それ以外の場所では分かりにくい。

小書院の内部です。右に「〇△□乃庭」、左に「潮音庭」を眺められる。江戸時代の臨済宗古月派の禅僧、画家・仙厓義梵(せんがい-ぎぼん、1750-1837)が「この世の全ては○△□で表せる」といい、「○△ロ」の掛軸を残した。これを元に作庭されたという。小書院の奥に「○△ロ」の掛軸が掛かっている(これは複製?)



本坊-小書院-大書院と廊下でつながっている。写真右下隅に「〇△□乃庭」があり、その北側が小書院で、潮音庭を間に挟み突き当りが大書院となっている。



小書院(手前)と大書院に挟まれた中庭「潮音庭(ちょうおんてい)」。「建仁寺本坊中庭にある潮音庭は、中央に三尊石その東には坐禅石、廻りに紅葉を配した枯淡な四方正面の禅庭であります」(公式サイト)。左右を渡り廊下で囲み、四方正面としてどの角度からでも鑑賞できる。
小堀泰巌の作庭、監修は現代の作庭家・北山安夫という。

西側廊下から見る。

大書院の縁側から鑑賞。秋には紅葉、冬にはヤブツバキが美しく、この時期は緑がさえます。

東側廊下から見る。



堂内から外に出ると、大勢の修学旅行生がいる。また騒々しい以前の京都が復活したようです。

法堂西側の西門から出て、京都ゑびす神社へ向かいます。






 京都ゑびす神社  



建仁寺の西門を出て、南に100mほどで京都ゑびす神社の石鳥居が見えてくる。
建仁2年(1202)、栄西が建仁寺を建立するにあたり、鎮守社として恵美須神を主祭神として建仁寺境内に創建された。栄西が南宋から帰国する際に海上で暴風雨に遭い遭難しそうになったが、恵美須神が現れその加護によって難を逃れたということによる。
応仁の乱(1467-1477)で建仁寺が焼失したさいに、現在地に移転再建された。明治の神仏分離によって建仁寺から分離独立する。

石鳥居をくぐった境内すぐの右手にあるのが「財布塚」と「名刺塚」。両脇に松下幸之助と吉村孫三郎揮毫の石柱が建っている。先代宮司が、古い財布とか名刺とかをそのまま捨ててしまうのは忍びないと、松下幸之助さんと吉村孫三郎(戦前に吉村紡績を設立、現在「ヨシボー(株)」)さんにお願いし賛同を得て寄進されたものです。毎年9月の第四日曜日に名刺感謝祭が行われ、古くなった名刺が焚かれる。

次に、ゑびす神がにこやかにお出迎えしてくれます。右手に竿を持ち、左脇には釣った鯛を抱えています。釣った魚を物々交換でコメに変えるということから、漁業の神様であり、商売繁盛の神様です。

ゑびす(恵比寿)神は「都七福神」の一つで、新年に七福神の社寺をめぐる「都七福神巡り」が行われる。それ以上に有名なのが、親しみを込めて「えべっさん」とも呼ばれる「十日えびす」。西宮神社(西宮市)、今宮戎神社(大阪市)と並んで日本三大えびすで、1月10日がゑびすさんのお誕生日だったことに由来する。9日を宵戎、10日を本戎、11日を残り福といい、この三日間は宝物をかたどった縁起物を枝先に付けた笹をもった人々で周辺は溢れかえります。






次に、二の鳥居が現れる。通常、扁額が掛かる所に笑みを浮かべたゑびすさんの顔が掛けられている。顎の下に「福箕(ふくみ)」と呼ばれる網が取り付けられ、これにお賽銭を投げ入れると願い事が叶うそうです。その下には、キャッチミスないように熊手まで用意されている。さすが商売繁盛の神様だ。一万円札を投げてみたが、届かなかった(ウソです)。






これは拝殿で、奥に本殿があるが見えない。「八重事代主大神(やえことしろぬしのおおかみ)」が祀られている。これはゑびす神の正式な名前。商売繁盛のご縁があったのか、拝殿左右に高島屋と大丸の提灯が奉納されている。
正面でお参りの後、もう一度側面へとあります。

左側面に周ると、「優しくトントンと叩いて」お参りくださいとある。ちょうど本堂の真横で神様とも近い。ゑびすさんは高齢になられ、耳が遠くなられたこともあり、正面の鈴の音では気づかない。真横に回り、優しく肩をトントンとたたいてお参りするのです。ちょっと頼りない神様です。


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六波羅から建仁寺へ 2(建仁寺:境内・堂内)

2023年06月18日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2023年5月27日(土曜日)
建仁寺(けんにんじ)の境内を歩いた後、本坊・方丈・大書院・法堂とお堂の中を見学します。

 建仁寺(けんにんじ):境内 



(境内図は公式サイトよりDL)
★★~建仁寺の歴史~★★
建仁寺の開祖・栄西(えいさい、公式サイトでは「ようさい」となっている)は、備中(岡山県)吉備津宮の社家・賀陽(かや)氏の子として誕生(永治元年(1141))。13歳で比叡山延暦寺に登り、翌年得度(出家)し天台・密教を修学します。 28歳(1168年)で南宋に渡るが半年で帰国。47歳(1187年)に二度目の渡宋を果たします。天台山に登り、万年寺の住持虚庵懐敞(きあんえじょう)のもとで臨済宗黄龍派(おうりょうは)の禅を五年に亘り修行、その法を受け継いで建久2年(1191)に帰国しました。
栄西は建仁2年(1202)、鎌倉幕府第2代将軍・源頼家の援助を得て、六波羅探題に近接する幕府直轄領に建仁寺を創建した。寺名は、朝廷から元号を賜ったもの。当時の京都では真言(密)、天台(止観)の既存宗派の勢力が強大だったため、建仁寺内に真言院・止観院を構え真言・天台・禅の三宗並立の寺とした。栄西は建保3年(1215、75歳)建仁寺で没する。
その後、焼失し荒廃するが、正嘉元年(1258)に東福寺開山の円爾(聖一国師)が当山に第十世住職として入寺し仏殿などを復興する。翌、正元元年(1259)には宋の禅僧・蘭渓道隆が第十一世として入寺し、禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となった。室町幕府は京都五山を制定し、建仁寺をその第三位として厚く保護した。最盛期に塔頭60余りあり、黄竜派、諸派の僧が集まり「学問づら」と呼ばれた。ところが応仁・文明の乱(1467-1477)などの戦乱により殆どの堂宇を焼失し、衰退する。
現在の大部分の建物は江戸時代以降の再建による。天正年間(1573 - 1592)には、毛利氏の外交僧として活躍し、豊臣秀吉により直臣の大名に取り立てられた安国寺恵瓊によって方丈や仏殿が移築され復興が始まった。豊臣秀吉が寺領820石を寄進し(1586年)、徳川家康により寺領が安堵されている(1614年)。徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備されていった。

明治に入り、新政府の神仏分離令や廃仏毀釈によって塔頭34院が14院へ統廃合され、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小され現在にいたります。明治9年(1876)、臨済宗の諸派から建仁寺派が独立し、建仁寺は総本山になった。京都最古の禅寺で、正式名は「東山(とうざん)建仁禅寺」

八坂通に面し、南側の正面にあたる勅使門(重要文化財)。「銅板葺切妻造の四脚門で鎌倉時代後期の遺構を今に伝えています。柱や扉に戦乱の矢の痕があることから「矢の根門」または「矢立門」と呼ばれています。元来、平重盛の六波羅邸の門、あるいは平教盛の館門を移建したものといわれています」(公式サイト)
勅使門は通れないのだが、脇に小門があり、そこから入る。

勅使門から放生池を挟んで三門へとつづく。この三門は大正12年(1923)、静岡県浜松市の安寧寺から譲り受け移築したもの。「三門」とは空門・無相門・無作門の三解脱門のこと。扁額にあるように「望闕楼(ぼうけつろう)」とも呼ばれる。「望闕楼高くして帝城に対す」という詩に由来し、「御所を望む楼閣」という意味だそうです。

三門 の奥が建仁寺の本堂にあたる法堂(はっとう)。明和2年(1765)の再建。
勅使門、池、三門、法堂、方丈が一直線に並び、この伽藍配置は東福寺、嵐山の天龍寺と同じ。この様式は臨済宗(禅宗)の規格なのでしょうか。公式サイトに「栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました」とあるので、中国の禅宗寺院にならったもののようです。なお、天龍寺の三門は焼失して無く、東福寺の三門は国宝となっている。

浴室(京都府指定有形文化財)については、解説版を参照。
祠は楽神廟(らくじんびょう、楽大明神)。傍らの説明版を要約します。栄西禅師の母親が岡山吉備津神社の末社である楽の社にお参りされ、夢に明星を見て禅師を胎内に授けられたという因縁により、楽の社の神を楽大明神としてここに祀った。福徳・知恵・記憶力増進のご利益あるとされ、受験合格の祈願に多くの方がお参りされるそうです。

「宝陀閣」と呼ばれる楼門が建ち、その奥に開山堂がある。開山堂は「旧護国院とも呼ばれる建仁寺開山栄西禅師の塔所。堂内中央には入定塔と呼ばれる石塔があり、その下には栄西禅師がお眠りになっていると伝わる。また、庭園には栄西禅師が宋より持ち帰ったとされる菩提樹が植えられている」(公式サイト)。開山堂は非公開。楼門、開山堂とも明治18年(1885)、京都宇多野鳴滝にある建仁寺派妙光寺から移築されたもの。

開山堂前の洗鉢池の北側に茶碑と平成の茶園がある。茶碑は昭和58年祇園辻利により寄進建立され、茶碑の裏側の「平成の茶苑」は茶の将来八百年を記念し平成3年に植樹されたもので、毎年5月には茶摘みが行われる。
栄西禅師は「日本の茶祖」といわれる。留学していた中国の南宋より茶種を持ち帰って栽培を奨励し、茶を抹茶にして飲む喫茶手法を普及させた。今までごく一部の上流社会だけに限られていた茶を、広く一般社会にまで拡大普及させたのです。茶と桑の効用を説く『喫茶養生記(きっさようじょうき)』(茶桑経)上下巻を著して日本の茶文化の基礎を築いた。その巻頭語には「茶は養生の仙薬・延齢の妙術である」と書かれている。
6年ほど前に高尾の高山寺を訪れた時、境内に「日本最古の茶園」という茶畑がありました。高山寺の開祖・明恵上人は栄西より茶種を分けてもらい、それを高山寺の境内に植えて茶園を開いた。山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたという。当初は薬、覚醒用に利用されたが、その後、宇治へ伝わり、そして日本各地へと広まっていったという。

生垣で作業されている方がおられたので、もしかしたら”お茶かな?”とおもい尋ねると、そうでした。境内でお堂などを囲む緑色の低い垣根は全てお茶の木でした。そうと知ったら、記念に一葉、という気持ちになりますが・・・。

白壁の東の鐘楼(大鐘楼、元和8年(1622)再建)は北門を入ってすぐのところにある。西の鐘楼(小鐘楼、寛文12年(1672)建立)は法堂への渡り廊下の脇にある。上の写真では右端に見える。
東の鐘楼は京都で三番目に大きく、「陀羅尼尼(だらに)の鐘」とも呼ばれています。陀羅尼経を読誦しながら鐘を撞いことからくるそうです。次のような記事もあります。「平安時代、源融(822-895)の河原院のものだったという。河原院の荒廃後、鴨川七条の南の渕(釜ヶ淵)に沈んでいた。土中にあったともいう。栄西は官に乞い、鐘を引き上げたともいう。この際に、鐘が容易に引き上げられなかった。栄西は自らの名と弟子・長音座(ちょうしゅざ)の名を掛け声として呼べと命じた。「エイサイ」「チヨーサ」と掛け声があがると、鐘を引き上げることができた。掛け声は、後に「エッサ、エッサ」のもとになったともいう。」

建仁寺の北門。祇園の花見小路通に続いているので、ここから入るのが普通。左の写真は外から撮ったもの。観光客で混雑する花見小路通の突き当りは、静寂な禅の寺・建仁寺です。

北門を出ると、両側に情緒ある花街風の建物が並び、石畳の風情ある祇園花見小路通が四条通まで続いています。京都でも有数の賑やかな通りで、半分以上は外国の方です。運よけば舞妓さんにも出会える。時々ニセ舞妓さんや、花魁姿に変身した黒人さんも見かけます。花見小路通の南の端、即ち北門を出たすぐ傍には祇園甲部歌舞練場がある。総ヒノキ造2階建て、二階席、桟敷席、花道まで備え、京都の登録有形文化財となっている由緒ある劇場。祇園の芸妓・舞妓さんの踊りが見られ、また京舞や狂言、文楽など古典芸能も演じられています。

この警備員の多さは何だ!。外国の方には異様に思われるだろう。実は歌舞練場に接して馬券売場(WINS京都)があるのです。土日になると、新聞片手のおじさんたちが祇園花見小路通を徘徊し、花見小路通だけでなく裏通りにまで警備員が配置される。ここは京都でも有数の景観や風情を大切にしている地域なのに、このミスマッチは何だ!。上洛した文化庁のお役人さん、この現状をよく見ていただきた。
大阪ミナミの観光名所・道頓堀も同様。江戸時代からの道頓堀五座は消えさり、代わりに場外馬券売場が現れた。当時、私も反対署名したものですが、馬業界の馬(金)力に圧倒されてしまう。その後、近くにボート券売り場まで現れ、数年後には大阪に本格的なバクチ場ができようとしている・・・。

 建仁寺 : 本坊・方丈  



北門から入るとすぐ本坊があり、ここが堂内への拝観入口です。本坊といっているが、禅宗寺院に特有の庫裏(台所)で、切妻造りの妻側を正面にし屋根上に煙り出しをもつ。

拝観時間:午前10時~午後4時30分受付終了(午後5時閉門)
拝観料金:一般 600円 中高生 300円 小学生 200円 ※小学生未満のお子様は無料

履物を脱ぎ本坊に上がると、堂内の拝観案内図と注意書きがある。事前の調査では、建仁寺は堂内を含め全て写真撮影OKとなっていた。ところが注意書きには「写真撮影禁止」となっている。一瞬、動揺したが、但し書きに「営利、商業目的」での禁止とあります。受付で確認すると、「撮っていいですよ」と云われたので安心しました。

本坊に入ると、いきなり俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」が展示されている。誰でも教科書などで一度は写真で目にしたことのある風神雷神図。ただしこれは精巧に再現されたデジタル複製品です(だから撮影OK)。NPO法人京都文化協会と精密機器大手キヤノンが一双を168分割して高解像度カメラで撮影、専用の和紙にインクジェットプリンターで12色を使って印刷した後、京都の伝統工芸の職人が金箔をはり、表装を手がけ細部まできめ細かく再現していった。2011年に建仁寺に奉納されたが、近年カメラの性能が進歩したことから、より精細な複製品が2021年11月より展示されるようになった。国宝の原本は京都国立博物館内に寄託保管されている。

「風神雷神図屏風」は江戸時代前期1639年頃、建仁寺末寺・妙光寺(右京区鳴滝)が、寺の再興を記念して俵屋宗達(生没年不詳)に製作を依頼したもの。その後、文政12年(1829)、 妙光寺から建仁寺に寄贈された。琳派の開祖・俵屋宗達の晩年の最高傑作とされています。二曲一双(2枚で構成された屏風が2つでセットになったもの)、各縦154.5cm 横169.8cm。屏風全面に金箔を押し、右隻に風を吹き出す風袋をもった風神、左隻に太鼓を叩いて雷鳴と稲妻をおこす雷神が描かれている。私には芸術価値の評価はできないが、天空を飛び跳ねる躍動感がよく伝わってきます。

入口のある本坊は、すぐ西側の方丈と連結されている。
この方丈は、戦乱により堂宇を焼失し衰退していた建仁寺を再興さすため、慶長4年(1599)安国寺恵瓊が安芸国(広島)安国寺から移築したもの。元の建物は長享元年(1487)の建立。昭和9年(1934)の室戸台風で倒壊したが、昭和15年(1940)に再建されている。単層入母屋造り、こけら葺。周囲に縁をめぐらし、6部屋からなる。

正面中央の間には十一面観音菩薩坐像が祀られ、「十一面観音菩薩坐像は今から約四百年前、徳川二代将軍・徳川秀忠公の娘である東福門院(御水尾天皇の中宮で、明正天皇の生母)に御寄進を頂いた大切な寺宝であります。」と説明書きされている。平成21年(2009)盗難にあったが、1ケ月後に盗んだ男が逮捕され、仏像は無事に戻ってきた。
この部屋だけ天井は二重折上げ小組格天井、床は黒板張りとなっています。

各部屋には、桃山時代の画壇を代表する海北友松の水墨障壁画が見られる。ただしこれらは高精細の複製品。NPO法人京都文化協会と精密機器大手キヤノンなどが製作し寄贈したもの。実物(重要文化財)は京都国立博物館に寄託されています。
これは「礼の間」の「雲龍図襖」で、海北友松の代表作。天井に描かれる雲龍とは、また違った迫力を感じます。畳の間には少し違和感をおぼえます。お客を迎える間だそうですが、居心地悪そう・・・。

「書院の間」の「花鳥図襖」で、「二本の松を生やす盛り上がった地面から飛び立たんとするように体をよじる孔雀、梅に留まる叭々鳥(ははちょう)のつがいと池に浮遊する三羽の水鳥を連続した構図にて配している」と説明されている。

「檀那の間」の「山水図襖」。「雲龍図」を描いた絵師の作とは思えないほどやわらかい。幅の広さを感じます。
豊臣秀吉により直臣の大名に取り立てられた安国寺恵瓊が、慶長4年(1599年)安芸国安国寺から方丈を建仁寺へ移築する際に、障壁画を頼まれたのが絵師・海北友松だった。

「衣鉢の間」の「琴棋書画図襖」。
海北友松(かいほう-ゆうしょう、1533-1615)は、浅井長政家臣・海北家の5男(一説に3男)として近江国坂田郡(米原市)で生まれる。父の死をきっかけに3歳で東福寺に喝食(有髪の小童)として預けられ、修行した。修禅のかたわら絵を狩野元信(狩野永徳とも)に学び,また中国・宋の画家梁楷に倣った画をもよくした
天正元年(1573)友松41歳の時、浅井氏の小谷城が織田信長に滅ぼされ、兄達も討ち死にし海北家も絶えた。そこで41歳の時、還俗し海北家を継ぎ家の再興を志した。画事のかたわら武芸にも励んだという。その後豊臣秀吉に絵の才能を認められたことから、武士をやめ絵師として後半生を生き、海北派の始祖となる。

本坊、方丈の裏側には廊下でつながった小書院と大書院がある。ここは大書院南側の広い廊下で、潮音庭をゆっくり鑑賞できます。大書院は、方丈が室戸台風で倒壊した後、昭和15年(1940)再建時に同時に新築された。

現在、大書院には細川護熙筆による水墨画「瀟湘八景図(しょうしょうはっけいず)」が奉納され展示されています。
細川護熙(ほそかわ-もりひろ、1938-)さんは戦国大名・細川忠興の子孫で旧熊本藩主・細川家第18代当主、また第79代内閣総理大臣でもありました。政界を引退され、あまり動静が報じられてこなかったが、こうして活躍されていたのですね。政界引退後は、自邸「不東庵」(神奈川県湯河原)で、陶芸、茶、書、水墨などに励み、悠々自適の生活をなされているようです。

中国湖南省に瀟水、湘水という二つの川があり、これが合流して洞庭湖という大きな湖にそそぐ。その湖周辺は中国有数の風光明媚な景勝地で、中国や日本の多くの画家が画題にし、それぞれ様々な情景を描いてきた。細川さんもそれに倣ったものです。

法堂(はっとう)は方丈と渡り廊下で繋がっており、備えられたスリッパを履き渡ります。
「この法堂は仏殿を兼用し「拈華堂(ねんげどう)」という。拈華というのは「無門関」第六則、「世尊拈華」にもとづく」(説明版より)
明和2年(1765)建立で、本尊を安置する本堂にあたる。入母屋造、本瓦葺、外観は二階建に見えるが、下の屋根は裳階(もこし)という庇(ひさし)のようなもので実際は一階建になる。禅宗仏殿は裳階を付けるのが正式だそうです。

中央に建仁寺本尊の釈迦如来坐像が祀られている。(公式サイトより)「法堂須弥壇上に安置される釈迦如来坐像である。右手上に定印を結び、結跏趺坐(けっかふざ)する。江戸時代の慈本参頭の『東山雑話』に建仁寺仏殿の本尊はもと越前国(福井県)弘祥寺の像で、永源庵主で細川元常三男の玉蜂永宋(1542~82)が求め安置したとあり、これを信ずれば、この三尊像は十六世紀後半に越前からもたらされたことになる。両脇に安置されるのは、阿難・迦葉像である。共に釈迦十大弟子のひとりで釈迦滅後の教団統率者となった。」

天井いっぱいに描かれた小泉淳作(1924 - 2012)画伯の筆による「双龍図」。大きすぎて全体がカメラに収まりません。東福寺、天龍寺の雲龍図に比べ、大きくハッキリ見えるので迫力が伝わってくる。その分、神秘性は感じられないが。
(説明版より)「大きさは縦11.4m、横15.7m()畳108枚分)あり、麻紙とよばれる丈夫な和紙に、中国明代で最上の墨房といわれる「程君房(ていくんぼう)」の墨を使用して描かれている。製作は北海道河西郡中札内村の廃校になった小学校の体育館を使って行われ、構想から約二年の歳月をかけて平成十三年十月に完成。龍は仏法を守護する存在として禅宗寺院の法堂の天井にしばしば描かれてきた。また「水を司る神」ともいわれ、僧に仏法の雨を降らせると共に、建物を火災から護るという意味がこめられている。しかし、建仁寺の八百年にわたる歴史の中で法堂の天井に龍が描かれた記録はなく、この双龍図は創建以来、初めての天井画となる。」通常は、一匹だけ描かれることが多いが、この双龍図は阿吽の二匹の龍が天井一杯に絡み合う躍動的な構図となっている。


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六波羅から建仁寺へ 1(六波羅蜜寺・六道珍皇寺)

2023年06月05日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2023年5月27日(土曜日)
5月のゴールデンウィークはどこへも出かけず、巣ごもりしていた。といっても私は年中ゴールデンウィークなのだが・・・。そろそろどこかに行ってみたくなりました。そうだ半年ぶりに京都へ行こう。どこへ?。
中世の歴史に触れると、”六波羅”という語句によくでくわす。調べると、鴨川と清水寺に挟まれた辺り。すぐ傍には禅寺で名高く、俵屋宗達の風神雷神図で知られる建仁寺があります。境内は素通りでよく歩いたが、お堂の中へは入ったことがない。そうだ出かけよう、六波羅から建仁寺へ。

 六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)  



京阪電車清水五条駅を下車、五条通りの一つ北側の筋「柿町通り」を東へ400mほど歩けば左側に六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)が見えてくる。東面する正面は鉄柵で塞がれ、二つの門があります。

★六波羅蜜寺の歴史
応和3年(963)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人の創建による。
平安時代中期「当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。」(受付パンフより)
なおWikipediaは、空也上人が造立した十一面観音を本尊とする道場を造立した(当初「西光寺」と称した)天暦5年(951)を創建年としている。

空也没後の貞元2年(977)、比叡山延暦寺の僧・中信が、これまで西光寺と称していたのを「六波羅蜜寺」と改称し、天台宗に属する天台別院として中興した。寺名となった「六波羅蜜」とは仏教の教義に由来し、「この世に生かされたまま、仏様の境涯に到ための六つの修行(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)をおこないなす。波羅蜜とは彼岸(悟りの世界)に到ること」(公式サイトより)。この辺り、古くから「六原」と呼ばれていたこととも関係あるかも・・・。

平安後半、六波羅蜜寺は、北は四条通、南は七条通、西は鴨川、東は東大路通に囲まれた広大な寺域を誇っていた。ところが平安時代末期、伊勢国を本拠にした伊勢平氏が、東国や伊勢から京都への入口にあたるこの近辺に住みつく。まず平正盛が、現在の六道珍皇寺あたりに邸宅を構え、一族のために供養堂を建立した(天仁3年(1110))。その子の平忠盛が六波羅蜜寺の敷地内に「六波羅館」を設置、ここを拠点として当寺の境内に軍勢を駐屯させた。次の平清盛の代にかけ、六波羅蜜寺の敷地やその近辺には平家一門の人々の屋敷、邸館が立ち並び、最盛期には5200軒余にものぼったという。清盛は「六波羅殿」と呼ばれ権勢を誇った。六波羅蜜寺は平家の屋敷群に取り込まれてしまったのです。しかし1181年に清盛が亡くなると平氏の勢力は急激に衰え、源氏との争いに敗けます。寿永2年(1183)、平氏の都落ちの際に六波羅館は平氏自らの手で火が放たれ、六波羅蜜寺の諸堂は本堂だけを残して焼失してしまった。
その後、鎌倉幕府によって六波羅探題が置かれる。六波羅蜜寺は源頼朝や足利義詮により再興修復が行われたが、度々火災にもあっている。豊臣秀吉、徳川家の加護をうけ寺を維持してきた。
明治維新の廃仏毀釈を受けて大幅に寺域が縮小し、今では本堂、弁財天堂(弁天堂)、宝物収蔵庫のみとなっています。


北側の門は、本堂の正面に位置するので正門でしょうか。お寺といえば木造の山門をイメージするが、それとはほど遠い「鉄柵門」です。この門は通常、閉められておりここから入れない。





南側の門は開いており、ここから境内に入るようです。【開門】8:00 【閉門】17:00 、、定休日無し、とあります。
境内や、本堂内は無料で自由に参拝できます。ただし、空也上人立像がある令和館(宝物館)は有料で、門を入った左側の建物で拝観券を売っている。
令和館 拝観時間【開館】8:30 【閉館】16:45 (受付終了 16:30)
令和館 拝観料《大人》600円《大学生・高校生・中学生》500円《小学生》400円



入口を入って正面の建物が「福寿弁財天堂」。
七福神の中で唯一の女神とされる弁財天が祀られ、都七福神の一つとなっている。金運・財運・芸能・縁結びのご利益があるそうです。

本堂、右奥に銭洗い弁財天堂が見える。
黒っぽい銅像は、本尊の十一面観音菩薩像(国宝、秘仏)を模して作られたもの。銅像の右隣が「一願石」の石柱。石柱上部の円盤を、三回手前に回してお願いすると一つだけ願いが叶うという。

平清盛塚(左)と阿古屋塚(右)。どちらも鎌倉時代に造られた供養塔。「阿古屋(あこや)」は平家とかかわりの深い遊女。歌舞伎、浄瑠璃の演目「壇浦兜軍記:阿古屋の琴責め」が人気となる。屋根、囲い、説明石板など新しいが、「奉納 五代目・坂東玉三郎 平成二十三年」となっている。阿古屋を演じたのでしょう。清盛より阿古屋のほうが羽振りがよさそう。

右方の鉄柵近くに石碑「此附近 平氏六波羅第・六波羅探題府」がある。
平家没落後、六波羅の地は源頼朝に与えられて京都守護が置かれた。承久の乱(1221)後に京都守護を廃し、朝廷の監視のほかに、裁判、京都周辺の治安維持などのため、鎌倉幕府の出先機関として六波羅蜜寺の南北に六波羅探題を設置し、北条氏の一族の中から有望な人材が任命された。周辺には関係する武士の住居が建ち並んだという。
元弘3年(1333)、元弘の乱が起こると後醍醐天皇の命に応じ反幕の挙兵をした足利尊氏らによって六波羅探題府は攻め滅ぼされた。室町幕府は洛中に根拠を置いたために、六波羅は武士の居住は減少し、再び寺院などが建てられて信仰と遊興の地として賑わっていった。東福寺の六波羅門は、六波羅探題府にあったものが移築されたと伝えられています。

本堂(重要文化財)は、無料で自由に入れます。内部は、板敷の外陣と一段低い四半敷き土間の内陣からなっている。内陣中央の厨子には本尊の国宝・十一面観音立像が安置されているのだが、秘仏のため拝観できない。12年に一度辰年にのみ開帳される(次回公開は2024年11月)。
本堂はたびたび焼失し、南北朝時代の貞治2年(1363)に再建された。前に突き出た向拝は、文禄年間(1593 - 1596)に豊臣秀吉によって附設されたもの。重要文化財の本堂だが、見た目、新しく感じられるのは昭和44年(1969)に開創1000年を記念して解体修理が行われたためです。色鮮やかな朱色の柱や扉、虹梁や蟇股などに絢爛豪華な彫刻(絵画?)が見られ、創建当初の極彩色の色合いが復元された。
山号 補陀洛山
院号 普門院
正式名 補陀洛山普門院六波羅蜜寺
別称 六はらさん
宗派 真言宗智山派
本尊 十一面観音(秘仏、国宝)
開山 空也上人
西国三十三所第17番札所
ご詠歌:重くとも五つの罪はよもあらじ 六波羅堂へ参る身なれば
公式サイト<https://rokuhara.or.jp/
所在地 京都府京都市東山区松原通大和大路東入二丁目轆轤町81番地の1

本堂北側に見えるのは、銭洗い弁財天、水掛不動尊が祀られているお堂。右側、松の下に寝そべるのは「なで牛」。「ご自身の痛いところ、辛いところ、撫でて下さい」とあり、各所でよく見かける撫で物です。

蓮の上に座り、琵琶を弾いている銭洗い弁財天。周囲には池をイメージさすように水が貯められている。置かれているザルにお金を入れ、「柄杓一杯の水を三回に分けて掛け、清めたお金は使わず貯めて下さい」。洗ったお金を六波羅蜜寺の金運御守に入れておくとご利益にあやかれるようです。
銭洗い弁財天の向かいには、お金を包むためのテーブルがあり、お金を乾かすためのドライヤーまで用意されている。

銭洗い弁財天のお堂前から左へ、即ち本堂の背後へ周ると令和館(宝物館)です。昨年、二階建ての新しい建物に作り変えられたようです。
ここには重要文化財となっている多くの貴重な彫像・仏像が展示されています。六波羅蜜寺は令和館(宝物館)に尽き、令和館に入らなかったら六波羅蜜寺を訪れた意味はない。

(写真は受付パンフより)令和館(宝物館)の二階に上がってまず目にするのが、並んで展示されている木造・空也上人立像と平清盛坐像。共に重要文化財です。

六波羅蜜寺を創建した空也上人(903-972)は「第60代醍醐天皇の皇子で、若くして五畿七道を巡り苦修練行、尾張国分寺で出家し、空也と称す。再び諸国を遍歴し、名山を訪ね、錬行を重ねると共に一切経をひもとき、教義の奥義を極める。天暦2年(948)叡山座主延勝より大乗戒を授かり光勝の称号を受けた。森羅万象に生命を感じ、ただ南無阿弥陀仏を称え、今日ある事を喜び、歓喜躍踊しつつ念仏を唱えた。上人は常に市民の中にあって伝道に励んだので、人々は親しみを込めて「市の聖(いちのひじり)」と呼び慣わした。」(受付パンフより)
この空也上人立像は、上人没後250年経ったころの鎌倉時代前期に仏師運慶の四男康勝が彫ったものです。病が蔓延していた京の街中を、鉦を打ち鳴らし、念仏を唱えながら、わらじ履きで歩く姿が生々しく表現されています。首から鉦を下げ、右手に鉦を叩くための撞木を、左手に鹿の角のついた杖をもっている。上人が鞍馬山で修行中、可愛がっていた鹿が猟師に射殺されたことを悲しまれ、その皮と角をもらい受け、皮を衣に、角を杖頭につけ生涯身から離さなかったという。口からは、針金でつながった六体の小像が吐き出されている。「空也上人が念仏をとなえると、口から六体の阿弥陀仏が現れた」という伝説を表現したもので、この六体は「南無阿弥陀仏」を表しているそうです。

木造・平清盛坐像も鎌倉時代の作。座して経巻を手にするその姿は、武者のイメージはなく出家した僧のようです。

(写真は受付パンフより)奥の部屋には、日本を代表する仏像彫刻師、運慶・湛慶父子の坐像が並んでいる。鎌倉時代の作で、共に重要文化財。この親子像に一番感銘した。令和館で見る実物は、写真では伝わってこない迫力を感じました。奥深く見つめる眼差し、黒ずんだ全身から執念のようなものが伝わってくる。
令和館にはその他、平安時代・鎌倉時代に造られた薬師如来坐像、地蔵菩薩立像、持国天立像、閻魔大王像など多くの重要文化財が展示されています。

 六道の辻と西福寺(さいふくじ) 



六波羅蜜寺前の道を北へ100mほど行けば三叉路になる。左の白壁が西福寺で、その角に「六道の辻」の碑がたっている。正面突き当りが、現在でも商売されている伝説の飴屋さん。

人口10万人以上いた平安時代の京都では、戦乱も多く遺体の処理が大きな問題だった。お墓を造れるのは高位の人だけで、一般庶民は野山に放置されたのです。風雨に晒さし朽ちるに任せ白骨化さす。「風葬」と呼ばれ古くから行われていた。京には三つの大きな風葬地(葬送地)があった。西の「化野」(あだしの、嵯峨野)、北の「蓮台野」(れんだいの、金閣寺東方の船岡山周辺)、そして東の「鳥辺野(とりべの)」で、清水寺一帯です。(三大葬送地の近くが、現在京都を代表する観光名所(嵐山、金閣寺、清水寺)となっているのは何か因果応報があるのかな?)

西福寺前の松原通り(かっては五条通りだったが、秀吉によって改変されてしまう)は清水寺へ通じています。鴨川を渡り、この松原通りを通って六道珍皇寺あたりで野辺の送りをし、鳥辺野へ死人を運んだ。「冥土への通路」で、この辺りが「鳥辺野」への入口にあたる。即ち、この世とあの世(冥界)との境目なのです。仏教では死後、人は生前の因果応報により六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を生死を繰返しながら流転する(輪廻転生)とされる。そこから、「この世とあの世」の分岐点となるこの辺りを「六道の辻」と呼んだ。

六波羅蜜寺を含め、現在この辺りの町名は「轆轤町」となっている。かっては「髑髏(どくろ)町」だったが、あまりに縁起が悪いと江戸時代寛永年間に京都所司代によって「轆轤(ろくろ)」に改名された。鳥辺野に近いことから、この辺りは人骨がいたるところに転がっていたため「髑髏原(どくろはら)」と呼ばれていたそうです。それが「六原」にも転訛し、「六波羅」にも関係あるかも。

この西福寺(さいふくじ)は、平安時代の貞観年間(859 - 876)に、弘法大師空海が土仏の地蔵尊を自作し、鳥辺野の入口にあたるこの地に地蔵堂を建て祀ったのが始まりとされる。関ヶ原の戦後、毛利家家臣によって地蔵堂の周りに新たに堂宇が建てられ寺院化された。享保12年(1727)に桂光山西福寺に改められた。

山門を入ってすぐ左に地蔵堂があり、空海が自作したという地蔵尊が祀られている。第52代嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(檀林皇后)が、病気がちの正良親王(後の仁明天皇)の病気平癒の祈願をしたことから、「子育地蔵」として信仰されるようになった。子安地蔵、子授地蔵ともいわれています。

本堂は山門を入って右側。浄土宗に属し、本尊の阿弥陀如来坐像が祀られている。西福寺で有名なのは寺宝の「壇林皇后九想図」。美貌で名高かった壇林皇后は「風葬となし、その骸の変相を絵にせよ」という遺言を残された。出来上がったのが「壇林皇后九想図」。人が死に腐敗し、骨が露出し、蠅や蛆が湧き、鳥獣が腐肉をむさぼり、完全に白骨化し最後に土に還る様子がリアルに描かれているそうです。
本堂も「壇林皇后九想図」も通常は非公開だが、盂蘭盆会(八月七~十日)だけ公開され、絵解きされるとか(こんなの見たくないです・・・)。

西福寺の向かいに名物の幽霊子育飴を販売するお店「みなとや」があり、お土産として今でも販売されています。この幽霊子育飴には次のような伝説があります。
一人の女が毎夜飴を買いに来て、鳥辺野の墓場で姿が消える。ある日、赤ん坊の声が聞こえるので掘り起こすと,若い女の死骸の上で水飴をなめながら泣いている赤ん坊がいた。死んでしまって乳の出ない母親は幽霊になって飴を買い、わが子に乳の代わりに与えていたのです。この子は8歳で仏門に入り、立派な僧侶となったとか。(気味が悪いので飴を買う気になれません)

 六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)  



西福寺から松原通りを東へ200mほど行けば左手に六道珍皇寺が見える。

六道珍皇寺の創建は「当寺の開基は、奈良の大安寺の住持で弘法大師の師にあたる慶俊僧都(きょうしゅんそうず)で、平安前期の延暦年間(782年?805年)の開創である。」(公式サイト)。しかし諸説あり、ハッキリしたことは判らないという。鎌倉時代までは真言宗・東寺の末寺として多くの寺領と伽藍を有していたが、中世の兵乱にまきこまれ荒廃する。南北朝期の貞治3年(1364)に建仁寺の住持であった聞溪良聰(もんけいりょうそう)が入寺して再興し臨済宗に改められた。建仁寺の末寺だったが明治43年(1910)に独立する(建仁寺の境外塔頭)。

ここにも「六道の辻」の碑が建っています。「辻」とあるので道の交差路のように考えがちだが、この世とあの世の境目ぐらいの意味だろう。だからこの辺りも鳥辺野への道筋で、冥界への入口にあたる。だから「六道まいり」のお盆の行事や、小野篁が井戸を使って冥土へ通ったというような伝説も生まれる。

山門から境内を見る。境内は見えている範囲がほぼ全て。正面が本堂。参道右側の白壁のお堂は収蔵庫(薬師堂)で、本尊の薬師如来坐像(平安時代、重要文化財)が安置されています。参道左側には「日新電機創業の地」の碑が建っている。

境内は、開門中なら自由に歩けるが、お堂の中には入れなません。

収蔵庫(薬師堂)の先にあるのが閻魔堂(篁堂、たかむらどう)。名前のとおり閻魔大王像、小野篁像が置かれています。
格子戸が閉められ入れません。よく見ると「この格子窓よりおまいり下さい」とある。ほとんどの格子は板で塞がれているのだが、中央辺りに二、三か所透明なシートになっており、内部を覗けます。カメラを近づけ撮ってみました。

等身大の小野篁立像(江戸時代)。小野篁(802-852、おののたかむら)は参議小野岑守の子。遣隋使で知られる小野妹子の子孫であり、孫に小野小町、書家の小野道風がいる。平安初期、嵯峨天皇につかえたの官僚で、武芸にも秀で、また学者・詩人・歌人としても知られる。承和5 (838) 年遣唐副使となったが、大使の藤原常嗣の理不尽な要求に憤り渡唐を拒否、詩で風刺したため嵯峨上皇の勘気にに触れ隠岐に配流された。許され帰京後(840)、陸奥守、東宮学士、蔵人頭などを経て参議(847)、従三位まで昇進。文武両道に優れた人物であったが、その奔放な性格は「野狂(やきょう)」ともいわれ奇行が多く、多くの逸話を生んだ。当寺に伝わる伝説「冥土通いの井戸」もその一つ。

衣冠束帯姿で鬼を従え、右手に笏(しゃく)を持っっている。人智を越えた神通力をもつともいわ、ふわりと持ち上がった両袖は、その神通力を表しているそうです。

格子戸の左端にも同じように「おまいり下さい」とあり、透明シートの格子がある。こちらは閻魔大王坐像(平安時代、伝・小野篁作)です。

閻魔堂の先に白壁、紅柱の鐘楼がある。鐘楼は四方を白壁で囲まれ、鐘は外から見えません。正面中央、花頭窓下の小さな穴から出ている綱を手前に引いて撞くようになっている。

この鐘は、お盆の「迎え鐘」として有名です。毎年8月15日には、先祖を供養するお墓詣りを行います。ここ六道珍皇寺ではその少し前の8月7日から10日まで、「迎え鐘」をうって精霊(御霊)を迎える「六道まいり(「お精霊(しょらい)さん」とも呼ばれる)の行事が行われ、京の盆の始まりを知らせる夏の風物詩となっている。「迎え鐘」は、遠く十万億土の冥界へも響き渡るといわれ、亡き人の霊がこの響きに応じてこの世に戻ってくるのだと信じられた。参拝者は、迎え鐘を鳴らしあの世からの精霊を迎え、そして線香でお清めした水塔婆をあげて供養する。長い行列ができ大混雑するそうです。逆に五山の送り火(8月16日)は、お迎えしたお精霊さんをあの世へ送る行事です。灯篭流しも同じ。

境内正面が本堂。薬師三尊像(京仏師中西祥雲作)が安置されています。閻魔堂と同じように、障子戸の中央が透明シートになっており、内部の薬師三尊像を拝観できるようになっている。
本堂前には、無色界、色界、欲界という三界すべての精霊に対して供養する「三界萬霊十方至聖供養塔」の碑が建つ。

小野篁が冥土に通ったという伝説の井戸が本堂裏手の庭園の中にあります。近寄れないのだが、本堂右端の格子窓から覗けるようになっているので、履物を脱いで小階段の上へ。
伝説によれば、篁は亡き母の霊に会うためこの井戸から冥土へ初めて足を踏み入れた。母は餓鬼道に堕ちて苦しんでいたので、閻魔大王に直談判して母親を救いだした。これをきっかけに閻魔王宮の役人となる。以来、現世と冥界を行き来して、昼は朝廷に出仕、夜はこの井戸から地獄に向かい、閻魔庁で閻魔大王の補佐として一晩中裁判の助手をつとめ、無実の罪で地獄へ落ちた人を救ったと伝わります。

これが「篁冥土通いの井戸」です。窓から30m位離れている。
朝になると化野の福生寺の井戸、もしくは蓮台野の千本閻魔堂の井戸から地上に戻ってきたとされてきました。ところが平成23年(2011)、六道珍皇寺に隣接する民有地(旧境内)から一つの井戸が発見された。深さ100mもあり、これが冥土よりの帰路に使った「黄泉(よみ)がえりの井戸」だ、とされるのですが・・・?。

 安井金毘羅宮(やすいこんぴらぐう)  



東大路通に面し安井金毘羅宮の石鳥居が建ち、看板「悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所」が吊るされています。
安井金毘羅宮(やすいこんぴらぐう)の歴史について公式サイトに「第38代天智天皇(てんちてんのう)の御代(668~671年)に藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が一堂を創建し、紫色の藤を植え藤寺と号して、家門の隆昌と子孫の長久を祈ったことに始まります。
第75代崇徳天皇(すとくてんのう) (在位1123~1141年)は特にこの藤を好まれ、久安2年(1146年)に堂塔を修造して、寵妃である阿波内侍(あわのないし)を住まわされました。崇徳上皇が保元の乱(1156年)に敗れて讃岐(現、香川県)で崩御された時に、阿波内侍は上皇より賜った自筆の御尊影を寺中の観音堂にお祀りされました。治承元年(1177年)、大円法師(だいえんほうし)が御堂にお籠りされた時に、崇徳上皇がお姿を現わされ往時の盛況をお示しになられました。このことは直ちに後白河法皇(ごしらかわほうおう)に奏上され、法皇のご命令により建立された光明院観勝寺が当宮の起こりといわれています。光明院観勝寺は応仁の乱(1467~1477年)の兵火により荒廃しましたが、元禄8年(1695年)に太秦安井(京都市右京区)にあった蓮華光院が当地に移建され、その鎮守として崇徳天皇に加えて、讃岐の金刀比羅宮より勧請した大物主神と、源頼政公を祀ったことから「安井の金比羅さん」の名で知られるようになりました。明治維新の後、蓮華光院を廃して「安井神社」と改称し、更に「安井金比羅宮」と改め現在に至っています。」とあります。

鳥居から200mほどの参道が続き、「絵馬の道」となっているが絵馬は一つも見かけない。ただし立札が立ち、幾つか絵馬が貼り付けられている。「米朝さんのきも入りでこんなタレントさんの絵馬が集まりました」とあり、桂枝雀、桂朝丸、笑福亭松鶴(「禁酒」とある)、横山やすし、、若井ぼん・はやと、夢路いとし・喜味こいし、キダタロー、イーデスハンソン、越路吹雪、小松左京・・・関西の懐かしい名前が並びます。かなり以前から桂米朝一門がこの神社で勉強会を定期的に開催している縁からのようです。

境内に入るといきなり「縁切り縁結び碑」が置かれている。
「この縁切り縁結び碑は、中央の亀裂をつたって神様のお力が下の穴に注がれています。穴をくぐる抜けてそのお力をお受けいただく事によって、悪縁が切れ良縁が結ばれます。まず、お願いを「形代(かたしろ)」(身代わりのおふだ)にお書きになり、次に願い事を心に思いながら碑の中央の円形の穴から表からくぐり抜け悪縁を切り、続いて裏からくぐり抜けて良縁を結び、最後に形代を碑にお貼り下さい。形代一枚につき百円以上お志を下のお賽銭箱へお納め下さい」と説明されています。
高さ1.5メートル、幅3メートルの絵馬の形をした巨石だが、形代のお札が貼りめぐらされて原型がわからない。

多くの人が順番待ちをしている。一度に一人だけで、窮屈な穴を出入りするので時間かかります。


本殿には祭神の崇徳天皇、大物主神、源頼政が祀られている。











本殿右側にある久志塚(櫛塚(くしづか))。傍らの「由来記」を要約すると、使い古したり傷んだ櫛に感謝を捧げ供養するための塚。昭和36年(1961)、風俗研究家の故吉川観方先生の賛意を得て「櫛まつり」が始められ、翌年に塚が造られた。現在も9月第4月曜日、古墳時代から現代の舞妓さんまでの各時代の装束姿で、かつらを使わず地毛で結い上げた髪型をした女人風俗行列が当宮を出発し祇園界隈を練り歩き、多くの見物人で賑わうという。左は吉川観方の像。

北門を出て真っすぐ100mほど行くと崇徳天皇御廟がある。
「崇徳上皇(第75代)は、平安時代の末、保元の乱(西暦1156年)により讃岐の国へ御配流の悲運に遭われた。上皇は血書をもって京都への御還幸を願われたが、意の如くならず憤怒の御姿のまま長寛2年(1164年)夏、46歳にて崩御。五色台白峰山の御陵に奉葬された。上皇の寵愛篤かった阿波内侍は、御遺髪を請い受けてこの場所に一塚を築き、亡き上皇の霊をお慰めしたと伝承されている。
その頃の京都では、上皇の怨念による祟りの異変が相次いで発生したため、御影堂や粟田宮を建てて慰霊に努めたが、永い年月の間に廃絶して、此の所のみが哀史を偲ぶよすがとなっている。なお孝明・明治両天皇の聖慮により、白峯神宮が創建され、元官幣大社として尊崇され今日に至っている。」(傍の解説板より)。
崇徳天皇(1119-1164)の本陵は、香川県坂出市青海町の「白峯陵(しらみねのみささぎ)」だが、阿波内侍が遺髪を譲り受け、この場所に塚を築き霊を慰めたという。管理は、宮内庁でなく白峯神宮(京都市上京区飛鳥井町)が行っています。毎月21日には崇徳天皇の月命日として、白峯神宮から神職が来て、祇園の女将さんらも一緒に月次祭が行われているそうです。

祇園歌舞練場(そして馬券売り場が)のすぐ裏にあたり、表は賑やかで騒がしいが、この裏通りはひっそりして静かです。





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